山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第98回>

2018-08-31 03:52:06 | くるま旅くらしの話

【今日(8/31:金)の予定】 

道の駅:スペースアップルよいち →(R5・R276)→ かかし古里館 →(R276・D)→ 岩内町郷土館 →(R229)→ 蘭越貝の館 →(D・R5)→ 道の駅:ニセコビュープラザ →(D)→ 真狩湧水 →(D)→ 道の駅:真狩フラワーセンター(泊)

 

【昨日(8/30:木)のレポート】 天気:曇りのち雨後曇り

<行程>

道の駅:とうべつ →(R337・D・R231)→ 厚田郷土資料室 →(R231・D)→ 石狩市砂丘の風資料館 →(D・R231・R337・R5・D)→ 小樽市知人宅 →(R5・R225) → 道の駅:スペースアップルよいち(泊)

<レポート>

 昨夜は若干トラックの騒音に悩まされたが、熟睡の後目覚めて時計を見たら12時前だった。もう一度眠ろうとしたけどダメなので、起き出してブログの記事などを2時間ほど書いたりした。眠れない時は無理に眠ろうとするよりも起きてやりたいことをやればよい、というのが自分の考え方でありいつものことである。2時間も考えたり書いたりしていると、睡眠不足なら自然と眠気がやって来るので、その時は寝ればいいのである。2時過ぎにもう一度寝床に入って、次に目醒めたのは5時半頃だった。

 今朝の散歩は、道の駅を出て田んぼの中の道を当別川の方に10分ほど歩いて、そのあと当別川の堤防を5kmほど往復する。当別川という名の由来は、アイヌ語の「ト(沼)・ペッ(川)」から来ており、往時はこの川には川跡の沼などが点在していた湿地帯だったのであろう。この地の開拓は伊達岩出藩の殿様が直々に身を乗り出して家臣と共に入植したことから始まっている。2か月前にこの地を訪れた時に知ったことである。恐らくその当時は常時河川の氾濫に悩まされたに違いない。治水への取り組みがようやく成功して、やがて田畑の開拓へとつながって行ったのであろう。現在は堤防からの景観は、豊かな田んぼや畑が、広く広がっている。150年の時間を経て見事な美田が出来上がっている。途中から霧雨になった中を車に戻る。

 今日は石狩市内の元厚田村の資料室と石狩砂丘風の資料館というのを訪ねたあと、小樽の知人宅に寄り、そのあと余市町の道の駅に行って泊る予定でいる。先ずは厚田の資料室を目指して出発する。

 出発する9時過ぎ頃から雨が降り出した。どうやら今日は雨模様の天気となるらしい。ニュースでは、北陸地方から東北地方にかけて大雨の予報が報ぜられていた。下北半等や津軽半島も大雨とのことなので、この辺りもその影響を受けているのかもしれない。雨の中を日本海側の道をしばらく走って、厚田の道の駅に着いたのは、10時半近くだった。ナビが資料館をガイドしたのだが、着いたのは厚田の新しい道の駅だったので、もしかしたらこの中に資料室があるのかもしれないと思った。中に入って見ると、どうやら2階が資料室となっているらしい。早速行って見ると、やや狭いスペースだったが、要領よくこの村の歴史が年表に合わせて紹介されていた。民具や農具などの展示は一切なかったけど、松前藩の場所の一つであった歴史と合わせて明治以降の来し方についても概ね理解することができた。又この村出身の作家として子母澤寛の名があったのには驚いた。横綱吉葉山もこの地の出身である。その他画家なども輩出しており、人材を生み出している場所なのだなと思った。

 見終わった後、二三一(ふみいち)バッテラという、ニシンと数の子の親子押し寿司というのが販売されていたので、邦子どのがこれを買い入れる。北海道でこのようなバッテラが作られているのを初めて知った次第。(これは、あとで昼食に二切れほど食べたのだが、只食べるだけでは勿体ない、これは酒と一緒であるべきだと気づき、夕食に回すことにした)

二三一バッテイラ。全部で6片あり、Ⅰ切れ食べた時に慌てて写真に収めた。このあともう一切れ食べて、夜に回すことに、ハッと気付いた。我ながら愚かである。

 厚田には下方にある港へ北海道HMCCの仲間たちと何度もキャンプに来ているので馴染みの深い場所なのである。いつもだと海産物の市場を覗くのだが、今日は雨が降っているので止めることにして石狩市の砂丘の風資料館に向かう。雨はかなりの本降りとなっている。風が強くないのには救われる。これで強風が吹いていたら、海辺の道路は難儀するのだが、今日は殆ど無風なので幸いである。30分ほど走って到着する。

 どんな場所かと思いながら、もしかしたら名前からするとおいら岬の灯台近くではないかと思っていたのだが、そこまでは行かず、番屋の湯という日帰り入浴施設のすぐ傍だったので、ちょっと意外だった。ここは入館料が300円で、隣接する明治からの長野商店という建物も一緒に見学できるようになっていた。

 中に入って、石狩市の歴史について、特に明治以降の出来事などを記したものがないかと見て行ったのだが、何やらそのような歴史のことよりも石狩川の河口というロケーションのもたらす現象というのか、漂流物だの魚のことだのが書かれているくらいで、欲しかった明治以降の歴史情報は殆ど見られなかった。2階に上がったら、こちらか縄文遺跡の展示がされており、特に興味をひくものは無かった。砂丘風の資料館という名も何だか解せない感じがした。雨が降っているのでそう思うのかもしれないけど、とにかくここは石狩市の開拓の歴史を語る場所ではないなと思った。隣の長野商店の店と石蔵の建物の中に入って見たが、確かに時代の変遷がこの商店の移り変わりの写真などを通して理解はできたものの、あくまでも商店という限定された視点からの材料なので、やはり不満は解消されなかった。300円は高すぎる料金だなと思った。ガッカリした。

 その後、近くの番屋の湯の駐車場で昼食とする。先ほどのバッテイラは二切れで止めて夜に回し、カップラーメンのいい加減な食事で済ませた。食事が済んで、この後は小樽の知人宅を訪ねる予定なので、取り敢えず電話をしたらどうやら不在らしいので、とにかく小樽の方へ行っておくことにして出発する。雨は断続的に降り続いている。小樽の工藤さんには6月時に一度ご挨拶に参上しているのだが、帰路に就く時は寄り道はしない考えなので、今の内にもう一度お会いしておこうということなのである。小樽近くの銭函辺りに来た時再度電話をしたら、何と今厚田の道の駅にいるということだった。どこかですれ違ったらしい。これから戻るからということで、恐らく2時間近くはかかるのではないかと考え、近くにあったスーパーの駐車場で待つことにした。1時間と少し経った頃に電話があり、もう自宅に戻られたとのこと。びっくりして直ぐにご自宅に向かう。

 15時くらいに参上して、いやあ、そのあとは再度話が弾んだのだった。工藤さんご夫妻はお二人とも身に障害を持つ方なのだが、生き方の名人というか達人であって、会って話をしていても微塵もそのハンディなど感じさせない方たちなのである。ご主人は若い時に機械に巻き込まれて片方の足を失い、手の指も何本かを失っているのだが、車の運転もされるし、庭には丹精込めた野菜などが植えられていて、今はちょうどトマトが収穫できたと、帰りにはその幾つかを頂戴したのだった。6月にお邪魔した際には、珍しいハッカク(=八角=魚の名)の干物と、ご主人自らが包丁を使って作ってくれた刺身を食べさせて頂いて感激したのをお思い出す。小樽は魚の美味いところで、それらを使った寿司は有名だが、八角はこの地の名物の一つだとのこと。1時間ほど話が続いても尽きそうもないので、今日は今年のお別れの挨拶に参上しただけなのだからと、振り切るようにして車に戻る。楽しく、嬉しくありがたい時間だった。

 今日は余市の道の駅に泊ることにしている。今まで止んでいたのに、途中再び降り出したスコールのような雨に会ったりしながら道の駅に着いたのは、17時過ぎだった。近くの温泉に入ろうと考えていたのだが、何だか面倒になってしまい行くのを止めて早やめの夕食とする。といっても、保存しておいた荷新親子の押し寿司、バッテイラで一杯やるだけの話なのである。押し寿司にはやはり日本酒であろう。全ての酒類の肴には相性というものがある。日本人の編み出した魚にはやはり日本酒が合うのである。久しぶりにコリコリと数の子を噛んで、酢の効いた一切れ一切れは、酒と共に五臓六腑に沁み渡り、ああ美味い~とその味をかみしめる。たちまちいい気分になって、いつもは最後まで見るTVの剣客商売を途中で止めて、寝床の中へ。あとは知らない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第97回>

2018-08-30 01:53:08 | くるま旅くらしの話

【今日(8/30:木)の予定】 

 道の駅:とうべつ →(R337・D・R231)→ 厚田郷土資料館 →(R231・D)→ 石狩市砂丘の風資料館 →(D・R231・R337・R5・D)→ 小樽市知人宅 →(R5・R225) → 道の駅:スペースアップルよいち(泊)

 

【昨日(8/29:水)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:マオイの丘公園 →(R274・D)→ 白石区内コインランドリー →(D)→札幌村郷土記念館 →(D・R274・D・R337)→ 道の駅:とうべつ(泊)

<レポート>

 朝はいつものように曇り空が広がって少し肌寒い感じがした。今朝の散歩は長沼町のハイジ牧場という所まで往復する。この牧場はマオイの丘の裾近くにあって、歩いてゆくと左手に札幌方面に向かって一大田園地帯が広がっているのが見える。既に色づき始めた田んぼは、今年も豊かな実りをもたらしてくれるのか、最近の天候の異常さを思うとそれが心配にもなる。戻りの道は今度は右手にそれらの穀倉地帯を見ながら、ここまで持ってきた先人の苦労は如何ばかりだったのかと、思いを馳せながらの歩きだった。途中の道脇に昭和の中頃に建てられたのかと思われる茅葺屋根の現役の一軒があり、その脇にある木造のかまぼこ屋根の牛舎なのか、それらの景色を見て、ああ、昭和はもう本当に遠く走り去ったのだと、そのような気持になった。

 車に戻って久しぶりにご飯を炊いて、卵かけで食べる。卵かけご飯は簡便で、旅の間には何度も味わっている。昨日は嬉しいニュースがやってきた。自分が仕事で福岡にいた時に、たった一組だけ仲人をさせて頂いたその二人が、北海道にやって来るというメールを頂戴したのである。自分達は流れ者なので、仲人の話は断り続けていたのだが、自分の直属の若者同志が一緒になるというのでは、これはもう祝福以外には道は無いと思い引き受けたのだった。あの時からもう何年たったのだろうか。彼ももうリタイアの時を迎え、準老世代に入ろうとしている。夫妻で北海道のツアーを申し込まれて、やってくるとのことだった。その詳しい内容を知りたくて今日電話を頂くことになっているのである。丁度約束の9時になって電話があって概要が判り、11日に会うことが決まった。福岡の人を北海道で迎えるなんて、何と贅沢な出会いなのだろう。ありがたいなと思った。

 さて、今日の日程だが、流動的だ。というのも洗濯ものが溜まっているので、これを何とかしなければならない。それをどこでやるかによって、訪問先が決まることになる。先ずは札幌東区にある札幌村郷土記念館という所に行くことにして、その途中でコインランドリーを見つけたら、洗濯を優先させることにした。そのあと時間があれば石狩市の砂丘の風資料館というのも見たいし、更には厚田郷土資料館も見たいと思っている。無理な時は当別の道の駅に泊らせて頂こうと考えている。

 出発が少し遅くなって、10時半近くとなってしまった。ナビを入れて、R274を進んで札幌市内に入り、白石区内を走っている時に道脇にコインランドリーを発見。機械が少し古いようだけど、とにかく片付けておこうと、それから2時間ほどかけて洗濯に取り組む。13時少し前にようやく洗濯が終了する。機械の性能が悪く、しっかり乾いていないものが何枚かあって、それは車の中で乾かすことにして出発する。

 札幌村郷土記念館には、10分ほどで到着する。駐車場があるのか心配だったが、大丈夫だったので安堵した。北海道の開拓の歴史は北海道開拓村や北海道博物館に行けば凡そのことは理解できるのだが、肝心の大都会札幌のこととなると、一体どのような起源と歴史を持っているのか、さっぱり判らない。開拓使が置かれ、道庁などの北海道開拓の官庁の機能が整備されるにつれて、都市としての基盤が確立されて来たということは理解できても、それだけで札幌市が出来上がったわけではなく、だとすればどこへ行って何を見ればいいのかと困惑していた。ネットで調べていたら、札幌村郷土記念館というのが、東区にあるというのを知りここには是非ともゆかなければならないと思っていたのである。それが実現したという次第である。

札幌村郷土記念館。札幌村などという地名はここ以外には決して見ることだできないのではないか。札幌在住の人々は、一度はここを訪ねる必要があるように思った。

 さて、そこへ行ってみたら館の前に大友亀太郎という人物の像ともう一つ玉ねぎ栽培発祥の碑というのが立っていた。大友亀太郎という名はどこかで聞いた名だと思ったら、3か月前の6月の初め道南渡島エリアの木古内町の郷土資料館を訪ねた際に、開拓の先人として功大だったという幕末の人物だったのを思い出した。確かあの時も木古内や大野(現北斗市)の開拓に係わったあと、幕命で石狩の方へ行って開拓に係わったと聞いたのだった。そうか、その出向いた先がここだったのかと首肯した。

大友亀太郎の像。開拓魂に燃えたその視線は、何を見ているのだろうか。二宮尊徳という師の最後の弟子としての業績は大きかった。この人物を使えなかった開拓使は愚物が混ざっていたのであろう。

 館内に入ると、先ずはその大友亀太郎という(この方は小田原藩の幕末の一大経世家の二宮尊徳の最後の弟子だった方とのこと)方の残した開拓のベースとなっている大友堀についての紹介がなされていた。大友はこの地が開拓の最有力地であると見定めて、伏古川と豊平川を結ぶ運河を造ったということである。これは大友堀といわれ、現在は創成川と呼ばれているとのこと。往時は物資の運搬も人の移動も舟が中心手段であり、先ずは開拓のためのインフラとしての運河を造ったということである。さすがの見識だなと思った。この運河の掘削は蝦夷地が未だ北海道と呼ばれる2年ほど前だったため、開拓使が置かれた頃になるとこの事業は幕臣だった大友の手を離れてしまい、その功績は埋もれてしまったということである。しかし、後世札幌開拓の歴史を振り返って見る時、この事績こそが開拓の原点だったということが今見直されてこの記念館がそれを守っているということだった。

 又、玉ねぎ栽培の発祥の地が札幌だったというのを初めて知った。現在の北海道の玉ねぎの産地といえば、北見や十勝のエリアが圧倒的なシエアを占めており、大都市化した札幌では想像もできない話である。往時肉などはまだ食べなかった日本人にとって、玉ねぎなどという西洋野菜は関心の外にあるものであり、当初は栽培に成功はしたものの販路が形成できず失敗に終わったとか。その後時代が移って、再度栽培にチャレンジした人が日本だけでなく、海外への輸出品としての販路を見出したこともあって、成功に向かったという話だった。玉ねぎ栽培用の種まき器や肥料と土壌の撹拌機や消毒器などの農具が並べられていたのは珍しかった。それにしても先日見て来た北見の玉ねぎ畑の収穫の圧倒的な機械作業と比べると、何と小さくて可愛いものよと思わざるを得なかった。150年の間の進歩は恐るべきものだなと思った。

玉ねぎ栽培発祥の地の碑。今でこそ玉ねぎは暮らしの食卓の必需野菜の一つになっているけど、150年前は見向きもされなかった西洋野菜なのである。まさか札幌が栽培発祥の地だったとは!

 その他、様々な貴重な資料が展示されていて、とてもそれらを全て見るのは困難だった。館の事務局長さんに丁寧にご説明いただき、又最後に館長さんからも声をかけて頂き、ありがく嬉したかった。やはり、ここへ来たのは正解だったと思った。大都市札幌もこのような開拓の村々の辛苦と努力の積み上げから成り立っているのである。役所などは上から目線でだけでものを見る嫌いがあり、そのようなものだけで札幌が成り立って来ているのではない。改めてそのような感慨を抱きながら館をあとにした。館長さん、事務局長さんありがとうございました。

 そのあとは、今日の泊りは明日のことを考えて当別町の道の駅とすることにして向かう。明日は石狩市内の郷土資料館を訪ねる予定でいる。30分足らずで到着する。ここはオープン間もない新しい道の駅だ。6月にも一度寄っているので、安心感がある。道の駅の名称に、冠として「欧風の風」などと付けているのは何故なのかは解らないけど、そうありたいということなのであろうか。日本は日本で良いのではないか。当別は当別で良いのではないか。いつものひねくれ根性がちと首をもたげる。何はともあれ今夜はお世話になるので、先ずは感謝しなければならない。トラックの騒音など無いように願いながら夜を迎える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第96回>

2018-08-29 05:20:23 | くるま旅くらしの話

【今日(8/29:水)の予定】 

道の駅:マオイの丘公園 →(R274・R5・R231・D)→ 石狩砂丘の風資料館 →(D・R231他)→ 厚田郷土資料館 → その先未定

 

【昨日(8/28:火)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:サンフラワー北竜 →(R275)→ 道の駅:田園の里うりゅう →(R275・D・R12・D)→ 南幌町郷土文化資料室 →(D他)→ 北広島市エコミュージアム知新の駅 → 道の駅:花ロードえにわ →(R36・D)→ 道の駅:マオイの丘公園(泊)

<レポート>

 北竜の道の駅の朝は、小雨というのか霧雨というのか細かな雨が寒さを引き寄せている感じの曇天だった。いつものように付近を1時間ほど歩きまわる。田園地帯の細道を辿ったのだが、奥手のひまわりなのか、今が盛りと咲いている畑があったので、嬉しくなってシャッターを切った。ひまわりの花は、皆一斉にこちらを向いて咲いている感じがして、他の花たちとは少し違う感じがするのは自分だけなのだろうか。北竜町が何故ひまわりを取り上げたのかは分からないけど、決して間違ってはいないと思った。

まだ元気に咲き残ってくれていた畑があったので嬉しくなった。町起こしの花には、ひまわりや菜の花など、黄色系のものが多いようである。

  道脇の畑には所々蕎麦が植えられていて、そういえば美瑛の丘も夏期は蕎麦の白い花の畑が幾つもあったなと思い出した。今では、信州の蕎麦も北海道での契約栽培となっているものがあり、北海道の農業の底力のようなものを感ずるのである。間もなく収穫期を迎えている蕎麦畑は、やや濁った色の白だった。こうして朝霧の田畑を歩けるのは幸せだなと思いながら車に戻る。

 今日は空知エリアで残っている奈井江町と南幌町の郷土館を訪ねたあと、北広島市の郷土館を訪ねる予定にしている。その前にもう一度雨竜の道の駅に寄って、野菜類などを見てみることにして出発する。間もなく今月も終わって、9月となる。心なしか、朝夕の涼しさが少し厳しくなり出している感じがする。昨夜も夜中に長袖の寝間着に着替えようかと思ったのだが、めんどくさい気持が勝ってそのまま薄着で朝を迎えたのだが、明日はそうはゆかない感じがする。刻々と秋が近づいているのだ。周辺の田んぼの稲も、いつの間にか頭を垂れ始め、色づきが進んでいるのが判る。

 雨竜の道の駅で一休みした後、やっぱりこれ以上枝豆やとうきび等を買うのは止めにして、出発する。奈井江には30分ほどで着いたのだが、ナビが番地まで入らないため、代表地点で向かったのだが、どこを見ても肝心のそれらしき建物が見当たらない。一旦諦めて近くにある道の駅に行ったら、案内板にちゃんと載っていたので、再度近くまで行ったのだが、やっぱり見つからない。もういいやと止めることにして、道の駅でおにぎりを結んでくれると書いてあったので、それをゲットしようともう一度行ったのだが、何とその店は休みだったのである。二重に不明なことばかりに見舞われて、何だか腹が立ってきた。ナビも気に入らないし、奈井江町の案内板も気に入らない。自分の思い通りにならないと無性にひねくれるのは自分の特徴なのだから仕方がない。邦子どのにバカにされて益々腹が立った。

 そのあとは南幌町の郷土館を目指す。腹を立てても安全運転だけは常に確保しなければならない。スピードに注意しながら走って、間もなく三笠市の道の駅に到着する。少し早いのだが、軽めの昼食を摂ることにして休憩。自分は特大のおにぎりを1個買って食べることにした。1個400円近くもするそのおにぎりは、鮭と明太子が入っていてなかなか美味かった。カロリー計算すると、多分6単位の480Kcalくらいはあったのではないか。明太子は自分には要注意の食物なのだが、おにぎりの中に入っていたので、排除する訳にはゆかない。喰い得というものであろう。糖尿病患者は真につまらない。

 一休みのあとは一路南幌町の郷土館へ。南幌町の名は知っているけど、その中心街を訪ねるのは今日が初めてである。着いて見ると、黄色を中心に塗られた建物は、どうやらその昔の学校の校舎だったらしく、かなり大きな建物だった。中に入ると、2階が郷土資料館となっていた。町の来し方が順を追って丁寧に説明されていた。ここは元は幌向村と言っていたのが、昭和37年に町制をひく際に南幌町と改称したとか。幌向は何と読むのか判らなかったが、資料に展示されていた牛乳パックや乳製品にホロムイと書かれていたので、そう読むのだなと理解した。ここは比較的札幌にも近いロケーションなので、この先も都市化の波が押し寄せて大きく変化するのではないか。何となくそう思った。町の歴史のことはここでは省略する。

 南幌町の郷土館を出たあとは、北広島市のエコミュージアム知新の駅という所に向かう。郷土資料館的な役割を果たしている施設の様である。行って見るとここは広葉交流センターという建物の中にあって、この建物も多目的に使われているようで、独立していないので、何となく所在が分かり難かった。知新の駅というのも何となく分かるような、分からない様な名称だなと思った。知新の駅は2階にあって、階段を上ると事務所の隣の部屋でビデオでの歴史や自然の紹介がされていた。それはあとで見ることにして、奥の方の展示室に行って見ると、年表のほかにこの北広島の開拓に当って特に功績が大だった3人の人物についての詳しい説明がなされていた。和田郁太郎と中山久蔵、それにW.S.クラークの3名である。和田郁太郎は、広島県から20数名を引き連れてこの地に最初に入植して成功に導いた人、中山久蔵はこの地での米作りに成功した人物で、その後の北海道全体の米作発展に大きく貢献した人物、そしてクラーク博士といえば、彼の「青年よ大志を抱け」で有名である。この三人の方の功績が今日の北広島市の礎となっているとのことだった。それ以外のことについてはあまり力を入れている様子は見られなかった。このお三方で十分ということなのかもしれない。そう思いながら知新の駅をあとにする。

 そのあとは、ジャガイモの入荷状況を見ておこうと、恵庭市の道の駅に寄る。売り場を覗いたら、箱入りのジャガイモはまだ最盛期には至っていないようだった。いずれもう一度ここへは土産のジャガイモを買い入れるために来る予定なので、今日は直ぐに離れて、今日の泊りを長沼町の道の駅:マオイの丘公園にすることにして向かう。昨日買い入れた枝豆ととうきびを茹でなければならないので、こち他の道の駅の方がやり易いのである。

 15時半頃到着して一息入れたあと、早速茹でる作業に取り掛かる。これらは全て自分の担当である。傍を通りかかったどこかのおばさんが、自分が枝豆を茹でながら食べているのを見て、笑いながら通り過ぎて行った。老人がそのような作業をするのは珍奇に見えるのかもしれない。1時間ほどかけて作業が終了し、早速ビールで一人乾杯。邦子どのはどこかへ出かけていた。

 夜になってかなり寒くなってきた。天気も雲がすっぽり空を覆って、もしかしたら今夜は雨が降るのかもしれない。長袖の寝間着に着換える必要があるなと思いながら、夜を迎える。あとは眠るだけ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第95回>

2018-08-28 05:50:02 | くるま旅くらしの話

【今日(8/28:火)の予定】 

道の駅:サンフラワー北竜 →(R275)→ 道の駅:田園の里うりゅう →(R275・D・R12・D)→ 南幌町郷土文化資料室 →(D・)→ 北広島市東記念館郷土資料収蔵室 → その先未定

 

【昨日(8/27:月)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

道の駅:つるぬま →(R275)→ 道の駅:田園の里うりゅう →(R275)→ 雨竜町郷土資料室 →(R275・D)→ 妹背牛町郷土資料館 →(D・R275)→ 道の駅:サンフラワーほくりゅう(泊)

<レポート>

 朝起きるまでは昨夜は雨は降らなかったのだと思っていたのだが、外を見るとかなり路面が濡れていたので、音無しの雨が降ったらしい。空には雨雲がかなり残っているので、もしかしたら今日も雨模様の一日となるのかと、些かガッカリした。この道の駅の騒音が心配だったが、トラックはかなり入れ替え多く入って来ていたようだったが、思ったよりも静かだったので安堵した。

 傘を持っていつものように朝の歩きに出かける。先ず道の駅のすぐ傍にあるつるぬま公園を一回りした後、今まで関心のなかった国道の上の方に森の方への道を行って見ることにした、その入口の所に鶴沼チャシという立て札があったので、この道を上った辺りに昔アイヌの人たちの見張り所のようなものがあったのかと思ったのだった。かなり急な森の中の坂道を息を切らしながら上がってゆくと、急に視界が開けて、何とそこには広大な畑が広がっていた。少し歩いてゆくとフランス風に仕立てられた葡萄畑が作られていた。そういえば浦臼ワインというのがあったのを思い出した。この葡萄畑もそのワイン造りの一環なのだろうと思った。道の右側の畑には見たことも無い野菜らしい植物が植えられていたので、近づいてその葉を手に取ってみたら、大豆のような小豆のような判断が難しい植物だった。もしかしたら、最近有名になり出した、小さな粒の大豆の黒千貫という奴なのかなと思った。本当のことは分からない。ただの山林だけかなと思って行ったのだが、生誕から150年たった北海道は想像以上に手の混んだ開発が隅々まで行きわたっているのだということを思い知らされた感じがした。そのあと、坂を下って近くにある浦臼神社に参拝する。何とここは121段の石段があり、鈍っている身体では、途中中間で一息入れるために休まなければならないほどだった。いつこの神社が勧請されたのか分からないけど、この地域の先人たちの心の拠りどころとなったに違いないと思いながら参拝を済ませた。

 車に戻り、朝食を摂っている内に険悪な雲は次第に薄くなり、晴れに近い空となって来た。これならば今日は雨なしのいい天気になるのではないかと期待が膨らんだ。

 今日は2カ所郷土館を訪ねる予定でいる。それが済んだら、北竜町の道の駅に行って静養の時間とすることにしている。その2カ所とは、昨日不意としていた雨竜町の資料館と、もう一つは隣の妹背牛町の郷土資料館である。どちらも行き当たりばったりのダメ元での訪問としているので、気楽ではある。

 その訪問の前に、一昨日枝豆を買った雨竜の道の駅に行って、再度それを手に入れることを考えており、店の開く9時頃にはそこへ行っていなければならないということで、8時半過ぎには道の駅:つるぬまを出発することとなった。このあたりで、確実に品質の優れた価格のリーズナブルな野菜類を手に入れようと思ったら、雨竜の道の駅が第一だと思っている。他の道の駅では、実現できないと思っている。今日は何としても枝豆だけは確保したいというのが自分の考えなのだ。

 20分ほどで雨竜の道の駅に着いて、早速野菜売り場を覗いたら、ある、ある、一昨日よりもしっかり実の入った枝豆の束が、前回と同じ250円で売られていた。嬉しくなって2束をゲット。邦子どのもとうきびとトマトを多量に買い込んでいた。新鮮な野菜は不思議な販売力というのか、購買者の購買意欲をそそる力を持っている。買い入れた後、車の中で30分ほどかけて枝豆の鞘を外し、それが終わった後、邦子どのが買った2束のとうきびの半分(3本)を茹でたり、枝豆の半分を茹でたりして1時間半ほどの時間が経過した。これで今夕のつまみは完ぺきに用意できたというものだ。

 その後は今日の第1の目的の雨竜町の資料館を見学することにして、町役場の教育委員会を訪ねる。町役場は庁舎が新しくなったばかりで、現在駐車場の舗装工事の最中だった。2階の教育委員会に案内頂き、見学の話をすると、何と資料室のあるのは今出て来た道の駅のすぐ隣にある建物ということだった。すぐに引き返して、その資料室を見せて頂く。どのような展示がされているのか、少し不安もあったのだが、中に入ると歴史年表に沿って、実に分かりやすくこの町の来し方の様子が記載され、写真等でポイントの解説がなされていたので驚いた。民具や農具等の物の展示は殆どなかったけど、町の歴史を知るためには、自分にとっては今までの見て来た中では、大へんに解りやすいものだった。この町は元々新十津川町の戸長役場に属していたが、その後雨竜村として分村独立し、更にその後でこの村から北竜村が分村したというのが大雑把な歴史のようだ。詳細は後での楽しみである。

 そのあと隣の妹背牛町の郷土資料館を訪ねる。直ぐに着いたのだが、役場の方に連絡すると、教育委員会の人が不在だという。丁度昼食の時刻だったので、皆さん食事のために家に帰られたというような話だった。日本の中では、昼食を自宅に戻って摂ることができる場所がまだ残っているのだと、ちょっぴり嬉しい様な気持になった。13時まで待つのも無駄なので、自分たちも食事にしようと再び元の雨竜の道の駅に戻り、そこのレストランで昼食を済ます。今日はこの道の駅に真に縁のある日となってしまった。

 13時過ぎにもう一度妹背牛町の郷土資料館へ。今度は大丈夫で、間もなく担当の方がお見えになり解錠して、中へ入れて頂いた。妹背牛の郷土資料館は、元役場だったものを復元して使っており、外から見ると洋風のモダ―ンな建物で、それ自体が一つの歴史建造物の資料として価値のあるものと思った。中に入ると、たくさんの写真や絵ハガキサイズの絵画などと一緒に町の歴史だ順を追って展示解説されていた。妹背牛(もせうし)という町の名は、一体どこから来ているのかと誰でも疑問に思うのだが、それはやはりアイヌ語由来で、2説あって、一つは「いらくさ・群生するところ」という意味ともう一つは「いつも・草刈りをする」ということなのだとあった。思うにこの辺りにはアイヌの人たちが暮らしに用いたいらくさがたくさんあって、それを刈る場所というような、草叢が広がっていたのかもしれない。妹背牛町は今は美田の広がる米の産地である。田んぼの大きさも1枚が1町歩(=1ha)を超えるものばかりが幾つも広がっている。5町歩を超えるものもあるのではないか。この地も明治以降屯田兵の開拓ともかかわりがあり、秩父別町と同じように、元々は深川村からの分村で生まれている。面積も48㎢余りで秩父別町よりほんの少し広いだけで、道内の町としては狭い面積だ。山地は無く、全くの田園地帯である。この地でも農業の後継者問題などで生産者の戸数は減少しているようだけど、生産高や耕作面積は減ることは無いから、この豊かな地が荒廃することは無いに違いないと思った。

妹背牛郷土館の景観。昭和6年に建築されたフランス風の庁舎を復元したものだという。現代の建物とは違う豊さを感じさせてくれる。

 見学を終えたあとは、今日の泊りを予定している北竜町の道の駅:サンフラワー北竜へ。青空が広がり夏の日差しが戻って、目に痛いほどだ。しばらく休憩の後、温泉に浸って、旅の疲れを癒す。くるま旅の人たちも次第に減って来ているようで、ここでの泊りの車も10台ほどになっているようだ。雨竜の道の駅で買った枝豆をつまみにビールを飲んで、一時の小さな幸せを味わいながら夜を迎える。あとは寝るだけ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第94回>

2018-08-27 05:26:46 | くるま旅くらしの話

【今日(8/27:月)の予定】 

道の駅:つるぬま →(R275)→ 道の駅:田園の里うりゅう →(R275)→ 雨竜町郷土資料館 →(R275・D)→ 妹背牛町郷土資料館 →(D・R275)→ 道の駅:サンフラワーほくりゅう(泊)

 

【昨日(8/26:日)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

道の駅:あさひかわ →(D・R12・R233)→ 秩父別町郷土館 →(R233・D)→ 深川市郷土館 →(R233)→ 道の駅:ライスランドふかがわ →(R12・D)→ 滝川市郷土館 →(R12・R451・R275他)→ 新十津川町開拓記念館 →(R275・D)→ 新十津川町ふるさとの村 →(D・R275)→ 道の駅:つるぬま(泊)

<レポート>

 昨夜は大雨が降るのかと思っていたら、一度も雨音を聴くこともなく朝を迎えた。4時過ぎに起き出して外を見ても路面は乾いたままで、雨の降った形跡はない。ただ、空には険悪な雲が奔っており、今にも雨を降らせそうなムードではあった。ブログを書く段では、天気がどうなるか判らないので、様子見としたのだが、その後2時間ほど朝の散歩をして戻っても雨は降らず、それどころか一部青空が覗いたりしているではないか。これではどうやら今日はもう雨は降らないと判断して、旭川の滞在は止めることにして、残っている空知エリアの郷土館等の内幾つかを訪ねることにした。

 ということで、9時少し前に先ずは秩父別町の郷土館を訪ねることにして出発する。向かう間、天気は益々回復して雲の様子も何だか険悪さを次第に穏やかになり出したようだった。間もなく目的の秩父別郷土館に到着する。何と一度泊ったことのある道の駅:鐘のなるまちちっぷべつの直ぐ傍だった。前に泊った時は正時の時刻が来ると、すぐ傍でいきなり鐘が鳴りだし、ああ、これではここには泊れないなと逃げ出したのを覚えている。広場の中央に時計台のようなものがあって、そこで鐘を鳴らしているらしい。早速郷土館の中に入って、この町の歴史を学ぶ。そこで知ったのは、この町が屯田兵の入植で開拓が始まった場所であり、この鐘の音も実は屯田兵の暮らしの中で使われていたものだったということ。どうして鐘などを鳴らすのかと思っていたのだが、それを知って納得した。もう一つこの町は道内では上砂川町に続いて面積の狭い町だということ。我が住む町守谷市は36㎢と少しの面積だが、この秩父別町はそれより約10㎢ほど広いだけの面積だとのこと。北海道の中で守谷市に近い小面積の町は殆ど存在しないのである。何だか、たったそれだけの理由で親近感を覚えたのだった。郷土館の中身も屯田兵から始まって、その後の発展の経過が良く解り、大いに参考になった。

 その後は、隣の深川市の郷土館へ。ここは建物は圧倒されるほど立派だったが、明治初期の開拓団のことが少しわかりやすく書かれてはいたものの、大正、昭和そして平成の時代の出来ごとについては殆ど解説が無くて、市の来し方を知るには不十分の展示解説で残念だった。それでも一応は屯田兵や民間団体の入植のことなどが紹介されていて、参考にはなった。

 その後は、深川市のもう一つの施設の農業歴史記念館という所に行ったのだが、これは田んぼの脇に只の廃墟小屋のような建物があっただけで、完全に騙された感じだった。その後ガッカリしながら道の駅:ライスランドふかがわに行き、名物時自慢の深川米で、自分は焼き魚の御膳を味わう。確かにここの米は美味い。

 その後は、隣の滝川市の郷土館へ。この町の郷土館は開催日が土・日の午後12時から16時までという,ちょっと変わった開催タイミングなのである。今日は丁度日曜なので、昼食を済ませた後のグッドタイミングなのだった。少し古めいた貫禄ある建物に着いて、早速中に入ったのだが、偶々この地の開拓に貢献のあった、高畑利宜という人物の特別展が近くで行われているので、そちらの方に行った方がこの町の歴史を知る上では役立つというような話を事務所の人がおっしゃるので、一体何の事かと戸惑った。とにかくその方の話は無視して、中に入って資料等を見せて頂くことにした。確かに高畑利宜という人物のコーナーには特別展のために展示が抜けてはいたけど、この人物だけでこの町が出来たわけではなく、その他のデータを見てそれなりに滝川市の来し方を理解できたように思った。

 この地も屯田兵の入植から始まっており、高畑なる人物はそれ以前のこの町のあり方に大きな影響を与えたということを知った。それから、滝川市というのは、往時は空知太(そらちぶと)と呼ばれていたことを知り、いろいろな面で納得がいった。樺戸からの囚人道路もこの滝川迄が初めだったのだ。北海道の開拓歴史を知るためには、旧地名をしっかり覚えておくことが不可欠だなと思った。

 滝川市の郷土館の後は、どうしても新十津川町の開拓記念館をもう一度見ておきたくなって、向かうことにした。この記念館は休館日が毎月・火の二日なのである。今日見ておかないと3日後でしか訪ねることができない。それで、どうしても今日の内に見ておこうと考えた次第。滝川からは近くて、10分足らずで到着する。十津川村には特別の親近感がある。新十津川村というのは、奈良県の十津川村が明治22年に大災害で村のかなりの部分が地滑りなどで復旧が困難となり、新天地を求めて北海道のこの地に入植したのが始まりなのである。いわば、遠く離れた奈良の十津川村の分村地といった関係なのである。自分的な理解では、奈良の十津川村は、日本の歴史の中では、敗残者が再起を期して潜み、そのための力を蓄えた所として、何とも興味のある場所なのである。不幸にして大災害でこの地に新しい暮らしを求めざるを得なかった、その人たちの末裔がその後どのような経過を辿って今日に至っているかを知ることは興味津々名ことでもある。

 勿論新十津川物語等でその一端は紹介されているのだけど、自分なりに歴をの跡を辿って見るのも面白いなと思っての来訪だった。凡その内容は理解しているので、復習するつもりで、順を追って事件とその後の開拓の歴史を辿って展示物等を見て回った。回りながら、しばらく行っていない奈良県の十津川村本村も訪ねてみたいなと思った。

 その後は少し離れた所にある新十津川温泉のあるホテルまで行き、入浴を済ます。この頃までには天気は完全に回復し、夏が戻って来た感じがした。やはり青空はいい。これで電気の心配もなくなり、大雨から逃げ回る必要も無くなった。この時点まで、今夜の宿をどこにするかが決まっていなかったのだが、一番近い道の駅ということで浦臼町の道の駅:つるぬまに行くこととした。ここはR275沿いで、先日の雨竜の道の駅と同様夜間のトラック騒音に悩まされるのではないかと思ったのだが、近くのキャンプ場の駐車場では邦子どのが不安がるので、とにかく我慢することにして向かう。

 もう18時近い時刻だったので、道の駅の駐車場は殆ど立ち寄る車も無く、空いていた。雨竜よりはかなり狭いので、大型のトラックは入って来るのは少ないかもしれないなと思った。そして、夜を迎えたのだが、予想以上に静かだったのはラッキーだった。もしかしたら、トラックの人たちはここを避けて雨竜の方で留まって過ごすのかもしれないなどと思った。今日は思いがけずに4か所もの郷土館を見ることが出来て満足した。明日もこのエリアで残っている場所を訪ねることにしたいと思いながら、そうだ月曜休館の場合はどうしようか。その時は静養日とするか、などと思いながら夢路を辿る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第93回>

2018-08-26 04:43:34 | くるま旅くらしの話

【今日(8/26:日)の予定】 

道の駅:あさひかわ → 大雨予報のため終日道の駅に滞在予定

 

【昨日(8/25:土)のレポート】 天気:雨

<行程>

道の駅:田園の里うりゅう →(D・R12)→ 道の駅:ライスランドふかがわ →(R12・D他)→ 東川町コーヒー豆店 →(D・R273他)→ 道の駅:あさひかわ(泊)

<レポート>

 昨夜は思っていたより雨の量は少なく、朝になっても同じような空模様で、台風崩れの悪い雲が空を覆っているだけだった。雨の心配よりもこの道の駅は夜間のトラックの出入りが多くて、断続的な騒音に悩まされて安眠という状態ではなかった。泊る場所の選択を誤った感じがした。この騒音がなければいい場所なのに残念である。次回以降は安易にここに泊ることは止めることにしようと思った。ただここの道の駅で販売されている野菜類は、品質も良く価格もリーズナブルなので、寄ることを外すわけにはゆかないなと思った。

 朝、雨が小降りになり止んでいる時間に、雨竜町の中心街の辺りまで1時間ほど往復する。ここがどのような町なのかさっぱり判らない。昨日の北竜町の歴史を覗くと、雨竜町から分村して北竜町となったということだから、町の産業としては概ね同じようなものではないかと思う。こちらの方が北竜町よりも米作りにはより広大な平野が広がっている感じがした。道の駅にも田園の里と名乗っているくらいだから、やはり農業中心の経済となるのであろう。ただ、外部の通りすがりの者からは、ひまわりでの町おこしの北竜町と比べると地味な感じがするのは否めない。R275に沿って、町役場の先にある雨龍神社の少し先まで歩いて戻る。勿論雨龍神社にも参拝する。開拓に係わった人たちの心のよりどころの一つであった神社を無視することはできない。由緒書きを見たのだが、文字がかすれていて、よく読めなかったのが残念。戻って来て、道の駅の近くの田んぼに田んぼアートがあるのを思い出し、それを見に行く。町のJAきたそらち青年部雨竜支部の皆さんの力作で、以前ここに来た時も見せて貰っている。展望台と田んぼのバランスが少し不足している感じで、以前見た時は作品の内容が何なのか判りにくかったのだが、今回はかなり進歩していて、10周年を迎えてのアンパンマン風の絵が描かれていた。田んぼアートといえば青森県の田舎館町のそれを思いだすが、この空知地区最大級と称している田んぼアートは、コンパクトながら10年を迎えて存在感を示して来ているなと思った。

雨竜町の道の駅近くにある田んぼアートの今年の作品。もう少し展望台が高いと絵がはっきりするのにと思いながらの見物だった。

さて、今日なのだが、当初の予定ではこの周辺の郷土史資料館などを訪ねる考えでいたのだが、予報では大雨はこれからだというし、一時休んでいたらしい雨が8時を過ぎる頃から降り出し、本降りとなって来たので、これはもう探訪は明日以降にして、今日は前回も大雨の時に退避していた旭川の道の駅に行って雨が安全レベルになるまで待機しようと決める。空知管内はその後でもいいのである。そのまますんなり道の駅に行くだけではつまらないので、途中深川市の道の駅に寄り自慢の深川米で握った大型のお結びを手に入れて、そのあと邦子どのの要請で先日も満足して買っている東川町のコーヒー豆の販売所に行くことにした。細かい雨粒の濡れやすい雨の質である。出発の前にもう一度雨竜の道の駅の野菜類販売所に行き、枝豆とキャベツなどを買い入れる。

 9時頃に出発して先ずは深川の道の駅に向かう。30分ほどで到着して早速お結びをゲットする。ここのお結びは既成の機械などでの握りではなく、オーダーすると若い女性が握ってくれるのである。それが特大で、実に美味なのである。昼食を兼ねて自分用として2個手に入れたのだが、その内1個は邦子どのがグズグズ買い物をしている間にたちまち腹の中に収まってしまった。人気の場所とあって、今日も大勢の人たちで賑わっていた。

 その後は、旭川の市内を突っ切って東川町の方へ。邦子どのはコーヒーにうるさい人で、市販のコーヒー豆ではダメなのだそうな。贅沢な人である。自分などは色がついていさえすれば、何の文句もない。ま、あまり自慢にはならないけど。この東川のコーヒー豆屋さんは、周囲三方が田んぼに囲まれているのに、お客さんが絶えないのはそれなりの腕があるからなのであろう。邦子どのが戻って来るまで30分以上はかかると思われるのが、この間先ほど買った枝豆を枝から外す作業をすることにした。丁度終わりとなった頃に戻って来た。雨は依然として降り続いている。

 これであとは道の駅に行ってゆっくりするだけである。15分ほどで着いたのだが、何と道の駅に入ろうとする車が列を作って待っているではないか。こりゃあ何なんだと思った。考えてみると今日は土曜日なので、何かイベントでも開催されているのであろう。旅車ではなく、殆どが旭川ナンバーなのでそうに違いない。そういえばここは確か物産センターのような会場があった筈である。仕方がないので、そのイベントが終わる頃まで近くのショッピングモールの駐車場で待つことにした。

 14時を過ぎた頃から雨は小降りとなり、その内に止んだようである。邦子どのの話では何やら物産展が開催されているのだそうで、奈良の柿の葉寿司等も並んでいたとか。して見ると関西方面の物産展でも開かれているらしい。自分的にはそのような者には殆ど興味関心は無い。この地では、北海道産の枝豆やとうきびの方がはるかに魅力的だ。15時を過ぎて混雑も弱まり出したようなので、車を道の駅の駐車場に入れる。雨の本番は明日のようなので、とにかく今日明日はここでじっとしていることにしている。先回の雨の時は5泊もしているので、ここでの暮らし方は心得ているつもり。今夜は長い夜となりそうだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第92回>

2018-08-25 05:25:39 | くるま旅くらしの話

【今日(8/25:土)の予定】 

道の駅:田園の里うりゅう →(R275・D)→ 妹背牛町郷土資料館 →(D他)→ 沼田町郷土資料館 →(D他)→ 秩父別町郷土資料館 →(D)→ 道の駅;ふかがわ(泊)※天候次第で変更する

 

【昨日(8/24:金)のレポート】 天気:晴れうす曇りのち雨

<行程>

道の駅:ほっとはぼろ →(R232)→ 道の駅:ふわっと苫前 →(R232・R231他)→ 留萌市・海のふるさと館 →(R231他)→ 国稀酒造 →(R231・R233・R275)→ 北竜町郷土資料館 →(R275他)ひまわりの里 →(R275)→ 雨竜町郷土資料館 → 道の駅:田園の里うりゅう(泊)

<レポート>

 朝、羽幌の町の中を1時間半ほど歩きまわった。この町は現在も漁業が中心の町のようだ。焼尻島、天売島の二つの島の観光も柱の一つとなっているようでもある。農業等の状況については、海から離れた場所の状況を知らないので、何とも分からいけど、蔬菜類や果実類の栽培は難しい様な気がするので、やはり酪農中心となっているのかもしれない。昨日の天塩や遠別の町と比べると少し活気があるのを感じた。

 車に戻って、朝食を終え、出発直前までは昨日来た道を戻って中川町経由で美深町のキャンプ場で台風崩れの雨を待ち受ける考えでいたのだが、ナビにそれらの情報を入れていたのに、エンジンをかける段になってやはり南下を続けようと、突然そのような思いが浮かんで来て、取り敢えず小平の道の駅までのナビを入れてみたら、何と27kmほどの距離に過ぎないことが分かった。もっと遠いのではないかと思いこんでいたのである。それならば、遠回りして山の中の道を行くよりも、留萌から空知エリアの残りの自治体を見ることにして、それが終わったら旭川に行って一息入れて次の行程を考えた方がいいと即断決定する。邦子どのが何か文句を言うかと思ったら特に異存はないというので、8時を少し過ぎた時刻に留萌方面に向けての出発となった。これほど自分でも意外な変更は初めてだった。

 今日はすっかり風は収まっていて、日本海沿岸を走るオロロン街道と呼ばれるR232は車も少なく、順調な流れで快適なドライブを楽しみながらの時間となった。40分ほど走って小平町の道の駅:おびら鰊番屋に着いたが、ここの番屋の建物は何年か前に入って見ているので、今回はパスすることにした。そのまま走り続けて、10時頃留萌市の海のふるさと館という歴史資料館に着く。少しくたびれかけた建物の中は、偶々清掃の会社が作業をしていて、機械の音が喧しかったが、それを無視して見学を開始する。海のふるさと館という名なので、やはり内容的には海に係わる歴史展示が多かった。少しは留萌市の開拓の歴史が分かるかと期待したのだが、江戸末期や明治の初めの頃のニシン漁等については力を入れた展示がされていたが、それ以外については、さっぱりで、結局留萌市という所は明治以降どのような経過を辿って今日に至っているかについては、年表もなく殆ど何も分からなかった。帰宅後に再度ネットなどで調べる必要がある。

 その後は、ちょいと足を延ばして増毛迄行って我が国最北の造り酒屋での銘酒となる「国稀」を、帰宅後の自治会への土産として1本買い求めておくことにして向かう。着いて、ついでに酒水が汲めるようになっているので、持参したペットボトル数本満たす。それだけで満足して次の目的地の北竜町に向かう。

 途中の留萌市内で弁当での昼食を済ませ、北竜町の郷土資料館に着いたのは13時を少し過ぎた頃だった。北竜町はサンフラワー即ちひまわりで名を売っている町でもある。ひまわりの里というのがあって、その花の畑に作られた巨大迷路は多くの観光客を楽しませているようである。自分たちも何度か来ているのだが、ここ数年はご無沙汰していたので、もしかしたらまだ咲いている花が残っているかと期待したのだが、やはり既に花のシーズンは終わってしまっていた。生きものたちは皆正直である。正直でないのは人間だけなのかもしれない。

 郷土資料館は、公民館の中にあって、階下が図書館、2階が資料館となっていた。入口の所に靴を脱いだらスリッパがあるのかと思っていたら、何と靴下のままで見学するようになっていたのには驚いた。子どもたちには裸足で見せるようになっているのだろうか。マイスリッパを持って来れば良かったなと思いながらの見学となった。ひまわりとの関係があるのか、黄色い表示が目立った。少し写真が取りにくいので困惑したが、展示内容はこの町の歴史をしっかりと教えてくれて、大いに参考になった。この町は隣の雨竜町から分村したとのこと。雨竜の北部に位置するので北竜と名づけられたとのこと。最初の入植者は千葉県の埜原(やわら)という所から来たということで、千葉県出身の邦子どのは親近感を覚えるのか、或いは今まで殆ど千葉県からの入植者の話を聞いていないので興味をそそられるのか、その後埜原が現在のどこなのかを調べていたが、分からなかったようである。帰ってからの宿題ということになる。

 資料館を出た後、ちょっとひまわりの里を覗いて見ることにした。行って見ると、もうすっかり花は終わっており、実をつけたヒマワリたちがこちらを向いて頭を垂れていた。何だかゴメンと謝られている感じがして、当方も頭を下げなければならない気持となった。やはり出会いや感動というのはタイミングが大切なのだなと改めて思った。

北竜町ひまわりの里のひまわりたち。もう花を終えて、このあとどう処理されるのかを待っているだけの景色があった。

 その後まだもう一ヶ所くらいは回る時間があるので、隣の雨竜町の郷土資料館を訪ねることにして向かう。10分ほどで公民館に着いたのだが、中に入って受付で訊いてみたら、首を傾げられたので、こちらも首をかしげることになった。それは教育委員会の担当で、現在はここには居らずに役場の方に移ったという話だった。何だか面倒くさくなって、とにかく今日はもう探訪は止めることにした。少し疲れが出ているのか、どうも気分が盛り上がらない。それで近くにある雨竜町の道の駅:田園の里うりゅうヘ行って錨を下ろすことにする。

 15時過ぎに着いたのだが、かなりの混雑ぶりだった。ソフトクリームなどを食べている人が多くいて、その他ここには新鮮な野菜類なども販売されており、休憩に立ち寄る人が多いようだ。中に入って野菜売り場を見ると、久しぶりにまともな価格で販売されているナスやキュウリなどを見て何だか救われたような気分になった。今までの道北地区では、ずっと異常感を抱き続けていたからなのであろう。道北の暮らしの厳しさは今でも変わらないのだなと改めて思った。

 今夜もかなりの雨が降るらしいとは予報の情報なのだが、17時近くになって雨が降り出したが、さほどの大雨の感じはしなかった。それよりもエンジンをかけっ放しのトラックの騒音の方が車の暮らしや眠りを妨げて大いに迷惑した。この頃はエンジンを切っているトラックも多いのに、ここに来る連中は他人のことなど知ったことじゃないと思っているのが多いようだ。何とかならないものなのか。騒音も法規制の対象として整備が必要なのではないか。ストレスの溜まる夜となった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第91回>

2018-08-24 04:50:38 | くるま旅くらしの話

【今日(8/24:金)の予定】 

道の駅:ほっとはぼろ →(R232・D・R40他)→ 中川町エコミュージアム →(R40他)→ 道の駅:おといねっぷ(R40)→ 美深アイランドキャンプ場(泊)

 

【昨日(8/23:木)のレポート】 天気:晴れ・風強し

<行程>

道の駅:てしお →(R232・D)→ 遠別町郷土資料館 →(R232他)→ 道の駅:ほっとはぼろ →(R232他)→ 苫前町郷土資料館 →(R232他)→ 羽幌町郷土資料館 →(R232他)→ 道の駅:ほっとはぼろ(泊)

<レポート>

 昨夜一晩中車を揺すっていた強風は、朝になっても止まずに吹き続けていた。概して自分達の北海道の旅では、日本海側を通る時には強風に出くわすことが多い。従って避けることになり、このエリアもあまり通ったり滞在したりすることが少ない。今回は歴史を訪ねる旅なので、避けるわけにはゆかない。今日は遠別町、苫前町、羽幌町の各郷土資料館を訪ねた後、羽幌町にある道の駅:ホットはぼろに泊る予定でいる。

 早朝6時頃天塩町の中心街を1時間ほど歩いた。この町には海側にシジミで有名な鏡沼というのがあり、その近くにあるキャンプ場に何度か泊ったことがある。10年くらい前になるだろうか。その時も町中を釣り道具と餌を探して自転車で走り回ったことがあるのだが、今日は歩きでの散策だった。そして驚いた。町は半分以上活気を失い、何か知らぬモノに疲弊して倒れようとしている感じがしたのである。海岸に平行して5本ほどの筋の通りがあり、その両側には商店や民家などが建ち並んでいるのだが、その中に空き家が多いのが目立った。商店なども営業しているのか閉鎖しているのか判らないものが多くて、シャッター通りとはまた違った寂れを感じながらの通行となった。町の中にはスーパーらしきものもなく、どこにでもある筈のドラッグストア等も見当たらず、一体この町の人たちは暮らしの必需品をどこで買い求めているのだろうかと疑問を感じた。町外れの国道の南北両端に1軒ずつのコンビニがあるだけで、旅の者にとっても、この不便さは格別のレベルだなと思った。この町の行政は一体何をしているのだろうかとも思った。昨日の旧町役場の立派な建物とその中に詰まっていた町の歴史の重さからは、あまりにも落差の大きい感じのする町の姿だった。なにせ、10年ぶりほどの来訪なので、このエリア以外に新しい商店街などが現出しているのかもしれない。今日遠別町に向かう途中にそれが見出せれば、自分の感覚の誤りを認めることになるのだろうけど、それにしてもこの旧市街の寂れ様は尋常ではないなと思った。因みに手元のデータを見ると人口は3,200人余となっているのだが、現在歯止めがかかっているのだろうか。活性化策に取り組んでいるのだろうか。他人事ながらこの町のこの先が心配になった。

 さて、天塩の道の駅を9時過ぎに出発して、先ずは隣の遠別町に向かう。比較的近くに町役場があり、15分ほどで到着する。早速役場の中の教育委員会に見学の是非を伺ったところOKを頂いた。少し離れた所にあるので、車で先導して頂けるという。直ぐ近くではないかと思っていたので、これは意外だった。そのあと4kmくらいはあったと思うけど、来た道を天塩町の方に戻って、丸松地区の中にある郷土資料館にご案内頂いた。元小学校の校舎を利用しての資料館だった。中に入って早速関係データを写真に収めた。普段あまり開館することがないのか、館内の空気はよどんでいたが、展示されている内容も方法も分かりやすくて、大いに参考になった。中におがみ小屋も造られていて、ああ、やはりこの地でも最初に入植された方たちのご苦労は大変なものだったのだと、改めて往時に思いを馳せたのだった。見学が終わってそのあと、しばらくご案内頂いた方と開拓のことや我々のくるま旅のことなどについて、それから今日の天塩町の印象や、地方がアイデアを活用して活性化して欲しいなどという話をした。遠別町も天塩町とさほど変わらぬ状況にあるのではないか。心から地域・地方の活性化を願わずにはいられない。そう思いながらお礼を述べて次の苫前町に向かう。

 初山別村にも資料館があるのだけど、開館の期間が限定されており、今年はもう既にその期限が終わってしまっているのでパス。苫前に行く前に昼食をすることにして、羽幌の道の駅に車を止め、近くの食堂でこの地の名物の甘エビの定食というのを食べる。小さな甘エビが16匹も並んでいて、大いに満足して食事を終える。

 その後は苫前町の郷土資料館へ。ここは有料で一人300円也を支払った。元役場だったという庁舎はかなり広くて、巧みに町の歴史や自然環境等の情報が解説展示されていた。それらのデータを可能な限り写真に収めた。詳しい内容は追って写真を解析しながらまとめることにしている。邦子どのは受付の方との話で、どういうわけなのかトマトを頂戴していた。無駄話も時には相手に通ずることがあるようだ。これは褒めた方がいいのかもしれない。

 次は今日の最後の予定の羽幌町の郷土資料館へ。この資料館は、館の方のお話で、元裁判所だった建物を利用しているとか。羽幌町の開拓の歴史、昭和45まで採炭していた羽幌炭鉱の関係資料、それにこの地でもかなりの化石が出るということで、2階は化石関係の出土品の展示がなされていた。その他に開拓当時の開拓小屋の展示紹介や、かつて佐渡からこの地に来られて造り酒業を営んでいた本間家の残された資料等の特別展示がなされていた。それらの一つ一つを写真に収めて、追って整理することにしたい。大いに参考になった。

 その後は、今日の泊り予定の道の駅:ほっとはぼろへ戻る。途中、スーパーで若干の食材などを仕入れる。15時前に道の駅に到着。もう夏のシーズンも終わりに近づいているのか、泊りの車などは少ないようだ。朝から吹いていた強風は、午後になってようやく少し弱まって来た様である。ブログの下書きを終えて、そのあと近くにあるホテルの温泉に入りに行く。今夜は風が止んで静かな眠りがもたらされるのを願うばかりである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第90回>

2018-08-23 05:49:44 | くるま旅くらしの話

【今日(8/23:木)の予定】 

道の駅:てしお →(R232)→ 遠別町郷土資料館 →(R232)→ 羽幌町郷土資料館 →(R232)→ 苫前町郷土資料館 →(R232)→ 道の駅:ほっとはぼろ(泊)

 

【昨日(8/22:水)のレポート】 天気:曇り風強し

<行程>

宗谷ふれあいキャンプ場 →(R238他)→ 稚内市開基百年記念塔・北方記念館 →(R40・D)→ 幌延町農村環境改善センター(郷土資料館) →(D・R232他)→ 天塩川歴史資料館 → 道の駅:てしお(泊)

<レポート>

 昨夜は大荒れの天候だった。自分は直ぐに眠ってしまってよく判らないのだが、真夜中辺りに直ぐ近くに雷が落ちてズーンという音がしたのを記憶している。邦子どのの話では落雷は1発だけだはなく、あちらこちらとかなり酷かったらしい。雨もかなり降ったようで、水たまりが幾つも出来ていた。風は烈風といった感じで、朝になっても止む気配がなく、TVのアンテナを揺らし続けていた。

 その風の中を歩きに出かける。昨日市内に買い物に行った時に、邦子どのが道路脇に何やら松浦武四郎の碑のようなものがあると言っていたので、それを確認することにしたのである。時々風に身体を揺さぶられながらの歩行だった。R238を市内に向かって少し歩くと聲問神社というのがあり、その傍の草叢の中に松浦武四郎がこの地を訪れた時の宿営をしたという碑が建っていた。宗谷日誌の中に記されているとか。松浦武四郎の熱心なファンの方が居られて、この碑を建てられたらしい。草叢の中というのは少し寂しい気がしたが、それでも意義あることだと思った。その後、近くにある聲問神社に参拝する。誰もおらず、お参りする人も滅多にないという雰囲気の神社だった。目的を果たしたので、直ぐに車に戻ることにした。風は一向に弱まる様子がなく、これは今日一日中吹き荒れるのかもしれないなと思った。

国道脇の草叢の中に建てられている松浦武四郎宿営の地の碑。今から150年前の頃はもっと草深い地であったのかもしれない

 今日の予定は先ず稚内市内の開基百年記念塔と併設の北方記念館を訪ね、その後市内で給油のあと南下を開始し、幌延町の郷土資料館と次に中川町のエコミュージアムというのを訪ねて、そのあと天塩町の天塩川歴史資料館を訪ねて近くの道の駅:てしおに泊る予定でいる。本当は豊富町の郷土館も訪ねたいのだが、ここは土・日しか開館していないといういので断念せざるを得ない。仕方のないことではある。

 9時過ぎに出発して稚内市内へ。百年記念塔は上にまで上がったことは無いけど、近くにあるキャンプ場を利用した時に傍まで行っているので、凡その見当はついている場所だ。稚内駅近くから急な坂を上って、その先に巨大な塔が建っている。着く頃はガスがかかって来て、海が見えなくなるほどの気象状況だった。料金を払って中に入ると、直ぐに併設の北方記念館があって、稚内の生い立ちや樺太(サハリン)のその昔のことなど、それに間宮林蔵の探検や地図作成に係わる資料等が展示されていた。かなりの量の資料は、彼の生家である記念館よりも遥かに多いなと思った。この地での業績の評価は、生家の評価よりもずっと上なのだということを改めて思った。サハリンのことを思うにつけて、日露の北方領土の未解決の現状にいらだちと怒りを覚える。ロシアという国の海賊まがいの振る舞いは、どんな説明があっても理解納得することはできない。氷雪の門の乙女たちの自決のことだって、ロシアの終戦時のどさくさにまぎれての振る舞いが原因なのだ。生きている間は、自分はロシアという国を嫌い、忌避し続けると思う。

 そのあとエレベーターで展望台まで登ったのだが、たった80mの高さなのに足がすくみかけて、ジッとしていられなくなって、何枚かの霧の写真を撮っただけで直ぐに下に降りたのだった。元エレベーター関係の企業に勤務していた者としては、真にお恥ずかしい限りである。どういうわけなのか、加齢とともに高所恐怖の感覚は膨れ出しているようである。

身体を震わせながら撮った、塔の展望台からの稚内港の様子。晴れていれば近くにサハリンが見えるはずなのに、今日はとんだ荒れ模様の恐怖の一枚だった。

 その後は、下界に降りて稚内市内を通り抜け、途中で給油を済ませて豊冨町方面へ。豊富町は日本最北の温泉街を持つ町で、ここの温泉は石油の採掘のために掘っていた時に温泉が湧出したとかで、温泉に入ると石油の臭いが漂ってくる。さりとて、べとべと感は無くさらっとしているのだが、最初に知らずに入った時はどうなることかと困惑したのを思い出す。このお湯はアトピーに効くとかで、全国各地からの来訪者が多いと聞く。今日はパスして隣の幌延町にむかう。

 幌延町を訪ねるのは初めてである。名前は知っているのだけど、この町には特段の名所もなく、ただ牧場などが広がっている、そのような土地という印象しかない。町の中心部は国道からは少し内陸側にあって、郷土資料館は農村環境改善センターという建物に付帯して造られていた。入館の前に昼飯をコンビニの弁当ででも済まそうかと考えていたのだが、近くにコンビニは見当たらず、諦めて先に入ることにした。コンパクトな資料館で、よく整理された展示がなされていたが、町の歴史を知るには、各分野とも写真2~3枚と解説だけでは材料が少なすぎるなと思った。年表が掲示されていたので写真に収めたが、さて、読めるかどうか心配である。この町は昭和の15年に豊冨町と分村して今日に至っているようである。北海道の市町村の歴史を知るにつれ、分村と合併が多いことに気づく。それなりの理由があるのであろう。それを知るのもまた楽しい。

 そのあと、車の中で軽く昼食を済ませ、次は中川町のエコミュージアムという所へ行くつもりだったのだが、調べてみるとここはどうやら化石中心の展示所らしい。町の歴史にはあまり触れていないように思えるし、少し距離もあって時間がかかるし、一向に止まないこの強風の中では、あまり動き回るのはよくないと考え、訪問を止めることにした。この後は今日のゴールとしていた天塩川歴史資料館に行って、それを見たあとは近くの道の駅で早めに落ち着くことにする。

 天塩町には直ぐに着いて、天塩川歴史資料館も直ぐに分かった。ここはその昔の役場が使用されていて、レンガ造りの立派な堂々たる建物だった。如何にも時代を感じさせる建物であり、さぞかし内容も立派なのだろうと期待が膨らんだ。200円也を払って中に入ると、天塩の町の歴史と今日が実によく解るように1、2階をフルに巧みに使って展示がなされており、期待は裏切られなかった。

天塩川歴史資料館の堂々たる建物。やがてはこの建物そのものが町の歴史のシンボルとしてその存在感を高めるに違いないと思った。

歴史年表を見ると、先ほど訪れた幌延町はここ天塩村から大正時代に分村して生まれているということである。従って、豊富町も元は天塩村の1地域だったということになる。分村というのはやはり当時の業務処理能力では物理的に広すぎるという条件が大きく影響していたのではないかと思う。今日ならば、面積の広さなど大した問題ではないのだろうけど。時代は大きく変わってきているのだなと改めて思った。

 資料館を出た後は、直ぐ近くにある道の駅:てしおに行き錨を下ろす。依然として強風が吹き荒れている。何とかしてBSのアンテナを設定する。地デジは全く映らない。ここは札幌エリアなのか、旭川エリアなのか。稚内局は無いので、電波は弱くて届きにくいのであろう。もう高校野球も終わったし、特に見たいものもないので、BSだけで十分である。

 そのあと、昨夜はロクに眠れていなかった邦子どのは早々に寝床に直行する。自分はブログの原稿書きや記録の整理などをしながら夜を迎える。間もなく家を出てから3カ月目を迎えようとしている。時々家のことも思うのだけど、心配はしていない。倅夫婦には些か迷惑なのかもしれないけど、ま、留守の間の時間を上手く使ってついでに我々の住まいの方もフォローしておいて欲しい。そのようなことを思いながら風の強い夜を迎える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第89回>

2018-08-22 06:14:24 | くるま旅くらしの話

【今日(8/22:水)の予定】 

宗谷ふれあいキャンプ場 →(R238他)→ 稚内市開基百年記念塔・北方記念館 →(R40他)→ 幌延町農村環境改善センター →(R40他)→ 中川町エコミュージアムセンター →(R40・R232)→ 天塩川歴史資料館 → 道の駅:てしお(泊)

 

【昨日(8/21:火)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

クッチャロ湖キャンプ場 →(D・R238)→ ベニヤ原生花園 →(D・R238)→ 道の駅:さるふつ →(R238)→ 宗谷岬 →(R238)→ 宗谷ふれあいキャンプ場(泊)

<レポート>

 クッチャロ湖キャンプ場とも今日でお別れとなる。朝は少し欲張って2時間余り町中とその周辺を歩いた。ここに4日泊ったのだが、残念ながら今年はクッチャロ湖らしい夕陽を見ることはできなかった。昨日などは終日10m近い強風が吹き続けて、いつもは穏やかな湖面は白波を立ててざわめいていた。穏やかな日でないと、お天道様も穏やかな夕陽を演出できなくなるのだろうなと思った。来年に期待するしかない。

 9時半頃の出発となった。先ずは近くにあるベニヤ原生花園に寄ることにした。邦子どのの聞いている情報では、最近ヒグマの痕跡が見つかったということで、自在に園内を歩くことはできないようだ。自分としてはもう咲いている筈のサワギキョウの花に一目会うだけで良いのである。熊の出る場所まで行かなくてもサワギキョウは管理棟の近くにある筈だから、大丈夫だと思っている。

直ぐに着いて、早速カメラを抱えて花園の中へ。熊出没注意で立ち入り禁止の場所が何カ所かあったけど、いつものサワギキョウの咲いている場所は大丈夫だった。どうかなと思いながら策道を歩き始めると、直ぐにサワギキョウの青紫の花を発見することができた。この時期だと一緒にリンドウも咲いている筈なのだが、水生の雑草たちが邪魔をしていて、見つけることができなかった。浜辺まで行くのは止めて途中から引き返したのだが、他の目立つ花は少なく、草藪の中にたった一株だけ、エゾトリカブトの花を見つけて、ちょっぴり嬉しくなった。もっと慎重に見て回ればまだまだ発見できたのだと思うが、今年はもうこれまでにしようと引き上げることにした。

湿地の草むらの中に咲くサワギキョウ。この季節のベニヤ原生花園の主役の一つである。

エゾトリカブトの花。この地ではあまり見かけないのだが、咲き遅れたのか、珍しい存在だった。

さて、今日から北上を再開して郷土資料館等を訪ねることにしているのだが、今日は稚内の市街地手前にある道立宗谷ふれあいキャンプ場に泊ることにしており、訪ねるのは明日からにしようと考えている。というのも、今日は午後2時から高校野球の決勝戦があるので、電源の確保されているキャンプ場でじっくり金足農業高校が勝利するのを観たいと思ったからなのである。夕刻からは雨も降るという予報なので、電源があれば安心できるというものである。

ベニヤ原生花園を出た後、邦子どのの要請に応えるべく猿払村漁協直営のホタテの乾燥貝柱等の販売所へ。場所が少し変わっていたが、無事買い終えて、その後道を少し戻って道の駅:さるふつにて昼食休憩。猿払村はホタテの天然養殖で有名だ。稚貝を自然の海に撒いて、それを育てるのである。天然ものに近い育て方ということなのか。昼食にオーダーしたホタテカレーは、まさにこれぞホタテ入りカレーライスだ!と言いたいほど美味だった。近くに風雪の塔というのがあり、その傍に郷土資料館のような建物があったので行って見たのだが、どちらも鍵がかかっており、閉館中とあった。残念。

その後は稚内市方に向かって車を走らせる。30分ほど走ると宗谷岬に着いた。日本最北端の岬である。至る所に最北端を強調した看板などが溢れていた。ここには幕末の探検家間宮林蔵の銅像が建っている。樺太が独立した島であることを発見した間宮海峡探検の話は有名である。その時、間宮林蔵はこの地からアイヌの従者と共に樺太に向かったのである。恐らくチプと呼ばれる丸木舟のような小舟でオホーツクの海を渡って行ったに違いない。命がけの渡航だったのだと思う。間宮林蔵の生家は現在のつくばみらい市にあって、守谷市の我が家からは5~6kmほどの近さなのだ。何度もその記念館を訪ねているけど、ただ只尊敬の念が増すばかりである。

その後はキャンプ場に入る前に買い物をすることにして稚内市内のスーパーへ。買い物を終えてキャンプ場へ。キャンプ場はかなり混んでいるようだった。予約無しで大丈夫かと少し不安だったが、どうにか空いている場所があって安堵した。このキャンプ場は、繁盛期を過ぎると、料金が割引となり、我々高齢者の場合は入場料も無料となり、電源・水道完備で1泊千円で利用できるのである。ありがたいことである。受付を済まして、早速所定の場所に車を止める。

早速TVを設定して高校野球を見ることにした。14時を少し過ぎていた。TVの電源を入れると、何と試合開始前のセレモニーが始まったばかりではないか。何年前だったが定かではないが、決勝戦で、対戦した青森県の三沢高校と愛媛県松山商業高校が、延長戦でも勝負がつかず翌日の再戦でも両校投手の投げ合いが続いた凄い試合があったのだが、その時の投手だった三沢高校太田氏と松山商業高校井上氏との二人が始球式をされていた。良い企画だなと思った。

さて、ゲームが始まったのだが、両校ともかなり緊張した様子で、特に大舞台にはまだ慣れていないであろう金足農業高校の選手諸君には堅さが目立つ感じがした。攻撃面はまあ良かったと思うのだが、守備の面ではどうしても堅さが普段の動きを不意にしてしまうようだ。最初は五分五分のゲーム運びで、リードされても逆転のチャンスがあると見ていたのだが、その後の大阪桐蔭はさすがで、地力を発揮し始めた。加点が進むにつれて、もはや観戦は辛いものとなり果て、しばらく観るのを止めにした。残念ながら金足農業高校の勝利を観るゲームとはならなかった。しかし、甲子園出場の歴史の中で、日本唯一の農業高校として甲子園で優勝を争うまでの意気を発揮した彼らの健闘は限りなく高く評価されるに違いない。日本の農業はいろいろな面で多難な時を迎えているけど、いかなる国においても生命の根源を生育維持するのは大自然の恵みを育てて人々に供する農業なのだ。日本人の多くはもっともっとそのことに気づかなければならないと思う。特に若者においては、そのことに気づいて欲しいと思う。金足農業高校の諸君は、故郷に胸を張って戻って欲しい。そして、この成果を踏まえて日本の農業の本物の振興に力を発揮してほしい。そう思った。

夜遅くなって時々雨が天井を叩き、風の音が耳に異音を届ける悪天候となった。一発雷鳴が轟いたりして、邦子どのは眠れぬ夜を迎えた様である。自分の方は、雷鳴の記憶がかすかに残るだけの白川夜船だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする