山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

茨城県の印象(出戻り在住者の所感)

2013-02-27 12:00:50 | 宵宵妄話

 妙なタイトルとなりました。最近、自分が今まで暮して来た場所についてあれこれ思うことがあります。特に我が生れ故郷であり、終の棲家ともなるであろう茨城県という地方について考えることがあり、そのことについて、ちょっと述べてみたいと思います。

手元に新聞の切り抜きが二枚あります。いずれも購読している東京新聞のもので、その一は、茨城版に掲載されていた各都道府県の魅力度、それから美肌県グランプリというものについての、茨城県の全国ランキングにかかわる記事です。それによると、茨城県の魅力度は全国47都道府県中ブービーの第46位、ご婦人の美肌県グランプリでは最下位の47位だったということでした。もう一つは、全国版のトップ記事として扱われた茨城県民の歌についてのものです。こちらの方は、歌詞の中に原子力礼賛のフレーズが入っており、これでは歌えないという県民の声が湧きだしているというのがその主な内容でした。何れの記事とも茨城県民としては嬉しくもない内容でした。

私は茨城県北の日立市生まれですが、育ったのは常陸大宮市であり、いわゆる幕藩体制の中では水戸藩の領地に含まれていた場所でした。水戸藩といえば、何といっても今の時代では黄門様が有名ですが、TVでおなじみのあの方は、95%以上が虚像です。否、そのズレはもっと大きいかも知れません。ご本人はあの世で苦笑を過ぎて怒っておられるかもしれません。水戸藩は、御三家の一つとして格式は高いのですが、尾張藩や紀州藩に比べて経済力はかなり劣っており、厳しい財政状態が続いていたようです。水戸光圀の大日本史の編纂にはかなりの費用がかかり、乏しい財政を一層圧迫したというのは、これはもう通説となっているようです。実際に自分が生まれ育った現常陸大宮市エリアなどを見ても、肥沃な田畑といえば久慈川や那珂川流域のほんの少しの平地しか見当たらず、下流の水戸市近郊でようやく少し広がりを見せているといった程度ですから、江戸の初期頃は未開発の荒れ地がもっともっと多かったのだと推測されます。

 貧乏藩なのに格式が高いというのは、実力を置き去りにしての矜持(きょうじ)(=誇り=プライド)ばかりが先行するという危険性を内包し易いように思いますが、水戸藩全体に(領民を含めて)そのような傾向があったことは否めないように思います。その気風は、江戸が終わり、明治、大正、昭和となっても、そして戦後十年以上が過ぎた自分の高校生時代の頃でも、未だその名残が息づいていたように思います。それは、一般的には「水戸ッポ」という呼ばれ方で、世間から呆れかえられるほどに、頑固で融通の利かない扱いにくい人種の産地と思われていたようです。世に三ポありと言われ、水戸の他に「薩摩ッポ」「土佐ッポ」が挙げられるようですが、薩摩は元々外様の代表的な藩で、江戸から遠くにあって自力で意地を通してきた存在でした。また、土佐は長曽我部の地侍としての意地が残った風土が息づく藩でした。二つの藩とも生来の土地に生え育った頑固者の矜持ですが、水戸といえばこれらに比べて、残念ながら生え抜きとは言えず、御三家の一つとして黄門さまの印籠を笠に着ての空威張りの感じが拭い得ません。   

私自身もご多分にもれず水戸ッポを自認し、頑固と言うのか、表面はともかく内心では決して信念を曲げないことにこだわっていました。それは今でもまだ抜けきれず、心と体のどこかに潜んでいる感じがします。そのような水戸ッポとして、最も自尊心を傷つけられるのが、他人(ひと)さまから見下げられ、蔑視されるような扱いです。この新聞記事の県の魅力度や美肌県グランプリで、全国ランクがブービー或いは最下位だったというのは、侮蔑にはならないとは思いますが、なんとなくそれに近い眼差しがわが郷土に住む人たちに向けられているようで、心地穏やかではありません。40年前だったら、相当に腹が立って、憤懣やる方ない気分になったに違いないのですが、さすがにこの年になっては、その愚かさにも気付くようになり、ほんの少し失笑するだけで終わらすことが出来そうです。

ところで、それにしてもブービーや最下位というのは穏やかではありません。県の魅力度の方は群馬県と並走する形で最下位を競っているとのことらしいですが、自分的には茨城県も群馬県も最下位近くにあるとはとても思えず、世人の見る目のレベルこそが問題であるように思えます。ものごとの真実というのはイメージだけではなく、あくまでも現地のその空気や実物に触れて感じとるものであり、それは比較などするのがナンセンスなのだと直ぐに気づくはずのものです。ま、この調査では、観光地などの有無とその宣伝活動等が大勢を占める要素なのでしょうから、魅力度=人気度という様なことになるのかもしれません。そうなると、茨城県の場合は最下位であっても致し方ないのかもしれません。取り敢えず甘受しておけばいいだけのことで、無理して目立つようなことをするのは不要と思います。

でも、もう一つの美肌県グランプリについては、これはもう礼を失している企画だと思います。どんな思いつきでこのような愚かな調査を行ったのか知れませんが、もし発表するのであれば、ベストテンくらいに止めるべきであり、敢えて最下位まで出すというのは愚かな行為のように思えます。相手はご婦人なのですぞ。だから化粧品をもっと買って綺麗になってくれというのであれば、それは消費者というものを愚弄していることになるのは明らかです。こんなデータをのうのうと発表するような会社の製品は、ワースト10県のご婦人は使うのをボイコットすべきです。新聞では、「働き者だからなの?」と慰め的な見出しが書かれていましたが、どこの県のご婦人だって皆働き者なのですから、単純に労働と美肌の関係が茨城県など下位県にだけ当てはまるとは到底思えません。ふざけた調査だなと思いました。全国八万人を対象にしたとのことですが、興味本位としか思えません。そもそも美肌なんぞというのは、個人差の問題であり、トータルしてそのエリアに美肌にあらずの婦人ばかりが住んでいるわけでもなく、この比較はメリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと思います。美肌の人もおれば、そこまで行っていない人もおる、それは全国どこのエリアに行っても同じことだと、そう思って腹が立ちました。

もう一つの話題として、全国版に載った茨城県民の歌の歌詞についての記事ですが、私自身はこれを読んで初めてそのような県民の歌なるものがあることを知った次第です。参考までにその歌詞を紹介します。

1.空には筑波、白い雲

     野にはみどりをうつす水

     この美しい大地にうまれ

     明るく生きるよろこびが

  あすの希望をまねくのだ

  いばらき いばらき

  われらの茨城

 2.ゆたかなみのり 海の幸

      梅のほまれにかおるくに

      このかぎりない恵みをうけて

   おおしく励むいとなみが

   あすの郷土をつくるのだ

       いばらき いばらき

   われらの茨城

 3.世紀をひらく 原子の火

   寄せる新潮 鹿島灘

   このあたらしい 光をかかげ

   みんなで進む足なみが

       あすの文化をきずくのだ

   いばらき いばらき

   われらの茨城

問題は、この3番の歌詞にあるということでした。この歌が、どんな時に誰がどう歌うのか、メロディーも全く知らない出戻りの自分には、関係ないといえばその通りなのですが、一応は県民なので、歌うのはともかくとして、歌詞の文句ぐらいはやはり気にはなります。一読して、この3番の文語は改めるべきと強く思いました。原子の火がどのような種類のものなのかがはっきりした現在、その光を掲げて皆で足並みそろえての前進が、明日の文化を築くなどとは到底思えません。その火のおかげで、生まれ育った故郷を涙ながらに振り切って去らざるを得ず、未だいつ戻れるかも計り知れぬままに、異卿での暮らしを余儀なくされている何万人もの人たちが厳として顕在することを思う時、この歌詞通りに声を上げて歌う人がいたとしたら、それは異常者としか言い得ない存在です。この3番の歌詞は、即刻削除すべきです。そして、この歌は1・2番だけで充分ではないかとも思いました。その中に茨城県の魅力度も充分に歌い込まれているし、県民の意気を高める力も備わっているように思いました。県当局のどこの誰にその変更の権限があるのか判りませんが、早急に変更して欲しいものだと思いました。

さて、元に戻って、我が茨城県とはどのような場所だったのか、改めて思いを巡らせてみました。私の今までの人生の過ごした時間を県別にざっと挙げてみると、茨城県に29年、東京都に21年、神奈川県と福岡県に夫々7年、香川県に5年、千葉県で3年ほど暮しています。この中で茨城県は生まれてから前半の22年間を過ごし、後半は出戻って8年目を迎えています。神奈川県と千葉県は東京エリアですから、東京と同じと考えると、合計31年となり、生まれ育ち、再び舞い戻った茨城県よりも長い暮らしの時間を他所で過ごしたことなります。関西エリアで暮したことはないのですが、仕事の関係でほぼ全国を回っており、さらにリタイア後のくるま旅でも略全国を訪ねて来ていますので、さすがの水戸ッポも茨城県を見る目がこの間に随分と変わってきているのを実感しています。

今茨城県の印象を一言でいえば、「忘却限界の田舎の地」ということになるでしょうか。忘却限界とは、人々の意識の底に在って、不断は忘れられている存在といった意味で、私の勝手な造語です。茨城県は、大都市圏に隣接した、忘れられても何の支障もないエリアであり、その本質は人々の意識の中では田舎と規定されている場所なのです。

少し前の時代までは、都市部と比較しての田舎を表す言葉に「在」「在所」というのがありました。江戸時代では、現在の区部であってもその殆どが在所だったわけです。それを今の時代に当てはめると、東京を取り囲む隣接県は皆在所の資格を有していることになるのですが、その中で際立った特徴のない場所を多く抱えている茨城県は、最も忘却限界にフィットしたエリアとなり、それが田舎として人々の心の奥に定着しているのではないかと思うのです。つまり、大いなる東京の在所というのが茨城県の不断の存在であるということです。東京が際立って目立つ存在であるがゆえに、その近くの茨城県は、より一層目立たない存在となっているに違いありません。

茨城県に二度住んでみて、同じ県でも県南と県北では全然違うのを実感しています。県北は県都の水戸市を中心に茨城県のリーダー格を自認し、忘却限界を超えたプライドの高さがあったように思いますが、県南に住んでみると県北時代の思い上がりが笑いごとのように思えるほど、地元生え抜きの人の暮らしは豊かで、お寺の建物にも引けを取らない農家の豪邸を見る度に、とても同じ県なのだとは思えません。水戸の者なら、田舎者という評価に対して震えるほどの恥辱を覚えるのかも知れませんが、県南の人にはどこ吹く風といった受け止め方があるように思います。もともと田舎者なのに、何バカなことを言ってんの、という感じです。これは、どう考えても県南の人の勝ちでしょう。

今回の新聞記事を読んで、魅力度だとか、美肌グランプリだとか、世間体を気にすることなどは止めて、言いたい奴には勝手に言わせておけ、という気持ちになりました。私自身も県南に住んで8年目を迎え、これから先もあの世から迎えが来るまでこの地に住むことになるのでしょうから、忘却限界の田舎者に進化しなければならないと思いました。

(但し、原子の火に関しては断固として灯すことを拒否すべき考えに変わりはありません)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夫婦滝の滝守夫妻

2013-02-18 00:34:30 | 旅のエッセー

夫婦(めおと)滝というのをご存知だろうか。この呼び名の由縁は、別々な流れの二つの川が、同じ場所で滝となって流れ落ち、そこから一つに合流して流れ下るという、そのような珍しい場所があることを知らしめるべく名付けられたものなのだ。その場所は熊本県阿蘇郡南小国町満願寺地区にある。やまなみハイウエイの瀬の本から国道442を黒川温泉の方に向かって進み、温泉エリアを通り過ぎ、その先の田の原温泉の少し先がその場所である。「夫婦滝のおみやげ屋さん」という看板のある店の駐車場に車を留め、店脇から下方へ50mほど下りると、緑樹に囲まれた森の木漏れ日の中に、二つの滝が飛沫(しぶき)を輝かせている。左が田の原川の男滝で落差15m、右の方が小田川の女滝で落差が12m。二つともそれほどスケールの大きな滝ではないけど、ここで別々の川の滝が二つ並んでいて、合流しているというのは確かに珍しい。案内板には、日本でここだけと書かれていた。

   

夫婦滝の景観。緑陰に囲まれて、辺りは、二つの滝の吹き上げるマイナスイオンに充ち満ちていた。パワースポットに間違いない。

初めてここを訪れたのは、8年前の九州行の時で、その時は大阪の旅の知人のTさんの紹介をうけて、この茶店を出されているSさんご夫妻もくるま旅をされているので、一度寄られて見てはどうかとの話を聞いてのことだった。夫婦滝のことも聞いていたので、面白いなと思った。突然のお邪魔だったのに、ご夫妻から大歓迎を受けて、とても感動したのを思い出す。その後はなかなか再訪する機会もなくて、年賀状くらいでしかお付き合いが出来なかった。けれども何故か疎遠感はなく、しょっ中お会いしている様な気持の関係だった。何故かしら心がシンクロナイズドする方たちなのだった。くるま旅を始めるようになってから、世の中には自分とは全く違った環境の中に育ち、仕事をし、暮し方をしていても、逢ったその時から、何故か心のふれあいの波長が揃う人が居られるものだということを知るようになった。Sさんもそのお一人だった。旅の面白さはそのような方との出会いが一番なのだと思う。8年ぶりに再会を果たしたのだが、お互い全く違和感はなく、やあ、やあ、どうもと握手を交わした。

お邪魔したご夫妻のお店は随分と賑やかに変貌していた。8年前にお邪魔した時は、夫婦滝を謳った小さな茶店で、確かに珍しい場所ではあるけど、さてこのような場所で、安定的に店の経営を続けるのは難しいのではないかなどと、内心心配したのだった。ご夫妻にお子さんが無く、犬やウサギなどの小動物をとても可愛いがられており、ご主人のアイデアなのか、ワンちゃんの内の一匹が滝までの道を案内する案内犬を務めているのだと伺った。ラブラドール系のおとなしい犬で、賢そうな犬だった。ウサギも放し飼いで、小さな柵を飛び出したのを掴まえるべく、ご主人が走り回っておられたのを覚えている。その時も、ハートマークの絵馬が作られていて、そのうちの幾つかが店脇の吊るし糸に付けられて風に揺らいでいた。それほど多い数ではなく、数十個といった程度だっただろうか。ご主人のアイデアのようで、この夫婦滝を見ようと訪れた若いカップルなどに、絵馬を購入して頂き、滝にお参りする記念に願い事を書いて頂き、それを吊るして残すといった趣向なのだった。優しい心遣いだなと思った。大自然の仲良し風景にあやかって、人間も同じ幸せを願うのは、誰もの素直な気持ちの表れだと思う。その思いを表す手段として、Sさんご夫妻は絵馬を用意したのだった。この企画は大成功だったようである。

    

店の軒先にあふれるおみくじと絵馬の数々。ここをを訪れた恋人たちが結ばれ、やがて子供が生まれ、第2子も誕生。その度にlここを訪れて絵馬を掲げる人も多いという。目を細めながら、滝守ご夫妻はその喜びを語った。

8年前にお邪魔したときは、前述のように絵馬の数はパラパラという感じだっが、今見るその数はとても数え切れるレベルではない。Sさんにお話を伺うと、この絵馬には新客の方だけではなく、一度願いが叶った方が再び訪れられて掲げたものや、更にはカップルにお子さんが生まれられて、その喜びに再訪して絵馬を重ねて掲げる方も居られるとか。つまり、縁結びの絆は一度だけではなく、その後もずっとつながって続いており、一層深まっているとのようだった。吊り下げられているのを一つ一つよく見ると、そのことが良くわかった。Sさんはアイデアマンでもあり、この中立ちの楽しさを来客の方にもより以上に楽しんで頂こうと、石の恋人像や夫婦大神などの祠など、それらしき心の拠り所となるようなもの用意されて居られた。その中には、この地の言い伝えなのか、夫婦滝にまつわる民話を収録した説明板なども用意されていた。それを紹介したい。

「 『むか~しの話たい。湧蓋(わいた)山に、村人を困らせる大蛇がおったと。

小田村の娘・お里は、山菜採りに山に入り、大蛇に捕らわれてしもうた。

小田郷一の力持ち、田の原村の太郎どんは、田の原川、小田川に住む夫婦の龍と力を合わせ、三日三晩戦い、懲らしめ、お里を連れ戻したとさ。

お里は、勇気があり・働き者の太郎どんを、太郎どんは、優しく・思いやりのあるお里を、好きになったと。

夫婦の龍達は、見るに見かねて、太郎どんとお里を二つの滝の水が交わる地で結婚させたそうな。いつの頃からか、この二つの滝を夫婦滝と、呼ぶようになったとさ。めでたし、めでたし。』

今では、若い人たちの間で、出逢いの滝、縁結びの滝と呼ばれています。」

 挨拶を交わした後、我々も店脇の階段を下りて久しぶりの二つの滝に会いに行ったのだったが、その姿は8年前と少しも変わらず、ようやく若葉が揃いだした樹木たちに囲まれて、飛沫(しぶき)を上げながら愛を称(たた)える轟音を響かせていた。周囲はマイナスイオンに包まれていて、ここは恋人ならぬ我々老夫婦にとっても間違いないパワースポットだなと思った。滝から戻って、来客の合間を縫いながらの歓談だったが、Sさんご夫妻と過ごした時間は、旅の喜びに満たされたものだった。

 Sさんは、今やこの夫婦滝の滝守を自認されておられる。8年前までは、トラベルトレーラーを引っ張って、全国を自在に旅されていたのだったが、今はここに改めての新天地を確認されて、全国各地から来訪される方たち、特に男女ペアの来訪者のご縁を取り持ち、そのつながりを固めるというお手伝いをすることを無上の喜びとする滝守となったのだと、感慨を述べておられた。人の絆を深め、強くするという仕事には、何とも言えない魅力が備わっているように思う。先の東日本大震災の折にも、絆の大切さは世界中の誰もが心底実感したことだったが、あのような特別の状況でなくても、ふだんのくらしの中で、私たちにとっては、意識の有無にかかわらず大切なものなのだと思う。そのお手伝いを、滝守の仕事として、Sさんご夫妻はこれからもここに足を据えられるのだなと思った。ご自身は旅をされなくても、周りの世界がこの場所に出会いを求めて来訪し、その出会いを深める手助けをされるということは、よく考えれば、定点にいても旅をしているのと同じことになるのかもしれない。Sさんご夫妻の笑顔の中には、旅をしている者と同じ笑顔があったと感じたのだった。    (2012年 九州の旅から)

 (近くを通られる折には、ぜひ夫婦滝に寄られてはいかがでしょうか。ポニーテール風の頭のSさんのご主人と、美人の奥さんがあなたの出会いを深めてくれるはずです) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早春の花二つ

2013-02-12 06:12:06 | 宵宵妄話

今年に入ってからの歩きは好調で、先月の一日の平均歩数は1万5千歩を突破し、今月に入ってもこのペースは守られています。昨年は歩くことに疲れを覚え、一段と老化が進んだのを実感しましたが、今年に入ってからはどうやら一山を乗り越えた様で、少し元気が戻った感じがしています。疲れを感じながらの歩きは野草観察などの楽しみが減じて、自分の今までの世界が縮まってしまうような心配に取りつかれていたのですが、今年はどうやら大丈夫のようです。

今日も気分よく7kmほどを歩きました。歩きの途中で、確実に春に出会いました。今年は例年にない寒さが続き、それに馴れておられる筈の北国でも、連日の大雪や烈風などの悪天候で、いつもとは違うご苦労が絶えないとの話を聞いています。もう2月も半ば近くになり、例年ならば早咲きの梅の開花や、河津桜の便りなどが届いたりするのですが、我が家の近くでは春を感じさせるものが殆ど無く、真に殺風景な佇まいばかりなのでした。

ところが、道脇の畑の陽だまりのぬくもりの中に春告草が群れて花を咲かせているのに気づきました。この雑草扱いの野草は、正式の名前は「オオイヌのフグリ」というのですが、幾らなんでも花とは似つかない名前なので、私は勝手に「春告草」と名付けています。というのも、早春の花の中では真っ先に春を告げてくれる花だと思うからです。楚々たるブルーの花びらの群れは、厳しい寒さを切り拓いて、春が来たことを毅然とした姿で教えてくれています。カメラの能力が無いので、花の中にまでもぐりこんでの撮影が出来ないのが残念ですが、拡大鏡で見る花の中の世界は、疑いもなく鮮やかな青い春色の世界です。早春を過ぎると、付近に他の草たちが勢いよく、より大型の花を咲かせるため、この花の存在は雑草の中に埋没してしまうのですが、この季節は野の花の代表ではないかと私は思っています。今日、それに気づいたのは大きな収穫でした。

   

道脇の畑の陽だまりの中に群れて咲く春告草たち。もうずいぶん前から花を咲かせていたのに気づかなかったのは、寒さで気づく力が凍結してしまっていたのかも。

もう一つ、本来ならば年末辺りから咲き出すこともある蝋梅の花が、ようやく最盛期を迎えているのも、春が確実に前進しているのを教えてくれています。住宅街を歩いていると、塀の中の立ち木からこの花の香りがそこはかとなく漂ってきます。冬の花といえば、サザンカくらいしか見かけず、香りにも気づきませんが、この花の香りにはある種の気品があり、直ぐに気づくのです。

蝋梅といえば秩父の宝登山が有名ですが、今年は寒いので、これからが見ごろを迎えることになるのかななどと思ったりしながらの歩きです。一面が黄色い透明感のある花に囲まれた世界は、何とも神秘的で、梅や桜とは違った味わいがあります。宝登山はここからは遠くなってしまったので、今日は植木屋さんの畑に植えられた一本の蝋梅の花の中に、その世界を描いて忍び込んでみました。「壷中の天」ということばがありますが、一本の蝋梅の木に咲く花の世界の中にも、宝登山の樹林の花の世界に引けを取らない世界があることを実感したりしています。

   

歩きの途中、植木畑の中に満開の花をつけた1本の蝋梅の木を見つけた。もう最盛期を過ぎた様で、春の到来を告げる役目は完遂している風情だった。

なかなか心和む話の少ない毎日ですが、せめて春を告げてくれている花たちの声を聴きながら、寄り華やかな春の到来を待つことにしたいと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒のラマダンに入る

2013-02-08 00:51:25 | 宵宵妄話

 今月の1日から酒のラマダンに入りました。期間は2カ月の予定です。3月31日までは、一滴の酒も口に入れるのを控えるという、何とも凄まじい英断的な取り組みです。

おことわりしておきますが、イスラム教の方のラマダンとは違います。そのような宗教上の大それたことではなく、イスラム教信者の方たちに倣って、不断の不節制の戒めを己に架すために、その名を借りて休酒へのチャレンジに入ったという話です。四方に大っぴらに休酒の話を振り撒くことによって、自縄自縛の状況をつくり上げておこうという、いつものやり方なのです。

話は変わりますが、私は公言している通りの20年来の糖尿病患者です。守谷市に転居するまでは、専門医の定期チエックを受けながら、ずっと正常値の範囲を保って来ていました。ところが転居後に受診した病院では正常値だったが故なのか、毎月大した問題もなくただ決められた薬を貰うだけでした。それだけなのに、予約していても毎回長時間待たされて、診察は1~2分というバカバカしさに腹を立て、通院するのを止めてしまいました。自己管理でも何とかやって行けるという自信は十分あったのです。

ところが上手くいっていると思い込んでいた自惚れが、あっという間に過信につながったようで、2年ほど前に偶々他の病で受診した際の血液検査で、ヘモグロビンa1c(=Ha1c)の数値が7.2というレベルに至ってしまっているのを知らされ、たちまち猛反省を余儀なくされたのでした。

ヘモグロビンa1cというこの数値の科学的な説明は、難し過ぎて到底不可能なのですが、自分的には医師の話から、血液中の1カ月ほど前の血糖の過多状況を示す数値だと思っています。糖尿病の血糖コントロールに、指標として最重要視されている数値といわれており、医師の説明では、5.8以下くらいのレベルであれば安全範囲なのだとのことです。7.2というのは、明らかに要注意レベルで、このまま今の暮らしを続けていれば、インシュリンの注射も必要となってしまいそうです。

2年ほど前の何時の頃からか、足裏に異常感を覚え出していたこともあり、もしかしたらこれは合併症が顕在化してきているのではないかと不安になり、もう一度専門医に診て頂くことを決心したのでした。いろいろ調べた結果、つくば市にそれらしき専門医が居られるのを知り、一昨年からそこで定期的に診察を受けています。幸い、足裏の異常は糖尿病からではないとの診断でした。

その後1年半かけて、初心(?)に戻っての食事管理に取り組み、体重を4kgほど減量させ、その甲斐あって昨年11月の診断では、Ha1cも6.2となり、大幅に改善するに至りました。医師からは、これからは毎月ではなく、隔月の受診でOKとの指示を受けたのでした。ここまでは順調に進んだのです。

ところが、先月下旬の受診結果では、初めての2カ月後診断だったのに、Ha1cの数値が一挙になんと1%もアップして7.2となっていました。全く元の木阿弥に戻ってしまったのです。まさに「九仞の功一簣に欠く」という惨状でした。凡そ1年半近くの節制の努力が一気に消失したという状況です。その原因はよくよく承知しています。年末から正月明けにかけての、食べ過ぎ、飲み過ぎに尽きるのです。そして、その根底には、多少数値が上がったとしても、その気になって取り組めば、いつでも下げることが出来るという思い上がりがあったのでした。要するに確信犯のようなもので、悪化するのを見越しながら、為してはならないことを為した結果なのでした。ですから、予め予想していたことであり、驚くには値しない筈なのですが、実のところは、驚きも大きくショックを受けたのでした。

というのも、多少の飲み過ぎや食べ過ぎの傾向があったとしても、僅か2ヶ月足らずの間なのだから、いくらなんでも7%台にはならないだろう、それほど回復力が弱まっている筈もなかろうと高を括っていたのです。ところが結果といえば、それが過信だったということをいやというほど見せつけられたのでした。これほど高い数値に至るとは思いませんでした。こりゃあヤバイぞ、という恐怖交じりの反省となりました。

古希を越えてから早や3年目に入っていますが、このところ一段と老化の速度が速くなっているのを実感しており、これに反比例して諸々の身体的回復力が遅くなり出しているのを感じています。それを承知しながらも、もう若くはないのだと思い決めるには、未だかなりの抵抗感があるのです。素直でないという性格は真に厄介なもので、他人様以上に自分に対してもそのような扱いにくさがあるため、これは我ながら真に困ったことです。しかし、気持だけでは生きられないというのが、生きものとしての人間の宿命ですから、身体の相対的な劣化は防ぎようがないことを、自覚せざるをえません。

ま、そのような自覚もあって、念頭に「微酔半酣」などというお題目を掲げて、自戒にこれ努めようと考えたのでしたが、年明けて初めての検診結果は、そのような御託を並べるだけでは何の役にも立たないということをたちまち厳しく宣告したのでした。これは糖尿君の怒りの鞭だったと理解しています。この不治の病は、真面目に節制をしている限りは、決して鞭を振るうなどせず、多少の微笑みを以って付き合ってくれるのですが、少しでも思い上がって節制を忘れると、たちまち容赦もない厳しい鞭が飛んでくるのです。それは、この頃話題となっている体罰以上のものであって、究極に控えているのは病苦の責めとあの世への暗い道だけなのです。

それで、再びこの事態を何とかしなければと取り組むことにしました。つらつら思うにどうしてこうなってしまうのかといえば、やはり究極の要因はアルコールにあるようです。蒸留酒中心にするなど、この頃はかなり酒の種類や量をコントロールしてはいるのですが、どうしても酒を飲むと食べるものが何でも美味くなってしまって、カロリーオーバーの引き金となってしまうのです。「酒無くて何の人生ぞ」というのは今でも捨てるつもりのない信念であり、酒となら心中しても悔いなしなどと意気がるほどなのですが、良く考えると、死んでしまったら酒は飲めなくなってしまいます。生きていればこそ酒が飲めるというものなのです。酒は止めたくはなし、されど死にたくもなし、とまあ、あれこれ葛藤の結果出した結論は、とにかくしばらく休むしかないということでした。そしてHa1cが6.2を切ったら、その後は注意深く酒呑みを再開しようということでした。

そのような思いを固め、どうしようかなと考えていた時、同じ酒呑みの親友のことが気になり、久しぶりにご機嫌伺いのメールをしたのでした。彼も私と同じように糖尿の数値が本格化しており、同病相憐れむの仲間なのでもありました。直ぐに返信が来て、その中に「2月から2カ月間の酒のラマダンに入る予定」と書かれていました。おっ、なるほどこれは良い思い付きだなと思いました。たちまち、よしっ、俺も一緒に始めようと決めたのでした。それが1月の21日のことです。その時には酒の在庫が未だかなりありましたので、それらを月末までにきれいに平らげ、今月の1日から予定通りラマダンに入ったという次第です。勿論、彼にも一緒に開始した旨を伝えてあります。一人よりも二人、二人よりも三人の方が長続きし易くなるのですが、今のところ酒呑みの親友といえば、彼一人だけなので、二人で慰め合い、競い合い、楽しみ合いながら3月31日を迎えたいと思っています。

スタートしてから丁度1週間が過ぎました。まだ、禁断症状は出ていません。今月下旬に専門医の定期検診の受診がありますが、その頃までには少なくともHa1cは7.0以下にはなっていなければならないと思っています。さて、どうなりますやら、我ながら呆れ返るような愚かなチャレンジが始まっています。

<旅の話ばかりでは、当方も疲れますので、時々このようなバカな話もさせて頂くことにしました。>

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古き人事異動

2013-02-04 06:36:02 | 旅のエッセー

 相良(さがら)といえば、直ぐに思い浮かぶのは、静岡県の相良町(現牧之原市)である。40年近くも前、家内の二番目の妹が嫁いで、一時その近くに住んでいたことがあり、「相良」と書いて「さがら」と読むのだと初めて知ったことを思い出す。その相良という地名が静岡県以外のエリアにもあるなどとは考えたこともなく、今回の旅で熊本県南部の人吉を訪ねた時、その近くに同名の相良村というのがあるのを知り、あれれ、と思った。その後、人吉城址を訪ね、その近くの人吉城歴史館というのに寄り、鎌倉初期以降この地は代々相良氏によって治められて今日に至っていることを知り、改めて自分の無知ぶりに気づかされたのだった。相良村というのも、人吉城の支配者の相良藩に何かの係わりがあるのだろうと思った。しかし、後で調べたら、この村は相良藩とは直接は係わりがなさそうで、昭和に入って戦後の合併の際に生まれた村名とのことだった。ま、しかし相良氏の影響力は地名として使われるほどだったということであろうか。

さて、そこで思ったのは、どうしてこの人吉に相良氏なのかということである。歴史館の説明資料によれば、相良藩の藩祖は鎌倉時代に頼朝の命令によって、遠江国(とおとうみ)の相良からこの地人吉庄の地頭として赴任したとのことである。やはり静岡県の相良と関係があったのだ。今から凡そ800年前の人事異動によって、この藩が始まったということになる。往時の人事異動というのはどのようなものだったのか知る由もない。

昨年の大河ドラマは平清盛一族の盛衰を描いたものだったが、その平家を倒した源氏の惣領が頼朝だったわけで、鎌倉幕府の創設者であり、その治政の仕組みとしての守護と地頭については、名前だけの知識はあるものの、その実態については殆ど何も知らないと言って良い。それで少し歴史の勉強をし直すことにした。旅での訪問でここまで突っ込むと、これから先が思いやられるなと思いながらも、楽しみの一つとしてほんの少しばかり歴史を齧(かじ)り直すのもいいんじゃないかと思った。

鎌倉時代というのが武家政治の始まりだというのは知っているけど、奈良・平安と続いた時代が一体どういう国家であり、全国に住む人々の暮らしの実態がどんなものだったのか、殆ど知らない。いわゆる貴族という人たちの暮らしぶりの記録や遺品のようなものは残っているけど、一般大衆がどのような暮らしをしていたのかについては、皆目見当がつかないのである。馬の骨を自称する自分としては、馬の骨ほどの存在の一般大衆層の人たちが、どんな所に住み、どんな暮らしをしていたのかをもっと知りたいのだが、その辺の情報は全くと言っていいほど無い。

昨年の大河ドラマは不評だったとのことだが、自分としては、あのドラマの幾つかの場面に使われた、往時の一般大衆の暮らしの景観が余りにも少ないことが不満だった。概して日本の映画やTVドラマは、戦国時代以降の出来事をテーマとするものが殆どで、それ以前のものといえばせいぜい平安時代までで、それも朝廷や公卿などの上流社会ばかりを取り上げるだけである。彼らを支えていたはずの一般大衆の姿はどこにも見えないといったものが多すぎる嫌いがある。ま、そんな古い時代の一般大衆の中に話題性を探すのは難しいから仕方がないとしても、TVの画像などなら、より忠実により多くの場面の大衆の姿を描くことによって、貴族の社会もより鮮明に描き出されるのではないかと思う。その点、韓国の古代史に係わる作品を見ていると、その辺りが優れているように思うのは、やはり国の歴史の長さの差なのかと思ったりする。

さて、その武家政治の始まりだけど、その種まきは鎌倉幕府ではなく、やはり平家を一代で政治の表舞台に引き上げた平清盛だったと思う。武家が政治のかじ取りをしたという意味で、平清盛は一大風雲児であり、その功績は大きい。ただ、武家独自の政治スタイルを生み出すには至らず、天皇や公卿の政治スタイルの中に巻き込まれたというか、抜け出せなかったと言える。その子孫たちが、公達などといわれ、瞬く間に武家の公卿化に馴染んでしまったということがそれを証明している。これを新たな武家の力を以って、武家本位の政治スタイルに持って行ったのが源頼朝だったと言える。

頼朝という人は、その弟の義経との係わりなどを見ると非情の人という印象が強い。自分的にも義経のファンの側にあるのだけど、何故頼朝が非情だったのかといえば、憶測するに、頼朝から見て腹違いの弟の義経は、どうやら平家と同じように公卿指向の発想があるように思えたのではないか。義経の一連の言動の中に、守旧派思想の臭いを嗅ぎつけたのかもしれない。天皇とそれを取り巻く公卿どもの政治を武家のものとするには、弟の義経は大いなる障害だと思い極め、これを排除しなければならないと決断したのではないか。もし、義経と一緒に政治を動かすことになれば、武家主導の道が危うくなりかねないと考えたのであろう。義経は戦の功も大であり、天皇や公卿からの人気も大だった。平家打倒に関しての考えは一致しているものの、新たな武家政治の確立となると、その方法論において道は別れ、後顧の憂いを為すと考えたのではないか。本当のことは解らないけど、そのような感じがする。

その頼朝の鎌倉幕府の政治体制の基幹となるものが守護・地頭という仕組みなのだが、元々はこれらの役割は国を治めるための朝廷(=天皇・公卿)側にあったわけで、その支配権(任免権)を鎌倉幕府が武家サイドに譲渡させた(?)ということらしい。武士という武力を背景とする権力を以って、守護・地頭の名のもとに全国の経営権を幕府が握ったわけである。その当初は朝廷サイドの影響力も残っており、荘園経営などにおいては二重支配、経営という状況だった箇所も多かったということだが、やがて朝廷側の支配力は武家に淘汰されて行ったようである。このような見解はあまりにも単純過ぎるのは承知しているけど、大ざっぱにいえば、そうなるのではないか。

このような政治体制の中で、頼朝から派遣された御家人の一人が相良氏だったということなのであろう。元々鎌倉幕府は東国の源氏が中心となって惣領の頼朝を援けて成立したものであり、西国や九州への影響力はさほど大きくなかったのだと思うけど、それにしても、遠江国の相良からやって来たというのは、これはもう大変な遠距離赴任だったのではないか。現代でも、静岡県の海に近い牧之原市(相良は御前崎の直ぐ近く)から九州の山奥の人吉へ行って暮すとなると、かなり勇気がいるのではないか。往時の相良氏が遠江国で何をしていたのかは判らないけど、地頭として遠地に赴くに当たっては、この仕事が彼らにとって極めて魅力的で重要なものだったということなのであろう。革命成功の進取の意気込みと決死の覚悟を以ってこの地にやって来たということではないか。そう思った。

その赴任以来、地頭から戦国大名に成り上がり、これを生き抜いて、さらに徳川幕府下でも生き抜き、明治維新に至るまで800年もの間、多くの難関を耐えて乗り越え、この地を動かずに支配し続けて来たということは、称賛に値すると言って良いのかもしれない。3万石足らずの小藩ながら(だからこそ存続が可能だったのかも)、様々な難事を乗り越えて長い期間経営を続けられたというのは、それなりの善政が行われていたという証の様な気もする。人吉市は球磨川の上流域にあって、胸川などの支流が合流する小さな盆地にあり、人吉城址に上ると、往時からの交通・交易の要衝であったということが一望して理解できるのである。

     

人吉城址から西方に広がる人吉市街を望む景観。四方を山に囲まれた小さな盆地は、球磨川水系がつくり上げた天然の要衝地だったことが解る。

   

石垣には、その城を築いた先人たちの想いが多く一緒に積まれているように思うのだが、この人吉城も球磨川の石を多く使って何代にも亘って築き上げられたようである。3万石足らずとは思えない、スケールの大きい城だった。

それにしても、800年前、初代の相良長頼という人は、どのような志を抱いてこの未踏の地にやって来たのだろうか。初めてこの地を訪れてみて、その古の人の、その勇気というか、エネルギーの大きさに心を打たれたのだった。 (2012年 九州の旅より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする