山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今年の北海道の旅の楽しみ

2018-04-26 00:46:27 | くるま旅くらしの話

 春が来て定着し始めたなと思ったら、今度は間近に夏がやって来て、今現在は春と夏とが組んず解(ほぐ)れずのせめぎ合いをしているようだ。気温の落差が大きいのは、老人には何とも迷惑なことではある。

 さて、今年の北海道行のことについて思いを披歴したい。間もなく5月の長期間連休が始まる。昨年はこの期間を挟んでの東北の春を巡る旅の中で、車の故障という出来事があり、修理に待ち時間を入れて半月もかかって、その後の旅を断念して戻るという変てこりんな事件に遭遇した。この苦い経験から、やっぱり連休の期間の旅は避けることにしている。その代わりに、じっくりと今年の北海道行を考えている。

 今年の北海道行には二つの特別な思いがある。一つは家内と人生を共に歩み始めてから50年を迎えること。もう一つは愛すべき北の大地が北海道と名付けられてから150年を迎えること。この二つの思いから、今年の北海道行は今までの避暑的な緩い気持の旅ではなく、この後の生きる時間の中で何か記念に残るような旅としたいと考えている。勿論のんびりゆっくりの基本姿勢を変えるつもりはないのだが、それ以外にもう一つ何か目的的な旅をしたいと考えている。

 それではどのような旅をすればいいのか。今年に入ってからあれこれと思いを巡らして来たのだが、それがようやくまとまりかけている。自分たちのこれからの旅の大きな目的として、「日本国の来し方を訪ねる」というテーマを掲げることにしているのだが、これに基づいて北海道のことを調べたりしている内に、北海道の来し方は日本国と同じではないということに気づいた。北海道という名が付けられるまで蝦夷地と呼ばれていた北の大地は、アイヌの人たちが住む世界だった。文字をもたなかったアイヌの人たちの歴史を知ることは、素人の自分などには到底無理な課題だということを思い知らされた。

江戸時代に入って、東北からやって来た松前藩が治世に係わるようになってからは、アイヌの人たちの世界は大きく乱れて滅亡に向かい始めたようである。松前藩の場所請負制という身勝手な藩士への俸禄制度は、近江商人などの介在を通してアイヌの人たちからの富の収奪に明け暮れて、幕末から明治に至るまでの間にアイヌの人々の人口を大幅に減少させたのである。このようなことを知識として知って見ても、それは北海道を知ることにはつながりにくいのではないかという疑問が拭えなくなってきた。

 そのようなことから、日本国であっても蝦夷地というのは来し方を訪ねるには重すぎると思うようになった。それでずっと迷っていたのだが、ここに来てようやく辿り着いたのは、そうだ、来し方の範囲を明治以降にすればいいのではないかということだった。まさに蝦夷が北海道となってから、今日に至るまでの150年間に、一体どこでどのような暮らしの歴史や出来事があったのかを、訪ねながらの旅としようと気づいたのである。

 それで今回の旅を「北海道生誕150年の今めぐり旅」と名付けることにした。このテーマに辿り着くまでには、北海道の名付け親と言われる松浦武四郎や樺太探検で名を馳せた間宮林蔵、或いはもう少し前の時代に蝦夷地まで足を延ばしての旅をした菅江真澄の残した記録などを何冊か読んだのだが、考えてみればそれらの知識は北海道150年の歴史を知る上での基盤となるだけであり、明治からスタートした北海道各地の開拓の実際がどうだったのかには直接役立つとは思えないことに気づいた。

唯一北海道開拓の歴史が始まったばかりの頃、往時の道南辺りを旅した、イギリス人女性のイザベラ・バードという方が著した「日本奥地紀行」の「北海道アイヌの世界」という本(東洋文庫)が興味をひいて面白かった。明治11年に来日して、僅か7ヶ月の日本滞在の中で、主に東日本の各地を旅したこの人の記録は、往時一歩も二歩も先を行っていた英国人の鋭い文明感覚で記されており、これは開拓を開始した往時の北海道の有り様を知る上で大いに参考になると思った。

 今までにも例えば札幌市厚別区にある「北海道開拓の村」とか旭川の「アイヌ資料館」或いは網走にある「北方民族博物館」などを初め幾つもの北海道の歴史を語る場所を訪ねてはいるのだが、大した問題意識も無いままに野次馬気分での訪問だったので、しっかり記憶に残っている事柄は殆ど皆無に近い。北海道を旅するようになって20年以上も経つのに、今頃になってこのような大事なことに気づくとは、我ながら呆れ返るばかりである。

北海道開拓の歴史に関しては、自分よりも家内の方がはるかに先を行っているのではないかと思っている。北海道開拓の村には、そこでガイドをされている方と知り合って、親交を深めており、見聞にも力を入れているようである。その中身がどんなものかは知らないけど、今年は家内のレベルに追い着き、そして追い越さなければならないなと思っている。

 先日ようやく旅の出発日程と函館上陸までの行程の計画を決めた。5月の26日に出発して、東北の何箇所かを巡った後、函館上陸を5月31日と予定している。上陸した後の行程はまだ決まっていないし、決めることは困難だ。凡そのコースだけは描いているのだが、それは渡島半島の日本海側を通って余市まで行き、その後小樽、札幌経由で苫小牧方面に向かい、そこからは太平洋側を辿って襟裳岬に至り、その後は知人の住む中札内村などを通ってから十勝(帯広など)を経由して釧賂に向かい、6月中旬の頃に厚岸町に隣接する浜中町の散布(ちりっぷ)という所にある原生花園と思しき場所に、ハクサンチドリが群落をつくっているのを見なければならないと決めている。

 この間の行程では、通過する幾つかの町村にある開拓の歴史に絡む資料館や記念館などを訪ね、役場などを訪問して資料などを頂戴しながらゆるりと旅を続けたいと考えている。一体どのような旅となるのか。楽しみが膨らむのと合わせて、このような大げさな思いつきを言いふらしてしまって、もし何もしなかったら、大嘘つきの大恥かき者となってしまうことにかなりの不安を抱えているのが正直な現在の心境である。今のところ、先ずはここまで。

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衰微するふるさと

2018-04-22 05:13:29 | 宵宵妄話

 先日今年になって初めて故郷の常陸大宮市を訪ねた。年に2~3度くらいは故郷を訪ねているのだが、何時も実家にある畑の草を刈ってはトンボ帰りの帰省なので、ふるさとの様子をじっくり見る機会は殆どなかった。それが今回は1日余裕を持っての帰省となった。というのも、2年ほど前に実家から車で10分ほどの場所に、新しく道の駅(常陸大宮かわぷらざ)がオープンして、一度泊って見ようと思いながら実現できなかった、その念願が叶ったのである。

 常陸大宮の道の駅は、重点道の駅として地域振興の拠点としての役割を果たすことになっている。まだ2~3度しか訪ねていないので、どの程度活性化が図られているのかは判らないが、覗いた限りでは近郊の大子町や常陸太田市の道の駅と比べると、来客も多いようで、それなりの賑わいを見せているようである。

 自分は全国の多くの道の駅を訪ねてお世話になっているので、どこの何という道の駅が地域の拠点としての機能を果たしているのか、それがどのような工夫によって支えられているのかについて、多少なりの情報は持っており、それをもとにこの道の駅がどれほどのものなのかについて、見当をつけることができると思っている。我が郷土の常陸大宮の道の駅については、まだ評価を下すのは早いと思っており、その内にいずれ内容などを分析して道の駅サイドに何らかの提言などをしてみたいと思っている。

 今回はそのような活性化の話ではなく、その反対の、かつて町や村の中心だった地域の衰微を見て驚きを禁じ得なかったことについて書いて見たい。

先ずは玉川村駅周辺の小さな商店街のこと。JR水郡線に「玉川村」という駅がある。これは全国でも珍しい駅名だそうで、「村」という名がつく駅名はここだけだと聞いている。今から70年前、自分は当時まだ玉川村だったその村の村立玉川小学校に入学した。家からは子どもの足で歩くと1時間以上はかかる通学距離だった。小学校と中学校は列車には滅多に乗る機会はなく、それでも駅前の商店街に行くと、いろいろなものを売っている店があり、その賑やかさに胸を躍らせたりしたものである。高校になって水戸まで通うようになると、玉川村駅から毎日SLに乗って通学することになった。毎日お世話になる駅には駅員さんが何人かいて、忙しいのか暇なのか、とにかく国鉄の制服には一種の憧れのようなものを感じていたのを思い出す。

高校を終えて大学も水戸にあったので、同じ玉川村駅からの通いは変わらなかった。いつ頃からSLが無くなり気動車(ディーゼルカー)となったのか覚えていないが、駅員さんの数などは大学を卒業するまで変わらなかったように思う。それが、国鉄が民営化されてJRとなってから、一挙に赤字線は廃線や無人化が進み、我が玉川村駅も無人駅となったようである。水郡線が廃線を免れたのは、水戸と郡山を結ぶローカル線として無くすわけにはゆかなかい位置づけがなされていたからなのかもしれない。とにかく今でも朝夕には通勤や通学のニーズは消えてはいない筈である。しかし、自分が利用していた頃の賑わいは最早消え果てて、最小限の利用者しかこの駅を必要とはしていない感じがした。

 駅の小さな広場に旅車を置いて、駅舎の中を覗いたが、誰もおらず静まり返っていた。駅舎は建て替えられていて、自分たちが利用した50数年前の姿とは全く違っていた。待合室などは超小型化され、只の通過改札と切符入れがあるだけで、奥の方に何やら交流センターらしき看板が掛っていたが、人は誰もいる様子はなかった。一回り二回り小さくなった駅舎は、それでも以前よりは新しさを覚える造りとなっていた。

JR水郡線玉川村駅の景観。以前の駅舎はこのようなモダンなものではなかったが、もう少し待合室は大きかったように記憶している

玉川村駅のプラットホーム。線路は往時の頃と変わっていないように思えたが、その昔はこのような歩道橋はなく、線路を横切って向こう側へ行くようになっていたと記憶している。

 駅舎はともかく、駅から50mほどのまっすぐな道路は、そこで駅前を通る村のメインの道路とT字型の交差点となるのだが、往時はそのメイン道路の左右100mほどの両側に村の主な商店が並んでいたのだった。往時はスーパーなどなかったから、個々に思い思いの商品を扱う店が一通りは揃っていたのである。その中には学校の同級生の親の経営する店もあって、何となくそこの息子や娘たちにコンプレックスを感じたものだった。自分の住む集落は山奥の開拓地で、何と中学卒業近くまで電灯も無かったのである。山小屋の灯ではないけど、その頃は毎晩暗くなる前にランプのホヤを磨くのが自分の仕事だったのである。だから賑わいのある駅前に住む人たちには大きな落差を覚えていたのだった。

 さて、それから50数年が経って、駅前は昔の面影を残すようなものは何一つ残っていない感じがした。その昔羨ましがった同級生の親の経営する店は消え果てていた。跡を継いだ彼は不幸にも30年以上も前に病死したと聞いており、その後を誰がどうしたのかも知らない。その他の店も昔の記憶につながるものは何一つ残ってはいなかった。商店といわれるようなものは殆ど無くなっており、辛うじて昔はなかった菓子店が一軒あっただけだった。

 あの昔の小さな賑わいの世界は一体どこへ消えてしまったのだろう。まるで竜宮から戻った浦島太郎のように、衰微した昔の商店街の残骸を見るのは辛かった。たった50年そこそこの時間で、これほど変転衰微する世界を誰が予想できたというのか。あまりにも大き過ぎる断絶的な違いに、複雑な気持ちとなった。

 また、玉川村だけではなく、現常陸大宮市の源となっている旧大宮町のメイン商店街を久しぶりに車で通ったのだが、こちらの方も賑わいを見せていた旧市街の方は、玉川村と同じように衰微していたのに驚かされた。現在の商店街は、バイパス通りの方に移ってしまっており、そこを通ると全国どこにでもあるような大型ショッピングセンターや各種専門店が並んでおり、広い駐車場には数多くの車が停まっているのだが、旧市街の通りの商店街は、閑古鳥が声もあげられずに断末魔の様相を呈しているのである。より大きな都市ならばシャッター通りとなるのだろうけど、小さな地方の町では、シャッターすらも消え果てている感じだった。破壊と創造は世の進化の常とは言うけど、このスピ-ドにはためらいを覚えるばかりである。こんなに早いスピードで世が変わってしまっていいのだろうか。過去どころか、現実も良く捉えきれないままに次の未来がやって来るというのは、異常というしかないのではないか。

 しかし一方で、この故郷をいわば捨てて旅だった一人に、自分がいることを思わないわけにはゆかなかった。今年老いてそのことを後悔するつもりはないのだけど、それにしてもこの衰微の激しさはこの後にどのような世の中をつくってゆくのか。誰も止められないままに一層の衰退の道を歩くのか。それとも行くべき所まで行って、都市と田舍の位置づけや役割が決まるものなのか。この先どうなるのか想像もつかない。

大都市が必ずしも暮らしやすいとは思えないのだけど、人間の欲求を満たす場として大都市の存在があるとすれば、この先も大都市は廃れることはないのだと思うし、そうなると田舍に代表される地方地域は、老齢化の挙句に無人地帯となって自然に還元されて行くのかもしれない。いわゆる限界集落もしくはそれに近い高齢者の住むだけの世界が、わが故郷にも迫り来たっているのかも知れない。と、一層複雑な気持ちが膨らんだのだった。

半世紀前までは、「ふるさとは遠きにありて思ふもの、‥‥」という感覚が普通だったのだが、今ではそのような懐古の思いは届かない世の中になってしまっているのだと、改めて思った。

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老友懇話会

2018-04-15 06:21:52 | 宵宵妄話

 毎年4月の前半の時期にこの集まりがある。何年か前に親しき知人即ち我が親友の提案で、5人の仲間を誘って一夜懇談の時を持とうということになった。直ぐに賛同して、偶々自分の住む守谷市に、あつらえ向きの施設があり、そこで最初の集まりが実現したのだった。今年も先日そこで懇話会が開催されたのである。

 5人共に同じ大学を同じ頃に卒業して社会に旅立った。その歩んだ道は皆全く別々なのだが、お互いに各自の歩んだ世界に関しては、さほど興味関心は抱いていないし、何故このメンバーとなっているのかも良く判らないという、そのような連中の集まりなのである。我が親友が核となっての集まりであることは間違いないのだが、そのような経緯(いきさつ)などどうでもいいことなのである。確実なのは、5人合わせた年齢が385歳以上となること、即ち全員が疑いも無い後期高齢者なのである。それゆえに詮索無用の懇談ができるのである。

 その5人がチエックインを済ませた15時半過ぎから、たちまち部屋での懇談に入り、夕食を済ませた後も22時過ぎまで話を続けたというのだから、これはまあ奇特な連中だというべきものなのかもしれない。形だけの乾杯の後は、酒を飲むのは二人だけで、あとは少々の菓子などをつまみながらお茶を飲むだけ。歌もカラオケも無く、只管(ひたすら)次々出される話題に身を乗り出すという状況だった。

 話題は多岐に亘った。それらを一々書くのは控えなければならない。5人で共有した話をこのような場で披歴するのは、軽薄過ぎる行為となる。ま、歳相応の健康論から始まって、夫婦間の出来事などを含めた暮らしのあり方、更には古墳時代や弥生・縄文などの文明論的な話題から、将又(はたまた)都市の活性化に係わる地勢論など、途方もなく膨らんだり、又ごく身近な老人の暮らしのあり方などに絡む話題となったりして、いやあ、飽きることなく話は続いたのだった。

 自分的に、一つだけ心に止め置かなければならない話題があった。それは夫婦のあり方、即ち老夫婦関係論であり、老の生き方についてである。話題の中に、夫婦二人暮らしに破綻が生じたのをどう修復するかというようなテーマがあった。熟年離婚というのがあるけど、我々は既に熟年などを通り越して、まさにこれから先は夫婦二人が力を合わせて生きて行かなければならない歳回りになっているのに、破綻を生ずるというのは、人生において不幸極まりない事態と言えよう。

 しばし議論があったのだが、どう考えても、最早これには対策も解決法も無いのではないか、と思った。そうなった以上は同じ鞘に戻るのはもう放念して、当事者夫々が残された人生を自ら如何に生きるかを考えるしかないのではないか、と。自分はそう思った。そしてそれ以上に強く思ったのは、自分はそのような事態を決して招来させてはならないということだった。

 どのような夫婦においても、常に円満などということはあり得ない。不満があっても、お互い我慢の範囲にあるというのが普通なのだと思う。ま、振り返って自分たちのことを考えてみると、今のところお互い我慢の範囲にあるようなので、破綻に至るようなことはないと思っているのだが、家内からは時々自分が暴言を吐いてハラスメントまがいの状態にあると言われている。本気で怒るから、それが暴言に聞こえるのであろう。暴力を振るったことは金輪際無い。「女を殴るような男は、理由の如何を問わず最低だ」というのが信念であり、それを破ったことはない。ま、そのようなことは当たり前であり、自慢するようなことではないのだが、家内への暴言が立派なハラスメントとなっているのであれば、要注意となるのかもしれない。これからはそのような時は「金」の行動をとるようにしたい。即ち「沈黙は金」である。しかし、あまり「金」の行動を長くするのは控えることにしよう。沈黙が「無視」に変わるようなことになったら、破綻を近づけることになりかねないからである。

 一つ大きな反省をさせられながら帰途に就いたのだった。それにしても、この集まりは貴重だなと思った。いろいろな集まりがあるけど、本当に話したいことを話せるような場というのはそれほど多くはない。この歳になると、ともすると後ろ向きの話となりがちなのだが、前を向いての話は、生きる力に更なる活力を与えてくれる感じがする。これからの老をしっかり生きて行くためにも、この集まりを大切にしたいなと思った。お互い来年の再会を約しての散会となったが、全員が責任を持って健康を維持して、今度はもっと前向きの話ができればいいなという思いが膨らんだ。次回は390歳の集まりとなる。元気で行こうぜ!

 

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満天星 

2018-04-08 09:42:56 | ホト発句

 

                                                        

        満天星 空失いて 此処に咲く

          満天星の 煌めきて 春定まれり

 

コメント: 

 「満天星」と書いて「どうだんツツジ」と読む。先日何やらのクイズ番組のようなものをちょいと覗いたら、難読文字を読み当てるような問題が出されており、回答者の多くが首をかしげている中で、超一流大学卒というお笑いタレントらしき人が、みごと「どうだんツツジ」と読み当てていた。これを見ていて、TVを見ている殆ど多くの人は、「さすが○○大卒は違うな」と、ご本人よりも○○大卒の方を納得して首肯しているのだろうなと思った。このような場合、本当はご本人が学問ではなく多くの読書や経験などから正解を読むことができているというのが真実なのである。同じ○○大卒であっても、読めない人は結構多いのではないか。

実は、自分はこの正解は○○大卒の方の答える前に、直ぐに解った。クイズや難読などには全く興味はないのだが、読めない字にぶつかった時は、直ぐに必ず調べるようにしているだけなのだ。満天星もある本を読んでいて何の事かと妙に気になって調べた結果これが「どうだんツツジ」であることを知っていた次第。

それにしてもなぜどうだんツツジが「満天星」なのか。それはこの写真を見れば瞭然のことである。元々は中国での命名とのことだが、この樹の花の咲きぶりを見れば、まさに満天の星なのだ。今の日本には夜空に満天の星が見られる場所は殆どない。せめて地上に咲く満天星を見て、遠い日の夜空の煌めきを思い出すだけである。

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