山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

川古(かわご)の大楠

2012-10-29 00:38:50 | 旅のエッセー

  福岡市に7年半も在住していたのに、隣の佐賀県のこととなるとさっぱりわからないままだった。尤も佐賀県のみならず他の各県も、そして福岡県のことすらも仕事に関わった場所以外はほとんど何も知らないままに過ごしたというのが、働き蜂(その種としては相当の怠け者)だったころの実態である。今回の旅では、そのような今まで見落としてきた箇所を少しでも多く訪ねたいと思った。日本国中をまんべんなく見て回るなどということは、たとえ生まれて直ぐに行動を開始したとしても、不可能だということは明らかであり、ましてや齢70の坂を上りつつある自分にとっては、このようなことも掛替えのない思いつきなのである。その佐賀県での話。

 佐賀県の南西部、長崎県寄りに武雄市という所がある。隣接する嬉野市はお茶や温泉が有名だが、武雄市の武雄温泉も知る人ぞ知る有名温泉である。ただこの温泉はやたらに高温で、普通の人には片足すらも入れるのは難しいほどなのである。旅の途中で、その武雄温泉にも行ってみたのだが、表示されている泉温の高さに驚いて(熱い湯45.3℃、ぬるい湯43℃などというのである)、その昔からのお湯に入るのは避け、隣接して造られている別の方のもっとぬるい湯を選んだのだった。

温泉の話ではない。樹木の話である。この武雄市には千年を超える樹齢の楠の巨樹が何本かあると聞いており、その中のせめて一本だけでも見てみたいものだと思っていた。自分が野草や樹木などに関心を持つようになったのは、糖尿病を宣告されて、その療法の一つとして歩くようになってからなのだが、特に樹木については、屋久島の縄文杉に挨拶に出向いて、その偉大な存在に心を打たれて以来、関心が強いものとなった。巨樹や古木には生命体としての犯し難い威厳が備わっている。傍に行ってそれを直接感じることが、人間という生き物にはとても大切なのではないかと思うようになった。現代に生きる人間は、あまりにも人間がつくりだした様々なしがらみにがんじ絡めになってしまっていて、人間以外の生き物、特に植物などに対しては殆ど無視してしまっているのではないか。動物の気持ちを考えることはできても、植物の気持ちを考えるなどというのは、笑い話の世界だと思っているのが普通ではないか。そこに人間の思い上がりというか、驕(おご)りの様なものがあるように思えてならない。

人間の寿命はどんなに頑張っても、せいぜい百年を少しばかり超える程度に過ぎない。それに比べると樹木たちの生命はその数倍も数十倍もあるのである。卑弥呼や大和朝廷の成り立ちを見てきている樹だって存在するのだ。縄文杉などは四大文明の発祥の地といわれるメソポタミア、インダス、中国、エジプトなどの人類の歴史の開始期には、既にこの地球上に生を受けていたのだ。そのような生命体を見て、接して、何も感じることができないとしたら、それは異常というしかない。

武雄市にある巨木の情報をもとに地図を見ていたら、その中では「川古の楠」というのが無難に行けそうだったので、それを見に行くことにした。武雄の市街地を抜け、国道498号線を北西に向かって10kmほど行くと、川古(かわご)という地名があり、どうやらそこに楠の大木があるらしい。超有名な樹なので、行ってみれば判るはずだと思いながらの出発だった。

川古エリアに入ると、楠の存在は直ぐに判った。「川古の大楠公園」というのがあって、トイレ付の広い駐車場も用意されていた。車を停め、胸をときめかせながら楠の方へ歩いて向かう。あった、あった。逞しい大樹がそこに鎮座していた。そこは田んぼの脇の平地で、付近には住宅も建っている、ごくありふれた田園風景の中である。もう少し地形に変化のある場所にあるのかなと予想していたのだが、これは意外だった。大樹の脇下には、供養塔なのかお墓なのか、そのような類の石塔などが幾つか並べられていた。この大樹を神木と崇める祭壇の様なものもつくられており、この地域に住む人たちの、この大樹に寄せる崇敬の思いの様なものが伝わってきた。

近づいて案内板を見ると、この川古の大楠は、樹齢が推定3千年、樹高25m、幹回り21m、枝張り27mと書かれていた。どっしりとバランスのとれた姿である。千年を超える樹木には、その樹の命の証とも思える巨大な瘤というのか、力のこもった塊のようなものが、根に近い幹の辺りに幾つも見られるものだけど、この楠にもそれがしっかりと蓄えられていた。予想に違わぬ見事な大樹だった。

   

川古の大楠全景。大楠公園の入り口付近から見たもの。桜の花の向こうにどっしりと鎮座した大楠が四方に枝葉を広げて迎えてくれた。

    

幹の近景。幾つもの巨大な生命の瘤が大地から盛り上がって重なっていた。その力強さには圧倒されるものがある。

楠の大樹といえば、伊予の大三島にある大山祇(おおやまずみ)神社境内の大楠を思い出す。天然記念物の「能因法師雨乞いの楠」というのがあり、そこには、日本最古の楠で樹齢3千年と書かれていた。その木は相当に疲れを感じる樹勢だった。もしかしたら枯死していたのかもしれない。しかし、この川古の楠は、推定樹齢3千年にしてはまだ少しも生命の勢いを衰えさせてはおらず、矍鑠(かくしゃく)とした存在感を示していた。3千年という時間の物差しの数値は、100年そこそこしか生きられない人間が推し測っているのであるから、その精度などを問題にしても意味のないことであろう。大切なのは、その樹の傍に行って、その生きているありのままの姿をじっくりと見させてもらうことではないか。そのように思った。

川古の楠は語っている。

「これ、人間どもよ、よっく、わしの姿を眺めなされ。わしの生命(いのち)がどこにあるのかが、お前さん判るかな? わしが、今この身体のどこにあって、何を考えているか、見えるかな? お前さんは、わしのことを年寄りだなどと思っては居やせんかな。……、そうよな、今からかれこれ850年も前の頃よな、この辺りに鎮西八郎と名乗る元気な若者が居ってのう、これはもう名だたる暴れ者じゃった。皆知っておろう、それ源平の争いとかいうのがあって、先に平氏が勝ち、平清盛という頭領がのし上がって、一代の繁栄を築いたという話。その平家に敗れた源氏方の若武者の一人じゃよ鎮西八郎為朝というのは。あとで挽回した源氏の頭領として、武家として初めて鎌倉に幕府というのを開いた、源頼朝の叔父の一人にあたる者じゃよ。あれもその頃、わしのことを年寄りじゃと思っていたらしいぞ。わしの足元にやって来て、古老扱いして拝んで行ったわ。暴れ者で、世間はやや持て余していたようだったけど、近所の池に出るとかいう化け物を退治したりして、根は真にいい奴じゃった。数年後には都や坂東の方へ行って、結局は戦で若死にしてしまったけど、わしらに対しては謙虚だったな。どんな暴れ者でも、わしらのような存在には人間は謙虚だったよ、あの頃は。……ま、今でもわしの足元にはわしを崇敬してくれているのか、祠が作られている様じゃけど、じっさいに礼を示してくれるのは近所の限られた老人の連中だけで、わしを見物に来る者の中では、先ず手を合わせるなんて者は滅多に見かけないな。別にそれは構わんのだけど、この頃のこの空気の酷さはどうしたものなのか。いやはや、この大きな図体を咳き込ませるほどじゃよ。850年前の頃は、化け物などがおちこちに巣食って居たものだけど、今頃、特にこの百年、最近の数十年ほどは、化け物どもはあまりの空気の汚れのために消え果てしまった様じゃ。あれらは、空気のきれいな住処でないと生きてはいられんのじゃ。人間どものこの頃の空気や水の汚しっぷりは、尋常一様ではないな。世界中で競って汚すのを争っているかの様じゃ。わしも生きものじゃで、このままじゃあ、あと二千年がほど生きるのは難しいんじゃないかと、心配しておるよ。ま、わしが倒れる頃には、もしかしたら人間どもは皆自家中毒を起こして、絶え果ててしまっているかも知れんなあ、……」

いやはや、大変な空想とは相成った次第である。近くの茶店・売店に小さなからくり芝居の舞台が作られており、そこで鎮西八郎為朝がこの近くで沼に住む化け物を退治したとういう話が上演されていたのを見て、まあ、楠の大樹の思いを膨らませてみただけなのだが、今の世の動きを快く思っていないのは確かなのではないかと、そのように想ったのだった。  (2012年 九州の旅から 佐賀県)

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月の引力を感じる場所

2012-10-25 04:21:33 | 旅のエッセー

  佐賀県の最南端の町といっていいのか、有明海に面した太良町というのがある。海の幸と山(陸)の幸に恵まれた暮らしの豊かな所の様だ。この町の竹崎という所は、竹崎ガニと呼ばれるワタリガニが獲れることで有名だ。有明の海のその干潟では、名物愛嬌者のムツゴロウ君にもお目にかかれる。又陸の方では、ミカンなどの果物類を初め、野菜類や米の栽培も盛んに行われているようで、そのことは道の駅に並べられた地産物の数の豊富さからも推し測ることができる。

 この道の駅には、「地球の引力を感じる場所」という、妙なキャッチコピーが掲出されていた。地球の引力を感ずるというのは、どういうことなのだろうかと思った。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則に気付いたとのことだが、我々凡人には、空を飛ぶ飛行機が墜落するのを見ても、引力がどう働いているのかなどというのに気づくわけもなく、ただあんな重いものが空を飛ぶなって、何とも恐ろしやと思うだけである。

 この道の駅に泊まって、朝を迎えたのだが、昨日家内が聞いてきた情報では、駅の売店で11時ごろからカニ飯の弁当が売り出されるとのこと。彼女はカニには目のない人となっている。どうしてもそれを手に入れたいという強い要請があった。急ぎの旅でもないので、まあ、それも良かろうと販売開始の時を待ったのだった。道の駅に泊まる旅人の多くは、遅くとも10時くらいまでには次の目的地に向かって出発して行くのだが、自分たちはまるでカニ弁当という餌につられて、出かけるのを忘れたアウトサイダーの様な気がした。

 いつものように出発前の車の点検やトイレの処理などをしていて、ふと気が付くと家内がどこに行ったのか戻ってこない。10時を過ぎても所在不明の状態だった。まさかいくらなんでも一刻でも早く弁当を手に入れたいと、店先に並んでいるほど強欲でもあるまいと思いながら、そちらの方へ行ってみたのだが、居なかった。ま、いいかと駅舎の裏の方(=海に面した側)に行ってみたら、そこに海を眺めている家内を発見した。有明海は遠浅の箇所が多いけど、この辺りもかなり沖の方まで遠浅の海が続いていて、丁度今の時刻は、遠く引いていた潮が少しずつ勢いを増して岸の方へ押し寄せてくるところだった。それを飽きもせずにずっと見続けていたとのこと。つまり月の引力とやらを感じていたのだった。

         

月の引力を感じる時間の光景。有明海の沖が盛り上がり、ふと緩むのか、そこから生まれた小さな波が、次第に生長しながらこの浜辺に向かって静かに押し寄せて来るのだった。

  有明海のこの地では、潮の干満の高低差が数メートルにも及ぶとか。なるほど、この落差を実感することがすなわち月の引力を感じるということなのか、と思った。つられて見ていると、確かに押し寄せる波の動きで、何かが起こっているのを実感できるのである。沖から押し寄せる波は、最初はさざ波だったものが、少しずつ勢いを増し、その強さを膨らませているのが判る。この波の動きは、つい先ほど前から始まったらしい。泥の中に顔を出して遊んでいたちびっこのムツゴロウ君たちの動きも、少し活発となり出したようである。干潟に立てられた腐食の進んだ棒杭の脇にも押し寄せる波の大きさが少しずつ実感できるようになり出していた。

       

浜辺近くの干潟の構築物の根元の様子。この近くの泥の中には、幾つもの穴があって、そこにムツゴロウの子供たちが遊んでいた。潮が満ちて来るのを知ると、彼らはそれを恐れているのか、歓迎しているのか、動きが賑やかになった。しかし、泥の風景はそれらを全く気づかせないようだった。

 引力を実感するためには、じっと一箇所に留まっていた方が良いようである。引力というのは沖の方から強まる様な気がした。沖の方の海が盛り上がって、それが波をつくり出して浜辺に向かって押し寄せてくる感じがした。海を引っ張る力とそれを緩めるタイミングが波をつくり出しているように思った。それにしてもこの力の大きさはものすごいなと思った。昨年の東北沿岸の大津波の映像を思い起こしながら、改めて大自然のパワーの巨大さに打たれたのだが、この何でもなさそうな有明の海の変化にも、秘められている大自然の恐るべきパワーを実感せずには居られなかった。

 それにしても人間というのは鈍感な存在だなと思った。月の引力というのは、何も海にだけ作用しているわけではなく、地球に住み、存在する全てのものに同じように働いているはずなのに、ちっとも感じてはいない。辛うじてこのような海の変化を見て引力を実感しているだけである。浜辺のムツゴロウ君たちは、人間とは違って毎日僅かな変化であっても、この引力の働きを実感しているに違いない。生きものとしての、この違いは何なのか。もし、鈍感というのが、人間の思い上がりから来ているとしたら、怖いことだなと思った。

 ところで、改めて引力というのは何なのだろうか。広辞苑などを引くと、難しげなことが書かれている。万有引力だけではなく、様々な引力の形があるらしい。宇宙規模から素粒子の世界まで、引力の存在が判明しているらしい。しかし、何故このようにあらゆる物体、物質に引力が働くのであろうか。逆に考えると、引力がなければ物体や物質はその存在を確保できないものなのだろうか。創造主が何故引力などという働きを持たせたのか、不思議というしかない。

 思うに物理の世界だけではなく、人間の心の世界にも引力というのは明らかに存在するのではないか。その最も典型的な働きは、男と女の惹かれあいなのかも知れない。又、友情などということばで括っている人と人との付き合いも、心の世界の引力の働きによるのかもしれない。更には大震災で確認された絆という人と人との結びつきも、心の引力の働き以外の何物でもないのではないか。この世には、どうやら引かれあうという働きが不可欠なようである。

 海を見ている家内から少し離れた場所で、しばらく動かずに自分も月の引力を感じながら、別の引力に縛られ(?)て、もう40数年も一緒に此処まで、彼の女(ひと)との人生を歩んできたことを不思議に思ったのだった。  (2012年 九州の旅から 佐賀県) 

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門司レトロ街を歩く

2012-10-22 04:03:28 | 旅のエッセー

  4月の初め、門司を訪れた。門司という街を訪れたのは初めての様な気がする。気がするなどと曖昧な言い方は不謹慎だけど、北九州市には何度も行っているのに、その殆どは小倉までで、門司へは関門トンネルを1~2度潜ったくらいで、いつも通り過ぎてしまっていた。九州には、転勤で福岡に7年余りも住んでいたのだが、門司がどのような街だったのか少しも知らぬままに過ごしていたのだから、勿体ないといえば実にもったいない過ごし方だったというしかない。それはまあ、今でもその延長線上の暮し方をしており、守谷市の近くにある町なども存外知らないという点では少しも変わりがないようだ。人は、何か特別なことでも起こらない限りは、隣町の名所ですらも気づかぬままに人生を終わってしまうような存在なのかも知れない。

 今回偶々門司を訪れることができたのは、家内が盛んに門司のレトロ街を訪ねたいと言っていたからである。そのような場所に、旅車が留められる駐車場があるのかどうか迷ったのだけど、ま、行ってみれば何とかなるだろうという、いつもの成り行き任せの判断だった。少し手間取ったけど、何とか車を留めることができ、そのレトロ街というのやらを歩くことになった。

 関東に生まれ育った者には、北九州や筑豊エリアの繁栄や衰退の歴史の風をなかなか実感できないものがある。北九州について知っていることといえば、八幡製鉄所の存在を核とする重工業地帯としての煤煙の街のイメージと筑豊炭鉱における激しい労働争議のニュースなどばかりで、繁栄というよりも衰退の歴史の印象の方が遥かに強いのは、やはり遠く離れてその実態を知らなかったからなのであろう。

 考えてみれば、そのような暗く重い繁栄と衰退の歴史ばかりではなく、基幹エネルギーとしての黒ダイヤのもたらした繁栄の時期が確実に存在していたのである。しかし、それがどのようなものだったのかを殆ど想像出来ないのは、異なった環境で育った者の宿命のようなものなのかもしれない。

 北九州筑豊エリアの場合の繁栄の跡というのが何なのか、まるで石炭が燃え尽きるのと同じように殆どのものが跡形もなく消え去り、残っていたボタ山さえも今は草木に覆われて、その存在も、知っているのは老人くらいしか居なくなってしまっている。繁栄というのはどこかにその証となるものを残すはずなのだが、自分は門司という街については、全くそれに気付かなかった。その迂闊さに今回は気づかされたように思う。

 門司のレトロ街を初めて訪れて、ああ、ここに北九州エリアの繁栄の証が残されていたのかと気づいたのだった。レトロ街には、レンガ造りの瀟洒な建物が何棟か保存されていた。それを見ながら、そうか、門司港というのは往時の大陸を初めとする世界につながる産業交易の一大拠点だったのだと気づいた。九州エリア初の人口百万を超える政令都市となった北九州市は、合併前は、小倉、八幡、戸畑、若松、そして門司の五市が夫々の役割を担った重工業地帯を形成していたのだが、その中で門司市は、交易の港として重要な役割を果たしていたということなのであろう。

      

門司港レトロ街の旧税関の建物と跳ね橋。跳ね橋の向こう側は下関。この跳ね橋は、今でも現役で活動している様である。

 ここに残っている幾つかの建物の名称などは、一々案内図などを見ないと判らないのだけど、レトロ街というこの一角に入ると、往時の街全体としての門司の賑わいが彷彿として浮かんでくるのである。港に引き切りなしに出入りする船の数々、それらの荷物を積み下ろし、積み出す起点となっている鉄道の駅、そして本州とをつなぐ渡船の往復する姿等々、人と物の激しい動きの様が目前に広がってイメージされるのだった。

 レトロといえば、人はある種の情緒的な懐古心を以って今に残る建築物などを眺めるのであろうが、自分にはその建物への印象よりも、それらに出入りする無数の人々やそれらの人たちが動き回って醸し出している喧噪の風景、躍動の景色が目に映るのである。今に残る港のレンガ倉庫などの景観は、横浜や函館、それに小樽などが有名だけど、そこへ行って見ても、往時の人々の活動のイメージは何故かあまり湧いて来ないのである。それは、現在の姿が往時を忘れさすほど再利用が進んでしまって、今の時代の人々の往来に気を取られてしまうからなのかもしれない。門司のレトロ街の景観は、それらのレンガ倉庫街とは異なった、交易の一大拠点としての往時の姿を彷彿させてくれるように思った。それは、もしかしたらこの港が倉庫を不要とするほどに、物資の移動の速さを求められていたからなのかもしれない。玄界灘の向こうは東シナ海であり、中国大陸や台湾に近く、又本州への人や物資輸送の重要な基地でもあった。又、九州というエリアにおける鉄道の基点でもあり、現在も残っている門司港駅は九州鉄道記念館と併せていやが上にも往時の賑わいを思い浮かべさせてくれるのである。

      

門司港駅の景観。レトロ街の中で、最も良く往時の面影を残している建物の様に思えた。今も現役で使われているのも凄いなと思う。東京駅などとは違った地方都市の賑わいを今に残している印象的な建物だと思った。

 そのような感慨に打たれながら、2時間ほど港の街中を歩いたのだが、うっかりするとレトロ街を取り囲み、一部侵入している高層ビルなどが目に入って、今までのイメージがゆがんだりするので、戸惑うこと大だった。レンガ造りの建物や、跳ね橋、渡船乗り場に繋がれている古い洋風の船、それに財閥の倶楽部だった洋風木造建築物などなどの点在する空間をさ迷い歩いたのだが、その中で、汚れかけた街角の隅に、一つの妙な立札を見つけた。

そこには、「バナナの叩き売り発祥の地」と書かれていた。そして、傍にその由来についての説明があった。これを読んで、これこそが往時の門司の景観をイメージさせてくれるに最もフィットした証拠ではないかと思った。それを紹介したい。

「バナナの叩き売り発祥由来の記  昔を偲べば、大陸、欧州、台湾、国内航路の基幹と、九州鉄道の発着の基地点として大いに発展した、ここ桟橋通りは往時の絵巻の一こまとして、アセチレンの灯のにぶい光の下で、黄色くうれたバナナを戸板に並べ、だれとはなしに産まれ伝わる名セリフは大正初期~昭和十三、四年頃まで不夜城を呈し、日本国中の旅行者の目を楽しませた。バナナの叩き売りの風情は門司港のこの地桟橋通り附近を発祥の地と由来せし。昭和五十三年四月吉日  門司港発展期成会 北九州市門司区役所」

    

街角にあるバナナの叩き売り発祥の地の碑。普段は見過ごされているか、或いは「なんだ、そうか」くらいで人が通り過ぎてしまう、歴史の賑わいの名残りとは、そのようなものなのかもしれない。

 今の時代、バナナは叩き売りの対象とはなりえない果物となってしまっている。しかし、往時はなかなかな手に入らない貴重で高価な果物だったに違いない。保存技術もなく、南国から運んできた青いバナナが、国内各地に配送する前に既に黄色く熟れてしまった分を処理する方法の一つとして、この地での販売が始まったということのようである。その売り方に特徴があって、それが叩き売りという形で有名となったということらしい。由来を記した立札が建ったのが、つい30年ほど前なのは、叩き売りの口上が寅さんの登場で再び名を挙げたからではないか。そう思った。観光資源として活用のための、抜け目のない行政のバックアップがあったに違いないけど、人間模様と一緒に往時を思い浮かべるには、この切り口は無言の建物などよりはより活き活きしている情報の様に感じたのだった。

 それにしても、あの賑やかな時代はどこへ消え去ってしまったのだろうか。この港が開かれて僅か120年余りの間に、何という激しい変化の連続だったことか。レトロ街というのは、逆説的にいうのならば、繁栄の残骸に過ぎないのだろうか。この地における今までの出来事の全てが、歴史の必然であったということが言えるのかもしれない。だけど、それらは又人間どもの気まぐれの所産にすぎないとも言えるのかもしれない。ほんの少しばかり歴史の感傷を味わいながら、レトロ街を後にしたのだった。

(2012年 九州の旅から 福岡県)

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豪華トイレに思うこと

2012-10-18 04:39:53 | 旅のエッセー

  九州筑豊エリアの田川市に隣接して大任(おおとう)町というのがある。この町に道の駅「おおとう桜街道」というのがあり、今度の九州行の九州入り初日はここの道の駅にお世話になった。初めての来訪だった。道の駅の名称が桜街道とあるので、近くに桜並木の名所でもあるのかと期待しながら行ったのだが、それは見当たらず、駅構内にある温泉施設のある丘の周辺に、何本かのソメイヨシノが花を咲かせているだけだった。この他にも駅構内にはかなりの数の桜の若木が植えられていたが、花の方はまだ乙女桜だった。道の駅の名称は、どうやら先取りして付けられたようだった。

 この道の駅の自慢は、1億円をかけて作ったトイレだった。家内は存外このような施設に興味があるらしく、以前江戸時代辺りからのトイレの変遷などに興味を持って調べていたことがある。今日も早速カメラを抱えて出かけて行った。しばらく経って、自分もそこへ行ってみることにした。一応は見ておかなければなるまい。そう思った。

入り口の所に白い色の自動演奏ピアノが置かれており、何やらクラシックらしき妙(たえ)なる曲を弾き流していた。しかし、奏者がいないので、何だか違和感を覚える空間だった。その奥の方の庭には、石の壁の様なものが作られ、松の木などが植えられていて、上の方から絶えず水が流れ落ちていて、これを何と呼ぶのか知らないけど、まあ、小さな滝のような風情といったらいいのであろうか。男性トイレの小用は、その滝の水が落ちるのを見ながら息を抜くというレイアウトある。個室の方へ入ってゆくと、最新の機能を備えた便器が、いらっしゃいませ、というかの如くに自動で蓋を上げて誘ってくれるという仕掛けである。この程度なら驚くほどではない。このレベルのトイレは全国に幾つかあるように思う。

 

左はトイレの入り口付近の自動演奏ピアノ。右はトイレ内部の洗面所の陶器の手洗い用器。一瞬厳かな緊張感を覚えるようなムードが漂っている。

一体1億円はどこへ使われているのかといえば、そのような機材や装置ではなく、使途のメインは焼物らしい。入り口の壁には陶板焼の壁画が収まっており、手洗い所の容器も鉢のような形をした焼物なのである。福岡には、黒田藩御用窯の小石原焼きがあるから、そのような所で制作したものらしい。この種の芸術作品の価格は見当もつかないけど、確かに見事な出来栄えの壁画がはめ込まれ飾られていた。このような情報はすべて家内によるものであり、自分としては素直にそれを聞き入れるだけである。もともと大した審美眼を持っているわけでもなく、この陶板の絵は1億円だよといわれれば、はあ、そうですかというしかなく、どこに難癖を付ければいいかの見当もつかない。

   

モミジを題材にした陶板画。かなりの大作であり、これは男子用の入口に飾られていた。女子用の方にも別の作品が飾られていたようである。

それにしても1億円というのは、今世の中ではそれほど驚くような投資ではないものらしい。宝くじが当たれば、うまくゆけばその3倍もの金額が一気に転がり込んでくる、そのような億万長者が毎年何人も生まれている時代なのだから、大したことはないとうそぶくこともできるのかもしれない。しかし、年金暮らしの者には、想像を絶する大金である。トイレにこのような大金を費やすという発想は、余裕なのかそれとも切羽詰まった窮余の一石なのか。人間の生理的欲求を満たす場については、両極端のアイデアが用意されるということなのであろうか。

1億円トイレは、ずいぶん前に北海道の道の駅でも見たことがある。今は合併して伊達市大滝区となった旧大滝村にある道の駅「フォーレスト276おおたき」がそのトイレのある場所なのだが、往時の大滝村では、村おこしの一環として、ふるさと創生金の1億円を投じてトイレを作ったとのこと。その1億円のトイレを初めて見る前は、どんなものなのかと興味津々だった。行って見ると、今回の大任町の道の駅と同じように、入り口に自動演奏のピアノが設(しつら)えてあった。こちらは確か黒い色ではなかったかと思う。その演奏の音が、大勢押し寄せる来訪者とは何だかアンマッチに思えて、違和感を覚えたのを思い出す。肝心のトイレの方の設備は、普通のトイレと大して差がなく、さほど印象に残るほどのものではなかった。なあんだという思いで、用を済ませたのを覚えている。

その翌年にも大滝村の道の駅を訪ねたのだが、覗いたその時は、自慢の自動演奏ピアノは故障中で、沈黙したままだった。その何年か後、大滝村は伊達市と合併して、一気に区に昇格(?)したのだが、久しぶりで道の駅を訪ねた時には、隣接して新しく建てられたきのこを売り物とする「きのこ王国」という巨大な施設に圧倒されて、見る影もなく廃れていた。何だか気の毒になってしまって、トイレに行くのを遠慮したのだが、果たして1億円をかけたトイレの看板的存在である自動演奏ピアノが健在だったのか、それは判らない。1億円の投資を回収できたのかどうかも判らない。解っているのは、人間の気紛れ、一過性の興味の犠牲になったピアノが可哀想だったということだけである。

大任町の1億円トイレは、まさかこの旧大滝村のそれをモデルとしたわけではないのだろうけど、どうしてそのような大金をトイレに投じたのか。ふるさと創生金などの大盤振る舞いのできない今の財政難時代のこの投資には、その決断に不思議さを覚えるばかりである。合わせて、ここのトイレや自動演奏ピアノが、人間どもの一過性の興味や気紛れの犠牲とならぬよう祈るばかりである。

なお、余談だけど、家内の話によれば、1億円のトイレを凌駕する最高のトイレは、今までの経験では、道の駅にあるのではなく、高速道は伊勢湾岸道の刈谷SA内にある、女性専用のトイレだとのこと。ここには豪華な休憩室やまさに個室というにふさわしい雰囲気の用を足す部屋が設けられているとのこと。男である自分が、そのような所に入ったことはなく、見たこともないのは勿論のことである。   (2012年 九州の旅から 福岡県)

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天神で迷子

2012-10-14 04:07:32 | 旅のエッセー

 天神という地名は全国至る所に存在するけど、ここで天神というのは、福岡市の天神である。福岡をご存じでない方でも、博多と天神の地名くらいはご存じなのではないかと思う。黒田藩支配下だった福岡は、街の中央を流れる那珂川の中州を挟んで、東側が町人の町博多であり、武士の方は西側が住まいとなっていたとのこと。天神はその武士の住まいの一角であった。西鉄の福岡駅ターミナルを中心に、ビジネスの中心街となって発展して久しい。

 その天神を8年ぶりで訪れたのだが、迷ってしまったという話。迷ってはいけない筈の者が迷ったというのには、恥ずかしさもあるけど、怖さもある。というのも福岡は30数年前に7年間も住んだ町で、その頃天神にあった事務所には4年間も通っていたのであり、幾ら時間が経ったとは言え、又そのスピードが速いと言っても、迷うなんて、自分にとってそんなはずがない出来事だったからである。

 九州の旅は8年ぶりのことで、福岡は東区の香椎に住む知人宅近くから、バスを利用して天神に向かった。各駅停車のバスに乗ったのは、高速道などを行くよりも、昔を思い出しながら福岡の街の様子が判るのではないかと思ったからである。しかし、実際バスに乗ってみると、記憶の中では確かに此処にあった建物や店などが、消え失せて全く変わっており、只ひたすらにあれよあれよと移り変わる車窓を驚き眺めるばかりだった。1時間近く掛かって終点の天神のバス停に着いたのだが、しばらくそこがどこなのかが解らなかった。目印になるものが消えうせ、変わり果ててしまっていると思った。暫く周辺を眺め、とりあえず少し歩きだして、ようやく自分の居る場所を知り得たのだった。

 8年ぶりといっても、前回は天神の方へは立ち寄らなかったので、自分は十数年ぶり、家内は30数年ぶりということになる。30数年前の福岡は、現在の西鉄福岡ターミナルは、まだ着工すらしていなかったように思う。往時の天神の交差点の角には地元の老舗百貨店が店を構えており、博多の方の老舗と覇を競っている感じがあったのだが、今はそれらの土地は、中央から進出した店舗で埋まってしまっている。もはや昔の福岡の街の面影は、遠い過去となってしまっている感じがした。

 不動産屋を訪ねる所用があって、あらかじめ天神のその住所等も調べておいたので、直ぐに見つかるはずと思っていた。アポイントの時間には少し早すぎるので、時間調整のつもりでわざとゆっくり昼食を摂ったりしていたのだった。ところが、時間近くになってそこへ向かうと、どこなのかさっぱり判らない。どうやら目的のビルの近くにいるらしいのは判るのだけど、当てにしていた目印が見当たらないのだ。ネットの地図で調べたメモは、さっぱり役立たなかった。約束の時間に遅れそうになり、やむを得ず電話をかけて場所を確認して、ようやく間に合ったという惨敗ぶりだった。

天神の表通りを一筋裏に入ると、雑居ビルが群れ連なっており、それらの中から目的の建物を探すというのは、初めての来訪者にはかなり難しいものだなと、改めて思った。いつも何か新しくなっている福岡のこのエリアでは、自分の様な者は、明らかに新参の田舎者に過ぎない、と念を押されたような気がした。

 それにしても大都市の変貌というのは凄まじいものだと思う。そこに住み、通い慣れている者の目には、その変貌の速さも性質もあまり感じられないのは、新幹線や航空機に乗って、車内や機内を見ている人たちと同じことであろう。しかし、外部にあってそれを見ている者からは、目前の電車や飛行機は、矢の様な速さですっ飛んでゆくのである。福岡という大都市に呑み込まれている人たちにとって、この変貌はどんな意味を持っているのだろうか。

 時々思うのだけど、現代人はどうしてそれほど急いで変化を求めなければならないのか、明日が今日と同じであってなぜいけないのか。一体誰がこの世を引っ張り、それほどに変化を求めているのか知らないけど、百年前の過去と現在が少しもつながっているようには思えないのである。化け物的な狂奔的なスピードで、人類はこれから先どこへ向かおうとしているのか。今の世の在り方は、人類の歴史に幸福や安心をもたらすのではなく、むしろその反対の状況を招来しているのではないかと思えて仕方がないのである。

 三十数年前の記憶にすがって訪れた天神だったが、そこで迷子になったという事実は、自分にとって衝撃的だった。しかし、それ以上に、世の中がこんなに急激に変貌してしまっていいのだろうか、という大いなる疑問をも覚えたのだった。現実の世の中が、後戻りすることはないのかも知れないけど、その変化のスピードがあまりにも早すぎると、自分が今どこに居るのか、どこへ行ったらいいのかさえも判らない、そのような迷子が溢れ出てくるような気がしてならないのである。高齢化社会は、過去だけにしかアクセスできない迷子が溢れ出る時代ではないか。そんな風にも思ってみた。

自分が迷ったからといって、そんなオーバーなことをいう奴があるか、とのお叱りを受けるかもしれない。だけど、迷子ばかりの世の中なんてもんは、そりゃあ、世の中と呼ぶべきものじゃねえ、というのが開き直った自分の心情なのである。     (2012年 九州の旅から 福岡県)

 

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明日から再開します

2012-10-13 05:35:58 | その他

随分と長い間投稿を休みました。指の術後の経過は左手の方は回復が早いのですが、右手の方は未だ不自由で全ての指を使うまでには時間がかかりそうです。リハビリのためにも指は動かした方がいいので、明日からブログの投稿を開始することにします。

新たに「旅のエッセー」というカテゴリーを追加し、週に1~2回のペースで、これを中心とした掲載を考えています。旅の間に拾った出来事は無数と言っていいほどあり、それらを反芻しながら自分なりの後楽を味わいたいと考えています。では。馬骨拝

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もうしばらく休みます

2012-10-03 05:09:08 | その他

  時々自分のブログの編集画面を覗いては、未だ読んで下さっている方がいらっしゃるのを知り、何だか騙し続けているような気分になり、申しわけなく思っています。バネ指の手術は、その後順調に回復していると思っているのですが、しかし、両手を使っての作業には極めて不自由を来たし、未だに顔を洗うこともままにならない状態です。何しろ両手の中指が内側に曲がったままであり、元に戻るまでには、まだしばらく時間がかかるようで、パソコンの作業もためらいながらの状態です。中指を使わなくてもキーボードを操ることは可能ですが、指という奴は皆連動しているようで、左右のどの一本がサボっていても、スムースには動いてはくれないもののようです。無理をすると今度は別の指が不調となるやもしれず、老人という奴は真に厄介な身体機能の劣化を来たす存在のようです。

 そのようなことで、ブログの掲載は今月半ばまでは休むことにしました。お読み頂いている方に曖昧なご迷惑をお掛けしないためにも、後ろ向きなのですが、お知らせをさせて頂くことにしました。  馬骨拝

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