山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

政治家の過信の行く先

2020-06-28 08:49:13 | 宵宵妄話

 歴史は繰り返すというけど、汚職だとか違反だとかいう類の政治に絡む事件は後を絶たず、まさに繰り返されている。これを見ていると、もしかしたらこれは成功を過信した者の習性もしくは本性なのではないかと思ってしまう。いわゆる不正という社会違反に絡む事件は、何も政治に限ったことではなく役所や経済界などでは日常茶飯のできごとなのかもしれない。

 しかし、やはり政治に関しては看過してはならないと思う。何故なら、政治の不正やルール違反は、即失政につながってゆくものであり、不断に生きている我々世間の大衆に、知らず絶大な悪影響を及ぼすものだからだ。昨今の政界の動きを見ていると、明らかに失政につながる事件が多発している感を拭い得ない。

 それらの事件の中で、最も気になり不快感が怒りとなって膨らむのは、夫婦で国会議員となりながら、そのプロセスで地盤となる県の議員関係者に多額の金をばら撒いたという事件である。しかもその夫の方は、何と法を管理する政治家のトップである筈の法務大臣に任命されていたというのだから、開いた口が塞がらない。如何に世の中は建前と本音で成り立っているとはいえ、これほど世の中をおちょくった話はないではないか。大臣という名の国政の幹部が、金をばら撒いて当選し続けて、時間が経てば見識や能力がなくても順番にそのポジションが回って来るというのであれば、大臣を尊敬する者などいる筈がなくなる。今回の選挙違反の夫婦は悪質のトップクラスだけど、ここ数年の大臣の資質を問われるお粗末な者が如何に多かったか。呆れかえるほどだ。

 これらの問題は政権を担当する政党や政府に問題があることは明らかだ。とりわけて政府と党の最高責任者である総理大臣の責任は大きい。党の実力者の力に押されてなのか、本人の好みなのか、大臣の任命のあり方が政治不信のレベルを超えてどんどん低下し、もはや軽蔑という状況に至っているのは、真に由々しき事態ではないか。勿論全ての大臣がそうだとは思わないけど、一人であっても不適者の存在を許される筈がないのだから、この任命責任は口先で遺憾の詫びを入れただけで済むものではない。もはや、総理大臣への信頼も地に落ちたと言わざるを得ない。

 政治のことには極力関与しないことにしているのだけど、コロナ禍の陰でかなり不明の事件がうごめいているのを見ていると、知らず怒りのようなものがこみあげてくる。

政治不信は現政権に対してだけではなく、そのような不正を批判しながら何の改革も変革も為し得ていない、野党といわれる外野陣に対しても、ふがいなさに対する同じくらいの怒りがこみ上げてくる。野党全体をまとめ上げるパワーのあるリーダーがいないことが根底にあるのは明らかだ。野党各党の主義、主張など突き詰めて考えれば皆同じようなものではないか。末尾の主張にこだわっている限り二大政党など現出する筈がない。

政治家というのは、結局半端な成功者を思いこんで、今現在の自分自身の過信に気づいていない者の集団のような気がする。一人ひとりが過信者なのだから、集団が纏まる筈がない。謙虚さを忘れることで初めて政治家として成功することになるとすれば、この国の未来は一体どうなるのだろうか。

 もう一つ気になるのは、選挙のあり方というのか、集票の構造である。今回の前法相出身選挙区での集票に関して、買収された側の県議会等の有力者が続々と名乗り出ているのを見ていると、何なのだこれはと思ってしまう。同時にこの実態は、この県だけの問題ではあるまいとの確信も持ってしまう。この政治という業界では、やはり金の力が絶大な要素なのだ。人が動けば金がかかるし、人を動かそうとすればなお一層金がかかる。選挙のコストは金に尽きるということなのであろう。利害関係を除外した選挙などある筈がないのかもしれない。そもそも普段の人間関係においても利害関係は必ず絡んでくるのだから、それは仕方がないとしても、金が集票の取引に絡むという手段は排除すべきである。それには、立候補者に「金を配っても無駄だ」と思わせる選挙方法を創出する必要がある。抜本的な選挙方法、あり方の見直しがテーマとなることを期待したい。

 安倍一強の現政権も終わりが近づいていているようだ。今までに「有終の美を飾った」という政権がどれほどあったのかは知らないけど、殆どなかったように思っている。特に政権が長期となるにつれて、そのリーダーや周辺取り巻き連中の思い上がりは増大し、ついに足元を掬われたり、自ら転倒して泥沼から這い上がれなくなって一巻の終わりとなる。政治に功罪は付きものだが、功の方が多いタイミングでの引け際を見せて欲しいものだ。いや、もはやそれは失われてしまったのかも。

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マルベリージャムをつくる 

2020-06-15 22:00:00 | 宵宵妄話

 マルベリーというのは桑の実のことだと知ったのは、つい最近のことです。確かに桑の実はイチゴや木イチゴ、ラズベリーなどと同じように粒々の実の形をしており、ベリーと呼ぶにふさわしいのかもしれません。久しぶりに桑の実でジャムをつくったという話なのですが、つくり方について確認の意味でネットを調べたら、マルベリーと書いてあり、何だかこの呼び方の方がジャムには合っているなと思い使わせて貰ったという次第です。

 守谷市に越してから早や16年が経過しました。越して来た当初は何もかもが珍しくて、市の端から端まで歩きと自転車で見て回りました。たった36㎦しかない茨城県では一番小さい面積の市なので、2年も経つと市内の主な名所旧跡のみならず、どこに行けば何が手に入るかなども知るようになりました。自分は田舎育ちなので、自然界にあるものに興味があり、特に樹木や野草に関心があって、その中でも特に食べられるものに対しての懐古趣味のようなものがあるのです。戦後の貧しい暮らしの中で、食べざるを得なかった野草や木の実などに心惹かれるものがあるのです。

 越して来てから3年ぐらい経った5月下旬の頃、利根川の河川敷を探索している時、藪にまみれた中に何本もの桑の木があるのを発見しました。中にはかなりの大木もあり、それらの木々の枝には黒や赤の実が鈴なりに生っていました。「オッ、桑の実だ!」と興奮しました。子供の頃村の外れに忘れられた様に残って生えていた桑の木があり、その実を口に入れた時の感動を思い出したのです。童謡の「赤とんぼ」の詞の中に「山の畑の桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか」とありますが、まさにその感じなのでした。

 利根川の河川敷はその昔は養蚕のための桑畑があったのかもしれません。戦後養蚕は廃れてしまい、桑畑はそのまま放置されて原野に戻ったかの様でした。現在大木となっているのはその頃の木が生き残ったのかも知れませんし、若木たちは鳥たちが蒔いた実生の苗が育ったものなのかも知れません。大木は実が採り難いので、若木を中心にボウルに実を集めました。勿論ジャムをつくる考えでした。その時藪(やぶ)こぎをしながら汗だくになって集めた桑の実は大型のボウルに溢れるほどでした。

 それを持ちかえって、その後は家内にジャム作りを頼んだのですが、初めての経験であり、桑の実を扱うにはかなりのしんどさがあったようでした。というのも桑の実には虫などが混ざっているし、また小さなヘタが粒ごとに付いているので、それを取り除くのに相当苦労したようでした。自分の方は収穫の満足の中で、ジャムは少なくとも10個(小さなガラス容器)以上はできるのではと、期待して待つだけでした。結果は期待の半分くらいだった様な気がします。家内には、ジャム作りの苦労の愚痴を聞かされましたが、あまり気にもしないままでした。

 その時から10年以上が経って、もうすっかり桑の実のことは忘れ果てていたのですが、今年のコロナ禍で歩きのコースを見直し、少し距離を増やすことにして、利根川の堤防を歩くことにしました。何回目かの歩きで、常磐道の守谷SAの上り線の側道を歩いていると、道脇に黒いものがたくさん落ちている箇所があり、何だろうと近づいてみると、何とこれが桑の実だったのです。木も比較的若くて、垂れ下がっている枝を持ちあげてみると、そこには熟れた実とまだ固い赤い実がびっしりと付いていました。以前の河川敷の状況とは格段の採り易さなのです。しかも桑の木は側道に沿って何本もあるのです。これを放置するわけにはゆかないなと思いました。老人となっており、調子に乗るのは危険なので、この種のイタズラ(?)には積極的にならないようにと自戒はしているのですが、この状況は明らかに桑の木の方が極めて好意的に自分を誘惑してくれているのです。それには応えなくっちゃ、と思いました。女性の誘惑には慎重だったのですが、この種の誘惑には超弱いのです。直ちに決断しました。よし、ジャムを作ろう!と。

     

桑の実。これはほんの一部だが、この樹には幾つもの枝があり、そのすべてに熟れた実がびっしりとついていた。

 歩きから戻って一休みの後、桑の実を採る準備をして現場に出掛けました。何人かの人が通りかかりましたが、桑の木も桑の実も知らないようで、関心を示すこともなく通り過ぎてゆきました。ライバルがいないということは、一人天下ということです。時々想うのですが、大地震や大洪水などの災害で食べる手立てが途絶えた時、現代人の多くはすぐ傍に食べられる草や木の実があっても、それを知らないがゆえに飢え死にするのではないか、と。現代人は自然界の中で生き残る知恵を喪失しているように思えるのです。

 一人で悠々とボウルに8分目くらい収穫して止めることにしました。今回は中型のボウルにしました。あまり作り過ぎても食べる人がいないかも知れず、先ず自分がジャムを食べるとしたらそれは旅先か気まぐれの時しかないからです。赤紫に染まった指を誇らしく思いながら、いそいそと帰宅しました。

 さて、その後が結構大変でした。というのも家内に頼むのは些か気が引けて、今回は自分で全工程をやってみようと思いました。先ずは採って来た実を、少し塩を入れた水に浸け、虫などを取り除くことにしました。白い砂糖の方がいいという家内のアドバイスに従い、スーパーまで買いに往復しました。その後が大変でした。ヘタ取りです。何しろ1個に1個のヘタがあるのです。実の数は2千個以上はあるのですから、それを一つずつ取り除くというのは超面倒なことです、そのままでもいいのではないかとも思いましたが、もし誰かにプレゼントするようなことになったら、その手抜き分がバレて不快感を与えるかもしれないと、正攻法で行くことにしました。1時間以上かかってようやく終了。痛いなと思って見てみたら、左手の人さし指の先に傷が出来ており血が滲んでいました。家内が苦労した10年前の愚痴が正当だったというのを、よくよく理解できた次第です。

 その後は、大鍋に実を入れ適量の砂糖を加え、火を入れてとろ火で煮るだけです。途中中断したりしながら2時間半ほどかけて完了。あとは煮沸して用意していたガラス容器に詰めて蓋をするだけです。何個できるか。容器は5個ほど用意したのですが、出来上がった結果は、たったの3個でした。容器に入れるにはコツがあって、これはいろんなジャムをつくっている家内からのしつこいアドバイスなのですが、ジャムは熱い内に容器に入れ、蓋をしたら逆さにして冷めるのを待つということなのです。言いつけを守って完成です。

     

出来上がったジャムはたった3個だった。後で冷凍庫から取り出したものを写したので、表面が白くなってしまった。このようなチョンボは日常のことである。

久しぶりに野に忘れられている自然の恵みを享受して思うのは、老人の過去の貧しい暮らしの経験を自慢するわけではありませんが、現代人はあまりにも自然を知らず、恵を受け止める知恵も磨かず、ただお金を出して得られたものだけで暮らしを営んでいるだけでいいのかということです。私はアウトドア派で、くるま旅もキャンプも暮らしの中に取り入れていますが、そこで知り合う人たちの中には、キャンプの暮らしと家庭の暮らしとが場所が違うだけで中身は変わらないというスタイルが結構多いのを寂しく思っています。キャンプは、不便さの中で自然を味わい、自然に学び知恵を磨くことに意義があるのではないかと思っています。

 最近は「災害に備える」ことの大切さが強調されていますが、その中で一番大切なことは、普段から自然と共生しながら知恵を磨くということではないかと思うのです。只の対策本位のあり方では、災害に遭遇した時、本当にその困難を乗り越えるのは難しいのではないか。そう思うのです。ジャム作りからはかけ離れた話の結論となりました。

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コロナ禍の中、或る一日の我が歩きの紹介(2/2回)

2020-06-07 00:14:29 | 宵宵妄話

(つづき)

それらの施設を通り過ぎると、右手に大木の茂る小さな森があるのだが、この中に鶯と一緒に「オイシイヨ」と鳴く鳥が棲んでおり、通りかかると度々その玉を転がすような美声を聞かせてくれる。「オイシイヨ」と鳴くのは時々で、あとは切れ目なく玉ころがしの声を聞かせてくれるのだ。何という名の鳥なのか姿も見えず判らないのが残念だ。

「オイシイヨ」が鳴く森を超えて少し行くと、そこで堤防の側道は終わり、民家のエリアへと道は続く。この辺りの民家は古い家が多くて、中には大屋敷と思われる家もあるようだが、無住となっているものもあり、屋敷が蔓延る樹木や雑草に覆われているのを見ると、この町の世代交代というのか、断絶期にあるというのか、時代と現実がアンマッチな現象を強く感じたりする。守谷市は茨城県第1位の人口密度の高い市で、未だ人口は増加の傾向にあるけど、その内部では古い大きな家が寂れて消え去りつつあり、一方では大都会並に小さくて窮屈な新しい家がつくられ増加している。人間社会というのは、所詮ムダをつくりだすために営まれているのではないかと、時々思ったりする。絆の大切さは解っていても、家族においてさえも繋がりを保ち続けるのは難しい。古い集落を通りながらいつも感ずることである。

更に歩いて県立守谷高校の脇を通って新興住宅街へ。守谷高校はこの町唯一の高校だ。どんな特徴があるのかよく解らないけど、この高校が超有名な実績を持つのは、女子剣道部の存在のようだ。昨年の茨城ゆめ国体でも団体と個人で優勝しており、その他のインターハイでも何度か優勝や3位以内入賞の実績を誇っている。良き指導者に恵まれ、才能素質のある娘たちが集まって来ているのであろう。高校の窓や塀に掲げられている入賞等を讃える何枚もの垂れ幕を見ながら、若者たちの活躍を思ったりするのは楽しい。

   

県立守谷高校玄関わきの柵に掲げられた優勝を祝う横断幕。全国一というのは、文句なしの快挙だ。無名と思われているこの高校の存在を市民はもっともっと誇りに思わなければならないと思う。

新興住宅街は切り売りの土地にゆとりの少ない建物がずらりと並んで、やはり息苦しい感じは否めない。それにどの家にも複数台の車が収まっており、高級車も多い。自分の所も同じ様な新興住宅街にあり、同じパターンに収まっているのだけど、このような暮らしは、かつて望んでいたものとはかなり違うなと思うのは、田舎育ちの証なのかもしれない。現代人の暮らしは直線愛好の角の多い世界の中にいる感じがする。曲線の方が変幻自在のように思っているのだが、狭い庭には思う通りの樹木や野草を植える空間も心の余裕もない。皆同じように見える住宅街を通り抜けると、再び古い集落に入り、何軒かのお寺のような御殿を見ながら少し行くと、最近完成した鬼怒川の新しい堤防の道に出る。

   

今年の4月に完成して通れるようになった鬼怒川堤防の道。右手に見える赤い屋根の建物は、孫娘が通う幼稚園なのだが、昨年の大雨の時には堤防が未完成で、建物の半分が冠水した。

この辺りは常総市やつくばみらい市との境界近くとなっており、100mも歩かない内につくばみらい市となる。その場所に孫たちが通う幼稚園があるのだが、昨年の大雨時にはこの堤防がまだ出来上がっておらず、幼稚園の建物の一部が水に浸かってしまう被害を蒙ったのが記憶に新しい。でも今は、コンクリートの厚い壁で固めたこの新しい堤防が出来たので、これからはもう大丈夫だと思う。それにしても洪水というのは、真に恐ろしいものだ。大自然の溜まっていた怒りが一挙に吐き出され、濁流となって下流に押し寄せる。そのパワーは一時の人間の力などで間に合うものではない。昨年はそれを思い知らされたのだった。

新しい道は気持がいい。しかし、この道はたった数百メートルしかないのが残念だ。直ぐに終わって、そこからは一般道に入り、つくばみらい市の新興住宅街を通って自宅に向かい、30分ほど歩いて自宅に戻ることとなる。到着時刻は7時50分前後となる。万歩計は2万3千歩ほどとなっている。3時間20分ほどの歩きは、距離換算では14kmくらいであろうか。それほど疲れたとは思わないけど、多少足腰に負担が来ているのを感じているので、ま、これぐらいに止めておくのがベストなのではないか。

これがこのコースを歩く時の概要である。3月に入って以降、3日に1回の割合だから、毎月10回ほどこのコースを歩いている。景色を楽しみ、鳥たちの鳴き声を楽しみ、あらぬ空想に思いを馳せ、もの書きのテーマを思い浮かべたりして、飽きることはない。歩くことは単なる運動などではなく、考えることであり、時に観察者になり、時に科学者になったりして、生きているのを実感するのである。

今年の今日(6/5)までの歩きの実績は、万歩計で2,888,769歩。157日間での1日平均歩数が18,399歩となっている。凡そ1,600歩で1㎞という実績だから、毎日平均11kmと少しは歩いていることになる。万歩計の誤差は、長距離を歩くほど少なくなるので、この数値はそれほど実態から外れているとは思えない。ま、あまり歩き過ぎないように気をつけなければならないとは思っているのだが、コロナ禍が終るまでは、旅に出かけることもままならぬ状況なので、今年も年間600万歩をクリアーできるのではないかと思っている。

   

我が歩きの記録。毎日これを記すのを楽しみにしている。左から日・曜・今日の歩数・今月の累計歩数・今月の平均歩数・今年の通算日数・今年の累計・今年の平均歩数を記録することにしている。一番右は天気と簡単なできごとを記すことにしている。これはもう20年以上続けている。

 

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コロナ禍の中、或る一日の我が歩きの紹介(1/2回)

2020-06-07 00:13:17 | 宵宵妄話

 新型コロナウイルスでの自粛要請が始まって以降、ただじっとしているだけでは運動不足で、自分的には健康管理上大問題となるので、毎日の歩きを増やすことにして取り組んでいる。何しろ30年来の糖尿君とのお付き合いは、運動不足を強く戒めるものと理解しているからなのだ。普段も毎日10km前後の早朝と日中の歩きを継続実践しているのだが、自粛発令以降は、日中の歩きは止めることにして、早朝だけに歩くことに決めた。その分、距離を少し増して13kmくらいを目ざすことにした。暇にまかせて、その中の一つの歩きぶりを紹介することにしたい。長いので、2回に分けて掲載することにします。

 3つ設定している歩きの基本コースの中に、利根川から鬼怒川を経由して常総市の端を通って我が家に戻るコースがある。普段は利根川まで行くことはしないのだが、コロナ禍で自粛令が出てからはチャレンジすることにした。このコースの歩きの概要を紹介することにしたい。

我が家は守谷市の北部に位置し、常磐道谷和原ICへは車で2~3分、関東鉄道の新守谷駅には徒歩5~6分の場所にあり、守谷市の北部・東端に位置している。我が家から利根川の堤防までは約4km離れている。我が家の裏近くを半地下の常磐道が通っており、その側道を行くと守谷SAに至り、更にその側道の先に堤防があるというロケーションなのだ。この堤防を上流に向かって2kmほど歩くと鬼怒川との合流点に至る。そこから更に2kmほど鬼怒川の堤防を歩くとそこで側道は途切れて、今度は堤防から離れて民家の中を3kmほど歩くことになる。その後再び鬼怒川上流の堤防に出てつくばみらい市に入り、少し歩いてから守谷市側に戻り、3kmほど歩いて我が家に戻ることになる。これがコースの概要だが、合計すると14~15kmくらいの歩きとなるのではないか。3時間前後の休憩無しの歩きとなり、ま、傘寿の老人にとっては、ややハードな行程となるのかもしれない。

 出発するのは早朝の4時半前後。明るくなり出すのを待ちかねて家を飛び出す。自分は日頃から昼夜逆転の暮らしをしているので、起きるのが苦になることはない。というよりも夜中は起きていて、もの書きなどの仕事が一段落して、さあ、夜が明けて来たから歩きに行こう、というのが日常なのだ。3月くらいまでは夜明けが遅くて、5時になっても薄暗い感じだったが、6月の今は4時過ぎると明るさが増して来て小鳥たちが騒ぎ始める。それが出発の合図となる。

 最初の守谷SAまではウオーミングアップの時間である。凡そ3kmを40分くらいかけて歩く。最初はゆっくり、少し経って速足気味とし、身体が温まったら、安定ペースに切り替える。SAを過ぎて、そこから堤防までは結構距離があって、500mほどもあろうか。家から堤防に到着するまで約50分かかっている。

   

常磐道守谷SA。(近くの陸橋から東京方面を望む) 右が下り車線。左が上り車線。

SAには上りと下りの二つの側道があるが、その日の気分でどちらを行くかを選ぶ。下りの方は常磐道を見上げながらの歩きになり、右手に浄水場や工場があって、あとは田んぼが広がるだけで変化に乏しいので、選ぶのは少ない。上り側は、下りとは対照的で、常磐道と高さが同じくらいの位置に側道があり、左手下方には樹木に覆われた河川敷が広がり、少し離れた場所をつくばエクスプレスの高架が走っている。この辺りの利根川は二重の堤防となっており、上りの側道は二つの堤防をつないでつくられており、それゆえ下りよりは高い位置となっている。下りの側には堤防は一つしかない。ま、この辺はグーグルマップの衛星写真を見ればお判り頂けると思う。

   

常磐道脇の利根川の表示板。この地点は河口の銚子から95kmほどの距離である。 

さて、利根川の堤防に届いたら、常磐道の下を潜って堤防を上流に向かう。右側には乳業会社の工場などがあり、その向こうに田んぼが広がっている。左側はかなり広い河川敷となっており、川の本流付近は樹木帯だが、そこまでにはかなりの距離があり、その広い河川敷を利用して何面かの運動場がつくられている。早朝なので、それが使われているのを見たことがないけど、車で来るのも不便そうな場所なので、利用度は少ない感じがする。それに大雨が降ればたちまち水没してしまうので、利用できる期間も少ないのではないか。ま、これはスポーツ競技とは無縁となった老人の勝手な勘ぐりではある。

    

利根川堤防の、上流を望む景観。左手にはグラウンドが整備されてあり、右手は工場と田んぼが広がっている。関東平野の広がりを実感できる場所でもある。

左手の運動場がなくなるエリア辺りは、只今洪水時の流れを良くするための樹木の伐採工事が行われている。早朝なので、機械が動いているのを見ることはない。無残に切り倒されて横たわる雑木たちを見ていると、邪魔者とはいえ何だか可哀そうな気分になる。残っている篠藪の中では鶯やコジュケイたちの鳴き声が姦しい。

 右手は、工場を通り過ぎて、間もなく麦秋を迎える何面かの畑と、田植えが済んで苗が育ち始めた田んぼが広がっている。麦畑の上空には幾羽もの雲雀たちの囀りが姦しい。田んぼの彼方は利根川のハケと思われる台地の際の森が広がっており、これを見ると多摩川のハケを思い出す。何千年もの川の流れが創り出す景色には共通のものがあるという証の一つなのだと思う。

   

田んぼの向こうに連なっている森は、利根川が長い時間をかけて削った台地のハケであることを証明しているかのようだ。

2kmほど歩くと、利根川と鬼怒川の合流点の表示がある。しかし、ここから見える流れは、既に鬼怒川になっており、利根川の本流は見えない。少し行くと「がまんの渡し」という史跡(?)がある。その昔、徳川家康公がこの地に鷹狩りに来られて、地元の素封家の家に滞在されていた時、利根川が大雨で増水し、江戸に戻ろうとしたけど渡しの舟を使うのが厳しい状況となった。その時、家康公に「何とか我慢して渡してくれ」と頼まれて、その役目を果たした場所がここなのだという。守谷市教育員会の説明板が草にまみれて立っている。しかし、その場所はどう考えても鬼怒川の位置にあり、利根川だとすると辻褄が合わない話となってしまう。その疑問は歴史を辿ると直ぐに氷解するのだが、その当時は未だ鬼怒川はここを流れてはいなかったのだ。江戸の洪水調整のために、幕府の治水に対する取組み姿勢はかなりエネルギッシュで、別の場所を流れていた鬼怒川を、大運河をつくって守谷近郊のこの地で利根川本流につなげるべく付け替えたのである。従って今自分たちが見ている守谷市近郊の鬼怒川は運河なのだ。この鬼怒川運河が出来て以降は、渡しは現在位置よりも少し下流の利根川に移され、そこが河岸として賑わったという。しかし、今はその跡形もない。

   

「がまんの渡し」の遺跡の景観。堤防の右下に場所を示すべく植えられた榎木の樹の一本は枯死していた。右に教育委員会の説明板が見える。

昭和の終戦後しばらくまでは、橋の無い道路をつなぐ交通手段として、川の渡しが普通だったことを知っている人は少なくなった。自分は県北に育ったので、この辺りの昔のことは全く知らないのだけど、戦後間もない頃、ロープを使った舟に祖母と一緒に乗って、久慈川を渡して貰った記憶が残っている。あれは昭和の21年の頃だったか。

その様なことを思いながら歩いて行くと、間もなく右手に常総地区の巨大なゴミ焼却場とそれを取り巻いてつくられている運動公園や宿泊・入浴施設などがあるエリアとなる。焼却場の余熱を利用した、ここの入浴施設には時々お世話になっている。コロナ禍真っ只中の現在は、入浴施設も運動施設も閉鎖されているのであろう。何となく力の入らない景色がそこにあった。(つづく)

   

常総環境センターの巨大なごみ焼却施設。ここは、守谷市だけではなく、取手市、つくばみらい市、常総市が共同で設立したものらしい。付近は運動公園としての施設や入浴施設などが造られていて、市民のいこいの場所となっている。

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