山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第8回>

2018-06-02 06:12:58 | くるま旅くらしの話

【今日(6/2)の予定】 

道の駅:あっさぶ →(R227・R228)→ 上ノ国:勝山館遺跡 →(R228)→ 江差町郷土資料館 →(R227)→厚沢部町郷土資料館 → 道の駅:あっさぶ(泊) 

 

【昨日(6/1)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:みそぎの郷きこない →(R228他)→ 木古内町郷土資料館 →(R228)→ 知内町郷土資料館 →(R228)→ 松前町郷土資料館 →(R228)→ 道の駅:北前船松前 →(R228・R227)→道の駅:あっさぶ(泊)

<レポート>

 早やくも6月となった。出発してから8日目を迎えている。今日からが旅の本番だと思っている。今までは旅の馴らし運転をしていたようなもので、今日からはもう少し突っ込んだ見聞をすることにしている。

 昨夜は大雨になるかと心配したのだが、そのご天気は落ち着いたようで、朝になって空を見ると、もう穏やかな顔となっていた。邦子どのが二度寝をしている間、付近の散策に出かける。先ずは新しい新幹線の駅を覗いてみた。道の駅の方の入り口から新幹線に向かう通路を渡って行くと、新幹線の乗り場のある切符売り場に出た。そこの時刻表を見たら、何と一日の発着数が上り下り夫々8本だけだったで驚いた。札幌まで開通するまでは、しばらくはこのレベルの運行とせざるを得ないのだろなと思った。北口の方が木古内駅の正面玄関のようで、広い駐車場が広がっていた。

 そこを抜けてしばらく北の方へ歩くと、佐女川神社というのがあり、ここは昨日知った禊の神事を行う神社だった。石段を上り参拝を済ます。その後は禊の神事が行われる浜の方へ向かってしばらく散策を続けた。この辺りが町の中心部のようで、役場を初め産業会館などがあり、少し行くと国保の病院や老人向けの大型の施設など、立派な建物が目立った。北海道を旅するといつも感じるのだが、どこの町や村へ行っても公共の建物は皆立派で素晴らしい。産業振興のための予算が潤沢に回った結果なのであろうか。我が守谷市の貧弱な公共施設を思い浮かべてはその差のことを思った。7時過ぎ車に戻り朝食。

 9時過ぎ木古内町郷土資料館に向けて出発する。道の駅からは2km余り離れた元小学校の跡が資料館となっていた。直ぐに着いて、中に入る。職員の女性の方が案内してくれた。先ずは年表を中心に見て行こうとしたのだが、その方が咸臨丸の錨だという大きな錨を前にその由来などを話して下さり、その後で縄文土器の集められている部屋に案内されたので、それに従うことにした。その部屋の中には、驚くほど多種の縄文土器や石器類が数多く展示されていた。案内された方もその発掘の一部に係わったとかで、熱心にご自分が抱かれている疑問などをぶつけて来られたのだが、まだ縄文の入口に立とうとしているだけの自分には解らないので返答に困惑した。このエリアには縄文時代の遺跡が数多くあるらしい。新幹線の工事等で発見されたものもあるようで、現在も発掘が継続されている場所もあるようだった。今回は開拓の歴史の方を知ろうとしているので、いずれ縄文時代については新たに機会を設けて訪ねることにしたいと思った。

 さてその開拓の歴史なのだが、150年前というのは、この地は内地と変わらぬ捉え方で見ておく必要があると思った。というのもこの地は松前藩の勢力下にあっ、て往時から和人の暮らしていた地なので新しい北海道という以前の歴史を持つ場所なのだった。その始まりは口碑によれば鎌倉時代に二人の和人が土着したことから始まるという。そして和人の集落が出来たのは、それから200年後あたりの1443年だという。まだ松前に藩などが生まれる前の話なのだから、随分と古い話なのだ。いろいろな方が来訪しており、僧円空や菅江真澄なども入っているを知り、改めて歴史のある町なのだというのを知った。また、明治以降は、山形の庄内藩からの移住者の影響が大きいようだ。この郷土館の小学校も鶴岡の地名の中にあり、戊辰戦争を経て明治となって以降鶴岡から105名の武士家族が藩命で2回に分けて移住し開拓に携わったという。その記念碑などが校庭脇の広場に幾つか建てられていた。更には開拓の指導者として二宮尊徳の弟子だった大友亀太郎という方が、大いに貢献されたということだった。様々な出来事を経て、この町が最も賑わったのは昭和35年頃で、人口は1万3千人を超えており、これがピークだったと年表にあった。現在の人口は4500人ほどとなっている。

 帰り際にここの館長さんらしき方が外出から戻られて、その方から町の歴史年表一覧をプリントアウトして頂けて、ありがたかった。年表があると、この地だけではない近隣の町の様子も解るので、助かると思った。この他、得るものは多かったが、それらを全て記すのは不可能だ。

 木古内の郷土資料館を出た後は、隣りの知内町に向かう。この町にも郷土資料館があるので、そこを覗くことにした。ナビは保健センターを案内してくれて、少し迷ったが、直ぐに到着して中に入る。ここは木古内のような余裕のある施設ではなく、2階建の建物の一角に資料等が展示されていた。残念ながら折角の年表は、その前に台が置かれていて見ることが出来ず、他の展示物しか見ることが出来なかった。展示物の説明・解説によると、この地も歴史は古く、鎌倉時代に砂金を求めて甲斐の国から和人がやってきたとのこと。この地も松前藩の勢力下にあり、松前町とほぼ同じような歴史を持っているようだ。江戸時代の特徴ある産業としては、鷹の生産地として有名だったとのこと。鷹というのは鷹狩りに持いる猛禽類のあの鷹のことである。将軍に献上しただけではなく、将軍が推奨したため、各大名でも鷹狩りをするための鷹が必要となり、それの供給地としてこの地が名を為したとのこと。往時の鷹の価格は1羽35両もしたというから、これはバカにならない産業となっていたのだと思う。砂金の方はその後どうなったのかははっきりしなかった。

 この地を安東家から代わって蠣崎家、そして松前家が治めるようになって以降は、それが落ち着くまでは原住のアイヌの人たちとの抗争があったが、最終的には武力で制圧してその後はアイヌの人々を収奪するかのような治世が行われたのだが、この地でのアイヌとの係わりについては、よく理解できなかった。明治になってからのこの地は、松前町とあまり変わらない経過発展を辿ったのだと思うけど、現在の農業振興策としては二ラの栽培に力を入れているようで、「ニラの町知内」とのPRが目立った。

 その後は道の駅に行き昼食休憩。ここへは未だ北海道の旅を始めたばかりの頃に来て泊ったことがある。トイレに入るとサブちゃん(=北島三郎)の唄が流れるようになっており、深夜に入っても歌が流れるので、困惑したことを覚えている。今はそのトイレもリニューアルされたようで、唄の方はトイレではなく売店のある駅舎の壁に取り付けられたスピーカーから絶えることなく大音量で各曲が流れ続けていた。サブちゃんはこの町の出身であり、町の誇りシンボルとなっているようだ。昼食の後しばらく休憩して、松前町の方へ向かう。

 途中福島町の道の駅に寄る。何もない道の駅だ。すぐ隣にこの町の生んだ二人の横綱、千代の山と千代の富士の記念館が建っている。ここは有料なので一度は見ているので今回はパス。そのまますぐに出発して松前町の方へ。少し行って、北海道最南端の白神岬によってその景観を味わう。風が強くて、沖は白波が立っていた。この先の日本海はいつ来ても風が強い。風に弱いSUN号なので、一度あわやひっくり返されるかという体験をして以降、今まで日本海側の道を通らないように努めており、今回も歴史探訪のテーマを掲げなければ来ることはなかったのである。白神岬は、本州最北端の大間崎よりも南に位置しているのを知っている人は少ないようだ。

 間もなく松前町に着いて、先ずは郷土資料館を訪ねる。松前町は和人の住む中心地だった所だから、改めて歴史のことを調べなくても凡その経過は承知している。自分的にはこの松前藩の治世というのは、米を中心とする経済体制だった江戸時代では、やむを得ない方策だったと理解はしても、やはり人道的に見ても好感は持てないのである。この藩の経済は近江商人などと結託して、成り立っており、「三方良し」を掲げての商いを広めた近江商人とは思えぬアイヌからの収奪の歴史を知るにつれて、ガッカリ感が膨らむのを抑えられないでいる。

 江戸時代の北海道支配の拠点としてのことよりも、そのご幕末から明治に入ってからのこの町の経過を見てみたいと思った。展示室は建物の2階に設けられており、縄文時代からの様々な資料が解説付きで展示されていた。戊辰戦争の辺りまでの資料はそれなりに整理されていて良かったのだが、明治になって以降の分については、あまり興味を引くものは見当たらず、少し残念だった。

 松前町には、この郷土資料館の他に武家屋敷や城跡などの見るべき場所があるのだが、今回はこれで終わることにしている。

 予定ではここに何年か前にオープンしている道の駅に泊ろうかと考えたのだが、行って見ると道の駅は海のすぐそばの崖の上に造られており、風をまともに受ける状態だった。これでは泊るのは無理だと判断して、一つ先の道の駅のある上ノ国町まで行くことにした。ところが行って見るとここも直ぐ下が海の崖の上にあって、やはり風は避けられない状況だった。この町には勝山館の跡があり、それは明日入り予定にしている。とにかく風が強いので、海の傍の道の駅は避けることにして、厚沢部町の道の駅に行くことに決める。途中にある江差の道の駅も海のすぐ傍で、とても泊れるような場所ではない。これらの町は明日もう一度戻って訪ねることにした。

 ということで厚沢部町の道の駅:あっさぶへ。17時少し前に着いて、今日はここへ錨を下ろす。厚沢部町はジャガイモの品種の一つメークインの生まれた場所である。夕食には早速そのメークインを買って来て塩茹でにして味わった。明日は上ノ国町、江差町そしてこの厚沢部の町の郷土資料館などを訪ねることにしている。

コメント
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