山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

自助・共助・公助

2020-09-19 04:38:47 | 宵宵妄話

 新しく総理が選ばれ、菅新内閣が発足しました。新総理は、事前の総裁選の折に「自助・共助・公助・絆」ということばを用いたのが気になりました。というのも昨年町内自治会の役員を引受ける際に、自分も挨拶でこの言葉を引用して、自治会の役割が共助であること、そしてその基盤が自助であり、さらなる支援として公助があるという話をしたからなのです。

 世の中の助け合いの仕組みは、大雑把にいえばこの四つのことばで示されるように思います。菅総裁がこのことばの中でどれを強調されたかったのか良く判りませんが、思うに彼の立場からは建前としては公助の大切さを言いたかったのかもしれません。しかし本音としては、自助の重要性を求めたかったようにも思われます。

 ま、どちらでもいいのですが、自分の自治会役員時においては、共助をどのように展開して行けばよいのか、大いに戸惑いながら町内の安全と安心の確保維持に取組みました。というのも共助というのは、平時においては極めて曖昧なコンセプトであり、その必要性は理解していても、住民一人ひとりの実感としての必要性は真に薄いものなのです。住民共通の大問題でも起きない限り、互いに助け合う必要などないのですから、平時においては町内会の活動は極めて低調になるのは当たり前のことなのかもしれません。それでも役員という立場では、皆さんが一緒に考えたり行動したり、或いは一緒に楽しんだり出来ることはないかと、無い知恵を振り絞って幾つかのイベントなどを思い立ったのですが、その実際は笛吹けど踊らずで、乗ってくれる人は一部のまた一部という状況でした。

 自然災害や公害など、暮らしに直接影響のある事件が起きない限り、共助のニーズは殆どなく、そのために何をするのかなど誰も真面目に考えなどしない、というのが現在の町内会や自治会の運営実態のように思います。特に自分の住むいわゆる新興住宅地における住民の間では、向こう三軒両隣どころか隣の家の人の顔もロクに知らないという家も多く、ましてや隣がアパートなどであったら、そこにアパートがあるということすらも意識しない無関心が当たり前となっている状況です。

 このような状態では、大地震の発生や猛烈な台風の襲来などのいざという時に、果たして共助なるものが成り立つのかどうか真に不安なことです。町内会のルールに従って、一応防災訓練などの行事は行っているものの、参加者は少なく、訓練内容もいざという時に本当に役立つかどうか疑問を覚えながらの取り組みであり、役員当事者だけが汗をかいて終るというのが実態のように思います。これには、町内会の活動の仕組みやあり方に問題が潜んでいることに加えて、強力なリーダーが不在であることも大きな要因なのだと思います。ま、このような分析はできたとしても共助の働く場というのは、普段は極めて少ないものであり、強化が難しいものなのだということが良く解ります。

 さて、共助の限界を思う時、何が重要かといえば、それはやはり自助なのだと思います。自助について一つの苦い経験があります。自分の任期中に、我が町内会内で5件の自動車盗被害事件が発生しました。最初の2件が発生した時、これは大変だと警察とも相談し、会員の皆さんには、会報等で何回か厳重な警戒をお願いしたのですが、その後しばらくの間に引き続き3件もの車の盗難事件が起きたのです。自動車盗は組織的犯罪が殆どで、犯人を捕まえるのも車を取り戻すのも困難なケースが多く、そのことも併せて警戒をお願いしていたのですが、思いは届かず、何とも惨めな結果となりました。。

 この事件を通して思い知ったのは、自助というものには明らかな限界があるということです。自動車盗被害のケースの場合は、いわゆる楽観性のバイアスというのか、人の持つ「自分だけは大丈夫」という考えがあり、それはいいとしても、その結果何の対策も講じないままにしておくということになり、そこを悪人どもに突かれることになるわけです。この自助の限界は勿論人によって異なるわけですが、政治の立場から安易に個人に対してその強化を求めることは困難のように思います。

 何故なら、自助力を形成している源になっているのは、生まれて以降の育てられ方、教育環境、自立してからの暮らしの環境・あり方、知識、経験等々個人の持つあらゆる要素が結実しているからです。つまり個々人の持つ総合力が自助力であり、それをどう強化発揮してもらうかは簡単なことではありません。人の持つ価値観や信念といったものも又重要な要素であり、これらのベクトルを合わせて生きるための環境に適応させて行かなければならず、今日のような変化が加速化している時代では、それが可能な人は数少ないように思われます。

 菅首相の本音が、もし自助力の向上というものだったとしたら、恐らくその期待は虚しいものとなるのではないでしょうか。自分の身は自分で守れ、先ず自分のことは責任を以てしっかりやれ、というのは当たり前のことだと思うのですが、今の世のように情報が溢れ乱れ飛び回っている状況では、自助力はますます弱まるばかりの感じがします。そして、人々は弱体化している自助力を隠すために鎧(よろい)を固めて個の殻に閉じこもり、その反動でオチャらけて踊ったり、意味のない笑いを振りまいている。へそが曲がった老人には、そのように世相が映るのです。

 もはや共助も自助もほどほどにして、公助をしっかり組み立て、国と世の安泰を図って頂きたいと願うばかりです。

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炎暑地獄の夏に想う

2020-09-12 03:59:06 | 宵宵妄話

炎暑の毎日が続いている。よくもまあ、こんなに暑い日が続くものだと、呆れかえるほどだ。昨年、今年と、この二年は、どこへも出かけることなく家で過ごしているので、2年連続この地の暑さを思い知らされている。というのも、いつもはこの時期は北海道の旅に出かけていて、必ず道東エリアを中心に暮らしていた。北海道も夏は暑いし、日中に木陰のある駐車場所を探すのは結構難しい。唯一安定して涼を求めうる場所といえば、根釧平野の広がる道東エリアなのである。

 勿論道東エリアと雖も暑い日が無いとは言えないのだが、朝夕は間違いなく涼しいし、根室や別海町、標津町、中標津町などでは涼しさを通り過ぎて、寒くて急ぎ冬ものの着衣を必要とする日もあるほどなのである。これらのエリアの中では別海町が一番気に入っており、長い時は1カ月以上滞在することがあった。今、それを懐かしく思い出している。

 結局愚痴となってしまうけど、この暑さはどういうことなのだろうか。ここ2年、夏の北海道行無しの暮らしが続いている。昨年は自治会の仕事に力を入れていたので、暑さを気にすることも少なかったのだが、今年はコロナ禍の中でずっと閉塞感のある毎日が続いており、8月に入って以降、炎暑地獄を味わうのを思い知らされている。

 9月に入ってもこの酷暑は止まることを知らず続いており、改めてこの異常さには不安と恐怖を覚えずにはいられない。これは間違いなく地球環境の問題である。この異常な暑さは、大都市で暮らす人たちには、もしかしたら、解っていないのではないか。ふと思うのは、大都市がこの異常な暑さを生み出す根源となっているのではないかということだ。それは新型コロナの感染者状況が示している感じがする。いずれの地方においても人口の一極集中が続いており、その度合いが酷い場所ほど新型コロナの感染が蔓延っている。そしてそれは日本国のみならず、世界のすべての国において同じ傾向を示しているようだ。

 人々が利便性を求めてメガポリスを指向する背景には、様々な環境破壊が負の遺産として生み出されている。それはもはやグローバルな関係の中でがんじがらめとなっている。国同士の関係が思想や建前とは無関係につながってしまっている。今の世のこのどうしようもない現象が地球環境の破壊をもたらしているのではないか。

 この炎暑を想うと、もはや人類に残された未来は僅かな時間しか用意されていないのではないかと思ってしまう。人類が地球全体を破壊し続けているのは間違いのない現実だ。人類はそのことを知りながら、自縄自縛の状態で更なる利便性を求めて破滅に向かっているのではないか。自分自身も全く同じ状況に居ながら為す術を知らない。

 もはやこのまま流されるだけなのかもしれない。残り少ない人生の今はになって、得体の知れない感染症に脅かされ、不気味な暑さの中で、自然災害の発生に怯えることになるとは、‥‥。思ってもみなかった人生の最終章のシナリオとなっている。只今思考停止の状況だ。

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偽ススキ(=セイバンモロコシ)の話

2020-09-01 04:09:26 | 宵宵妄話

 コロナ禍定着の感ありのこの頃、毎早朝の散歩が日課となっている。日の出少し前に家を出発して、約3時間をノンストップで歩く。歩きながら補給する水分は500CCのペットボトル一本。歩く距離は14kmほどか。今日は小貝川という利根川支流の堤防を歩くのがメインのコースだった。

 堤防を歩いていて、最近妙な違和感を覚えるものがあった。自分は道端の草たちに興味関心があり、その名前を知ることに長年努めて来ており、主な草たちの名はそれなりに知っているつもりなのだが、中には苦手なものもあり、その代表がイネ科の植物たちだ。特に春先の若草世代では、見分けることが難しく、見慣れているのに名前が判らない草が多い。例えば、稲の苗の小さい時の姿とエノコロ草やメヒシバの小さい頃の姿から、それらが育って稔りの秋となった頃の姿を想像するのは難しい。秋になり花が咲き、実が稔れば自ずと違いは明白となるのだが、幼草時に見分けるのは相当慣れ親しんだ人でないと難しいと思う。

 そのイネ科の植物の中にススキがある。ススキは秋の七草にも入っている季節の風情を表す代表的な草でもある。ススキは昔から知り馴染んできた草であり、穂が出なくても葉を見ただけですぐそれと判るのだが、今回妙な違和感があって気づいたその草は、葉は明らかにススキなのだが、花(穂)が全く違っていたのである。花が咲くまでは間違いなくススキと信じていたのだが、咲いている花は違うのだ。ススキとは似ても似つかない別系統のものなのだ。一体、何者なのだ、これは。と思った。

それで、すぐに図鑑で調べて見たのだが、どの図鑑にも載っていないのである。尤も図鑑は20年以上も前に購入したものだから、新参の外来種などは載せようがないのかもしれない。そこでネットで調べてみた。最初はススキの項で似たようなものを探したのだが、どの写真も違っていたのである。そこで気づいたのは、穂の形状からこれはモロコシの類ではないかと思った。それで調べてみると、あった!同じ姿の写真があり、そこにはセイバンモロコシと名が記されていた。

 セイバンモロコシは、漢字では西蕃唐土と書くらしい。唐土は古代中国のことだから、西蕃というのは、中国の西の方の蕃(=野蛮)な地方という意味となるのかもしれない。また、唐土というのはここでは植物のことだから、これはトウモロコシではなく別の黍(きび)のことを指すのであろう。つまり、この植物は中国の西方のエリア辺りが原産地で、それが今日本国に侵入して来ているということなのであろう。

更に調べてみると、この草は外来種で1945年頃に日本に侵入し帰化したらしい。北海道を除く全国エリアに広がっているという。この草は歓迎されない悪草であり、その成分中にシアン系や硝酸塩などの毒物を含んでいるという。従って牧草などには不向きで、牛などは見向きもしないという。北海道に侵入していないのは幸いなことだなと思った。牛が食べて死ななくても、その中に青酸カリと同じような成分が入っているとしたら、牛のお世話になっている人間には重大な影響がある筈だ。除去のための研究も進んでいるらしいけど、この草だけを除去するのは至難のようだ。何しろイネ科には多数の種類があり、必要不可欠の草も多いからである。今のところ、対処法としては穂が出る前に早期に刈ることしかないようである。一見すると、涼しげで親近感を覚えても不思議でない姿をしているのだが、その秘められた本性を知ると、敵意を感ずる草なのであった。

 今まで、葉ばかり見ていたので、ススキだとばかり思っていたのだが、真に迂闊だったと反省した。というのも、穂が出る頃までに堤防の草は刈られてしまうので、気づかなかったのだが、今回残った奴がススキではないことに初めて気づいたのだった。一旦それが判ると、存外至る所に蔓延っており、今まで騙されていたことに少なからず憤りを感じたのだった。

     

小貝川堤防に刈り残されて穂を出しているセイバンモロコシ。この場所だけではなく、利根川や鬼怒川の堤防にも多く見られている。

 

今の世、このところ騙しや欺き或いは裏切りなどの犯罪が急増している感じがする。ドロボーなども自動車を初め農家の生産物や家畜に至るまで、他人が丹精して夢を育てたものを盗むという真に悪質な犯罪が多発している。善意で成り立っている世の中を破壊しようとしているかのような悪意が膨らんで来ている。

 我が80年の人生の中で、これほど悪が蔓延り出したのを見るのは初めてのことだ。昭和の終戦後の貧しさと混乱世情の中では、食うために形振り構わず犯罪に手を出した者も居たと思うけど、現在のような悪質さは無かったように思う。農作物であればスイカ一個や大根一本を盗るレベルの犯罪はあったとしても、何十個ものスイカを一挙にトラックで持ち去るとか、或いは最近では子ブタや子牛を盗むというような悪質な話は聞いたことも無かった。

 世の中全体が豊かになると、一方で犯罪もその質においてより多く膨らむようだ。くるま社会、ネット社会の到来は犯罪のレベルを引き上げている感じがする。レベルだけではなく、性善説を否定するかの様な道徳、人倫の道を踏み躙(にじ)っている感じさえするのだ。ドロボー以上に怒りを覚えるのは、人を騙す行為である。電話詐欺は未だに後を絶たない。善意を装って善人を騙し、老人の蓄えを騙し掠め取るという行為は、殺人に等しい人道に悖(もと)る行為だ。総じて平和ボケの中で悪をのさばらせているのは、世の中の箍(だが)が緩んでいるのではないか。時々、法律(刑法)などを変える必要を感じている。詐欺の犯罪などは、殺人罪と同等の刑罰に処するべきだと思う。善意で更生を願うなどという甘い処置では、今の世もこれからの世も悪は蔓延るばかりであり、厳しく断罪すべきであろう。

 話がズレているのは承知しているけど、この涼しげな穂を風になびかせるセイバンモロコシを見ていると、こいつも我が国に侵入した悪質な犯罪者ではないかと、何故か怒りがこみ上げてくるのである。

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