山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第5日(その1)

2011-11-30 00:07:28 | くるま旅くらしの話

 

 

第5日 道の駅:公方の郷なかがわから道の駅:津田の松原まで

 

朝起きして外を見ると、今日も天気は良さそうです。旅先ではやっぱり天気の良し悪しが楽しみ方に大きく影響します。天気が良ければ気分は明るくなりますし、悪ければ暗い気持ちが背景に広がってしまいます。人間という奴は、本能的にお天気に大きく左右される生き方をしている動物のような気がします。

 

朝食を済ませ、さて、今日はこれからどうしようか。しばらく迷いました。何しろ昨日は高松の方へ行く予定だったのに反対側の方へ来てしまっています。大幅に予定を変えて室戸の方へ行ってみようかとも思ったのですが、いや、やっぱり高松の方へ行くことにしようと最後は昨日の考えに戻ることにしました。何しろ家内にしてみれば四半世紀ぶりの元の住まいのあった街を訪ねることになるわけですから、これを無視するというのは非情というものでしょう。

 

ということで高松の方に戻ることにしたのですが、家内からの要望があり、そのままメインの道を高松に向うのではなく、その前に脇町の卯建(うだつ)を見てからということになりました。卯建というのは隣家と並ぶ建物との間に防火用の仕切りを作ったものをそう呼ぶらしいのですが、このような知識は家内がボランティアで古民家などの建築物に関心を持つようになってからのことで、四国に在住の時には全く関心がなく、脇町がそれで有名だなどとは全く知らなかったのです。従って脇町といえば八十八箇所のお寺めぐりの際の通過点のようなものに過ぎなかったのでした。四半世紀の内に家内は少し成長し、それに引きずられてこのジサマもチョッピリ物知りとなれたのかも知れません。

 

ところで卯建といえば全く知らなかったわけではなくウダツということばだけは知っていました。ウダツが上がるとか上がらないとかいう時のウダツです。ありゃ何のことか知らんけどウダツといえば、男の出世度のようなものかと思っていました。多くの場合はウダツが上がったとは言わず、ウダツが上がらないという使われ方のようです。女性に対してはウダツの上げ下げはないようです。このウダツが防火用の仕切りだったなんて、それを知るまでには随分と時間がかかったものです。まさにジサマ自身がウダツが上がらなかった見本のようなものであるからでありましょう。

 

徳島からは高速道を使うことにしました。四国の高速道を走るのは今回が初めてなので、チョッピリ関心があります。脇町までは大した距離ではなく、風もなさそうなので、何時ものルールを無視してのことなのでした。途中PAなどに寄り高速道の様子などを窺いましたが、他のエリアのそれと何の違いもありません。ま、当たり前のことでありましょう。9時半過ぎに脇町にある道の駅「藍ランドうだつ」に到着。勿論初めて訪れる道の駅です。ここに車を置いて、少し歩いて卯建の町並みの散策に出かけました。

 

脇町がこの様な藍染製品の一大集積地だったとは驚きです。そのことを全く知らないままに5年間も四国で過したというのも更なる驚きというものです。町の中の大通りと思しき道の両側には、往時を偲ばせる立派な建物が連なっており、圧倒されました。いヤア、もっと早く知っていて訪ねるべきでした。酒と海の幸ばかりにうだつならぬ現(うつつ)を抜かしていた我が身のことを大いに反省したのでした。これほどの町並みはそうそうどこにでもあるものではなく、立派な文化財だなと思いました。20数年前は恐らくもっと優れた町並みが残っていたのではないかと、それを見逃したことを残念に思いましたが、後の祭りです。

 

町の中を歩いていると、ボランティアで説明をされる方が寄って来られて、卯建の説明をしてくれました。それによりますと、元々江戸時代に防火用壁として作られたものなのだそうですが、やがて商家の富の象徴として競い合ってその豪華さをひけらかすようになったということです。時代を経るにつれてその作り方も変化しており、家々の卯建を見ればいつの時代のものなのかが判るのだと、そのボランティアの方は話されていました。なるほどなあと思いながらも、さて往時の金持ち商人というのはつまらぬところで競い合ったりしたものだと、文化財のことは脇において、少々あきれかえる気分になったのは、現代に生きるジサマの何時もの考え方なのでありました。

 

町並みの中に骨董屋らしき店があり、その前を歩いているとそこの店主らしき人が声をかけてくれて、東京から来たというと、娘さんが東京に行っているということでちょっぴり親近感を抱いてくれたのか、特別に家の中を見せて下さるというのです。これは家内の方が興味を抱く出来事でした。店の方は勝手に?どんどん案内してくれた感じでした。この家も間口はさほど広くは見えないのですが、奥行は深くて途中に幾つもの部屋が作られていました。その部屋の幾つかには、店の方が集められたという江戸時代からの様々なお宝が所狭しと置かれていました。中には駕籠などもあり、好きな方にはたまらない骨董なのでありましょう。このジサマはといえば、家内の言動に引きずられて後をついてうろうろしているだけです。行きずりの旅人にこのように親切にしてくれるのは、お遍路さんをもてなしてきた四国の人々の古くからの伝統心なのかななどと思ったのでした。

 

家内は元々藍染には重大な関心があり、どこへ行っても藍染の布地や着物などにうるさい(?)関心を示す人なものですから、この町は絶好のお気に入り地のようです。藍染の店を見つける度にたちまち飛び込んでゆきます。一旦飛び込んだら早々簡単には出てきません。近くにその藍染の店を見つけて中に入ってゆくと、土地のおばあさんらしき人をつかまえて、何やら話し込み始めました。これに付き合っていたら大変なことになると、ジサマの方はさっさと車に戻りました。

 

卯建を見物しながらチョッピリ感ずることがあり、一首と一句を作って見ました。二つとも今は単なる町おこしの材料となってしまった卯建の、その昔の町の人々の誇りを思いながらジサマの心に感じた感想のようなものです。

 

・その昔(かみ)の栄華を誇りし家々の卯建は褪せて秋風の中

 

・営みは卯建に消えて今の秋

 

(続く)

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第4日(その2)

2011-11-28 00:20:55 | くるま旅くらしの話

 

第4日 神戸淡路鳴門道の淡路SAから道の駅:公方の郷なかがわ(徳島県)まで(続き)

 

 さて、四国に入ってからの予定ですが、午後にYさんのお宅をお邪魔するまでには少し時間がありますので、久しぶりに四国八十八カ所巡りの第一番札所の霊山寺にお参りし、その後でどこか温泉にでも入ろうかと考えています。車に戻り大橋を渡りました。霊山寺に行くには、板野街道と呼ばれる県道に入らなければならないのに、その入口を見落としてR11をそのまま通り過ごしてしまいました。いつもついて回っているチョンボです。家内には「又か」と無言で言われているのを感じました。

 

霊山寺に参詣する前に、家内が先にお昼にしたいというので、近くにある福寿庵という店でうどんを食べました。久しぶりに食べる四国のうどんです。本場は讃岐の高松の方なのだと思いますが、同じ四国の味ですから、やっぱり美味いのです。私の場合は超うどん好きなので、全国どこのうどんも皆美味いと思っていますが、順番を付けるとすれば、やはり四国が上位に来るのは間違いないと思います。この店のうどんもグーでした。お腹を満たした後は、お寺に参詣です。

 

霊山寺も久しぶりです。何度も来ていますし、四国八十八か所札所巡りも2回済んでいます。近くは52歳の時に自転車で全行程を13日かけての巡礼でした。勤務していた会社で30年勤続者に特別休暇が付与されたのを使ってのチャレンジでした。この時は川崎に住んでいましたが、この実現のために半年ほど毎日自転車で東京郊外の小平市にあった勤務先まで往復40kmほどの距離を通ったりしたのを懐かしく思い出します。あの時も巡礼のスタートはこの霊山寺からでした。今日も境内の中はお遍路の善男善女で賑わっていました。境内にある太子堂が修理中で、ネットが張られ足場板などが組まれていて、なんだか落ち着かない感じでした。相当に古い建物ですから、常に修理の箇所が出てくるのだと思います。本堂にお参りし、般若心経を誦して旅の安全を祈願したのでした。このようなことをしていると、本当に今四国に来ているのだという実感が湧いてきます。

 

霊山寺の参詣を終えて、温泉探しです。25年前とは大分変わっていますので、徳島県の温泉のことなど殆ど判りません本の情報によると土柱(どっちゅう)のある近くに温泉施設が出来たとかいうことなので、とにかくそこへ行ってみることにしました。板野街道を池田町の方へ向かい、途中でR318にある道の駅「どなり」に行ってみることにしました。どこか道の駅に行けば四国の道の駅のガイド地図があるかもしれないと考えたからです。25年前には道の駅などというものはまだ生まれておらず、現在どこにどんな駅があるのかは大雑把な資料でしか判らず、現地に行ったら判りやすい案内地図を求めようと思っていました。その最初の道の駅が「どなり」だったという訳です。この道の駅は山の中にあって、近くに御所温泉ホテルというのがありました。早速ガイド地図を求めたら消費税を含めて105円でした。しかも少し古いものでした。殆どの道の駅では無料で配ってくれるのですが、ここはケチだなと思いました。有料なら最新のものを用意すべきだと思いました。文句を言うほどのことでもないので、我慢して黙っていました。隣にあるホテルに立ち寄り湯ができないかと訊こうとしたのですが、声をかけても誰も出てきません。開店休業の感じでした。

 

ここへ来る途中に「御所の郷」という広い駐車場のある大きな施設があり、そこに入浴施設があったようなので、そこへ行ってみることにしました。土柱までは少し遠いのでもしかしたらYさんとの約束の時間に間に合わなくなってしまうかも知れないので、御所の郷に温泉があれば好都合なのです。行って見ると、立派な温泉施設があり、それで賑わっていたようです。四国の温泉といえば松山の道後くらいしか思い起こせないのですが、この頃は各地に続々と温泉施設がつくられており、その本物度はともかくとして、車で旅をする者にとっては真にありがたい環境整備だと思っています。というわけで御所の郷の温泉に早速入りました。何となく温泉ぽくない感じがしたのは、新しすぎてピカピカの施設だったからなのかも知れません。先ずは汗を流して満足です。

 

風呂からでた後は、偶々近くに徳島道の土成ICがありましたので、徳島まで迷わないためにもと、高速道を利用することにしました。終点の徳島ICを降りてR11に入り、吉野川の橋を渡って徳島市内へ。Yさんのお住まいは県庁の近くに位置しているようです。昨日の電話のお話では一方通行の道を入って行くということです。SUN号にはナビをとりつけていませんので、このような時にはやっぱりあった方が便利かなと思ったりもするのですが、ジサマの勘ピューターは初めての人のお宅を訪ねる時には存外の精度で機能するのです。今度も大丈夫だろうと変な自信を持っているのでした。

 

県庁を左に見て少し先の信号を適当に選んで左折して脇道に入りました。えいやあっ、という感じの選択でしたが、左右をきょろきょろしながら少し走ると、見えました!庭先に見覚えのあるキャンピングカーが留っていました。やった~という気分でした。Yさんもお顔を出されて、いやあ、とうとう来てしまいました、という感じです。やっぱりナビ無しでも大丈夫のようです。

 

それから後は何年来の知己のごとくにお宅に上がりこみ、まあ何を話したのやら、嬉しさと楽しさに溢れて思い出せないほどの時間なのでした。Yさんとは、昨年の北海道行で阿寒町の道の駅でたった一度だけお会いしただけの間柄に過ぎないのです。私どもも四国の高松に住んでいたこと、それからYさんの奥さんが家内と同郷の千葉県出身であられたことなどが、急速に親近感を膨らませてくれたのかもしれません。人と人との出会いは真に不思議です。毎日会っていてもまだ一度もその住まいを訪ねたことがない人がいるかと思えば、たった一度だけの出会いが決定的となってその後の親交が深まる人もいるのです。旅に出掛けるようになって、その不思議を何回か経験しています。これもまた旅の魅力に違いないと思っています。

 

Yさんと旅車の話となり、その装備などを見せて頂くこととなりました。家内が以前から助手席の椅子の坐り心地が悪く、腰に負担が大きいとブーブー言っており、何とかならないものかと販売店にも相談したのですが、スッキリしない返事ばかりで諦めていたのです。ところがYさんはご自分でレカロの椅子を取り付けられたというのです。それじゃあ、どんな具合なのか見せて頂こうと相成った次第でした。

 

いヤア、びっくりしました。助手席だけではなく運転席の方にも憧れのレカロの椅子がきっちりと取り付けられていました。全部ご自分で作業されたというのには只ただ驚くばかりです。それならばSUN号の方にもどうかと見ていただいたのですが、残念ながらベースの車が変わってしまっているため、取り付けは難しいのではないかというお話でした。仮にベース車が同じだったとしても、このジサマには取り付ける能力など全く持ち合わせていませんので、誰かに頼むしかないのですが、結局はこれは家内には我慢して貰う他ないと思ったのでした。

  

Yさんの車の運転席は小型飛行機の操縦席のような感じです。Yさんは電気工学の理論や技術に長けた方であり、旅車はその数々の思いが成果となって随所に散りばめられていました。後続車のために「お先にどうぞ」とか道を譲ってくれた車に「ありがとう」という言葉が現れる電光板やバックアイカメラも近距離だけではなく中長距離も見えるようにしてあるとか、驚くばかりです。それら各種の配線図がその歴史がわかるようにきちんと揃えられているのにもさすがだなあと思いました。外見は同じ旅車なのにその中身は天と地ほどの差があるのを知り、完全に脱帽です。愉しみながら一つずつアイデアを実現して行く、真に充実した趣味だなと思いました。このジサマには到底真似の出来ない才能です。

 

その後も歓談は続き、気がつけば夕暮れが迫ってきていました。慌てて辞去しようとしましたら、食事を一緒にというお話があり、辞退かなわずついつい甘えることとなってしまいました。ご案内いただいたのは、何とホテルの高階にあるレストランなのでした。水の都徳島の暮れかけた夜の景色を眼下にしながら、ご馳走を頂いているこのひと時が何だか不思議な夢のような感じがしました。

 

望外のおもてなしを頂戴した上に、奥様からはたくさんのお土産を頂戴して真に嬉しくも恐縮千万のお別れでした。本当にありがとうございました。

 

Yさん宅を後にして、今日の泊りは高松方面へ行き、途中の道の駅「津田の松原」にでも泊まろうかなどと考えていたのでしたが、途中道を曲がるのを間違えて、そのまま走っている内に急遽予定を変更し、小松島市の先にある道の駅「公方の郷なかがわ」に行って泊まることにしました。その理由としてこちらの方が近いしそれに明日もう一人の知人のMさんにお会いできるとすれば、好都合の場所だと思ったからでした。道の駅に着いた頃には日はすっかり暮れて、完全に夜の暗さとなっていました。如何にYさんのご厚意にどっぷり甘えていたかというのを改めて実感した次第です。          

 

道の駅に着いて直ぐにMさんへ電話をしました。突然の電話でしたので、かなり面食らわれたようでした。申しわけもなしです。明日はいろいろご予定が入っておられるとお聞きし、調整されるような雰囲気でしたので、それには及ばない旨をお話してご納得いただきました。真に人騒がせな振る舞いでした。いずれ又四国には遠からず八十八ヶ所巡礼の旅を考えていますので、その時にでもお会いできればと思いながら、今回は無理をしないことにしました。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第4日(その1)

2011-11-27 07:07:36 | くるま旅くらしの話

 

 

第4日 神戸淡路鳴門道の淡路SAから道の駅:公方の郷なかがわ(徳島県)まで(その1)

 

騒音まみれの一夜が明けて、寝不足で重い頭を宥(なだ)めながらとにかく朝食を済ませました。気分とは無関係に今日は朝からいい天気です。とにかくここは車の出入りが多くて煩(うるさ)いので、地図を見て近くにある道の駅に移動することにしました。ICのややこしい出口を表示に従って下りるとようやく外に出ることができました。道の駅「あわじ」に寄るのはもちろん初めてです。ほんの少し行くと、昨日渡った明石海峡大橋の巨大な橋桁の下に道の駅がありました。数台の大型のキャンピングカーが停まっていましたが、何か仲間内のイベントで待ち合わせでもされているのかもしれないなと思いました。

 

ここでしばらくゆっくりするつもりで、車を止めて付近を散策することにしました。大橋の完成を記念して造られた公園の中に道の駅がつくられているようで、なかなか良い所です。橋桁の下から見上げる大橋は、超弩()級の迫力です。こんなに間近で違った視点から大橋を見ることが出来るなんて、ここへ来るまでは想像もしていないことでした。それにしても、よくもまあこのような巨大なものが造れるものだなと、改めて驚き入った次第です。目の前の明石海峡は、潮の流れが相当に早いように見えました。あのどの辺にタコ君たちは棲んでいるのかな、などとよからぬ食べ物の想像を膨らませたりしました。ひっきりなしにたくさんの船が航行しており、やはり日本というのは海洋国なのだというのを教えられた感じがします。この頃は普段なかなか海や船を見るチャンスが無いので、うっかりすると日本の別の姿を忘れてしまいそうです。船倉の外壁にタコの絵を描いたフェリーが航行して行くのが目につきました。大橋が出来ても利用者が減らなければいいのになあなどと、高松在住時代の宇高連絡船のことなどを思い出しました。

 

近くの岸壁は多くの魚釣の人たちで賑わっていました。中には年配のご婦人なども交っています。「何を釣ってるんですか?」と訊くと、「メバル」との返事です。ということはこの辺りは岩場が多いということなのかもしれません。しかしあまり大きい型のものは釣れないらしく、コマセの餌に飽いた小魚が、うっかり引っかかって釣れているといった感じでした。それでも釣れないよりはマシなのかもしれません。私(わたし)的にはこのような釣りはご免を蒙ります。慾が深いので、大きいのが釣れなければ我慢が出来ないのです。嬉しそうに小魚を釣りあげているオバサンを見ながら、当方は見当違いのことを考えていたのでした。

 

未だ店も案内所も開いていない道の駅にいつまで居ても仕方ないので、とにかく、淡路島を横切って四国は徳島方面に向けて出発することにしました。四国を訪ねての最初の予定は、旅の知人を訪ねることにしています。昨年の北海道の旅で知り合った二家族が徳島市内にお住まいなのです。YさんとMさんのお二人なのですが、Yさんには予め電話で14時のアポイント済みなのです。Mさんの方はあとで電話してみてご都合が合えばお会いすることにしています。それまでたっぷり時間があるので、これからは先ず初めての淡路島を適当に寄り道を重ねながら鳴門の方に向かうつもりでいます。

 

淡路島は思ったよりもはるかに大きい島で、明石海峡大橋の出来た今ではとても島などとは思えない感じがします。島というのは、やはり船で渡って実感できる土地を指すように思います。今では橋が架かり、車であっという間に着いてしまいますので、島を実感するのが難しくなってしまった感じがします。便利になって得たものと失なったものとのギャップは、単に損得の物差しでは計れないもっと大きなものがあるような気もします。淡路島は島というよりも、今は名実ともに兵庫県の一地区というイメージが強くなりました。

 

それにしても明石海峡大橋は巨大です。三つある本四架橋の中で、単体としては明石海峡大橋が最長だそうですが、これを下から見上げると、不思議な感覚にとらわれます。細密精緻に組み上げられた無数の鉄の梁が、この地から一里以上も向こうの土地へ空を塞ぐようにして伸びているのです。何故人はこのようにしてまで巨大な橋を架けようとするのでしょうか。単に経済的な、或いは政治的な理由だけではない、何かもっと本質的、本能的なものがその奥に潜んでいるような気がするのです。恐らくその本質というのは、「つなぐ」とか「結ぶ」とかいう集団本能ともいうようなものなのかもしれません。この地と彼の地をつなぐというのは、私とあなたをつなぐという人の結びつきと同じであり、その仲立てのツールが橋なのかもしれません。人は一人では生きられず、他人との関係において初めて人となれるというのは、人間の根源的なとらえ方であり、まさにその通りだと思うのですが、この関係をつくるために必要なものの一つが橋なのだと思うのです。橋が出来てグンと近くなるというのは、単に距離感の問題だけではなく、心理的な世界にも大きな影響を及ぼす出来事なのだと思います。明石海峡大橋を真下から見上げながら、あれこれとそのようなことを思いました。人間はこれから先もたくさんの橋を架けてゆくのだと思います。と同時にこれからは架けた橋のメンテナンスが大変だなと思いました。つながり続けるということは、つながることよりも遥かにエネルギーを要することだからです。それは、私とあなたの関係、例えばジサマとバサマとの関係を見れば明らかなことです。あれれ、これは話が少し飛び過ぎたかな?

 

道の駅「あわじ」を出て、海岸線に沿って続くR28を鳴門方面へ向かいました。左方にはエメラルドグリーンの透明感のある海が輝いていました。海峡の流れが速いためなのか、濁るようなことはないのでありましょう。思ったよりもきれいな海が広がっているのに驚きました。高松で見ていた瀬戸内海とは違う感じです。淡路島に来たのは初めてです。ですから通る道も見る景色も何もかも初めてとなります。一つ気づいて何だか変な感じがしたのは、前を走る軽トラのナンバーが神戸だったということですね。淡路島が兵庫県で、所轄の陸運局は神戸なのだと気づけば、不思議でも変でもないのですが、北海道や関東辺りで出会う神戸ナンバーといえば、何となく上品で都会的なイメージがあったものですから、軽トラにも神戸ナンバーがあるなどとは予想もしなかったことでした。淡路島といえば、玉ねぎや花卉栽培が盛んな所ですから、農家の軽トラが活躍するのは当たり前のことでしょう。いやあ、失礼しました。

 

少し行くとフェリーの発着所らしいのがある東浦という港があり、そこが道の駅となっていました。ちょっと立ち寄りましたが、まだ時間が早過ぎて駅舎も店も開店前でした。SUN号を止める場所が見つからないほど駐車場に車が溢れていました。対岸の大阪エリアになどに向かうフェリーを利用する人たちの車なのかもしれません。でも大橋が架かって、この先はこのフェリーも又影響を受けるのだろうなと思いました。

 

R28は洲本市までは大阪湾に面した海岸線を走り、洲本からは山間部に入って南淡町の福良港で終わります。と思いきや、四国を結ぶ大鳴門橋は実はR28であって、徳島県に入ってもR11に出るまで続いているのでした。くるま旅をしていると、しょっ中地図を見るため、道路のナンバーには結構関心を持つようになるのです。二桁のしかもわりと若い番号がこの小さな島の僅か50kmほどの国道に使われているというのは、この道がかなり早く造られた重要度の高いものであったのか、或いはこの島に対する敬意を表した証なのか、よく分かりませんが、それなりの理由があるのだろうなと思った次第です。     

 

洲本を過ぎてからの山の中の道は、ここが島であることなど全く感じさせない雰囲気となりました。洲本市の郊外は日本中の何処にでもあるような、よく見かける大型店舗が道の両側に並んでいました。今回はこの道だけを通ることにしていますので、淡路島の淡路島らしい場所を感じる場所を通っているのかどうかよく判りません。ま、四国に渡る通過点として来てしまっていますので、仕方ありませんが、又来るチャンスがあった時には、2~3泊して島の各所をじっくり訪ねてみたいなと思いながらの運転でした。

 

福良港からは急な細い坂道を登って、鳴門大橋に向かいます。大橋の袂に道の駅「うずしお」というのがあるというので、橋を渡る前に立ち寄ることにしました。鳴門大橋は確か本四架橋が決まった頃にはもう完成していたか、しかかっていたような気がします。高松に転勤で住んでいた時に一度鳴門側からこの橋を見に来たような気がしますが、渡ってはいなかったと思います。どうも四半世紀も経ってしまうと、記憶というものは実に曖昧となってしまうようです。今となっては、今朝仰ぎ見た明石海峡大橋には及びませんが、25年前のその当時は、鳴門の渦潮を跨いで海に架かる大きな橋が出来るというので、四国に住む人たちにとっては大変な話題だったのでした。

 

道の駅「うずしお」はとんでもない場所に造られていました。日本一とんでもない場所ではないかと思います。断崖の背のような場所に造られた駐車場に車を止め、駅舎の店の方に行きますと、その裏が展望台になっていて、そこから橋の下の方に潮の渦巻く海峡が見えました。鳴門の大渦は有名ですが、実際にそれを間近に見るのは初めてでした。すごい迫力です。丁度一隻の中型の貨物船が渦の傍を流れに逆らって航行しようとしていましたが、殆ど前進することが出来ずまるで止まっている感じでした。如何に潮の流れが速いのか、恐怖を覚えるほどです。あの渦に巻き込まれたらあっという間に木っ葉微塵になって海中深くに飲み込まれてしまうことでしょう。しばらく驚きながら眺めていましたら、止まっていたはずの貨物船はいつの間にか流れを振り切って彼方へと去ってゆきました。展望台の下には渦潮をより間近に見るための小道が造られていましたが、あまりの恐ろしさに降りる気も起りませんでした。

 

車に戻り、さあこれから鳴門大橋を渡って四国に上陸です。ま、上陸といっても橋を渡っての話ですから、実感としてはあっという間の出来事であり、さほどの感動もありません。車で橋を渡るというのは、単に舗装された高速道を通行するようなもので、橋というものを実感するに相応しい行いではないような気がします。やっぱり歩いて渡るのが、一番というものでしょう。しかし高所恐怖症の気のある私には勇気というものを振り絞ってもなかなか出来ない行為だと思います。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷) 第3日

2011-11-25 01:25:50 | くるま旅くらしの話

 第3日 飛騨金山ぬく森の里温泉から神戸淡路鳴門道の淡路SAまで

 

 まあまあの天気の朝でした。四方を山に囲まれたこの道の駅は、飛騨からのR41からは少し離れている所為か、此処まで来て夜間に仮眠するトラックなどはいないようで、昨夜は真に快適な眠りを貪ることができました。

さあ、今日は旅の3日目となります。先ずは犬山市にあるテーマパークの明治村を訪ねることにしています。その後は、とにかく四国に向かうのですが、阪神エリア通過するのには、一般道だけでは時間も神経も使うことになり、煩わしさが思いやられますので敬遠し、名古屋からは東名・名神など高速道を使うことを考えています。恐らく泊りはどこかのSAかPAになるのではないかと思っています。とにかくどうするかはその時に決めることにしています。

明治村の開園は9時半ごろです。それに合わせて着くようにする

には、ここを8時頃に出発するのが妥当ではないかと考え、少し早めに朝食を済ませ、出発の準備にとりかかりました。旅の毎朝の出発はいつもは大体9時頃ですから、それよりも1時間も早いというのは、少々リズムが狂うということになります。今日の主役はあくまでも家内の方なので、それに合わせることが肝要です。自分としては明治村に着いても中には入らずに外で待つことにしており、単なる運転手役のつもりでいます。ですから、安全運転を心がけるのみであり、はしゃぐ気分も何もないのですが、家内の方は今までの念願の幾つが叶うらしく結構興奮しているみたいでした。

 出発です。天気はグンと良くなって、青空が広がっています。気分も上々です。名古屋に向かう飛騨路(?)の車の流れは順調で、美濃加茂市街を過ぎてもラッシュの渋滞とは無関係でした。さすがに犬山市近くになると、若干の渋滞が見られましたが、大したこともなく直ぐに明治村の案内板が迎えてくれて、すんなりと開園10分前には到着しました。広大な駐車場には、まだ数台の車しかなく、大変な開放感です。

 ここは入園料が大変高い所です。興味・関心があれば恐らくそれに相応しい価値あるものを得ることが出来るのでしょうが、今のところ歴史的建造物などにはさっぱり関心が無く、明治という時代のことも突っ込んで知りたいと思うこともないジサマは、遊園地気分で高額料金を払って見物する気などはさらさら起こらず、バサマが戻るまではおとなしく別の仕事をしながら待つことにしています。恐らく5時間ぐらいは掛るのではないかと思っています。それはもう計算済みなのです。

家内は早速手回りの荷物を抱えて、いそいそと門の中に消えてゆきました。自分の方にも一応は予定というものがあって、いろいろやることはあるのです。先ずは車の清掃です。もう2カ月以上も車の外回りの手入れをしていません。辺りを見回しても水を使えるような設備が無いようです。歩きまわって調べましたら、少し遠い所に水を汲める設備がありました。清掃と言っても車の外回りを布地で水拭きするだけの話です。車の図体が結構大きいので、拭き終えるまでには時間がかかります。外回りを終えたついでに内部の方もきれいにすることにしました。清掃作業というのは不思議な力を持っているようで、普段はなかなかきれいにする気が起こらないのに、一旦やり出すと思ってもいなかった箇所にまでちょっかいを出してきれいにしようという気になるのです。少々汗をかきながら、車の内外の清掃が終わった時にはもう昼近くになっていました。

一息入れてその後は、旅の記録の整理などに取り掛かりました。旅の際にはパソコンは必携です。旅の中での出来事や写真等を収めておくツールとしては、大いに役立つものだと思っています。これから先のルートなどもあれこれ思いを巡らしながら、そういう時間の中に埋没していましたら、たちまち又2時間近くが過ぎ、時計は14時を回っていました。見学を終えたら電話をして貰うことになっているのですが、一向にその気配が無いようです。恐らく園の中で誰か新しい人などに出会って話に夢中になってしまい、戻る時間のことなどはどこかに忘れ去ってしまっているに違いありません。普段から腕時計を嵌める習慣が無く、もしかしたらわざとそうしているのかもしれませんが、家内という人は夢中になると時間のことは忘れてしまう人なのです。後の予定が無い時ならば、どうぞお好きなようにと言えるのですが、今日はこれから阪神を経由してあわよくば四国にまで足を踏み入れようとしていますので、あまり遅くなると困るのです。

あれこれよからぬ心配をし出した頃にそれが届いたのか、タイムリーに携帯電話が鳴って、見学が終わったとの連絡があり、間もなく意気揚々のご帰還となりました。いろいろ収穫があったようで、何やら話したそうでしたが、これから先の予定がありますので、それらの話は後にして貰って、出発の準備に取り掛かりました。これでどうやら今日中に淡路島辺りには入れそうです。今日のこれからは殆どが高速道の通行となる予定です。SUN号は風に弱いので要注意です。                               

14時半頃、明治村を出発し、小牧ICから名神高速道に入りま

した。木曽川長良川、揖斐川の橋を渡って、養老SAにて小休止です。相変わらず混雑しているSAでした。ここから先は給油時を除いては明石海峡大橋を渡るまでノンストップで走る予定です。途中は買い物も出来ないと考え、売店で食料などを仕入れました。後は一気に京阪を走り抜けるだけです。直ぐに出発して、少し走って多賀PAという所で給油を済ませ、引き続き走り続けて京都に入ったのは17時ごろでしょうか。ただひたすらに走るだけの時間は、旅をしているという実感は少なく、ある種の義務感に捉われている感じで運転に集中するだけです。吹田から中国道に入るのですが、その手前が少し渋滞していました。でも中国道に入ると、ここは十分に空いていて、走行には何なの問題もありません。次第に暗くなり出して、夜の帳(とばり)が下りはじめました。神戸JCTから山陽道に入り、更に三木JCTで神戸・淡路・鳴戸自動車道へ入ると間もなく明石海峡大橋です。神戸側から見る淡路島は光の塊が点在して幻想的な景色なのですが、車を運転しながらでは、それを味わうゆとりなどありません。念願の大橋の走行も、只の高速道の延長に過ぎず、夜の暗さの中では、初めて通るという感動もさっぱりでした。橋の向こう側にひときわ明るい光の塊があり、何やら一大イベントでも行われているのかと思ったのですが、橋を渡ってゆくとそこが淡路SAなのでした。今夜はここに泊るつもりです。           

明石海峡大橋は全長が約4kmほどですが、実際の通行ではそれ

よりも1kmくらい長い感じがします。今渡って来た橋を姫路SAの方から見ると、巨大な支柱から吊るされたロープに取り付けられた電飾電球が、時々色を変えて夜空を優雅に彩っていました。人工的とはいえ、なかなかの景観です。人間の力というもののバカにならない大きさを改めて感じました。よくもまあ、こんな橋を造ったものです。                                     

SAには夜の明石海峡大橋や神戸の夜景を見ようとやってくる人

たちも多いようで、かなりの車で混雑していました。照明がキラキラと眩しくて、そうそう簡単には眠れそうもありません。それでも今日の走行距離は300kmを軽く超えていますので、食事を済ませた後は早やめに寝床に入ることにしました。ところが一晩中騒音は絶えることなく続いて、いやはやこんな所に泊るんじゃなかったと、後で大いに反省したのでした。ここは、トラックはそれほど多くはないのですが、一般車の方が多く昨夜は偶々なのでしょうが、直ぐ近くにマフラーを改造したRV車の奴がおり、これが明け方まで頭に響くような音を出し続け、そのためジサマの発する怒りは心頭を揺さぶり続けていました。もううんざりです。その車の番号は、「神戸 330 3637」でした。この車の運転者は無神経ズボラ性格な自己中心的バカ者です。保証付きです、はい。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷) 第2日

2011-11-23 00:02:17 | くるま旅くらしの話

 2日 信州蔦木宿から飛騨金山ぬく森の里温泉まで

 

6時起床です。ジサマは毎朝自動起床ですが、バサマの方はグズ

グズ起床です。これは早朝血圧のリズムの問題なのかも知れません。今日は快晴です。四方を山に囲まれていて、頭上には澄み渡った青空が広がっています。真に爽秋という感じそのものです。気温は、恐らく一桁なのだと思います。寒さを覚えるほどです。

さて、今日の予定を決めなければなりません。実は今回の旅では、家内の要望で名古屋近くの犬山市にある明治村に寄ることにしているのです。私の方はそのような所は無縁なのですが、家内は東京都の文化財のボランティアをしていて、少し古い建築物の解説などを担当しているらしく、その関係で何やら明治村にある建物を見て参考にしたいという話です。無理すれば今日の午後からその見学も可能かもしれませんが、時間不足で中途半端な見学となってしまうに違いありません。ですから明治村の見学は明日の午前中からの方が良さそうです。そう判断して、今日は木曽路(=R19)の古い宿場町を訪ねながらちんたら行くことにして、名古屋に近いどこか適当な場所を見つけて泊ることにしようと決めました。勿論、高速道路は使わずにこのまま一般道を行くことにしています。

 旅の朝の出発までの時間は、食事の後に近所を散歩することが多いのですが、今日は予定を決めた後は直ぐに出発することにしました。この道の駅はトラックが多く、夜中でもエンジンを掛けっ放しの車などがいるので、昨夜のそれらの排気ガスがこの辺り一帯に淀んでいるような感じで、せっかくのいい天気を台無しにしている感じがします。こういう時には長居をしない方が身のためというものです。

このトラックのエンジン掛けっ放しというのは、明らかに公害の一つであり、社会的にもっともっと厳しく規制をすべきだと思います。ドライバーのために必要なのなら、エンジンを掛けないでも快適な睡眠を確保できる環境をトラックメーカーも業界も用意すべきだと思うのですが、一向にそんな動きはありません。ドライバーだけを責めても仕方ないように思います。経済優先、効率優先ばかりでは、環境汚染はやがて決定的な時を迎えるに違いありません。旅に出掛ける度にこのトラックの騒音と排気ガスには悩まされ続けています。

 8時過ぎR20を諏訪方面に向けて出発です。盆地は益々狭くなり、次第に山が迫って来ます。とうとう山道となりました。しばらくは順調な流れだったのですが、間もなく車の流れがおかしくなり出し、次第に渋滞気味となりました。こんな山の中の道なのに、なんで朝から渋滞なのか解せません。何か事故でもあったのかと思いましたが、どうやらそうでもなさそうです。こりゃ、もう少し先まで高速で行くべきだったのかなどと思いつつ、しばらく我慢して渋滞の中をノロノロ進んでゆくと、ようやく流れが改善され出しました。自然渋滞だったようです。気がつけば、この辺りには精密工業の工場が点在しており、そこへ勤務する人たちの出勤の時間帯だったようでした。注意して見ていると左右の小道から通勤と思しき人たちの車がひっきりなしにR20の方へ入ってくるのです。この辺りの人たちは車を使っての通勤が当たり前となっているのでありましょう。馴れている人は気にならないとしても、他所者には少し迷惑な話だなと思いました。これは暇人のエゴなのかもしれませんが。

 茅野(ちの)市に入り、坂を下って少し行くと諏訪盆地に入ります。この盆地は諏訪湖が用意したものなのか、湖を取り巻いてほんの少ししかありません。諏訪といえば温泉、諏訪大社のお祭り、冬の諏訪湖のお御渡(おみわた)りとワカサギ釣りなどが有名ですが、私の場合は諏訪の北部に広がる霧ケ峰高原や美ケ原高原への入り口としての思い出が一番です。その昔の独身時代には殆ど毎年一人で霧ケ峰高原に初夏のニッコウキスゲの花を見にやって来たものでした。あの黄金のジュウタンのような高原の花畑の広がりは、今でも懐かしい記憶としていつでも思い出すことが出来ます。あの頃は上諏訪の駅を降りて日に2~3本しかないバスに乗っていそいそと出かけたものでした。ここを通る度に甦る思い出です。

 結局渋滞は茅野付近での20分ばかりの時間帯で、その後は諏訪市内も岡谷市内も信号に何度か停められただけで、無難に通過することが出来ました。岡谷を過ぎて少し行った所に道の駅「小坂田公園」というのがあったので休憩しようかと寄ってみたのですが、ここは何だか迷路のようなレイアウトの道の駅で、どうも落ち着かない雰囲気なので、そのままパスすることにしました。少し行くと甲州街道のR20は終わり、塩尻の市内でR19に変わります。同じ道なりなのにそのまま木曽街道となるのは面白いなと思います。気がつけば道はいつの間にか左に曲がって、南下することになるのです。塩尻から10kmほど行くと道の脇に贄川(にえかわ)の関という案内板があったので、ちょっと覗いてみました。その昔の関所ということです。ここは昔中山道の33番目の宿があった所とか。ここの関所がどのようなものだったのかよく解りませんが、旅する者にとっては面倒で厄介な場所だったに違いないと思います。直ぐに少し先の奈良井宿へ向かいました。

川沿いの道を進んで行くと、山は次第に深くなり、秋の色が山容を彩り始めました。木曽路というのは本当に山の中の道だなあと実感します。いつの間にか左から右側に変わった奈良井川に沿って、左右に大きな山が迫ってきていますが、それが秋の色に染まり出して、南下するにつれて紅葉が鮮やかさを増して来ています。関所の少し先に「木曽ならかわ」という道の駅があったので、ちょっと覗いてみました。駅舎の売店には木工芸品がたくさん陳列されていました。この辺りは木曽の木工細工の盛んな所のようです。予てから木製の盃のいい奴が欲しいと思っていましたので、もしかしたら気に入るものがあるかもしれないと密かに期待しました。今までいろいろな旅先で随分と探したのですが、気に入っても皆高価過ぎて手が届きません。指1本くらいの値段なら奮発して買っても良いと思っているのですが、今までそのようなものにめぐり合ったことが無いのです。 結果的にここも叶わぬ夢の場所でした。正月などの屠蘇用の重ね盃は6万5千円もしていました。こんなに高いものよりも、その分で少しいい酒を手に入れてコップで飲んだ方がまだましだと、何時もそうなので、いつまで経っても盃は手に入りません。これからも同じようなことを繰り返してゆくのだと思います。これが自分という酒のみの生き方なのでありましょう。                       

直ぐに、奈良井の宿に着きました。SUN号をJR奈良井駅前の

駐車場に止めて、少し腰を据えて街並みを訪ねることにしました。ここは今まで何度か通っているのですが、寄らないで通過ばかりしています。今回はじっくり見てみようと思った次第です。家内もこの宿場町には大いに期待しているようで、張り切っています。彼女の場合は、ボランティア活動に大いに関係があるようで、特に宿場町の建物などに興味があるようです。私の方は、単なる野次馬に過ぎず、江戸時代の旅人になったつもりで町の表や裏通りを覗きまわって見たいと思うだけです。勿論ここからは二人別行動です。

奈良井は川沿いの谷に沿った、細長い宿場町で、その昔は奈良井千軒と呼ばれるほど中山道の宿場町の中でもかなりの賑わいを見せていた所とのことです。JR奈良井駅は宿場の北はずれの方にあり、そこから2km足らずの細い街道にその昔の宿屋や物売りの店などの建物が櫛比しています。櫛比(しっぴ)というのは、文字通り櫛の歯のように殆ど隙間なく建物が並んでいる様をいうことばですが、ここはそれがぴったり当てはまる景色だなと思いました。今は大きく時代が変わって、宿屋は民宿になりその数も少なく、多くはお土産品などを売る店となっています。ですけど、どの家にも昔からの屋号を表記した新しい木札が掛けられていて、良い雰囲気でした。文化財としての景観をより価値あるものにしようという試みなのでありましょう。宿場を貫く街道の町並みの所々に水場があって、山からの湧き水と思われる清冽な流れが心地よい音を立てていました。数百年の昔から、ここを旅する人たちの喉の渇きを癒してくれた水なのだと思います。大自然の恵みを感じました。                                                   

町並みを貫く大通りを逸れて脇道に入ると、それぞれの建物は間

口の狭いわりには、奥行きが意外と長い造りとなっているのがわかります。私はどこへ行っても裏通りを覗くのが好きなのです。表の華やかさ、上品さとは違って、そこには忘れられがちな本物の生活の破片が、疲れを滲ませているような気がするからです。それは日本だけではなく、外国へ行ってもそうでした。奈良井では道端の荒れ地に咲く野菊の花が印象的でした。街並みの外れにある神社らしき所に詣でました。旅先では神社などに出会った時には、ふらりと立ち寄ることにしています。神社というのはその昔からここに住んだ人たちが心の拠り所としてきた場所であり、それだけでもお参りする価値があると勝手に信じ込んでいます。

神社の横に石仏が集められた箇所がありました。そこには百地蔵とか書かれていましたが、どうやらこれは近世になって鉄道敷設工事や新たな国道建設にあたって、宿場の街道筋にあった多くの石仏をここにまとめて供養したもののようです。百地蔵といえば地蔵菩薩を祀るものだと思いますが、良く見るとその大半は観音様の像なのでした。柄にもなく、怪しげな歌と句をひねりました。                                               

・新しき屋号札のみ目に入りて奈良井の宿は人疎らなり

・幾百年行く旅人を癒し来て尚迸(ほとばし)る奈良井の水場

・野菊咲く奈良井の宿の忘れ道

・忽然と秋の風吹く百地蔵

こりゃあどうも締りのない作品ですな。載せない方がよかったかな。

 このぶら歩きの間、家内の方が何をどのように見ていたのかは全く知りません。どうせ車に乗れば、これからいろいろ聞かされますから、その時にはとにかく相槌だけはしっかり打たなければと思っています。2時間ほど滞在しましたが、とても良い時間でした。木曽路にはこの先にも福島、妻籠、馬籠など幾つかの著名な宿場町がありますが、今日は奈良井の宿だけを念入りに見て、あとは、次の機会にしたいと思っています。

JR奈良井駅を出てR19に入るとすぐ傍に道の駅「奈良井木曽

の大橋」がありました。こちらの方に駐車した方が宿場町の散策には好都合だったなと後で気づきました。道の駅の傍の奈良井川に木造の太鼓橋が架かっており、これが奈良井の大橋というものでした。岩国の錦帯橋の橋げた一つ分くらいの大きさでしょうか。何か謂れがあるのかもしれませんがよく分かりません。小さいけど何となく大橋の風格のある橋でした。                

少し走って日義村にある道の駅に到着しました。この辺りは往時

の木曽駒と呼ばれる軍馬の名産地であったとのことです。今は名前だけが残って、それらしき風景も雰囲気もありません。それはそうでしょう、今は馬を使っての戦(いくさ)など考えられませんし、競走馬と戦用の馬とは全く別なのですから。ここ2~3百年の間に、人間世界は殺りくの用具を想像もつかないほど凶悪なものにしてしまっているのです。ここで軽く昼食を済ませて、先に進むことにしました。木曽路というのは、本当に深い山の連続です。久しぶりの木曽路の景観を味わいながら南下を続けました。

R19沿いの道の駅「賤母(しずも)」近くになってふと思ったの

は、このまま中津川の方へ行ってしまうと、名古屋に近づき過ぎてしまうことになり、明日のことを考えると少し問題があります。木曽街道にはこの先泊るに都合のよい道の駅なども無いのでちょいと厄介です。それで賤母の道の駅に立ち寄りしばらく地図などを眺めることにしました。その結果判ったのは、少し遠回りの感じがするけど、飛騨の方からくるR41へ出た方がいいということです。ここからだと少し先の坂下町からR41につながるR256があるので、急遽それを行くことに決めました。R41の方が名古屋に近い場所に幾つか道の駅がありますし、明日明治村に行くにも好都合なルートだと気づいたからでした。R41に出たら金山町という所にある温泉のある道の駅に行き、そこに泊ろうと思ったのです。

 坂下町から右折してR256に入りました。初めて通る道です。途中までは国道らしかったのですが、しばらく行くと何だか畑の中の細道となってしまい、これはどうしたことかと不安が膨らみました。地図上では太く赤い線となっていても、実地には赤い線などあるわけもなく、こんなにも細い田舎道となってしまっています。道を間違えたのかなと思いましたが、とにかく行ける所まで行って見てそれでも駄目だったら引き返そうと思って構わずに進んでゆきました。この道を通る田舎の人たちは、馴れているのか運転が乱暴で、危うくぶつかりそうになった車が何台かありました。都会の混んでいる道の方が、車の運転の安全度が高いような気がしました。どうやら道を間違えてはいなかったようで、しばらく走るとR257に出てそこからはR256はR257と同じ道となりました。後で気づいたのは、坂下町からではなくもう少し先の中津川の所から直接R257に入った方がずっと楽だったということです。全国を旅しているとこのような不本意なルートの選択をしてしまうことがよくあるのです。これは恐らくナビなどを使ってもダメな話ではないかと思います。私はナビなし主義なのです。

 R257の本道に合流した後は、道路はずっと国道らしくなって、何の問題もありませんでした。付知町、加子母村などという初めて聞く名前の町村を通って、温泉で有名な下呂町へ。下呂町の郊外で飛騨の高山の方から来るR41にぶつかり、左折してここからはR41を南下です。中山七里と呼ばれる如何にも飛騨路らしい渓谷を走って、金山町の上市場という交差点を右折して郡上八幡に向かうR256をほんの少し行くと、道の駅「飛騨金山ぬく森の里温泉」がありました。今回初めての来訪です。四方を山に囲まれていますが、結構開放感のある広場があり、なかなか良い所です。道の駅の反対側に日帰り入浴の温泉施設があって、そこにも大きな駐車場がありました。夜間のトラックの騒音のことを考えると、道の駅よりも温泉施設の方がいいと考え、そこの受付の人に聞きましたらOKとのこと。これで一安心です。風呂には少し早いかと休憩していましたら、何と又雨が降ってきました。それならば、と先ずは温泉に入ることにしました。

ここの温泉施設には、露天風呂の他にもサウナなど一通りの設備が揃っていて、泉質も良く満足のゆく温泉でした。1時間ほどゆっくりとお湯に浸り、車に戻りました。温泉から上がれば為すことは決まっています。ビールを一杯やって、後は寝るだけです。今日は昨日よりも長距離を走って疲れました。それは家内も同じだったようで、今日はガサゴソをさせる間もなく、二人ともあっという間の爆睡です。夜間も何の騒音もなく雨も殆ど降らなかったようで、ストレスのない一夜を送ることができました。ここはくるま旅の人には、お勧めの場所だと思いました。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第1日(その2)

2011-11-21 05:09:25 | くるま旅くらしの話

 

 

第1日 自宅から長野県は信州蔦木宿まで(続き)

 

八王子を過ぎて、中央道は山の中に入って間もなく談合坂SA。ここで小休止です。談合坂というのはどういういわれの地名なのかといつも気になっていましてね、だけど調べるのを直ぐに忘れてしまい、長いこと思っていたのは、その昔名のある武将同士か何かがここで重要な話し合いでもしたのかなと思ったりしていました。ようやく気づいて調べてみたら、地名研究の専門家によりますと、談合というのは、元々は「段処」ということばから来ているのだと書いてありました。つまり段のある所という意味だそうで、まあ、勾配の急な坂や山といった意味なのでありましょう。なるほどと思いました。ついでに団子坂というのについても書いてありましたが、これも元々は同じような意味だったとのこと。この地名という奴はおもしろいものですなあ。あ、いや、談合坂のいわれなどをいうつもりではなく、元の話は、ここでちょっと休んで昼食にかけソバを一杯食べたということだけなのです。腹一杯ではなく、一番美味い汁も吸わずに、軽くソバだけを一杯食べたという哀れな話なのです。何しろ糖尿病なので、カロリー制限には厳しく対処しなければならず、そのくせにどうしても晩酌を欠かすわけにはゆかないものですから、本当は昼飯なんぞは抜くくらいの覚悟が必要なんです。だけど、腹が減っては車の運転という戦は出来ないので、かけソバ一杯を、汁を残して食べたというみじめな話を強調したかったのです。食べ物の恨みは大きく、これはもうやけくそな気分なのです。おそまつさま。

その後の高速道は順調な流れで、笹子トンネルを抜けて甲府盆地に入り、少し行って予定通り甲府昭和ICで降りてR20の甲州街道へ入りました。私どもの旅は、やむを得ぬ場合を除いては、高速道は使わないことにしています。それはお金の問題よりも、楽しみの問題なのです。私の経験的人生訓として、世の中というものはスピードを上げれば上げるほど真実が見えにくくなるという考え方があります。走っている時よりは歩いている時、歩いている時よりは止まっている時の方がそこにあるものの本当の姿が良く見えるのです。高速道よりは一般道の方がより以上のいろいろなものとの出会いが期待できるというものです。今回はそんなに急いで四国まで行かなくてもいいので、途中一般道を行けばそれなりに面白いものを見たり聞いたりできるというものです。ここまで高速で来たのは、今夜の泊りのタイミングを考えてなのだと申し上げておきましょう。もしずっと一般道で来たのなら、蔦木宿まで届くかどうか判らず、あまり遅くなっては温泉や夕食の余裕がなくなってしまうからです。

R20は甲州街道と呼ばれている道ですが、もう既に甲府は通り越してきてしまっていますので、江戸を中心にものを考えると、何だかこの道をそう呼ぶのは変なような気がします。甲府へ行くのではなくどんどん木曽の方に向かっているわけで、甲州街道の頭に反とか逆とかいうことばを付けないといけないんじゃないかなどと思ったりしています。もっとも名古屋からの旅でも甲府に向かうのだからやっぱり甲州街道でいいのか、などとどうでもいいようなことを気にしながらの旅路となりました。要するに今の世では甲州街道などではなく、これは国道20号線なんだ、とそう気づいて納得。我ながら理屈に世話の焼ける奴です。

韮崎を過ぎて釜無川上流に僅かに広がる甲府盆地の端の方に白州町があります。ここに道の駅「はくしゅう」があります。ここまでくれば今夜の宿を予定している蔦木宿はもうすぐです。予定よりも少し早く着きそうなので、ここで少しゆっくりすることにしました。白州町には尾白川という清流がありますがその他にも日本アルプス(=南アルプス)からの伏流水が湧くなど、ここは名水の里となっています。それら名水を用いたサントリーの白州工場もあります。この道の駅にも水汲み場がつくられており、私どもも来る度にその名水を頂いているのですが、今日は飲料水として奥多摩の三頭名水をポリタンに入れて持参しているので、ここの水は飲料ではなく洗い物用として水槽に40Lほど入れることにしました。贅沢な水の使い方です。旅の時には水が無くて困ることもあるのですが、このように贅沢三昧の水の使い方の時もあるのです。タダなのにものすごくリッチな気分になれるのは元々貧乏性だからなのでしょう。SUN号の水槽は、満タンにすれば80Lくらいは入るのですが、なるべく負担を掛けないようにしてやりたいので、思いっきり我慢して給水は半分くらいで止めておきました。

私は水には大へん関心があって、今は在宅の時には、月に一度奥多摩の三頭山麓まで出かけて行き、毎回100Lくらいの水を汲んで来て使っています。三頭名水は結構人気があって汲む人が多いため、一日がかりの仕事となっています。白州町の様な所に住んでいたら、いつでも美味い水を飲めて良いのになあと羨ましく思いますね。人間の体の大半は水で出来ており、水の良し悪しは健康に直結していると信じて疑いません。旅先で新たな名水に出会うのも楽しみの一つとなっています。

白州の道の駅からは天気が良ければ甲斐駒ケ岳が望めるのですが、今日はダメだったですね。残念です。若い頃には山に憧れ、特に南アルプスが好きで甲斐駒には何度か登っています。一番の思い出は、あのコブの上で昼寝をしていて寝過ごし、目覚めたら下から雷が追いかけて来てあわてて逃げ惑ったということです。今はもう山へ行くのは半ばあきらめています。この季節、天気が良ければ今頃はもう頂きに初雪を載せているかも知れません。

白州の道の駅を出て15分ほど走ると、今日の宿の道の駅「信州蔦木宿(つたぎしゅく)」に着きました。白州町は山梨県ですが、蔦木宿のある富士見町は長野県です。そんなことから、この道の駅の呼び名には、敢えて信州などと断りを入れているのかもしれません。旅人から見れば、県などどうでもいいことだと思えるのですが、そこに住んでいる人たちは結構境界線などにこだわるようです。旅人には、渡り鳥と同じような感覚があるように思います。全国を旅して回るようになってから、次第にそう思うようになりました。この世には本来境界線など何もないのだということです。でもまあ、鳥たちよりは少しエリアを意識してはいますけど。

予定よりはかなり早く道の駅信州蔦木の宿に到着しました。これならば、も少

し足を伸ばして、諏訪あたりで温泉に浸り、近くの広場などに泊るのも良いかななどとも思いましたが、それほど急ぐニーズがあるわけでもないので、やっぱりここに泊まることにしました。まだ16時になったばかりです。道の駅にある温泉に入るには少し時間が早すぎるので、先ずはその前に泊る準備をすることにしてTVの設定などに取り掛かりました。

今回の旅では、BS放送を受信してみようと、アンテナを用意してきました。勿論TVの受像機の方はBSもOKの奴です。アンテナをつないで、磁石を取り出して北西の方角に合わせてと、いろいろやってみましたが、どうやっても結局何も映りません。ここは四方が山に囲まれていて、付近の人家を見てもBSアンテナはおろかその他のTVアンテナらしきものはなにも見当たりません。とにかくこれじゃあお手上げです。環境条件が悪すぎることにして諦めることにしました。もう一つ用意してきたUHF用のアンテナを試す気も起こらず、その後は雑音まみれのラジオを聞く羽目となりました。家内は、「‥‥、やっぱり無理なのよね、」という顔で見ていました。自慢じゃないけど、このジサマは電気オンチ、機械オンチ、工作オンチなのです。              

次にパソコン用のカバンをチエックしましたら、旅の記録用にと用意していたはずのフロッピーデスクが入っておりませんでした。これはまあ、どうでもいい話なのですが、もっと困った忘れ物があったのです。今回の旅のことも考えて、事前に世界遺産を紹介するDVD10巻を通販で購入したのですが、何とそれを忘れて来てしまっていました。DVDプレイヤーの中に1巻だけが入っていました。でもそれは既に鑑賞済みなのです。後の9巻は旅の中で楽しもうとわざわざ見ないで残しておいたのに、これじゃあどうしようもありません。TVのダメな今夜などは絶好のチャンスだったのにと、これは家内ならずとも私自身もそう思いました。今回の旅では、これから先のTVが映らない場所では、ずっと雑音入りのラジオを聴くことになってしまいます。いやはや、真に以てイヤンなっちゃいますなあ。この忘れ物は全て私の責任であり、家内のせいではありません。こんな調子だと10年先はどうなっちゃうのでしょうか。あぶないぞ、要注意だど。

なんとなく出端を挫かれた気分で、もぞもぞしている内に18時近くになったので、温泉に行くことにしました。蔦の湯という道の駅の温泉は、手入れの行き届いたきれいな湯船と小さいながらも露天風呂もあって、くるま旅の人やトラックのドライバーの人たちに人気があります。私どもも気に入っており、今までも何度か利用させて貰っています。家内が切符を買おうとしたら、受付の人が何か言っているのでどうしたのかと行って見ると、18時を過ぎると料金が100円安くなって、400円になるのだそうな。あと2分くらいの待ち時間です。これを待たないという手は無いでしょう。二人で200円も得をして、先程の忘れもののチョンボがもたらした暗雲が少し晴れて行く気がしました。前回に入った時の露天風呂は、澄んだ夜空に星が煌めいていましたが、今日は雨降りで只々真っ暗。3本ある打瀬湯のお湯の落ちる音だけが、響いていました。露天風呂には誰もいなくて、暫らくの間、独り占めして楽しむことが出来ラッキーでした。

1時間ほど温泉を楽しみSUN号に戻ると、家内は既に戻っていて、夕食(といっても、酒の肴程度ですが)の準備をしていました。今夜はセロリやキャベツなど野菜中心で、メインは冷ややっこというのですから、普通の家庭では想像もつかないメニューかと思います。私はカロリーのコントロールをしなければならない身なので、ハイカロリーのものは避けるように努力していますが、家内はその心配は無いのでチーズなどを食べながらビールを楽しんでいました。私の方は、白州の道の駅で手に入れた地酒「七賢」をほんの少しだけ味わいました。2合ほどです。                                     

今日は高速道や一般道を150km近く走り、久しぶりの長距離運転でしたので少し疲れました。こんな時は寝るのが一番です。さっそく2階の寝床に入ってうつらうつらいい気分になっていると、調べ物でもしているのか、家内がガサゴソと何やらそこいら辺をいじり回している音がして、耳触りで寝つけません。こんな時に声を出して文句を言ったりすると、目が覚めてしまいそうなので、しばらく我慢していたのですが、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまい、

「何を、ガサゴソやっているんじゃ、止めてくれんか」と言ってしまいました。家内はブツクサ言いながら止めたようで、間もなく静かになったのですが、やっぱり声を出したのが効いてしまい、その後はなかなか眠れなくなってしまいました。

 このようなトラブルは二人暮らしのくるま旅の中では頻発しています。旅車SUN号のリビングに該当するスペースは、3m×2m×2mほどですから12立米くらいしかありません。この密閉に近い空間の中では、紙切れ一枚を動かしてもその音は眠りに就こうとする者にとっては実に気になる響きとなるのです。ま、この加害者と被害者の関係は、どちらかといえば寝入る前は私が被害者、朝方は家内が被害者となることが多いのが、我らの旅の特徴といえるのかもしれません。

 寝つけずにいらいらしていると、後から寝床に入った家内の方はたちまち熟睡レベルに到達したらしく、寝息以上の音を立てながら寝入ってしまいました。なんだい、これは。益々こちとらは眠りから遠ざかるという羽目になりました。翌朝になって聞くと、今日通ることにしている木曽路に幾つかある宿場町についての予備知識を仕入れようと資料をいじっていたとのこと。どうせ寝そびれるのなら、文句を言うべきではなかったのかも。ちょっぴり反省です。

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ジジババ二人くるま旅漫遊紀行(2003年 西の方へ行くの卷)第1日(その1)

2011-11-19 00:12:05 | くるま旅くらしの話

※漫遊記としていましたが、「漫遊紀行」と改めました。 

 

登場人物など>

 

私~(ジジ=ジサマ)[1940年生まれ。くるま旅くらし人を自称する。世間を斜(はす)に見たがるややひねた根性のジジイ。理屈はあれこれやかましいけど、脳のつくりと成り立ちは、どうやら全て単細胞らしい。趣味は物書きと鼻唄程度] 

 

家内~(ババ=バサマ)[1946年生まれ。ツレアイの言動に疑問を持ちながらも、くるま旅は嫌いではないらしく、時には支配的になって旅先での外交官を務めたりする人。各種文化財に興味関心あり。趣味はフォークダンス] 

 

旅車~(SUN号)[2002年グローバル社製キング5.3]

 

<主な行程~県レベル>(19泊20日)

 

自宅(東村山市)~(中央道)~山梨県~(甲州街道)~(中山道)~長野県~岐阜県~愛知

県~(東名・名神高速道・明石海峡大橋他)~兵庫県~(鳴門大橋)~徳島県~香川県~高

知県~愛媛県~(しまなみ海道)~広島県~岡山県~鳥取県~京都府~福井県~滋賀県

(北陸道)~石川県~富山県~岐阜県~長野県~群馬県~埼玉県~自宅

 

さて、今回は2003年の秋に、思い立って西の方へ旅に出かけた時の話をしましょう。西の方といっても、西方浄土というわけじゃあありません。阿弥陀様のお迎えはもう少し先の話です。関東に住んでいるので、静岡県も長野県も西の方ということになるのですが、まあ関東人が西の方といえば、普通は関西以西ということになりますか。私どもは、毎年秋の旅は西の方へ行くと決めているのですが、今回はあれこれ思いめぐらしている内に、急に四国へ行きたくなったのです。とにかく四国まで行って、その後は中国から山陰を回って、北陸から信州経由で戻ってくるというコースを描いたわけです。行く先々での細かいことは行ってから決めるということにしています。くるま旅って奴は、そんなことが苦もなくできるから良いんですね。何しろ宿の予約もキャンセルもノ―プロブレムなのです。ということで、先ずは初日からのお話です。

 

第1日 自宅から長野県は信州蔦木宿まで

 朝からしょぼしょぼの雨降りです。何てこった、昨日まではいい天気だったのに、よりによってこんなときに予報が当たるなんて、世間てえ奴は天気までが不条理だね。とまあ、いつものこじつけの愚痴が出ます。どうするか、出発は明日にしようかと迷ったのですが、どうやら明日も天気は不機嫌らしい。お天道様のご機嫌ばかり伺っていたら、出発はどんどん遅れることになってしまいそう。ここは一つふんぎりをつけて、とにかく行くことにしようと決めました。                       

今回は、とにかく四国に行くことを考えています。最初は単純に関西を訪ねて奈良や京都を回って、その後は北陸経由で戻ってこようと考えていたのですが、、あれこれ思いを巡らしている内に、ふと四国で暮らしていた頃を思い出し、急に懐かしい顔が幾つも浮かび上がって来てしまい、関西まで行くのなら四国も近いじゃないかと気づいて、急遽往時の思い出などを訪ねてみたい気持ちとなってしまったのです。というのもずいぶん昔となりますが、私どもは転勤で四国の高松に5年ほど住んでいたことがあり、あれからもう25年も経ってしまっています。ここ数年は全く四国を訪ねる機会が無くて、ご無沙汰のしっ放しだったのです。四国に居た頃は、確か本四架橋に着工するとか延期だとかの話が賑わっていて、本当に自分が生きている間にそんな大きい橋が見られるのかなと、半分くらい疑っていたような気がします。それが今では3ルート共全てが完成して、当たり前の現実となっているのですから、考えてみれば私も家内も歳とったものです。その橋をまだ一度も渡ったことがないというんですから、真に情けない話です。どんな按配なのか、やはり一度は体験してみたいと考えるのは当然でしょう。

あれこれ野次馬根性が頭をもたげ出しています。でも今回は、現地に行っても勤めていた会社の現役の連中には、会わないことにしています。先輩面した奴に振り回されるのは迷惑だというのは、自分の現役時代に散々体験済みだからです。経験というのは、逆の面でも活かす必要があると思います。でも、もう既にリタイアした人らにはちょっと声を掛けてもみたいと思いますね。25年という時間は、この変転めまぐるしい時代では、私なんぞはもはや浦島太郎の如き存在となってしまっているのかもしれませんなあ。ま、そのような思いで、碌に計画も立てずにとにかく四国に行ってしまおうと、そう思っています。

車でのぶらぶら旅という奴は、何時も計画から杜撰なんですよね。行き当たりばったりの方が旅の真髄を味わえるような気がして、などといって生来の面倒くさがりをごまかしている、それが私の本性なのかもしれません。家内の方は、私に只引きずられているだけなのかも。前置きが長くなりました。

雨の中を2時間以上も時間をかけて、ようやく出発の準備が完了しました。今はマンションという所に住んでいるものですから、旅車を置けるような駐車場が無くて、普段は元勤務先の駐車場に旅車を置かせて貰っています。ここからは6kmほど離れており、車を取りに行くだけで1時間近くもかかってしまいます。持ってきた車も、マンションの狭い駐車場では他の車の邪魔にならないかと気を使いながら、大急ぎで荷物の積み込みをしなければならず、旅の出発前の気分は毎度落ち着かないことおびただしいのです。ものごとは事前の段取りの通りにはなかなか上手くはゆかず、なんだかんだと手間がかかってしまうのですなあ。東京という所は、東村山などという田舎の町の隅々まで、ゆとりが無く出来上がってしまっていて、旅車を置けるような駐車場のあるマンションなんて皆無なのです。こういう時にはつい文句を言いたくなってしまいますね。諦めてはいるものの、凡人は愚痴を言わないと健康が保てないから、こんな時はまあよろしいでしょう。

さて、いつまでもぐずぐずあれこれやっているのは止めまして、碌に忘れ物のチエックもせずに出発と相成りました。とりあえず、今日は中央高速を山梨県の甲府まで行き、昭和ICで下りて、R20(=甲州街道)に入って長野県は富士見町にある道の駅「信州蔦木の宿」に泊まる予定にしています。幾ら行き当たりばったりだと言っても、今日のこれくらいの予定は立ててあります。尤も、そうはいっても途中でいきなり変えることもありますから、あまり偉そうなことは言えないんですが、‥‥。

家を出てからは、府中街道と呼ばれる都道を国立(くにたち)市方面へ。中央道の国立府中ICから高速道に入るのですが、そこに行くまでが大変な混雑なのです。万年渋滞という奴ですな。空いていれば20分もあれば行ける距離なのに、まんず空いている時間帯などというのは深夜のほんの一時くらいしかなく、年がら年中混雑しているのが東京近郊の殆どの道の実態です。今日は1時間ほどで高速に入れたのは、まあ上等というべきじゃないでしょうか。しかし、高速に入ったからとて、未だ油断はできません。事故や工事なんかがあると、あっという間に詰まってしまって車の長蛇の列が生まれ、又またうんざりの渋滞が出現しますからね。今日はそのようなことが無いことを願うばかりです。雨降りの方は思ったよりも大したことなさそうなので、この分だとやたらに事故が起きるような道路状況ではなさそうです。(次回につづく)

 

 

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秋空に映える花と実

2011-11-14 05:52:43 | その他

  数日前、ようやく我が家の皇帝ダリアが咲き出しました。この花が咲き出すと秋が一段と深まったのを実感します。皇帝ダリアは別名木立ちダリアとも呼ばれるメキシコ原産の花です。背丈が3mほどですが、条件が良ければそれを超える高さとなり秋になるとダリアの良く似た花をたくさん咲かせます。その数は半端ではなく、最盛期には毎日20個以上の大輪の花で青空を飾るのです。

 

   

咲き始めた皇帝ダリア。今年は旅に行っている間の台風で折れてしまったので、一度は諦めていたのだが、気を取り直して花を咲かせてくれたのが嬉しい。

 

 我が家では、何年か前に九州への旅をしました。宮崎県日南市の飫肥を訪ねた時に、飫肥城近くの武家屋敷と思しき家々の庭にこの花がたくさん咲いていて、初めてそれを見たものですから、どうしても欲しくなりました。どこか近くのホームセンターなどにあるのではないかとそれから後随分と探したのですが、なかなか見つけることが出来ませんでした。旅の半ば近くになって、大分県の大野町(現豊後大野市)のマーケットのような所で、半ば枯れかかっていた苗木をようやく見つけた時は、それでも、いやあ嬉しかったです。巧く根付いてくれるかと心配しながら持ち帰ったのでした。間もなく冬という季節でしたので、植えても直ぐに地上部分は枯れてしまい、後は来春の芽吹きに期待するだけでした。

 春先になって、もうそのようなことはすっかり忘れていたのでしたが、ある日見たこともない大きな芽が土を捲(めく)って顔を出しているのを見つけ、首を傾(かし)げながら思い出を辿って、ようやく昨年の晩秋に植えた皇帝ダリアだと気づいたのでした。その年は順調に育って3mを超える大木のような草丈となり、たくさんの花を咲かせてくれて、ご近所の方々が見物に来るほどの珍しさだったのです。この辺ではその頃はまだ皇帝ダリアを見るのは珍しく、苗木なども販売されていなかったのです。

翌年はこれを増やして兄弟たちにも配ったりしました。増やすのは簡単で、花が咲き終わった後で幹の部分を、節を2カほど入れて裁断し、それを30cmほどの深さの穴の中に埋め、土を被せて置くだけです。すると春先になって埋めた幹の節の部分から芽が出てくるのです。それを好きな場所に移植すれば、秋には立派な花が咲くというわけです。

皇帝ダリアの幹は直径が10cmほどになる場合もありますが、何しろ草なものですから、風などの外圧には弱いため、1mくらいに生長した頃から支柱をしてやらないと、自重で身が持たずに転倒してしまうのです。初めの頃はこれを知らなかったため、転倒してから助け起こして支柱をしたりして大変でした。

我が家ではそれなりの歴史のある皇帝ダリアなのですが、秋の深まりと併せて、秋の終わり即ち冬の到来を厳しく教えてくれる花でもあります。というのもこの花は亜熱帯性のものなのか、寒さにはめっぽう弱くて、冷え込みな厳しくなって霜が降りるのと同時に一挙に生命を終わらせるのです。昨日まで毎朝空を勢い良く飾ってくれていたのに、たった一晩の霜で全滅してしまうのです。水戸の北部に住んでいる妹の家では、花が咲き始めてたった3日で終わってしまった年もありました。恐らく茨城県北部辺りが北限の植物なのではないかと思います。

今頃のもう一つの楽しみは、ソヨゴの実です。ソヨゴの他にクロガネモチやナンテン、それにマンリョウ等の赤い実がありますが、私にとっては何といってもソヨゴが一番なのです。どうしてかというと、ソヨゴの実は他の赤い実と比べて何とも言えない透明感のある赤なのです。風にそよぐ葉のささやきよりも、私のソヨゴはその実の透明感溢れた赤に最高の魅力を感じます。清潔な赤というような表現があるのかどうかわかりませんが、濁りのない澄んだ赤い実は、しばらくの間ヒヨドリたちには啄ばむのを遠慮して貰いたいと思います。

 

   

  

 

眩しいほどに赤い実を輝かせているソヨゴ。今年は今までの障害のようなものを乗り越えてくれたらしく、一段とその輝きを増してくれている。

   

皇帝ダリアとソヨゴの赤い実を心行くまで眺めながら、今年も秋が終わりに近づいているのを感じています。次回から漫遊記を掲載する予定でしたが、明日から1週間ほど湯湯治に行くことにしましたので、少し延ばします。このところ糖尿君に厳しく叱責を受けており、なかなか手足の指先のしびれなどがとれないものですから、栃木県の喜連川温泉で湯湯治をしながら、自己流の業をして来ようと思っています。予告などしておきながら裏切ってしまい、申し訳もございません。

 

 

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漫遊記を連載します(予告)

2011-11-11 08:22:05 | その他

 

 ブログの方は、最近はおかげさまで毎日のアクセスが500件を超える日が多くなり、過去からの累計も間もなく50万件を突破する所まで辿り着きつつあります。真にありがたいことです。碌に写真も取り入れることなく文字ばかり溢れる記述を、我慢してここまでお読み頂いた皆様には、感謝の念でいっぱいです。

9月初めに北海道の旅から戻って以降は、以前と違ってブログに毎日投稿するのを止めました。理由はいろいろあるのですが、簡単に言えば、毎日書くのは大変だし、読まれる方も相当に疲れるのではないかと思ったからです。週2回くらいの投稿でいいのではないかと思った次第です。それに物書きの修業は単に同じトーンのものをやたらに書き続けるというだけではダメですね。もう少し内容に変化があって、読んで面白味の感じられるものでなければつまらんと思うのです。

 私の物書きの目的は、私自身のくるま旅くらしの経験を通して、同世代の方々と共にこれからの人生を活き活きと生きるヒントというか力のようなものを見出してゆきたいというところにあります。つまりは、真に勝手なのですが、私自身はくるま旅の経験をもとにあれこれ書くことによって自分自身を元気づけ、そしてそれを読んで下さった方には同じように元気になるヒントを見出して頂ければ嬉しいと思っているのです。

 それでいろいろ考えました。このところくるま旅の話からはかなり遠ざかっていますが、次回から再びくるま旅くらしをテーマとした話を続けたいと思っています。名付けて「ジジババ二人くるま旅漫遊記」としました。まだ全部出来上がっているわけではないのですが、今までの旅の経験をリメークして、旅の中での出来事や感じたことなどをより詳しくお伝えしたいと思っています。多少創作の部分なども取り入れて、くるま旅にまつわる喜怒哀楽の話題を織り込みたいと思っています。まだまだ未熟なので、多分に面白味に欠ける話が多くなってしまうと思いますが、しばらくご辛抱頂いてお読み頂ければ幸甚です。

 「ジジババ二人くるま旅漫遊記」の第1回は「西の方に行くの卷」で、2003年(平成15年)に四国・中国・関西・北陸エリアなどを回った時の話です。ジジババというのは勿論私と家内のことで、私どものくるま旅は幸か不幸か、ずっと二人での旅となっています。格別に仲が良いわけでもなく、さりとて険悪というわけでもなく、共に旅に出かけるということについては異論が無くて、夫々が同行拒否よりもとにかく変化のある暮らしの環境に飛び込みたいという思いの方が上回っている、という点で一致しているからなのでありましょう。ま、平凡な老夫婦ということなのでしょうか。

「漫遊記」と名付けることについては、迷いました。旅の内容や目的などによって、世の中のその記録のタイトルも幾つかの表現が採られており、「遊覧記」とか「周遊記」とかあるいは単純に「旅ある記」などが思いつくのですが、気ままに各地を旅をして歩くという意味では、「漫遊」が一番フィットしているかなと思い選んだのでした。

さてどのような展開となりますやら、私自身ももう一度何年か前の旅を振り返りながら、大いに楽しみたいと思っています。しばらくの間、投稿は基本的に週2回程度のペースで行うことにしたいと思います。

 

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紅葉の季節

2011-11-08 10:36:45 | 宵宵妄話

 

 秋が一段と深まりました。私が住む守谷市は関東平野の真ん中辺りになるのでしょうか、江戸時代ならば下総の国ということになると思います。茨城県は常陸の国というイメージですが、私の育った水戸周辺の北部は間違いなくそうなのですが、南のエリアになると到底常陸とは思えなくなります。現代でも例えばTVを見ていて守谷市では地方版としての水戸からの放送映像は受信しにくく、殆ど見たことがありません。ですけど、千葉TVや東京版の映像はいつでもはっきりと受信することが出来ます。それらを見る度に、ここはやっぱり下総の国なのだとの確信は強まるばかりです。ま、どうでもいい話なのですが。

 今日は紅葉の話です。この地ではメリハリのある紅葉を見ることがなかなかできません。というのもあまり寒く無いからです。特別温暖とは思いませんが、総じて年間も朝晩も寒暖の差が少ないように思います。その所為か庭先の山モミジなども何となく中途半端な紅葉しか見せてくれず、春先の新緑を楽しむ方がずっと価値があるように思います。

 そのような守谷市なのですが、紅葉に敏感な木も幾つかあります。その中で一番早く秋を知らせてくれるのがハナミズキです。毎日の散歩の中でそのことが分かります。ハナミズキにも個体差があって、紅葉の鮮やかさは夫々微妙に違っています。植えられた場所によっても違うようです。私が一番気に入っているのは、我が家から500mほど離れた隣のつくばみらい市の工業団地の土手近くに植えられた数本の街路樹のハナミズキです。毎年11月の今頃になると、目一杯の紅葉を見せてくれるのです。多くのハナミズキは今頃までには風雨に耐えられずに葉のかなりの部分を落としてしまうのですが、そこのハナミズキは最後の時が来るまでは殆ど葉を落とすことなく、赤い実と共にそこを通る人たちを楽しませてくれます。

 

   

散歩の途中、この季節ひときわ見事な紅葉で迎えてくれるハナミズキの木。台風にも大雨にもめげずにこの季節までしっかりと葉を貯め残してくれているのが嬉しい。

 

と言ってもそこを通る人は殆どいないようで、一日に数人程度なのではないかと思います。車も滅多に通らず、風当たりも殆どないような恵まれた場所なので、毎年大過なく最後の時間が来るまで存分に生命を輝かすことが出来ているのかもしれません。私は今頃になるとこの道を通るのが楽しみで、いつも思わず立ち止まって眺め入ってしまいます。小さい秋ではなく、大きい秋見つけた!という嬉しさが満ちてくるのです。

 ハナミズキというのは外来種で、確か桜の木をアメリカのワシントン市内を流れる川岸に贈って植えたお礼に日本に贈られた木なのだと聞きます。現実のドロドロした日米関係の中ではどうしても不信感は拭われない感じがしますが、これら樹木の関係だけを見る限りでは、アメリカの悪意のようなものは消え去ります。

私は、この木の花よりも紅葉の方により以上の魅力を感じます。それは守谷のこの地に住むようになって、この木に出会って初めて気づいたことでした。なかなか秋を知らせてくれる木が無い中で、この木だけが真っ先に全身の力を振り絞って季節の到来を教えてくれていると気づいたからです。

人間にも紅葉期のようなものがあると感じています。それは人によって大きな時間差があるし、又その内容も千変万化なのだと思います。この世から別れを告げる前の最後の輝きというのでしょうか、或いは眠りに就く前の収まらない興奮のようなものなのでしょうか。一時(いっとき)の生(せい)の実感を最後に味わえる時こそが紅葉期なのかもしれません。

さて、私の紅葉期はもう終わってしまっているのか、それともこれからも味わえるものなのか。何だか枯れ葉期に入ってしまったようなこの頃の感じですが、しばらくはこのハナミズキの紅葉に心を奪われていたいと思います。

 

   

それはそれはもう深紅ともいえるほどの紅葉の中には、はちきれそうに輝く真っ赤な実がたくさんたくさん詰まっている。ここには間違いなく本物の秋がある。

 

 

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