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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今年の終わりのごあいさつ

2008-12-30 00:22:40 | 宵宵妄話

明日一日で今年が終わります。拙文をお読み頂きました皆様に改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

今年の世相を総括して表わす一字として、私は「虚」を選びましたが、私たちが本当に活き活きと生きる社会は、「実」であり「真」でなければならないと思います。来年は、相当に厳しい世相が予想されますが、少しでも「真」と「実」とが重さと輝きを取り戻すことを、皆様とご一緒に祈願したいと思います。

来月は、再び旅の記録の紹介に戻ることにして、3日から今年の晩秋に四国八十八ヶ所巡りの旅をした時のことをしばらくお伝えする予定でおります。

どうぞ良いお年をお迎え下さい。   馬骨拝

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年末世相雑感:教育の荒廃を憂う

2008-12-29 01:24:39 | 宵宵妄話

世の中の様々な出来事を見ていると、やっぱり一番大切なのは教育だなと思う。教育には大別すると3つの重要な領域がある。その1は家庭教育、その2は学校教育、その3は社会教育である。私自身も教育に係わってきた一人であるけど、それは企業内教育であり、この3つのパートに敢えて押し込むとすれば社会教育となるのかもしれない。しかし企業内教育というのは、営利を目的とする企業体の中で必要に応じて行われるものであるから、一般的にいう社会教育とはやはり別というべきであろう。

今の世の中では、①家庭教育②学校教育③社会教育のどの領域も大きな問題を抱えているような気がしてならない。本来この3つは、相関連して運営されてゆかなければならないものだと思うが、現実はそれぞれが分断されて、最悪の状態で動いているように思える。家庭教育はバラバラだし、それが何なのかも知らない、知って居ても無関心な家庭も多く存在する。学校教育は家庭と社会から揺さぶられ続けて、教師は信念や自信を失いかけ、追い討ちを掛けるように上から方針の変更を通告され戸惑っている。社会教育に至っては、それが何なのかすらもよく見えない。もしかしたら、老人や閑(ヒマ)人相手の趣味講座のようなものだけが、そうと考えられているのかも知れない。

国が乱れる元となるのは、戦争などではなく、多くの場合教育の荒廃である。その荒廃は、勿論教育単独でもたらされるものではなく、その前提として国の経営(=経世)の乱れがあるのは明らかなことだ。今の世は、もしかしたらこの荒廃の中にあるのかもしれない。

戦後の日本の経世の流れは、概して成功の道筋を辿ってきたと考えられている。結果として世界第2の経済大国に成り上り、バブルの時などは、アメリカの象徴である超高層ビルを買い取るなどという愚かなビジネスを展開するほどとなったのであるから。しかし、今の世の中を見ていると、その繁栄謳歌真っ盛りの頃から既に荒廃は始まっていたのかも知れない。拝金至上主義的な考えが、国を本当に豊かにするとは思えない。バブルの地獄から這い上がって、ようやく元気を取り戻せるかと思った時に、今度は世界恐慌に巻き込まれて、様々な不穏現象の中に、改めて教育の荒廃を感じさせられる出来事が起こっているように思う。

3つの領域の中で、最も荒廃の酷いのは家庭教育だと思っているが、これは今のところ打つ手が無い。平気で自分の子供を殺したり虐待したりする親が現出している状況の中で、個々の家庭に向って痴()れ事を叩く勇気は持ち合わせていない。家庭教育というのは、本来親の子に対する純粋な愛情(逞しく生きる力を持った人間になって欲しいという)の発露に基づくものであって、それがどのような形をしていても他人がとやかく言うべきものではないと思っているのだが、今頃の親は子供のために子供の成長を願うのではなく、自分のために都合の良い子育てを指向していることが多いようなのだから、困ったものである。そのような親が、PTAなどで身勝手な先生批判などをするものだから、学校教育は萎縮してしまったりするのである。PTAのPの横暴は想像を遙かに超えているようだ。教育委員会はTに向っては絶大な権力を振るっているけど、Pに向っては殆ど無力の存在のようである。これは恐るべき片手落ちというものであろう。教育委員会は、Tではなく、Pに対してもっともっと教育的観点から是々非々を述べるべきである。ある意味でそれこそが社会教育なのではないか。社会が何かを知らない親たちを、きちんとした社会認識が持てるようにガイドするのも、教育委員会の重要な役割だと思うのだけど。これは考え過ぎなのだろうか。

知らず教育委員会の話となってしまったが、思うに地方公共団体の教育委員会というのは、一体何をしているのかさっぱり解らない。何か不祥事等の問題があったとき、関係者が出てきてコメントのようなことを述べているけど、普段何か教育行政に積極的に貢献するようなことを行なっているのだろうか。本当に子供たちの学ぶ意欲を向上させ、そして教師たちの指導者としての自信の確立に資するような役割を果たしているのだろうか。更に社会教育の一環として子供の親たちに対して社会認識を確立させるような働きかけを行なっているのだろうか。実体がさっぱり解らないので、迂闊(うかつ)なことは言えないと思うけど、何だか名ばかり監視役のように映ってならない。私の見解が大いなる見当外れの実態であることを願っている。

その昔(といっても10年も経ってはいないが)、某県・某市の小中学校長の研修会に招かれて、マネジメントについて話したことがある。学校における管理者(=校長・教頭)のマネジメントを考える上で、企業内のマネジメントの実際を知り、参考にしたいという主旨だった。一通りそのコンセプトや実際について話をさせて頂いたのだったが、そこで伺った話では市の教育委員会において、管理者に対して目標管理(MBO~Management By Object)が導入されたのだそうで、その資料等を拝見したのだったが、そこには目標の決め方、書き方を初めとする一連のシステムの要領が提示されていた。それを拝見して、あっ、これは直ぐに形骸化するなと思った。目標管理の形骸化は、目標管理のための行動の実際と紙に書かれた文語とのズレによって証明されるのだが、目標管理をペーパーを使って行なう仕組みでは、たちまち形骸化するのが常態なのである。しかし、此処の場合は、教育委員会は恐らく校長先生が提出したペーパーで評価をしようとするのであろうから、現場の実体とは違った成果を見るに過ぎないことになる。紙のやり取りだけで、マネジメントが把握できるなどというのは、あまりにもお粗末な発想だ。企業の場合の目標管理には、様々なバリエーションがあると思うけど、紙だけでの目標管理などあり得ないと思う。

余計なことを書いたが、教育委員会がもしもこの程度の施策で管轄下の学校の管理を行なっていたとしたら、それは明らかな怠慢であろう。現場の実体を正確に掴むためには、現場に行く必要があり、机の上だけでは、現場を知ることは勿論動かすことなど到底出来るはずが無い。紙一枚で何かを決め、通達すればことが済むなどというのは、マネジメントではない。というのが私の実感である。

現在の話題として、学力調査結果の公表の問題があるが、この扱いを見ていると、教育行政管理機能の不具合というか、お粗末さが露呈されているようだ。文部科学省と地方自治体とのズレ、地方自治体の内部におけるズレが問題となっている。ズレが全くないほど統一されているのが良いのかどうかは知らないけど、何のための調査だったのか、その結果をどう活かすのかを考えれば、公表する・しないなど自明のことではないかと思う。歴史上類(たぐい)稀なる競争社会を作り出しておいて、競争とは無関係にその弊害を唱えて、ターゲットの無いデータを弄(もてあそ)ぶのなら、初めから調査などしなくても良いのではないか。漠然とした結果を掌握し、漠然とした対策をすればその調査が活きるなどという話は、例えば競争に鎬(しのぎ)を削っている企業社会(=これが学校卒業者の住む現実)においては、到底認知される調査活動ではない。教育行政には甘さが随所にあり過ぎる。こんなことで教育の再生など出来るはずも無いように思うのだが、言い過ぎなのだろうか。

ついでに言わせて貰えば、「ゆとり教育」などといっていたのが、子供たちにとっては殆ど何もゆとりなど無かった実体があるように思う。ゆとり教育の中身といえば、ただ授業時間が減っただけであり、教師がそれで楽になったのかといえば、そんなことは全く無い。教師を職としている身内の者がいるけど、その実態は、寝食を犠牲にするほどの仕事量であり、このようなゆとりの無い教師の状況下では、子供にゆとりなど生まれる筈も無い。仮に先生にゆとりが生まれたとしても、親が子供のことなど無視して塾などに追いやれば、ゆとりなどそれっきりで消え去ってしまうのだ。

少し支離滅裂な展開となってしまった。教育に関しては、八方塞がりの閉塞感がある。親も、先生も、国も地方自治体も。これはやはり荒廃なのだと思う。不況感が一層その悲観的なムードを増幅しているようだ。近い将来のこの国に住む人たちの人間力を培う基盤づくりのために、何とかこの荒廃をストップさせ、本物の教育の再生を確立して欲しいと願っている。ただ願うのみである。

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年末世相雑感:裁判員制度と時効

2008-12-28 03:36:11 | 宵宵妄話

法律とか裁判とかいう領域のテーマは、あまり好きでない。好き嫌い云々の世界ではないとは思うけど、直接係わり合いたいとは思わない。しかし、今年は黙っては居られない気持ちにさせる出来事があった。同じ性質の話ではないと思うけど、気になっている二つのことについて述べてみたい。

その1は、裁判員制度についてである。結論から言えば、このような制度には反対である。今年の後半から、降って沸いたような大騒ぎとなっているが、何も知らずに突然「あなたに裁判員をお願いすることになりました」などという通達が来たら、誰だってびっくりするに違いない。何の予備知識も情報も無いのに、国民の殆ど全てが裁判員になるなどという強制にも似たルールが、知らないいつの間にか決まっていて呼び出しを掛けられたら、誰だって驚き躊躇(ちゅうちょ)するのが当たり前だと思う。

この制度については平成11年に課題として取り上げられ、13年に検討が開始されて、16年に法律が制定されたということである。それから5年が経っていよいよ施行されるのが来年の5月21日ということであるから、法律を作った側からみれば当たり前ということなのかも知れない。しかし、実際に裁判員にならなければならない一般市民の立場では、何のことか解らないと奇異感を抱く人が大勢いるのではないか。5年の間に国民の理解と協力を得るために、いろいろと工夫を凝らした説明をし、万人の納得を得たと理解している為政者がいるとするなら、そのような人は直ちにその職を辞して貰いたい。新聞などで論議されている記事を読んだ程度で、制度の主旨が理解できるわけでもなく、国民としての考えや意見を述べる場などは皆無だったのである。

何よりもわけがわからないのは、立法の主旨である。国民が裁判に無関心だから、直接裁判に参加してもらって、理解を深めて貰うとか、世界の他の国でも行なっているのだから日本でも、などという理由があるようだけど、バカも休み休み言って貰いたいと思うほどだ。今の日本国において、国民の大半が自分たちも裁判に参加させろと言う声が高まっているのなら、ある程度の納得はするけど、そのような声は殆ど聞いたこともないし、自分自身もそんなことを考えたことも無い。事件に直接被害者として係わった方の気持ちとしてなら、裁判に直接参加したいというのは解るけど、それ以外の人がしゃしゃり出て裁判員になることが、裁判と言うものを理解するための最適の方法だとは思わない。

制度の内容を見ると、刑事裁判に関しての参加ということだが、所詮は裁判官がリーダシップを持たざるを得ず、裁判員は幼稚なレベルや訳のわからぬ価値基準で、裁判を遅らすことに貢献することが多いのではないかと思えてならない。そこにかかる時間と費用のロスは、多大なものとなるに違いない。今、何故裁判に一般国民が参加しなければならないのか、理解に苦しむ。

例えば、誰が考えても凶悪で社会に害をなし、放って置けば更に害をなすと思われる殺人者が居ても、死刑を宣告出来ない裁判員などは幾らでもいるに違いない。命の大切さを尊重するが故に、命を奪った凶悪な犯罪者の命も大切と考え、その犯罪者が更に新たに命を奪う可能性をも許容してしまうと言うような、幻想社会に生きている根無しの博愛偽善者は、世の中にゴマンといる。そのような人が裁判員になったら、被害者は永遠に浮かばれないし、残された家族等の関係者も救われないに違いない。専門の裁判官だって誤った判断を下すケースがあるのに、ど素人に無理やり裁判員という名で、法廷の裁判ゲームに参加しろというのは、どう考えても納得のいく話ではない。

裁判には拙速という行為は認められないのかも知れないが、例えばオーム真理教事件の首謀者の裁判などは、一体何をやっているのかと思えて仕方が無い。直ちに裁定を下し、即刻死刑を執行すべきであろう。しかし仮にこの裁判に関して、参加した7人の裁判員が全員即刻死刑という判定を下したとしても、裁判員制度においては、裁判官が反対すれば裁定は決まらないということになっているのだから、裁判員というのは単なる裁判ゲームの参加者に過ぎないように思う。

これからどのような展開となって行くのか、とりあえず自分の所には召集令状は来なかったので、他人事としてみているけど、こんないい加減な制度よりも、司法関係者の育成の方がはるかに重要なのではないかと思う。国民の合意の無い制度を、指導意識過剰な一握りの者が決めて運用しようと思っても、上手くゆくはずがないということを思い知るべきである。

 

もう一つは、刑法における凶悪犯罪に関する時効という制度の存在である。こんなものは即刻無くすべきである。殺人を犯しておいても、15年が経てば時効という恩恵に浴するなんて、どう考えても変な話である。極端なことを言えば、気に入らない奴がいたなら、誰にもわからないようにそいつを始末して、15年間バレないように工夫して凌げば、犯罪者でも刑務所とは無関係なのだという、そういうことなのだ。先日東京世田谷の一家4人殺人事件の被害者の家族の方が、時効を無くすことを訴えられていたが、全くそのお気持ちを察するに余りある心境である。

何故時効というような変な制度があるのか、その根拠を調べてみたら、時間が経てば社会的な影響が薄れるし、事件の証拠も掴み難くなり、長期の捜査にはお金がかかって納税者の負担も大きい。更には、長期逃亡は一種の社会的制裁を受けていることになる、などということがあるようである。何だか、どの言い分も行政担当部門の責任逃れのような気がしてならない。確かに該当するような事件もあるかもしれないが、特に殺人事件のような凶悪犯罪は、断じて時効に組み入れるべきではない。犯罪者が死に至るまで、どんなに税金を使っても、徹底的に追い掛けて捕まえ、刑に服させるべきである。

最近の犯罪においては、例えばこれは刑法ではなく民法の世界かも知れないけど、殺人に匹敵するような悪質な詐欺事件などが起こっている。これらについても時効などは用いるべきではない。世の中を真面目に生きてゆこうとしている人びとを騙し、愚弄するような犯罪行為に対しては、もっともっと量刑を重くすべきではないか。オレオレ詐欺や振り込め詐欺などは、無期懲役に等しいほどの量刑を課すべきではないか。

全体として世の中を律すべき箍(たが)が緩んでおり、堕落した自由とか人間尊重の思想が、犯罪の発生を増殖させているような気がしてならない。住まいの近くを歩いていても、ちょっとしたブッシュや木立のある場所を通ると、そこに大量のゴミが捨てられていたり、空き缶や空のぺットボトルが一つも落ちていない道など皆無の状況である。全ての犯罪は、これらの不遜行為の延長線上に生まれるのだと思う。緩みきった箍(たが)をきちんと締めなおすためには、社会を構成する一人ひとりが気を引き締め、小さなルール違反や悪事にも決して手を出させないような、法律の厳しい見直しが求められているのではないか。

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年末世相雑感:虚に口がつくと嘘になる

2008-12-27 00:37:36 | 宵宵妄話

虚の人間行動の最たるものは「嘘(うそ)」ではないかと思う。嘘という人間行動を「偽()」という。わざと嘘をついて他人を騙(だま)し、己(おのれ)を利する行為を詐欺という。嘘八百と言うけれど、今の世の嘘は八百どころではない。一人の人間が一生の間に何回の嘘をつくのかわからないけど、中には嘘をつくのを職業にしているような奴も居るから、現代の世に溢れる嘘は、億の単位をはるかに超えているに違いない。斯く言う私自身も今年は大嘘つきというレッテルを貼られてしまった哀しい事件があった。

嘘も方便と言うように、他人を利するための嘘ならば敢えて非とはしないという考え方があるけど、今の世は他人のことなど委細構わず、ひたすら己を利するための方便として嘘をつきまくっている奴が居るのだから、これはもう困ったなどというレベルではない。断固として駆逐・排除しなければならない。

人間社会の歴史の中で、最も卑劣な犯罪は詐欺だと思っている。嘘にもいろいろな種類があるが、相手の弱みや好意につけ込んで、その誠意を裏切って己に益するという行為は、人間社会を愚弄(ぐろう)するも甚(はなは)だしい許すべからざる犯罪である。その犯罪者はもはや人間と呼べる存在ではなく、畜生にも劣る悪鬼の行為であるといえよう。ある意味では殺人という行為よりも悪質の犯罪ではないか。

今の世に、この嘘を手だてとした犯罪が蔓延(はびこ)っているのが何とも嘆かわしい。俺おれ詐欺から振り込め詐欺と名を変えた犯罪行為が、一向に衰えることなく被害の額と領域をいや増しているというのは、一体どういうことなのか。人心は疲弊し、この世の終末を思わせるほどに今の世はダメになって来ているのだろうか。この頃はうっかりすると、騙す方より騙される方が悪いというような、お粗末な感慨がもたらされるほど、極悪の虚偽を根とする犯罪が天下の大道をのし歩いている感じがしてならない。

振り込め詐欺だけではない。振り込め詐欺の悪質さは際立っているが、人間社会における信頼関係の中で、最も大切な食に関する世界でも様々な嘘が発覚して世相を暗くしている。毒性があると用途を限定して国が売り渡した輸入米を、平然と食品用加工米と偽って全国的に流通させたり、或いは産地偽装などと言う悪質で手軽風の犯罪も多発している。実害が無ければ人を騙しても良いと言う発想は、世の中から正直という道徳心を駆除する歴然たる悪業である。孔孟の時代から永々と培(つちか)ってきた、人間が、社会を重んじてよりよく生きるための知恵のルールを、現代は己の欲望を満たすためだけの目的で、平気で破却しようとしている。人間社会の恐るべき崩落の始まりの感すらするほどだ。

ふと、虚の蔓延(はびこ)る世は、虚の哲学を持って生きる人間に似た動物を生むのではないかと思った。インターネット社会は、明らかなバーチャル(=仮想)社会だが、これを虚だと思っている人は意外と少ないように思う。ネットを単なる情報ツールだと思っている人は健康だと思うが、その認識を超えて現実そのものと信じているような人は、明らかに病に取り付かれている。虚実の判断がつかなくなり、自分の都合だけを考えた生き方を選択して何のためらいも無い、異種の似非(えせ)人類を生み出しているのは、やっぱり虚の社会の産物なのではないかと思えてならない。

インターネットだけが虚の世界ではない。現在、世界中を近世開始来とも思える不況に陥れている経済活動の根源も、又虚であることは昨日書いた通りである。「憎まれっ子世にはばかる」ということわざがあるが、よくよく考えてみると、虚の世界で育った輩の中から様々なタイプの憎まれっ子が生まれ出ていて、そいつらが世に幅を利かせているのが今の世なのかもしれない。憎まれっ子と言うのは、まともな道徳感覚などは持ち合わせていない自分勝手な奴をそう呼ぶのである。そして憎まれっ子は、今の世では個人としての存在だけではなく、組織や経世の手法までもが含まれるものとなってしまっている。そのように思えてならない。

このような虚に口のつく者が蔓延(はびこ)る社会が何故生まれたのだろうか?人間社会の基本道徳を平気で踏みにじる似間が何故増殖しているのだろうか。いろいろな要因を挙げることが出来ると思うが、突き詰めれば、社会維持のバランスを意識した善悪の物差しなどよりも、己の欲望の充足のみにこだわる損得の物差しだけを使って、形振(なりふ)り構わぬ生き方を是とする人間が急速に増えたからなのであろう。それは言うなれば我欲充足のためには、虚であろうと道徳破壊であろうと、そのようなことには一切関知しないという生き方が当たり前という、似非自由社会が生み出した魔物であるようにも思える。

元々アメリカ辺りにあった、ヨーロッパには無い新しい自由という考えを、わが国は敗戦後の塗炭の苦しみの中で輸入し、それを養殖しながら60年余が過ぎたわけであるが、いつの間にかその根っ子に虚が進入し、それが世の中に影響を及ぼすに連れて、人間社会を無視しても心の痛みなど全く感じないという新しいタイプの自由が生まれ育っていたということなのかも知れない。

思うにこれらの自由を育てたのは、ある意味では戦争という愚行を経て、がんじがらめに縛られていた戦前の統制社会から解放された反動現象でもあったように思う。その反動現象の中身といえば、自分自身も含めて、子を育てる親の殆どが、あの戦争の戦前・戦中・戦後を通して、厳しい不自由がもたらした惨禍を嫌というほど味わった体験を、二度と味わい、味あわせてはならないという決心の表われとして、ふんだんな自由を道徳という規制を無視しても獲得しようとしたことなのではないか。

具体的には、家庭教育も学校教育も、履き違えた自由を身につけたたくさんの人間を作り出して来たのではないか。子を育てる信念の無い親から生まれ育った子供が、人間を育てる信念の無い教師に部分的な知識だけを首から上の部分に押し込められ、道徳などを無視して損得だけを追求する生き方ばかりを身に着けてしまうのは、た易いことだと思う。競争の哲学が世界中を覆っている今の世の中では、虚こそが最も手っ取り早く生きる糧(かて)を得る最適手段なのだという発想が生まれてもおかしくは無い。そして世代が一つ進んだ今日では、その発想が更に増殖して、様々な社会破壊の現象をもたらし始めたような気もするのである。

真に生き難(にく)く住み難い世の中になったものだ。しかし慨嘆ばかりしているわけにもゆかない。この事態をどう受け止め、残りの人生をどう過したらよいのか。先ずは虚の世界から生まれた魔物などには一切惑わされること無く、間もなく古希を迎えようとしている己の置かれた状況をしっかりと見据えることにしたい。何しろ80年の人生時計では、あと3時間しか残っていないのだ。3時間内の出来るだけ早い時期に、不況を乗り越えた世界が現出してくれることを願いつつ、とにかくこれからの3時間を楽しむことをひたすら考え、行動したいと思っている。

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年末世相雑感:USA経済の核としての虚

2008-12-26 06:38:54 | 宵宵妄話

妙なタイトルとなった。今世界中を吹き荒れている不景気の元凶ともいえるUSA経済の金融恐慌のことに思いを馳せてみたい。くるま旅くらしの提唱などと言っているノーテン野郎が、何を言うのかとの批難を省みもせずに、どうしても一言、三言、駄弁を弄(ろう)したい。

経済のことは難しい。というより解らないと言った方が当たっている。これから述べることも群盲が像を撫でた所感の一つに過ぎないと思う。曲がりなりにも経済学を学び、マーケティングを専攻した者としては真にお恥ずかしい次第なのだけど、経済という奴は、どうにも得体の知れない人間の動きだと思っている。

さて、今日のテーマは昨日に引き続き「虚」の話である。現在世界中を不況の嵐に落ち込ませている経済恐慌の震源地というか、震源そのものであるUSA経済の核となっている虚の話をしたい。

経済の話の中で、時々「実体経済」ということばが出てくる。経済問題を得意とされている現総理なども、時々このことばを使っておられるようだ。実体経済などということばを敢えて使わなければならない背景には、実体とは異なるもう一つの経済の仕組みがあるということである。実体の反対といえば、仮想であり、虚像であり、バーチャルというようなことばが用いられるのであろうが、その反対語は資産経済というのだそうだ。普段聞いたこともないことばであり、辞書など引いても載っていない。自分にも解らないことばである。しかし、実体があるのであるから実体のない経済もあるに違いない。つまり「虚」の経済があるに違いないということだ。

そもそも経済とは何か。それは、例えば広辞苑によれば、「人間の共同生活の基礎をなす、財・サービスの生産・分配・消費の行為過程並びにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体。転じて金銭のやりくり」と書かれている。つまり簡単に言えば家計から国家までを動かしているお金のやりくりが経済なのだということであろう。

ところで、お金のやりくりについて考えてみると、もの(=財・サービス)を買ったり、売ったりする経済行動は、人類の歴史上ではいわゆる物々交換から始まっている。人々は自分の欲望を満たすためにお互いにそれにフィットしたものを持ち合い、上手く欲望が合致すればそこで交換し合ったのであった。それがやがて発展して交換の手段として共通のルールの下に貨幣(=貝殻・宝石・布など)が用いられるようになり、やがてその貨幣は更に発展して、より合理的な性質を持つ貴金属の金や銀が用いられるようになった。しかし、それでも貨幣の利便性を満たすのが難しくなると、紙幣を中心とする通貨が用いられるようになって今日に至っている。

これらの通貨は、いずれも実体経済を反映しているものである。実体経済とは物と物との交換に時間的なズレがないことであり、通貨を支払うと同時に物を自分のものとすることが出来るというしくみである。お金(=貨幣)がなければ物は買えない、物がなければお金を得ることは出来ないというのが実体経済なのだ。人類の歴史の相当に長い期間は、世の中は実体経済で動いて来たのだといえる。

それが変形してきたのは、何故なのだろうか?新たに信用という経済のコンセプトが拡大したからではないか。信用というのは、どういうことなのか。経済用語としての信用は、英語で理解した方が明快だ。クレジット(credit)といえば、イメージが湧きやすい。信用というのは、実体経済が物の交換(=難しく言うと給付と反対給付)において、時間的なズレがなく同時に価値の交換が為し得ているのに対して、信用の世界では、物の交換において時間的なズレが生じているということである。この時間的なズレのことを信用と呼んでいるわけだ。クレジットといえば、お金の支払いは分割とか後払いという条件で、先に欲しい物を手に入れることができる、そのようなしくみを言うのであり、経済活動における信用とは何かを理解しやすいと思う。

さて、元に戻って実体経済ではない経済を考えてみると、現在の世の中がこの「信用」という取引活動を急速に発展させたところから、恐慌などの事件や問題発生の全てが始まっているように思う。実体経済の中では、金融恐慌というような現象は起こらないのではないか。信用というのは、いわば博打のようなものといえよう。手元に裏付けるお金が無くても、一攫千金を夢見てサイコロに賭けることができるのである。

株も各種の債権も、全て信用を前提とした商取引であり、現代の経済はもはやこれ無しでは成り立ってゆかなくなっている。信用取引の全てが悪であるなどとはとても言えないけど、その根底にあるものが、価値交換手段のタイミングのズレであるということを思うと、基本的に博打なのだという認識は欠かせないと言えよう。

この博打経済を牛耳り、操ってきたのがアメリカだと言える。アメリカは世界経済の牽引国としての自負の元に、様々な分野において経済発展に多大の貢献をしてきた事は万人の認めるところである。しかし、ものづくりなどを卒業した後、そのエネルギーの大半を金融経済に注ぎ込んだようだ。その結果本来物づくりのスペシャリストであったはずの企業までが、不安定な好景気の下で金融にまで手を出すようになって行ったようだ。顧客ニーズに真面目に応えるような姿勢を持ち続けていたなら、現在の自動車産業のビッグ3のような状況は生まれなかったに違いない。

今回の金融恐慌の起爆源となったのは、サブプライムローンの破綻だといわれている。借金でマイホームを買ったのに、ローンのお金が払えなくなったという話は、アメリカだけではなく日本にだってざらにある話である。しかし日本ではこのような世界中を揺るがすような問題は起こってはいない。アメリカで何故なのか。それはこの借金を含んだ債権を世界中に販売したからである。通常の感覚では、土地や家をペーパーに換える(=債権(券)化)などという発想は無いのだが、アメリカではそのような発想が生まれるらしい。ペーパー化すれば、世界中にそれを売ることが出来、新たな資金を手に入れることができる。実に巧みな商売術と言えよう。しかもペーパー化するに当たっては、信用を保証する専門機関としての会社を用意しているのである。この保証会社は、信用度を査定するだけであり、信用が崩れた場合の責任を果たす能力を持っていないと言うのだから、危険と言えばこれほど危険なことは無い。

このようなしくみの元では、順調に機能している時は、例えその本質に「虚」が多く入り込んでいても、恰(あたか)も実体経済の如くに世界を動かしてゆくことができる。しかし、根っ子にある信用が崩れた場合は、一大事となる。それが今回の恐慌の根源的な構造なのだと思う。

どうすればこの事態を乗り越えることが出来るのだろうか。その解は私の力ではとても読むことは出来ない。思うにこの不況は現在騒がれているようなレベルでは終わらず、もっともっと厳しい状況を生み出すのではないか。派遣労働者や期間労働者の人たちだけではなく、経営者(中小企業の)に至るまで、どうやって今日を凌ぎ、明日を迎えるかという艱難の時が迫っているように思えてならない。 

年金暮らしの自分には、貢献できる何の術も無いように思える。年金の支払いが減ったり、無くなったりすることが無いように願いながら、くるま旅も控えるようにして、一切のムダを排除した質素な暮らしに徹することくらいしか出来ない。世の中の多くの人たちと同じように、辛抱の暮らしを甘受するしかないと思っている。

それにしても、もう博打はいい加減にしたらどうか。アメリカの誰にお願いすれば良いのか見当もつかないが、博打を止めさせるか、ぐっと押さえ込むというような政策を取って貰いたいものだと思う。自由経済に政治が介入しないという精神を大事にした結果、歪んだ博打経済を蔓延(はびこ)らせて、世界中を不幸のどん底に落とし込んだという現実を、その責任をアメリカの為政者は心すべきと思う。アメリカを信用して、一国を挙げてペーパーを買い入れた結果、破綻に直面している国があることを、政治とは無関係と切り捨てることは出来ないのであはないか。ペーパーで国という土地を買うことは出来ても、そこに住む人々まで買うことは出来ないのだから。虚の経済は放置すべきではないし、自由を侵略していることを認知すべきである。

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年末世相雑感:今年の世相一字は「虚」

2008-12-25 04:26:11 | 宵宵妄話

数日、日記以外の書くことを止め、気ままに過そうと努めたのだったが、年末だというのに、毎日毎日よくもまあこんなにと思うほど、暗いニュースばかりが飛び込んでくる。今まで世の中を取り繕(つくろ)ってきた、とんでもないあやかしの魔術が破綻を来たし、世界中の善良なる一般庶民までが、その被害の塗炭を舐めなければならないような状況に陥っている。真に酷い状況だ。しばらくはくるま旅のことは忘れて、今の世のあれこれについて思いを巡らしてみることにした。今日から大晦日までは、私の年末世評雑感を述べてみたい。僭越なことは十二分に承知している。(厚顔多謝)

 

先日、清水寺の例年行事として、今年の世相を表わす一字は「変」というが選ばれ、貫主さんが大書されているのをTVのニュースで拝見したのだが、何だか違うのではないかという気がしてならない。お寺さんの世の中を見る目も今様に感化されて、表通りの感覚となってしまったのだろうか。そんな気がしている。

ネットで今年の一字表現に関するデータを見ていたら、某所での読者による投票結果のベストテンが、①毒 ②闇 ③崩 ④売 ⑤国 ⑥憂 ⑥虚 ⑧怒 ⑨変 ⑨欺 だったという。ま、いろんな選び方があるのだと思うけど、この場合、清水寺はその9番目の一文字を今年のナンバー1に選んだということになる。本当の順番はどうなのか解らないし、どうでも良いことなのかも知れないけど、私としては、やっぱり「変」という選択は浅くて変なのではないかと思うのである。

確かに変な世の中である。今が「変」な世の中であることは間違いないけど、例えば変というのを変化のチエンジなどと捉えるのは浅薄といわざるを得ない。変ではあるけどまだ新しい変化は殆ど現われてはいない。世の中が右往左往しながら「変」のままで停まっているのが今年なのではないか。「チエンジ」は求められているけど、それはまだ始まってはいないのではないか。

とすれば、今年はどんな世の中だったのか。私は、それは「変」の根っ子(=根源・要因)を訪ねるべきだと思っている。今の世の中に、尋常ではない変なことばかりが何故起こっているのか?その理由(わけ)を捉えることが大切ではないか。

私が思うには、今年は様々なインチキが正体を暴かれた年ではなかったかと思う。暴かれたというよりもインチキ自体が飽和状態となって、自らその正体を現したということかも知れない。この世を動かしてきた、本物ではない、まやかしのあれこれが次々と本性を現し、世界中を恐慌状態に貶(おとし)めようとしている。その大源(おおもと)を一言で言えば、「虚」ということになるのではないか。これが私の結論である。

虚の反対には実というコンセプトがある。「虚虚実々」という用語がある。これは戦の場合に使われることばのようだが、今の世の中を人々の暮らしとの戦いと看做(みな)せば、今の世は虚が溢れており、実の方が次第に侵食されて来て、ついに表面現象として様々な問題を惹起している、ということではないか。

その中で、何と言っても今年最大の「虚」のもたらした恐るべき出来事は、USAの金融問題ではないか。世界中の経済活動と人々の暮らしを、怒りのぶつけようのない状況に落ち込ませている。もしかしたら、世の中の多くの人々は、例えばサブプライムローンに端を発する金融破綻の問題は、「虚」とは無関係だと思っているのかもしれない。もしそうなら、あまりに呑気(のんき)過ぎると言いたい。自由経済が「虚」に走り過ぎた結果が今回の世界恐慌につながっていると思えてならない。(このことについては、明日私の見解を述べてみたい)

般若心経の中に「真実不虚(しんじつふこ)」ということばがある。般若心経は、この世を動かしている「空(くう)」と「色(しき)」の関係を述べた哲学書だと思っているが、この短い経文の終わりの方に出てくることばが「真実不虚」である。私はまだこのことばの本当の意味を知り得たとは思っていないけど、「本ものの真理は偽ものではない」という一見当たり前と思われるこのことばの中には、2600年も前に辿り着いた人類を代表する深い叡智が潜んでいるのではないかと思っている。般若心経は実も虚も呑み込んだ空(くう)と色(しき)の説明書だけど、その奥行きは途方もなく深い。

般若心経によれば、今の世の乱れは、「虚」という色(しき)の表れであり、それは真実ではないということになる。「真虚不実」ということでもあろうか。勿論このようなことばはない。あってはならないことばなのだと思う。

冒頭に「変」ということばを選択したことについて批判めいたことを書いたけど、この世は諸行無常であり、常に千変万化してゆくものなのであるから、「虚」のもたらす異常現象が、新しい変化への引き金となるという意味では、この選択は正しいのだと思う。つまりは、世界中の人々が、もう居ても立ってもいられないほどに新しい変化を希求しているというのが、今の世なのだということである。

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少し休みます(お知らせ)

2008-12-20 01:34:11 | 宵宵妄話

このところ、大して内容もないことを書き過ぎている嫌いがあります。気の滅入るようなニュースばかりの目立つ世情ですが、批判や非難めいたことを書くのも嫌になるほどの酷い状況のような気がします。くるま旅などというノーテンの話している場合じゃないでしょう、と言われてしまいそうです。

というわけで、少し頭を冷やすためにも、しばらくブログの年末休暇をとることにします。悪しからずご了承下さい。(馬骨)

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年賀状

2008-12-19 06:23:46 | 宵宵妄話

今が年賀状作成の最盛期ではないかと思う。郵便局からは、25日までに出して欲しいという案内がある。日本人(他の国のことは知らない)の大半は、締め切りぎりぎり主義だと思うから、そう書いてあると、25日に出せばいいと考えるのが普通で、それよりも早く投函しようと考える人は殊勝な人と言えるのではないかと思う。 毎年の行事でありながら、この作業はなかなか前広というわけにゆかないのは、我ながら不思議に思う。

今年はもう既に印刷も宛名ラベルの貼り付けも終わっていて、そのまま投函しても問題のない状況となっている。しかし、まだ投函する気にはなれない。机の上に積み重ねられたはがきの束が、ここ数日間そのままの状態で置かれている。このまま投函してしまったら、あまりにも横着で、相手の方に失礼ではないかという思いがあって、踏みとどまっているのだが、その先に進めようという決心がなかなかつかないまま、徒(いたずら)に時間が過ぎているのだ。

私は、この頃では300枚強の年賀状のやり取りをしているのだが、何年か前までは500枚ほどだった。現役を引退してから、ビジネスだけの関係の方には出すのを控えるようにして、減らすことを心がけて来た。形式的な挨拶状というのは、引退後には不要だろうと思ったし、費用も手間もバカにならない。本当はもっと少ない方が助かると思っているのだけど、一方でどのような細い絆であっても、人と人とのつながりは大切にしなければならないとも思っていて、なかなか思い切ることが出来ないでいる。

ワープロやパソコンが無い時代は、本文も宛名も全て自筆で書いていた。これは年末の大作業であって、年末ギリギリの何日かを、時には徹夜などをして、痛む腕をさすりながらコタツの中で懸命に書いていたのを思い出す。それがやがて本文だけは印刷屋に頼むようになり、その内パソコンを使い始めてからは、全て自分で印刷するようになった。それでも数年前までは、せめて宛名書きだけは自筆で書こうと思い、何とか自分の痕跡を伝えようとしてはいたのである。

それがだんだん横着になり、宛名などはラベルで良いのではないかと、今はすっかり切り替えてしまっている。パソコンなら、宛名用のソフトを使えば、ラベル以上に簡単だと思うけど、同じ手抜きなのに何故かそれはやらずにラベルで済ませている。

コミュニケーションのあり方には、二つの形がある。その一つは良く耳にするマスコミュニケーションというものであり、これは一方通行の、相手の顔が見えないコミュニケーションの形である。もう一つはワンツーワン(1対1)コミュニケーションであり、これは相手の顔が見える、双方通行のコミュニケーションである。

年賀状は、マスコミュニケーションの手段ではない。相手を選ばないダイレクトメールのようなものではなく、一人ひとりの顔が思い浮かぶ、ワンツーワン(1対1)コミュニケーションなのだと思っている。だから裏も表も印刷文字では、1年に一度の挨拶としては真に形式的なものとなってしまい、それでは心が通わないのではないかと思っている。

しかし、このままだと、はがきの裏も表も全部印刷文字ばかりで、何だか身勝手な選挙公報みたいになってしまう。そう思って、昨年から必ず自筆で宛先の一人ひとりに、何か自分の気持ちを伝えることにしたいと決めたのだった。しかし、はがきには空きのスペースが殆どないため、たくさん書くことは出来ないので、末尾に一言を記入することにしたのである。(自筆とは言え、たった1行程度の文句では、やはり形式の域を出ないのではないかという思いはあるのだけど)

ところがこの一言の書き添えがなかなか実行できないでためらっている。何しろ300人を超える一人ひとりに、自分の気持ちをどう伝えるかということなのだから、難しい。その人に最適の贈ることばが何なのか、本当のところは解らない。結局は自分勝手な思いを伝えるだけになってしまう。その人のことを思うと、究極的には身心の安全と健康を祈るしかない。それが今のところ、私の年賀状の贈ることばの核となっているようだ。

重い腰を上げて。明日からは、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、年賀状の仕上げに取り組むつもりでいる。

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ホームページとブログ

2008-12-18 02:13:15 | 宵宵妄話

今年も残すところ半月を切る時期となった。今日は朝方から怪しい空模様となり、やがて間もなく、落ちてくる雨粒は次第に大きく多くなって、本降りの雨の一日となった。アメリカでは、とうとうゼロ金利策に踏み切ったとか、一時円高は80円台前半になったらしく、もはやTVを見るのは止めにしたい気持ちになったりした。世界不況の根源はアメリカの博打金融の外れにあることは明らかだが、今は誰もその博打を止めさせようとするのではなく、外れの金の埋め合わせをしようと、世界中が汲々としている感じがする。これから当分の間は、今日の空模様のような日々が世界を覆うに違いない。もう現役は引退したのだから、余計なことは言わずに己の道だけを行けばいいのだと思いつつ、依然として往生際が悪い自分ではある。

さて、今日は自分のブログとホームページについて書いてみたい。この二つのネット作業は、昨年の春から始めたものである。これからは、自分のホームページくらいは持っていなければと考え、その3年ぐらい前にホームページビルダーという本を買い、何や訳のわからない勉強を始めたのだった。ところがこれが実に面倒で面白くない。写真を掲載し、文章を書くだけならさほど苦痛には思わないのだけど、訳のわからない手続きをしなければ結果としてのホームページは出来上がらないという、そのプロセスにうんざりして、ほったらかしにしている内に、たちまち3年くらいの時間が過ぎてしまった。

何でもかんでも開設しなければと決心したのは、昨年本を出版することになって、その販売ツールの一つとしてホームページを活用したいと考えたからである。四苦八苦しながらパソコンの画面に向う毎日だったが、それをやっている内に、ブログというのがあるのを知った。どうやらホームページよりも簡単に作ることが出来るらしい。ブログに切り替えた方が楽だなと思ったのである。

有名人といわれている人たちのブログを覗いていて、この程度のことなら何とかなるだろうと思った。この程度という言い方は、失礼なのは分かっているけど、かなりの著名人(例えば大学の教授など)の方でも、相当手抜きをしていて、飼い猫や犬の写真などに「今朝の○○チャン可愛い!」などと、それだけの記事しかないようなのが結構多かったのである。芸能人ならそれでいいと思うけど、マスコミで難しい経済論をぶつような人が、それはないだろうというのが感想だった。しかし、ま、ブログというのは、そのようなもので良いのかも知れない。

それで、ともかくブログを始めてみることにしたのである。文章と簡単な写真を載せることが出来れば、くるま旅についての思いを伝えることが出来そうだと考えたのだった。それにずっとビジネス文書に塗(まみ)れて過してきた自分には、その堅い文体から脱皮するためにも、とにかくたくさん書くことが必要だと思ったのである。ブログというのは、その自分の思いを叶えてくれる格好の手段だった。

ところが最初のうちは写真の載せ方に戸惑い、文字の画面表示も思い通りには行かず、冷や汗の出っ放しだった。それは基本的には今でも同じレベルであり、殆ど進歩していない。その原因は、新しいやり方にチャレンジしようと思っていないからなのであろう。既に開設から2年近くになろうとしているのに、成長は止まってしまっているのを実感している。

さて、ホームページの方なのだが、これはブログよりも早く手がけたのに、結果としてはブログよりも遅れての開設となった。止めようかとも思ったのだったが、ブログでは出来ない伝え方があり、それをカバーするにはやっぱりホームページが必要だなと思ったのである。

ブログというのは、いわば読み捨ての記事である。毎日同じものを掲載していたら、誰も読んでくれないものとなってしまうに違いない。もし現在のブログの機能に、固定的な情報を掲載できるスペースがより多く設けられていたならば、自分の場合はホームページなど無用なのだが、残念ながら現在のところそれは叶えられないようだ。

ホームページには、固定的な情報である自己紹介や旅車紹介そして著作の紹介などの他に、じっくり読んで頂きたいエッセーなどを掲載することにしたのだった。ブログを始める前までは、ホームページのメインとして考えていたのは、写真入りエッセーを掲載することだった。しかし、何篇か載せているうちに、所定の容量を超えてしまい、無料での運営はたちまち不可能となってしまったのである。有料に切り替えることも検討したが、エッセーの方はブログでもOKではないかと思うようになり、現在ではブログの方を有料にして運営している。

たどたどしい開設を経て、ホームページも来春には3年目を迎えることになる。ずっと手を加えていないため、まったく新鮮味のない内容のままに現在に至っている。辛うじて自著の紹介の欄で、発行元の出版社が倒産したことまでは変更したのだけど、それ以外は不変・不動のままとなっており、私を知っておられる方の多くは、その怠慢に愛想を尽かしているに違いない。

実は昨年の10月にパソコンを新しいものと変えたため、ホームページの設定をやり直ししなければならず、それが面倒で現在に至るまで、放置している。今までの情報をそっくりそのまま移管できるのだろうと思っていたのだが、どうやらそれはだめだったようだ。ようだというのは、この作業の一切は倅にやってもらったので、自分としてはさっぱり分からないのである。その結果、画面は昔のままに止まってしまっているのが現状なのである。

これを何とかしなければならない。できるならば、エスケープして誰かにやって貰って、自分は変更した記事だけを書くことに専念したいのだけど、それはできない相談である。今考えているのは、とにかくこの冬の間に、何とか新しいパソコンの画面でホームページの操作が可能となるようにしなければならないということ。とにかく当初は何とかモノにしていたホームページ作成に関する知識は、今は100%近く忘れ果てているので、再度新人に戻ってやり直ししなければならない。いやはやとんでもないことを始めてしまったものだ。うっとうしい年末と新年を迎えることになりそうである。
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サプライズ!魂消(たまげ)たあ!

2008-12-17 04:42:20 | 宵宵妄話

今頃はびっくりした!という日本語よりもサプライズという日本語の方が流通しているらしい。昔のことばで言うなら、茨城県の地元なら、魂消(たまげ)た!というのが、一番そのびっくりを実感できることばのような気がする。

その魂消たという話である。ブログなどを開いている割には、自分は殆どネットでの検索ということをすることが無い。必要に迫られたとき以外は、ヒマに任せてネットを楽しむという発想が殆ど無いのである。元々頑固なタイプなので、雑学的なアプローチには殆ど興味・関心がないのである。

それが、どういう訳か最近自分の本のことが気になり、今ネット販売上ではどうなっているのかと自分のペンネームでチエックして見たのだった。

今春に拙著「くるま旅くらし心得帖」発行元の出版社が倒産し、その後別の出版社に仕事が移管されたのだが、再度出版するためにはかなりの負担を課せられるという話なので、もはや出版することは諦めたのである。そう決めると、後は忘れることに相努め、もはや我が最初の出版本はもうこの世から消え去るのみと考えることにしたのだった。

しかしネットで本の様子をチエックして見ると、そこには魂消た現象が起こっているのに気づいたのだった。世の中には思いもかけないことが、時として生まれ出るものなのだということである。それがタイトルのサプライズなのである。これは今年一番の驚きといってよいのかも知れない。

どういうことかといえば、拙著「くるま旅くらし心得帖」の販売価格が、3倍にもなって中古市場に出ているのだ。たった3冊しかその対象になっていないけど、中古市場ではどのような本でも、皆高い値が付くということではないと思うので、自分としては嬉しいというよりも、先ずは魂消ているとしか言いようがない。

今のところ買い手が付いていないようなので、この先どうなるのか何とも言えないけど、もし買って頂ける方が現れたら、心からお礼を申し上げると共に、それ以上のお詫びを申し上げたい心境である。如何に市場の論理とはいえ、3倍もの値段になっているというのは、申し訳ない気がするのである。このようなことを言ったら、本は売れなくなってしまうのかもしれないけど、自分の正直な気持ちなのだから仕方がない。

もう一度書き直して新しいガイド書を世に問わなければならないのではないかと思い始めている。どこか出版をして頂けるところがあれば、そのまま原稿をお願いしたのだけど、出版界のルールとしては、自分の本の版権は倒産した会社にあるということなので、著者といえども、まったく埒外(らちがい)の存在となってしまっている。だから、前作を超えたレベルで、書き直すしかないのである。

しかし今の世の中は、未曾有の不況の煽りを食って、くるま旅はおろか車を買うことも、うっかり車に長丁場乗ることも厳しい状況に追い込まれている。本など書いても、とても買って頂けそうもない。もし自分の中古本を3倍の値段で買う人が現れたなら、これはこれからの世の中の先取り現象なのだと考えることにしたい。魂消たと思いながらも、そのように思ったのだった。

仮にこの世から石油がなくなってしまっても、車がなくなることはないと思っている。この文明の利器を、大衆が手放すというような逆行現象が表れるとしたら、それは不況などではなく、現代文明が滅びる時であろう。私は、車という文明の利器の魅力を知ってしまった人たちが、車なしの生き方を選択する筈が無いと思っている。

そして、その車の使い方なのだが、個人のレベルにおいては、単なる移動や運搬手段として使うという考え方から一歩踏み出して、車の機能を旅という楽しみ方に振り向ける人が増えるに違いないと思っている。すなわち、くるま旅であり、くるま旅くらしである。

この考え方は、セカンドライフというか、現役をリタイアした人たちが中心となるに違いない。そしてその対象となる世代は、かなりのスピードで拡大しているのである。一般的には高齢化社会の構成メンバーがその人たちなのだということが出来るが、私は自分と同じ立場のこの世代の人たちが、世の中に貢献できる最大の仕事は、健康で医者要らずの人生を全うすることだと思っている。あの世に逝く瞬間まで、健康で他者に迷惑をかけない生き方を全うすることだと思っている。

それは簡単なことではない。人一倍の健康に対する配慮(考えと実行)が不可欠だと思う。そしてそれを実現する方法の中で、くるま旅というのが、今の世の中では相当に有効な方法なのだと信じて疑わない。運転免許証のない方には無縁の話かも知れないけど、これからの高齢者やその予備軍の世代では、運転免許の取得率は、かなり高いのではないかと思う。

誰もがくるま旅を楽しむというのは無理な話であろう。楽しめる人が楽しめば良いというだけのことかもしれない。しかし私の体験では、旅は人を元気付け、生きる活力を増してくれるのである。病院通いの費用を旅に振り向けるというような発想が広がれば、わが国の福祉社会にどれほど貢献するか分からないと思ったりしている。

何だか、少し支離滅裂的な話となったが、私の本が思った以上の評価を頂いている世界があることを知って、大いに魂消ると共にちょっぴり自信を取り戻したのだった。

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