妙なタイトルとなった。今世界中を吹き荒れている不景気の元凶ともいえるUSA経済の金融恐慌のことに思いを馳せてみたい。くるま旅くらしの提唱などと言っているノーテン野郎が、何を言うのかとの批難を省みもせずに、どうしても一言、三言、駄弁を弄(ろう)したい。
経済のことは難しい。というより解らないと言った方が当たっている。これから述べることも群盲が像を撫でた所感の一つに過ぎないと思う。曲がりなりにも経済学を学び、マーケティングを専攻した者としては真にお恥ずかしい次第なのだけど、経済という奴は、どうにも得体の知れない人間の動きだと思っている。
さて、今日のテーマは昨日に引き続き「虚」の話である。現在世界中を不況の嵐に落ち込ませている経済恐慌の震源地というか、震源そのものであるUSA経済の核となっている虚の話をしたい。
経済の話の中で、時々「実体経済」ということばが出てくる。経済問題を得意とされている現総理なども、時々このことばを使っておられるようだ。実体経済などということばを敢えて使わなければならない背景には、実体とは異なるもう一つの経済の仕組みがあるということである。実体の反対といえば、仮想であり、虚像であり、バーチャルというようなことばが用いられるのであろうが、その反対語は資産経済というのだそうだ。普段聞いたこともないことばであり、辞書など引いても載っていない。自分にも解らないことばである。しかし、実体があるのであるから実体のない経済もあるに違いない。つまり「虚」の経済があるに違いないということだ。
そもそも経済とは何か。それは、例えば広辞苑によれば、「人間の共同生活の基礎をなす、財・サービスの生産・分配・消費の行為過程並びにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体。転じて金銭のやりくり」と書かれている。つまり簡単に言えば家計から国家までを動かしているお金のやりくりが経済なのだということであろう。
ところで、お金のやりくりについて考えてみると、もの(=財・サービス)を買ったり、売ったりする経済行動は、人類の歴史上ではいわゆる物々交換から始まっている。人々は自分の欲望を満たすためにお互いにそれにフィットしたものを持ち合い、上手く欲望が合致すればそこで交換し合ったのであった。それがやがて発展して交換の手段として共通のルールの下に貨幣(=貝殻・宝石・布など)が用いられるようになり、やがてその貨幣は更に発展して、より合理的な性質を持つ貴金属の金や銀が用いられるようになった。しかし、それでも貨幣の利便性を満たすのが難しくなると、紙幣を中心とする通貨が用いられるようになって今日に至っている。
これらの通貨は、いずれも実体経済を反映しているものである。実体経済とは物と物との交換に時間的なズレがないことであり、通貨を支払うと同時に物を自分のものとすることが出来るというしくみである。お金(=貨幣)がなければ物は買えない、物がなければお金を得ることは出来ないというのが実体経済なのだ。人類の歴史の相当に長い期間は、世の中は実体経済で動いて来たのだといえる。
それが変形してきたのは、何故なのだろうか?新たに信用という経済のコンセプトが拡大したからではないか。信用というのは、どういうことなのか。経済用語としての信用は、英語で理解した方が明快だ。クレジット(credit)といえば、イメージが湧きやすい。信用というのは、実体経済が物の交換(=難しく言うと給付と反対給付)において、時間的なズレがなく同時に価値の交換が為し得ているのに対して、信用の世界では、物の交換において時間的なズレが生じているということである。この時間的なズレのことを信用と呼んでいるわけだ。クレジットといえば、お金の支払いは分割とか後払いという条件で、先に欲しい物を手に入れることができる、そのようなしくみを言うのであり、経済活動における信用とは何かを理解しやすいと思う。
さて、元に戻って実体経済ではない経済を考えてみると、現在の世の中がこの「信用」という取引活動を急速に発展させたところから、恐慌などの事件や問題発生の全てが始まっているように思う。実体経済の中では、金融恐慌というような現象は起こらないのではないか。信用というのは、いわば博打のようなものといえよう。手元に裏付けるお金が無くても、一攫千金を夢見てサイコロに賭けることができるのである。
株も各種の債権も、全て信用を前提とした商取引であり、現代の経済はもはやこれ無しでは成り立ってゆかなくなっている。信用取引の全てが悪であるなどとはとても言えないけど、その根底にあるものが、価値交換手段のタイミングのズレであるということを思うと、基本的に博打なのだという認識は欠かせないと言えよう。
この博打経済を牛耳り、操ってきたのがアメリカだと言える。アメリカは世界経済の牽引国としての自負の元に、様々な分野において経済発展に多大の貢献をしてきた事は万人の認めるところである。しかし、ものづくりなどを卒業した後、そのエネルギーの大半を金融経済に注ぎ込んだようだ。その結果本来物づくりのスペシャリストであったはずの企業までが、不安定な好景気の下で金融にまで手を出すようになって行ったようだ。顧客ニーズに真面目に応えるような姿勢を持ち続けていたなら、現在の自動車産業のビッグ3のような状況は生まれなかったに違いない。
今回の金融恐慌の起爆源となったのは、サブプライムローンの破綻だといわれている。借金でマイホームを買ったのに、ローンのお金が払えなくなったという話は、アメリカだけではなく日本にだってざらにある話である。しかし日本ではこのような世界中を揺るがすような問題は起こってはいない。アメリカで何故なのか。それはこの借金を含んだ債権を世界中に販売したからである。通常の感覚では、土地や家をペーパーに換える(=債権(券)化)などという発想は無いのだが、アメリカではそのような発想が生まれるらしい。ペーパー化すれば、世界中にそれを売ることが出来、新たな資金を手に入れることができる。実に巧みな商売術と言えよう。しかもペーパー化するに当たっては、信用を保証する専門機関としての会社を用意しているのである。この保証会社は、信用度を査定するだけであり、信用が崩れた場合の責任を果たす能力を持っていないと言うのだから、危険と言えばこれほど危険なことは無い。
このようなしくみの元では、順調に機能している時は、例えその本質に「虚」が多く入り込んでいても、恰(あたか)も実体経済の如くに世界を動かしてゆくことができる。しかし、根っ子にある信用が崩れた場合は、一大事となる。それが今回の恐慌の根源的な構造なのだと思う。
どうすればこの事態を乗り越えることが出来るのだろうか。その解は私の力ではとても読むことは出来ない。思うにこの不況は現在騒がれているようなレベルでは終わらず、もっともっと厳しい状況を生み出すのではないか。派遣労働者や期間労働者の人たちだけではなく、経営者(中小企業の)に至るまで、どうやって今日を凌ぎ、明日を迎えるかという艱難の時が迫っているように思えてならない。
年金暮らしの自分には、貢献できる何の術も無いように思える。年金の支払いが減ったり、無くなったりすることが無いように願いながら、くるま旅も控えるようにして、一切のムダを排除した質素な暮らしに徹することくらいしか出来ない。世の中の多くの人たちと同じように、辛抱の暮らしを甘受するしかないと思っている。
それにしても、もう博打はいい加減にしたらどうか。アメリカの誰にお願いすれば良いのか見当もつかないが、博打を止めさせるか、ぐっと押さえ込むというような政策を取って貰いたいものだと思う。自由経済に政治が介入しないという精神を大事にした結果、歪んだ博打経済を蔓延(はびこ)らせて、世界中を不幸のどん底に落とし込んだという現実を、その責任をアメリカの為政者は心すべきと思う。アメリカを信用して、一国を挙げてペーパーを買い入れた結果、破綻に直面している国があることを、政治とは無関係と切り捨てることは出来ないのであはないか。ペーパーで国という土地を買うことは出来ても、そこに住む人々まで買うことは出来ないのだから。虚の経済は放置すべきではないし、自由を侵略していることを認知すべきである。