山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

異常気象

2008-08-31 06:06:37 | くるま旅くらしの話

最近は荒天ということばを使うことが多くなった。本当は荒天ではなく、好天や好転ということばを多用したいのだが、そのチャンスが次第に少なくなってきている世の中のように思えてならない。

連日とんでもない雨降りが続いていて、歩きの必要な人間には、全く以って迷惑千万な毎日である。雨降りには傘をさして歩けば良いだけの話で、それは一向苦にならないのだけど、ここ数日の荒天は、傘をさすのもムダというような性質(たち)の悪い天気なのである。強すぎる雨の降り方だけではなく、雷の稲妻や轟きがくっついてくるというのだから、肝を冷やして歩くことも出来ない。

荒天のことを異常気象というのであろう。異常気象がこの頃はあまりにも多すぎる。くるま旅にとって、気象というのは大切な要件である。安全と安心の最大の前提条件となるからである。それがこの頃は次第に悪化しているのを実感している。

例えば北海道に梅雨はないといわれているが、今はそのようなことはない。梅雨入りも梅雨明けもない、ダラダラとした雨期が7月の北海道には定着していて、旅くらしを寒く暗くしている。又梅雨とは別に、北海道には頻繁に台風が到来するようになった。その所為か、嵐が去った後の倒木が多い。北海道が、北の大地などと呼ばれる時は力強いイメージが浮かぶが、その実の大地といえば、樹木たちには決して条件の良い肥沃な土地などではなく、痩せた荒地に懸命に根を張らなければならない厳しい条件の所なのである。雪の重みには耐えられても、予想だにしなかった回り狂った横風を受けて、根こそぎに倒れた蝦夷松や椴(とど)松を見ると、哀しい思いに捉われずにはいられない。

異常気象というのは不気味だ。この世の終わりを予感させるものがある。科学的ではないが、何でも科学的に解決できるなどと思い上がっている人間の知恵などもう限界に来ているのではないか。人間の知恵というのは、欲望の範囲でしか働かないものに過ぎないのではないかと思う。あれをしたい、これもしたいという欲望の充足のために、人間は今まで、バカげた恐るべき知恵を発達させてきたが、その限界が見えてきたのではないか。科学というのは、負の部分とのバランスで成り立っているように思うが、人間は負の部分を無視し切り捨てて、利得の部分だけを貪ってきた嫌いがある。その置き去りにしてきたものが、ここへきて急速に力をつけてきたということではないか。異常気象はその表れに過ぎないのではないかと思う。

それにしてもこの頃の天気の異常振りは際立っている。1時間に150ミリ近くの雨が降るなんて、想像もつかない。天気予報のキャスターは、もっともらしく気圧配置や雲の動きを解説して、気をつけろと言ってくれているけど、どう気をつけて良いのか見当もつかないというのが、雨に見舞われている現地・現場の人たちの気持ちであろう。この誰にも止められない異常気象という現象に、我々はどう向かい合えば良いのだろうか。

異常現象の根源に偏西風のコースの変動があるという。一体何がどうなって、そのような変動が起こるのであろうか。科学者はその謎を懸命に解こうとしているのだと思うが、諧謔(かいぎゃく)的には幾つもの回答があるように思う。例えば、変動の要因の一つとして北京オリンピックがあるのではないか。大した平和の祭典でもなくなってしまったオリンピックがもたらした、北京で費やされたエネルギーの負の部分が、偏西風を狂わせたと考えるのは、意外と核心を突いているのではないか。

中国やインドに暮らす人たちの欲望が膨らむほどに、それに費やされるエネルギーの負の部分は、これから益々偏西風を変動させ、地球を温めてゆくに違いない。しかしどこにも、だれにもそれを止める資格も力もない。つまりは、地球というのは、人間という生き物が、懸命にその欲望を満たそうと努めれば努めるほど、地球の生命をすり減らす存在なのではないかと思う。

現在、いわゆる後進国とか開発途上国などと呼ばれる国が、全て豊かになった時、この地球は人間を養うという使命を終えるのではないか。異常気象というのは、その終りが近づいていることを知らせるシグナルの一つではないかと思う。しかし、貧しい国が豊かになってはならないなどというルールは誰にも作れないし、守れるものでもない。人間の欲望を押さえるということは、神様にだって出来ない話だからである。

暗い気分でこのようなことを書いている間も、雷鳴は轟き、雨は降り続いている。全く気が滅入る毎日である。

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企業内職場OB会に出る

2008-08-30 06:50:43 | くるま旅くらしの話

 昨日は久しぶりに江戸の街中へ出かけて戻ってきた。以前勤めていた会社の40年ほど前の小さな職場のOB会があって、それに珍しくも出席したのだった。偶々我々夫婦は、その職場の仲間だったことから、家内も一緒の出席となった。言うて見れば、40年前のある種の恥を晒しに行くようなもので、それほど積極的に出かけたいとは思わないのだけど、まあ、人間40年も経てば、恥などものともしない厚顔の出来上がりとなって、時には昔を穿(ほじく)り出す集まりに出てみようかと思った次第である。

 会社を辞めたとき以来、ネクタイをつけての暮らしは冠婚葬祭のやむを得ない時以外は一切していない。自立してから(定年前に会社を辞め、その後コンサルティングの仕事を5年間ほどした)も、ネクタイをつけて仕事をしたことはないというのが自分の服装のスタイルで、最近はGパンとTシャツが公私を問わずの基本着衣となっている。それなのに、昔のサラリーマンの職場の連中に会いに行くのだからと、4年前引退した時まで来ていた一張羅の服装をして(勿論ネクタイなどはしないで)出かけたのだった。

 40年前の職場というのは、その会社の企業内教育を担当する小さな係が誕生した、その草創期のメンバーの集まりなのである。往時、入社間もない自分は、教育係というのに配属されてしまって、教師というのが嫌いで、教員の免状もあえて取らなかったのに、何でこんな仕事をやらされるのかと、転職のことも視野に入れての毎日だったのを覚えている。その後結局は企業内教育コンサルタントにまで成り下がってしまったのだから、人生というのは訳がわからない。

 その当時の会社は、従業員が2千人足らずの小さなものだったが、教育には力を入れ、現場の仕事をする核となる人材を、技能訓練生と称して、中学卒業生を2年間で工業高校卒並みのレベルに育成するということをやっていたのだった。したがって教育係は事務系ばかりでなく現場(技術)指導員も必要としており、結構な大所帯だったのである。昨日戴いた名簿では、25名の名前が書かれていた。往時の技能訓練生は、最大時1、2年生を合わせて300名近い人数だったと思う。この人たちを丸抱えの全寮制で面倒見るのだから、毎日が想定外の出来事に満たされていたのは言うまでも無い。それ故、指導員が本気で汗を流さないとうまくゆく筈が無く、自ずと職場の結束力は高まったのだと思う。いわば一企業の中では特殊な職場だったのだ。

 25名の中には、現在札幌や富山などの遠地に住まわれている方も居り、又事情で出席できなかった方もあって、出席者は17名だったが、この種の集まりとしてはかなりの出席率だったと思う。もはや殆どが現役を離れ第2、第3の人生ステージを歩んでおられる。ボランティアや趣味に忙しい毎日を送っておられる方もいて、各人の近況報告は変化に富んでいた。特に女性陣は40年ぶりにご尊顔を拝した方なども居て、なんだか珍しい感じがしたのは、40年も毎日同じ人の顔を見て来ていたからなのかも知れない。

 私は少し根性がねじれていると自認しているが、この種の集まりに参加するのが好きではない。特に会社の中の入社同期会とか全体的なOB会などというのは、うっかりすると人間を堕落させる集まりだと思っている。同じ組織に属した者が集まって、ただ昔の懐かしさだの面白くなかったことだのをうじゃうじゃ言いながら飲み食いするだけの集まりなど真っ平ごめんだと思っている。

 サラリーマンをやめたら、スパッと一切の怨念や柵(しがらみ)を外し、切ることが必要ではないか。何時までも過去を懐かしがっていたのでは、新しい世界は開けて来ないのではないか。特に辞めて間もない時ほどそれは大切なことのように思う。定年を過ぎても会社にぶら下がりたいのは、安全や安心を求める人間としての欲求なのだとは思うけど、新しい世界はやっては来ない。ま、何もそれほど肩に力を入れて言うほどのことではないけど、そう思っている。

 今回の集まりは、その意味では少し違っているのかなと思った。40年も経てば、お互い顔ぐらいは見たいものだ。会社の匂いや化粧のとれた素顔を覗いてみたいものだ。そしてお互い良い顔になったなと、密かに喜び合いたいものだ。今回のメンバーの中には、まだそのような顔にはなっていない人が多かったように思う。その最たる者が自分なのであるから、まだまだ出席には値しないようだなと思った次第である。

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嬉しいお便り

2008-08-29 05:14:42 | くるま旅くらしの話

 拙著「くるま旅くらし心得帖」の出版元が倒産し、その後を引き継いだ出版社から、継続出版の案内を頂戴したのだが、かなりの更なる出費を必要とするので、出版を断念した。年金暮らしの身には、投下資金の回収が当てにならないものに再投資をするほどの余裕はない。残念だけど、この本はたった2版だけで終わりとなる運命にあるようだ。出版社に残っていた全冊を引き取ったのだが、もう残部も30冊となってしまった。

 その本の販売は、現在ホームページなどを介して行わせて頂いているが、先日久しぶりにオーダーを頂戴した。ホームページをご覧戴いた方からのメールでのご注文だった。赤穂市にお住まいのMさんという女性の方からで、それによると「一昨年父がキャンピングカーを購入したのですが、『最近のキャンピングカーのマナーが悪い』との評判を耳にしたのですが、父がどういう風なマナーで、キャンピングカーで旅をしているのか、私には分らないのでこの本を読んで、マナー違反していないか?どんなマナーがあるのかを父に理解してほしいのです」とあった。

 優しい思いやりのある娘さんなのだなと嬉しくなった。くるま旅をされている方ではなく、そのご家族からの本のオーダーを頂戴したのは初めてのことである。このような優しい思いやりのある娘さんのお父様が、マナー違反の旅などする筈がないと思った。ご両親のくるま旅を是非支援してあげて下さい、と返信したのだった。その後再度メールを頂戴したのだが、その中には次のように書かれていた。

「最初に父がキャンピングカーを購入するときに、ただ驚いていました。どこにでもいるような平凡なサラリーマンです。そんな野望を抱いていたとは思わず、……。

私たち子供の手が離れ、やっと自分の好きなことが出来るようになったからと言って、、キャンピングカーとは!!

母親も良く理解できたな……と思いましたが、今では応援する気持ちと、父たち夫婦のように、定年前でも夫婦仲良く一緒に旅に出れたらいいなと思えるようになりました。私たちの子供も小学生で、おじいちゃんと一緒に旅をすることがすごく楽しいみたいです。」

 私はこれを読んで、なるほどなあと考えさせられ、又Mさんのご両親に対する理解を素晴らしいなあと思った。「何でキャンピングカーなの?」という家族(=子ども)の疑念は、かつての我が家の場合と同じような気がする。子どもたちから見れば、いくら自由に旅がしたいといって、大枚を叩(はた)いてキャンピングカーなんぞを買うとは!という気持ちが一般なのだと思う。子どもによらず兄弟や親戚からも「あいつは何を考えてるんだ?」と疑念視されるのが普通のようだ。このような感慨を持たれることは致し方ないことだと思っている。私の場合もそうだったし、今でもそのような醒めた見方で見ている人もいるように思う。

 しかし、私は思い切って旅車を手に入れた方の決断を大いに評価したい。Mさんのお父様にも絶賛のエールを送りたい。だれが何と言おうと、何もしない(これは言い過ぎかも。中途半端に何かをやろうと家の中に閉じこもっているような場合を指している)で、家を拠点にウロウロしているような生き方よりは、くるま旅くらしは、はるかに活き活きとした人生を過すことができるからだ。

 くるま旅くらしは、よほどの条件に恵まれていないと、恐らく現役の人には無理なことと思う。それ故、私は定年後の人生を送る柱の一つになり得ると考え、リタイア後の方たちを対象として「くるま旅くらし心得帖」を書かせて頂いた。リタイア後の人生は、お釈迦様の言う人生の4つのテーマ「生・病・老・死」に直接向き合わなければならない時間でもある。この時間を現役時代と同じ発想で過ごすことは不可能ではないか。どう生きるかの発想を持たない人は、己を失ってゆくのではないかと思えてしかたがない。活き活きと生きている人は、己を失うことは無く、病や老という事象にもきちんと対峙(たいじ)出来るのではないかと思うのである。

 この「活き活きと生きる」の源となるのは何なのだろうか。私が思うに、それは生きていることを実感できる絶えざる喜びであり、刺激ではないかと思っている。沈滞した時間の中にそのような刺激や喜びを探すのは難しいと思う。沈滞や停滞の時間ではなく、日々の変化の中にこそ、それは多く存在しているのではないだろうか。

 そして、それらの要件は、全てくるま旅くらしの中に存在するのである。昨日と違う今日を実感できるのが旅の本質だと思う。旅に出ていると、毎日が刺激的である。止まっていても、移動していても、普段家にいるときとは環境が異なるのである。人は今までと異なる環境に身を置いたとき、改めて自分というものに気づくのではないか。旅は新しい自分に気づき、様々な出会いを通してその人の生きる力を強めてくれるように思う。

 キャンピングカーは確かに高額だけど、それを回収するだけの力を持った旅のツールだと思う。私の旅車は購入してから既に6年を超え、走行距離も10万キロを超えたけど、もう随分前に投下費用を回収できていると思っている。ツアーの旅などとは比較にならない、自由で稔り多い出会いをたくさん頂戴している。それは今まで自分が生きてきた世界を大きく変えるものでもあった。生きていることを実感できる時間がたくさん詰まったものだった。私は、あと20年はくるま旅を続けたいと願っている。くるま旅は単なる遊びではない、リタイア後を活き活きと生きるための一つの生き方なのだと思っている。

 くるま旅をしている人は元気な方が多い。家に居れば病に取り付かれて動きの取れない人でも、旅に出ると活力を取り戻されている人を何人か知っている。毎年北海道でお会いする愛媛県からのWさんは、80歳を超えるご夫妻だが、お二人とも病のハンディをお持ちながら、はるばると車を運転して、根室市に隣接する別海町にやって来られている。奥様は車椅子、そしてご主人も脊髄に障害があるとか。私はそのお姿を拝見してもうそれだけで胸を打たれるのである。もしこのお二人が在宅で過されていたら、とうの昔に病は、ご夫妻の動きを封じてしまっていたのではないかと思う。しかし、現実のお二人は、20年以上のくるま旅の経験から、病の壁を乗り越えて、北の大地で生きている喜びを実感なさっておられるのだ。くるま旅の真髄を味わっておられる姿を見て感動せずには居られない。

 「病院に通うくらいなら、旅に出かけたほうが良い」とおっしゃるお歳寄りも居られる。これはまさに至言ではないか。病を避ける最良の方法は旅に出ることではないかと私は思っている。病は必ずしも病院に行けば治るものではない。リタイア後の人生は病の到来は不可避のことだとは思うが、徒(いたずら)に病院通いだけを考えるのは気の毒なことだと思う。病院通いは身体の病以上に心が病んでしまうことにつながりかねない。私は、旅は、くるま旅は、歳寄りの病を回避する大きな力になるものと信じて疑わない。

 Mさんのお父様は、素晴らしい選択、決断をされたのだと思う。私はこのことを強調したい。リタイア後の人生を健康で活き活きと生きるために、くるま旅は最適の選択だということを。Mさんの心配は、お父様がくるま旅を更に発展させて心豊かな人生を送られているのに気づいた時、全くの杞憂であったと吹き飛ぶに違いない。介護など一切不要の人生を送るために、くるま旅が大きな力となることを祈念して、Mさんご一家のこれからを思ったのであった。 

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孫台風との野反湖行(その2)

2008-08-28 05:32:56 | くるま旅くらしの話

翌日は快晴となりました。絶好のキャンプ日和です。6時前に目覚めて外を見ると、昨日までの雲が嘘のように吹き飛んで、真っ青の青空が広がっていました。孫たちはまだ少し眠そうでしたが、それでも外に出ると高原の澄んだ空気の爽やかさに触れて、まさに目が醒めたようでした。洗顔を済ませ、朝食のパンを食べた後は、混み合っている道の駅のトイレを避けて、先ずは六合村の道の駅に行くことにしました。こちらの方のトイレの方が落ち着いて使用できると考えたからです。

草津温泉は標高1,000mくらいの所にあり道の駅もそれくらいの高さにあります。六合村の道の駅はそれよりも少し低い位置にありますので、そこまでの道はずっと下り坂となります。連なる山並みを見下ろしながらの早朝のドライブは、なかなかのものでした。昨日の雨で道はまだ濡れている箇所がありましたが、随所にある緑のトンネルを抜けながら、孫たちはどのような感想を抱きながらこの朝を楽しんでいるのかなと思いました。20分ほどで六合の道の駅に到着。ここで用を足し、キャンプ場への準備を整えて出発です。

キャンプ場の受付は9時過ぎと聞いていましたが、少し早めに行って高原を散策することにしました。六合の道の駅から野反湖までは15km足らずですが、長い登り道が続きます。尻焼温泉までは小さな集落もありますが、そこから先は人家の全く無い山道です。運転は倅に任せての道行きなので、こちら(=自分)は孫と一緒に専ら窓外の景観を楽しみながらの時間でした。アクセルを踏み込んでもなかなか速度の出ない車に、倅は少し驚いたようでした。40分ほどで野反湖の入口の富士見峠に到着。一挙に景観が拡がって、美しい湖が眼下に姿を現しました。

孫たちもその大きな景観に声を上げたようです。湖は1,500mもの高さにあり、周辺の山はちょっと見には大して高くも無い丘のように見えるのですが、実際は2,000mを越える高山なのです。真っ先に目に入ったのはマツムシ草の花でした。

   

   マツムシ草と花アブ。富士見峠の辺りにはこの花がたくさん咲き乱れていた。

マツムシ草は高原を代表する秋の花ですが、ここでそれを見るとは意外でした。孫たちに説明をしましたが、あまり興味関心はなさそうで、直ぐに忘れてしまう感じでした。その他にもかなりの数の野草たちが迎えてくれて嬉しい限りでした。少し高い所にあるコマクサの花畑に孫たちを連れてゆくことにしました。もう花の時期は終わっているので、せめて草の様子だけでも見せようと登っていったのですが、何とまだ花を咲かせている株が2~3個あって、孫たちも大喜びでした。少し高い場所から見る野反湖の景観は又格別のものでした。

9時少し過ぎ野反湖のキャンプ場の入口に到着。キャンプ場での駐車泊はダメというので、入口にある売店の駐車場に泊まろうと考えていたので、先ずはそこの駐車場に車を停めて様子を見ていると、売店の方から人が走って来て何やら倅に話しているようなので、出てみると、何と、キャンピングカーはここには留まってはいけないということでした。キャンプ場の経営とこの売店の経営は別々であり、当方としてはキャンピングカーがここには留まることは禁止しているという話なのです。その理由は会社の方針で決まっているというだけの繰り返しであり、真に一方的な話でありました。呆れ返って物も言えない感じであります。先日、この店で買い物をしたことを深く悔いました。とにかくここに居るのは不快なので、我々はキャンプ場へ来たのであって、ここに泊まりに来たのではないことを告げ、キャンプ場の受付へ向いました。

キャンプ場での駐車場泊はダメとは聞いていましたので、改めてその理由を聞きましたら、この地は国立公園の特別エリアになっており、キャンプ場は大自然の中でキャンプを体験して貰うために六合村が運営しているとのことでした。確かにテントも張らずに何台ものキャンピングカーが駐車場泊をしていたら、それは国立公園の中では異様な景色となるのかもしれません。ここにある貴重な大自然を汚し破壊することにつながるという危惧を抱かれるのかも知れないなと、一応納得をしました。先ほどの駐車場のオッサンの言い方とは随分違うなと思いました。しかし、心の底では、ここにあるロッジは何なのだろうかと疑問を感じました。テントに寝るに限るという条件なら解るとしても、ロッジならばキャンピングカーと大して変わらないのではないかと思うのです。キャンピングカーというものがどのようなものなのかということがまだまだ解って頂けない実態がここにもあるなと思いました。

デイキャンプをして今日は早めに山を降りて六合の道の駅に泊まることにしようと決めました。しかし、デイキャンプは15時頃までには撤収して欲しいということでしたので、もう少し時間に余裕が欲しいと考え、1泊分のテントの設営料を支払って、受付を済ませました。勿論ここに泊まるつもりはありません。

駐車場からキャンプ場までは歩いて15分も掛かるのです。荷物運搬のためのリヤカーを借りて、それにテントや椅子、それにバーベキューの材料や用具などを積み込んで、設営場所まで運ぶのには大汗を掻きました。途中に清水の流れている箇所や野草(ヤマハハコ、アザミ、ヤマヒヨドリなど)の咲き乱れている箇所などがあり、リヤカーはなかなか前に進まない状況でした。孫たちも懸命に後押しをしていましたが、果たしてどれほどの力が助けになったのかは定かではありません。

ようやく現地について、テントの設営開始です。テントは食事のテーブルと用材を置くためのものを持参した他、焚き火のグリルをカバーできるタープを用意しました。子どもたちは珍しいので、あれこれとこまめに手伝ってくれました。支柱を立てるのを支えたり、ペグを打つのを手伝ったりと、大童(おおわらわ)でした。ようやくテントの設営が終わり、さて、焚き火をしようかと思ったら、なんと焚き火のグリルセットを車の倉庫に忘れてきてしまっているではありませんか。いやはや、倅に持って来るのを頼んで、ジサマはしばらく休憩です。孫たちは倅と一緒に車までの往復を楽しんだようです。

その後は、ジサマは焚き火の火熾(おこ)しと炭熾しに取り組み、孫たちは父親と一緒にバーベキュー用の具材の準備です。野菜類などを結構上手に切り揃えてくれました。一段落する頃、又々箸を持ってくるのを忘れたのに気づいて、ジサマは走ってそれを取りに行きました。往復20分ほどの急行は結構キツイものでした。ようやくバーベキューを開始した時は、11時半にもなってしまっていました。

バーベキューに用意したものは、野菜が中心で、家の畑で採れたナス、ピーマン、辛くない唐辛子、タマネギ、ジャガイモ、そして買い入れたのはトウモロコシ、カボチャ、肉とソーセージでした。孫たちが切った野菜類は、適当な大きさに出来上がっていて、焼くには好都合でした。ジサマは殆ど焼き役で、合間にビールを飲み、つまみに出来上がったものを少し口に入れるといった按配でした。孫たちは普段は食が細いという親の話でしたが、この時はいつもと違った旺盛な食欲を見せて、肉も野菜も美味しいオイシイとたくさん食べたようです。ジサマは満足です。

食事の後は、しばし休憩。本来ならば少し昼寝でもしたいところですが、何しろ良い天気で日差しがきつく、テントの中は暑くてとても寝るどころではありません。夏休みの宿題の研究に野反湖の花を取り上げるなどと言っていた上の子も宿題のことは忘れたようで、妹と遊ぶことに熱中していました。本来ですとここでジサマがしゃしゃり出て得意(?)の野草の説明に孫を引き出すのでしょうが、本人がその気にならない限りは、このジサマはそのような蛮行に及ぶ気はないのです。多分このような判断は、今の時代には適切とは言えないかも知れません。

お腹の調子も一段落しかけた頃、急に白砂山や八間山の方に黒雲が湧き出しました。それまでも入道雲らしきものは幾つか見えたのですが、雨を降らせるようなものではなく、大丈夫だと思っていたのですが、この黒雲はどうやらそうは行かない感じで、もしかすると驟雨が襲ってくるかも知れないと思いました。どうするかしばし迷ったのですが、雨に濡れた後の撤収では大変なので、とにかくメインイベントのバーベキューも済んだので、テントを撤収しようということにし、その作業に取り掛かりました。倅がリヤカーを取りに行く間、テントを畳むのはジサマの役目となりました。孫たちにも手伝って貰って、リヤカーに荷物を積み終えたころには、ポツリポツリと雨の粒が落ちてきました。どうやら予感は的中したようでした。大急ぎで車に戻り、荷物を運び終わった頃に雨は路面を濡らすほどとなりました。間一髪セーフでした。しかしそその後大雨にはならず、ざっと降って収まったのは幸運でした。運転手は二人ともアルコールが入っているので、直ぐに出発するわけには行きません。しばらく皆で昼寝をすることにしました。それから2時間ほどよく眠って、目覚めると爽やかな風の吹く天気となっていました。秋の気配が感ぜられました。マツムシ草が咲くのは、この地がやはりそういう季節になっているのだなと改めて感じた次第です。

今夜ここに、このまま泊まっても、何の迷惑を掛けることも無いのになと思いながら、17時少し前キャンプ場に別れを告げました。六合の道の駅までの道中は、ゆっくりと走って周辺の景色や野草などを見ながらの結構楽しい時間でした。17時半、道の駅到着。今夜はここが宿地です。昨日休みだった温泉も開いており、温泉に入りたいという孫たちの要望に応えて、先ずは入浴です。ここの温泉は施設としてはあまり子ども向きとは言えず、どちらかといえばお年寄りの保養施設の感があり、ジサマだらけの風呂に入れるのは如何なものかと心配だったのですが、孫たちはあまりそのようなことには拘(こだわ)らずに入っていたので、ホッとはしましたが、今回以降の入浴は考えものだなと思いました。

温泉から出て、汗が収まる間に調理役のジサマは、そうめんを茹でることにしました。お昼が重かったので、夕食はそうめんあたりで軽く流そうとしたのですが、これが結構好評だったので、作り手としては安堵した次第です。草津の道の駅と違って、六合村の道の駅は泊まりの車は自分たちの他は2台だけでした。温泉の営業時間が終わるまでは車の出入りがありますが、それを過ぎると静かな夜となります。空に星が煌めいていて、孫たちも感動しながらそれを眺めていたようでした。昨日の一夜でなれたのか、今日の日中の疲れが出たのか、寝付くまでに時間は殆ど掛からないようでした。

翌日はもう帰りの日程です。朝方は雨の降る気配はありませんが、雲の多い天気で、夏という感じが少ない涼しさです。朝食のあと、車をバックに記念写真を撮りました。来年もまた来るかい?という問に対して孫たちは前向きの姿勢を示していました。何としても来たいと言わないところが、今回のキャンプの課題なのかなと思いましたが、今回の感想を聞くと、バーベキューが一番気に入ったようです。焚き火で肉や野菜を焼いて食べるというような経験はあまりなかったらしく、それに自分たちが野菜を切ったりしたので、参画感が大きかったようです。次回は一つ歳をとって賢くなってくれることを期待して、ジサマは調理の指示役になって、孫たちに作って欲しいものだなと思いました。

   

 ジサマと一緒の記念写真。六合村の道の駅にて。バサマが同行できなかったのが残念。

8時過ぎ六合村の道の駅を出発して帰途に着きました。途中三つほどの道の駅に立ち寄りながら、我が家に着いたのは、14時半でした。この間孫たちは殆ど眠りの中にいたようです。孫台風は、我が家の中ではその威力を大いに発揮しますが、車で旅に出ると存外おとなしくて、台風からは程遠い白夜の雰囲気もあるなと思いました。たった3日間の小さなキャンプの旅でしたが、いつもとは違った時間を楽しむことができ満足でした。

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孫台風との野反湖行(その1)

2008-08-27 06:00:24 | くるま旅くらしの話

 ブログの方は夏休みとなりましたが、この間(8/1921)孫(小4と小2の娘)たちと一緒に野反湖(のぞりこ)へキャンプに行ってきました。そのことを報告します。

野反湖は、群馬県の六合(くに)村にある標高1500mに位置するダム湖です。孫たちと一緒にキャンプにでも行くかという話があり、何処にしようかと迷っていたのですが、北海道に出かける前に訪ねた野反湖に行くことにしました。きれいな湖だし、高山植物などもたくさんあって、季節の花を見るのも何かの役に立つのではないかと思ったのでした。

  

富士見峠付近から見た野反湖の景観。ここから一番遠くに見える辺りがダムの放水箇所で、ダムからの水はやがて信濃川に入り、日本海に注ぐ。

相棒が母の介護で一緒に行けないものですから、倅と孫二人の計4名のやや変則的なメンバーとなりました。倅には専ら運転を頼み、自分は相変わらずの主夫で、食事のメニューを含めたプランと実践の役割を担うこととなりました。2泊3日の行程で、この間何処で何をどうやって食べさせるのかを考えるには、結構頭を悩まさせられました。

先ず行程ですが、当初は野反湖のキャンプ場で2泊することにしていたのですが、事前に電話で問い合わせたところ、キャンピングカーの駐車場泊はダメとの話でしたので、テントの中で寝るのは嫌だなと思い、キャンプ場外の売店の駐車場に泊まることにしようと考えました。その後考えが変わって、初日は野反湖の入口にある六合村の道の駅に泊まり、キャンプ場(場外の駐車場)での泊まりは1泊だけにすることにしました。後は行って見て状況に合わせて臨機応変に判断することにしました。

いよいよ出発の当日が来ました。天気が心配でしたが、予報通りの曇り空で、キャンプ向きの空模様ではありませんでした。東京は町田市に住んでいる孫たちは朝に家を出て、我が家には9時に到着です。早速キャンピングカーに荷物を積み込んで、9時半には出発です。キャンピングカーに寝泊りするのは、孫たちには初めてのことで、それなりの期待に胸を弾ませているようでした。

守谷を出てから筑西(下館)でR50に入り、それを前橋まで行って前橋からR17に入り、渋川郊外でR353に入って長野原で六合村へのR292に入れば、後は真っ直ぐに野反湖に向うというのが今日のコースです。約200kmの距離となります。泊まりは六合村の道の駅なので、急ぐ必要はなく、途中にある道の駅などで休憩しながら行くことにしました。

興奮気味に車に乗った孫たちは、しばらくは車の中や外の景色を見たりしていましたが、30分も走ると静かになってコックリを始め、やがて二人とも眠ってしまいました。どうやら車の中は眠る場所であると心得ているようでした。11時半近くに栃木県佐野市近くにある道の駅:みかもに到着。ここで昼食休憩にすることにしました。メニューは主夫が作ったおにぎりとゆで卵に飲み物だけの簡単なものです。おにぎりの中身はオカカと梅干の2種類だけですが、孫たちは梅干が苦手らしく、オカカが当たることを期待していたようでしたが、運悪く梅干が当たった上の子はそれでも頑張って頬張っているようでした。子どもたちにゴマをするようなジサマではないので、諦めたのかもしれません。道の駅の売店は、今日は定休日だということで、今夜のビールのアテに枝豆でも買おうかと思っていたのが不意になりました。

みかもの道の駅を出た後は、再び孫たちは眠りの世界に入って、車はその間に足利市・桐生市・みどり市・伊勢崎市を過ぎ、前橋市内でR17に入り、渋川市郊外の道の駅:子持で小休止することにしました。ここでも何とか枝豆をと考えていたのでしたが、何とここの道の駅の売店も定休日なのでした。火曜日というのは、道の駅の付属施設では休業が多いというのを思い出しました。もしかしたら今日の宿を予定している六合村の道の駅も温泉は休みなのかも知れないとガイドブックを引っ張り出して確認したら、やっぱり定休日と書いてありました。残念。

子持の道の駅は江戸の昔には白井宿と呼ばれた宿場町に造られており、道の駅の裏側の方にその名残りを思い起こさせるような水車小屋や時の鐘(なのかどうかは不明)のような建物がある小公園が作られています。上の子は眠り足りず寝ぼけ眼で起きて父親にべったりなのですが、下の子は活発で、白井宿の建物の方に手を引っ張って連れて行かされました。記念写真を数枚撮りました。

この頃から雨が降り出しました。予報では午後から雨になるということでしたが、最近の天気予報は外れることが少なく、こんな時には外れてくれればいいのにと思ったのですが、雨は益々強く降るばかりでした。長野原に近い吾妻渓谷を通る頃は猛烈な雨になり、ワイパーも効かないほどの有様でした。時々雷鳴も混ざっていやはやとんだ荒天となってしまいました。それでも長野原から六合村に向う山道に差し掛かる頃は小降りとなって、やれやれといったところです。

六合村から暮坂峠を通って四万温泉に向う道の途中に鶯の名水というのがあり、それを汲んでゆくことにしました。この道はその昔若山牧水も知人と一緒に通った道だとかで、歌が一首書かれた小さな案内板が出ています。往時からこの清水は旅人の疲れを癒してくれていたのだと思います。たっぷり水を補給して六合の道の駅に向うことにしたのですが、その前に、あまりの雨の酷さと温泉が定休日で入れないので、急遽今日の宿を変更して草津の道の駅に泊まることにしたのです。六合の道の駅から草津までは10km足らずの距離ですから、大して時間もかからず、又草津まで行けば温泉に入ることも可能です。

17時草津到着。孫たちも温泉に入りたいというので、西の河原の露天風呂に行くことにしました。この温泉は、露天風呂としては草津で最も有名な所だと思います。洗い場もなく、温泉に入るだけの所なので、子どもたちにはどうかなと思ったのですが、そもそも温泉というのはそのような場所なのですから、良い経験をさせるチャンスだと思いました。駐車場から400mほど離れたところにあり、少し遠いのですが雨も上がったようで、歩きに支障はありませんでした。広い石造りの湯船は子どもたちには初めての露天風呂で、それなりのインパクトはあったようでしたが、少し熱かったらしく、15分も経つと我慢が出来なくなって上がるということになってしましました。そうなると父親も上がることになり、ひとりジサマだけが湯に浸かっていることもならず、真に落ち着きの無い、且つ勿体ない入浴となった次第です。

入浴の後は、草津運動茶屋公園という名の道の駅へ。ここが今日の泊まりの場所です。この道の駅ではキャンピングカーやくるま旅の人のマナーが問題となっていると聞いていたので、どうなのかなという心配が一部にあったのですが、行って見ると長期滞在の車も居るようで、結構な混み具合でした。さほどマナーが悪いとも思えませんでしたが、ワンボックスや軽自動車ではどうしても外で食事を作ったり食べたりしなければならず、それが一般の人から見れば注視の的となるようです。中には食事の余り物などをその辺に捨てたりする人が居るのかも知れません。今日はそのような不謹慎な人は見当たりませんでした。とにかくゴミ出しなどせぬよう持参のバケツに収納するように心がけた次第です。

今夜のメニューはカレーライスです。現地で作るのは大変なので、予め作ったのを入れた鍋を持参しました。孫たちのオーダーは辛くないのにしてということだったので、一番甘いルーを使って作りました。ご飯を炊いている間、待ちきれない表情の二人でした。20分ほどでご飯が炊き上がり夕食開始です。二人とも美味しい、おいしいと食べてくれたので、作り手のジサマはホッとした次第です。TVやラジオなどは見ないことにして、食事が済めば後は寝るだけです。とにかく初めてのキャンピングカーでの一夜なので、彼女たちは眠るまでは興味津々の風でした。その父親とジサマは酒を喰らって、こちらも後は寝るだけとなりました。雨は止んだようですが、時々木の葉から落ちる雨の雫が天井に音を立てて落ちてきていました。間もなく静かになって、たちまち全員が眠りに落ちました。

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明後日(8/27)からブログ再開します

2008-08-25 04:08:12 | くるま旅くらしの話

 ここ数日ですっかり涼しくなりました。これで夏が終わったとは思えませんが、こんな涼しさの中で、夏休みを何時までも続けていたのでは、本物のグータラになってしまいます。暑さに参っていた体調も回復しましたので、明後日(8/27)からブログを再開したいと思います。休みの間アクセスを戴いた皆様に感謝申し上げますとともに、お詫びも合わせ申し上げます。  馬骨拝 

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少し夏休みを取ります

2008-08-12 06:49:17 | 宵宵妄話

旅から戻って、連日除草などの作業に追われ、身体の節々が痛み、なかなかそれが抜けません。痛いだけならまだ我慢できるのですが、足の指などをちょっとでも変な風に動かそうものなら、たちまち足のうらが攣()ったり、足首に誤った力を加えようものなら今度はふくらはぎが攣ったりして、満身創痍というほどではないにしろ、我が身が相当に傷んでいるのを実感しています。もはや暑さのことは言う気もありません。夏は暑いのが当たり前。やせ我慢を決め込むことにしました。

ところで、気づいたのですが、ブログも夏休みをとることにしました。無理して書き続けているのは、いろいろな意味で、健康によろしくないと気づきました。思いたったら直ぐ実行。今日から10日ほどの予定で夏休みに入ります。お読み頂いている皆様も、どうぞ心置きなくお休み下さい。ご挨拶が遅れましたが、改めて、残暑お見舞い申し上げます。 馬骨拝

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草取り騒動

2008-08-11 00:22:15 | 宵宵妄話

騒動というほどのことでもないけど、旅から戻ったあとの最大の課題は、いつも畑と庭の除草作業のことである。今年は3週間あまりの期間だったので、それほど酷くはなっていないだろうと高を括っていたのだったが、帰宅して畑に行って見ると、その蔓延(はびこ)り様は尋常のものではなく、まるで雑草の類を丁寧に育てた感があった。ナスも花オクラもエゴマも草の中に埋もれ、僅かに生き残った何本かが頭を出していた。きれいに除草しておいた、まだ生えたばかりだった蕪や大根、それにチンゲン菜などの夏野菜は全く陰も形も見えないほどだった。

  

  夜明け前の雑草に占有され尽くした畑の様子。向こうに薄ぼんやりと見えるのは、農機具の倉庫。

とにかく暑くならないうちに手をつけようと、まだ薄暗い4時半くらいに畑に出かけたのだったが、あまりの酷さに何処から手をつけてよいやら、しばし呆然の有様だった。それにしても雑草どものみごとな生長振りには目を見張るものがある。

雑草の殆どはメヒシバとスベリヒユで占められていた。この2種の植物は、対照的な生存の知恵を出していて、メヒシバは豪のものという生き方、スベリヒユは柔のものという生き方をしている。メヒシバは、地面にしっかり根を下ろし、倒れたりすると、その倒れた節のところから根を出して、強力に大地を捻り伏せても生き残るといった姿勢を示しており、除草には骨の折れる草である。スベリヒユは、黄門様が旱魃時の非常食料として推薦したという話があるが、物好きは今でも茹でて食べたりしているらしい。小さな時は一見ひ弱な感じの草で、ちょっと引っ張ると直ぐに折れてしまうという状況なのだが、これを放って置くと、まるで巨大なミミズのようにグロテスクに茎を太らせ、メヒシバに対抗するように大地をせめぎ取っているのである。旱魃に強い水分を含んだ草である。

除草をする上ではメヒシバが難敵だが、スベリヒユは図体が大きくなっている割には、根が小さく余り力を入れなくても引き抜くことが出来る。しかし、いずれの草もちょっとでも油断や隙を見せるとアッという間に生い茂り、花を咲かせ子孫を残そうとするのである。

植物の生き残り戦略を見ていると、存外の面白さがある。そのようなのんきなことを言っている場合ではないのだけれど、否応なしに草を引っ張り続けていると、あれこれとこの連中の生き方についても思いをめぐらしてしまうのである。そんなことでも考えていないと、とても長い時間草と戦う気にはなれない。

不断しゃがんで作業をするということが殆ど無いので、長靴を履いてのその格好での作業は、実に悪戦苦闘である。腰が痛くなって、あいててっ、と何度も伸びを繰り返すのだが、そのタイミングが次第に短くなってきて、やがてギブアップとなってしまう。5時少し前から作業を開始して、8時過ぎついにギブアップとなる。僅かに50の広さしかないのに、3時間かけても全部を取りきることが出来ず、10㎡ほどを残してしまった。これが現在の体力の限界なのだと思った。

順次草を抜いているうちにナスやシシトウなどが顔を出し、やがてベンリ菜やリアスからし菜などが青白い表情で草の中から顔を出してきた。息も絶え絶えという感じである。大根の葉っぱも青ざめている。蕪などは殆ど消えてしまっていた。これらの野菜は、人間の手を借りないと、この厳しい自然環境の中では生き残っては行けないものなのだ。とすれば、手入れの出来ない野菜を植える方が間違っている。旅に出かける夏には、やっぱり野菜類を植えることは罪なことなのだと思った。逞しい雑草の中から辛うじて生き残って顔を出した野菜たちに申し訳ない感じがした。

  

  雑草の中から現れた生き残りの野菜たち。たっぷりとした陽光の恵みに与ることができず、ひょろひょろしていて可哀相な感じだった。さて、回復できるのか?

いつの間にか日が昇り、辺りが明るくなってきて、出る汗も量を増してきた。一々拭っている暇は無いので、流れるに任せることにした。半ばやけくそである。下着から上のシャツ、ズボンまで全て汗で濡れて重くなっている。こんなに汗をかいたのは、学生時代のバスケの合宿以来かも知れない。仕事では何度も冷や汗をかいてはいるが、そのような類のものとは違う一種の満足感がある。帰りの車をどのように運転しようかと、着替えも持たずに来たことを悔いながら(持ってきても着替える場所も無い)、自分がゴミになったつもりで運転すれば良いと、座席にビニールシートを敷いてじっと我慢をしながら家に戻ったのだった。

翌日、もう一度来て残りの分を始末し、ようやくもとの畑らしくなったというお話でありました。

  

  戦い済んで、すべての雑草を退治した後の畑の様子。まだ抜いた雑草を運んで捨てる作業が残っている。

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08北海道行(まとめ)

2008-08-10 09:12:26 | くるま旅くらしの話

今年の北海道行は諦めからの出発だったので、最初からあまり欲張らずに、最終の主目的地を別海町のふれあいキャンプ場と決め、その間、往路は富良野と美瑛の花や風景を楽しみ、帰路は羊蹄山の伏流水を汲んで東北を暑さに馴れながら戻ってくるという、真に大雑把な考えで出かけたのだった。

ほぼ予定通りのコースを辿ったのだが、予想外の出来事も幾つかあって、それなりに変化に富んだ旅だったと思う。往路では北海道上陸後に冷蔵庫がおかしくなり、ガスでの使用が出来なくなってしまった。日中はソーラーの力で12Vを用いて冷やせば良いのだけど、100Vの電源が無い場合の夜間は、冷やす方法がなくなってしまう。それで最初は遠慮して予定していなかった北海道HMCCの集まりに急遽参加させて頂いたのだった。というのも、HMCCの皆さんは知恵者揃いというのを知っているので、そこへ行けば何とか助けて頂けるのではないかという、真に不純な動機での参加だった。しかし、結果としては冷蔵庫の故障など一挙に解決してしまい、その上で初めての方たちばかりだったに拘らず、豊かな海の幸を頬張りながら、皆さんと楽しい一夜を過すことができたのだった。旅の楽しみは出会いに尽きると思っているが、このような形での出会いは自分にとっては新しい世界だった。HMCC関西支部長の井上さんは、くるま旅くらしを楽しむ人たちの心の輪の広がりを提唱されておられるが、まさにその輪の一つがここでつながったように思った。

美瑛と富良野の丘や花の景観は、去年の風景とさほど変わっていない感じがするのだが、よく見ると、畑の作付けの内容が少しずつ変化していることに気づく。美瑛の丘の畑の色が少し柔らかくなってきているのは、どうやら蕎麦の花の影響らしい。蕎麦の畑が増えているようの思うのは、農家の経営の方針が変化していることの表れなのかも知れない。耕作を放棄した畑も少しずつ増えているような感じがした。花といえば、少し訪問する時期が遅れたこともあってか、最盛期を過ぎているらしく、ラベンダーなどもいつもの年よりも少し色あせていて、改めて花には花の時というもがあるのだということを実感した。

別海に行く前に美瑛の山奥にある自然の村という町営のキャンプ場に2晩ほどお世話になった。顔なじみの管理人さんも元気で勤めておられて安心した。お孫さんが、たった1年の間に大きく成長されているのには驚かされた。ハイジのような少女である。大自然の夏をここで過せる子は幸せだなと思った。そして孫と一緒に暮らせるお爺さんも幸せだなと思った。

別海には3泊しか居なかった。今年はどうかなと心配していた愛媛からの長老和田さんご夫妻にお会いできて嬉しかった。お二人とも病や身体の障害で厳しいハンディをお持ちなのだが、はるばるここまでやって来られて、ひと夏を過されるパワーには執念のようなものを感じさせられた。生き方について学ぶことが多いご夫妻である。いつもの知り合いの方たちは8月に入ってからここにこられるのか、知り合いの方は少なかったが、又新しい知り合いも増えて、何故かここ別海に来るとホッとしたのだった。

別海からは折り返しの帰路となったが、途中虫類(幕別町)の道の駅近くでパークゴルフを楽しむ知り合いが集まっており、そこへちょっと立ち寄ったのだが、顔見世に止まらず2泊してパークゴルフの指南を頂いたのだった。旅の間の運動不足を解消するためには、パークゴルフのような運動は最適かもしれない。今後は、努めてパークゴルフを取り入れることにしようと思った。

北海道を後にして、帰りのコースは東北の背骨を走るR13を行くことにしたのは、一つは丁度夏祭りのねぶたが催されている青森で、上手くゆけばそれを見ることが出来るかも知れないということと、もう一つは予てから横須賀の知人からぜひ一度立ち寄ることを勧められていた弘前の三浦酒造を訪ね美味い酒を調達するという目的があったからである。ねぶたの方は、運よく見ることが出来、長年の相棒の夢が叶えられて良かった。始めてみるねぶたには東北の人々の底力と言うか、パワーを感じた。又三浦酒造では、歓待を受け倉の中の見学をさせて頂くなど、とても勉強になった。酒造りの本番は1月から2月にかけての冬の寒い時期であり、雪の深いこの地にまでやってくることは出来ないのが残念である。冬にもキャンカーで出かける訓練が必要なのかも知れない。

今回の旅で気になったことが二つある。その一は夏の北海道の天気がなかなか定まらないということ。19日に函館に上陸してから、8月5日に函館を離れる間に、晴れの天気はたった2日だけだった。梅雨寒の毎日の連続で、暑さを恋しい日が続いていたのは、やっぱり異常だと思う。北海道に梅雨は無いというのは昔の話となってしまったようである。7月の北海道の旅は、内地で言えば、4月半ばあたりの着衣が不可欠のようである。

その二はキャンカーが少ないということ。特に内地からの旅車は大幅に少なくなっている感じがした。これはガソリン等の価格の高騰の影響は拭えないと思う。僅か1ヶ月足らずの間に2度も価格アップがあるなんで、どうかしているといわざるを得ない。消費者がそれに抵抗できるのはガソリンを買わないだけである。しかし一旦旅に出た者にとっては、なすすべも無い不慮の事故のような出来事である。国政の怠慢は明確だ。我々の場合も、いつもの旅だと、6千キロは走るのだが、今回は4千キロほどしか走らなかった。極力ムダ走りを避け、道北や道東の遠地を見送った結果である。くるま旅の環境整備は自分の課題なのだが、現状では環境整備の前に車を使うかどうかが問われるような経済状況となってしまっているようである。

いろいろなことがあったが、今年の夏も北海道へ行くことができて嬉しい。家に戻ると庭も畑も予想以上の草茫々で、早朝5時前から二日続けてようやく除草を終え、今これを書き終えた次第である。

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08北海道行:第23日(最終日)

2008-08-09 03:52:58 | くるま旅くらしの話

いよいよ帰宅日となってしまった。喜多方の夜は思ったほど暑くも無く快適だったが、これからの日中は快適とは行かないであろう。朝の上空は昨日までの暑さを解消できないようで、靄(もや)がかかっていた。今日も快晴。暑さは一層厳しくなりそうである。

 朝一で名物のラーメンを食べたいと考えていたが、相棒が消極的なので、諦めることにして、少し早めに出発することにした。涼しいうちに少しでも距離を稼いでおいた方が良いという考えである。

喜多方の郊外を走り抜け、R121からR46へ入る。磐梯山はうっすらと陽炎の中にある。ほんの少しR46を走った後右折してR294へ。この道は我が家のある守谷まで続いている。茨城街道と呼ばれる福島県につながる何本かの道の一つである。走っている車は殆ど見かけない中を、勢至峠のトンネルを潜り、坂を下りてやがて平坦になった道を走っていると、「道の駅:羽鳥湖高原」という案内板が目に入った。新しい道の駅らしい。つい、何の気なしに、ちょっと寄ってみようかという気になり、思わず右折のハンドルを切ってしまった。羽鳥湖という名は知っているが、一度も行ったことはなく、調べたことも無い、全くの思い付きである。

いやあ、それからが大変だった。道の駅は羽鳥湖のい湖畔にあるのかと思って行ったのだが、確かに湖畔近くではあったが、とんでもない奥まった所にあり、意地を通してようやく辿り着いたというのが実情だった。というのも、羽鳥湖に向うR118は、とんでもない急坂の続く道で、我がSUN号はどんなにアクセルを踏んでも唸るばかりでスピードはさっぱり出ず、後続車を従えての登坂だった。峠を越えれば直ぐかと思っていたら、今度はしばらく急な坂を下り、ダムの道まで行っても道の駅は無く、それから湖畔の細い道をしばらく走ってようやくつくといった状況だった。思い付きの行動は、時にはとんでもない結果を招来するものだ。

しかし、羽鳥湖高原と呼ばれる標高800M級の其処は、福島県では有数のリゾート地らしく、様々な施設が設けられていて、夏休みを過す家族連れや若者たちなどで賑わっているようだった。我々はほんの一部しか覗いていないので、詳しいことは判らないけど、孫などを連れてきてもいいなと思った。後で知ったことだが、ここへ来るにはR118経由ではなく、白河市の方からの県道を来た方が楽のようである。道の駅で一休みした後は、その白河側への道を下りることとなった。

とんでもない道草をしたあとは、白河市郊外から再びR294に戻って、一路我が家に向う。朝飯を食べていないので、昼食を兼ねて那須町の道の駅:東山道伊王野で、蕎麦を食べることにして立ち寄る。この道の駅には、蕎麦の粉を挽く水車小屋があり、地元で採れた蕎麦の実を挽いている。蕎麦を打つのは男の人が3人、その他の行程は地元のご婦人たちが担当しているようだ。なかなか人気のある店で、11時開店の前に何人かが並んでいた。我々もほんのちょっと並んで待ち、開店と同時に蕎麦にありつく。久しぶりの蕎麦は美味かった。

食事の後は、地元で採れた野菜を買う。ここの野菜は、全国でも有数の良質安価の売り場ではないかと思う。午後遅くではダメだけど、午前中ならば、驚くほどの値段で、新鮮な野菜を買うことが出来る。つい嬉しくなってしまい、相棒はかなりの量の野菜を買っていたようだ。こちらは運び屋専門。

伊王野の道を出た後は、それこそノンストップで我が家に直行する。帰宅時刻は1415分。これで今年の夏の北海道の旅は終わった。予想通りの灼熱地獄で、地面は40℃以上あるのではないか。じっと立っているとそのままバタンとひっくり返るほどの暑さだ。すっかりメヒ芝などの雑草に占領された庭をみながら、明日からの作業を思うと何処かへ逃げ出したくなる気持ちを、懸命に抑えた.

全行程23日間、走行距離4,057kmの旅だった。

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