山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第28日)

2015-02-28 05:30:28 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第28日:12月14日(火)

 <行程>

野々市町:林さん宅 →(R157・R8)→ 道の駅:河野 →(R8・R365・R21・R41・R256)→ 道の駅:金森温泉ぬくもりの里[泊] <295km>

 今日も天気は良さそうだ。朝ご飯を頂いた後ゆっくりしていると、お父さんが昨夜話しておられた、近くにお父さんを凌ぐほどのくるま旅の達人を紹介するからと言って、その方に電話をされたので少しびっくりした。お父さんよりも4歳も年長の86歳だという。昨日、それをお聞きして驚いたのだが、どのような方がお見えになるのだろうと期待に胸を躍らせた。この頃は若い人よりも年長の方との出会いに期待するものが大きい。今は亡きタクジイの父も、70歳をかなり超えてから、母を病院へ連れてゆくために車の運手免許を取ったのだが、車で旅に出るほどの好奇心も持たないまま、3年前85歳であの世へ旅立っている。浅田さんというその方は、林のお父さんに急かされるようにして、間もなくお見えになった。お会いしてみて、とてもそのようなお歳には見えない。どう見ても10歳くらいは、お若い感じがした。以前北海道で初めて林ご夫妻にお会いした時も、お年をお聞きしてびっくりし、同時に自分がこれから考えているくるま旅の可能性が、一挙に10年以上も幅が大きくなって感動したのだが、その可能性を遥かに超えてご健在の浅田さんの姿を見て、上には上を行く人がいるものだなあと感動した次第である。

浅田さんの行動力、好奇心のパワーは群を抜いていらっしゃると思った。林のお父さんを上回るほどとお見受けした。いろいろお話を伺っている中で、健康法としての食事のあり方に大変興味・関心を覚えた。浅田さんがおっしゃるように、ものを食べるについては、旨い不味いの物差しではなく、生きるか死ぬか、良いか悪いかといった物差しの方が重要という考え方は、タクジイの全く同感とするところである。只、実際に何をどのように食べるかというのは難しくて、なかなかその方法が見出せないで試行錯誤の繰返しをしているのが、タクジイをはじめとする凡人の日常なのである。

浅田さんは、その壁を遠の昔に突き抜けておられるのだと思った。野菜類をミキサーにかけたものを冷凍保存して、解凍したものに工夫を加えてそれを摂るという食事のあり方は、魅力的である。浅田さんの食事は、それを摂るだけに徹しているというから驚きである。そして70歳頃までは病気の巣だった身体が、すっかり健康体となったというのだから凄い。話ではなく、実体験のことだから説得力がある。いいお話を伺った。タクジイも、3食全部が野菜の流動食で、お酒なしというのは到底無理としても、相当のところまでは取り組む自信はある。家に帰ったらさっそくトライしてみようと思った。3人の大先輩に囲まれて、タクジイたちは幸せ者である。この幸せの土台となっているのはやはり何といっても健康であろう。健康でなければ出会いも、知り合うこともなく過ぎてしまう。寿命の尽きるまでそれぞれが健康で過ごせることを心から願いたい。林さんご夫妻、そして浅田さん、本当にありがとうございました。これからもよろしくご指導をお願いいたします。

名残りを惜しみながらお三人とお別れして、いよいよ帰途の最終ステップへ。北陸から山越えして行くコースもあるのだが、もし雪などに出会ったら大変なので、予定通り東海側を通って、静岡は藤枝に住むクニバアの妹宅に1泊させて頂き、旅のしめくくりとするつもりである。高速道は使わずに行き、今日は適当な所で温泉にでも入って泊まり、妹宅には明日お世話になることとする。大体このような予定である。

R8を福井方面へ戻って、滋賀県の木之本からR365に入り、関が原方面へ。途中敦賀の手前の道の駅:河野にて小休止。それ以降は殆ど休憩なしの長距離ドライブとなる。関が原からR21に入り、大垣、岐阜、美濃加茂と進む。大垣を通過する頃には既に夕闇が迫ってきていた。岐阜市郊外を通過時は、もうすっかり暗くなっていた。美濃加茂まで来て、今日は前に泊ったことがある、下呂近くの金森町にある道の駅にしようと思った。暗くてよく判らないが、市内に入ると新しくバイパスが出来ているようなので、それを利用した方が早いだろうと入ったのが大失敗だった。

立派な道を15分ほど走ると突然道はそこで終わり、知らない地名の標識板しかない。どちらに向えばいいのか見当もつかない。下呂だとか、高山だとか、R41とすぐ判るような看板は全くないのである。この道路行政の雑さには本当に腹が立つ。迷っているうちに、近くに日本昭和村という新しい道の駅を見つけた。行ってみると温泉ではないが入浴施設もあり、泊っても良さそうな感じだった。しかし周囲は造成したばかりの無人地帯で、やたらに広い駐車場には殆ど車もない。このような所では、クニバアが安眠を得ることは到底出来ないだろう。諦めてもう一度地図を見直して、暗い夜の細道を、不安を抱えながら進んで、どうにかこうにかR41へ出る。金森温泉の道の駅に着いた時には19時を過ぎていた。あ~、しんど。疲れた。

【コメント】

◆この日の無謀さは、今から思うと呆れ返るばかりです。300km近くも距離を、途中道を間違えたりしながら、夜中近くに宿に着くなどというのは、どんな理由があれ、お勧めできるような行程ではありません。このような結果になるのは、故なき急ぎ心の挑発を受けて、見境もなく走り回った結果であり、旅はもっと冷静に行程を考えて無理をしないことが肝要です。金沢から木曽の山中まで一日で行くべきニーズは何もないのですから、もっと早めに適地の宿を決めるべきでした。

◆後日談ですが、この時林さんからご紹介頂いた浅田さんは、その後90歳の時北海道でお会いしたは、まだまだお元気で、今日は一日500km近くも走ったなどとおっしゃっていました。しかし、その何年か後、お亡くなりになられたとの報告をご家族の方から頂戴しました。マカロニ症候群などとは無縁の天国への旅立ちだったと思います。PPK(=ピン・ピン・コロリ)は私のあの世への旅への理想スタイルです。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第27日)

2015-02-27 05:13:47 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第27日:12月13日(月)

 <行程>

瓜割の滝駐車場 →(R27・R8・R305)→ 河野村:北前船の館 →(R305)→ 越前岬:水仙ランド →(R305)→ 道の駅:みくに→(R305・R8)→ 加賀市:折り紙美術館 →(R7・R157他)→ 野々市町:林さん宅 〔泊〕  <186km>

  昨夜のあの騒ぎは、一体何だったのだろう? 新聞などないので分らないけど、何らかの事件だったことは間違いない。それにしても迷惑な話ではある。大田さんには突然の移動で、とんだ迷惑をかけてしまいまことに申し訳ない。瓜割の滝に泊るなんて考えても見なかったけど、少しの水の音を除けば結構静かで落ち着いた場所で幸いだった。さっそく水を補給する。起きて来られた大田さんの話では、昨夜3番目のお孫さんが無事誕生したとのこと。おめでとうございます。ご一家は慶事続きのようで、何よりのこと。年が明けたら九州の方への旅を考えているという大田さんと、ここでお別れして出発する。時間があれば京都、大阪にも廻りたかったのだが、鳥取の足止めが響いて今回は断念することにした。

 今日は少し回り道にはなるけど、尊敬するくるま旅の達人の林さん宅をお邪魔することにしている。林さんご夫妻は、金沢の隣町の野々市町に住んでおられる。お邪魔するのはこれで4回目となる。林さんのご主人は、もう80歳を幾つか超えておられるが、矍鑠(かくしゃく)として、今でも長期間のくるま旅を奥様と一緒に楽しんでおられる。今年は所用などがあって、北海道にはいらっしゃらなかったけど、沖縄へ行ってきたという話を伺っている。毎回こちらの方面へ来る時にはお邪魔するつもりでおり、タクジイたちから見れば、くるま旅のお父さん、お母さんという存在である。少なくとも年に1度は挨拶にお伺いしたいと思っている。今年も実現できて嬉しい。

 小浜、敦賀を過ぎて河野村から有料道路に入る。海岸を通って越前岬辺りの水仙を見てみたい。先日ラジオで、今年は水仙が少し早く咲き出しているという話を聞いた。越前海岸の水仙は有名だが、話を聞くだけで、まだ一度も見たことがない。R305に入り少し行くと、北前船の船主だった右近家の屋敷がある。すでに何度か来ているので、中には入らず小休止。今日の海は穏やかで、先ほど通ってきた敦賀湾は波が殆どなく、鏡のように輝いていた。

 越前町などの港を通過する時には要注意である。狭い道路の両端にはカニ、カニ、カニの看板と実物が溢れて並べられており、思わず停車したら、たちまち資金不足になって、先に進めなくなってしまう。と、思うほど、今はカニ尽くしの風景が続いている。クニバアはあまりモノを言わないが、さぞかしカニへの執着を振り切ることに心奪われているのではないか。年金生活に入った今では、何種類もの我慢や辛抱を乗り越えて行く必要がある。(少しオーバーかな?)食べ物への執着よりも、もっとすばらしいものへの夢をつくることの方が大切ではないか、などと無理に考えるタクジイであった。右岸の土手には先ほどから水仙が茂って咲いている箇所が幾つかあったが、岬の上に水仙ランドというのがあったので、そこへ行ってみることにした。

 急坂を登ってゆくと、洋館風の建物が2棟別々に建っており、周囲一面に水仙が咲き群れていた。少し先に白い灯台も見える。素晴らしい景観である。眼下に広がる海は、先ほどと違ってやや荒れ模様である。水平線辺りには黒雲が湧き立ちつつあり、如何にも冬の日本海の厳しさを告げている感じがした。風が強まりつつあるが、天気の方はまだ大丈夫のようだ。風がなければ穏やかな夢のような世界である。

水仙というと、自分的には伊豆の爪木崎を思い出すが、この越前岬の水仙はより逞しさを感じさせるものがある。1時間ほど散策。このような場所では、我々は殆ど一緒には行動しない。カメラ自慢(?)のクニバアは、急斜面の畑をかなり上の方まで行ってシャッターを切っていた。彼女はこのような風景などを撮るのが得意のようである。何枚かモノに出来たのかもしれない。

 1時間の間に天気は激変して、小雨交じりの強風の吹き荒れる状態となった。これではゆっくりは出来ない。急ぎ車に戻って出発する。風で吹き飛ばされたら大変だと思いながら坂道を下って、再びR305へ。何処かで昼食にしようと決めて暫く行くとレストランがあったので覗く。クニバアがツベコベ言っていてなかなか意思決定をしないので、タクジイが腹を立てて食べるのを止める。これほど食べ物についての考えが合わない夫婦も少ないのではないか。タクジイとしては、食べ物というのは基本的に生命の維持のためという発想だから、美味いとかまずいとか言うのにはそれほどこだわらない。まずいよりはうまい方がいいという程度で、まずくて食べられないものなどないと思っている。ところがクニバアの方は違うのだ。まずいものは食べないのではなく、食べられないなどと抜かすのである。飢えというものを、一度も味わったことのない人の、お粗末にして寂しい(だけど幸せな)価値観だと思っているのだが、本人にとっては譲れない主張なのかもしれない。それで外食する時には、いつも軋轢が多いのだ。

 腹立ちながら海岸線を走っていると豪雨になった。前も見えないほどの降り様である。何時間か前の穏やかな天気が、まるで嘘のような悪天候となった。早く海岸線から抜け出したいと思っていると、急に豪雨の降りが衰えて陽が出てきた。見ると海上に見事な虹が架かっていた。海の上に架かる虹を見るのは珍しい。さすがにスケールが大きいなと思った。腹立ちも忘れて、クニバアに写真を撮るのを急かせたりしているのだから、我ながら情けない。降ったり止んだりの荒れ模様の中を、東尋坊で有名な三国町へ。東尋坊には寄らない。荒天の時は敬遠すべきであろう。道の駅があるので、立寄って昼食。本当に腹が減ると、クニバアも文句を言わなくなるようだ。或いは妥協したのかも。

 ここから野々市までは1時間半ぐらいの距離であろうか。まだ13時を少し過ぎたばかりである。芦原温泉を掠め、細長い北潟湖の脇を通って加賀に向う。途中、蓮如さん創建の吉崎御坊がある。北陸の浄土宗教化の基地となったお寺である。一向宗とも言われる浄土真宗は、今でも北陸では大変盛んなようで、仏壇の豪華さには驚かされることが多い。ここには以前に参詣したことがあるので、今回はパスして加賀市へ。

加賀市というのは何となく解りにくい雰囲気の街だ。加賀の国という場合、どこが中心となるのだろうか。本当は金沢ではないのかと思ってしまう。JRの駅を見ても加賀などという名称はなく、大聖寺とある。前田藩の支藩があったので加賀の名をつけたのかもしれないが、大聖寺の方が解りやすいような気がする。そのようなことを思いながら悪路ばかりが目立つ大聖寺の街並みを抜けてR8へ出る。あとはこの道を真直ぐ行けば野々市に行ける。

 R8に入って少し行った所に、その名も加賀藩という立派な建物のお菓子屋さんらしき店があったので立寄る。中に折り紙美術館というのがあって、クニバアが折り紙に関心を持っているものだから見たいらしい。タクジイには無縁の世界ではある。どうぞと30分ほど時間を譲って、タクジイは何も買わずに店内をうろつく。すぐに飽きて車に戻っての居眠りであった。クニバアが戻って、その後は一路野々市へ。林さんのお宅に着いたのは16時半少し前だった。

 1年ぶりの訪問。お二人ともお元気そうで何よりだった。嬉しい再会である。この頃は自分の実家に帰るような気分が少しある。図々しくなってはいけないという自戒の気持ちもあるけど、このように自分の親の所へ行くのと同じような気持ちになって訪ねることが出来るのは、本当に嬉しい。4年前の旅での出会いがつくってくれたご縁である。

 それから後のことは嬉しく、楽しく時間が過ぎて、ここにはとても書けない。心のほぐれるお風呂。お母さんの心のこもった夕食。お父さんの懐かしい昔話。旅の話、話、話と続いて、すっかりくつろいで、久しぶりにぐっすりと眠った。

【コメント】

◆日本海側の気象変化の激しさについて一言。これは特に太平洋側のエリアに住んでいる方が、旅で日本海側を訪ねる際の留意事項としてなのですが、私の経験からは、その天気状況の急変さは想像を超えるものがあります。この頃は地区を選ばすに異常気象が発生することが増えていますが、くるま旅で日本海側を通る時には要注意です。10年前のこの日も、越前岬の水仙ランドで花を楽しんでいる初めの頃は、その1時間後にこれほど凄まじい雷雨混じりの悪天候になるとは想像もしませんでした。沖の方の小さな雲の塊が、ものすごい勢いで発達して、気がつけば巨大な積乱雲となって陸地を襲ったのでした。この日の越前岬によらず、能登半島の旅の際も落雷の集中砲火を浴びたり、青森県の日本海沿岸では、強風のために車の運転を見合わせたりの出来事を何度か経験しています。北海道の渡島や後志の日本海エリアの通行は、今でも風の強い日は避けるように心掛けています。台風や低気圧の通過等の悪天候が予想される場合には、もし日本海側を通っている時には、早目に回避先を決め、決して無理をしないことが大切だと思います。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第26日)

2015-02-26 04:22:10 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第26日:12月12日(日)

 <行程>

道の駅:村岡ファームガーデン →(R9)→ 道の駅:農匠の里やくの →(R9・R175・R176)→ 道の駅:シルクのまちかや(リフレかやの里)→(R176)→ 丹後ちりめん歴史館 →(R176・R178・R175・R27)→ 道の駅:舞鶴港とれとれセンター →(R27)→ 道の駅:高浜〔泊〕→(R27)→ 瓜割の滝駐車場[泊] <185km>

 

三日ぶりに動き出して、元の旅の調子に戻りつつある。今日は、大阪の大田さんと福井県高浜町の道の駅で会うことになっている。大田さんは、3年前北海道で知り合った方で、バスコン(マイクロバスタイプのキャンピングカー)に乗っておられる。今回は所用があって一人で来ておられるらしい。タクジイと同じ年生まれで、旅の大ベテラン。教わることが多い、今は大切な友人である。会うのが楽しみだ。

高浜町には16時ごろに着く予定で、それまで適当に時間を使うことにして出発。R9を直進し、福知山の手前の夜久野町の道の駅で小休止。ここまで来る途中、ずっと霧が発生していて視界が利かなくなるような箇所もあったが、ようやく大丈夫のエリアに入ったのか、或いはそのような時間となったのか、霧は晴れてよい天気となってきた。この辺りは丹波の黒豆が有名らしく、売店にはその豆を使った様々な商品が並べられていた。明日訪ねる予定の、林のお父さんたちへのお土産に、何か良いものはないかと探す。福知山市郊外でR9と別れ、R175へ。そしてすぐに左折してR176へ。酒呑童子の鬼退治伝説で有名な、大江山の西側を走るこの道を行くと、絹織物、丹後ちりめんで有名な加悦(かや)町に出る。そこに道の駅があり、その近くにかやの里という温泉施設がある。そこへ行って5日分の垢を流すつもりである。加悦には去年も来て1泊しているので大体の様子は分っている。

10時過ぎ到着。さっそく温泉へ。朝風呂の気分だ。いい気持ち。ゆっくりと湯に浸かり、さっぱりした気分で車に戻り、しばらく休憩する。これでビールでも飲めれば最高なのだが、そうはゆかない。水で我慢する。ヒゲも剃ってきれいになったし、これで大田さんに安心して会うことが出来る。12時過ぎ出発。まだ時間があるので、クニバアの希望で「丹後ちりめん資料館」という案内板をみてそこを訪ねることにした。この辺一体で丹後ちりめんが織られていたらしい。行ってみると、往時の作品や機械などと合わせて、いろいろな商品が陳列されていた。高価なものばかりである。クニバアも眺めるだけで終わりにしたようである。(ところが後で聞いたのだが、ちゃんと抜け目無くショールなどをゲットしていたのであった。やっぱり。)

R176で宮津に出てR178を若狭湾岸に沿って走る。天橋立もチラッと見えたが、去年歩いて渡っているので、今回はパス。途中で昼食を摂り、その後由良川縁を遡ってしばらく行き、左折して橋を渡りR175で舞鶴に向う。手前の舞鶴郊外に道の駅:舞鶴港とれとれセンターがある。ここで今日の肴を仕入れる。タクジイは勿論サバの串焼き。舞鶴の街を通り抜けて、後はひたすら高浜の道の駅を目指すだけ。16時少し前、到着。大田さんは既に到着されていた。

今年の北海道以来の再会だ。奥さんが来られないのが残念だが、娘さんの結婚やら何やらでお忙しいらしく、これはやむを得ない。挨拶の後、大宴会(?)の準備。タクジイは自慢(?)の肉なし肉じゃがの煮物を作ったりした。それから後は、大田さんの車内で積もる話をしながらの楽しい歓談が続き、適当に酔っ払って宴も終わりとなる。大田さんの話では、3番目のお孫さんが今日、明日に誕生予定だとか。それもあって奥さんはご一緒できなかったようだ。誕生の一報を心待ちされているようだった。あまり深酒も良くないので、切り上げて車に戻って就寝。

ところが一眠りして目が醒めると、クニバアが起き出しており、何やら外が変な様子だという。外へ出てみると、何と消防自動車やパトカーなどが何台か来ていて、赤い回転灯の光が幾筋も夜空を掛け回って騒がしい感じだった。何ごとなのかと近くに居た人に訊いたけど、どうも要領を得ない。駅の建物の中に爆発物が仕掛けられたという通報があり、それを探しているという話もあった。とにかく尋常ではないようだ。しかし、騒ぎは終わりかけたようなので、このままここに泊ってもいいと思ったのだが、クニバアが何処か他へ移りたいという。大田さんに黙って移動するわけにも行かないので、迷惑と知りつつ声をかけた。それで、近くにある水汲み場、瓜割りの滝の駐車場へ行くことにした。大田さんも同意してくれて、とんだ道行きとなった。

【コメント】

◆旅先での知人などと会う予約のことについて~ 旅先でその地や或いは同じ旅の知人と出会う約束をして、それが叶うということは、旅の大きな楽しみの一つであり、とても嬉しいことです。この旅でも、そのようなチャンスが何度かあり、それを楽しんで来たのですが、一つ注意しておかなければならないことがあります。

約束事というのは、日時をしっかり守るというのがその基本であり、違えることのないように留意することが大切ですが、日程等に余裕を持たせておかないと、一つ前の約束がずれた場合には、それ以降の約束の全てが狂ってしまうことになります。そこで言いたいのは、一つの旅の行程の中で複数の日時に関する約束ごとを設ける場合には、できる限り時間的な余裕を含んだ行程を用意することが肝要です。この旅の場合は、かなりの余裕を持って日時の約束をしたのですが、車の突然の故障によって2日以上も予想外の時間が必要となりました。幸い知人の皆さんが快く調整に応じて下さったので、支障はなかったのですが、多少なりとも迷惑をおかけしているに違いありません。基本的に長期の旅の場合は、幾つもの約束日時などを入れるのは可能な限り控えた方が、旅の自由度が確保できるように思います。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第25日)

2015-02-25 06:05:16 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

第25日:12月11日(土)

 <行程>

鳥取トヨタ社員駐車場 →(R9)→ 道の駅:村岡ファームガーデン 〔泊〕     <56km>

 鳥取市郊外生活3日目である。今日は夕方から作業に取り掛かって頂ける予定となっている。この店の方たちは、店長さんを初め、サービスフロントの方を含めて、皆さん本当に親切で気持ちがいい。いろいろ気遣いを頂いて恐縮するばかり。それにしてもこの変な夫婦、特に顔が無精ひげに埋まった爺さまの方は、一体何者だろうと思ったに違いない。店長さんから、どんな仕事をしていたのかと、恐る恐る訊かれた。社員教育のコンサルタントをしていたと答えたが、よく分らないだろうと思う。それでいいのだと思っている。

 さて、日中はたっぷり時間があるので、今日は市内見物をすることにしてバスで出発。JR鳥取駅の方へ向う。昨日買った観光案内書の付録の地図を見ながら、鳥取駅手前の久松公園で下車。ここが鳥取城の入口らしい。何しろ鳥取の市内を歩くのは初めてで、さっぱり分らない。だから少し高い所に登って俯瞰してみれば見当がつき易くなるだろうという目論見である。これは大当たりだった。

久松公園は鳥取城のお堀近くにあり、城郭の一部でもある。お城は久松山(本陣山?)という山を後にして造られていたようだ。鳥取城訪問は初めてであり、誰が造ったのか、城主が誰だったのかも全く知らない。城址に登ろうと歩いて行くと、手前に立派な洋館があった。庭も素晴らしい。何の建物だろうと廻って正面玄関の方へ行ってみると、「仁風閣」とあった。折角なので入場料を払って中に入ることにした。

この建物は、明治の終わり頃、当時の皇太子(大正天皇)をお迎えするために、元領主の池田家当主が、赤坂離宮などを設計した片山東熊博士に依頼して造らせたもので、その命名は、かの日露戦争でバルチック艦隊を撃破した元帥東郷平八郎であるというような説明書きがあった。建築のことはさっぱりわからないが、当時、天皇家の方をお迎えするのは、大変なことだったのだと改めて感じた。それにしても、池田家とはどういう家なのかと思ったのだが、鳥取は岡山の池田家と親しい親戚関係にあり、岡山よりも鳥取の方が石高が大きいというので驚いた。更に明治の池田家の当主(名前は忘れたが)は、最後の将軍徳川慶喜の何番目かの息子であり、水戸とも少なからぬ縁があることなどを知った。

それにしてもこの財力はどこから来るのであろうか。池田家は、北海道の釧路辺りに広大な土地を持っていて、農場なども経営していたらしい。そういえば北海道の旅で、釧路の市内を通った時、鳥取大通りなどと、鳥取の名のつく地名があったのを思い出す。又、昨日鳥取港の方へ歩いて行ったとき、ここから北海道の開拓に向って船出したというような主旨の記念碑があったが、そのような配下や領民の力があってこその財力だったのかもしれない。

明治や大正時代、それに昭和の戦前までは、時間的には100年前後の、ほんの少し前に過ぎないのだが、今の我々には想像も出来ないほど、人間に名札や、評価のラベルが無数に貼り付けられていた時代なのであろう。そのような時代であったからこそ、この様な天国のような建造物が残されたのかもしれない。歴史の遺品を見る時に、思いをその時代に馳せると、様々なものが頭の中を駆け巡るのだが、甘いことばかりではなく、馬の骨としてのタクジイが若干の批判を捨てきれないのは、何処かに先祖などの負け犬根性が染み付いているからなのであろうか。

 仁風閣を出て、城址をゆっくり散策する。高台から見ると、我がSUN号の居留地は遥か彼方の郊外にあるのが判る。鳥取市は今、海に向って市街が発展しているのかもしれない。古い町の方を置き去りにして開発が進められるケースが多いように思うけど、ここもその例に漏れないのであろうか。そのようなことを思った。

 そのあと、駅まで歩いたのだが、小さなアーケードのある商店街は、土曜でも人は少なく、シャッターを閉じたままの店が目立った。ここにもやはり商業機能の、駅前と郊外の逆転現象が起こっているのであろう。昨日のジャスコの賑わいとは対照的である。車をベースにした社会では、駐車場がないのは致命的だ。一抹の寂しさを感じながら、昨日買ったガイド書に載っている蕎麦屋を探したのだが見つからない。それでは久しぶりに寿司でも食べるかと、同じ本に載っている駅前近くの寿司屋に入る。値段のわりには、味の方は今一だった。板前さんが、何か屈託がるのか元気がない。有名人のサイン入り色紙などがやたらに貼ってあったが、相変わらずつまらない。名誉のために店の名前は書かないことにしよう。

 帰りはバスでと、バスセンターへ行く。あまり人がいない。よく見ると僅かな旅行者らしい人を除くと、バスを待っている人の9割以上が年寄りか障害者である。要するに車の運転が出来ない人たちだ。今日は土曜日で、通勤・通学がなく、又時間帯としてもあまり人が動く時ではないので、それらが目立つのかもしれないが、改めて今の世の中の断片を垣間見た気がした。これでは、バス会社の経営は、慈善事業に近いものとならざるを得ないであろう。人の生活の仕方が、自分が考えている以上に大きく変化してしまっていることに気づき、愕然とした思いであった。

16時過ぎ車に戻る。既に作業に取り掛かっているらしく、SUN号はドックの中だった。17時半過ぎ、ようやく完了。全力を挙げて取り組んで頂いたサービスフロントの方、店長さん等々にお礼を言って出発したのは18時少し前だった。もう夜になっている。

 思わぬ出来事で2泊3日の足止めを食ったが、本当に良い思い出となった。普通だと困ったことなのだが、我々は特段の予定のない旅なので、このようなときにはそれを逆利用して楽しんでしまえばいいのだ。しかし、事故や故障は禁物である。この点普段の車の手入れや、異常時の判断や行動のあり方について自戒が必要だと、改めて反省した。

 さて、これからどうするか。とにかく至近の道の駅に行って泊ることにする。車の方は変な音もなく、ブレーキも滑らかになって快調だ。1時間ほど走って道の駅:村岡ファームガーデンに到着。今日で5日も風呂に入っていない。ヒゲも伸び放題だ。毎日、ちゃんと着替えだけはしているので、不潔にはなっていないと思うけど、明日は必ず温泉に入り、その後で大田さんと会おうと決め、寝床にもぐりこむ。

【コメント】

◆第二日は、鳥取市の中心街への探訪となりました。やはり、せっかくのチャンスなので、鳥取市がどういうところなのかを見てみたいという願望大だったのです。何しろこのようなことがなければ、鳥取といえば砂丘と大山くらいしか出向ける所はないというのが普通の観光客並みの発想だと思いますし、自分たちも又、この当時はさほど変わらない考えだったのです。

結果的には、幾つかの大切なことを学び、とても良い経験でした。鳥取県は、全国一の人口の少ない県であり、それゆえに現代では誤解を受けるほど人の住まない、住みにくいエリアだなどと思われがちですが、歴史的に見ればむしろ文化の発信地に近い場所であり、人が住む心の豊かさのようなものが感ぜられる場所なのです。今度訪ねる時は、伯耆地方の歴史などを学んだ上で、鳥取市を中心にのんびりとした探訪を楽しみたいと考えています。

◆修理のその後は、同じ箇所での車のトラブルは一度も起こっていません。SUN号は間もなく走行20万キロに到達しますが、至って健康で、老化による小さな不具合が時々起るのは致し方ありませんが、それ以外は満足レベルで動いてくれているのを感謝しています。時々、旅車のことを、まるで自分の車であるのを忘れたかのように、クソミソに悪く言う人を見かけますが、その実態はむしろ逆なのではないかと自分などは思ってしまいます。自分の身体と同じように、旅の友としての車のこともしっかり管理することが、旅をする人には求められているのだと思います。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第24日)

2015-02-24 01:41:34 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第24日:12月10日(金)

 <行程>

鳥取トヨタ社員駐車場 〔泊〕       <0km>

 一夜明けて、駐車場の夜はなかなか快適だった。この辺りは準工地帯らしく、民家は無く小さな工場や会社事務所などばかりで、夜は車のエンジンをかけても迷惑を及ぼす心配は殆どない。滅多にエンジンはかけないのだが、充電の都合もあり、偶にはかけることがある。この場所だと安心である。こうなってしまった以上は、腰を据えて思いがけない鳥取の地での生活を満喫してやる以外にない。車の方は、部品の到着が早くても土曜の午後遅くになるとのこと。部品の到着を待って分解・修理に入るので、どんなに早く終了しても、土曜日の夜になってしまう。

近くにジャスコの店舗があり、そこから海に向って4kmほど歩くと賀露という鳥取港のある地区があり、その先に魚市場があると聞いたので、今日は歩いてそこへいてみようと出発。ジャスコには開店間際に行ったのだが、何と先着の人に、何やらの記念だとかで紅白饅頭が配られていた。二人で計4個をゲット。ラッキーだ。幸先がいい。トイレで用事を済ませ、歩いて港の方へ向う。

バスも通っているらしいが、土地勘が全くないので状況がさっぱり分らない。海は北側だから、北側に向って歩いているのだろうが、地形も知名も全て初めて見聞きするものばかりである。鳥取の市街地へは反対側で、バスに乗らないと行けない距離らしい。明日、調べて市内見物にでも行くことにしよう。

遠くて近きは男女の仲、近くて遠きは田舎の道とはよく言ったもので、ジャスコからの4kmは遠かった。実際の距離は、先ほど訊いた人の話とは大きく違っていて、6km以上あったのではないか。1時間半ほどかかった。今どき6kmも歩く人などいないので、教えてくれた人も自分で歩いたことはなくて、勘での話だったのだろうと思った。ともかくも、魚市場の建物が見えてきたときはホッとした。あまり歩き過ぎると、クニバアのぎっくり腰が再発する危険性が高くなる。魚市場には大きな建物が5棟ほどあって、たくさんの観光バスが来ており、大勢の人で溢れていた。

ワクワクしながらその一つに入って行ってみると、いや~あるある、殆ど紅のカニ一色である。松葉ガニの最盛期らしい。何処かのTV局が来ていて、現場中継などもしていた。ごった返す人だかりの中を、掻き分けながら獲物を探す。クニバアは勿論カニ。タクジイは又々サバの串焼きだ。本当はアカイカの刺身なども食べてみたいのだが、あの巨大さでは、1匹買ったら1週間は食べ続けなければならないだろう。そんなことをしたらたちまち病気で入院となってしまう。何軒かの店を廻って目的の物をそれぞれゲットする。14時近くになっていた。

帰りはバスに乗ることにした。何でもいいからと来たバスに乗ったのだが、どうやらジャスコの方へは行かないらしい。親切な運転手さんが、1区間近く走った所だったけど無料で降ろしてくれた。もう一度乗り直して今度は大丈夫。15分ほどでジャスコに着く。そこから歩いて車に戻ると15時近くになっていた。少し疲れた。

昨日からの突然のドタバタで、これから後会う約束だった大阪の大田さん、帰路に寄る予定の野々市の林さん、それに倅どもへと、滞留を余儀なくされている旨をメールで知らせ、逐次返事を貰った。大阪の大田さんは予定を1日延ばして下さり、12日の午後ならばOKとのこと。同じく林さんも一日遅れでも大丈夫とのお話を頂いた。明日予定通り修理が完了すれば大丈夫だろうと見通しをつけた。このような変更をするのは初めてなので、いい経験だった。そう思うしかない。

今日はこれでもう出かけるのはやめにして、買ってきた獲物を肴にして、二人で大宴会をすることにして準備に取り掛かる。半分以上はやけくそだ。クニバアとは、ゲットした食材のコストが大幅に違っていて、何か損したような気もするが、タクジイはサバで十二分に満足することにした。美味かったあ~。いい気分になって寝床に。車の故障のことなどは忘れ果てている感じだ。

【コメント】

◆旅先でのとんだ災厄を逆手にとって、予想外の旅を体験した第一日でした。内容的には記述の通りで、この日は鳥取市の中心部から反対側になる海側への思いつくままの散策でした。特段の目的も何も無かったのですが、結果的には大豊漁ともいうべき収穫の一日でした。普通の旅では決してあり得ない成果を得たのは、偶然とはいえ、車が故障したからなのでした。時にはこのようなことも起こるのかもしれませんが、これはまさに不幸中の幸いを地で行った感じがします。しかし、いつもこのような禍福の連鎖が起こるとは思えず、先ずは事故や故障は忌避すべき重大事項です。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第23日)

2015-02-23 02:49:04 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第23日:12月9日(木)

 <行程>

道の駅:秋鹿なぎさ公園 →(R431・R9)→ 道の駅:ポート赤崎 →(R9)→ 道の駅:大栄 →(R9)→ 道の駅:はわい →(R9)→ 鳥取市郊外南隈交差点付近 →(県道)→ 鳥取トヨタ社員駐車場 〔泊〕  <133km>

秋鹿と書いて「あいか」と読むらしい。道の駅の目前には宍道湖が広がり、いい景観である。すぐ近くに山田川という小さな川が流れており、その昔、この川は秋鹿川と呼ばれ、出雲国風土記にも登場している場所であるとか。出雲は神話の国であり、ここも由緒ある場所なのであろう。しかしタクジイにはさっぱり分からない。もう少し勉強しないとダメだなと又々思った。

今日も移動日である。明後日のことを考えて、鳥取の先辺りの何処か適当な所で温泉にでも入ってゆっくりしたい。朝ご飯はもっと先に行ってからにしようと考え、少し早めに出発する。最初は順調な車の流れだったが、松江に近づくにつれてとんでもない渋滞となった。通勤の車らしいのが、途中の細道から続々と飛び出してきて、R431を埋めてゆく。しまったと思ったが、抜け道など知るわけもなく、ジタバタするのは止めて成り行きに任せるほかなし。1時間以上もかかってようやくR9に辿り着く。安来、米子を通って海岸沿いの道を進んで、赤崎の道の駅で小休止。魚などを物色したがそそるものなし、次の大栄の道の駅で朝飯にしようとすぐに出発。大栄の道の駅到着10時25分。

この道の駅は大変気に入っている。往路では買えなかったイチゴの苗がまだあったら買おうと思って覗くと、何とあるある、しかも20円安くなっていて1株60円だという。嬉しいねえ。さっそく買い求める。これで、来春は旅に出る前に、自家のイチゴが食べられるかも知れない。イチゴの脇に桃色タンポポの苗や磯寒菊の苗もあったので、そられも手に入れる。復路はキャリアボックスを積んでいるので、運搬には困らない。必要なものを手に入れたあと、裏の台場公園の駐車場に行き、食事の準備。昼食兼用でゆっくりするつもり。幕末には、この近くにお台場が築かれていたらしいが、詳しいことはよく分からない。

食事をした後、付近を散策。往路でも歩いているので大体の見当はつく。お台場跡近くには、この道の駅のほか、運動公園や町の資料館などがあって、その周辺は砂地の畑が広がっている。ここで山芋やラッキョウ、スイカなどを栽培するのであろう。今現在は雪など全くないが、もう少し経つと、一面が雪と凍てついた景観に変わるのであろうか。山陰の冬は東北や北陸などと比べてどうなのだろう。冬は、雪の降るエリアへの旅はしないことにしているのでよく分からないが、厳しい寒さが続くに違いない。それにしてももう12月に入っているのに、この暖かさは何ということなのだろうか。

水を補給して13時ごろ出発。10分ほど走ると、まだ無料の自動車専用道路の脇に、道の駅:はわい(羽合)があった。往路は寄れなかった所である。ここには去年来た時、タクジイの大好物のサバの串焼きがあったので、今回もそれを手に入れようと車を入れる。旅の間中、タクジイは車を停める度にメモをしているのだが、クニバアはそのようなことにはお構いなく、さっさと先に行ってしまう。それ故、タクジイは何時も遅れをとることになる。

いつものように少し遅れて運転席を降りると、サングラスを外した、革ジャンに身を固めたヒゲのオヤジさんが近寄って来た。キャンピングカーに関心があるらしく、いろいろ話しかけてこられた。その方は、ワシとクマに関心があり、野山に入って観察や保護活動をされているとか。その際にバンコンタイプなのか、ハイエース車などを使ったりしていたが、バイクの方が機動性があるので、今はバイクに乗って活動しているというような話だった。相当大きな排気量の、外国製のバイクに乗っておられた。一体どういう人なのかと多少訝しく思いつつ話をしていると、クニバアも戻ってきて話に加わることとなった。何故か気が合って、お茶を一緒しましょうというその人のお誘いに乗ることになってしまった。

改めて名刺交換などをして、いろいろ話を伺う。熊田さんというその方は、米子にお住まいで、現在は仕事を引退され、ボランティア的にワシやクマの自然保護活動をされているとのこと。ワシというのは和紙のことと思って、クニバアは勘違いして話を受け取っていたようだが、和紙ではなく鷲だった。名刺には横文字で「Golden Eagle」とあったが、鷲と鷹の区別もよく判らないタクジイは、黄金と直訳して、エッ金色の鷲っているの!?などと思ったりした。後で辞書を引くとイヌワシのことだと知った。それならTVなどで見たことがある。熊田さんは鷲に関しては、カナダなど外国へも出かけられての交流をされているとか。国際派の方でもあるようだ。

でも鷲よりは今年は何といっても熊の話が大きい。各地で熊が里に出てきて人を襲うというニュースが何度も報道されている。この中国地方でもそのような事件が報道されている。本当のところ何故なのか、どう対処すべきかについては、我々にはわからない。とりあえず、危険だからそのような山には近づかない、というのが普通の考え方であろう。しかしこの異常現象は、専門家から見ればもっともっと根の深い問題なのであろう。熊田さんは、山に入って熊の生態を追いかけておられるので、そのようなことに詳しい。中国山地における、月の輪熊の絶滅の恐れなどについて話しておられた。興味津々である。タクジイには、今まであまり縁のなかった世界の話ではあるが、自然環境に関する話題としては、動物も植物も基本は同じだと思う。タクジイの関心事は、今のところ植物の方なのだが、あまり高いレベルではない。熊田さんの話は、奥行きが深いなと思った。又鷲の話もどんな内容なのかこれ又興味津々である。

クニバアは、熊や鷲の話よりも、彼の皮ジャンにカウボーイハット(?)の姿がカッコイーと、見とれていたようである。熊田さんはタクジイよりも1~2歳(?)年少の若者である。何時までも話は尽きないが、これから先のこともあり、再会を願いつつお別れすることとなった。コーヒー代を熊田さんに振って、すっかりご馳走になってしまい恐縮の至りである。熊田さんどうもありがとうございました。又お会いしましょう。今度は又、ゆっくり鷲の話を聞かせてください。

旅をしているといろいろな人と出会う。しかし出合った全ての人とその後のコミュニケーションが保持されるとは限らない。心がバイブレートしないと、只会っただけで終わってしまう。そしてそのような出会いが圧倒的に多い。極端な話、同じ職場で20年以上も一緒に仕事をしていても、その人物の考えや本当の生活ぶりなどがさっぱり判らないケースは、山ほどある。出会いというのは、少なからず心の琴線に触れあう何かを伴っているように思う。それが何なのかはわからないのだが、旅に出ていろいろな人や物と出会うたびに、その不思議さを感ずるのである。熊田さんも心にバイブレートを覚えるお一人だった。

羽合の道の駅を出てから10分ほど、自動車専用道は青谷町で終わって、再びR9に入り海岸沿いを行くことになる。R9に入ってまもなく、SUN号の後ろの方で、カランカランという何かがぶつかるような音が、断続的に聞こえてくる。何だろう?と脇道に入って、車を停めてチエックしたのだが、別段異常はなさそうである。疑問を感じつつも元の道に戻って暫く走り続ける。その後も時々音がするのだが、発生箇所も原因もわからない。1時間半ほど走って、鳥取市郊外のバイパスを通っている時、信号が赤になったのでブレーキを踏んだのだが、何と、停まらないではないか。ギアを落としていたので減速は出来ていたのだが、最後の停止が、ブレーキを踏み込んでも効かないのだ。幸い先頭だったので追突の心配はなかった。2、3度踏み込んでようやく停止。びっくりして、道路の脇にあったタイヤ館の先の駐車場に車を入れ、降りて後ろを見て見ると、何と左側の後輪から煙が出ているではないか。パンクではなさそうだが、油も少し漏れ出している。一体どうしたのだろう。思案するまもなく、クニバアが突っ走って行って、タイヤ館の人を連れてきた。見てもらったが、パンクではないかなどと言っており、タイヤ以外のことはよく判らないらしい。その人に近くにJAFはないか訊くと、すぐ先にあるというので、タクジイが歩いてその方向へ行ったのだが、見当たらず、すぐに戻って電話をする。JAFの話では、SUN号は重いので牽引する車が必要なのだが、その車が今出払って不在のため、到着まで1時間くらいかかるという。否も応もない。待つだけである。

それにしても危機一髪であった。もし違う状況ならば事故に直結していたかもしれない。一体どうなってしまったのか、車のメカのことはさっぱりわからないので、途方に暮れてJAFの到着を待つばかり。1時間以上経って16時頃ようやく到着。チエックの結果はデフのオイルが漏れており、何らかの異常が発生したらしいが、開けてみないとわからないとのこと。とにかく修理しなければ走行継続は不可能という判断だった。

さあ、それからが大変だった。迫り来る夕暮れの中、JAFの方が何度も修理先を探して電話してくれたのだが、どこもキャンピングカーと聞くとOKしてくれない。又1週間くらい時間があればOKだなどという話ばかりなのである。SUN号のベースはトヨタのダイナというトラックなので、その関係先に訊いてもらったのだが、混んでいて時間がかかるという。ようやくカローラなどを扱っている店で見てくれるというので、自走でそろそろとその店の修理工場まで持っていったのだが、SUN号を見てギブアップ。車高が高すぎて工場の中に入らないし、どうやらダイナというのをガイヤという車種と聞き間違えたらしい。かなり暗くなってきた。困り果て、再度トヨタのこのトラックも扱う店に電話してもらうと、とにかく見るだけでも見てくれるという。ありがたい。再び自走でその工場へ。

それからチエックしてもらったのだが、デフの中のオイルシールが壊れてそこから油が洩れ、ブレーキを効かなくしているとのこと。より詳しいことは更に分解してみないとわからないが、部品を取り寄せるのに2、3日かかるけど、それでよければ修理してもらえるとのことだった。最悪の場合は、たとえ1週間かかろうと直さなければどうにもならないので、長期戦は覚悟しつつあった。2、3日で直るのなら恩の字であろう。人間いざとなると要求や満足のレベルがだんだん下がってゆくのはしようがない。とにかくホッとして修理をお願いすることとなった。やれやれ。

ところで宿はどうするか。ホテルなどに泊る考えはない。部品が着くまでは車はそのままなので、駐車場の一部をお借りできれば、そこで生活したいとお願いすると、店長さんは快く社員駐車場の一部を提供してくれた。そこが我々のここ2、3日の住まいとなった。店の方々は皆親切で、その夜店長さんは、わざわざ我々のために、みかんやお菓子などを差し入れて下さった。

それにしても、突然の出来事に見舞われた大変な一日だった。SUN号は出発前にタイヤを入れ替え、エンジンオイルの交換をして万全を期して来たつもりだったが、まさかこのようなトラブルに見舞われるとは!それにしても事故にならないでよかったと、天に感謝した次第である。

【コメント】

◆この日は、我がくるま旅くらしの人生の中で、最悪・最高の想定外の体験をした日の始まりでした。最低というのは、勿論突然の車の故障で、旅の明日が閉ざされたことでした。又、最高というのはこの日の後から始まった、予想もしていなかった鳥取市内近郊の歩き旅でした。「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」と言いますが、真にそのことわざを地で行った感のする日々が生まれたのでした。

◆車の故障のことですが、後輪の左側の車軸のベアリングの損傷ということでしたが、あとで旅車の仲間の人たちから聞いた話では、この車の場合は、荷重のバランスに若干問題があり、ちょうど後部左側に水槽が設けられており、満タンにすると80kgにもなり、これが悪さをしたのではないかということでした。しかし、後部右側には5kgのボンベを2本収納する箱があり、更にカセットトイレなども設置されており、こちらの総重量もかなりのものとなるので、バランス上はそれほど問題にはならないようにも思われます。とすると、何が原因だったのかの疑問が残ります。結局これは解らず終いで今日に至っていますが、修理後の状況としては特に問題は発生しておらず、事故当時から更に10万キロ以上も走った現在でも異常はありません。ベアリングそのものに問題があったのではないかと思っていますが、本当のところは不明です。ただ、走行中の異常音には気をつける必要があり、無神経な運転は危険だなと思っています。何しろ、くるま旅は車が壊れるか或いは運転者が壊れるか、そのいずれかで、その瞬間に旅が終わってしまうのです。この時の経験が、その後の旅を慎重にしてくれているのは間違いありません。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第22日)

2015-02-22 02:10:15 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

第22日:12月8日(水)

 <行程>

道の駅:ハピネスふくえ →(県道他)→ 松陰神社参詣 →(県道)→ 道の駅:萩シーマート →(R191)→ 道の駅:阿武 →(R191)→ 道の駅:ゆとりパークたまがわ →(R191)→ 道の駅:ゆうひパーク三隅 →(R191・R9)→ 道の駅:キララ多岐 →(R9・R431)→ 道の駅:秋鹿(あいか)なぎさ公園 〔泊〕 <236km>

 朝ドタンバタンという車のドア開閉の音で目覚める。外を覗くと、霧がたちこめていて視界ゼロに近い中を、軽トラが何台もやって来て、どうやら地元野菜を運んで来ているらしい。6時半頃外に出てみると、なんと野菜の販売所はもうオープンしていて、買いに来ている人もいる。野菜は殆どが1品100円で販売されており、白菜など関東の自宅を出る時には1個200円以上もしていたものが、ここでは他の野菜と同じ値段なのである。それにしてもここの人たちは、何という働き者なのであろう。長州の連中を元気にさせた原動力は、もしかしたらこの人たちの何代か前のご先祖さまたちの勤勉さなのかもしれないな、などと思った。ついつられて、何種類かの野菜を買ってしまった。駅のすぐ上が公園になっており、行ってみるとそこには昔小学校があったらしい。明るくなるにつれて次第に霧が晴れ、付近の様子が少しずつ分かってきた。いい所だ。駅舎の脇に花のリボンがあり、そこに「のりちゃん金メダルおめでとう」と書かれていた。女子柔道の金メダリスト阿武教子選手はこの村の出身らしい。

いよいよ帰路も本格的になる。今日は萩の街中を気まぐれに歩き、そのあとR191を益田まで行き、そこからR9に入って行ける所まで行く移動日と考えている。昨日大阪の大田さんからメールがあり、所要で若狭の小浜まで出てくるので、11日都合よければ会いましょうということだった。もちろんOKである。それに照準を合わせて北上することにしている。

先ずは松陰神社に向う。この神社には、学び舎だった松下村塾も境内にある。昨日その脇を通って来ているので迷うことはない。15分ほど走って到着。9時を少し過ぎたばかりなので歩いている人の数も少なかったが、暫く経つと観光バスから降りた高校生らしき一団もやって来て人が増え出した。ここは歴史の勉強のための人気スポットとなっているようだ。

境内を30分ほど見学しているうちに気が変わり、萩の市内の散策は今日はやめて先へゆくことにした。幕末・明治の先駆者といっても、タクジイは誰氏をもさほど尊敬しているわけでもなく、尊敬する人物は殆ど志半ばで他界されているので、松陰神社だけで充分だという気になってしまったのである。萩焼きを見たいというクニバアの願望もあったが、どこへ行けばその現場が見られるのかが良く分からず、諦めることにした次第。

市街を抜けて海の近くに道の駅:萩シーマートというのがあった。魚市場のようなものがあり、なかなか魅力的な所だ。駐車場も広く、P泊にも適しているようだ。今度来た時には利用させて貰おうと思った。

それから先は、途中幾つかの道の駅に立寄りながら、予定通り益田からR9に入り、浜田、江津、大田と島根県の海岸沿いの道を走って、大社町へ。往路では出雲大社に参拝したが、今日は宍道湖の北側を通ってR431沿いの宍道湖湖岸にある道の駅:秋鹿なぎさ公園に泊ることにして進む。かなり暗くなった中を道の駅に到着。

暗くてよく判らないが、この道の駅は現在大修理工事中らしく、駅舎の建物全体が白い防護ネットの中にあり、トイレの一部くらいしか使えない状態であった。案内板のようなものがあるので見たら、ことしの台風でかなりの被害を蒙ったらしく、その修復のための工事中とのこと。今年の災害の爪跡がここにも残っているのかと、改めて今年の天変地異の異常さ、酷さを思い起こした。全く尋常ではない、大自然の恐さを思わずにはいられない。

そういうわけでこの道の駅はトイレすらも満足に使えそうもない、何もない所なのが分ったので、早めに寝ることにする。

【コメント】

◆この日は単なる移動日となりました。昨日に引き続いてのやや無謀な走りとなっています。萩の街の散策も、松蔭神社をチラリと見ただけでパスしてしまい、これでは殆ど城下町萩を知ることは出来ないわけだと思いました。松蔭神社が萩の全てだなどとはとんでもない思い違いで、明治維新の原動力となった多くの人材が何故この町から輩出したのかというのは、少なくとも2~3日掛けて街の中や周辺を歩かなければダメだと思います。何年か後に萩を訪ねる機会があり、その目的の半分くらいは達成されたと思っていますが、もう一度機会を作って訪ねなければならないと、今でも思っています。

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第21日)

2015-02-21 00:08:11 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第21日:12月7日(火)

<行程>

道の駅:耶馬トピア →(R500)→ 羅漢寺 →(R500・R212・R10)→ 道の駅:新吉富 →(R10)→ 道の駅:おこしかけ →(R10)→ 小倉東IC →(九州道)~ 布刈SA →(九州道・中国道)→ 小月IC →(R491)→ 道の駅:菊川 →(R491・R191) → 湯免温泉ふれあいセンター ~ 道の駅:ハピネスふくえ 〔泊〕         <213km>

 今日は九州を後にする日と決めている。昨夜は咳が止まらずよく眠れなくて、朝になっても頭が重い。タクジイとしてはこのようなドジは、最近では滅多にないことなのだが、何しろ眠りに就きそうになると、喉のいがらっぽさが必ずこみ上げてきて、咳になる。一種の生理現象のように起こるので、幾ら我慢してもダメなのだ。もう3日以上この状態が続いている。些かうんざりしている。

この道の駅のすぐ近くに青の洞門と羅漢寺がある。先ずは羅漢寺に参詣する。羅漢寺は昔一度訪れたことがある。大変な岩場を穿って造られた寺で、五百どころではない、たくさんの羅漢像が安置されていたのを思い出しながら、急坂の参道を登る。このお寺の開基は大化元年(645)というから、かなり古い時代からのものだ。ゆっくり登って行くと、やがて岩に穿たれた祠の中に多くの羅漢像を収めた柵が見え、たくさんのシャモジが貼られたお堂に着く。本堂はそこから更に上にある。今日は観覧料200円也を払って、本堂横からの胎内巡り、指月庵跡、庭園などを見て回った。見下ろす風景もなかなかのものだった。

この頃からタクジイの腹が急に刺し込んできて、おかしくなり出した。トイレに行きたいのだが、下の駐車場まではかなりある。途中から参詣のことは忘れ果てて奔るようにして山を下り、特急にて然るべき場所に駆け込む。参った。まだ体調が本調子でないのかもしれない。朝ごはんといっても、お腹をこわすようなものは食べてはいないのに。とにかく生理現象には敵わない。やがてクニバアも戻って来て出発となる。

青の洞門は見物せず、その傍を通過しただけ。写真をとるために対岸のR212に行き、少し休憩して、その後小倉方面へ向う。中津近くから左折してR10に入り、道なりに進めば北九州である。途中道の駅:新吉富に立寄り、タクジイは再度腹の調子を整える。豊前おこしかけという妙な名の道の駅で昼食。この二つの道の駅は、往路では駐車場が満杯で停まれなかった所。今日は平日なので大丈夫だったが、それでもかなり混んでいた。豊前の道の駅は特に混んでおり、今回も危うくパスさせられそうだった。それだけこの地区における道の駅のニーズが高いということなのか。しかし運営は下手くそだなと思った。

往路と同じ小倉東ICから九州自動車道に入る。この頃から次第に空模様が怪しくなり出し、間もなく雨が降り始めた。関門海峡を望む門司の布刈SAにて小休止し、九州に別れを告げる。海峡に架かる大橋を渡り、中国自動車道へ。下関の先の小月ICから下りてR491を少し行くと道の駅:菊川というのがあるので、そこへ向かうことにする。山陰の日本海側に雪が降ったなどというニュースはまだ聞いていないので、復路も日本海側を通って帰るつもりである。

下関に入る頃にはワイパーが利かなくなるほどのどしゃ降りとなった。まるでもう一度九州へ引き返せと言わんばかりの猛烈な降りである。すぐに小月ICを下り、R491を菊川に向う。14時半頃到着。雨は途中から次第に小降りとなり、道の駅に着く頃には止んでしまった。いわゆる驟雨という奴だったのかもしれない。小休止して、今夜の宿などに関する情報を集める。検討の結果R491にて山越えし、日本海側の油谷町へ抜け、そこから萩を目指すことにした。菊川の道の駅には、さすが下関に近い所為かヒレ酒用のふぐヒレがパックに入って売っていた。今夜はこれで温まろうとさっそく入手して出発。雨はもう大丈夫。

R491は、初めは道幅も舗装も立派で、さすが長州閥の地元の道路だな、などとやっかみながら走っていたのだが、どっこいトンでもハップンで、山道に入ったとたん、突然離合も出来ないほど細くなり、おまけに張り出した樹木の枝が、SUN号に付けてあるTVアンテナを引っ掛けて、通センボされてしまった。少し前に大型は通行不可という看板があったが、SUN号はれっきとした小型である。クニバアには「ほれ、みろ!」というトーンでバカにされるし、困惑限りなし。道幅が狭すぎて回転も出来ず暫くバックで戻って、ようやくUターンして引き返す羽目となった。不親切極まりない道路行政である。とにかく、桁数と番号が大きい国道の通行には気をつけないといかん、とは思っていたが、これほど酷いとは思わなかった。この道は今まで通行出来なかった国道の中では最低だ。先ほどまでの道路状況レベルとの落差があまりにもひどすぎる。長州閥などといっても上手い汁が吸えなければ、庶民のことなどどうでもいいというのが本音なのであろうか。こじつけても腹が立つ。

やむなく戻って県道を豊浦町方面へ。維新の志士たちの保養所だった川棚温泉入口の看板を見ながら、やがて響灘の海側へ出る。遠回りになるけど仕方がない。あとはこのR191を行ける所まで行って、適当な所を見つけて泊ることに決める。

北浦街道という、響灘から日本海に向う海岸線を走るR191を通るのは初めてである。その昔この道を吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞などという人たちが何度も往復したのであろうか。同じような景色の続く中を、2時間近く走り続けて長門を過ぎると、湯免温泉というのがあった。ここでのP泊はどうかと立寄る。町が運営しているらしい大型の入浴施設があり、P泊も大丈夫な感じがしたが、クニバアが今一乗り気でないので、パスして先に向かうことにした。

間もなく萩市内である。久しぶりに明日は萩の街を歩いて見たいと思っている。萩市の郊外に道の駅があるのだが、海の傍らしいので泊るのは敬遠して、少し遠いけど福栄村にある道の駅に行くことにした。萩市内を横切って、真っ暗になった中、県道11号を直進して18時近く到着。何も見えないが、ここは国道ではないので、騒音に悩まされずに眠れそうだ。やれやれ。

【コメント】

◆この日の行程は無謀の一語に尽きます。何が無謀かといえば、風邪が完治してない上に下痢などで体調を崩しているのに、誤ったコースの選択をして、200km以上も走り続けたことです。この頃はまだ年齢的に体力があって、力任せのドライブが可能だったからなのだと思いますが、内容的には旅の楽しさを半減させるようなものです。萩市の先の方まで無理して走るのではなく、せいぜい関門海峡を渡った辺りで宿を探すような行程で終わらせるべきでした。羅漢寺のできごとは、もっと気を落ち着けて受け止め、青の洞門はパスせずにじっくりと探訪すべきだったと、その後反省した次第です。このような走り方をすると、結局地元各地の良さや特徴などが印象に残らず、ただ通過したということになってしまいます。今では、もう一度山口県の西部から北部にかけてじっくり旅してみたいと思っています。

◆前出の要注意事項ですが、国道でも道路ナンバーの大きな道は通行に支障がある場合が考えられますので、事前に情報を得ることが大事です。この時もR491には往生させられました。キャブコンで旅をする場合は、車の高さがあることをうっかり忘れがちになりますが、これも要注意です。私の場合も、何回かアンテナを壊しており、ついうっかりの失敗経験が重なっています。通行や駐車の際には、事前に周辺の様子をしっかり確認し、頭に入れておくことの大切さを改めて感じています。

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第20日)

2015-02-19 04:26:45 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第20日:12月6日(月)

 <行程>

あかねの郷温泉 →(県道・R213)→ 道の駅:くにさき →(R213・R10)→ 宇佐神宮参詣 →(R10・R212)→ 道の駅:耶馬トピア →(R500他)→ 西谷温泉 →(R500)→ 道の駅:耶馬トピア〔泊〕 <158km>

 旅も半ばを過ぎて、そろそろ帰途を考えなければならない。国東巡りはまだ不十分だけど、ここはやはり春の季節の方がよさそうだ。今回は下見としてざっと廻るだけにしよう。今日は海岸線に沿って半島を一周し、宇佐神宮に参詣することに決めて出発。国見町を海に向って下り、海岸線をゆっくり走る。途中郵便局に立寄り資金を補充。人のいない海水浴場で孫向けの貝殻(可愛いい孫娘が二人居る)などを拾ったりしながら、道の駅:くにさきにて小休止。その後も引き続き海岸線を廻って、杵築から日出へ出てR10を右折して宇佐方面へ。12時半過ぎ宇佐神宮に到着。ここには、今日はゆっくり参拝するつもり。

先ずは空腹を満たす必要がある。近くの店の食堂に入って、だご汁定食を食べる。これで2度目か。だんだん上品な味になるようだ。腹を満たしてから参拝に。宇佐神宮には2、3回来ているはずなのだが、あまり良く覚えていない。朱色の派手な建物が目立つ所だったくらいの記憶しかない。もともといい加減な信仰心しかないので、まじめに覚えようとしないのだから仕方ない。しかしだんだん歳をとってくると、若いときよりは一瞬だけど参拝の気持ちが厳粛になることがある。大げさに言えば、手を合わせた時に、生きていることへの感謝の気持ちのようなものを、神様に対して何やら報告したくなるようなのだ。何故なのかは分からない。神様は、いつだって不問だし、沈黙するだけなのにである。そんなことを言うと、宇佐の祭神に対して不敬であることは承知しているのだが、本心なのだから仕方ない。

広い境内の中を、ゆっくり時間をかけて散策した。全ての神社はイヤシロチ(癒代地?)である。つまり心癒される土地である。これは風水の考え方らしい、というのを何かの本で読んだ気がする。どのような神社にも樹木が植えてあり、社(やしろ)を包み守っている。宇佐神宮はイチイガシとクスノキの常緑広葉樹林が神域を包み、これらは国指定の天然記念物となっている。派手な社殿に心奪われがちだけど、この落ち着いた樹木の空間の方がずっと心癒される感じがする。所々にまだ残っている楓などの紅葉が季節の証を示していた。

2時間ほどで車に戻り、今日は耶馬溪辺りで泊ろうと考え出発。そのまま直行してもつまらないので、来る途中に見た宇佐風土記の丘という案内板が気になっていたの、でそこへ行ってみることにした。ところが着いてみると、今日は休みだという。それでは中津の方を廻って見ようと、海側の県道を中津に向う。福沢諭吉の関係先や中津城を見るのもいいなと思いながら街に入ったのだが、道を間違えたらしくて、妙に住宅がごちゃごちゃした細い道に入ってしまい、お城も諭吉さん旧居宅もさっぱり分からない。それほど広い街とも思えないが、なかなか抜け出せなくて、結局探すのを諦める。

ようやく悪魔の細道から抜け出て、R212を山国川に沿って進み、菊池寛の「恩讐の彼方に」で有名な青の洞門を通り越し、左折してR500に入る。すぐに道の駅:耶馬トピアがあった。ここに泊るのもいいけど、もっと良い所がないかと案内資料などを見ていたら、少し先に西谷温泉というのがある。そこへ行ってみようと、少し暗くなりかけた中をすぐに出発する。15分ほどで到着。いい所なのだが駐車場が狭い。受付で聞いたら、P泊はダメとのこと。残念。

とにかく、ここの温泉に入ることにする。その後は、先ほどの道の駅:耶馬トピアまで戻り、そこに泊ることになった。当てが外れたりして少し疲れた。風邪の方はなかなかしつこくて、相変わらず夜中になると咳が出て悩まされ続けている。

【コメント】

◆この日は、宇佐神宮参拝を除いては、殆どがその場での思いつきのいい加減な行程だったので、その思惑が半分くらい外れてしまい、旅の中身としてはお粗末な一日となってしまいました。中津市の探訪については、この頃は、旅先でのネットの活用がまだ十分にできず、必要情報を入手できませんでした。又、ナビなし主義を標榜していて、地図中心の探訪だったため、見落としや記載不足の地図の所為もあって、思いつきの動きでは外れの多い旅となってしまっています。

現在では、旅のネット環境も格段に進歩し、ナビなし主義も捨て去って(但し、地図の携帯は不可欠です)、自分なりに少し成長した感じがしています。老人になって、加齢が進むにつれて、新しいツールへの理由なき抵抗心のようなものが首をもたげて来ているのを感じており、これは要注意です。無理して新しいものにすり寄る必要はないと思いますが、時代から取り残されないための必要最小限の文明の利器に対しては、それを見落とさない感覚が大切だなと反省しています。

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第19日)

2015-02-17 04:57:10 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

第19日:12月5日(日)

 <行程>

山香町里の駅:風の郷 →(県道)→ 熊野磨崖仏 →(県道)→ 真木大堂 →(県道)→ 冨貴寺 →(県道)→ 長安寺 →(県道)→ 両子寺 →(県道)→ あかねの郷温泉〔泊〕 <45km>

 人騒がせな一夜が明けると、何と、打って変った快晴の天気となっていた。昨夜は九州よりもむしろ関東地区に大風が吹いたらしく、千葉や都心では風速30mを超えるほどだった、というニュースを聞いた。それなのに何人かから、そちらは大丈夫かと、九州にいる自分たちのことを心配してのメールを頂いたのは嬉しい限りである。ありがとうございました。遠く離れていても、自由に交信が可能な時代に生きていられることは幸せだなと沁みじみ思った。

今日からは国東半島を廻ることにしているのだが、実は何を訪ね、どこを回るかについては何も決めておらず、よく分からない状態なのである。昔熊野の磨崖仏と真木大堂だけは訪ねたことがあるが、子供連れで大忙しだったのでよく覚えていない。里の駅の案内パンフレットなどを見ながら、やはりお寺や石仏などの多い国東は、御仏巡礼の里かなと思った。とにかく、思いつくままにお寺などを見て歩くことにした。

先ずは、近くにある熊野磨崖仏を訪ねることにする。5分で駐車場へ到着。ここは、20年前のその昔、買いたてのビデオカメラのセットを肩に担いで(当時はハンディタイプなどなく、今から見ればバカでっかい機材だった。子供のたちの姿をVTRに納めておこうと考え、50万円以上もの大枚をはたいて、思い切って1セットを購入した)ここまでやって来たのだが、長い坂を登って磨崖仏を撮り始めたら、充分に充電した筈のバッテリーが2分足らずで無くなって、撮影不能になり、悔しいやら、がっかりするやらの思いをしたことだけを覚えている。さて、今日は大丈夫かな? 今は動画はやらないことにしており、専らデジカメだけである。

昔のことを思い出しつつ坂道を登り、急な古い石段をゆっくり登ってゆくと、目前の岩壁に巨大な2体の磨崖仏があった。昔のまんまだったが、大日如来像の方は、何か黄色いペンキのようなものがお顔にかかっているようで、気になった。しかし、その表情はペンキをかけられようと何をされようと、微塵の揺るぎもない、深い深い想いの中にあるように見えた。ここの不動明王は実に優しい、親しみ易い表情をしておられ、とてもあの恐ろしげな顔の多い不動明王さんとは思えない。国東の里で彫っていると、彫り手は優しい気持ちになって、いつの間にかこのような作品をつくってしまうのであろうか。国東は剥き出しの岩山などがたくさんあって、厳しい地形の場所も多いように思うのだが、トータルしてみれば、穏やかな風土環境にあるのかもしれない。今回は昔来た時とはと違って、じっくりと石仏の像に思いを馳せることが出来た。

次は真木大堂へ。ここには、その昔この辺一帯の寺(六郷満山65ヶ寺)の中では、最大規模のお寺が在ったとか。平安時代に栄えたらしく、その後大伽藍を火災で焼失し、江戸時代に大堂のみが再建されたということである。有料なので、中に入るのはクニバアに任せて、タクジイは周辺を徘徊(?)する。田んぼの畦道には、冬の12月なのにスミレの花が咲いていた。暖かい里なのであろう。

続いて冨貴寺へ。山の中といっても、さほど急峻ではなく、丘を少しきつくした感じの地形が続く。冨貴寺も由緒ある寺らしい。ここも有料なのでタクジイは外でウロウロしながら待つ。いい天気だ。ジンマシンがまだ完全に消えてはおらず、タクジイの調子は今一で、お寺さんの見聞もあまり積極的ではないが、クニバアのエネルギーは見上げたものだ。小さな寺を1時間近くも歩き回って見聞を深めて来たようである。 (後での話では、富貴寺は国宝であり、クニバアは、国東といえば何事をさておいてもこのお寺だけは訪ねたいと思っていた所だとか。なるほど。了解。)

次は両子寺(ふたごじ)へ向かうことにしたが、途中長安寺という案内板があったので、そこへも回ってみることにした。国東は地図では遠いように見えるが、車だと隣のお寺まですぐに着いてしまう。自転車で廻った方がベターかもしれないなと思った。但しその場合の季節は、やっぱり春が良かろう。

長安寺は、お寺専用らしい、かなりな急坂の細道を登った所にあった。ここも如何にも歴史を感じさせる雰囲気のあるお寺だった。無料なのがありがたい。大黒さんらしい年配のご婦人が、石楠花の苗木を育てて販売されているらしく、境内にたくさん並べてあった。ここは花のお寺として有名なようだ。石楠花のほかにもつつじ、つばき、アジサイなどの木々がたくさん境内を埋めていた。

本堂の外れにまだ幼さの残るワン公が寂しそうに繋がれていたので、近づいて頭を撫でてやったら、嬉しくて、嬉しくて全身を震わせ、動き回っての大騒ぎだった。暫くして離れようとすると大泣き(鳴くではないのだ)して、行かないでくれと懇願(?)されて参った。犬にこんなに情愛を感じたのは久しぶりのことである。クニバアは彼方の方を歩き回っており、タクジイの世界とは無関係。

坂を降りて両子寺へ向かう。国東の山中の道は、四国の八十八カ所巡礼の道に似ている。なだらかな曲線の多い細道だ。いいなあと思いながら暫く行くと、いきなり脇道から車が飛び出してきた。驚いて急停車。見ると50歳代のおばさんが運転している。一時停止など全くするつもりはないらしい。あまりにひどいので、向こうも反省して頭でも下げるのかと停まっていたら、全く反省の考えなどないらしく、手で先に行ってくれという合図である。一体どういう感覚なのであろうか。旅に出ていろいろな地方でいろいろなドライバーに出会うが、地方へ行くほどこのような人が多くなるようだ。しかしこのオバサンはその中でも極めつけの低レベルである。この人は、これから先必ず車の事故・事件を起こすのではないかと思った。仏の里には、その陰に仏顔をした鬼が住んでいるのかもしれない。

両子寺に到着。このお寺は国東半島の最高峰両子山の麓にあって、位(くらい)の一番上のお寺らしい。「六郷満山総寺院両子寺」とあり、参観は有料である。他の寺より少し参詣者が多いようである。しかし、タクジイには、このお寺には、好感が持てなかった。京都の何軒かのお寺さんのように、勿体ぶってケチな印象を受けたのである。「寺の私有地に入るな」とか、「エンジンを切らない車は下山させる」とかの、高飛車な警告板が目立つ。勿論そのような違反行為をする奴は言語道断だけど、お寺さんが頭ごなしにやたらに脅しをかけるというのは、やだねえ。気に入らないねえ。このお寺には、有難味を押しつけるような態度がどこかにあるような気がした。従ってクニバアだけが参詣する。

坊さんたちは気取って、ケチらしいが、境内にいた1匹の太ったトラ猫は妙に愛想があり、駐車場に入ってきた車から人が降りるたび近寄って挨拶を続けていた。それをじっと観察していると、猫という奴もちゃんと人を見て行動しているらしく、変な奴にはそっけなくしているのがわかる。こいつの品定めでは、一体俺はどういうレベルなのかな、などと考えているタクジイであった。

クニバアが戻って、近くにある「あかねの郷」という温泉施設がある所へ行くことにして出発する。ここを今日の宿として考えている。この辺は結構標高があり、道路もかなりの山道が続いている。あかねの郷は、両子山を取り巻く道の、両子寺の反対側にあり、地図では赤根温泉と記されている。左回りの方が少し近道だと思って行ったのだが、これがとんでもない山道で、普段は一般の車は殆ど通らない道らしい。それを知らずに入ってしまった。台風などで荒らされた樹木が倒れ掛かっていたりして、前途を危ぶみながら辛うじて難に会わずに通り抜けることが出来た。急がば回れというが、その通りだった。しかし、初めての人にはもっと分かり易くガイドしてもらいたいものだと思った。

あかねの郷は、山香温泉のあった風の郷に似た施設のようだ。急峻な山の中腹に湧き出た温泉をもとに施設を造ったらしい。駐車場も平らの箇所が少ない。受付でP泊のことを聞くとOKして頂いた。よかった。鄙びた山の湯へゆっくり浸かる。風邪薬の薬禍の発疹も殆ど治まって、やれやれという感じだ。小さな露天風呂からの眺望も素晴らしい。磨崖仏を彫ってみたくなるような、剥き出しの岩崖が木々を分けて何ヶ所か見える。外国からの旅行者らしい青年が二人、風呂に入っていた。声はかけなかったけど、いい旅をしているなと思って少し嬉しくなった。日本の若者もどこかでいい旅をしている奴がいるに違いない。その様な若者がもっともっと増えて欲しいと思う。

風呂から出て、一杯やって、今日も少し早めに寝ることにしながら、世界遺産のVTRなどを見て、しばし時間を過ごす。

【コメント】

◆車で旅をしていて、最も気をつけなければならないのは交通事故に出くわさないことだと思っていますが、自分がどんなに気をつけていても時々どうにもならないほどの危険を感ずることがあります。一般的な所感としては、都市部ほど交通ルールが守られている感じがしますが、都市部では割り込が多くて、ゆとりの車間距離を保つのは困難なようです。せかせかした気分にならざるを得ないのが都市部に住む人間の哀しい習性となってしまっているのかもしれません。

一方都市を離れた地方のエリアでは、交通ルールを忘れている人が多いようで、多くの場合ハット・ヒヤリの出来事に出くわすのは地方道が多いように思います。田舎の人は、車が少ないのを当たり前と過信して、都市部の人よりもスピード過剰の人が多いようです。また、一時停止の標識などは殆ど無視されていることが多く、それが動作の鈍い高齢のご婦人だったりすると、この時のような恐ろしい冷や汗ものとなるわけで、とにかく田舎の道はどんな場所でも都市部よりずっと注意心を膨らませた運転が求められるように思います。

◆お寺さんの対応のことですが、私はお寺というのは、人間の魂の究極的な癒しと安らぎの場であると思っており、来るものを拒まずの場だと思っています。お釈迦様は利益や差別などとは無縁の世界で衆生を救うことを本意とされているのであり、元々お寺の格などというものとは無縁の世界に生きられた方だと思っています。それなのにあれこれ理屈をつけて衆生から銭をせしめたり、来訪者を選別したりしているのはケシカラン仕業だと思っています。その最たるものが京都の各寺であり、あれはもう観光資源としての機能を果たすだけで、仏の教えとは無関係の場所なのだと思っています。元々は建立された時にはそのような歪んだ精神など微塵もなかったのでしょうが、今の世は仏の教えを軽々として扱っているように思えて、どうも感心しません。それ故、この頃は京都のお寺を訪ねることは一切無くなりましたが、国東の各寺が両子寺のような態度にならないことを願っています。お寺さんが衆生を弄ぶような姿は世が乱れている証拠なのであり、それを吹聴するようなお寺は仏を忘れていると思うしかありません。

 

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