少しオーバーなタイトルとなったが、ブログを開始してから明日で満1年を迎える。この一年間、闇雲(やみくも)に投稿を続けた感がある。計算してみたら、304回の投稿となっていた。365日の内の83%強の投稿率である。この数字をもっと増やすとか、このまま継続するのがいいとは思っていない。量から質への転換は、ものごとに向かう時の常道の考え方である。このときを期して、少し内容を変えたいなと思っている。そのことについて少し書いてみたい。
そもそも何のためにブログを始めたのかといえば、大きな目的が二つあって、その一がくるま旅くらしという新しい旅のスタイルを世の中に提唱し、リタイア後の仲間世代の方たちが、くるま旅を通してより心豊かな人生を送ることに役立つような情報をお伝えすることであり、もう一つは書くことを通して自分自身の表現とコミュニケーションの力を高めたいと思ったからである。
前者の方は、くるま旅くらしの楽しさを中心とした旅の実際のあれこれを伝えることが課題であり、できる限りたくさんの実例を紹介したいと考え取り組んできた。又後者の方は、これはもう文章作成・記述の修行の様なもので、ブログの他日記などの書き物を含めてとにかく1日5千字以上は書くという目標を立てて取り組んできた。
さて、1年を経過してどうなっているのか。反省することばかりが多い。タイトルを「くるま旅くらしノオト」とした以上は、できる限りくるま旅くらしそのものに絡む出来事や考えなどを伝えることが大切と考え、取り組んできているのだが、途中でネタ切れになってしまうのはどうしようもない。つまりはくるま旅くらしそのものが不足しているのであり、又くるま旅くらしのあり方そのものが底の浅いものとなっているからなのであろう。
同じようなパターンの旅ばかりをしていると、次第に刺激が少なくなって、書くための材料が不足してくるのである。旅そのものはそれで十分価値があるのだが、書くためにはより以上動き回って材料を拾い集めなければならない。しかし、旅に出られる時間は有限であり、制限がある。1年中好きなように気ままな旅ができるわけでもない。身内に要介護者を抱えた今では、この制限は益々厳しくなるに違いない。これからの旅のあり方が問われている自分たちなのだと思う。つまりは、旅の期間は短くても得るものがより多い旅を目指さなければならない、ということなのであろう。
書くことについては、多少前進はできたようには思っている。テーマさえあれば、何とか書けるようになって来た。お題を頂戴し即座に話を作るという三題話のレベルは望むべくもないが、ヨチヨチながらも、題があれば何とか駄文を綴ることは可能のような気がしている。
しかし問題なのは、その駄文である。表現が硬く面白くない。理屈っぽく、正論ばかりを主張している感が強い。ビジネス文書の論文調の癖が抜けていない。いろいろ改めて感じては、我ながらその表現のあり方を持て余し、うんざりすることが時々ある。知りながらそれを克服できないというのは辛いものである。自分の殻を脱皮するというのは、一時(いっとき)自分が自分でなくなることが必要なのかも知れない。セミやトンボたちにそのときの心境を訊いてみたいものだ。
ずらずら述べてきたけど、これらの反省に基づいて、満1年を迎えるのを期して、少しブログの内容を変えてみたいと思っている。本当はこのようなことは公言せずに黙っていた方が安心なのだが、自分の場合は公言した方が本気になって取り組むタイプなので、敢えて愚かな行為を選択するのである。言いふらし団右衛門(司馬遼太郎先生の作品)見たいなところがある。
2月1日からは、ブログを有料に切り替える予定である。そしてカテゴリーを変更し、次の4項目とすることにした。
①くるま旅くらし日報 ~ これは基本的には携帯からのモブログ投稿となる記事である。旅の毎日の状況をお伝えするつもりである。
②くるま旅の四方山話 ~ これはくるま旅に関する日報以外の所感などを綴ることにしたい。
③旅のエッセー ~ くるま旅の四方山話の中から、とりわけて印象に残った出来事などをエッセーとして書き出してみたい。
④閑話・妄話 ~ くるま旅以外の日常の所感を綴ってみたい。
以上がカテゴリーの変更であるが、この外に心がけることとして、
①写真を多用したい。現在は写真の殆どは携帯からのものである。写真を掲載する知識や方法が不足しているため、しばらくの間苦労することを覚悟している。写真は文章よりも説得力を持っている。百聞は一見にしかず、である。
②会話体の多用を心がける。私の投稿記事では、今まで会話体は皆無といってよい。これが文章を硬くしている要因の一つでもある。会話体というのは、生きている人間の吐くセリフの記述である。その息遣いが伝わるような文章を書くのは、物書きにとって不可欠な要件であろう。
③美しいものを追求したい。少々というよりもかなり気障(キザ)な考えのように思うけど、私にとっての美しいものというのは、心を揺さぶるもの、感動を与えてくれるものを指す。見た目の美醜ではなく、心の鑑(かがみ)に映った美醜である。これは書くというよりも何を書くかという心構えや感性の問題であるかも知れない。生きていることの意義や楽しさは、美しいものとの出会いにあると思っている。
大法螺(おおぼら)を吹いたが、一挙にその形を実現することはできるはずもない。とりあえず明日からできるのは、カテゴリーの変更くらいのものであろう。これからの時間、立てた目標の実現に少しずつ近づいて行きたいと思っている。