山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ブログの改変

2008-01-30 23:04:21 | 宵宵妄話

少しオーバーなタイトルとなったが、ブログを開始してから明日で満1年を迎える。この一年間、闇雲(やみくも)に投稿を続けた感がある。計算してみたら、304回の投稿となっていた。365日の内の83%強の投稿率である。この数字をもっと増やすとか、このまま継続するのがいいとは思っていない。量から質への転換は、ものごとに向かう時の常道の考え方である。このときを期して、少し内容を変えたいなと思っている。そのことについて少し書いてみたい。

そもそも何のためにブログを始めたのかといえば、大きな目的が二つあって、その一がくるま旅くらしという新しい旅のスタイルを世の中に提唱し、リタイア後の仲間世代の方たちが、くるま旅を通してより心豊かな人生を送ることに役立つような情報をお伝えすることであり、もう一つは書くことを通して自分自身の表現とコミュニケーションの力を高めたいと思ったからである。

前者の方は、くるま旅くらしの楽しさを中心とした旅の実際のあれこれを伝えることが課題であり、できる限りたくさんの実例を紹介したいと考え取り組んできた。又後者の方は、これはもう文章作成・記述の修行の様なもので、ブログの他日記などの書き物を含めてとにかく1日5千字以上は書くという目標を立てて取り組んできた。

さて、1年を経過してどうなっているのか。反省することばかりが多い。タイトルを「くるま旅くらしノオト」とした以上は、できる限りくるま旅くらしそのものに絡む出来事や考えなどを伝えることが大切と考え、取り組んできているのだが、途中でネタ切れになってしまうのはどうしようもない。つまりはくるま旅くらしそのものが不足しているのであり、又くるま旅くらしのあり方そのものが底の浅いものとなっているからなのであろう。

同じようなパターンの旅ばかりをしていると、次第に刺激が少なくなって、書くための材料が不足してくるのである。旅そのものはそれで十分価値があるのだが、書くためにはより以上動き回って材料を拾い集めなければならない。しかし、旅に出られる時間は有限であり、制限がある。1年中好きなように気ままな旅ができるわけでもない。身内に要介護者を抱えた今では、この制限は益々厳しくなるに違いない。これからの旅のあり方が問われている自分たちなのだと思う。つまりは、旅の期間は短くても得るものがより多い旅を目指さなければならない、ということなのであろう。

書くことについては、多少前進はできたようには思っている。テーマさえあれば、何とか書けるようになって来た。お題を頂戴し即座に話を作るという三題話のレベルは望むべくもないが、ヨチヨチながらも、題があれば何とか駄文を綴ることは可能のような気がしている。

しかし問題なのは、その駄文である。表現が硬く面白くない。理屈っぽく、正論ばかりを主張している感が強い。ビジネス文書の論文調の癖が抜けていない。いろいろ改めて感じては、我ながらその表現のあり方を持て余し、うんざりすることが時々ある。知りながらそれを克服できないというのは辛いものである。自分の殻を脱皮するというのは、一時(いっとき)自分が自分でなくなることが必要なのかも知れない。セミやトンボたちにそのときの心境を訊いてみたいものだ。

ずらずら述べてきたけど、これらの反省に基づいて、満1年を迎えるのを期して、少しブログの内容を変えてみたいと思っている。本当はこのようなことは公言せずに黙っていた方が安心なのだが、自分の場合は公言した方が本気になって取り組むタイプなので、敢えて愚かな行為を選択するのである。言いふらし団右衛門(司馬遼太郎先生の作品)見たいなところがある。

2月1日からは、ブログを有料に切り替える予定である。そしてカテゴリーを変更し、次の4項目とすることにした。

くるま旅くらし日報 ~ これは基本的には携帯からのモブログ投稿となる記事である。旅の毎日の状況をお伝えするつもりである。

くるま旅の四方山話 ~ これはくるま旅に関する日報以外の所感などを綴ることにしたい。 

旅のエッセー ~ くるま旅の四方山話の中から、とりわけて印象に残った出来事などをエッセーとして書き出してみたい。

閑話・妄話 ~ くるま旅以外の日常の所感を綴ってみたい。

以上がカテゴリーの変更であるが、この外に心がけることとして、

写真を多用したい。現在は写真の殆どは携帯からのものである。写真を掲載する知識や方法が不足しているため、しばらくの間苦労することを覚悟している。写真は文章よりも説得力を持っている。百聞は一見にしかず、である。

会話体の多用を心がける。私の投稿記事では、今まで会話体は皆無といってよい。これが文章を硬くしている要因の一つでもある。会話体というのは、生きている人間の吐くセリフの記述である。その息遣いが伝わるような文章を書くのは、物書きにとって不可欠な要件であろう。

美しいものを追求したい。少々というよりもかなり気障(キザ)な考えのように思うけど、私にとっての美しいものというのは、心を揺さぶるもの、感動を与えてくれるものを指す。見た目の美醜ではなく、心の鑑(かがみ)に映った美醜である。これは書くというよりも何を書くかという心構えや感性の問題であるかも知れない。生きていることの意義や楽しさは、美しいものとの出会いにあると思っている。

大法螺(おおぼら)を吹いたが、一挙にその形を実現することはできるはずもない。とりあえず明日からできるのは、カテゴリーの変更くらいのものであろう。これからの時間、立てた目標の実現に少しずつ近づいて行きたいと思っている。

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選挙騒動

2008-01-30 05:56:09 | 宵宵妄話

これはもう、町をあげての大騒動としか思えない。騒動といっても争いごとの雰囲気は殆どなく、騒音公害といった方が判りやすいかもしれない。守谷市の市議会議員の選挙が告示されたのである。同時に隣のつくばみらい市でも同じタイミングで選挙が始まったらしい。隣町との境界線近くに住んでいるので、双方の候補者が入り混じって競争ならぬ狂騒事態が発生している。

立候補され、選挙運動に汗を流しておられる方には申し訳ないけど、名前とお願いしますの連呼だけの走り回りは、早めに止める様にして頂きたい。何しろたった6km四方しかない守谷市内を、20人を越す立候補者の車が、ひしめきあいガナリ立てながら走り回るのであるから、政策のことなど切れ切れに話されても、複数の候補者のスピーカーからの声が混ざり合って、とてもまともに聴けるような状況ではないのである。これから一週間もこの狂騒事態が続くかと思うと、うんざりせずには居られない。

あまりに騒々しいので、選挙要領の方はどうなっているのかと市のホームページで選挙管理委員会の所を見てみたら、選挙公報は投票日の2日前までに新聞の折込広告と一緒に配布すると書かれていた。告示から1週間後に選挙があり、期間が短いため広報の印刷に手間取らざるを得ず、斯様な事態となっているのであろう。そのことは理解するものの、今どきこのようなガナリ声を上げるだけの選挙活動とスローな広報配布の仕組みを、やらせ、やっていて良いのか?と、どうも疑問視せざるを得ない。選挙管理にはルールがあって、その範囲を超えての行動はできないと考え、それを厳守しているのであれば、それは時代遅れにつながると言うものであろう。

情報化社会といわれて久しい。もう少しすればTVも携帯もパソコンも、その機能が一体化してしまうという時代なのである。これらのツールを活用した選挙のあり方はできないものなのだろうか。ネットでの投票という様なレベルの話は今のところ論外だと思うけど、候補者の公約やどのような考えを持って立候補しているのかについては、ホームページなどで逸(いち)早く紹介できるのではないか。それがきちんとできれば、広報など不要と思うほどだ。投票日の2日前に、20人を超える立候補者の広報を読むよりも、告示日に併せて立候補者から提出された自己紹介や公約等を所定のホームページに掲載する方が、遙かに有効である。パソコンなどとは縁のない人も多く居られるから、広報を無くすというのは無理だと思うが、若い世代では携帯は必需品となっているし、パソコンも当たり前のコミュニケーションツールとなっているのである。現行のようなシステムを続けていると、若い世代を中心に、皆が選挙をバカにして敬遠するようなことにもなり兼ねない。

立候補者の方も、もう少し工夫をして欲しいと思う。投票する側が一番知りたいのは、一所懸命やるなどということではなく、今まで何をやり、これからこの市とこの市に住む人たちのために、何をしようとするのかということであろう。候補者自身もそのことを一番大切に思っておられるに違いない。だとすれば、より正確に思いが伝わるコミュニケーション手段を工夫すべきではないか。

街中を歩いていると、ひたすらに名前とお願いしますを連呼する車の中に混じって、奇を衒(てら)って目立とうとするのか、ご本人がバギーに乗って寒い中を先頭切って走ったり、或いは車を使わずに背中に幟を立てて、歩きながら孤軍奮闘の演説を試みている方などが居られるが、何だか気の毒な気がしてならない。決してバカにする気持ちなどないのだが、選挙というものがそのような形で動いていることに寂しい思いがするのである。立候補するのであれば、せめてホームページくらいは立ち上げて、自己の信念や政策等をよりわかりやすくアピールすべきではないか。違反なのかどうか良くわからないけど、告示の前にポストに入っていた選挙ビラなどを見ても、ホームページのURLが書かれているものは殆ど無かったようだ。何もホームページだけが新しいとは思わないけど、これからの時代のコミュニケーションのあり方を考えれば、政治活動は、そのご本人の人となりや活動実績をより正確に伝えてゆくために、かなり有効な手段だと思う。

選挙といえば、そのまんま東氏や横山ノック、青島幸男、何とかやらのプロレスラー氏など、芸能界などを中心とした人たちの名前を思い起こすが、今の世の中を見ていると、政治家になる近道は、その種類を問わず、とにかくマスコミ界で目立つことが肝要となりつつあるようだ。目立つ人には元々それなりの才能があり、努力もされているに違いないのだから、決してそれを安易に批判するつもりはないが、政治の道に入った以上は、人間を磨いて貰いたい。芸のことは忘れて、人間を磨きながら政治の道を歩んで欲しいと思う。二股かけているような人物は以ての外である。

一方で一番言いたいのは、本来の政治家を目指して政治家になった連中に対してである。一体何をやっているのか。何処に本物の人物が居るのか見当もつかない。一体に喋りすぎる政治家が多すぎる。話せば解るのではなく、聴けば解るというのが人間の本当の姿なのだと思うのだが、国会の議論等を聞いていても聴く方の姿勢は、概して軽い感じがする。主張ばかりでは、議論は終結することはないだろう。自己の思いを吐き出せば、それで満足とも思えるような議論には、国の政(まつりごと)の前進を期待できない。政治というのは、議論の場で決めがなされるのではなく、もっと違う場所で力が働いているものなのだという見方もあるが、それにしても人物不在という事実は、世界の中での日本のリーダーシップの凋落(ちょうらく)を見れば明らかなような気がする。

本来の政治家は、芸能界などの売名力に頼って当選者の数を弄(もてあそ)ぶのではなく、まともに政治を志す士(さむらい)を引き上げ、育てて貰いたいものである。あと何日か続くであろう騒音公害の中に身を置きながら、老人の愚痴の思いは膨らむばかりである。

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車検の話

2008-01-29 04:05:12 | 宵宵妄話

我が家には車が3台ある。1台は旅車。2台目は倅の車でスポーツカー仕様。そして3台目が使い走り用の乗用軽自動車である。この3台で庭の3分の1を占有してしまっている。もともとこの地に引っ越してきたのも、旅車を自前の車庫に納めたいという願望があってのことだった。念願は叶ってはいるが、いざ住んでみると、庭の狭さが気になったりして、人間の欲という奴には、我ながら呆れるばかりである。

ところで、今日は車の車検の話である。この3月までに3台の内の2台が車検を迎えており、頭が痛い。明日(1/29)は軽自動車の最初の車検を依頼する予定だし、来月には旅車の車検が控えている。両方合わせるとかなりの出費となり、年金暮らしには資金の取り崩しとなる。車検をやらないわけには行かないので、やむを得ない。

先ずは軽自動車の車検である。守谷に住むと、車なしの生活は難しくなる。歩くのには遠く、車にしては近いという微妙な場所に買い物の場所などが集中しているからである。図体のでかい旅車やハイオクの燃料の倅の車では、とても気軽に出かけるわけにはゆかない。そのために軽自動車を使うことになった。

軽自動車というのは、税金も安く、燃費もかなり良いので、車検の方も比較的安いのかなと思っていたら、見積もりを見て驚いた。何と普通車と変わらない、否むしろ少し高いのである。費用のことについては、特に何の要望も出していなかったので、車屋の方では好き放題に見積もったのであろうが、取得価格の1/10を超えるというのは如何なものであろうか?5回車検をやったら、買った時の値段の半分以上の費用がかかるという計算になり、当然乗り換えた方がベターという発想が生まれてくる。ま、5回も車検をするのはレアーケースであり、多くの人はそれ以前に買い替えに走っているのが普通なのであろう。

車の安全運行のためには、常にベストの状態で車のコンディションを維持する必要があり、そのための車検や点検整備は侮(あなど)れないものだというのは理解してはいるけど、どうもその中身が良く判らないので、黙っては居られない気持ちになる。部品や消耗財については、ある程度の予測が付くので納得性は持てるのだが、技術料というのが不可解である。全体の見積もりの半分近くを占めているのである。

技術というからには、それを取り扱う人によってレベルが違うはずであり、レベルの高低を問わずに一律に料金を支払うというのは、何とも解せない。このような理屈を考えても、それが無茶な話だということは良く判っている。では、どうすれば納得性が持てるのか。徹底してやるのならば、何社から相見積もりを取り、内容を比較検討した上で決めるしかないのだろうが、どうもそこまで立ち入ってやる気は起きない。やっぱり正規ディーラーの所で、純正部材を使って整備をして貰った方が安心感がある。

一体車検というのは今のようなスタイルで必要なものなのであろうか。以前は2年だったものが、現在は初回が3年目となったが、それが正解だったのか、或いは4年でも差し支えないのか、車検の内容も技術のことも全く知らない自分には、判断のつかないことである。悪意で考えれば、関係業者を潤わせるために、まだまだ必要以上の過剰な整備などを許しており、ましてや技術料などということでは、その実態が判らないのだから、何か問題が起きた時でなければ、文句は言えない仕組みになっているとも思える。問題が起きなければ、そのまま過剰な整備がまかり通るということになる。ま、このような悪意に満ちた解釈は、より正確な知識とより多くの実態把握をした上でないと、とても主張できるものではなかろう。

かくて、善良な無知の市民は、業者に多少のサービスと値切りを要求して、それをほんのちょっぴり認めさせて、まあいいか、と諦めるだけなのである。世の中の多くは、このような形でバランスを取りながら動いているのかも知れない。しかし、年金暮らしの身では、いつかこのバランスを崩さないとやってゆけない時が必ず来るのであろう。それが何時、どのような形でやって来るのか、何となく不安を感じながら、想いを巡らしているところである。

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冬の野の花: オオイヌノフグリ

2008-01-28 00:17:55 | 宵宵妄話
今日は休憩です。先日強風が吹き荒れた日、家の近くの道端に咲くオオイヌノフグリを見つけました。楚々たる青い花です。あまりにもこの花に相応しくない名称なので、私はこの花を「春告草(はるつげそう)」と呼ぶことにしています。
敬愛する詩人、金子みすずの詩の中に、「草の名」という一篇があります。
人の知ってる草の名は、
わたしはちっとも知らないの。
人の知らない草の名を、
わたしはいくつも知ってるの。
それはわたしがつけたのよ、
すきな草にはすきな名を。
人の知ってる草の名も、
どうせだれかがつけたのよ。
ほんとの名まえを知ってるは、空のお日さまばかりなの。
だからわたしはよんでるの、
わたしばかりでよんでるの。

この詩にあやかったわけではありませんが、オオイヌノフグリとは、あまりにも可哀相な命名です。その由来を知っていますか?漢字で書くと「大犬の蔭嚢」となるのです。花の咲き終わった後に結ぶ実を見ると、まさにそっくりなので、この名が付いたのだと思いますが、花のイメージとはあまりにもかけ離れています。金子みすずなら、どんな名前をつけるのでしょうか。
この花は、条件の良い場所では晩秋辺りから咲いており、その強い生命力に驚かされます。早春には満開となって、道端を淡いブルーの花が埋め尽くしていることがあります。この花を見ると、何故かホッとし、本物の春の到来を感ずるのです。
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老友の馬骨観

2008-01-27 01:31:42 | 宵宵妄話

今日は、いつもと違って自分ではなく知人が書いたものを掲載させて頂くことにした。馬骨を名乗ってこのブログを書き始めてから間もなく1年が経つのだが、このような試みは初めてのことである。馬骨というのは、一体どのような奴なのかを知って頂くには、自分で書くことよりも他人が書いた方が、より正確なのかも知れない。人間というのは、本人自身には見えない部分が多いものだ。

掲載させて頂くのは、先日取り上げた、パソコンに挑戦している我が老友の書いた一篇である。パソコンのキーボードの打ち込みに慣れて貰うために、毎日宿題として、何でもいいから1ページ以上写すなり、書くなりして、メールで送って欲しいというのが、当面の課題となっている。開始してから既に1週間近くになるが、今までに5回ほど書かれたものが送られてきた。最初は模写だったが、3回目からは作文となった。なかなかしっかりした文章で、今まで手抜きして、滅多に書かなかった人とは思えない書きぶりである。先ずはご一読あれ。

 “書く”ということ

小生には3人の親友がいる。いると思っている、と言ったほうが正確かも知れない。

その内の一人が今は物書きである。こよなく、酒を愛し、またこよなく書を愛している御仁である。書(もの)を書くということはかなりの書を読み、その読んだ書を自分のものにしてゆく作業と言うか修練を積み上げてゆくことが、先ず不可欠のように思われる。この御仁は、小生の知る限り昔から相当の読書家でありまた熱弁家でもある。

年に一度の同じゼミ仲間との酒の席で、酒がからだ全体に浸み亘る頃になると、彼の得意の一席が始まることが時々ある。彼はよく勉強し物を知っているので、小生などいちいち御尤もと拝聴しており、とても反論する気にもならないが、なかには堂々と彼の一席に異論を唱える者もいる。そうなると少々やっかいなことになる。どちらもアルコールがしたたか入っており、双方とも自説を譲ることはほとんどない。この反論する愛すべき友人は、夕は勿論、朝から、昼からアルコールを飲んでいる御仁で、最近の彼からの電話によると、どこかの大学で成人(老人?)相手に歴史に関する講義をしているとのこと。このような腕に覚えのある、自信満々の二人が、適量をはるかにオーバーした状態で議論し始まると、下戸である小生などは議論の行く末はどうでも良く、この議論が早く終わってくれることのみを願って付き合うのである。この反論氏が書いたものは未だ拝見してない。

議論をすることあるいは口頭で自説を言うことなどは、その場に居合わせた者だけが聞くことであり、話の詳細が多くの人間に広まることはまずないと言っていいが、書(もの)を書くということは後に衆目に晒される可能性がある。その意味で書(もの)を書く、書にするということは大変なことである。

自分の意思あるいは言いたいことを他人に伝える手段としては、大きく分ければ言葉と書があるが、ほとんどの人は言葉で即ち話として伝える。話は簡単に誰にでも出来る。その場かぎりで跡に残るものがない。楽である。書はそうは行かない。

(もの)を書くことは並みの人間にはおおきな苦痛を伴うが、幸い親しい友人に物書きがいることもあり、これから先出来るだけ書面をもって伝達手段としたいと思っているこの頃である。 ( 安 義孝 平成20125日)

注:( )のルビは私が勝手につけたものです。

 私は偏屈ジジイを自認しているけど、その偏屈さ加減については、我が老友は私自身がそれに気がつく以前から、自明のこととして受け止めていたようである。この一文の中で、二人の御仁が登場しているが、私がそのどちらなのかはご想像にお任せすることにしたい。要するにこの二人の御仁は、やや扱いにくい変わり者ということなのであろう。その変わり者同士の議論の場が取り上げられているけど、私は朝から、昼からと四六時中アルコールをわが身にたらし込んでいるような奴は(羨ましいとは思うけど)、断じて尊敬はしないし、全くその反対である。だから議論などしたくないし、した覚えもあまり残っていない。しかし、我が老友はちゃんと見ていて、どうやらうんざりしながらも、結構面白がって成り行きを心配していてくれたのかも知れない。お互いアルコールが染み渡ったレベルでの議論だったというから、もしかしたらそのようなことがあったのかも知れない。今後は自戒すべきだなと反省した。

書くことと話すことを並べて、書くことに対しては並みの人間には大きな苦痛が伴うなどと書いているが、それが本当だとすると、どうやら自分は並ではないということになってしまいそうだ。並でないのが才能ならば嬉しいけど、文才が足りないのは、自分自身がよくよく承知していることなので、恐らく並でないという意味は、やはり偏屈ということに帰結するのではないか。

我が老友とはもう40年以上のお付き合いだから、何をどう言われようと書かれようと、これはもう全て認めないわけには行かない。それが仮に誤解であっても構わないと思うほどである。珍しくも老友の書いた一文を読んで、くすぐったい思いと、ちょっぴり籠められた皮肉のようなものも感じながら、結構やるじゃないか、とパソコンへのチャレンジの中から、老友のもう一つ別のものを見つけたような気がして、刺激を受けたのだった。

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冬の嵐

2008-01-26 04:23:09 | 宵宵妄話

昨日、一昨日と強風が吹きまくり、外出をするのが厳しいほどだった。我が家では、西側の壁際に置いてあった畑用の支柱の束などが吹き飛んで倒れ、片付けるのに手間取ったりした。しかし、空にはお天道様が輝いていて、強風がなければ、さほど寒さを感じない天気である。

天気予報などでは、北国や日本海側の地域では大雪だという。しかも低気圧は台風並みのレベルになっているという。これはまさに冬の嵐である。昨年訪ねた室蘭では、落雷に打たれて発電風車の羽根が落下したという。あの巨大な羽根が吹き飛ばされるなんて、とても想像できない。恐ろしい話である。

関東地方に住んでいると、冬の嵐を経験することがない。どんなに風が吹き荒れても、そのような日は、大抵は空に太陽を仰ぐことができるので、嵐などという感覚はない。元々少年時代から冬に嵐があるなどということを知らなかった。それを知ったのは、就職をし、仕事のために冬の北国を訪ねる必要が生じたからである。

最初に冬の嵐に驚いたのは、真冬に札幌を訪れた時だった。その日は吹雪いていて、雪が下から舞って吹き上がっていた。先輩から「内地の雪は上から降るけど、北海道の雪は下から降るんだ」と教えて貰った。確かに強風が地面にぶち当たるような凄まじい雪の世界では、のんびりと上から落ちてくるような雪片などあるわけもなく、荒れ狂って下から吹き上がるのだった。先輩は、北海道を強調するあまりに、内地と分けたのだろうが、考えてみれば、内地だって北国や日本海側豪雪地帯の雪は、烈風の中では、やはり下から降ることが多いのではないかと思う。

その後十年以上経って、秋田を訪れた時も真冬だった。このときはパラつく雪を降らせていた暗い空の中から、突然もの凄い轟音が響き渡り、大地が揺れる感じがした。「何だ、これは!」何かとんでもない爆発事件でも起きたのかと驚き、同行していた地元の知人に訊くと、平然として「雷ですよ」という。「エーっ、冬の雪の中でも雷が鳴るの?!」と聞くと、「最近はしょっちゅう鳴っていますよ」と軽くいなされてしまった。稲妻の予告もなく、暗い天空から抜き打ちに響き渡る雷鳴には、肝を冷やすばかりだった。しかし、地元の人たちは皆さん、そのようなものに一々驚いていられるかという顔をしていた。凄い人たちだなと思った。

青森県だったか、それとも岩手県だったか、雪の吹きすさぶブリザードの世界を実体験させるツアーがあるそうな。好奇心は決して少なくはない方と自負しているが、今はそのようなものは頼まれてもお断りするしかない。雪の世界には美しさを感ずる時もあるけど、多くの場合は、危険と裏合わせになっている。その昔、雪山に何度か挑戦したことがあり、山小屋の中に閉じ込められて、遭難者の捜索を目の当たりにした経験などもある。幸い自分は、遭難はしなかったけど、その時冬の嵐の怖さを知ったのだった。

一昨日の北国の冬の嵐は、台風並みの低い気圧だった。随所に恐ろしい世界が展開していたに違いない。人間のみならず動物は勿論、植物までもが吹き付ける強風と雪片に身をすくめていたのではないか。風が吹かず、只ひたすらに音もなく深深と降り積もる雪にも無言の恐怖を覚えるが、それでもブリザードの世界よりはずっといい。ものを考える余裕が残っている気がするからである。息ができないほど雪が吹きつのる烈風の中では、ものを考えることなど不可能で、只ひたすらそこから抜け出したいと思うだけだと思う。何年か前、南極大陸の昭和基地の観測隊員が、基地からほんの少し離れた場所で遭難されたという話を思い出す。北国の冬の嵐は厳しい。関東に住む者の、このような感慨など、その地に住む方から見れば、お笑い話に思えるに違いない。

今のところ冬の北国へのくるま旅は、自らに禁止を課している。チェーンなどを準備し、しっかり装備を固めれば、他のシーズン以上に面白い旅が体験できるのだとは思うが、どうも水が凍るような世界には馴染めないのである。元々スキーもスケートも全く興味・関心がない。水は飲むのが一番と思っているだけで、それが凍りついた世界に入ってゆく勇気がない。空も大地も、その境界線を認識できないような恐ろしい灰色の世界には、車を駆って旅するなど、とてもできない相談だ。危険を承知でチャレンジするのを冒険というのだろうが、最早そのようなエネルギーは失せてしまったのであろうか。冬になると眠りの旅ばかりなのは、老いの証なのであろうか。

北国の冬の嵐と、その国に住む人たちの勇気とご苦労に思いを馳せながら、わが身のグータラを少しばかり反省したのであった。

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沈黙の春について

2008-01-25 03:35:36 | 宵宵妄話

 昨日は寒さについて書こうかなと思って書き出したのだが、途中でどういうわけか茹で蛙の話となってしまい、いつの間にか地球環境問題に行ってしまった。それで、途中で表題を変更することとなったのだが、私のブログは、自分でも何を書こうとしているのか、書き始めてみたいと分らないところがある。

 今日は地球環境問題に触れてみたい。私は環境問題の専門家でも、活動家でもなく、只少々その恐ろしさを知って、立ち竦(すく)んでいるような感じの人間である。ゴミ問題など、身近な環境保全活動の中で、最小限のやれることには、精一杯取り組もうとはしているが、時々いい加減なこともやらかしている小市民に過ぎない。だから、力なくこの大きな問題を語るしかない。

 昨日沈黙の世界のことを書いたが、これはアメリカのレイチェル・カーソンという方が書かれた「沈黙の春」(新潮社刊、青樹簗一訳)という本から思いついたことばであり、自分の創作ではない。それにしても恐ろしい情景を指摘したことばだ。声も鳴き声も生きものの息遣いを感ずることもない、音のない世界は、「恨めしやあ~」という幽霊の世界などよりも遙かに不気味である。この本は、やがてこの地球にそのような世界が到来することを警告している。もうこの本が書かれてから40年以上が経っている。環境問題の本質を知るためには、この本一冊を読むだけで十分な気がする。温暖化問題もオゾンホールの問題も京都議定書の問題もその本質は、この本が指摘している自然環境破壊の恐怖にすべて連なっている。

 21世紀の地球を考える上で、4つの重要なテーマがあると聞いている。その1は人口問題、その2は食糧問題、その3はエネルギー問題、そして4番目が環境問題であるという。いずれも人類と呼ばれる地球の生物が引き起こしている問題だが、1~3は、恐らく人類だけの問題であろうが、4だけは、地球に生息するすべての生物に係わる問題である。1~3は、人類がこれから尚生きてゆくための必要要件なのだが、4はその範疇を超えた、今までに人類がここまで来たその暮らし方の、全ての負の遺産の積み上げがもたらす恐るべき作用であり、それは人類を含めたすべての生物の存在を否定しかねない問題なのである。

 1~3の問題は、すべて1がその引き金となっている。地球が養い得る人間の数は無限ではなく、明らかに有限だ。現在60億を超えた世界の人口は、尚、爆発的な勢いで増加を続けている。一説では地球が養い得る人口は、100億が限界という話もある。そしてそれは21世紀中に到達するかも知れないゴールなのである。100億を超えたら、そこから先は生きて行ける人間の数は打ち止めとなり、否応なしにそれ以上は生きては行けなくなるのだ。恐らく弱者から命を縮められてゆくことになるのであろう。弱者とは何かが、その時点で明確になるに違いない。しかし、いざとなれば弱者だって黙ってはいないだろうから、そのときには世界中に大混乱が起こるに違いない。

 2と3、すなわち食料とエネルギーの問題も、その多くは人口爆発を要因としている。特に食料の問題は、人口と直結している。人は食べなければ生きてはゆけないのだが、100億の人間を養う食料生産能力を、残念ながら地球は保持していないのである。又、エネルギーの問題は、人口だけではなく、人々の暮らし方と大きく結びついているが、現在の化石燃料の先行きは見えてきており、新エネルギーを見出さない限り、これ又100億の人間を養う力は存在しないのである。

 現在世界各国で、様々な研究開発がなされており、食料とエネルギーの問題は、多少改善・改革がもたらされるかも知れないが、よほどの大発明でもない限り、限界点はさほどには拡がらないのではないか。21世紀末までには、世界人口は恐らく100億に近づくであろうから、その時には人類は歴史上最大の試練に立たされるに違いない。

 ところで、1~3の問題を飲み込んでしまうほど巨大なテーマが、4である。地球環境が侵(おか)され、破壊されて生物が地球に棲むことが出来なくなれば、1~3の人類に係わるテーマなどはいっぺんに抹消されてしまうのである。それはそうであろう、生き物が棲めなくなった地球には、如何に食料やエネルギーが充足できようとも、それを使うものが存在しないのだから、そのようなものは意味をなさなくなるのは当然だ。

 環境問題は科学的には解決策は既に見出されているように思う。CO2の発生を抑えることをはじめ、環境汚染や悪化を促進する物質を排出させないようにすれば良いということなのだが、問題はそれを完璧に行えば、現在の国も生活も成り立たなくなるということだ。世界が100年前に戻ることは、最早不可能なのである。どんなに知恵を出しても、この壁をクリアーすることは現実問題としては不可能なのではないか。この問題が悲観的なものとしか思えない理由はそこにあるのだ。

 人類が化石燃料を使い果たした時が、人類の滅びの始まりのようにも思える。否、終わりなのかもしれない。数億年をかけてつくられた地球の遺産を、地上に棲むたった一種類の動物が使い果たした時に、人類は天罰を喰らうのではないか。何とも恐ろしいことである。しかし、私自身は、そして現在生きている人間の殆どは、その終末を見ることはないと考えているに違いない。しかしその終末は、未来の世代、しかもかなり近い未来の人たちに否応なしに課せられるのである。

 今、自分ができることは、環境破壊を防ぐために、やれることをやるだけしかない。例えそれがムダだと解っていても、諦めずに信ずるところを実践するしかない。悲観論を前提とせざるを得ないが、それでも未来の人たちが一秒でも長く生きられるように、今できることをやるしかない。それが今を生きている人間の務めであると思っている。
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「茹(ゆ)で蛙(かえる)」現象の怖さ

2008-01-24 05:39:46 | 宵宵妄話

 昨日初めて守谷に今年の初雪が降った。いや、二度目かな? 何だか雪らしくない雪の降り具合である。本場の雪国では、このような所感とは無縁だと思うが、関東のこのあたりでは雪といえば何とも中途半端なのである。だからといって、メリハリのある雪の降り方をして欲しいと願っているわけではない。

 最近の寒さについて考えてみた。今年の冬は例年になく寒いという感じ方が大勢を占めているようだけど、本当に寒いのだろうか。寒いという体感は、何と比べればそう言えるのかは結構難しいように思う。例えば、0℃とマイナス1℃の差は体感では殆ど変わらないし、2~3℃ほどの差ならば、体感は同じようなものではないか。一体どれほどの差があれば、その違いを人間が感じ取れるのか良く解らない。今年が寒いというのは、近年の暖冬の中では、かなりの差が出ているのだと思うが、もしかしたら統計的には大したことではないのかもしれない。人間の感じ方というのは、かなりいい加減なようだ。

 「茹で蛙現象」というのを、企業内教育の中で良く話をしたことがある。これは危機に対する感性不足を警告する場合に用いる事例である。水を張った鍋の中に蓋をせず蛙を入れ、火をつけてそれをゆっくりと沸かしてゆくと、蛙は温度上昇の危機に気づかず、温まったお湯の中で、跳び出そうともせずにのんびりしているのだが、ハッと(その危険さに気づくのかどうかは知らないけど)気づいた時には時既に遅く、そのまま蛙は茹で上げられて、一巻の終わりとなってしまうという話である。

 地球温暖化現象が、最早危機状況に達しつつあることは明白なように思うけど、世界の指導者や企業経営者は、自国の損得や自企業の利益追求に囚われて、そこから離れることができず、自ら茹で蛙現象の真っ只中を歩んでいるような感じがしてならない。京都議定書の問題がよく取り上げられるが、アメリカも中国もそして日本すらも、本気になってその指標が達成できるなどとは誰も考えていないのではないか。

 茹で蛙現象の中で最も大切なことは、危機に気づいたら直ちにそれを回避するための行動を起こすことなのであり、方法論を明らかにして、そのどれか一つでもいいから実行を徹底することだと思う。しかし、地球全体というレベルでの温暖化問題は、私の考えではきわめて悲観的である。恐らく人間は地球という住まいを破壊し、やがて沈黙の世界を作り上げるに違いないように思われる。(レイチェル・カーソン著「沈黙の春)新潮社版参照) 

沈黙の世界とは、動物の息遣いが絶えた世界である。息遣いを為す動物といえばかなり高度な動物であり、その頂点に人間がいると考えられるが、地球が壊れてしまった時に、真っ先に死に絶えてゆくのは実は高度な動物のような気がする。人間はトータルとしてはしぶとく生きているけど、個体では弱い存在のように思う。今人間が頂点に立って生き続けていられるのは、トータルとしての知恵が生かされているからに過ぎない。

今もし世界中がとてつもない飢饉に見舞われ、日本が如何なる国からの食料調達も不可能となったとしたら、道端に生えている野草を食べられると考える人よりも、食べられないと根っから思い込んでいる人の方が遙かに多いであろう。従って日本国には、直ぐ傍に生命をつなぐ物があるのに、それを知らずに飢えに身を任せて、その結果もの凄い数の餓死者が発生するに違いない。しかし、野に放たれた犬や猫は、人間の餓死者よりは遙かに被害は少ないだろう。彼らには個体としてのその本能が、人間よりも遙かに強いレベルで生きているからである。

現在の流れの果てに、地球が壊れてしまったなら、生き残るのは植物類と、原生動物くらいになってしまうのかもしれない。現在でもオゾン層の破壊によって大地に進入する悪性の紫外線にDNAを壊され、その結果異常な形状をした昆虫や両生類などが発見され続けているという。人間は自然界の中では、明らかに思い上がっており、破壊者に成り下がっている。このことを真摯に受け止め、本気になった時は、最早手遅れで、地球破滅のエネルギーは止まらなくなってしまっているのではないか。少し怖い話となったが、これは本当の話だと思う。

それにしても昔は今よりも遙かに寒かった。子供の頃でも、長袖の下着類を着るのは当たり前だったように思う。田舎の道は未舗装で、砂利の敷かれた県道に出るまでの間は、霜柱が高く盛り上がって凍てついた道を踏みしめながら朝学校へ行き、帰りはめちゃくちゃにぬかるんだ道の脇に、僅かに枯れ草の残る箇所を探しながら歩いて家に戻ったものだった。夜は満天に星が煌(きら)めき、子供心にそれを美しいと感じたものだった。それが今は日本の何処にもそのような夜空を仰げる場所はない。僅か60年という時間経過の中で、我々が失っているものは大きい。

還暦を迎える前辺りから、冬に長袖の下着を着ることはなくなった。今でも半袖の下着と7分のロングパンツを履くだけで、その上にシャツとセーターを着るだけである。外出や歩きの時はウインドブレーカーやジャンバーを羽織るだけである。寒いなどと言っても、昔の大地を凍み渡らせるほどの鋭さはない。これをありがたいと考えるか、怖いと考えるかは、茹で蛙現象を知っているか、知らないかで大いに差の出ることであろう。

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梅安ファン

2008-01-23 07:04:48 | 宵宵妄話

 旅に出ないと退屈だ。実際は退屈どころではなく、結構忙しいのだけど、やっぱり退屈な忙しさのような感じ方が何処かにあって、満たされない。このところの寒さでは、うっかり遠出をしたりしたら、雪に閉じ込められて身動きができなくなるかも知れないので、とにかくじっとしているしかない。

 今日はその退屈に合わせた退屈な話である。私は睡眠薬代わりに本を読むという話を以前に書いたが、先日から読み始めた池波正太郎先生の「剣客商売」シリーズを読み終え、引き続き「仕掛人・藤枝梅安」シリーズに入った。池波先生の大ファンで、略全著作を所有している。池波先生の作品は、まさに大衆文芸の真髄に触れたものであり、人間の本性を捉えた気取らない本物の読み物だと思っている。

 この「仕掛人・藤枝梅安」シリーズは、人殺しを業とするという、表向きの人間世界では、何とも理解しがたい世界を描いた作品である。そんなことが許されるはずがないといえばそれまでの話だが、平和を叫びながら人殺しの極みともいえる戦争を仕掛けたりするのが人間の常なのであるから、仕掛人などというとんでもない世界があるということは、意外と真実味を帯びているような気がするのである。

 この仕掛人シリーズもまた毎年必ず1回は目を通す先生の作品の一つである。講談社文庫の全6冊のものを読んでいるが、1冊目の値段が340円で、昭和55年3月15日発行とあるから、もう27年という時間が経っており、つまり27回くらいはこれを読んできたということになるらしい。読み出せば、概ねストーリーがわかってしまうというのは、当たり前のことかも知れない。

 私は藤枝梅安の大ファンである。人殺しのファンになるとは妙なことだが、梅安さんの殺しは芸術的なのだ。仕掛針一本で相手を苦しめることもなくあの世に送る技術というのは、これは芸術といって良いのではないか。現代の殺人事件などは、殴り殺したり、銃殺したり或いは毒殺などが多いようだが、それらの行為には少しの芸術性もなく、人間らしさが感じられない。(いやはや何とも妙なコメントではあるが)

 このシリーズでは、梅安さんの他に彦さんこと彦次郎と小杉さんこと小杉十五郎という仕掛け人が登場するが、この人たちの殺しには、さほど芸術性は感じない。吹き矢だとか剣術だとかいうのは、この時代背景の中では、ごく当たり前の方法のように思う。只この三人が魅力的なのは、人間的な面で相通ずるものがあり、殺人者の割には何だか共感できるパーソナリティを感ずるのである。池波先生の、人間を見る目の確かさが、この三人には籠められているように思う。

 人間は清濁併せ呑んで生きている。鍼灸の針を持った殺人者が、一方では病に苦しむ人間を、損得なしで一心不乱に救うために汗を流すという、一見矛盾とも思えるような行為を、池波先生は極々当たり前の人間のやることなのだと喝破しておられる。或る意味で人間というのは二重・三重の偽善者なのだと思う。もし、自分は何処をどうとって見ても決して偽善者などではない、などという人がいたとしたら、それは薄気味悪い人間だと思う。斯く言う私は疑いもない偽善者だと思っている。

 TVでは、必殺仕事人などという呼び方がされて、それなりの人気をさらった番組だったが、今の世に何故このような殺し屋などというものを正当化するような不謹慎な番組が受けるのであろうか。その答は明確だ。無法(アウトロー)の世界では、人間としての存在を踏みにじられるような出来事が多発しており、それに報いるというか、一矢を放ちたいという気持ちが、誰にでもあるからであろう。世の中の多くの人は、無法の世界も飲み込んで生きてゆかなければならない。法がまかり通らないのであれば、その無念さを鎮めるためには、無法の世界でのやり方に頼っても良いのではないかという考えが、多くの人の心の片隅にあるから、仕掛人が受け入れられ、時には拍手が送られるのであろう。

 特に最近の世相の中では、そんな奴はぶっ殺せ!と言いたくなるような出来事が多い。去年の世相を表わす一語が「偽」であったことを思えば、仕掛人に働いて貰いたいと考える気持ちが膨らむのは当然のことなのかもしれない。今の世では、「偽」以上の無法がまかり通っている世界が広がっているに違いないと思う。真に困った世の中ではある。

 ところで、梅安さんのファンであるもう一つの理由は、梅安さんの食通振りというか、池波先生の粋な江戸感覚の食に対する造詣の深さに感動するからである。我が家ではこの季節になると、梅安鍋というのを良くやる。これは大根を千切りしたものを、昆布とホタテ(本当はアサリなのだが、手に入らないため)の出汁の中に放り込み、サッと熱湯を潜らせたものを小鉢に取り、それに七味とポン酢をかけて食べるのであるが、大根の旨さが腹に染み渡って、酒も一杯が二杯となるのである。

 本当のことを言えば、このシリーズでの一番の楽しみは、人殺しではなく、梅安さんの料理の方なのかもしれない。料理で救われるのである。食べるというのは、生きるための必須要件であり、それは人生を味わうことに通じているように思う。殺しと食を同じ作品の主人公の所作に並べているところに、何ともいえない人間らしさを覚えるのである

 今日の退屈はここまで。

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冬の野に咲く花: ナズナ

2008-01-22 04:30:30 | 宵宵妄話
昨日は大寒。当に寒さのピーク時に相応しい冷え込みです。
先日、散歩の途中の田んぼの畦に見かけたナズナの花です。ナズナはペンペン草とも呼ばれますが、真冬でも花を咲かせている生命力逞しい野草です。
ペンペン草の由来を知っていますか?花が終わって、結んだ三角の実を、ちょっとしごいて、指先でつまんで左右に回しながら耳元に近づけると、ペンペンと云う音が聞こえるのです。子供の頃の思い出です。
今日はブログはお休みです。いろんなことがあって、やや疲れ気味です。明日も休むかも。休みの時は、携帯で花情報です。では。
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