山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

少年のように

2009-09-30 05:15:59 | くるま旅くらしの話

 少年のように 北風に向って

僕は立つ

残された時間を無限に生きてゆこうと

少年のように 光に向って

僕は進む

両手をかざし 未知の出会いを求めて

失ったもの 獲得したものも

迷い、振り返ることはしない

少年のように 真っ直ぐに

僕は行く

永遠につながる 僕の新しい道を求めて

(63歳の旅立ちのときに)

 

未だに完成をみない、私のリタイア後の人生を生きる気持ちを述べてみた詩なのですが、冒頭にこれを掲げたのは、そのメインテーマである「少年のように」という生き方を実践されている方々に出会ったことを書きたかったからです。

私は、抵抗する手立ても無いままに、いわゆる高齢化世代の門を潜ってしまったのですが、その入口付近でドタバタしている時に、「くるま旅くらし」という生き方に巡り会ったのでした。しかし、くるま旅くらしというのは、所詮は手段であって、生き方そのものとしてはそれほど意味のあるものではないと言えそうです。大切なのは、くるま旅をしながら、どのような生き方をするかということでありましょう。

定年を迎える世代においては、退職後の人生をどのように、何をして過ごすかということはかなり難しい課題のように思います。あの世への迎えがやってくるまで、活き活きと生きてゆきたいと願うのは、皆同じことだと思うのですが、その具体的な方法というのは、そう簡単に見つかるものでもなさそうです。あれこれちょっかいを出してトライしてみても、三日坊主で終わることが多く、気がついてみれば怪しげな病に取り付かれ出していたなどということは世間に幾らでも転がっている話です。

今回の旅では、そのような小難しい理屈なんぞを吹き飛ばして、少年の様に毎日を嬉々として遊び、戯れ、動き回る二人の方の旅くらしを垣間見ることが出来ました。このお二人、Mさんご夫妻とFさんとご一緒したのは、釧路湿原の北部にある鶴居村のキャンプ場でした。そのときに感じたことを記して、今回の北海道でのくるま旅くらしの締めくくりにしたいと思います。

Mさんご夫妻は神戸在住の方で、今回の旅は98日間を予定されておられ、6月12日に自宅を出発されて、舞鶴港まで途中を楽しみながら14日にフェリーに乗り、同日夕刻に小樽に上陸した後は、北海道には8月25日まで滞在して移動しながらほぼ一周し、その後は函館もしくは大間からフェリーに乗って本州を南下して9月17日に帰宅予定とのことで、この間の詳細な日程スケジュールを作っておられるのでした。事前にそれをお送り頂き、拝見してびっくり仰天しました。私は殆ど日程などその日のその時にならないと決まらないというような旅の仕方なものですから、98日間もの毎日の行程を予め決めるなどということは到底思いつかないことなのです。いヤア、そのエネルギーに圧倒される思いでした。

Mさんは昨年喜寿の祝いをされたとお聞きしていますから、私よりもかなりの年配です。勿論くるま旅くらしの大先輩であり、北海道のみならず全国を巡ってお出でです。全く年齢を感じさせない、とても喜寿を過ぎた方などとは思えず、身体も心(=精神)も実にお若いのです。それは見た目の若さだけではなく、旅の中での暮らしぶりの随所に現れているのでした。

もう一人のFさんは、青森県五所川原市在住の方で、この方はもうMさんの大ファンなのです。詳しいいきさつは存じ上げませんが、とにかくMさんと一緒に旅をしていることそのものに無上の嬉しさを感じているというふうに見えるのです。Fさんは、Mさんが来道されて直ぐに一緒に何日間かの長旅をされて一旦自宅に戻られた後の再来で、私たちが鶴居のキャンプ場でMさんとお会いした翌日、本当はその日の夕方頃の到着だろうというMさんの予想を遙かに超えて、もう朝方には昨夜の苫小牧上陸の足で鶴居に到着されたのでした。1分1秒でも早くMさんと一緒に過ごしたいという思いの溢れた行動だと思います。

このお二人の少年コンビの活動は、私なんぞには想像も出来ないエネルギッシュなものなのです。Fさんは車の後ろにロープを裂いたようなふさふさしたものを括りつけており、何だろうと思ったら、車の中から身の丈近い大きさの、武者絵の描かれた和凧を引っ張り出されました。そのふさふさのロープのようなものは、その凧を揚げるときの尻尾なのだそうです。そしてその大凧は、武者絵も含めて全てFさんの手づくりなのでした。青森県といえばねぶた(ねぷたと呼びエリアもある)が有名ですが、五所川原のたちねぷたもその一つです。その本場で鍛えた武者絵の腕は本物だと思いました。Fさんは大凧を作り、それを大空に揚げて皆と一緒に楽しむというのが一つの趣味となっておられるようでしたが、その日は風がないため凧揚げが出来なかったは残念でした。

Mさんは、輪ゴムに引っ掛けて飛ばす紙飛行機を持参され、空に向って放っておられました。たちまち何人かの子どもたちが集まり、その滞空時間の長い行き先に目を輝かせていました。今回は1機しか持参しなかったようですが、いつもはたくさん作って持参し、子どもたちと一緒に遊ぶのだということです。お二人ともこのような周囲を巻き込んだ遊びがたまらなく嬉しいらしくて、それらを扱っている時の瞳はまさに少年のようであり、話の声もトーンも嬉々としているのです。

私はくるま旅には、一応野営の焚き火の用具などを持参するのですが、それを取り出し終わって片付けるのが面倒くさいものですから、今回は使ったのはたった1回だけでした。しかし、このお二人は野営派らしく、前夜のMさんとの一夜も炭を熾しての夕餉でしたが、Fさんも加わっての夜のパーティは焚き火を囲みながらのものとなりました。驚いたのは、私が昼寝をしている間に、お二人は近隣の山に出かけてゆき、倒木などを集められて来たのでした。それだけなら大して驚くほどのことでもないのですが、なんとFさんはチェンソー持参なのです。そして鉞(まさかり)も。これには驚きます。普通はアウトドア派でもせいぜい鋸や鉈(なた)か斧くらいだと思いますが、マサカリとは!いやあ、豪快です。お二人共実に嬉しそうなのです。これはもう少年そのものだなと思いました。目一杯工夫しながらくるま旅くらしの中の一日一日、その日その時を楽しんでおられるのでした。

この他にも、この少年たちの遊びの楽しさを挙げれば幾つもあるのですが、紹介するのはこれだけに止めることにします。この二人を支えているのが奥様で、こちらの方はマイペースで料理に取り組まれているのです。遊びを最初に盛り立てるのも、最後に盛り上げるのも、食べ物であり、肴です。もし奥様の料理が無かったら、二人の遊びはそれだけで終ってしまうことでしょう。遊びを膨らまし、次の遊びへの新鮮な活力を生み出しているのが、もしかしたら奥様の料理なのかも知れません。その夜、ご一緒しながら遊びの様々なエピソードなどを聞いて、これこそが活き活きと生きる姿そのものなのだなと思ったのでした。

遊びながらもMさんは毎日仲間との無線交信を絶やさず、旅の諸データの記録を絶やすことがありません。私も旅が終ると日記として記録をまとめていますが、Mさんの記録は、実に科学的、客観的です。主な出来事だけではなく、その日の数値に換えて捉えられるデータの殆どを把握されており、頻度、コストなどかなりの項目が取り上げています。そのデータは、旅の質を客観的に捉える上で、貴重な資料となると思いました。一昨日その記録が届きましたが、それを拝見しながら、Mさんは科学者でもおありなのだなと思いました。データの記録作成も、楽しみながら取り組まれているに違いありません。

 私といえば、少年の様に、などといいながら少しもそれらしいことをしておらず、このお二人の活動の様子を垣間見て、そこに我が理想の体現者を発見して驚き、憧れ、新たな決意を固めたのでした。これからの人生は、このような活き活きとした喜びに満たされたものとしなければならない、と。

 

今月も今日で終わりです。今回の北海道行に係わる話もほぼ出尽くしたようですので、今日で終わりにすることにします。明日からは当分の間、気まぐれな宵宵妄話です。

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足湯

2009-09-29 04:43:00 | くるま旅くらしの話

足湯というのがあります。温泉の湯の中に足を浸してその感触を楽しむという入浴法です。最近はその施設が増えているようで、温泉ではなくても、なにやら薬品(?)のようなものを入れて、有料で営業している所もあるようです。

私は温泉ファンですが、今まであまり足湯というのは入ったことがありません。殆ど、あ、ここにも足湯があるな、とその存在を確認するくらいでした。というのも、足湯に入るには、靴下を脱がなければなりませんから、それがめんどくさいのです。脱ぐということは濡れてしまった足を拭いてもう一度靴下を履かなければならず、汗ばんだ足には履きにくいのです。それに多くの足湯は、朝方にお湯を入れ、夕方にはそれを抜くという方式であり、何となく衛生上の問題があるようで気乗りもしません。自分自身、それほど清潔感のある人間ではないと思っていますが、例えば酷い水虫持ちの人が少し前に入って出て行ったかも知れず、もしかしてその名残りのおまけが知らず新しい宿主を狙って待っているかも知れず、そんなことを考えてしまうと、何となく気が引けてしまうのです。ということで、足湯というのは、よほどに好きな人が(もしくは鈍感な人が)一切を無視して小さな温泉気分を味わう場所と思っている程度で、興味・関心は殆ど無かったのでした。

そのような私が連日入りたいと思う足湯が見つかったのです。見つかったといっても、実は以前から知ってはいたのですが、入らなかったのです。それが気まぐれに入ってみて、これはなかなか良いぞ!と思ったのでした。今日はその話です。

   

川湯温泉のあし湯。左側の白っぽい岩の所が源泉の湧出口となっている。

北海道弟子屈町は幾つもの温泉に恵まれていますが、それらの中では摩周温泉と川湯温泉が有名です。その内の川湯温泉は、昭和の名横綱大鵬の出身地で、ここは屈斜路湖の南東部の湖畔近くに位置しています。屈斜路湖は、その湖畔の砂を掘れば温泉が湧き出して、マイ温泉が作れるというその名も砂湯という場所もあり、和琴半島では地熱が小動物の命を冬の寒さから守って小さなコウロギが棲息して居たり、夏にはミンミンゼミが鳴く(北海道ではここと函館のどこかの2箇所だけで、天然記念物に指定されている)という不思議な場所があったりしています。また、川湯温泉の直ぐ裏には現役の活火山の硫黄山(512m)があり、所々ガスが噴出し、湯煙を上げていて不気味です。要するにこのエリア全体が火山活動の表面化している場所なのだということだと思います。

   

あし湯源泉の湧出口の様子。ここから24時間絶え間なくお湯が流れ出てくる。源泉は地下数メートルというから、まさに直ぐ下が貯湯タンクの感じがする。

その川湯温泉のシンボルの一つとなっているのが、町の中心街にある足湯なのです。この足湯は源泉掛け流しであり、足を浸している直ぐ傍に源泉があって、そこから絶えず44℃のお湯が流れ出しています。川湯温泉の泉質は、低張性酸性高温泉(酸性明ばん緑はん泉)というものだそうですが、あまり聞いたことのない成分で、さっぱりわかりません。でも明ばんが入っているということで、温泉が流れている川底は緑色に染まっています。

   

あし湯付近の温泉が流れ出ている河床は緑色に染まっている。このあし湯だけでなく、川湯温泉では温泉のお湯を流した跡は、全てこの色になっている。

近くの駐車場に泊まって、早朝散歩のついでに面白半分にこの足湯に入ってみることにしたのでした。7時前の時間帯では、わざわざ足湯に入りに来る人もなく、貸切り状態でした。恐る恐る足を入れますと、これが熱い!のです。馴れない最初は、なるべく源泉から遠い場所を選んでの入浴(?)となりました。次第に馴れてくると熱さはさほど気にならなくなり、今度は逆に源泉に近いほうに移動しての入浴となりました。途中から来られた方もいるのですが、皆さん熱がって直ぐに出て行ってしまいます。私は我慢して15分ほど入っていたでしょうか。すると、足だけではなく次第に全身が汗ばんで来たのでした。

足湯などというものは、温泉効果を云々するなどというレベルの入浴ではないだろうとバカにしていたのですが、どうしてどうして、汗ばんでくるまで入っていると、単に足だけではなく体中の血液その他の循環が促進されて来ているようで、体が活性化されてくるのを感じ、やがて足を拭いて靴を履く頃には、気分がスッキリしてくるのです。

なるほど、これが足湯の本当の効果なのだなとその時初めて気がつきました。温泉や風呂への入り方として、半身浴(温めのお湯に長時間ゆっくり入るという入浴法)が効果があるといわれますが、足湯というのは更にその半分にも満たない身体の一部を浸すだけなのですが、同じような効果が期待できるような気がしました。お湯の温度が43℃くらいでかなり熱めだったというのも効いているのかもしれません。とにかく、新しい温泉の入り方を発見したような気分になり、大いに満足したのでした。

一度そう思い込むと、もう一度というのが私の軽薄なところで、翌日も早速入りに行きました。掛け流しなので、水虫君たちが何時までも1箇所に留まって獲物を狙うなどということは不可能だと思います。それに明ばんの緑色も彼らの存在を許さないのではないかと、妙に安心感を覚えたのでした。20分ほど入っていると、足は真っ赤になりますが、そのあとの快適な気分は、無料なのにこれだけの恩恵に浴せるとはという望外の満足感と相俟って、心身共に最高の気分となれるのでした。

今回は2回しか入るチャンスが無かったのですが、これからは来訪の折にはこの素晴らしい入浴チャンスを逃さないようにしたいと思っています。

   

川湯温泉生成の碑。足湯の下の方に川湯温泉の生成を讃える碑がある。そこには、「この清く熱い流れは 天の啓示 この清く美しい たたずまいは 天の理想 天はあまねく 愛をわかったか この流れを創った」と書かれていた。地元に住む人々の温泉に対する感謝の気持ちが籠められていると思った。

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久しぶりの摩周湖

2009-09-28 03:26:12 | くるま旅くらしの話

3年ぶりくらいでしょうか、毎年の北海道行なのですが、しばらく摩周湖を訪ねていませんでした。霧の摩周湖とよく言われ、事実気象条件が厳しい所ですが、私どもはずっと好天に恵まれ、わざわざ霧の摩周湖を見たいと曇った日を選んで訪ねたこともありました。しかし、いざ行って見ますと霧の中では全く何も見えず、まさに五里夢中であって、歌の文句のような気持ちにはとてもなれないと思いました。霧が酷いというのは寒さも酷いということであり、展望台まで行っては見たものの、寒さに震え上がってたちまち車に跳んで戻ると言った状況でした。霧の摩周湖は、ロマンチックな気分からは遠い情景なのを思い知らされたのでした。

さて、今回は近くの900草原で天気の具合を見計らっての訪問でしたから、霧とは無関係のいつもの神秘的な摩周湖を見ることが出来ました。そのときの感想をちょっと述べつつ、摩周湖を紹介したいと思います。

車での来訪には、摩周湖には3つのコースがあります。一つは弟子屈町の方から道道52号線を登って第1展望台に行くコース、もう一つは川湯の方から同じ道道52号線を第3展望台に向うコース、そしてもう3つ目は、斜里町側から道道150号線で裏摩周展望台へ行くコースです。前記の二つは同じ道を双方から行くということで、結果的には同じことなのですが、違いといえば第一展望台の駐車場は有料なのに対して第3展望台の方は無料ということです。勿論見える景色は異なります。その展望の是非は見る人次第です。これに対して裏摩周展望台は、独立しており、やや展望の条件が劣る感じがします。

今回は弟子屈町側から登って、第1展望台をパスして第3展望台へ行ったのですが、写真撮影上ここからでは斜里岳を正面に捉えた構図が成り立たないという相棒の要請で、第1展望台へももう一度戻っての訪問となったのでした。ケチるわけではない(といいながらケチっていますが)たかがチョコッと景色を見るだけなのに一々お金を払うというのは、どうも気に入らないという貧しき根性があるものですから、この頃は第1展望台へはご無沙汰だったのです。しかし必要であれば、これはもうやむを得ません。

摩周湖というのは、本当に神秘的な湖です。アイヌの人たちならずとも、恐怖のような畏敬のような、心を震わす何かがあるように思います。一体「摩周」というのはどういう意味なのか、山田地名辞典を見ましたが、解からない、見当もつかない、それ故神秘的な名前でもあると書かれていました。その成り立ちから言えば、火山活動の末の陥没の後に水が溜まった、いわゆるカルデラ湖ということなのでしょうが、そのような理屈を通り越しての神秘さを感じます。

この湖の水を全部汲み出すと、どうなるかを想像してみました。恐らく中央近くにパラボラアンテナの芯のように尖った山(カムイッシュ島)があり、その周辺は深く落ち込んだ谷になっているのでしょう。その谷を作っているのが、摩周岳(カムイヌプリ)をはじめとする切り立った崖のような山であり、その一部にそれぞれの展望台があるのだと思います。流れ入る水も、流れ出る水もないというのもこの湖の特徴だと思います。横腹にトンネルを掘ったら、一気にその水は流れ出て、付近を大洪水に陥れるのかも知れません。良くない想像です。

透明度は世界一だったとか。今は違っているようですが、その理由が何なのかが気になります。環境汚染だとしたら、誰がどの様に汚染の原因を作っているのかも気になるところです。もし見物に来る人の所為だとしたら、私はもう訪ねることを止めにしたいと思います。

いろいろなことを思い浮かべながら、何枚もの写真を撮りました。その中から説明用に幾つかを選びました。

     

第3展望台からの景観。切り立った崖には樹木が繁って穏やかに見えるが、実際手摺に縋って下を覗き込むと、魂までが吸い込まれてゆくような錯覚に襲われる。

      

第1展望台からの景観。正面彼方の山が斜里岳。中央の黒っぽい小さな島がカムイッシュ島。大きな景観である。

   

第1展望台から摩周岳(カムイヌプリ)を望む。このアングルがカメラを構える人の標準的なものだと思う。サイズダウンしているので、切り立った断崖などが鮮明に見えないのが残念。

   

第3展望台付近から見た硫黄山。摩周湖と屈斜路湖の間に現役の煙をあげる活火山の硫黄岳がある。この辺一帯は、神秘的であると同時に不気味でもある。

 

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野付半島(2)原生花園の花たち

2009-09-28 00:32:14 | くるま旅くらしの話

昨日は暗い話をしましたので、今日は明るい話をすることにします。昨日のトドワラが地獄であれば、今日の原生花園は天国といえます。しかもこの両者は隣り合っているのです。原生花園の細い散策の道を歩いてゆくと、その先端がトドワラとなっているのですが、原生花園の中は野草の天国で、数多くの天使たちがその美しさをそれぞれの形で表わし、競っているようでした。それらの中から、幾つかを紹介したいと思います。

*野付半島原生花園風景

    

ネイチャーセンターからトドワラに至る3kmほどのエリアは、両端を干潟のような海に囲まれた原野が広がっており、それを原生花園と呼んでいます。この原野の中には、様々の野草や背丈の低い潅木などが密集しており、そこには季節によって色とりどりの花が咲き乱れるのです。 

*チシマフウロ(千島風露)

   

北海道ではどこにでも見られる愛らしい花です。フウロと呼ばれる花には、何種類かがありますが、このチシマフウロはそれらの花の中でも一番身近に見られる正統派のフウロだと思います。最近では守谷の辺りでもアメリカフウロと呼ばれる外来種を多く見かけるようになりましたが、それに比べると断然の風情があります。

フウロとは、風露と書き、この花の持つイメージにぴったりの和名だと思います。今回の野付では、既に開花の最盛期を過ぎており、数は少なかったですが、その美しさは変わらないなと思いました。 

*ナミキソウ(浪来草)

 

草丈は30cmくらいで、薄紫の唇形の花をつけたその姿は楚々たるものですが、良く見るとある種の濃艶さのようなものも感ずるのです。唇形の花の殆どは、シソ(紫蘇)科の植物のようです。このナミキソウもシソ科に属しています。シソの花を見たことがありますか?シソの花も虫眼鏡で見ると、立派な唇状花なのが判ります。タツナミソウなどはこのナミキソウに花の形が良く似ていますが、勿論シソ科です。この両者に共通している「ナミ」というのは、その花の形が浮世絵などに描かれた浪の形に似ているところから付けられたようです。

*センダイハギ(千代萩)

 

萩という名が付いていますが、勿論萩とは別の種類の植物です。萩は確か草ではなく、木の仲間ではなかったかと思います。センダイハギはマメ科の植物で、黄色の花を咲かせ、花が終ると豆の入った莢(さや)を下げるのだと思いますが、まだそれを確認したことはありません。図鑑では春の野草の部に入っているようですが、野付の原生花園では、まだ結構多くの花数が見られました。

*カワラマツバ(河原松葉)

    

この野草も原生花園には多く見られるものです。地味な存在で、黄色い小さな花の固まりは、ちょっと目にはそれが花なのか判りにくい感じがします。名前のカワラマツバは、河原のような場所にあって、その葉が細く尖っているような形で、松の葉に似ているところから名付けられたようです。

*ハマナシ(浜梨)

   

海道のハマナシは有名です。ハマナスと呼ぶこともあるようです。ハマナシも野草ではなく潅木のようで、野草図鑑には掲載されていません。野付を訪れた8月の初めは、もう開花期は殆ど終わりに近づいていて、青い実や既に色づいた実をつけているものもありました。花も綺麗ですが、その実の朱色も美しいと思います。ハマナシの実でジャムを作ることができると聞いていますが、今度長期滞在するチャンスがあった時には、相棒に是非作ってもらおうかなと思っています。

*ノハナショウブ(野花菖蒲)

    

この花がアヤメなのか、それともノハナショウブなのか判別に迷いました。アヤメよりも花びらの黄色い部分が小さくてスッキリしているので、これはノハナショウブだろうと判定しました。もしかしたら間違いかも知れません。アヤメの仲間はみな似たような花が多くて、その判別は難しく、時々あまり神経質にならずに皆アヤメでいいんじゃないかなどと思ったりします。根室半島や霧多布あたりの湿原一体には、ノハナショウブやアヤメの大群落があり、初夏に訪れると一面が紫色に染め上げられた原野を見て感動します。今回の野付半島では、咲き遅れたのか、奇跡的に残って花を咲かせていた数本を見かけただけでした。

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野付半島(1)トドワラの怪

2009-09-27 00:29:24 | くるま旅くらしの話

野付半島をご存知でしょうか。世の中に半島と名の付く場所は多いですが、野付半島は半島というのを実感できる不思議な場所です。半島の定義をご存知でしょうか。半分島という書き方は良く考えてみると、面白いと思います。半島というのは、3方位を海(水)に囲まれている地域をいい、4方位を水に接しているのを島というのだそうです。そういう定義から考えると、半島というのは半分島になりかけている地域とも言えそうですが、たった1方位が海に面していないというのは、決定的に島と違うような気がするのですが、ま、あまり理屈は言わないことにします。

   

野付半島の碑。昭和61年、ネイチャーセンターの脇に建立された。先人のご苦労などが記されている。右手奥に尾岱沼港がある。

野付半島は、北海道根室市の北部に隣接する別海町に属する、海老の髭のような細長い地形のエリアをいいます。ここは我が国最大の砂嘴(さし)で、全長が28kmもあります。先に半島というのを実感できるといいましたのは、この半島の狭いところは幅が50mにも達せず、道の両側が海なのです。太平洋に向って突き出た陸地の左側の彼方には水晶島や国後島が望見出来ますし、右側には別海町の尾岱沼港が見えます。両側に海が迫っている実に頼りなく、心細い半島なのです。

   

野付半島の案内板。赤線の部分が舗装道となっている。実に不思議な形の半島である。

砂嘴というのをご存知でしょうか。フリー百科辞典によれば、砂嘴と言うのは、沿岸流によって運ばれた漂砂が静水域で堆積して形成される嘴(くちばし)形の地形のことをいうと説明されています。簡単に言えば、海の砂が波に流れ寄せられて溜まり、それが何時しか陸地と化した場所ということでしょうか。このような場所は、日本では三保の松原(静岡市清水区)や住吉浜(大分県杵築市)などが有名です。

そしてこの砂嘴が更に発達して対岸等の陸地に接近している場所を砂洲(さす)と呼んでいます。更に砂洲が発達して陸とつながったのを陸繫(りくけい)砂洲といい、砂州によって繋がった島を陸繋島と呼んでいますこのように地形の成り立ちを海の運動とのつながりで見て行くと、いろいろなことが解かってきて興味津々です。この頃は、旅も観光案内のレベルから一歩突っ込んでみたいなと思っています。今のところ砂嘴を調べていて、此処まで解りかけてきました。ま、知ったかぶりをするのはこのくらいにしたいと思います。

その野付半島には、トドワラという不気味なエリアがあります。そこは、野付半島を20kmほど行った所にあるネイチャーセンターから更に20分ほど歩いた場所なのですが、最初は一体何のことなのだろうと見当もつきませんでした。そこへ行ってみると、白骨化したトドマツ(椴松)が海中というか、土中に散乱していました。樹木ですから、骨ではないのですが、真っ白に近い、海水に晒されたその残骸は、在りし日の生い茂ったトドマツの姿からは遙かに遠い残酷感のある景観でした。

   

白骨化して横たわるトドマツの残骸。恰も恐竜の骨の如き感じがする。

本来なら砂嘴というのはまだ発達の途中にあるのだと思いますから、その砂嘴の地の上に生え育ったトドマツが枯死するなどというのは考えにくい感じがしますが、どうやらこのトドマツたちは、海と陸の異変に巻き込まれたらしく、樹齢100年くらいの時に海面が上昇したのか、それとも陸地が沈下したのかどちらなのかはわかりませんが、海水に浸って生きられなくなったということです。樹齢100年といえば、それほど遠い昔ではなく、江戸時代あたりではなかったかと、これは私の勝手な推測ですが、何らかの異変がこの地で起こったのではないかと思います。尾岱沼あたりでは今でも掘れば幾らでも温泉が出るという話を地元の人から聞いたことがありますから、このあたりの地下は火山活動が活発なのかも知れません。恐い話です。白骨化したトドマツたちは、大自然の恐怖を今に残して我々に訴えているような気がしました。

   

立ったまま枯死しているトドマツの林。あと何年立っていられるのか、その数は年々少なくなっている。

トドワラからは10kmほど手前に、ナナワラという場所があります。ナナワラというのは、ナラ(楢)の木の林が同じように立ち枯れしている原っぱ、という意味だと思いますが、こちらの方には行ったことはありません。駐車場から望見した感じでは、トドワラのように白骨化状ではなく、付近に緑も多いようで、鹿なども見ることが出来ますから、まだ救われた状態のようです。

我々が現在、興味本位で訪れる観光地となっていますが、枯死して白骨化したトドマツ君たちの姿を見ながら、改めて大自然のその気まぐれに翻弄される生き物の無力さを思ったのでした。もしそれが大自然の気まぐれなどではなく、温暖化や環境汚染などによる人間に対する怒りであったとしたら、トドマツやミズナラ君たちの犠牲などでは済まされなくなるのではないかと、かすかな恐怖に脅えたのでした。

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後退するくるま旅の環境

2009-09-26 05:25:02 | くるま旅くらしの話

今年の北海道の旅で改めて思ったのは、くるま旅の環境が更に一歩後退したのではないかということです。リタイア後の人生を活き活きと生きるための手だてとして、くるま旅くらしの持つ意義を大いに強調したい私としては、真に残念なことだと思っています。

くるま旅の環境とは何かといえば、それは基本的には在宅の時と同じ暮らしの条件であり、いわゆるライフラインが確保されているかということが基本になると思います。ライフラインというのも、考え方によってその中身には違いがあるのかもしれませんが、私としては、生命と暮らしを支えるために不可欠な要件というふうに捉えます。具体的には、①水、②エネルギー(ガス、電気)、③食糧、④情報(電話、ラジオ、TV等)⑤トイレ、⑥ゴミ処理等が考えられると思います。⑤と⑥は暮らしの結果としての負の部分ですが、この対応ができなくなると暮らしは極めて不安定となるということから、私はライフラインに加えて良いのだと思っています。地震や台風などの大災害時に、どのようなことで困るかというのを思えば、その必要性は明白ではないかと思います。

さて、これらの中身の現実を見てみますと、くるま旅の中で特に問題があるものとしては、①水②電気⑥ゴミ処理が挙げられると思います。

①の水については、日本国の中では有料で水を汲むという施設の存在は聞いたことがなく、公共施設においては全て無料であるというのが現状かと思います。それ故なのか、これを利用する側には安易感があり、マナーの欠如からその管理サイドを著しく困惑させるような行為を為す者や、或いは利用者が急激に増えることによって想定を超える使用量となって管理サイドのコスト負担の限界を超えるというような現象が生まれて来ています。くるま旅においては、飲料水は購入して確保することは出来ても、洗いものとなれば水道水等を利用しなければならず、相当に工夫しても洗いもの無しというわけにはゆきません。したがって窮すればトイレの水や公園の水などを利用するということになります。くるま旅の実践者が増加することによって、今までさほど問題のなかったエリアでも、次第に問題が表面化し、何らかの対策を講じざるを得ないという状況になりつつあるように思います。

②の電気については、家庭内においては電気の供給が断たれることはまさに生命線を断たれるに等しいのですが、くるま旅においては、それは車の装備の問題であって、それが叶わなければ叶わないなりの対応をすれば良い、というのが常識となっていると思います。しかし、例えば、環境問題が姦しい昨今ですが、車が自車で電気を充足するためには、発電機やエンジンを掛け回すことが不可欠であり、これは排気ガスのみではなく騒音に関しても近隣に多大な迷惑をかけることとなります。ソーラーを取り付けることによって、ある程度は電気不足をカバーすることは出来ますが、これには限界があり、全てをまかなうことは不可能です。有料の簡易電源装置があれば、車の種類の如何に拘らずこの問題はかなり改善されるはずなのですが、未だそのような本格的な取り組みなされているのを聞いたことがありません。これから電気自動車等が出現すれば自ずと改善されてゆくのかも知れませんが、現実は旅車の電気に関しては、ビルダーの思いと車のユーザーの現実には大きなギャップがあり、悩み多い状況にあります。

③のゴミ処理に関しては、一部前向きな検討がなされているのは心強いのですが、総じて見れば後ろ向きの傾向の方が強くなっている感じがします。今回の旅でも今まであった場所からゴミ場所が撤去されたのを散見しましたし、新しい道の駅などでは、高らかにゴミ箱がないことを宣言し、全て各自が持ち去ることを求めています。生産・販売と消費との関係は、全く別のことだと考えるのは、個々の立場ではそうかも知れませんが、トータルで見れば、生産とはゴミの源を作ることであり、販売とはゴミの源を消費者に売ることを意味しているのです。もし本当に消費者が王様なのなら、生産・販売者は王様のためにもっと何かを考えるべきではないかと思います。ま、そのような狭隘な話ではなく、地球環境問題を正視するならば、私はゴミの問題は国家的見地からその処理についての社会システムとしてのあり方を明確に規定すべきだと思います。分別などについても地方自治体に任せるのではなく、環境問題に照らしてそのあり方を国が決め、罰則等も厳しく規制して守り・守らせることを明示すべきと思うのです。環境問題を考える上で、ゴミ処理はキーとなるのではないかと思っています。

以上、3つの事柄について、くるま旅をしている側からの視点で、簡単に現状の問題点等に触れましたが、これへの対応としては、いずれの項目においても相当に後ろ向きであり、年を追う毎に状況は悪化している感じがします。公共施設からのゴミ箱は撤去し、公園の水飲み場の洗い用のコックは取り外して使えないように工夫し、、道の駅などでは一切の水汲み施設はつくらず、等々の施策は、その殆どの管理主体が財政難に苦しむ市町村の地方自治体であり、利用者のマナーの悪さとも相俟って、余計な費用負担を増加させるわけにはゆかないという事情があるのかもしれません。それを考えると防御施策はやむを得ないのかも知れないという気にもなるのですが、しかしそれでは世の中の進展に逆行することになってしまいます。

私は、くるま旅というのは、車社会が生み出した新しい旅のスタイルであり、新しい文化なのではないかと思っています。車社会が到来してもうどれほど時間が経ったのでしょうか。私が子供の頃は、自動車を個人が持つというのは、限られた人びとだけでした。それが当たり前になり出したのは、40年くらい前からではなかったかと思います。その時代にはくるま旅の発想など殆どありませんでした。仮にそうしたいと願っても、働かねばならず、くるま旅をしている時間も余裕もなかったのです。それは基本的に今でも変わってはいないと思います。現役世代(仕事をしながら世の中を動かし・動かされている世代)でのくるま旅は、行き先も期間も限定されるからです。くるま旅が可能なのは、現役をリタイアした世代、もっと明確に言えば、高齢化の入口、もしくは高齢化の中にある人びとだと思うのです。40年前はそれらの世代の人々は、くるま旅という発想を持つことが出来なかったといえると思います。しかし、40年経った今は、暮らしの中で車を使うのが当たり前の人たちが高齢化の入口に立ち、高齢化を迎えています。これらの人びとが、車を使って旅をしようと考えるのは当然のことだと思います。特にここに来て、いわゆる団塊の世代と呼ばれる人びとが大量にリタイアする時期を迎え、ようやく旅の出来る時間を獲得して、長年の夢を実現しようとするのは、これ又当然のことではないでしょうか。私は、そのような時代認識から、くるま旅は新しい旅のスタイルであり、これから新しい旅の文化が創られてゆくものなのだと思っています。

ところが、世の中はどういうわけなのか、それを認知してはいません。依然としてくるま旅などというのは、物好きな人の気まぐれな遊びに過ぎないくらいの考え方が普通で、旅の文化などとんでもないという捉え方です。世の中全体が不況に喘いでいるのに、リッチな年金暮らしの者がつべこべ贅沢なことを言うなど何ごとか!くらいの認識かも知れません。もしそうだとしたら、今まで汗水たらして働いてきてようやく夢の実現に辿り着いた人たちは、一体何に報われることになるのでしょうか。年金暮らしの範囲の中でのくるま旅が許されない、などというバカげた話はないと思います。当然、そのようなことにお構い無しに、リタイア後の人たちはくるま旅の実現を目指すのだと思います。これは、一つの歴史の必然ではないでしょうか。この流れを止めることは不可能ではないかと思うのです。

世の中全体の旅の中では、くるま旅は真にマイナーの存在であって、旅といえば昔からの個人旅行やツアーのような、車だけに依存しないスタイルのものしか認知せず、旅車などは胡散臭さの中に捉えられていますし、キャンプ場などにおいてもわずか2~3日間を過す客のためのオートキャンプ施設だけしか考えておらず、長期滞在の旅車を受け入れる発想は殆ど生まれてはいません。

時代を読めば、そこにビジネスチャンスがしっかり潜んでいるのに、それをものにしようという新たなビジネスモデルは一つも生まれていないように思います。車社会というものの捉え方が観念的であり、旧態依然であるように思うのです。

このことはやがて様々な問題を生起するに違いないと思います。増え続けるくるま旅の志願者は、受け入れる環境がないままならば、社会的な迷惑と思われる行為を加速化させるに違いないと思うからです。マナーの問題が重視されていますが、今の日本国では、人びとの公共心や道徳心は注意喚起すれば守られるというようなレベルには無いと思えるのです。厳守が当然と考えている人はホンのわずかで、大半はそれが悪いことと知っていても、状況によってはちょっとしたことくらいならやっても構わないと思っているでしょうし、最初からマナーなど無視して行為に及ぶ人間は、厳守当然人間よりも多いのではないでしょうか。

このようなことを考える時必要なのは、くるま旅の環境整備をすることなのだと思うのです。その前提には、くるま旅は車社会が生み出す新しい旅のスタイルであり、それは歴史の必然なのだという認識が必要です。これがないかぎり、問題の本質的な解決にはつながらないと思います。環境整備には、コストも掛かるし、いろいろな切り口があると思いますが、基本的にはくるま旅のコストは旅をする者が負担するという発想が必要だと考えます。100%負担を求めるかは別として、全くタダで旅をするというのはムシが良過ぎるというものでしょう。

今年の北海道の旅では、町の公園などの駐車場に、やたらに押しかけてくる旅車を持て余し、水飲み場の水栓を取り外して埋めてしまったり、公園や展望所のゴミ箱を撤去してしまったりしている公共の場所がかなり増えたように思いました。又スーパーやホームセンターなどでもゴミは一切お断りというのが増えています。ちゃんと受け入れているのはコンビニくらいのものですが、これとて、今後大量のゴミを受け入れるわけにはゆかないでしょうから、守りの体勢に切り替えた時には、たちまちゴミ箱は消え去るに違いありません。

どんどん悪化するくるま旅の環境に、ため息をつきたい思いで家に戻ったのでした。まとまらない話ですが、環境づくりへの話がまとまって動き出す日が来るのを夢見ています。

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くるま旅くらしの限界への挑戦

2009-09-25 04:18:27 | くるま旅くらしの話

くるま旅くらしの限界といえば、少し変な感じがしますが、この意味はくるま旅くらしが可能な環境にあって、何としても旅をしたいのに、それがどうしても出来なくなる、それは一体どういう時、どういう状況なのだろうかということです。そして、ここでの対象となるのは、現役世代の人たちではなく、リタイア後のくるま旅くらしをこよなく愛してきた人なのです。

私がくるま旅くらしを始めた最初の頃は、その限界はせいぜい70歳くらいだろうと考えていました。70を過ぎれば身体的にはいろいろ支障が出てくるだろうし、車を使うことから、安全運転上も問題が出てくるのではないかと思ったからです。70歳までくるま旅くらしを楽しんだ後は、菜園でもやりながら、好きな本を読み、時にエッセイなどを書いたりしながら、気楽にマイペースで残りの人生を楽しめば良いと考えていました。

ところが旅をしてみると、私よりも遙かに高齢の方が、益々お元気でくるま旅くらしを楽しんでおられるのを知り、驚いたのです。存じ上げている最高齢の方は90歳近くにもなっておられるのです。しかも老いなどとは無関係な自在の暮らしぶりなのです。

私も来年は古稀を迎えるわけですが、今は、くるま旅くらしから引退するなんてとても考えられません。それどころか益々その可能性に魅せられており、これからどのような人生が展開してゆくのか、何が起こるのか、せめてあと10年以上、願わくば米寿までは行きたいものだと考えています。

勿論ただ願うだけでは、目標は実現すべくも無く。何よりも健康であることが旅の必須条件であり、これを保持しつつ追いかけるものを探しているところです。しかしいつかはその限界がやってくるに違いなく、そのことに思いを馳せる時、或るくるま旅くらしの大先輩の生き方が大きな力となります。今、その大先輩はくるま旅くらしの限界に挑戦されておられるように思うのです。

今回の旅で、美深町(名寄市北部隣接)のキャンプ場でお会いしたWさんご夫妻は、お二人の年齢を合わせて170歳近くになろうとされています。ご主人が55歳で定年を迎える少し前に、身体の弱かった奥様のことも考えられて仕事を退き、それからあとは旅車を駆って全国を旅することを始められ、やがて毎年夏は北海道で過されるようになりました。その過し方も、次第に定点的なものに変化し、現在では決めた場所で4~5ヶ月を過すようになっておられます。くるま旅くらしを始められてからもう25年にもなるというのですから、まさに先達のお一人であり、大先輩です。この間、奥様も元気になられて、お二人で旅を楽しんで来られたのですが、70代の後半からは、奥様は膝を痛められ歩くのが次第に難しくなり現在は車椅子に頼る生活、そしてご主人は数年前まではその奥様を、車椅子を押しながら面倒を見ておられたのですが、その後前立腺がんを克服されたものの、今度は脊椎に異常を来たし腰が曲がって正立が出来ない状態となってしまわれたのです。

Wさんご夫妻は四国の松山にお住まいで、北海道まではかなりの距離があるのですが、長距離フェリーを利用することは少なく、今年も時間をかけながら陸を走って、大間(青森県)から北海道に上がったというお話でした。何故、フェリーではないのかといえば、お二人とも満身創痍の状態であり、バイキング主体のフェリーの食事は、自分でおかずやご飯を取るのが困難で、他人に頼めば自分の好きなものを好きな量確保するのがなかなか出来ず、困惑することが多いからだとのことです。そして食堂までの往復が大変なのだとも話しておられました。

このような状況は、昨年もお会いしてある程度承知していましたから、今年はどうなのかなと少なからず心配していたのですが、北海道からのお電話を頂戴した時は、思わずホッと胸を撫で下ろしたのでした。常人ではなかなか出来ない状況で旅をなさっておられると思います。いつもは別海町のキャンプ場に腰を据えて長期間滞在されるのですが、今年は近くの温泉施設が休業となったため、電源があり温泉施設も備わっている美深のオートキャンプ場を拠点として過しておられたのでした。

ご挨拶に参上した時には、隣近くのサイトに車を留め、1年ぶりの歓談に時を忘れて過したのですが、お元気とはいえ、ご主人は脊椎の負担を軽くするためちょっとの移動も自転車を利用し、奥様は杖に縋っての車からの出入りで、真に大変だなと思いました。しかし、ご主人は新聞を読み、文芸春秋誌を傍らに置き、世情には広さだけではなく深さを備えた理解を持ち、奥様は絵手紙などに情熱を失わず、その生き方はいささかも力を失っていないようにお見受けしました。ことばの端々には、「来年は来られるかどうか分らない」などと時々弱気のセリフがありましたが、それは弱気ではなく本心なのかも知れません。生きることに必死の思いをくるま旅に賭けておられるというのが良く分り、胸を打たれたのでした。

その姿を見て、世の中の人たちはいろいろなコメントをするのだと思います。恐らく、その大半はそんな危険な状態で旅をしてはならないという前提での批判ではないかと思います。もし何かがあったら、どうするのか、周囲に迷惑をかけるのではないか。車の運転は本当に大丈夫なのか。家族は見過ごしていて良いものなのか。等々の話です。皆一理も二理もあると思います。私自身にもそのような心配がないとは言えません。

しかし、私はWさんご夫妻のこの姿を良しとします。美しいと思います。くるま旅くらしの鑑のように思うのです。ご主人は「老老介護」をしながらのくるま旅くらしだと、冗談半分におっしゃっておられましたが、家の中に閉じこもっての二人の生活ではない、風の新鮮さがそこには吹いています。それがお二人の元気を奮い立たせているのではないかと思うのです。

私はお二人が疑いも無く、くるま旅くらしの限界に挑戦されているのだと思っています。凄いエネルギーだと思います。数年前から旅先では家事の一切をご主人がこなし、動けない奥様の面倒を見ながら、ご自分自身も病を乗り越え、今の生き方に悔いを残していないというのは、滅多に出来ることではありません。とても賢しらに批判するなど出来ません。それどころか、やがては我が身にやってくるであろう、同じような厳しい状況を思う時、Wさんの限界への挑戦は大きな励みとなるに違いありません。

高齢化社会の問題がいろいろ取り沙汰されていますが、その核心は高齢化の中にある本人が、如何にして活き活きと生きるかにあると私は思っています。生ける屍であってはならないと思います。そうならないためにも、くるま旅くらし限界への挑戦は優れた生き方なのだと思っています。

Wさんご夫妻に、改めて賞讃と激励のエールを送りたいと思います。そして祈願します。どうぞお元気で来年も再会が叶いますように。

   

美深のオートキャンプ場で、Wさんご夫妻に見送られて出発。Wさんは6月からここにお出でで、そのあと9月には別海に移動された。お帰りは10月になってからだという。鉄人である。 

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旅の記録完成

2009-09-24 00:22:57 | くるま旅くらしの話

北海道の旅から戻って、一番気になるのは、旅の記録を作成することです。旅の記録というのは、毎々の旅の様子を冊子にまとめて残すという仕事なのですが、これを始めてからもう6年以上が過ぎ、いつの間にか冊数も20冊近くになりました。1週間以上の旅をした場合にそのようなまとめ方をしていますから、多分記録を作り始めてからは、もう20回ほどの比較的長い日数の旅をしたことになるのだと思います。

なぜ、このようなめんどくさいことを始めたのかといえば、それは勿論旅の3つのフェーズ、前楽、現楽、後楽の内の最後の後楽のためです。記録を残しておけば、どんなに時間が経っても、その旅の様子をありありと思い起こすことができ、何度でもそのときの感激や感動に浸ることが出来るからです。そして、記録は自分のためだけではなく、もしかしたら自分以外の人たちに旅の面白さを味わって頂けるかも知れないと考えるからなのです。

というわけで始めたわけですが、その実際といえば、そう簡単なものではなく、何度ももう止めようかと挫折しかかったことがあります。というのも、毎年ほぼ同じような場所に、同じような季節の中での旅なのですから、その出来事の内容は違っていても、全体的な環境はそれほど違ってはおらず、だんだん書く情熱が冷めてきてしまうのです。この気持ちとの葛藤が毎回旅を終えた後、しばらく続いてきました。半ば惰性的に続けてきているというのが実態だったような気がします。

しかし、この頃になって必ずしも無駄にはなっていないのではないかと、少し思うようになりました。継続は力なりといいますが、このような馬鹿げたことを続けることでも、もしあと10年続けたとしたら、それらは何かの自分の力となるのではないかと考えるようになったからです。私は今、密かに考えているテーマがあります。それは今後益々本格化する高齢化社会を迎える中で、同じ仲間世代の方たちが、セカンドライフをどうつくり、生きてゆくかを考える上で、くるま旅くらしの秘めている可能性を、その重要性をもう一度アピールしたいということなのです。そのときにこれらの記録が、資料として役立ってくれるのではないかと思うようになりました。

そういいながら、現在の私は、一旦出来上がった記録をもう一度取り出して読み返すということを殆どしていません。何度も読み返したりすると、次のものを書く上での鮮度が落ちるような気がし、又既成の情報が邪魔になって書きにくくなってしまうと考えているからです。いざと言う時にだけ読み返せば良いと思っているのですが、家内はその反対で、結構今までの記録をしっかりチエックしていて、時々何年か前の旅との違いを指摘したりします。それが刺激になって、又新しい旅のあり方を考える時のヒントとなることが結構あるのです。そのことが記録の有効性を証明してくれているのかも知れません。やがては、それは私自身の力となってくれることでしょう。

というわけで今回も3日かけて印刷と製本に取り組みました。今回はブログの記事が携帯での作成の割には結構長文だったので、改めてゼロベースで書くのはやめ、ブログ記事を多少修正して使うことにしました。最終的に50日間分で96ページのボリュームとなりました。これに行程(軌跡)地図、写真を加えて100ページとなり、かなりの厚さです。本当は加筆修正すると150ページくらいになる可能性があり、そうすると手づくり製本の限界を超えてしまい、2分冊としなければならなくなりますので、我慢しながらの作成となった次第です。とりあえず30冊を作る事にしました。パソコンのプリンターでの印刷枚数3000枚を終えるのに2日掛かりました。製本は1日です。今回は家内に少し手伝って貰いましたので、その分楽になり助かりました。この3日間は全くの印刷・製本の職人、しかもかなり腕の落ちる職人でした。

職人の喜びは、モノが完成した時にあります。30冊を積み上げた時には、心底ホッと安堵し、知らず笑みが湧いてくるような気がします。改めて数えてみたら、これが19冊目の完成となっていました。つまり職人として、19回目の喜びをものにしたということになります。ヤレヤレでした。今日は内情報告でした。

   

ようやく完成した旅の記録、「09北海道くるま旅くらしでこぼこ日記」

 

<ご案内> 

この記録については、一部を知人に配った後は、ご希望の方には1部600円(送料込)でお送り致します。少し高いのですが、その最大の理由は送料(200円超)の負担が大きいからです。お申し込みは私のホームページ「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」(このブログのブックマーク蘭をクリック)をご覧頂き、手続き下さい。

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少し休みます

2009-09-21 00:40:13 | 宵宵妄話

 

<お知らせ>

 

毎々、小生のブログをお読み頂きありがとうございます。

只今、09北海道くるま旅くらしの記録の印刷、製本に取り掛かろうとしています。全て手づくりです。集中して行なう必要があるため、ブログはしばらく休憩します。2~3日ほど時間がかかると思います。どうぞ、皆様もごゆっくりお休み下さい。(馬骨拝)

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神威岬

2009-09-20 04:45:00 | くるま旅くらしの話

神威(カムイ)岬というのが、北海道には幾つかあります。その中で最も有名なのは積丹半島のそれではないかと思います。カムイとはアイヌ語で「神」を意味することばです。神がどのようなものかについては、様々な理解の仕方があるのだと思いますが、アイヌの人たちにとって、それは大自然への畏敬を意味しているようです。どんな人でも、そこへ行き、それを見た時に畏敬の念を抱かざるを得ないというような場所なのだということでしょう。

積丹半島の神威岬は、まさに畏敬の念を抱かずにはいられないという大自然の景観が広がっている場所です。余市町から50分ほど国道229号線を海岸線に沿って走ると、積丹町に入ります。先ずは積丹岬があり、それから少し西へ行った所に神威岬があります。積丹半島全体が、日本海に突き出た大きな岩場のような感じで、海岸線には巨岩や奇岩が数多くあります。その中でも人びとの目には、神威岬が一番暗示的な畏敬の念を覚えさせる場所のように思います。

海に突き出した細長い岩場の先に、点々と大小の奇岩が海に向って並び続いており、それは恰も奇岩たちが人間の恐れの魂を海の中に引き摺り込むかのような思いに捉われる景観です。それらの奇岩の中で一際目立って大きいのが神威岩と呼ばれるもので、恐らくこの岩にこそ神が鎮座していると考えられていたのだと思います。

   

中央に聳え立つ岩が神威岩。如何にも神様が周辺を睨んで見渡している感がする。

この辺り一帯は、その昔から海の難所と呼ばれていたとか。近くを航行する時には、アイヌの人々は、神威岩に奉げ物をして通ったとのことです。又女性を舟に乗せると、海が荒れると信じられ、女人禁制の場所でもあったと言われています。私の理解では、この女人禁制は、女性に対する差別ではなく、危険な海に対する女性を守るというアイヌの男の人たちの気持ちの表れだったのではないかと思うのですが、果たしでどうだったのでしょうか。

この岬へは何回か来ていますが、いつもあまり天気が良くなく、あまりに道が険しいので、灯台がある場所まで行ったことがありませんでした。岬の入口には小さな木製の門のようなものがあり、そこから高さが100mを超えると思われる左右が急崖の細い道が、300mほど先にある灯台に向って続いています。この道はチャレンジの道と名付けられているようですが、確かに覚悟を以って歩かないと何かの弾みで転落でもしたら、一巻の終わりです。高所恐怖症の気のある私には、相当勇気の必要な散策路なのでした。今回は5年ぶりくらいの来訪だったし、思わぬ好い天気で散策路の傍の野草たちにも興味があり、勇を鼓して突端の灯台まで行ってみることにしました。

   

チャレンジの道入口。300mほど先の岬の突端の白い灯台まで、難所の道が続いている。

   

入口の門の向うに広がるチャレンジの道。両側の切り立った断崖の上に、何箇所も手摺つきの階段のある細い道が突端の白い灯台まで続いている。

良くもまあこのような所に手摺付きの階段を作ったものだと、工事関係者のご苦労を思いつつ、慎重に一段ずつ足を動かしながら、灯台の方に向いました。白く泡を吐いている下の海の方はなるべく見ないようにしながら、間近にあるツリガネニンジンやエゾキスゲなどの花を見るようにして、下り登って20分ほどかけて灯台まで辿り着きました。

   

急崖の上に作られた道の両側の野草の中で、一番目だったのがツリガネニンジンだった。か弱く見えるこの花も、ここでは何やら逞しく感ぜられた

絶景です。神威岩が一段と大きく見えます。それを見ていると確かにあそこには神が宿っているに違いないという風に思えてきます。それにしても大自然は、なぜ、どのようにしてこのような景観をつくったのか不思議です。科学すればその解はでるのでしょうが、私の場合は、アイヌの人たちと同じ気持ちでいいのだと思っています。人間は、あまりに科学を追及しすぎているような気がするからです。いつか大きな大自然のどんでん返しが来なければ良いがと思っています。

   

神威岬突端からの海の景観。中央に一際大きく聳えるのが神威岩。白い波濤はこの場所が海の難所であることを自ずから証明している感がする。

灯台の少し先の小さな岩場にしがみつくような姿勢で座り込んで、しばらくその畏敬多い景観に眺め入りました。本当に珍しくいい天気で、紺青の海が前面に果てしなく広がっています。海岸線には険しい岩が突き出ていて、そもそも積丹というのは、そのような海に突き出ている場所という意味らしいですから、恐らく細かく見て行けば、アイヌの人たちにとっては、そこいら中がカムイの場所だったのではないかと思えるのです。積丹町の隣には神恵内村がありますが、この呼び名もカムイ・ナイを漢字に置き換えたものではないかと思った次第です。

しばらく景観に打たれた後は、慎重に来た道を戻って、往復1時間あまりのスリルにとんだ散策を終えたのでした。

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