山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

九州春旅の予楽 その5:北九州エリア

2012-03-29 04:39:36 | くるま旅くらしの話

 実際の出発日が迫ってきました。いつまでも予楽などと言って遊んでいる場合ではないな、という気持ちが強まって来ています。本番は目前なのですから。

 さて、北九州エリアというのは、北九州市ではなく、福岡県全体という意味です。でも20数年前福岡市に住んでいたのですから、都市部近郊の名所旧跡は殆ど訪れています。ですから、今回は今まで気づかずに行かなかった場所や、改めてもう一度訪ねてみたい場所を取り上げてみることにしています。

 大分は日田市からの流れで福岡県に入って、先ずはうきは市の筑後吉井在郷町の伝統的建造物保存群を訪ねることにします。筑後川を挟んで、向こう側にある朝倉市の原鶴温泉には何度も来ていますが、浮羽のこの場所は知りませんでした。この辺りの歴史についても疎いので、しっかり学びたいと思っています。伝統的建造物保存地区については、少し先の八女市にも2カ所ほど指定されている場所がありますので、それらも訪ねることにしたいと考えています。

 また、八女市や久留米、大川、柳川市など福岡県の南部都市群の中には、幾つかの思い出の場所もありますので、適宜再訪が叶えば、思いつくままにそれらの場所を訪ねてみたいと思っています。そして、その後はどうしても寄って行きたい場所として朝倉市の秋月城下町があります。秋月は福岡黒田藩の支藩が置かれた所で、今でも小ぢんまりと往時を偲ばせる雰囲気のある一区画です。ここが気に入っていて、福岡在住時代は年に1度は必ず訪ねたものでした。その後観光地として人気が一層高まったようですので、さて、今頃はどうなってしまっているのか、ちょいと心配です。昔のままは無理としても、出来る限りわざとではない昔が残されているのを願っています。

 ここを見た後はいよいよ福岡市のエリアに入ることになります。駐車場の有無が再び心配となりますが、何はともあれ、やはり太宰府天満宮・観世音寺・都府楼跡のこの3カ所はセットとして見ておきたい所です。福岡在住時代は、大野城市に住んでいた時もあり、この超有名場所には歩きや自転車などで訪れたこともあります。又天満宮の北東に控える宝満山にも何度も登ったことがあり、この辺り一帯には懐かしさがたくさん籠って残っています。子どもたちが小・中学生だった頃でしたから、家族としての思い出も含まれているのです。これらのエリアも最後の機会と考えて目に収めてきたいと思っています。

 この他に福岡エリアでは博多や天神エリアなど懐かしい場所は無数にありますが、それらはもう再訪は無理というものでしょう。訪ねるのは止めにして、お互いに都合がついたなら、その昔の仲間たちと一時を歓談に過ごせたらありがたいなと思っています。まだ現役の方も多いので、決して無理はしないようにと考えています。

 福岡の後は、北九州に向けて動きますが、いきなり高速道は使わずに、筑豊の各地にも足を延ばせたらいいなと考えています。特定の場所は今のところ思い浮かびませんが、時間の許す範囲で新たな出会いが見いだせればいいなと思っています。

 

 九州に別れを告げた後は、休日までに何日かの余裕があった時は、高速道を走らずに山陽側の道を辿りながら行きたいと思っています。もしかしたら広島辺りまでは行けるかもしれません。これはもう計画などなしの本来の旅の姿となりますから、何が起こるやらわからず、興味津々です。

 というわけで、この先の予楽はもうお終いです。既にSUN号の洗車も済んで、明後日の出発を待つばかりです。旅への期待は膨らむばかりです。SUN号の写真を載せることにしました。早や生まれて10年が経ち、走行距離も15万キロを超えて、恐らくこの旅の間に16万キロを超えるのではないかと思います。老いぼれがかって来てはいますが、まだまだ元気です。もしSUN号を見かけて、それと気づかれた時には、あれ、馬骨がここに来ている!と、是非お声をお掛けください。よろしくお願い致します。3月31日。いよいよ出発です。

旅の様子は一日遅れでブログに掲載する予定です。ご一緒にお楽しみ頂ければ幸甚です。

        

旅車SUN号。前から見た様子。ナンバーはつくば88-55です。あわよくば88歳まで旅に出掛けたいという、相当無理な欲望(=強欲)を込めて獲得した番号でした。

           

横から見たSUN号の様子。今は無いグローバル社製KING5.3です。前面の右と側面に「SUN」とマークを入れてあります。

       

SUN号自慢のシンボルマークは、後部入口の脇にある、北海道とキタキツネの絵です。これは大阪在住の絵本作家の塩田画伯制作によるものです。

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九州春旅の予楽 その4:東九州エリア

2012-03-28 06:41:51 | くるま旅くらしの話

  さて、都井岬の後は日向灘を海岸線に沿って延岡まで順次北上することにします。南の日南市では先ずは城下町としての面影が残っている飫肥を訪ねることにします。8年前は晩秋近い頃の訪問でしたが、今回は春ですから、又以前とは違った発見があるかもしれません。古い町並みの探訪を楽しみにしています。

 飫肥の後は海側に戻って、次の訪問先は鵜戸神宮です。「鵜戸さん参りは春三月よ、‥‥」の民謡でも名を知られる鵜戸神宮は、海の断崖の中に造られており、インパクトのある神社です。今回も是非参拝したいと考えています。ここには運玉というのがあり、崖の岩に穿たれた小さな枡の中に、銀杏の実ほどの大きさの素焼らしい玉を投げ込んで、入れば願い事が叶うという遊びのようなものがあるのですが、前回参詣した時は、私は5個とも全滅でしたが、相棒は何と見事に1発を命中させたのでした。何を願ったのか解りませんが、運動神経が鈍いはずの彼女に先を越されて、「ああ、これが俺の運なのか、やっぱり、‥‥」などと思ったのでした。さて、今回はどうなりますやら。

鵜戸さん参詣の後は、風光明媚な日南海岸をゆっくり北上し、途中の観光名所などに立ち寄りながら宮崎市に至ります。宮崎市内では特に見聞したい場所は今のところ見つかっていません。何か気がついたら立ち寄ることにして、市街を通過した後、山側に向かい綾町の照葉樹林というのを見てみたいと思っています。綾の照葉大吊橋というのがありますから、行ってみればその素晴らしさが解るのではないかと期待しています。又この町の隣の国富町は、今は亡き我が畏友、安達巌画伯の奥さんの昌子さんの出身地であり、町の文化会館にはご夫妻の作品が展示されていると聞いています。是非ともお邪魔して作品にお目にかかりたいと思っています。

 その後は西都原の風土記の丘というのを訪ねて、古墳群などを見学するつもりです。ここも前回訪ねていますが、あの時は群れなす花のコスモス畑が幾つも広がっており、花たちに癒された思い出があります。あの花畑には、春にはどのような花が迎えてくれるのか楽しみです。

西都原の次は再び海岸線に戻り、北上して日向市入りします。日向市の美々津町に国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている白壁格子の建物群があるということですので、それをちょっと覗いてみたいと思っています。近くにある道の駅:日向は、直ぐ近くに温泉があり泊まり向きです。8年前もお世話になっています。

 日向の後は、延岡を経由して山側に向かい、高千穂町に行きます。ここは神話がらみの印象深い町で、前回お邪魔した時は丁度夜神楽の時期でした。11月下旬から冬にかけて、この町の各地区(=集落)ごとに、夕刻から始まり終夜を通して朝方まで、幾つもの神楽が集落の神様に奉納されるという、伝統的行事が長年継続されて来ています。集落の名前は忘れましたが、ある集落の神楽を初めから終わりまで見学させて頂いたのはとても良い経験でした。あまり祭ごとには興味関心のなかった私でさえも、寒さに震えながら見ている自分の前で、汗を流して踊っている村の人たちを見て、深い感動を覚えたのでした。今頃は神楽の季節ではないので、恐らく観光客向けに、高千穂神社でその一部が毎夜上演されているのではないかと思います。チャンスがあればちょっと覗いてみたいと思っています。又、随所にある滝から滴り落ちる水の豊かな、名所高千穂峡もじっくり見物したいと思います。

 高千穂の後は、山を超えて阿蘇に向かいます。つまりもう一度中九州エリアに足を踏み込むというわけです。蘇陽峡経由で南阿蘇村に入り、白川水源の名水を汲みたいと思います。阿蘇には随所に名水があり、これを味わうのも楽しみです。その後は阿蘇パノラマライン、やまなみハイウエイを通って、竹田の方に向かう予定です。世界有数のカルデラ火山の阿蘇の広大な景観は、何度見ても飽きの来ない大自然の姿です。草千里には必ず寄って、いつものように少し散策するつもりでいます。是非良い天気であって欲しいと願っています。

やまなみハイウエイの瀬の本高原に出たら、竹田方面には向かわず、左折して黒川温泉の先の満願寺というエリアにある夫婦(めおと)滝という所で茶店を営んでおられる知人を8年ぶりに訪ねたいと考えています。そして、それが叶った後は、竹田市の方に向かい、途中から左折して長湯温泉に向かい、ここの湯を存分に味わいたいと思います。長湯温泉は自分の最も好きな温泉の一つです。ここには道の駅も出来ているようですから、是非泊ってみたいと思っています。

 その後は竹田市に向かいますが、ここでの一番の楽しみは湧水を汲むことです。豊後竹田といえば何といっても岡城でしょうが、私は湧水の方がより関心大なのです。前回は宇田湧水を汲みましたが、さて、今回はどこにしようかな、というところです。竹田市から臼杵に向かう途中に原尻の滝というのがありますが、ここも一見の価値がありますので、寄ることにしたいと思います。本当は、この滝よりも白水ダムという、あまり大きくないダムがあるのですが、ここのダムから流れ落ちる水の様は、まさに芸術的であり、前回は驚きながらそれを見物したのですが、さて、今回はそれが叶うかどうか。何しろ道が細くてSUN号には行きづらい場所だからです。余裕があればもう一度チャレンジし、あの感動を味わいたいものです。

 竹田の後は臼杵へ向かい、石仏群を探訪するつもりです。大分は国東を含めて石仏の多い所であり、中でも臼杵といえば巨大な磨崖仏を初めとする石仏群で有名です。今回で2度目となりますが、見納めのつもりで数々の仏様に会ってきたいと思っています。その後は、大分市内、別府市内の観光となるのでしょうが、今回はこの二つの都市部の観光は避けてパスする考えでいます。そして別府から山側に向かい、院内町(=現在は宇佐市)の石橋群を見ながら、しばし歩いて見たいと考えています。ここにはいい散策コースがあると聞いているものですから。

 その後は、九州を代表的する神宮の一つである宇佐神宮に参拝予定です。ここは何度も参拝していますが、やはり心身を清められるイヤシロ地だと思います。参拝の後は国東半島の御仏の里を適当にさ迷いながら、杵築の城下町の風情なども探訪しつつ、もう一度別府に出て湯布院に向かい、ここで一息入れてから山里の天領日田市に向かうことにします。日田は何度も訪れているのですが、いつも吉四六(きっちょむ)の焼酎と漬けものを買うに寄るばかりで、観光のために訪ねたことはなかったのでした。今回は真面目に咸宜園を初め史跡の探訪を果たしたいと思っています。

 日田の探訪が済めば、その後はもう一度福岡県エリアに入ることになりますが、ここからは北九州の領域として取り扱うことにします。宮崎県と大分県で合わせて9日も使うことになりますから、やっぱり九州も広いんだなあと実感しているところです。

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九州春旅の予楽 その3:南九州エリア

2012-03-27 00:31:04 | くるま旅くらしの話

  いよいよ南九州は鹿児島県の旅です。今回の九州行では西九州と並んで、楽しみの大きいエリアです。そもそもくるま旅を始めるに際しては、どういうわけか思いついて、この日本国の中で直接会えることが出来る最長寿の生きものに会いたいと考え、調べた結果それは屋久島の縄文杉なのだと思い込み、前後3日ほどかけてあの巨塊の樹木に会って旅の安全と健康などを祈願して来たのでした。縄文杉参詣は私の旅の出発点なのです。それなのに実際にくるま旅を開始してからは、鹿児島県を訪ねたことは一度もなく、SUN号と一緒の旅は今回が初めてなのです。沖縄県の探訪はくるま旅とは別途に考えようと思っていますので、鹿児島県エリアはくるま旅としては日本最南端の地ということになります。

鹿児島県は、日本の歴史上では、鎖国をこじ開けた後のこの国の経営に多くの人材を輩出したことで知られていますが、そのありようについては、個人的には諸手を挙げて称賛する気持ちにはなれないものがあります。(念のため私は水戸っぽです)ですから維新に係わる人物などについてはさほど関心は無いのですが、単に江戸から最も遠い地にあったというだけではなく、幕末の開国のエネルギーがどこから生まれて来たのか、その背景などはしっかり感じて来たいと思っています。

又今回はくるま旅からほんの少しはみ出して、高速船に乗って足を延ばし、屋久島の探訪を計画しています。既に宿やレンタカーの予約も済んでおり、旅ごころの相当の部分が、屋久島へ飛んでしまっているのを抑えることができません。

さて、南九州の旅は、肥後の人吉を出て、伊佐市から出水市に入ることから始まります。薩摩藩には「麓(ろく)」と呼ばれる武家屋敷が残っている場所が幾つかありますが、この麓というのは一体何なのか、初めは解りませんでした。これは薩摩の地に住む人ならばまさに常識なのでしょうが、関東に生まれ育った者には解りません。調べてみると、それは薩摩藩の藩統治のシステムであり、内城という藩主の住む拠点に対して、外城(とじょう)と呼ばれる分散拠点があり、これが麓と呼ばれるものであったということです。麓はその後「郷」と呼ばれるようになったともありました。その麓の中で最大のものが出水市の麓であったとのことです。出水市に行ったら、真っ先にここを訪れ、薩摩藩の往時の統治体制に思いを馳せてみたいと思っています。

又出水の後はちょっと海の方にも足を延ばし、長島にある道の駅に寄ったり、阿久根の方にも寄り道しながら、薩摩川内市の入来麓も訪ねたいと思っています。阿久根では行政上の大騒動がニュースになりましたが、その後はどんな按配なのか、野次馬としては地元の人たちの声にも触れてみたいなと思っています。九州在住以来阿久根のボンタンのファンなのですが、もうあの巨大な柑橘の実の収穫は終わってしまっていることでしょう。20年以上も昔の、阿久根を訪れた時の思い出が甦ります。

阿久根の後は薩摩川内市から、鹿児島市に向かうことにします。鹿児島市には仕事などで何度かお邪魔していますので、主な観光スポットは承知しているつもりです。出張の際にいつも泊っていたホテルが、今どうなっているのかなと調べて見ましたら、健在だったのでホッとしました。鹿児島市は市内のどこからでも地下を掘れば温泉が湧き出てくると聞きますが、いつもお世話になっていたそのホテルの7階だったか、そこにある浴場で桜島を見ながら朝風呂に入ったことを懐かしく思い出します。でも今回はくるま旅なので、その楽しみを同じように味わうことができないのがちょっぴり残念です。

鹿児島市内の観光でも、心配なのは駐車場です。仙巌園などは大丈夫のようですが、それ以外の場所の状況は不明です。パークアンドライドの仕組みも市として検討中のようですが、まだ出来上がってはいないようですから、ま、出たとこ勝負でチャレンジし、駄目だったら諦めることにします。鹿児島は市内の観光よりも周辺の方がより魅力的な箇所が多いように思いますので、その時はそちらの方に切り替えるようにしたいと思います。屋久島に向かう前に、南九州の観光スポットとして有名な指宿や知覧、開聞岳・池田湖などはぬかりなく観光巡りをしておきたいと思っています。

さて、いよいよ屋久島行です。屋久島には指宿から高速船トッピ―というので宮之浦港まで行き、そこからはレンタカーを借りて島の主な観光スポットを巡る考えです。もっと若くて体力に自信があれば、2~3日滞在して縄文杉などに会いに行けるのですが、最早それは無理だと承知していますので、せいぜい車で行けば会えるという、何本かの屋久杉を訪ねる程度になると思っています。それでも、樹齢千年を超える樹たちに会えると思えば、もうそれだけで十分満足です。以前縄文杉に会いに行った時は、その目的を果たすだけで精一杯の日程でしたので、その他の島の中の様子は全く知らないままに帰っています。今回はそれら果たせなかった分を十二分に補うつもりで島を一周する予定でいます。最大の願望は、夕食にトビウオの唐揚げを肴に、地酒の焼酎三岳を味わいたいということです。さて、どうなりますことやら。楽しみです。

翌日トッピ―に乗って指宿に戻った後は、薩摩半島から大隅半島の方へ向かうことにします。指宿からフェリーで根占まで行くコースも考えてみましたが、錦江湾をぐるっと見ながら行く方がくるま旅的ではないかと、それは止めることにしました。喜入から鹿児島市内を経由して、桜島を右手後ろに見ながら北上を続け、霧島市の隼人にある鹿児島神宮に参詣した後、今度は桜島を右手前方に見ながら南下して、垂水から桜島にぐっと近づいて、幾つかの名所旧跡などを見物したいと思っています。本当は霧島神宮にも参詣したいのですが、新燃岳のその後の噴火状況も判らず、少し遠いので取り敢えず寄らないことにしています。桜島は怖いので、さっと切り上げて大隅半島の南端に向かい、佐多岬まで行って引き返した後は、直ぐに志布志湾方面へ向かう方が普通だと思うのですが、今回はそうしないで、鹿屋市から曽於市の大隅弥五郎という名の道の駅に是非寄ろうと考えています。大隅弥五郎なる人物は、熊襲(くまそ)の英雄のようですから、現地に行ってみれば面白い情報などが得られるのではないかと密かに思っているのです。

弥五郎さんの道の駅を訪ねた後は、志布志湾に出て都井岬に向かうことにします。もう海に出ればそこからは宮崎県となりますが、本来日南海岸辺りは南九州と呼ぶのが当たり前のことでありましょう。ま、一応ここでは都井岬まで南九州とし、それ以北は東九州として区分することにします。都井岬の野生の馬は有名ですが、今頃はどうなっているのかちょっと気になっています。8年前の九州行では東九州側を日南市の飫肥まで来て引き返していますので、都井岬はもう20数年ぶりとなります。青森県の下北半島の尻屋崎にも寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる野生馬がいますが、この北と南の野生馬をじっくり比べて見てみるのも面白いなと思っています。

南九州は8日間ほどかけて回ることになりますが、この間は風と雨の少ない天気であって欲しいと心から願っています。特に唯一予定を確定させている屋久島行の4月24日と25日は無風の好天であって欲しいものです

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九州春旅の予楽 その2:中九州エリア

2012-03-25 23:21:23 | くるま旅くらしの話

  中九州といえば熊本県ですが、ここは大きく分けると山岳の阿蘇エリアと天草を中心とする海側のエリアとなると思います。この山から海への切り替えには結構時間を要します。あれこれと思い悩んだ結果、今回は天草の方に行くのを断念しました。というのも、天草の魅力は、ゆっくり滞在してこそであり、急ぎ駆け足では、ただ行ったというだけで、旅の本当の満足にはつながりにくいからです。すでに福岡在住時に訪れたことがあり、今回は諦めをつけたことでした。

 さて、その熊本県ですが、先ずは福岡県北部の大牟田を経由して、山側の山鹿市や菊池市の方に向かう考えです。中九州エリアは、福岡在住時は仕事で何度か熊本市を訪れたくらいであり、家族連れでは天草方面に一度出掛けただけで、その他のエリアには殆ど行ったことがありませんでした。又熊本市も仕事の関係で市内の特定の場所だけでしたから、周辺の町や村のことは幾つか名前を知っている程度で、実際に訪問した場所は皆無と言っていいのです。ですからどこに何があるのかも、今回初めて探して行く場所なので、狭い範囲ですが楽しみは一杯詰まっています。

 山鹿市から入るわけですが、山鹿といえば夏の風物詩として全国的に有名な山鹿灯篭祭りがあるというのは知ってはいます。でも、これもTVで観ただけです。今回は季節が合いませんので、祭りを見ることはできませんが、そのような祭りを生み出した背景を探ることはできるのではないかと思っています。山鹿市エリアには、肥後古代の森という、古墳などをメインにした文化施設があるようですので、是非それらの幾つかを訪ねようと思っています。又丁度花の季節ですから、うまく行けば日輪禅寺などの花を見ることが出来るのではないかと期待しています。又鞠智城跡というのがあり、歴史公園となっているとのことです。この辺りの歴史については、全く無知でありますので、是非立ち寄って勉強したいと考えています。それから一本松公園にあるという石のかざぐるまというのも是非見てみたいと、野次馬根性が膨らんでいます。

 山鹿の次は隣の菊池市です。菊池市といえば、九州の名族菊池氏の本拠があった所、というのが先ず念頭に浮かびます。内田康夫氏の推理小説の中に、この末裔に絡む殺人事件の作品(=菊池伝説殺人事件)がありますが、あれを読んで刺激を受け、是非一度この町を訪ねて見たいと思っていました。それが今回実現するわけですが、全く土地勘がありませんので、さてどうなりますことやら。とにかくく大いにさ迷ってみたいと思っています。先ずは菊池神社に参拝した後、市内を散策し名所の幾つかを探して訪ねたいと考えています。又調べていて興味を惹いたのは、幾つかの石橋とそれから旧旭志村にある円通寺というお寺にある、石で出来た山門です。九州には石を使う技術があり、幾つもの石橋が残っていますが、お寺さんの山門というのはあまり見たことがありません。写真で見ても、その独特さが判りますので、是非本物を見てみたいと、これ又野次馬根性が首をもたげています。

 この両エリアを終えた後は、中九州の中核たる熊本市での探訪です。熊本市は人口も多く、建物も混み合っていますので、一番心配なのはSUN号を置ける駐車場があるかどうかです。普通車ならば幾らでもある駐車場も、5mを超え、高さも3mと少しある図体の車を、すんなり置かせて貰える自走の駐車場はなかなか見つからないのです。長崎市のようなパークアンドライドのシステムが導入されていればありがたいのになあと、熊本市のホームページを見ましたら、ちゃんと取り入れられていました。幾つかあるようですが、さて、車が上手く収まってくれれば良いのだがと心配です。その一方で、なるべく都心に近い場所に留められたらいいな、と慾をかいて思ったりしています。

 熊本市内の観光スポットでは、何といっても熊本城と水前寺成趣園が双壁でありましょう。この二つを中心に市内をさ迷う考えです。そして夕餉の肴に辛子レンコンをゲットしたいと考えています。名物とかいう、馬の肉などは真っ平ご免です。馬は骨に限ります。さて、久しぶりの熊本はどんな状況やら、‥‥楽しみですね。浦島太郎を実感させられても文句なしです。

 熊本市の後は、まだ行ったことがない通潤橋を訪ねる考えです。山都町にある石で造られたこの水路橋は、その豪快な放水で有名ですが、放水を見られなくてもその橋の様子を一目見ておきたいと思います。幸いなことに直ぐ近くに道の駅も設けられていますので、散策が楽しみです。又、通潤橋からはちょいと山の方に足を延ばして、道の駅:清和文楽邑を訪ねたいと思っています。農村舞台での演芸がどのように取り上げられているのかを知りたいと思います。公演は見られなくとも、行ってみれば何かを見つけることが出来るはずです。

 清和文楽邑の後は、熊本南部の中核都市の人吉市へ向かうことになりますが、その途中にある美里町の石橋の中の霊台橋など幾つかを見ておこうと思っています。九州には石橋を架ける技術が発展していたようですが、その成果を出来る限り多く見たいなと思っているものですから。

 中九州の締めくくりは人吉市となります。一旦八代市の方に出て、それから人吉街道と呼ばれる球磨川沿いの道を遡って、市街地に入り、どこか駐車場を探して車を置き、散策に出掛けたいと思います。ここも初めて訪れる場所ですので、神社仏閣や城址などを中心に巡れば、様々なものに出会えると思っています。名産の球磨焼酎などの醸造元も幾つかあるようですから、ちょいと覗かせて頂こうと、よからぬことも考えたりしています。人吉からは子守歌で有名な五木村の五家荘も近いのですが、道路の状況が心配なので、行くについてはネガティブです。以前椎葉などを旅した人から伺った話では、この山奥一帯の道はとんでもない悪路続きで、車がボコボコになってしまい、帰宅後買い替えられたとか。その方の場合は軽自動車だったのですが、図体のでかいSUN号ではとても無理なのではないかと思います。やはり諦めが肝心なのかもしれません。

人吉から山一つ越えれば、もうそこは薩摩の国です。江戸時代を舞台にした様々な小説などでは、薩摩藩のガードは相当に厳しかったということですから、この辺りの肥後に住む人たちの薩摩に対する感覚はどういうものだったのか、ちょっぴり訊いてみたいものです。でも、今の時代にそれを語れる人は恐らく皆無なのではないかと思っています。

天草の方へは時間の都合で行けないのが残念ですが、その分この山側の旅を堪能したいと思っています。又熊本県には外せない観光名所として雄大なる阿蘇の景観がありますが、こちらについては、宮崎県や大分県の側から回って行く考えでいます。

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九州春旅の予楽 その1:西九州エリア

2012-03-24 01:25:05 | くるま旅くらしの話

 予楽というのは、私のくるま旅くらしの中では、旅に出かける前にその旅を楽しむということで、これも旅の本番に匹敵するような価値があります。今日から5回に分けて今回の九州行の行く前の凡その訪問先などを紹介しがてら、その楽しみなどをご紹介したいと思います。

  九州は北海道よりも少し狭い面積ですが、遠く離れた沖縄を別にすると7県もあり、実際に旅をするとなれば、この全域を満遍なく見て回るには相当の時間が必要だということが判ります。今回の旅では西九州と南九州がメインの訪問先と考えていますが、せっかくのついでですから、その他のエリアを含めてぐるっと一回りすることにしようと思っています。

 九州をエリアとして区分するには、いろいろな考え方があるのでしょうが、私の場合は県別に北九州(福岡県)、西九州(佐賀県・長崎県)、中九州(熊本県)、南九州(鹿児島県)、東九州(大分県・宮崎県)という風に五つに分けてみました。厳密には県などで分けることが出来ないのは解っていますが、あくまでも便宜上の考え方です。

 

 さて、先ずは西九州の旅について、その楽しみを述べてみたいと思います。九州に入ったら、起点の福岡で2~3日すごしたあと、先ずは佐賀県の北西部のエリアに向かいます。最初は唐津ですが、ここには福岡在住時代(25年ほど前に7年間福岡で暮しました)にも何度か来ています。唐津くんちは今でも印象に残っています。でも、今では周辺の景色はもうすっかり変わってしまっっているのかも。昔の思い出のままであるはずがありません。何しろ、私自身が老人になり果ててしまっているのですから。それでも昔を思い出しながら、虹の松原や鏡山を訪ねたいと思います。そのあとは、唐津焼の窯元などを訪ねてみることにします。佐賀県は陶磁器の窯元の多い所ですが、唐津焼も又味わいのある焼き物です。25年前とは又違った気分で焼き物に触れてみたいと思います。

 唐津の後は更に西の方に足を延ばし、秀吉さんが朝鮮出兵を行った時の基地であった名護屋城跡などを訪ねた後、呼子に寄りたいと思います。玄海灘の魚はどれも美味ですが、何といっても呼子での一番はイカです。目指すのは、あの肉厚のイカです。生きづくり、てんぷら、それに一夜干し。どれも「超」がつく美味さ。北海道のイカも魅力的ですが、玄界灘のイカも引けは取りません。この時はコレステロールのことは一日忘れて、思いっきりその味と食感を楽しみたいと思っています。ああ、考えただけでも唾が湧いてきます。今生の最後のチャンスを必ずものにする信念です。

 呼子の後は、更に西に足を延ばして、もうそこは長崎県となりますが、橋でつながっている二つの島を訪ねたいと思っています。その初めは鷹島。ここはその昔蒙古の大群が押し寄せて来た時、上陸を果したのかしそこなったのか、よく判らない様な所ですが、今は橋が出来てつながっており、道の駅も出来ていますので、行って様子を見てみたいと思うのです。モンゴル村というテーマパークのようなものもあるようですから、興味津々です。

 鷹島の後は、すぐ隣にある福島というのを訪ねることにしています。ここでの目的は、土谷免という所にある棚田の見物です。この頃は棚田に興味があり、旅先でチャンスがあれば訪ねたいと考えているのです。ここの棚田も有名ですから、島の段々畑(or田んぼ)の景観を心行くまで眺めて楽しみたいと思っています。

 次は更に西に向かって松浦市を経由して平戸に行く考えです。平戸は島ですが今は橋でつながり、島だったことが忘れられている感じがします。ここにはキリシタンの名残りの史跡が幾つか残っていますので、それらを順次訪ねることにします。そして更に西に隣接する生月島にも足を延ばしたいと思います。この島に橋が架かったのは、20年ほど前でしたが、ずっと有料だったものが最近は無料化されたと聞きます。嬉しい話です。行けるところまで行って、東シナ海をじっくり眺めてみたいと思っています。

 さて、この後は西九州の中核である長崎市の方に向かうわけですが、その前に佐賀は鍋島藩の藩窯のあった伊万里や有田を訪ねたいと思います。現役のその昔、九州在住の時には毎年5月の連休に開かれる有田の陶器市に何度か出掛けたことがあり、理想の徳利とぐい飲みを探し回ったことを思い出します。伊万里の方はまだ訪ねたことがありませんので、今回は秘窯の里大川内山を訪ねて、その有様をしっかり目に止めておきたいと思っています。

 焼き物探訪の後は、佐世保に向かいますが、今では佐世保といえば直ぐにテーマパークのハウステンボスがイメージされてしまいそうです。でも、私には佐世保といえば何といっても日本海海戦の基地としての存在です。あの時代に佐世保が担った港としての力は、まさに国を支えるほどのものだったと思っています。その佐世保の市街を一望できる場所を探して、明治の精神の輝きを望見してみたいと考えています。佐世保はそれだけで十分であり、テーマパークの方はパスします。

 さて、佐世保から先は大村湾を東に行くか、それとも西の海側を行くか迷う所ですが、ここは西の海側即ち西海市の方を行く考えです。この辺りからなら五島列島の島影も望見出来るかもしれません。福岡在住時代に、五島列島を訪ねなかったのは心が残ります。もっと釣りに打ち込めば良かったのに。どうせ大した仕事もできなかったのですから。今考えると、現役時代は人生を楽しむという発想が殆ど芽生えもしなかったことを、実に愚かなことだったと気づくのですが、後悔先に立たず、後の祭りです。

 西海市経由で長崎市に入った後は、長崎市のパークアンドライドシステムを利用させて頂いて、平和公園の駐車場にSUN号を置いて、電車かバスを利用して長崎の町の観光をしたいと考えています。2日もあれば凡その史跡等を訪ねることが出来ると思います。久しぶりに長崎らしい食べ物も味わってみたいですね。中華街で焼きそばかちゃんぽんを、しっぽく料理はあまりにも贅沢すぎるかな?それから無理すれば吉宗の茶碗蒸し?いや、こいつは無理だなや、卵などやたらに食べたらエライこっちゃ。……、まあ、考えるだけでも楽しくなるというものです。車を直接使わない旅の日があるのは、却ってくるま旅の中身に変化をもたらし、より大きな楽しみを得ることが出来るような気がします。長崎市にこのような仕組みがあることを知り、感謝・多謝です。

 長崎を出た後は、島原半島に向かいます。大暴れした普賢岳も今は鎮まっているようですから、心配ないと思いますが、恐る恐るという気分で、裏側(小浜経由雲仙温泉)の方からそっと上って、島原市側に向かう考えです。途中雲仙市の千々石にある清水棚田というのにも足を延ばして一見してみたいと思っています。雲仙の地獄等の温泉巡りは避け、おとなしく山を下って深江の道の駅で一息入れた後は、久しぶりの島原市街訪問です。現役時代、島原出身の職場の仲間が何人かおり、その方たちのおかげで市内の武家屋敷などを訪ねたことがありますので、ある程度の土地勘はありますが、今回は初心に戻って島原の史跡などを探訪したいと思っています。

 島原の後は、再び佐賀県の方に戻ります。有明海の沿岸を辿りながら北上しますが、この辺りのカニ(=ワタリガニ)が心を惹きます。有明海のカニといえば竹崎が有名ですが、いまだ一度も味わったことがなく、今回はぜひとも念願を叶えたいと思っています。ああ、糖尿病もコレステロールも中性脂肪もクソ喰らえだ~。途中にある道の駅でも吉報が待っているような予感がします。ま、本当のところ半分は神頼みですけど。

有明海を北上し、鹿島市均衡で、先ずは日本三大稲荷の一つである祐徳稲荷に参詣した後、浜庄津町、浜中町などの伝統的建物群保存地区を訪れ、古い文化の雰囲気を味わいたいと考えています。その中に何か獲物があるかもしれません。

 鹿島市近郊探訪の後は、お隣の嬉野市に向かい、塩田津商家町や眼鏡橋などを見物したいと思います。温泉は時間的にちょっと無理かもしれません。でも名産のお茶などは手に入れることができるでしょう。嬉野の後は、隣の武雄市ですが、ここでは川古という所にある楠の大木を見物したいと思います。日本でも有数の楠の古木ということですから、何か学ぶことがきっとあるに違いありません。樹木の堂々たる生きざまには限りない感動を覚えます。そのあとは佐賀市の方に向かい、小城市にてその昔の城下町の街並みというのを訪ね散策してみたいと思っています。

 小城の後は、普通は佐賀市を訪ねることになるのだと思いますが、自分的には佐賀市の市街の中で探訪の心をそそられるような場所は思いつかず、せいぜい近くにある吉野ヶ里遺跡の散策くらいです。佐賀市には、織物・着物やお菓子などの領域では何かがあるのかもしれませんが、これはもはや邦子どのの世界の話なので、その時の命運に任せることにしたいと思います。

 佐賀市エリアは軽く立ち寄るだけにして、休憩地としては柳川市を選ぶことにします。ここは北原白秋の生誕地であり、水郷の町です。いろいろ見どころもありますが、最大の目当ては鰻の蒸篭蒸しを食することです。死ぬまでには何としても一度は食べておきたいというのが相棒の切なる願いなのです。これを振り払うわけにはゆきません。ますます我が体調には負担をかけることになりますが、その分、満足の気持ちで元気を取り戻せればいい、と考えることにします。

 ざっとまあ、西九州エリアといえばこんなところでしょうか。凡そ10日ほどかけて回る考えでいます。柳川や大川は福岡県であり、もはやこの辺りは西九州と呼ぶにはふさわしくないのかもしれません。ま、そんなことはどうでもいいことです。西九州エリアは、明治維新前までは長崎を中心として西洋文明の唯一の取り入れ口だった所であり、更にはもっと古い時代に遡っては、大陸との交易の前進基地だった所です。きっと今まで気付かなかった何かが見えてくるような予感がして、楽しみは増すばかりです。

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春旅は九州行、を決意する

2012-03-18 03:04:31 | くるま旅くらしの話

  何か変なタイトルですが、思い切って九州への旅を決めたという話です。このところしばらく本来のくるま旅くらしに係わる話題から遠ざかっていましたので、ようやくこの決心でホッとしています。

 私どもの春の旅といえば、本来は東北の春を訪ねて1カ月ほど山里を巡るのが定番だったのですが、昨年は大地震のこともあって、旅どころではないことになりました。今年は復興の様子などを伺いながらいつものように春を訪ねるのもいいかなと考えていたのですが、九州行のことも気になっていました。夏の北海道から戻って、秋になって向かう旅先としては、九州は遠すぎる感じがするものですから、ついつい先延ばしにしていたのですが、もうそろそろ何とかしないと、と思っていたのです。それで、この際春に行ってみるのもいいかなと思ったのです。これは年を明けてからずっと迷いの中にありました。その迷いを振り払って行くことを決心したというわけです。

 昨年になってから急に身体の衰えを感じ出し、こりゃあ、俺も老人になってるんだわいと、思い知らされるような出来事が相次ぎ、その結果、ほんの少し悟った(?)のです。その気になれば、いつでも何でもできるなどと思い上がって、目的を先送りしていると、ある日突然、力を失って歩くことも出来ない身体になってしまうかもしれない、と。そのようなことに気づいたのです。今できることを思い切ってやっておかないと悔いの残る人生になってしまう。そのような世代の中に既に自分は突入しているのだ、と。

 九州行もその気になればいつでも行けると思っていました。ところがこの「その気」という奴が曲者で、なかなか決断を下さないのです。気づけば前回九州を訪ねたのは8年も前のことでした。あの時は東九州エリアを中心に回ったのですが、次は西九州から南九州を回ろうなどと考えていたのに、それからもう8年も経っているのです。その気という奴は、時間の計算が出来ないようです。8年前の自分の体力・体調と現在のそれとを比較すれば、今は惨めさだけが残るという感じなのです。今行かなかったらこの後、もはや九州へ行く機会は無くなるかも知れない、と、そう気づいた瞬間、よし、今年の春は行くぞ、と決めたのでした。

只今その行程プランを作成中です。私どもの最近の旅は、だんだん横着になって来て、細かい計画は勿論大ざっぱな計画さえも立てずに、出発日と帰着日とを決めるだけで、あとは殆どすべて出たとこ勝負で明日の予定を決めるといった按配なのですが、今回は少し細かく計画を立てておくことにしました。一つには何しろ8年ぶりですので、欲張って見て来ようという考えが大きいからです。出たとこ勝負では、取りこぼしばかりが増えて悔いが残る旅となってしまうかも知れないからです。事前にある程度の予備知識も仕入れておいて、見聞の中身を濃いものとしておきたいし、旅の実際の中で予楽(=旅の出かける前の楽しみ)とのギャップを味わうことを大いに楽しみたいと思っているからです。

旅の出発は3月31日、帰着予定は5月の15日としています。九州では西九州と南九州により多くの時間を割くことにし、東九州や北九州は格別の思いがある場所だけを訪ねるに止めたいと思っています。

一番の楽しみは、屋久島を訪ねることです。世界遺産になっているこの島には、特別の思いがあります。私がくるま旅を始める前に、仕事をリタイアした後の生き方の思いを込めて、日本に生息する生きものの中で最長寿と思われる縄文杉にご挨拶に参上した場所であるからです。但し、今回は旅車を本土の方に置いて、1泊2日の日程ですから、縄文杉に会うことはできません。でも多くの屋久杉(=樹齢千年以上)に会うことは出来ますし、千m以上の高さの山を30以上も切り立たせているこの不思議な島を訪ねることが出来ることに、今からその楽しみは毎日膨らみ続けています。

今は毎日地図を眺めて暮していますが、それにしてもここから九州までは遠いですね。玄関口の北九州に着くまでに千キロ以上もあるのです。江戸時代ならば280里以上もあり、1日に10里歩いても1カ月ほどかかる計算となります。幕末辺りの志士と言われた人たちは江戸から長崎までを何度も往復したのだと思いますが、そのエネルギーには驚嘆させられます。人間、志を持てばものすごいパワーが発揮できるのですね。今の世は超便利になって、無理をすれば老人でも車を運転して、この距離をたった2日で行けるというのですから、これはもうありがたいことです。

私どものくるま旅は、志というほどのものではなく、単に残りの人生を楽しみたいというだけのものですから、それほど急ぐ必要もなく、無理をせずに3日くらいかけて、先ずは福岡に辿りつこうと考えています。本当なら高速道ではなく各地をブラつきながら九州に向かいたいところですが、そんなことをしていると玄関に着くまでに半月くらいはかかってしまうに違いありません。それでやむなく福岡までは高速道を行くことにしています。

福岡に着いたら、2~3日かけて知人に長年のご無沙汰をお詫びする挨拶を済ませ、その後西の唐津の方に向かう予定です。西九州といえばやはり長崎が中心となりますが、佐賀県北西部の唐津や伊万里などもしっかり訪ねたい場所です。久しぶりに呼子のイカも味わいたいものです。主な観光地や史跡などを訪ねながら南下を続けて、4月の半ばには熊本県を経由して20日過ぎには鹿児島県に入り、ゴールデンウイークに入る前に屋久島を訪ねたいと考えています。屋久島では民宿に泊まり、糖尿病のことは忘れて、トビウオの唐揚げで地元の焼酎の名酒「三岳」を存分に楽しみ、味わいたいと思います。

屋久島から戻ったら、大隅半島に向かい、まだ行ったことがない佐多岬まで足を伸ばしたいと欲張っています。その後は桜島のご機嫌などを伺いながら、日向灘の海岸沿いを中心に宮崎県エリアを北上する考えです。丁度この頃からゴールデンウイークに入ってしまいますので、予期せぬ混雑で調子を狂わされることが起こることでしょう。これはまあ、致し方ないことです。

連休が終わる頃には大分エリアから福岡県南部辺りに来ていることになると思います。10日までには福岡市に戻り、知人などに別れを告げた後、3~4日は高速道には乗らないで瀬戸内側を通って関西方面に向かい、5月の13日には高速道に入って、15日には帰宅しようと考えています。

以上が今回の九州行の大ざっぱな行程です。日数は45日。走行距離は6千キロほどを見込んでいます。予算は交通費だけで20万円くらいはかかりそうです。このところ燃料が値上がりしていますので、この先の動向が心配です。その他の費用は、食費は家にいるときと変わりません。駐車料、入浴料、入館・入園料などがかかりますが、必要最小限に抑えてお金のかからない旅を過ごすようにしたいと思っています。旅から貰う刺激というのは、やたらにお金を掛けても必ずしも良質とばかりは言えませんので、お金のかからない出会いというものを大切にしたいと思っています。

くるま旅の費用のことについてもう少し言わせて頂きますと、今回の旅で仮に40万円(実際にはそれほどはかからないと思います)かかったとしますと、見方によっては随分お金を掛けたぜいたくな旅ということになるでしょう。40万円という費用は1日換算では9千円弱となります。夫婦二人で1日1万円以下の費用で45日間の旅が出来るということなのです。同じ金額で夫婦二人で海外旅行をするとすれば、さて、どこに、どれくらいの日程の旅が可能となるのでしょうか。その旅の自由度はどれほどなのでしょうか。私にはくるま旅の<45日・40万円>というのは決して高いコストだとは思えません。

45日間も狭い空間の中で、夫婦が顔を突き合わせて暮すなどというのは、正気の沙汰とは思えないとコメントする向きもあることでしょう。それは確かに一面では当っていると思いますが、全面から見れば癌のような悪性の発想のように思います。お互いに気取って見栄を張りあっているような夫婦の行く先は、孤独死か或いは力のないもたれ合いのようなものではないかと、私には思えるのです。長期間のくるま旅が可能な世代は、リタイア後に限られるように私は思っていますが、その世代というのはどう考えても、人生の終わりを近くに控えた世代である、ということになるのです。相棒が面白くても面白くなくても、気に入ってもいらなくても、最早残りの時間を考えれば、狭い空間も顔も存在も、我がままなどを言っている場合ではないのです。同じことを一緒に楽しもうなどと考える必要もないのです。夫々が夫々なりに受ける旅の刺激を自由に楽しめばいいのです。私はリタイア後の夫婦二人のくるま旅を、そんな風に考えています。

ちょっと脱線しました。まだ大ざっぱな行程しか出来ていませんが、もう少しはっきりしたら、ご参考までに紹介させて頂こうと思っています。それから今回の旅から携帯での投稿ではないことになりますので、旅の毎日の出来事などもより情報量を増やしてお伝え出来ると考えています。

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白隠禅師坐禅和讃のことなど

2012-03-14 00:21:37 | 宵宵妄話

  先に般若心経のことを書きましたが、その後毎日繰り返して経文を読み書きしていますので、今ではどうやら原状に復したようです。この後はこれを継続してゆくことにしています。心経を唱えるについては、様々なチャンスがあり、先日のMRIの検査台の筒の中でもそうでしたが、そのような閉所の怖さの中だけではなく、もっと楽しい場面でも幾らでも活用が出来ます。只今は、ものを食べる時にこれを活用することにしています。よく噛んで食べることが大切と言われますが、早食いの癖がどうしても抜けず、あっという間に食事を終えてしまうというのを、糖尿病対応の食事の見直しをきっかけに、もう少し改善することにしました。

 その方法というのは、食べ物を口の中に入れたなら、それが無くなるまで、噛む回数に合わせてどこまで経文を唱えられるかをチエックするというやり方です。「観・自・在・菩・薩・行・深・般・若・波・羅・蜜・多・時・・・・・・」というように、1回噛む毎に1字ずつ経文を唱えるのです。これを噛み終えるまでにどこまで唱えられたかを繰り返し、少しでも多く唱えられるように、そして一字一字しっかりとイメージして、先に進んで行くのです。大体が「無・老・死・・」の辺りで終わることになります。即ち120回ほど噛んだことになります。このやり方では経文の全てを読み終えることは不可能ですから、時々唱えるのを開始する箇所を先に進めて変更するようにして取り組むことにしています。これがすっかり身につけば、全ての経文を呑み込むだけではなく、よく噛むということも身につき、まさに一石二鳥です。

 ところで、今日の話は、坐禅に係わるもう一つの称名である和讃についてです。和讃というのは、日本語で仏教の教えを讃えるために作られた韻を含んだ文章というか句というか、詩文のようなものです。幾つかある中で、私が覚えたのは白隠禅師の坐禅和讃でした。白隠禅師は江戸時代前期の臨済宗中興の祖と呼ばれた方ですが、この方の作られた坐禅和讃が最も有名ではないかと思っています。というのも私は他の和讃には興味関心がないものですから、知らないのです。

 その昔20代の終わり頃に禅に関心を持ち始め、坐禅を心がけるようになりました。座禅というと直ぐに悟りとか無念無想などということばがイメージされますが、私の場合はそのようなものではなく、健康法(特に精神的側面での)として有効ではないかと考えたからでした。坐禅が何故健康法なのかといえば、それは呼吸法が大きく影響しているように思います。座禅の呼吸法というのは、簡単に言うと腹式呼吸で、吸う息よりも吐く息の方により長い時間をかけるというやり方です。例えば吸うのが5秒なら、吐くのには10秒かけるという風にします。馴れてくると1呼吸に1分くらいかけられるようになります。深い呼吸に瞑想を加えて座るというのは、まさに調息・調身であり、それゆえに調心につながるというわけです。

 これだけでも健康に良いことに気づかれると思いますが、私の場合はある方から白隠禅師の軟蘇の法という話を聞いたのがきっかけでした。大変病弱であった白隠さんがその病を克服した方法というのが、「夜船閑話(やせんかんな)」に書かれている軟蘇の法という坐禅の仕方だったとのことです。「夜船閑話」というのは、白隠禅師の著書のタイトルで、坐禅の体験法というか、心身の健康を取り戻されるための方法論を述べられたものです。このことについて述べると長くなりますので止めますが、軟蘇の法についてちょっとだけ話します。

 軟蘇の法というのは、簡単にいえば、坐禅におけるイメージ法です。「蘇」というのは古代のチーズのことですが、私的にはバターに近いチーズのようなものと考えています。さて、その実際ですが、先ず坐禅の体勢を取ります。足を組み(=結跏趺坐)、手を組み(=法界定印)ます。そして臍下丹田(=臍の下10cm辺り)に意識を集中するようにして、背筋を伸ばして座ります。結跏趺坐が難しい場合は、半跏趺坐でも差支えなく、或いはそれも難しい場合は椅子に座ってでも良いのではないかと思います。このようにして体勢が整いましたら、呼吸を整えて瞑想に入るわけですが、この時自分の頭の上に「蘇」というものが載っていることをイメージします。深く、強くイメージするのです。そして、この「蘇」というものは、自分の心身の病の源となっているものの全てを、その中に汲みとって、体外に排出してくれる、そのような力があるものなのだとイメージするのです。頭の上に載せられた「蘇」は、ゆっくりと呼吸を続けている間に、最初は固かったものが次第に柔らかくなり、溶け出して、やがてそれがゆっくりと身体の心奥の上部から下部に向かって、その隅々まで溶け下りながら、体内心身の毒素を吸い取ってゆく、そのようにイメージするのです。1時間ほどかけて座っている間に、溶けた「蘇」はやがて身体から外に出てゆきます。そこで坐禅は終わるのです。イメージトレーニングそのものですが、呼吸法と併せたこの坐禅の力は素晴らしく、私は何度も自分の危機を救って頂いた感じがしています。

  なかなか本題に近づけませんが、ま、このような坐禅のやり方に興味関心を持てば、当然白隠という方について関心を抱くことになり、そして坐禅和讃にも触れるということになります。それで、般若心経の覚え忘れの事件から、こちらの和讃の方はどうかと気づいて、チエックしてみたのですが、いやはや、こちらの方の欠落は、もっと散々なものでした。心経の方はどうやら回復の兆しが見えていますが、和讚の方も何とか記憶を修復しようと、只今そのことに心がけているところです。俄か仏教徒になった感じですが、勿論偽坊主です。でも、せめて般若心経と坐禅和讃の二つくらいは、あの世に旅立つまでしっかり身につけておきたいものだと、改めてその意を強くしたのでした。

  私は白隠禅師の大ファンで、京都の禅文化研究所の発行する白隠禅師の法話全集というのを全巻取り揃えています。15冊ほどあって、各巻ともかなりのボリュームです。まだ全然読むに手を付けていません。その内にと思っていたら、早や古希を過ぎ70代も1年を経過してしまいました。もう今が読み時のような気がします。老をどう生きるかを、白隠様のお話を伺いながら、じっくりと考え、くるま旅の意義をもう一度考えても見たいと思っています。

MRIの検査を受けたことから始まった、とんでもない大きな刺激でした。検査結果は大したこともなかったのですが、これら大きな刺激を得たのは、実にありがたいことでした。これからは、くるま旅の間にも白隠様の著書を携行して、ボケ防止に努めて行きたいと考えています。真にとりとめもない話でした。

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般若心経の欠落に仰天

2012-03-05 00:13:58 | 宵宵妄話

  つい先日MRIの検査を受けました。昨年来の右肘の痛みが一向に改善されないので、より正確な検査をした方が良いという医師のアドバイスに基づいたものです。MRIというのは電磁波による検査装置というもので、検査時には相当の騒音があるとの予告説明を受けました。MRI検査の話は聞いていても、自分自身がそれを受けるなどということは勿論初めてのことで、どうも気乗りはしないのですが、検査の結果、正確な原因や状況が把握でき、より有効な処置が可能ならばそれに越したことはないと思い、とにかく受けることにしました。

 

  当日が来て、朝一番の検査となったのですが、聞いていたとはいえ、些か閉所恐怖症の気味のある自分には、一時ではあれ、丸っこい筒の中に閉じ込められるのには、やはりかなりの抵抗を感じました。しかし、駄々っ子のようなことを言っている場合ではなく、検査技師の方の説明を受けた後は、もはや諦めるしかなく、おとなしく台の上に収まったのでした。

 

 検査が始まると、確かにうるさい音が飛び込んできました。予めその騒音を紛らわせるために、ヘッドフォンを付けさせられ、そこから音楽が流れてくるのですが、何の曲だか判りませんが自分の好きなものとはちょっと違ったものでした。とにかく2種類の音でその喧騒度はかなりのものでした。さて、これをどう凌ぐのか。人によっていろいろな対処法があるのだと思うのですが、私の場合は、こんな時は般若心経を唱えることにしています。

 

 般若心経は、20年ほど前に思い立って全文を暗記しました。爾来お寺に参詣した時は、必ず唱えることにしています。人が大勢いるような時は、声を出さずに誦すことにしています。仏教の信徒という自覚はないのですが、不断の暮らしの中で、お経の一つくらいはものにしておきたいと考え、通勤の途中を歩きながら、称名の録音テープを聞き、手元の経文のメモを見ながら覚えたのでした。どうせ覚えるなら、唱えるだけではなく、書くこともできるようにと、こちらの方も経文など見なくても何とか書けるレベルに辿り着きましたし、又経文の意味の方も自分なりの解釈が出来るようにと、あれこれ先人の解説書などを読み漁りながら、どうにか一通りの理解をものにしたのでした。

 

 で、MRI装置の円筒の中で、繰り返し経文を唱えていたのですが、ふと気がつき、お経の文字の方をちゃんと覚えているかチエックしてみようと思いました。順番に一字一字を思い浮かべながら進めていったのですが、途中で、どうにも思い起こせない箇所があるのに気づき、愕然としました。唱えるだけなら、もはや自動的に声となって流れ出てくるのですが、文字の方となると、これはいけません。例えば「ねはん(=涅槃)」ということばがありますが、この「ね」の方が出てこないのです。また、経文の中には「そう(=相・想)」と読む2種類の文字があるのですが、これの使い分けに自信が無いのです。どちらだったか迷っているということは、経文の理解についても文字の意味を忘れているということになります。こりゃあ、まずいぞ、と思いました。早い話ボケが始まったのではないかという驚きです。ハッキリしないのは数カ所だけだったのですが、でも、これは自分にとってはショッキングな発見でした。

 

認知症が始まったわけではないとは思うものの、記憶の脱落は物忘れ以上に危険な兆候ではないかと思っていますので、不断何の心配もなく唱えている経文の文字や文章が、いざ思い出そうとする時にこんな状態になっているとは、思いもかけぬことでした。そのことに気づいた後は、もはやMRI装置内の騒音も音楽も、殆ど耳に届かなくなりました。そんな騒音なんぞはどうでもいいことであって、とにかくこの検査が終わったら、家に帰って自分の頭の中をチエックする必要があると、それだけを考えることとなってしまいました。

 

検査が終わって、その結果データを元にした医師の説明を聴きました。パソコンの画面には、先ほどの騒音と一緒に作りだされた自分の右肘の断層写真が鮮明に映っていました。それによるとテニス肘(=上腕骨外側上顆炎)の方は見立て通りであり、未だ炎症が治まっていないとのことです。加えて肘が痛いのは、関節の中に炎症を起こしている部位があり、それが原因で僅かではあるけど水が溜まっているとのことでした。この後、これがひどくなった時には、針を入れて水を抜くという処置があるという話でしたが、そのような恐ろしいことは勘弁して貰いたいと思いました。幸いまだそれほど悪化しているわけではないので、しばらくは様子を見ながら今までと同じように、湿布薬を貼付することで対処して行くとのことです。結果的には今までと同じであり、ちょっぴり無駄だった様な気もしましたが、肘の状態をしっかり確認出来たことだけでも、安心の材料としては良かったと思います。

 

さて、問題なのは、般若心経の文字の記憶喪失の方です。これは医師に相談するような問題ではありません。自分自身の問題です。家に帰ったら全文をもう一度書き出してみようと思いました。で、早速家に戻り机に座って、書いてみました。すると慎重になればなるほど、思い出せない字が増えてくるのです。何度も経文を繰り返しながら、忘れた文字を思い起こそうとするのですが、やっぱり出てきません。そのようなことをしている内に、今度は経文の方まで順序がおかしくなりし出して、途中で思い出す作業は止めることにしました。その結果、諦めて経文の書かれた本を見ることとなった次第です。いやあ、この間の苦闘と言ったら、我がことながらそれはもう大変なものだったのです。

 

しかし、書かれた経文を見てみますと、何とまあ、簡単な文字ではありませんか。不思議なことに難しげな「耨(のく)」だとか「羯(ぎゃ)」などという字は忘れていないのに、「究(く)」とか「涅(ね)」などという字が出てこなかったのです。改めてお経の文字を見てみますと、「なあんだ、そうだったのか」ということばかりなのです。難しい入試問題などでも、解答を見ればなあんだと思えるものが結構ありますが、この経文については、問題を解くなどということではなく、ただ文字を思い出すというだけのことなのですから、こんな簡単なことは無いはずなのです。それが思い出せない。それ故にこの記憶喪失は恐ろしいなと思った次第です。

 

ものごとを忘れないようにするにはどうしたらいいのか?その答は簡単です。常に忘れないような状態を作っておけばいいのです。このことについては、私には一つの哲学があり、それをベースに方法論を考えることにしています。その哲学というのは、ものを覚えたり忘れないようにするためには、五感を最大限に活用するということです。五感というのは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚を指しますが、例えば般若心経を覚えるのに、ただひたすらお坊さんの唱える言葉をなぞり、耳を通して記憶するよりも、書かれている経文を目で見、その文字を声を出して書きながらという風に、より多くの身体の感覚機能を加え使って覚えた方が、より確実に身につくと思うのです。私自身そのようにしてこの経文を覚えたのでした。

 

失われた文字の記憶を取り戻すためには、もう一度同じ方法で覚え直すしかありません。これは一々面倒くさいことですが、最初に覚えた時よりはずっと楽のように思います。ということで、失われた記憶の修復作業は、とにかくもう一度手本を見ながら、経文を一字ごとにノートに書き込み、声を出すようにして、復習を開始しました。そのためにスーパーの子どもの文具売り場に行き、ジャポニカ学習帳・こくごの8マスのノートを買ってきました。どうせやり直すのなら、漢字の書き方の練習を兼ね、ペン習字と毛筆とを交互に使い分けながら、書き取りを楽しんでやろうと思った次第です。

 

今のところ、このような楽しみに転換する気持ちが残っていますので、この程度の記憶喪失ならば、何とか修復可能ではないかと思っています。しばらくの間は毎日経文に触れ、墨の香りをかぎながら筆をとることにしています。万年筆では、どうしても右腕の肘の痛みがひどくなってしまいますので、筆の方が楽のようです。やがていつの日か、もっととんでもない大きな落とし穴に落ち込むことが無いよう、要注意だなと思いました。いやはや、とんだ老人の苦悩ぶりを愚痴に綴ってしまいました。

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