山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

後楽は終わりに近づく

2007-10-31 05:18:27 | 宵宵妄話

10月になってから書き始めた今年の北海道くるま旅くらしの記録がようやく終わりを迎えようとしている。既に本文も別冊分も書き終え、後は写真のページと表紙を作り上げ、印刷の準備に入るだけである。100頁を超えるボリュームとなってしまったので、自分の力で上手く製本が出来るか自信が無い。ま、何とかなるだろうとは思っているのだが。

何日か前のブログで、後楽は苦楽などと駄洒落を言ったりしていたが、旅の振り返りは楽しくても、当座の目的である記録の方がさっぱり前へ進まないので、ついつい愚痴となってしまった。楽しむのも悩むのも同じ自分という人間なのだから面白い。

振り返りはやっぱり楽しい。その時々の感動を思い起こし、今年も旅に行ってよかったなあと思うのである。2ヶ月の旅を1ヶ月もかけて振り返るのだから、考えてみればずいぶん気長というか、贅沢な時間なのかもしれない。

普通のビジネスならば、レポートはせいぜい1週間以内にはまとめて出す必要がある。現役時代に監査という仕事を担当したことがあるが、社内各事業所の業務遂行状況をチエックしてその結果をトップに報告するのだが、各監査担当者に1週間以内にレポートの提出を求めたら、無理だなどという顔をされたことがある。そのようなことを要求した私が、今は1ヶ月もかけて自分なりのレポートを作成しているのは、自由であり、楽しみながらできるからなのであろう。

監査などという他人の仕事のアラを探すような仕事は、もともと自分の好きな仕事ではなく、バカバカしくなって早めに会社を辞めることとなった。社内監査というのは、トップが問題点を探るというよりも、報告を聞いて安心したいという雰囲気があり、こちらから問題提起しても何のアクションもとらないのだから、やってもあまり意味が無い。最近は監査の問題が騒がれていないようだが、あれは社外監査のことであり、社外監査にして馴れ合いが多いのだから、社内監査の扱いがどのようなものかは推して知るべしである。サラリーマン経営者には、社会正義を見通せる重厚な人物が少ないように思う。お話は一見立派だが、肝の力(=胆力)も見識も薄いような気がする。(これは評論家の言い過ぎかもしれない)

楽しくない仕事はしたくないというのは我ままであって、組織においては許されるものではないのだろうから、許されなければ辞めるしかない。決心には時間が要ったが、今でもそのことは後悔してはいない。会社は好きだったが、終わり近くになって仕事のミスマッチが巡って来たのは残念だった。楽しい仕事というのは、それがつらくても自分の思いを打ち込めるやりがいのある仕事である。私は、人生というのは最後までそのような仕事を追いかけて良いのではないかと思っている。

何はともあれ、旅の振り返りを存分に楽しめるのは幸せである。地図や資料を見ながら、メモ記録をたどり、写真を眺め、ブログを覗き、更には日記までも読み返せば、忘れていたこともありありと思い起こせるのである。勿論それらのすべてが良いことばかりとは限らないが、トータルすればすべて良いことへ転化できることが、過去の出来事の特性といえよう。

辛く恨みの籠もった出来事も、遠く時間が過ぎればなぜか懐かしい気分に変わるものである。過去というのは、いやな出来事でもそれに拘泥するのではなく、起きてしまったこととしてきっぱりと認知し、現在とは違うし、ましてや未来とは何の関わりも無いと思うのが良い。

旅にはそれほど重い負の印象の出来事は少ない。私の場合は、それが近い過去であってもすべて楽しい出来事として、記録をまとめる度に旅の本番とは違ったもう一つの旅を味わっているのである。
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日本RV協会のシンポジウムに思う

2007-10-30 09:20:09 | くるま旅くらしの話

孫台風が去った後、昨日は朝から千葉へ行く用事があってブログを書く暇がなかった。朝一番で町田編集長(キャンピングカースーパーガイドオンライン)のブログを拝見したら、先日のシンポジウムの討議内容が日本RV協会のホームページにアップされたとあった。ゆっくり読む時間もなく、夕方に戻ってから再度目を通させて頂いた。しばらく時間が経っているので、その時のことはやや忘れかけている部分もあったが、ホームページに目を通している内にいろいろとその時のことが思い出されてきた。

「より良きくるま旅を目指して」というテーマで開かれたシンポジウムは、私の場合は予め次の4項目についてユーザーの立場から考えをまとめて発表して欲しいとのお話を頂戴していた。①キャンピングカーユーザーの使用実態はいかなるものであるか。そこにはどのような問題点が潜んでいるのか。②将来のキャンピングカーユーザーの宿泊場所として、どのような場所が相応しいのか。又新しい宿泊施設として、どのような場所が開拓できるのか。③宿泊・休憩などによって生じるゴミ問題およびマナー違反問題などを解決するための有効な方法はありうるのか。④環境保全が社会の要請としてクローズアップされるような時代を迎え、キャンピングカーを製造する者と使用する者とが一体となって、社会に提案できるテーマはあるのか。

これらのテーマについて各パネラーがそれぞれの意見を展開し、それをもとに会場の来訪者と共に討議が行われたのだった。その内容が今回発表されたわけであるが、よくまとめられていると思った。

会場のひな壇()に座っていると、自分の考えをまとめることに精一杯で、他の方々の考えの真意を把握するのはなかなか難しい。トータルとしての討議の流れと印象的だった意見は覚えているが、細かなことは最初から頭の中に入って来なかったようだ。私は他人の話は努めて良く聴くように心がけているのだが、話される方と自分との基盤が異なる場合は、最慎重になるため理解に時間がかかり、即応的な自己の見解を主張することがうまくできないのである。後になってようやくその真意みたいなものを理解しかけるのであるが、その時は既にもう遅いということになる。

今回のシンポジウムでは、4つの立場(マスコミ、ユーザー、キャンプ場、メーカー)からの意見に基づいた討議だったが、後になって一番感じたのは、「くるま旅」についてのコンセプトというか考え方、受け止め方が大分違うんだなあということだった。マスコミはくるま旅はまだまだ認知していないし、キャンプ場はくるま旅を遠くから見ているようだし、メーカーさんは良いくるまをつくることに懸命で、ユーザーがどのようなくるま旅を求めているかを考えるまでには至っていないと思ったのである。

「より良いくるま旅」を求めるためには、くるま旅が何かについて、共通の考え方の基盤が必要に思う。要するに、車を使って旅をするのがくるま旅なのだという考え方だけでいいのかなと思った。

私はくるま旅というのは、現役の方では特別の人を除いてはできないのではないかと思っている。それが可能となるのは、リタイア後なのだと思っている。それゆえ、自分の意見はリタイア後の代表のつもりで申し述べさせて頂いたのだった。もっと具体的にいえば、週末休日や有給休暇などの時間を捻出して短期間のアウトドア生活を楽しむのは、くるま旅ではないと思うのである。その人たちには本来のキャンピングカーが相応しいと思うのだが、私のイメージする旅車は、同じような車であってもモーターホームと呼びたい存在である。

長い間の仕事を終え、リタイア後の生活のために蓄えた少ない原資の中から、それでも自由な旅を楽しんでみようと思い切ってお金を引き出し、キャンピングカーなる車を手に入れる決心をした、そのような人たちがくるま旅を目指しておられるのだと思う。決して小金持ちの贅沢な遊びでなどではない。相当にまじめな決意なのだと理解したい。このような前提がなければくるま旅は成り立たないというか、世間に認知を求めるようなものではないと思うのである。

今回の討議ではそのような捉え方ではなく、一般論、全般論のような気がした。発表者が思い描くくるま旅は多種多様であり、そこで引き起こされる問題も多種多様に違いない。その所為なのか少し論点がかみ合わないようなことがあったような気がする。しかしこのようなシンポジウムが開かれたことには大へん重要な意義があると思っている。大所高所からくるま旅を論じたのは、わが国では初めてのことではないか。とうの昔に車社会となっているのに、今までその車を使って旅をする人たちのことが論ぜられたことはなかったように思う。これが私の願う新しい旅の形としてのくるま旅くらしの、大いなる前進のきっかけとなって欲しいと思っている。

ところで、再び主張するとすれば、今のところ一番なのは、やはりくるま旅のインフラの一つとしてのMHP(モーターホームポート)の実現ということになる。MHPというのはアメリカやヨーロッパから見れば月とすっぽんの簡易宿泊駐車施設なのだが、わが国にはそれすらも無いのである。そのような施設が無いというのは、もしかしたらわが国の心というか文化の貧しさなのかもしれない。否、そうではなくて、今でも自転車操業のように働き続ける人がいないとこの国は成り立って行かないのかも知れない。リタイア後に自分の人生を振り返りつつ、残された人生をより心豊かに生きて行くための力を旅の中に見出し、つくってゆこうなどというのは、幻想なのだろうか。MHPも自分で造れるものではなく、遠くから見えない相手に叫んでいるに過ぎないような感じもする。しかし、もう少しこの叫びというか、願いの声は誰かに届くまでは止めることはできないと思っている。

シンポジウムについてより詳しくお知りになりたい方は、次のところにアクセスしてください。(リンクが不調なものですから)

○「町田の独り言(キャンピングカースーパーガイドオンライン誌)」→ http://www.campingcar-guide.com/  10/29分をご覧下さい

○日本RV協会ホームページ → http://www.jrva.com/

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二つの嵐

2007-10-28 10:12:46 | 宵宵妄話

朝の散歩を終えて家に戻ったら、万歩計は1万4千歩を超えていた。約2時間の小さな旅だった。澄み渡る青空の下での歩きは、歩いて見なければわからない幸福な時間である。

昨日、我が家には二つの嵐がやってきた。その一つは秋台風であり、もう一つは孫台風である。今朝になってその一つは駆け去り、もう一つは滞在中である。

秋の台風は、時として大暴れをして被害をもたらすことがあるが、昨日の台風は大した被害も出さずに走り去っていったようである。もうすぐ11月だというのに、何を血迷ってわざわざやって来るのだろうか。時速80km近いスピードというのもあまり聞いたことのない速さだった。異常気象の話はもはや常識化しつつあるようだから、この台風などは大して問題にはならないレベルなのかも知れない。

それにしても今朝は抜けるような青空が広がっている。西の方には満月を過ぎた月が色褪せて留まっていた。久しぶりに台風一過というのを実感した。冬の雪が一切の汚れを覆い隠してしまうのとは違って、台風は曖昧に霞む大気の汚れを吹き飛ばし、今まで隠れようとしていたものを俄然鮮明に浮き出してくれるところが良い。台風などを賞賛しても仕方ないが、一過の後の青空はせめてもの慰めではある。

もう一つの台風は、依然滞在中である。願わくはもう少し滞在していて欲しい。何しろ孫達とは年に2、3度しか会えないのである。二人の孫娘は上が小3、下が小1なので、幼稚園の時とは違ってジジババのわがままが通らない。安易に学校を休ませるようなわけにはゆかないのである。今回は先日買ったパソコンの調子が悪くて、再度倅に見てもらう必要が生じたので、一緒に来て貰うことにしたのだった。今年4月以来の再会となってしまっていた。

二人ともチョッピリ大人になったようである。学校は楽しいか?の問に、二人ともうん、と言ってくれたが、下の方は、でも楽しくない時もある、と言っていた。そうだと思う。何もかもが楽しくて仕方ないなどということが続く世界などあるはずも無いのだから、その答えは現実的で正解であろう。子供の世界でも大人の世界でも人間というのは、小さな逆境体験の積み上げを通して強くなってゆくものだと思う。孫達の世界がどのようなものなのかは到底想像できないけど、時々話題となるイジメなどいうことには、あまり係わって欲しくないなと願っている。今見たところでは、いじめる側でもいじめられる側でもなさそうなので、まずは安心している。

二人とも新体操の教室に通っているとかで、何やらアクロバット風の動きを、畳みの上で披露していた。何年か前までは、箱をひっくり返しぶち撒けて遊んでいたブロック工作なども、もう遊びからは遠くなってしまったようだ。静かになったかなと思うと、二人してテーブルに向って、一心に漫画のような絵を描いていた。以前と比べると線もなかなかしっかりとして来たようだ。今頃の子供たちは、特に女の子たちは少女マンガの主人公などを描くのが流行しているのだろうか。来る度に少しずつ上達していることは確かだが、それに目を細めつつも、心の芯の線もしっかりと育っていって欲しいと願っている爺さまなのである。孫台風の一過後は青空の爽やかさのようなわけにはゆかず、安堵感と寂しさがしばし家の中に漂うのである。

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再び亀田問題に思う

2007-10-26 13:17:40 | くるま旅くらしの話

気分転換に朝風呂に入ることにして、沸いたのを知らせるチャイムが鳴ったので風呂場に向かおうとしたら、ボクシングの亀田問題の記者会見が始まった。しばらく風呂のことは忘れてその中継を見た。ジムの会長の話に続いて、5分も遅れた亀田家の長男の謝罪会見が始まった。

この頃はボクシングによらず似たような謝罪画面を見ることが多い。やな世の中になったものだ。謝罪場面をたくさん作り出すことが必ずしも世の中の浄化につながるとは思えない。何故なら謝罪の弁明は、多くの場合二重三重に世の中をだましているからである。それを見ている人々は、その謝罪を認めて彼らの反省を素直に受け入れるよりも、当事者をバカにした挙句、単なる批判者の冷たい優越感に浸って、それで終わってしまうからである。そしてしばらくすると、又同じような謝罪場面が繰り返えされるのである。

亀田興毅の記者会見は、幼い子供がその言葉の意味も解らぬまま、ひたすらにごめんなさいを言い続けているのに似ているような気がした。言い訳はしないという覚悟は立派だと思うけど、大人というのは説明責任を果たす義務があると思う。しかし記者からの質問に対してその責任を果たしているとは到底思えなかった。言い訳をしないというのは、記者の質問に対して「すべておっしゃるとおりです」と認めることであろう。しかし説明が無ければ、質問した方も何だか拍子抜けになってしまう。誘導的な質問は、例え期待通りの回答を引き出したように見えても、本人の言葉ではないのだから、事実関係としてはボヤケてしまうのではないか。

彼が記者からの質問に答える力が無いのは明らかだ。今まではすべてマイペースで、ちゃらちゃら英雄気取りの感覚的な思いつきの言葉しか使っていないのだから、本当に相手に解るように話をするなんて、できるはずも無い。そのような訓練は一切受けていないし、受ける必要も無かった。只ボクシングの試合で勝つという結果を出せばよいということしか教えてもらえなかったし、そのためには相手を傷つけようが、世間の批判を浴びようがお構いなしという経験を積み上げただけなのであるから。

彼らの言動を見ていると、子供の頃から親子4人がマスコミに見初められ、世間という垣根の外で、ボクシングに勝つためには手段を選ばないというような、歪んだ純粋培養のような育てられ方をしてきたように思えてならない。相手を罵倒するのも、愚劣なパフォーマンスも、相手をめげさせて試合での自分を有利に持ってゆくための真剣な行為だったに違いない。見方を変えれば、その恫喝や悪意に満ちたパフォーマンスも、コップの中で踊る操り人形の拙い芸に過ぎないものだったのかも知れない。その意味で彼らは明らかに今の世の犠牲者のグループに仕分けできるのではないか。

しかし、かといって簡単に同情はできない。記者会見では、彼らの親子関係について盛んに質問が飛んだが、興毅君は見当違いのところで親子の絆の大切さに思いを馳せていた。誰がなんと言おうと俺の親父は大事であって、その絆を断ち切ることなんてできない!と。それは当たり前だ。親子の絆などどうでもいいなんて、誰も思わないし、絆無用論を言う人がいたら、それは人間を解らない哀れな偏屈者に過ぎないだろう。

問題は絆ではなく、一人の人間、すなわち社会的な存在として自立できているかということなのだ。簡単に言えば親離れ、子離れができているかということだ。そして自立できているということは、決して親子の絆を脅かすものではない。興毅君はまだそこが解っていない。これから新しい亀田スタイルをつくって行くという意気込みは評価するが、自立が叶わなければ、その実現は相当困難となるに違いない。 どのような人間でも、例えば斯く言う私自身も、親から離れて自分を確立するまでには、相当時間がかかっている。自分には親子べったりなどという感覚は微塵も無かったけど、それでも自立を確信できるまでにはそれなりの時間がかかった。亀田家は、親子だけではなく兄弟同士もべったりであるように見える。よく言えば大へん仲が良いし、悪く言えばもたれあっているに過ぎない。一人ひとりが自立した上での仲の良さであれば素晴らしいと思うが、未だそのレベルには達していないように見える。

今回の一連の事件では、考えさせられることが多かった。単なる興味本位ではなく、今の世の中の核心に触れる問題を内包しているように思った。その最大のものとして二つあるように思う。

その一は、個人と社会とのつながりが認知できない人間が増えていることだ。社会的な成功は、それがどのような分野であれ、個人と社会、即ち私と世の中の関係をきちんと理解認識していない限り、やがては崩壊する。それは当然のことだ。何故なら個人という存在が、社会との関係において成り立つのが人間世界だからである。この意味において、興毅君はもとより彼の尊敬するその父親もまたこのことを認知も理解もしていなかった。そしてそのような人間は彼らだけではなく、今の世に満ち溢れているように思う。

もう一つは、このような人間を大量生産しているこの世のあり方である。その要因としては様々なものが考えられるが、今回の事件との関連ではマスコミのあり方が極めて大きいと思う。視聴率などという損得の物差しで世間を興味本位の話題へ誘導し、人々の善悪の判断をさえ狂わそうとしているような気がする。そして都合が悪くなると頬被りして済まそうとする。今回の報道では、最も関係の深かった放送局が、記者会見を中継しなかったのをどう見るべきなのか、すっきりしないものが残る。マスコミは画像や文字を通して世間に計り知れない影響を及ぼしているということを、もっともっとまじめに考えて仕事をして欲しいと思う。報道の品性において、あまりに落差の大きなやり方をしないで欲しいと思う。世の中をダメにするのではなく、安心して元気が出るような働きをして欲しいと思う。

何はともあれ、出直しを期す若者の決心は支持したい。そして、これから指導に関わる人たちは、彼らを本当に強いチャンピオンに育てて欲しい。本当に強いチャンピオンは、相手の弱さを思いやる心の余裕が無ければならない。それをなくして思い上がった時、その生命は絶たれるのである。歴史上の人物の多くがそれを証明している。信長も秀吉も、思い上がった結果が滅亡の端緒となっているのだ。

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旅の反省(寸感)

2007-10-26 07:10:22 | くるま旅くらしの話

北海道の旅から戻って2ヶ月が経とうとしている。その記録を10月になってから書き始めて、さらに1ヶ月が近づいている。今回は2ヶ月の旅だったので、必然的に枚数も多くなってしまう。あまり多くならないようにと考えすぎると、唯の記録メモとなってしまいそうで、迷いながら書き続けてきたのだが、どうやらそれも終わりに近づいた。結果的には100頁を超えてしまいそうである。

書いていて時々思うのは、後楽などと言いながらも前の年とあまり変わっていない暮らしぶりにあきれ返って、いっそ「今年も去年と同じこと」と書いて締めてしまおうかなどということである。確かに2ヶ月間の時系列を追って、何処で何をして、誰と何処であって何を話し、等など旅の出来事は一通り振り返ることはできるのだが、くらしの本質にはあまりインパクトがないなあと気づくのである。記録自体がだんだん精彩を欠いてきているような気がしてならない。別に取り立てて良いものを書こうとも思っていないし、そのような能力があるとも思っていないのだが、時々このような思いに駆られるのはどういうわけなのだろう。

どのようなことにもマンネリ化は付きものだとは思うが、常に新鮮で活き活きと取り組める旅のテーマは無いものだろうか。旅の経過だけを書くのではなく、旅そのものの中にやりがいや生きがいを見出せるようなものが欲しくなるのである。蕉翁には俳句があった。山頭火には句の限界を超える言葉があった。そして多くの絵描きには旅は必需品となっている。自分の今のような旅だけでは、マンネリ化は進む一方のような気がするのである。

今までの旅のあり方の中に何かを付加し、それが柱となるような新しい何かを見つけ出さなければならないなと思った。少し時間がかかるかも知れないけど、このままでは旅の認知症の世界に埋没して行ってしまいそうな感じがする。

そう思いながらも、やっぱり旅の記録は残しておかなければならないだろう。それが単なる自己満足のためであっても、生きている証を自分自身で確認できる材料としては、意味があるように思うのである。いささか連日の書く作業に疲れての愚痴となってしまったようだ。

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車好き

2007-10-24 09:39:03 | 宵宵妄話

くるま旅を本格化するようになって、ふと気づいたのだが、私の周りには車好きの人が多いようだ。知り合いの中で最高齢のFさんは今でも日に500km近くも走ったりする人だし、その他Wさんは遠距離フェリーなどを利用することなく、四国は松山から列島を北上して北海道までを往復されているなど、驚異的な方を始め、ソーラーを初め諸装備をすべて自身で取り付けられて、プロ顔負けの技術・技能を発揮されているTさんなど、大勢の車好きの方がおられる。

車好きには2種類あるようだ。その1は、車そのもの即ちハードに関する部分に興味があり、修理はもとより改造までも手がけて自分の車に満足するまで諸機能を追及するタイプ。その2は、車の運転が好きで、とにかく車に乗って運転さえしていればそれだけで幸福感を味わえるというタイプである。勿論本当の車好きというのはこの両方を兼ね備えた人であることは言うまでもない。

私といえば、元々はアンチ車派だった。騒音と排気ガスを撒き散らし、傍若無人に道路を専横する車を憎しみの目で見ていたのである。せいぜい50㏄未満のバイクくらいまでは許すとしても、それ以外のエンジン付の車には友好感を抱かなかったのである。もっぱら自転車を愛好し、自転車の邪魔になる車などは忌避すべき存在でしかなかった。かなりの曲がった、嗤うべき根性を持っていたのだった。それは今でもかなり残っているのかもしれない。

そのような自分が運転免許を取る気になったのは、結婚して長男が生まれたからである。もともと動き回ることが好きで、家の中でじっとしていることができない性格なのだ。子供も家に閉じ込めていないで、外に出て広い世界を見せてやりたいなどと、赤ん坊の時から連れ出す算段ばかりしていたのである。そうすると、自転車の範囲では限界がある。やっぱり車がないとダメだなと思い、やむなく近くの教習場へ通い免許を取得したのだった。

往時はモータリゼーションなどという言葉がまだ生きていた時代で、車社会の到来は間近に迫っていたものの、購入した中古車の性能は劣悪で、乗れば必ず故障をするといった有様だった。それでもめげずに車に子供を乗せて動き回っていたのだった。やがて何とか新車を手に入れた頃から、車に対する認識は少しずつ変わり始め、今日に至っている。しかし、アンチ車派から出発した原点は100%の転向を実現しているわけではない。私が車を好きなのは、移動手段として不可欠という認識の下に、運転することに関してだけのように思う。前述の第2のタイプに当てはまると思っている。しかし運転さえしていれば幸せということではない。何処かへ行くという目的や目標がないと車に乗る気も運転する気も起こらないのである。そして目的や目標が決まれば、運転に疲れを覚えることはあまりないという変なタイプなのだ。

くるま旅をしていると、メカや電気関係などハードの部分に強くないと困ることが結構多い。しかし私の場合はこれらに関してはまったくダメなのだ。知識も技能も殆ど無能に近い。この部分に関してははっきり言って好きではない。本当は嫌いだといった方が当たっているのかもしれないが、それを言っちゃっちゃあお終いよ、となるので控えているだけなのだ。それには深い理由があるのだが、それは話さない。

というわけで、私は真に危うい車好き、運転好きなのである。最近の車は、以前とは比べようがないほど性能が良くなっており、私のような者にとっては、大変ありがたいことだと感謝している。

くるま旅には車が必要不可欠の要件となるけど、車が先にあるのではなく旅が先にあると私は考えている。旅をしたいから車が必要なのであって、車があるから旅をしようというのではない。ま、このようなことにやたらにこだわる必要はなく、どちらが先でもいいではないかという考え方の方が適切なのかもしれない。

それにしても、もし長男が生まれなかったら、今でもアンチ車派は続いていたのかもしれない。さすれば、くるま旅などというものは思いつくはずもなく、理解の果てに在ったに違いない。同世代で運転免許を未だ取得されていない方を何人か知っているけど、彼らにはくるま旅くらしなどは到底理解できないだろう。周りの車好きの方たちとの出会いに感謝しながら、自分ももっと車好きにならなければいけないのかもしれないなと思ったのである。

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今日の散歩から:水戸街道を歩く

2007-10-23 09:01:55 | 宵宵妄話

今日もまた歩きの話である。糖尿病を宣告されて以来、歩きは日課となった。最初のうちはがむしゃらに歩くことだけを心がけていた。しかし、だんだん歩くことがバカらしくなって、何でこんなに歩かなければならんのだと思うようになった。それでも、医師の注意を枉()げて理解し、少々の酒を飲むためにはやはり歩かなければならないのだ。

そこで考えたのは、何とか歩きを楽しくしようということだった。何の目的も楽しみもなく只管(ひたすら)歩くだけでは、苦痛だけが残って長続きはしないのだろうと思ったのである。そこで最初はTVまで聴ける高性能の携帯ラジオを買った。これで会社に着くまでの間に、今日の社会の動静はニュースを繰り返して聞くことで確実にものにした。FM音楽も楽しい。2時間ほどの歩きもさほど気にならなくなった。

このようなことを書いていると、今日の本題からどんどん遠くなってしまうのでやめることにする。とにかくそれ以来もう間もなく20年近くになるが、歩く楽しみは途絶えることはない。今日は水戸街道の話を少し書きたい。

水戸街道というのは、江戸から御三家の一つがあった水戸へつながる古い道だ。黄門様も時には通られた道でもある。現在の水戸街道といえば、国道6号線を指してそう呼ばれているが、それが昔の道とどう重なっているのかはさっぱり解らない。かなり違って、もしかしたら殆ど違っていて、今の道を黄門様が駕籠に乗られたら、「これこれ、ワシを何処へ連れて行くんじゃ」と駕籠を停められるのかもしれない。

今日は家内のつくば行に同行して、つくば市の市街地から歩いて、土浦市方面のコースを堪能したのだった。その中で、高校野球で有名な常総学院の横を通ってしばらく行くと、水戸街道がわずかに残っている所があるのである。傍に小さな鹿島神社があるが、県内には鹿島神社を勧請してつくられたたくさんの同じ名前の社が残っており、これもその一つなのであろう。今ではそこを起点とした水戸街道が1km足らず残っており、史跡として歩きの道になっているのである。

これは最初から知っていたのではなく、偶然に見つけたのだった。田舎の畑道はたくさんの小さな森や林が点在している所を通っていることが多く、知らない場所を通るのは結構勇気がいることなのだ。俗に言う「遠くて近きは男女の仲、近くて遠きは田舎の道」は至言である。すぐそこだと思って歩いていても、なかなか目的地に着かず、まっすぐに続いていると思った道が、林の先で急に曲がったりして戸惑うのである。しかし時にはこのような嬉しい発見もある。

そのわずかに残った水戸街道は、国道からはかなり離れた畑と藪林の中に続いて残っていた。幅はわずかに2mほど、道の両側に植えられた杉並木は、まだ20年足らずの若い木だった。それでも往時を偲ばせる雰囲気は十分にあった。たった10分ほどで通り抜けてしまうのは真に残念だったが、その昔はこの道を大勢(といっても、今の車社会では見当もつかないが)の旅の人たちなどが行き交っていたのであろう。

その時代の道の果たす役割は、極めて大切なものであったであろうし、それは今でも変わっていない。しかし、消滅してしまった道のことは、確実に忘れられて遠い歴史の中に埋没してしまう。たった150年足らずの間にこのようになってしまうのである。恐らく往時を一番正確に偲ばせてくれるのは、道幅と未舗装のぬかるみ指向の土だけではないかと思った。往時の主たる街道といっても道幅はわずかに2m程度であったろうし、冬になれば道は凍てついて霜柱が立ち、春先はそれらが解けてぬかるみと化したに違いない。

現代の若者たちには到底想像もつかない道であろう。舗装などという技術は存在せず、せいぜい石を敷き詰めるくらいが精一杯だったのだろうが、それとて条件の恵まれた地域以外は無理な話だったに違いない。現代の我々は今享受しているものを当たり前としか思えないのだと思うが、本当にそれでいいのかなと歩きながら思ったのである。

人間には、時には後ろ向きの思考も必要な気がする。進歩を求めるのは、他の動物にはない優れた人間の本能なのだろうが、その本能の赴くままに前進ばかりしているのが、本当に生きる幸せにつながるのだろうか? これは退化し始めた我が脳の弁明なのかもしれない。消えてゆく運命の道を歩きながら、思いは複雑に揺れたのだった。

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予楽:くるま旅の大先達に会える

2007-10-22 07:30:57 | くるま旅くらしの話
来月は半月ほどの旅をしようと考えている。この旅には実はたくさんの楽しみが籠められており、今からワクワクしているのだが、きょうは3人の大先達の話をしたい。

石川県金沢市に隣接する野々市町には、3人のくるま旅の大先達がお住まいになっている。これは奇跡的なことではないかと私は思っている。お三方の年齢を合計するとなんと250歳になるのである。最高齢88歳、下の方は76歳、平均83歳と少しという高齢者のパワー集団(?!)だ。

この内Mさんご夫妻は、私がくるま旅くらしを本気で考えるようになるきっかけを作って下さった方で、北海道でお会いした時は79歳だった。拙著「くるま旅くらし心得帖」のコラムにも書かせて頂いているが、軽自動車の手作りのキャンピングカーで、奥様と二人自在の旅を楽しまれていたのだった。車の装備も簡にして要を極め、狭い車の中を夫婦お二人がその不自由さを乗り越えて巧みに使っておられるのに驚いたのだが、何よりもびっくりしたのはその年齢を伺った時だった。せいぜい70歳くらいが限界かなどとその時は思っていたので、80歳近くになっても尚矍鑠(かくしゃく)として、元気に旅を楽しまれているその姿に感動したのだった。その感動は今でも忘れることなく、私のくるま旅くらしの原点に刻まれている。

そのMさん宅をお訪ねしたときに、「わしよりも年上の車旅をしている人がおるんじゃ」と私にご紹介頂いた方がFさんだった。FさんはMのお父さんよりも2歳年長だという。奥さんが病でご一緒できないという事情がおありで、お一人で旅をされるということだった。Fさんのパワーは凄い。夏の北海道を2往復されたこともあるほどなのだ。1日に500kmを超えるほどの走りをされることもあるという。Fさんは旅もお好きだが、何よりも車と車を運転されることがお好きのようである。とにかくそのパワーには圧倒される。

Fさんにはもう一つとても大切なことを教えて頂いた。それは西式健康法の流れを汲む、大阪は東大阪市の医師甲田光雄先生の提唱される菜食主義の健康法である。Fさんは70歳の時それを知って取り組み始め、それまで幾つもの病に苦しめられていたのを解決されたとか。食事は基本的に野菜類をベースにしたもの以外は口に入れないのである。Fさんは各種野菜をミキサーにかけ、冷凍したものを持参して旅をされているのである。その詳しい話はここでは避けるが、やがて私もFさんのお話に肖(あやか)って、本格的にべジタビリアンを指向したいと思っている。

Mさんご夫妻は、今年の北海道へは、お母さんの体調がすぐれず旅は自重されたとのことで、お会いできなかった。その後お母さんもお元気になられたご様子で、メールでその旨お話を伺い安心している。お母さんは数年前からパソコンを習い始め、メールのやり取りを初め、私のブログの愛読者としても嬉しくありがたい存在である。そのチャレンジ精神は、お父さんの旅への情熱にも決して引けをとらない素晴らしいものだ。

Fさんは、今年の北海道の旅先で、一度お電話を頂戴したのだが、その後お会いするチャンスがなく、お声を聞いただけだった。とにかく縦横無尽に動き回られておられるので、広い北海道でもなかなかお会いできるチャンスが巡ってこないのであろう。

このお三方が同じ町のご近所にお住まいになっているのは、奇しき縁以外の何者でもないと思う。私も今年の北海道で同じ守谷市から来られたKさんと出会うことができたが、住まいを同じくする旅の愛好者がいるというのは心強いものだ。ましてや高齢世代では何よりの宝物となるに違いない。お互いが元気の素を出し合い、それを倍加させて楽しみを共有しながら生きてゆくことができるように思う。旅のことを贅沢な独り善がりの遊びのように考えておられる方が多いが、それは誤りだ。私自身もかつてそのような批判的な考えをどこかに持っていたのだったが、この歳になって旅の本当の価値がわかるようになるにつれて、旅の持つ不思議な力に心底敬服するようになったのである。高齢社会を健康で心豊かに生きてゆく上で、旅の持つ力はきわめて大切だと信じて疑わない。そして何よりの証明者がこのお三方なのだと思っている。

お会いできる日を、今から本当に楽しみにしているのである。

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今朝の散歩から:守谷城コース

2007-10-21 11:12:49 | くるま旅くらしの話

この頃はかなりの早さで夜明けが遅くなっている。5時ごろ歩きに出かけようかと思っても未だ暗い。明るくなり出すのは、6時近くなってからだ。あまり早く外に出ると、不審者扱いなどされてはたまらないので、我慢して適当な時間が来るのを待っている。毎日が日曜日の者には、夜明けは早い方がいい。

今日は久しぶりに守谷城の方へ行って見ようと思った。快晴の秋晴れである。空気がきりっと締まって美味い。このような天気の時には、少し遠出の歩きをしたくなる。6時半に家を出て、つくば新線(=TX)の守谷駅構内を通過、ここまで約2kmと少し、それから本町と呼ばれる旧守谷町の中心街に向かって歩き、鎮守様の八坂神社を過ぎ守谷小学校を通り、公園になっている守谷本城の堀跡を眺める場所に出る。守谷小学校の正門前に、茨城百景の一つ「守谷城址」の碑と説明板が建っている。

守谷城というのがあるのを、この地に引っ越して来て初めて知った。茨城県の県北出身なので、南の方のエリアについては幾つかの地名を知っているくらいで、その地の歴史などまったく知らなかったのである。引っ越してきてからもう3年を経過しているのだから、少しは守谷の歴史を知っていなければならないのだが、まだまださっぱりである。北海道のことには詳しくても、自分の住んでいる所のことを知らないというのでは、やはり恥ずかしいことといわねばなるまい。これから少しずつ郷土の歴史を訪ねてゆきたいと思っている。

守谷城というのは豊臣秀吉の時代になって廃城となったとのことだが、それまでは北条氏の勢力下にあって相馬氏が居城していたらしい。築城は鎌倉時代で、彼の関東の英雄、平将門の叔父に当たる人の子孫である相馬師常という人が造ったとのこと。その後少し離れた所に城を移したの場所が、前述の守谷小学校前の場所である。おそらく小学校は城跡に建てられたのであろう。

未だ関東に古河公方の力が残っていた頃、相馬氏がこの地に公方を招聘しようとし、その時の休み所としたのが今住んでいる御所ヶ丘という所らしい。こんな田舎に何で御所ヶ丘なのだと思ったのだが、そのようないわれがあったのである。

今は守谷には都市化の波が押し寄せつつあるが、500年前は、この地は小貝川の水系から引いた水を、城を取り巻く堀に満々と湛えて、26棟もの城郭内の建物を備えた名城があったのだと説明板には書かれていた。有名な相馬の野馬追いの行事は、この城郭の中に建てられた妙見社という神社の前で行われていたとも書かれていた。野馬追いの本家は守谷にあったのである。福島県の相馬市は、もともとここに本城のあった相馬氏が、奥州にあった所領に移って治めた所なのだとか。茨城県のこの地からは相馬という地名は、わずかに「北相馬郡」を残すのみとなった。守谷もその中に含まれていたのだが、市になって無くなり、現在北相馬郡は利根町一つを残すのみである。

本城の跡は、今はこんもりとした樹木が茂る森の公園となっている。堀跡は湿地帯で、散歩道もつくられているが、森の周辺の多くは藪になっており、クズやアレチウリ、ヤブカラシなどの蔓草が生い茂っている。少し下に人工の溜池ではないかと思われる古城沼というのがあって、何人かの人が朝早くから釣り糸を垂れていた。

ここまで我が家から5kmほどか。しばらく景観や野草などを見て楽しんだ後、帰路に着く。帰りは水路を挟んで広がる田んぼの中をTXの守谷基地に向かって歩く。ふと、三橋美智也の歌った「古城」が声となった。……松風騒ぐ丘の上、古城よ一人何偲ぶ、栄華の夢を胸に、……。名曲である。高橋掬太郎先生の詞がいい。尊敬する作詞家のお一人である。守谷城もかつてはこの歌に歌われるような景観があったのであろうか。その名城ぶりは頭の中に思い描くしかない。

田んぼはとっくの昔に刈り取られているが、今はその切り株から生えた稲が稔って穂をつけていた。これは米として収穫できるのだろうか?などと農家の人が聞いたら笑うであろう疑問を覚えながらしばらく歩くと、TX基地である。

TX基地は守谷というよりも隣のつくばみらい市に属する土地の方が多いように思う。ただの荒れた林や藪だった所に何台もの電車車両が待機する大きな基地が出現したのだが、まだ周辺は以前の林や藪を残したままだ。都市化の波がここまで押し寄せてくるには、未だかなりの時間がかかるように思う。それでいいのだ。

基地から30分ほど歩いて我が家に戻る。約1万3千歩。8kmくらいの歩きだった。8時を過ぎている。相棒は未だ眠りの中にいる。

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後楽の黄落

2007-10-20 05:46:42 | くるま旅くらしの話

今日は完全に愚痴の話です。

タイトルの後楽ですが、持論として旅には3つのステージがあり、それは前楽(又は予楽)、現楽、後楽なのだ、などといっており、それは間違いないという確信があるのですが、この頃はどうも後楽が重荷になり出したような気がします。

後楽というのは、終わった旅を楽しむというものなのですが、これには様々な方法が考えられます。一番幸せな楽しみ方は、旅の報告を素直に一緒に喜んでくれる人に、写真などを見せながら語り、聴いて頂くことでありましょう。しかし心底他人の旅の話を聴いて喜ぶような人はそれほど多くはないと思います。多くの場合は、とりあえず聞いてくれるというレベルでしょう。調子に乗って旅の思い出などを話すと、時にはいい加減にしろ、自分は行きたくても行けないんだ、身勝手にいい気分になるな!と内心嫌がらせをされていると感じている人がいるかも知れません。

それで、私の場合は、誰にも邪魔されず自分でたっぷりと旅の思い出を振り返る方法として、旅の記録を作ることを思い立ったわけです。旅の間に作成したメモ(毎日訪問・滞在先ごとに都度感じたことなどをメモしておく)と写真(毎日印象に残る場面をデジカメで撮影し、タイトルをつけ、日記として保存しておく)と日記(これは長年の習慣)、それにこの頃はブログの投稿記事などを参照しながら、「でこぼこ日記」というタイトルでまとめ、それを自作の小冊子として完成させます。

この方法ですと、かなり丁寧に旅の振り返りができ、写真などではその時のことをありありと思い起こすことができます。何しろ日記なので、毎日時間を追ってその日の出来事を辿る必要があるからです。1ヶ月を超える長旅でも、この方法ですと、思い起こしは可能です。誰にも邪魔されず、一人ニヤニヤしたり深刻ぶったりしながらじっくりと旅の思い出を辿るのは、もしかしたら現楽(=旅の実際)以上の楽しみがあるかも知れません。

しかし、この頃はこの楽しみに少し負担を感ずるようになりました。振り返りはいいのですが、肝心の記録の作成に手間取るようになってきたのです。今年の北海道の旅は、8月末で終わっているのですが、2ヶ月を過ぎようとする今でも記録の方は完成を見ていません。多少野暮用的なこともあって、それが阻害しているのかもしれませんが、何しろなかなかその気が起きないのです。この、その気という奴は、何事においてもとても大切で、集中して何事かを為すためには不可欠です。無理してその気になろうとしても、どっこいそうはゆかないという、厄介な奴なのです。それがこの頃はさっぱり動いてくれないのです。

それでこれは何なのだろうと思いを巡らしてみたのですが、ふと黄落という言葉が思い浮かびました。黄落というのは、黄葉した木の葉が落ちてゆく様、秋の落葉の様子をイメージさせる言葉なのですが、この言葉からは人生の黄葉と落葉が思い浮かび、同時に佐江衆一氏の名著「黄落」を思い起こしたのでした。今まであまり気づかずにいたのですが、その気が起きないというのは、もしかしたら自分に黄落現象が訪れ始めたのではないか、と。

黄葉の始まりがいつ、どのように為されるのか、科学的には説明がつくかもしれませんが、葉っぱそのものは、決して認識はしていないことだろうと思います。気づいたら黄葉が始まっていたというのが普通なのだと思います。そして気づくのが遅ければ遅いほど、黄葉の葉っぱは、落下も早いということになるわけです。

さて、わが身が今どのレベルにあるのかは定かではありませんが、これからしばらくは、なかなかことが進まない度に人生の黄落を考え、やがては弁明に使うようになるのではないかと思ったのでした。それにしても今回は遅れておりますなあ。

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