山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

肥前浜宿を訪ねる

2012-11-26 06:05:34 | 旅のエッセー

  全国に93カ所の「重要伝統的建造物群保存地区」というのがある。これは文化財保護法に規定する文化財種別の一つで、法に基づいて特に価値の高いものを国が選定したものを指している。今回の九州の旅では、これらの地区を訪ねることも一つのテーマとして取り上げており、沖縄県を除く九州各県にある19の地区の内、12カ所を訪ねることが出来た。その中で、同じ町の隣りあったエリアに二つの保存地区があるのは、佐賀県鹿島市にある肥前浜宿だけである。

 肥前浜宿は、地図を見ると気づくことなのだが、有明海に面しての交通の要所であり、江戸時代は船の便と陸行の街道をもって人や物資移動の拠点の一つとしての機能を果たしていたとのこと。街道は長崎に向かう長崎街道であり、宿場町としての賑わいもかなりのものであったらしい。このエリアにある二つの保存地区というのは、一つは市内浜庄津町浜金屋町の港町・在郷町としての地区と、もう一つは直ぐ隣の、浜川を挟んで北に位置する浜中町八本木宿に残っている醸造町という珍しい存在である。所定の駐車場に車を留めて、3時間ほどそれらの歴史の名残りを見学したのだった。

 鹿島市には有明海に流れ入る川が何本かあるが、その中では北の方から塩田川、鹿島川、浜川などが名を知られているようだ。塩田川は、嬉野市庁のある旧塩田町を流れており、そこにはかつてこの川を往来した船便で栄えた塩田津が、同じ重要伝統的建物群保存地区として残されている。今日訪ねた二つの重要伝統的建物群保存地区は、浜川に沿って繁栄したエリアである。有明海に注ぐ川の多くは流域面積の割には流れる距離が短く、その殆どが50kmにも満たない。筑後川や矢部川は例外として、佐賀市を流れる嘉瀬川でも58kmしかない。これらは何を意味するかといえば、平野が少なく、山が海に迫っているような地形が多いということなのであろう。有明海といえば、周辺の干拓地の広がりなどから平地が多いようにイメージしてしまうけど、実際それらの現地へ行ってみると、直ぐ傍まで山が迫って来ていることを実感する。

   

浜川の景観。左方が上流。向かって左手手前に下流の河口に沿って広がる浜庄津町浜金屋町の集落が櫛比している。右手上方には浜中町八本木宿の醸造町集落などがある。

 さて、先ずは浜庄津町浜金屋町の港町・在郷町の方を訪ねたのだが、この重なった名称の意味するものがよく解らない。浜庄津とは?浜金屋とは? 推測するに、庄というのは荘と同義即ち荘園であり、津は港だと考えると、この地はその昔はどこかに所属する海岸エリアの荘園だったということなのかもしれない。その中心部が地名として残っているのかも。又浜金屋の方はこれはもう文字通り海辺沿いの鍛冶屋などの金物類の生産加工者の住まいがあったエリアということなのであろう。又、港町・在郷町というのは、要するに田舎の港町という意味なのであろう。トータル的に推測すると、このエリアは江戸時代には、浜千軒とも呼ばれていたほどの賑わった宿場町だったというから、多種類の職業の人々が集まって、夫々の集落のようなものを形成して、町が成り立っていたのであろう。宿場町というのには、○○千軒などと呼ばれるものが幾つかあるけど、その基本形は同じような要素であるのかもしれない。

 浜川の岸に作られた来訪車用の駐車場に車を停め、橋を渡って港町の方へと行ってみた。河口の南側に建物の櫛比するエリアがあった。その中に茅葺き屋根の昔風の建物が保存されており、これが昔の現実を思い起こさせる代表的な建物となっており、それ以外は現代風の建物がほとんどだけど、町の作りとしての生活道路や家の並びなどは、如何にも混み入っていてとても車などが通る余裕はないほどの、その昔の田舎の港町の風情を濃く残していた。その昔は、今保存されている建物と同じような茅葺き屋根の集落が一体に混み合って造られていたに違いない。その混み合いぶりは、息苦しくなるほどの感じがしたが、往時の人々は、そのような密集帯の中だからこそ安心して暮らしが成り立っていたのかもしれない。現代の様に密集した住宅ではあっても、マンションなどは、それぞれが孤立した住まいとなり果て、隣人の顔も知らないなどという暮らし方とは大分に異なっていたに違いない。現代の自由とは異質のより温かみのある不自由な暮らしがそこにはあったのだと思ったりした。港町全体を歩くのは無理であり、3軒の茅葺き屋根の家の周辺をしばらく散策したあと、駐車場に戻り、今度は反対側の醸造町の方へ向かった。

   

浜庄津町浜金屋町の港町・在郷町の景観の中心となっている茅葺屋根の保存建物。3戸だけしか残っていない。建物が密集したエリアにあり、防火対策も万全を期しているようだった。

醸造町と名の付く建物群保存地区を訪ねるのは初めてである。そのエリアは国道207号線を挟んだ西側の方に延びて広がっていた。醸造といえば何よりも酒であり、その後に味噌や醤油というイメージが浮かぶのだが、ここの醸造は酒が中心であり、現役なのかそれとも休業中なのか、あるいは長年の役目を終えた倉なのか、全体として昔の繁栄を偲ばせる酒蔵と思しき建物がいくつも並んでいた。福島県喜多方市の白壁の酒蔵などとは違った雰囲気の建物群が残っていた。どれほどの建物数なのかは判らないけど、20軒は軽く超える連なりではなかったか。現役の酒蔵では、店先での販売を行っている所もあった。酒好きの自分としては、現役の酒蔵の試飲の各戸撃破(?)と行きたいところなのだけど、そんなことをしたらここに泊まらなければならないことになり、それは無謀というもの。よって、それは諦める。

   

浜中町八本木宿の景観。この写真は国道207号からの入り口。狭い中心の通りの両側には、幾つもの造り酒屋の倉が残っている。交易の中心街だったこともあり、継場や古い郵便局の建物なども残っている。

   

現役の酒蔵の一つ。土蔵の壁の漆喰が剥がれおちており、何故か貫禄と風格を想わせる半面、一抹の寂しさのようなものを感じさせた。

しばらく両側に酒蔵を見ながら歩いてゆくと、継ぎ場というのがあった。中を覗くとボランティアの案内の方がおられて、八本木宿のことについて詳しく説明をして下さった。それによるとこの継ぎ場というのは、物資輸送の中継所であったということ。運ばれてきた様々な物資をここで一旦整理して必要に応じて荷の積み替えなどを行うなどの作業が行われた場所ということだった。建物の前には、馬の鼻輪をつなぐ鉄の輪などが残っていた。海陸双方の輸送機能の基地だったのであるから、その賑わいは相当活力の漲るものだったのではないかと思った。ここで働く大勢の人の話し声の姦しさに交じって、出を待つ馬たちの嘶(いなな)きまでもが聞こえてくるような気がした。しかし、それは一瞬の想いであって、現実の何と静かなことか。黒く磨きこまれた太い柱の輝く建物の中はひっそりと静まり返っていて、説明の話声が途切れると、たちまち黒い静寂が継場を包むのだった。

醸造町に来ているのだから、せめて1本くらいは美味い酒を手に入れたいと、継場のその方にお聞きしたら、近くにある菊千代酒造さんというのが、世界のお酒のコンテストで優勝しているとかという話を聞き、そこへ行ってみることにした。今は4月半ば、酒造りには外れた季節である。行ってみれば何か手に入るのではないかと、その酒蔵の店先に着いたのだが、残念なことに此処では販売はしていないとのこと。倉の玄関先の部屋にはコンテストの表彰状や造られている酒の瓶などが数多く並べられていた。「鍋島」というのが中心銘柄らしい。佐賀といえば鍋島藩であり、そこからの命名なのだろうか。九州には福岡で7年余を過ごしたけど、酒よりも焼酎の方が多かったこともあり、鍋島という銘柄は知らなかった。世界一になったというのを聞くと、どうしても飲んでみたいという気になるのが、自分の愚かな性情なのである。しかし、ここでは販売していないというのではどうにもならない。どうしたものかと思案していたら、近くにいた地元の方らしきおばあさんが、近くに売っている店があると話してくれた。こりゃあ、渡りに船だと、早速そこへ行ってみることにした。直ぐそこだとおっしゃるので、概略の道順を教えて頂き、その方に向かった。田舎なので、見つけるのはさほど難しくもなかろうと高をくくって歩き出したのだったが、何と、それからが大汗をかいたのだった。どこまで行っても言われた目印など現れず、酒屋の影も見えない状態だった。知るものと知らざるものとの意識感覚のズレの大きさを改めて思い知らされたのだった。

酒は諦めて車に戻り、家内の帰りを待つことにして浜川脇を歩いていると、後ろから来た軽自動車が側に止まり、いきなり声をかけられた。驚いて振り返ると、何と先ほどのおばあさんがご主人の運転する車でやって来られたのだった。先ほどの説明が不十分で、判らずしまいだったのではないかを心配して、わざわざご主人に頼んで自分を探して来られた様だった。いやあ、恐縮してしまった。どうしても案内するからというご親切を無に知ることなどできるはずもなく、車に乗せて頂いてその店までご案内頂くことになってしまった。嬉しくも申し訳ないという複雑・妙な心境だった。

俗に、「近くて遠きは田舎の道、遠くて近きは男女の仲」というけど、やはり田舎の道の「近く」は、都会のそれとはだいぶ違って、思ったよりもかなり遠い場所に酒屋はあった。ところが、せっかくご案内頂いたのに、鍋島は売り切れで、セット販売のものしか残っていないとのこと。鍋島以外の酒とのセット販売では買うのはためらわれて、止めることにした。ご両人には無駄足をさせてしまい、本当に申し訳なし。その後、駐車場に向かう車の中で、ご主人から醸造町の昔などについてあれこれお話を伺ったのがとても参考になった。

それによると、ご主人(自分よりも10歳くらい年長の方とお見受けしたから80歳くらいか)が若い頃には、この辺りには50軒を超える造り酒屋があったとのこと。この辺りはもともと良い米のできる穀倉地帯であり、酒米の生産も盛んだったとのこと。また、水の方は多良山系の伏流水が多く湧き出でて、酒造りに好適の場所だったらしい。海の傍では酒造りに向いた水は望めないのではないかと思っていたのだが、それはとんだ無智の為せる想いだった。あとで地図を見たら、多良岳も経ケ岳も千mもの高山であり、その山々は海から20kmも離れていないのである。それにしても海の直ぐ近くのこの場所に50軒を超す造り酒屋が並んでいたとは驚きである。今はその後の激しく移り変わる世の中の大波を受けて、往時の半分にも及ばぬ数の酒蔵が細々とその命脈を保とうとしているとのことだった。また、おばあさんからは東京の大学に行っているという孫娘さんの話などを伺ったりして、遠い都に住む肉親に対する愛情の深さをしみじみと感じさせられ、二つの文化財保存地区とは別の、その昔につながるこの地に住まわれる人たちの心の温かさを思ったのだった。

自分たち旅人は、気まぐれな好奇心や一方的な思い込みで観光地などを訪れ、そこで出会った幾つかの偶然を自分に都合のいいように解釈し、それがその地への旅の感想の全てだったかのような錯覚にとらわれていることが多い。それは致し方ないことなのだろうが、いつも思うのは、どのような観光地でも、名所でも、或いは今回のような文化財としての指定地区でも、そこに住む人たちとの交流、とりわけて「観光」などという看板を外した形での対話や会話が大切だということである。地元に住む人を抜きにして、取り繕われた名所旧跡を外から眺めるだけでは、そこに残されているものの本当の姿や歴史を窺い知るには不足するものが多すぎるように思う。今回、肥前浜宿に残る二つの重要伝統的建物群保存地区を訪ねて、一番印象に残ったのは、老夫婦との不思議なご縁だった。それは文化財とは直接係わりはないように見えるけど、この土地に住む人たちの現代の今につながる心の温かさを表象しているように思った。 (2012年 九州の旅から)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐用姫の恋に想う

2012-11-20 05:41:12 | 旅のエッセー

  自分は、今まで恋などということについて語ったことはない。けれどもそれを想わなかったこともない。普通の人間であれば、恋の一つや二つは背負わなければならない業(ごう)というものであろう。生涯に一度も恋について悩まなかった人は、ある意味では幸せ者と言えるのかも知れない。この話は、今から千五百年も前の恋についてである。

 九州を巡る旅で、久しぶりに佐賀県の唐津市郊外にある鏡山に登った。といっても歩いてではなく、くるま道をである。その上から虹の松原とその向こうの海を眺めたいと思ったからだった。白砂青松を謳う箇所は全国に幾つかあるけど、最も松の木たちが元気な松原といえば、自分の知る限りでは、唐津市街地に近い虹ノ松原をおいて他にないように思う。今は日本中の多くの松の木が、災厄に見舞われて枯死しかけているように感じているのは、自分だけの思い過ごしなのだろうか。この頃赤く枯れて立ち尽くしている松の木を見る度に抱く感慨である。虹の松原の脇には国道が走っており、そこからは松原と砂浜の景観の見事さには気付き得ないのだが、鏡山に登るとその素晴らしさが俯瞰できるのである。

 鏡山への登り道はくねくねと曲がっており、車の運転には気を遣ったのだが、両側にはたくさんの桜の木が植えられていて、丁度今が花の満開の時期で、何ともラッキーだった。思いがけすも花を愛でながらの登り道は、まるで天国か極楽浄土への道のようだった。鏡山の頂上は広い公園となっており、そこにもたくさんの桜が植えられていて、花が満ち溢れていた。桃源郷は桃の花だけど、ここは桜の花の世界、だから桜源境と言ったら良いのだろうか。大勢の人たちが花見に訪れ、昼時の木の下にはあちこちで歓声が膨らんでいた。そこには、この頃久しく忘れていた日本人の世界が広がっていた。気まぐれの旅の寄り道としては、何という幸運なのかと思った。

 駐車場に車を留め、先ずは直ぐ近くにある鏡山神社に参詣する。山や丘の頂上にある神社は、多くの場合その山自体をご神体として崇めているものが多い。それは人々のその山や丘に対する親近感、敬愛感が高まった最高の心情表現の証なのかも知れない。ここがそうなのかは知らないけど、やっぱりご神体にしてしまいたいほど、この小さな山の存在は土地の人たちにとって、ありがたい存在だったような気がした。日本の、何でも神様にしてしまう多神教のスタイルを蔑(さげす)む輩(やから)が居るようだけど、一神教といいながら分派が争って本来の神とは無縁の血を流しているような信仰の世界と比べたら、何と素朴で大自然への畏敬の気持ちの豊かなことか。そのような気持ちを批判する輩こそ蔑まれるべき存在ではないかと、そう思っている。

 鏡山は別名領巾振山(ひれふりやま)とも呼ばれている。領巾(ひれ)というのは、古代のご婦人が首に巻く布だというから、今の時代ではさぞかし厚手で大型のスカーフといったような物なのかもしれない。そのスカーフを振る山というのは、正確には、「振る」のではなく「振った」山ということになる。この領巾(ひれ)を振ったのが松浦佐用姫であり、彼女の見つめるその先に居た人物が、大伴の狭手彦(さでひこ)という若武者であった。彼は大和の朝廷から派遣されて、朝鮮半島の任那(みまな)と百済(くだら)国を救援するために軍船で向かうところだった。今から約千五百年も前の昔の話である。頂上の公園の中に佐用姫の像が造られていて、そこにこの悲しい別れのいきさつが記されていた。

   

唐津市郊外の鏡山の公園にある佐用姫像。遠く朝鮮半島に向かう狭手彦との別れを惜しんで、領布を振るその姿には、その思いが伝わってくるものがあった。

 それによると、凡その事情は次のようなことである。大伴の狭手彦という人物は、往時の日本軍のホープの一人で、日本が百済と任那と組み、唐と組んだ高句麗と対峙して戦った時に多くの戦功を上げたとか。その後任那と百済が劣勢となり、これを支援するために狭手彦が再び派遣されることになり、その出陣の準備をするために唐津の港に滞在していた。その時に、彼の身辺のお世話をするために召された女性の中に、地方豪族の娘の佐用姫がいたのである。お世話をしている内に二人の間に恋が芽生え、それが熱く燃え上がったとのこと。しかし狭手彦は朝鮮半島に向けて出陣しなければならず、愈々その時が来て、佐用姫はこの鏡山に駆け上って、別れを惜しんで、千切れるまでに領巾を振ったのだった。軍船が見えなくなると、山を駆け下りて唐津の隣の呼子まで走って、その傍にある加部島まで行って見送ったのだけど、もうそこでは彼の乗った軍船を見ることができなかった。その別れを悲しんだ彼女は、七日七晩泣き明かした末に岩となってしまったという話である。この伝説は、日本三大悲恋伝説(=「松浦佐用姫」、「羽衣伝説」、「浦島太郎」)の一つとして今に残っているとのことである。

 さて、これだけのことならば、あ、そうだったの、可哀想だね、で終わってしまうのだと思うけど、自分としてはこの話には何故だかそれ以上の何かを感じたのだった。つまり、この恋の重さというか、深さについてである。今の時代にもこのような悲恋物語があるのだろうか。恋人を思って、岩となってしまうほどの人間がいるのだろうか。この話は女性の思いの強さを象徴しているけど、今の世の女性の想いの強さは、もしかしたら純粋に相手を恋うことなどよりは、厚い打算にどっぷりとくるまっているのかも知れない。(これには反論が多いほど嬉しいことである)

 自分なりに佐用姫伝説のことをあれこれ想ってみた。先ずこの女性の人となりだけど、相当に勝気で、エネルギッシュな女性だったに違いない。姫というと、誰でも(ろう)たけた深窓の美人をイメージするけど、自分はそうは思わない。狭手彦という将校の身の周りのお世話をするには、そのような美人は不向きというものであろう。むしろ野性味の溢れて逞しさのある、それでいて心遣いの優しい女性であったからこそ、軍人の狭手彦も心を動かされたのではないか。化粧などばかりして、己の都合のいいように言動を飾っている様な美人ぶった女性などが本当の男の心を捉えることはできないのは、千五百年前でも今でも同じだったのではないか。この伝説では、狭手彦のことには何も触れていないので、彼の気持ちがどうだったのかは知る由もないけど、自分的には狭手彦将校は、これから戦地に赴く自分に対して、誠心誠意を以って尽くしてくれる彼女に、幾つもの感動的な嬉しさ、ありがたさを感じたに違いないと思う。軍人とは、その命を戦いに賭ける宿命にあり、一旦戦場に見(まみ)えれば、生きて戻れる保証など何もないのである。そんな男に真を尽くして仕えてくれる女性に好意をもたない男など居るはずがない。

 一方佐用姫からすれば、命がけで海の向こうの国での戦いに出向く、りりしき男の姿に、少しでも何か役立つ、心を安らげることをしてあげたいと、純な気持ちでの奉仕の始まりだったのではないか。それが恋にまで至るには、狭手彦の人となり、働きぶりを見ていてそれほど時間がかからなかったに違いない。もしかしたら、一目ぼれということだったのかも。可能性はこの方が高いような気もする。

 愛するものとの別れには、様々なケースがあると思うけど、相思相愛という場合の別れが、一番悲しみが深く激しいのではないか。片思いなどには常に別れが付きまとっているから、それが現実となっても耐える心が残るのだと思うけど、本当の相思相愛の場合は、その思いは耐え難いものとなるに違いない。佐用姫の場合も、もはや離別に耐える心など残ってはいなかったのではないか。彼女の狭手彦を思う情熱は、火の玉となって鏡山を駈け上り、そこでの別れには飽き足らず、更に呼子の加部島まで奔(はし)って、それでも思いきることが出来ず、悲しみの涙と思いはついに彼女を岩にしてしまったのであろう。何故岩になどなったのか。岩になれば、不変、不動のままに、いつか帰り戻ってくる愛しい人を待つことが出来るからなのであろう。自分はそのように思った。佐用姫はなよ姫のような存在ではなく、千五百年も時を経た今でもそこで狭手彦の帰りを待っている、たくましい女性なのであり、彼女はその岩の中で生き続けているに違いない。

 これが自分の佐用姫の恋の解釈である。今回鏡山に登るまでは、この伝説のことはあまり知らず、悲恋などを考えることもなかったのだけど、実際に佐用姫岩と呼ばれるものもあり、又唐津の後の旅で、厳木(きゅうらぎ)の道の駅に泊った時、そこが佐用姫の出身地だったというのを知り、この伝説の伝える佐用姫の想いの強さに打たれたのだった。厳木の道の駅の構内には、巨大な佐用姫の白い像が造られていて、それが電気仕掛けで動くようになっているのに気がつき、驚かされた。佐用姫の想いが、今の世を360度見渡しながら、狭手彦を探していることを表現しようと、どなたかが考えたのかもしれないけど、薄汚れたままになっている白衣の像は、佐用姫の心を逆なでしなければ良いがと思ったりした。現代人は、佐用姫を人寄せのためにダシに使うことなどばかり考えていないで、彼女の清純な精神にもっと多くを学ばなければならないのではないかと、改めて思ったのだった。  (2012年九州の旅から)

   

厳木の道の駅構内に建っている佐用姫の白像。15mほどの高さがあり、近くから全体像を撮るのは不可能だった。20分ほどで1回転する仕掛けとなっているけど、気づかぬ人が多いようだ。薄汚れていて、佐用姫には気の毒だなと思った。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンサートに行く

2012-11-17 05:49:57 | 宵宵妄話

  昨日(11/15)、久しぶりにコンサートに出掛けました。久しぶりというよりも、珍しくといった方がぴったりかもしれません。守谷に引っ越して8年となりますが、初めての出来事でした。以前東京に住んでいた時は、結構いろいろなコンサートなどに出掛けたものでしたが、今はさっぱりとなっています。家内に言わせれば、守谷はやっぱり田舎で、文化の香りの届かない場所ということになるようです。東京の浅草まで電車で30分ほどなのに、料金は東京圏の電車の2倍くらいの金額なのです。二人で往復すれば交通費だけで3千円を軽く超すことになりますので、なかなか足が向かないということになってしまい、それが続いていると、知らず田舎の臭いに染まってしまうことなるわけです。実際に風向きによっては、牛君たちの出し物の香りが漂って来るので、慌てて洗濯物を引っ込めるという世界ですから、文化の香りには遠いといわざるを得ないかと思います。

 冒頭から愚痴めいた話となってしまいましたが、昨日は初めてその停滞感を打破したという話です。コンサートはつくば市のノバホールという所で催され、出演は杉田二郎と南こうせつのお二人でした。フォークコンサートという奴です。馬の骨でもこの種のコンサートに出掛けるというのですから、驚かれる方もおられるに違いありません。ま、人は見かけによらず何とやらと言いますから、そのような物差しで見て頂ければご納得頂けるものと思っています。

 実のところ、自分にとっての歌といえば、これはもう歌謡曲・演歌が一番、その次が唱歌、そして聴くのであればクラシックやポピュラーということになります。ジャズにも少し愛着がありますが、それ以外の分野は、身を乗り出すほどの関心は殆どありません。フォークソングも、覚えているのは流行った曲をほんの少し、といった程度なのです。ましてや今のAKB何とかなどの喧騒曲の類(たぐい)は、全く自分の音楽の埒外(らちがい)で、どんなに煽りたてられても、心も体も少しも動きません。ま、老人の証拠というわけです。

 フォークソングというのは、何故フォークなのかが良く解らず、あれは元々民謡なのだろうと思っており、日本の民謡ならギターなどではなく、尺八や三味線でなきゃ邪道だくらいにしか思っていませんでした。アメリカ辺りの庶民の歌がフォークの意味なんだと理解すれば、少しは納得が進んだといった程度なのです。

日本のフォークソングは、概して民衆に聴かせるよりも自分で勝手に自分の思いを囀(さえず)っている感じが強くて、何となく気に入らない感じだったのです。しかし、中には自然と口ずさんでしまうようなものも生まれて来て、こんなのは良いなと思っている内に、早や50年近い時間が経ってしまっている様です。

杉田二郎と南こうせつのお二人は、元祖ジャパニーズフォークソングといった存在で、幾つかの名曲も持っておられ、自分勝手からは超越した、本物の聴かせる力を持った方たちです。杉田二郎さんの歌を直接聴くのは初めてでしたが、南こうせつさんは、以前に生の舞台を聴いたことがあり、それ以来のことでした。二郎さんは66歳、こうせつさんは63歳とか。お二人とも還暦を過ぎておられるのですが、身体も歌の力も衰えなどは微塵も見られず、いやあ、大したものだと感じ入った次第です。二郎さんはお孫さんが二人おられて、上の方はもう小学2年生となっているとか。日本のフォークソングも、歌い手が孫のことを目を細めて話しできるほどに、ここまで成長して来たんだなと、ある種の感慨に捉われたのでした。登場されて以来もう48年になるとか、歌の方は別にしても、お二人のトークには様々な思いが込められていて、聴衆の殆どが団塊世代中心の同世代とあって、首肯(うなずき)のどよめきが会場に溢れていました。

歌の方は、まあ、お二人ともいい声ですなあ。二郎さんのドスの利いたよく響く低音、こうせつさんの洗練された優しさの籠った高音は、夫々お二人の個性を際立たせて、良い調和に満たされたコンサートでした。こりゃあ、これからフォークソングという奴も少し見直さなければならんぞ、と、そのような気持ちになりました。登場してから50年近くも歌われ続けている音楽の分野は、これはもうそのポジションを確立したといってもいいと思いました。

聴衆の皆さんが、歌い手の案内で手拍子を打つのですが、バネ指の手術の完治していない自分は、とてもそのような恐ろしいことはできず、目を瞑(つぶ)ってそれらの音声に聴き入るだけでした。久しぶりにテレビなどとは違う、生きた人間の歌を聴いた時間でした。時にはこのような時間が、やっぱり必要なのだなとしみじみ思いました。杉田二郎と南こうせつのお二人には、これから先もこの世界のリーダーとして、70代を超えるまでも歌い続けて欲しいと思いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残りを数える世代

2012-11-15 00:38:21 | 宵宵妄話

  あまり気にも留めずにぼんやりと過ごしている内に、喪中欠礼のはがきが届き始めて、もうそんな時期になったのかと驚かされたのでした。一応年賀状の方は郵便局に勤める友人を持つ倅の要請で、毎年販売開始時期に買うことにしており、既に準備済みなのですが、印刷は時期尚早なので、しばらくは忘れてしまっています。実際に印刷を始めるのは、いつも12月の半ば過ぎとなっています。年賀状を出す前に、その印刷枚数を決めるには、昨年の実績と喪中欠礼のはがきの届くのを待ってからということになるのですが、このはがきが届く頃になると、一段と今年が終りに近づいたのを実感することになります。

 今年の最初の喪中欠礼のはがきは、富山に住む大切な知人の奥さんからのものでした。何とその知人本人が、この4月に亡くなったというのです。これにはショックを受けました。今年の1月に病で術後の療養をしているという便りを貰って驚いたのですが、回復に向かっているというような内容だと理解し、直ぐに手紙を書いたのですが、その後旅に出掛けたりしている内に、気にしながらもまさか亡くなるなどとは夢にも思わず、来年は旅のついでに寄らせて頂こうなどと考えていたのでした。亡くなられてから半年も過ぎてしまっていたとは、知らなかったとはいえ、何とも申しわけない気持ちで一杯です。

 彼は自分よりも五つも年下でしたから、これからが仕事をリタイアした後の、何ごとも一番自在に楽しめる時期だったのに、真に残念なことだったと思います。ここ3年ほど会っていなかったので、彼が取り組んでいた蕎麦打ちの腕も相当に上がった筈だし、来年は是非それを賞味させて頂こうなどと、真にノーテンのことを想っていた自分が恥ずかしく、情けない奴に思えてなりません。

 それにしても人の運命というのは非情なものであることを思い知らされます。恐らく喪中欠礼のはがきの中に記された全ての故人に係わる人たちは、同じようにその非情さを実感されているに違いありません。今年元気な人が来年も元気でいられるかどうかには何の保証もないのです。いや、そんなに長い時間ではなく、厳しく考えれば、今日の命が明日につながるのかどうかもわからないのです。この時期になって、喪中欠礼のはがきを頂く度に、その非情さ、無情さを感じています。

 ところで、自分自身のこの頃は、残りの時間を数える傾向が強くなり出しました。それもネガティブな数え方に染まり出しています。つまり、良く使われる例えで言えば、半分になったジョッキの中のビールを、あと半分しかないと嘆くのか、そうではなくあと半分も残っていると喜ぶのか、という話ですが、この頃は嘆く方が増えて来ているということです。

 自分の寿命を80歳と仮定した時、これを誕生からの1日(=24時間)の時計に換算すると、生まれたのが0時ならば寿命をまっとうした時が24時となるわけですが、現在の自分は21時33分くらいのところまで来ている計算になります。1年が18分という計算になりますので、1940年12月生まれの自分はその時刻に生きていることになるのですが、終りが24時ですから、残りはあと2時間半足らずということになるわけです。21時半というのは、そろそろ眠りに就く時刻でありましょう。つまり24時が来て眠る前に、いつ睡魔が襲ってきても不思議ではない時間帯に入ったということなのです。

 そろそろ準備をしておく必要があるのかもしれません。何を?かといえば、それは死計です。人生五計あり。生計、家計、身計、老計、死計の5つの企て、すなわち計画ですが、最後の計画が死計ということになります。死計の前に老計がありますが、思うにこの老計と死計とはセットになって作らなければならないもののようです。

 今日の先ほどのニュースで、女優の森光子さんがお亡くなりになったということですが、この方の老計も死計もお見事だったように思います。打ち込めるものがあって、どんなに歳を重ねても、新たな境地を求めて生き、気がつけばこの世とおさらばしていた、といった生き方がそれに当たるような気がするのです。つまり、打ち込めるものがないと良い老計も死計も作れないということなのかもしれません。

 この頃ネガティブに残りの時間を数えるようになっているのは、自分の打ち込むべきものが少しぐらついているからなのかもしれません。遺言や弔いについてのオーダー、或いは己の尊厳死への注文などを書いて残しておくことが死計だなどとは全く思ってもいません。そんなことよりも、打ち込めるものへの迷いを断ち切ることが、今の自分には一番大切なのだと改めて思っているところです。つまりくるま旅を通して拾った宝物についてのエッセーのようなものを、迷いを払いのけてしっかり書くことが、自分の老計・死計の成り立ちの核となるのだと思っています。

 毎日届く喪中欠礼のはがきを見ながら、自分に残されている時間を数えつつ、同世代の人たちはどのような思いを深めつつ生きているのだろうかと、改めて想ったのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

温泉療養は失敗?

2012-11-12 05:46:30 | その他

  先週2泊3日で、一人喜連川温泉へ中指バネ指の術後養生に行ってきました。久しぶりの喜連川行でした。旧喜連川町は、今は合併してさくら市となっています。この町には日本三大美肌の湯の一つと呼ばれている良質の温泉があります。那須火山帯の根元辺りに位置しており、さほど離れていない北西の方向に那須の連峰が望見できます。温泉は比較的新しい時期に掘り当てたもので、昭和56年に最初の掘削が成功して、往時の町起こしの成果が叶えられたとのことです。その後も幾つかの掘削が成功して温泉入浴施設が増えましたが、那須火山帯の直下に位置しているのですから、掘れば温水脈に当たる確率は高いのでありましょう。

 この温泉が気に入っていて、守谷市に越してくる前の東京在住時代にも何回も通っており、一時左手親指がバネ指になった時には、この温泉の力で直してしまったという経験もありました。果たして本当に温泉の効能によるのか、偶々治りかけていた頃に温泉に入って、ちょうどいいタイミングでバネ指が治まったということかもしれず、真偽は不明なのですが、自分的にはこの温泉のお蔭だと好意感は一層高まったのでした。

 町に幾つかある温泉浴場の中で、自分がいつも行くのは露天風呂と呼ばれている素朴な施設です。ここには休憩施設はなく、脱衣所だけで、石組みで囲まれた浴槽が一つあるだけです。洗い場も小さくて、お湯の方は源泉を使ったカランが使われています。源泉の温度は50℃を超えているようで、かけ流しのためお湯の出口に近い湯船では45℃以上の熱さとなり、よほどの熱湯(あつゆ)好きの人でないと近寄れません。浴槽が一つのため、時には全体が熱過ぎて温湯(ぬるゆ)好きの人からクレームが出たりしたためなのか、現在は湯船の真ん中を板で仕切って、熱湯と温湯と分けて入れるようにしてあります。

 温泉の入浴料は300円でリーズナブルです。10回入ると1回無料となるチケットがあり、自分たちはこれを利用することにしています。この露天風呂の他に町経営の浴場が2カ所あり、同じ料金で、チケットも共用で利用することが出来ます。しかし、現在は先年の大地震の被害からの復旧が叶っておらず、いずれも営業休止の状態となっています。再開が待ち遠しい日々が続いています。

 温泉の宣伝ばかりになってしまいました。肝心の指の術後の療養のことですが、これは残念ながらさっぱりでした。以前の親指の時は手術なしで治ったと思っているものですから、術後の療養にも効果大なるものを期待していたのですが、これは思い過ごしだったようです。現在は両手の中指がまっ直ぐにならず、内側の方に曲がった状態であり、これを伸ばすように力を入れると痛みがガンとやって来て、それで終わりといった状態です。ようやく顔を洗う程度には指が動く様にはなりましたが、未だ柏手(かしわで)を打つことはできません。

 温泉に入って、石の平らな部分に平手を押しつけるようにして中指を伸ばすようにし、その状態をしばらく続けるように何度もチャレンジしてみました。その時は少し伸びた様に感ずるのですが、お湯から出てしばらくすると、いつの間にか元の曲がりに戻ってしまっており、ぬか喜びに過ぎないのでした。温泉には3回入りましたが、最初の2回は1時間ほど我慢して入れたのですが、3回目は途中で気分が悪くなって、30分ほどで出てしまいました。指だけを浸すわけにもゆかず、どうしても身体全体を湯の中に入れなければなりません。幾ら温泉が好きだと言っても、のべつ湯の中に入っていれば、逆上(のぼ)せてしまうのは当たり前のことです。指は平気でも身体の方は指について行くことはできないことが良く解りました。これも老化の為せる現象の一つかなと自認した次第です。

 ということで、温泉療養は大した効果もなく退散ということになりました。元々筋肉を切断しているわけですから、そうそう簡単に原状復帰ができるわけでもなく、幾ら温泉の力を借りようとしても、やはり時間という要素が不可欠なのだと思いました。温泉に無理頼みしなくても、身体本来が持っている修復力が消えない限りは、いつかは安定した状態に戻ってくれるに違いありません。それを信じて、ジタバタせずに本復の時を待つことが老人には一番ふさわしいことなのだと、これが今回の温泉療養の所感でした。

 喜連川には町の中心部に古城があった小高い山があり、そこがお丸山公園となっています。その公園の中にスカイタワーという塔が建っていますが、そこからの展望は日光の男体山や那須連峰など北関東の広がりを実感できるものだと思います。残念ながら自分は高所恐怖症の気があるものですから、まだそこに上がったことはありませんし、これからも上がることはないと思いますが、その景観をそっくり想像することはできます。そのスカイタワーも現在は大震災の煽りを食って休止中のようです。温泉に入る合間を縫って、お丸公園の上まで往復してみました。自分にはこの時間が何よりも嬉しくありがたいように思いました。小さな旅をしている感じになり、生きているのを実感できるように思いました。指にとっても、この感覚の方が本復の力を強めてくれるのではないかとも思いました。温泉もいいけど、やはり旅することが元気の源なのだなと、改めて思ったのでした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うんざりのポピュリズム

2012-11-08 06:17:05 | 宵宵妄話

  今週初めから守谷市の市長と補欠市議の選挙戦が始まった。その喚(わめ)きの姦しいことおびただしい。公約にもならない当たり前のことを大声で繰り返し、その数倍もの回数、立候補者の名前を叫んでいる。聞いてもいないのに、勝手にご静聴ありがとうなどと何度も嬉しがっているのもいる。こちとらが静かなのは、あまりにバカバカしいので呆れ返ってそっぽを向いているからなのだ。時々「頑張れ!」などと手を振っているのは、サクラに決まっている。虚しい。虚しさばかりが拡大膨張するばかりである。

 今の政治には国政から地方自治体まで、失望以外は何も感ぜられない。どの政党も、どの候補者からも本物の熱情が伝わってくことは殆どなく、耳触りのいいセリフばかりが右往左往して飛び交っている。大衆迎合主義まっ盛りの感じがする。大衆迎合主義をポピュリズムという。この主義には、政治家の背骨たる思想・信念はなく、大衆という得体の知れない化け物にどうすればご機嫌麗しくなって貰えるか、迎合のネタを探してそれを拡大吹聴するばかりしかない。

 ポピュリズムは何のためにあるのか。それは手段としてしか存在しない。即ち選挙戦術に過ぎない。その目的は、要するに選挙に当選すればいいのであって、その吹聴するお題目の実現などは二の次なのだ。政治の力で何かを成し遂げるためにあるのではなく、当選というゴールを勝利すれば、公約などは口約以下のものとなり下がるのだ。そのことは現在の政権担当政治家たちだけではなく、歴代の政治家の多くに見られる特徴だったともいえる。

 この政治家のご都合主義が、このところ酷さを増している感じがする。そのことを最も印象付けたのは、現政権の最初の首相を務めた人だった。往生際の悪い背信ともいえる行為は、沖縄の人たちに何とも拭い難い不信感を植え付けたのだった。「巧言令色鮮仁」は孔子様のことばだけど、あのご仁の言動は、孔子様の注意のレベルを遥かに上まっている。殆ど犯罪に近い感じもする。

 その後もこの政権では、同じような出来事が何度も繰り返され、その度に失望感は膨らみ続けている。しかし、その反対勢力といえば、これも又ポピュリズムの塊のような発言ばかりを繰り返している。損得計算ばかりの政治で世の中が動いて行くのには、もういい加減うんざりしている。明快な善悪の物差しをもっともっと使って世を動かして欲しい。なのに、それを感じさせる政治家がどこにいるのか、見当もつかない。

 政治について批判などしてみても糠(ぬか)に釘なのは承知している。自分に残された時間を考えれば、ほざいたところで何の木霊(こだま)も返って来ない、そのような世界のことなど放っておけばいいのだけど、あまりにも日中が騒々しいので、彼らの流す汗を気の毒とも思わず、曲がった臍の怒りを放出したのだった。

 世の中がもっともっと悪化するまで、不世出といわれるような政治家は出てこないのではないか。今の世は、まだまだ悪化が不十分なのであろうよ。そう思うと、今の世の混乱や政治家なしの迎合ご都合主義政治屋ばかりが目立つのは、悪化の前兆にあって、致し方ない現象だと思わなければならないのかもしれない。

 このところ旅の後楽に浸ってばかりいたのだが、選挙活動の喧騒に夢を破られて、ちょっぴり不機嫌となった次第。明日(11/8)から術後の指の温泉治療に、栃木県さくら市の喜連川温泉に浸りに行くことにしている。早く、せめて顔ぐらいは洗えるようになりたいものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美しき土谷免棚田

2012-11-05 00:57:48 | 旅のエッセー

 長崎県と佐賀県との県境は幾つかの島で区分されている箇所が多い。福島という島もその一つで、これは彼の元寇時の蒙古の軍船が見つかったという鷹島の隣にある島である。ここは長崎県に所属しているけど、島に架かる橋の向こう側は佐賀県で、今は肥前町から唐津市になってしまっている。平成の大合併で、この頃は旅先の自治体の名前を確認するのが難しい。ま、県境などを気にするのは、人間の世界だけの話で、鳥や魚たちにとっては、そんなことはどうでもいいことである。そして、実のところ旅人にとっても鳥や魚たちと同じ気持ちの方が大きい。

 この福島に棚田があるというので、是非行ってみたいと思った。土谷免という地区にあると聞いていたので、そこを目指すことにした。佐賀県側からの橋を渡ると福島町である。福島町は合併で現在は松浦市に属しているようだ。海岸沿いの道をしばらく走って少し山手の道に入ると、登りが次第に急となってきた。棚田というのは下から見上げたのではその偉大さをなかなか実感できない。やはり上の方に登って、全体を俯瞰しないとその大きさが判らないのである。ところが車で行く場合は、棚田が見下ろせる位置に車を停めるのは難しい場合が多い。どんな棚田でも道が細いことが多いからなのである。そのような時は、下の方に車を置き、あとは歩いて上まで登るしかないのだが、老人にはこれは結構きつい。さて、ここはどうなのだろうかと、少しばかりの期待と不安が入り混ざっていた。ところが道なりに上って行くと、いつの間にか棚田の上に出たのだった。そこには駐車スペースもあり、真に恵まれた棚田鑑賞の場所があったのには驚かされた。ありがたかった。

 海からの標高差はどれくらいなのだろうか。この駐車場までは100mくらいなのか、斜面に幾重にも重ねられた田んぼは30段近くもあるかと思われた。4月初めという時節なのに、幾つかの田んぼには水が張られており、はや田植えに向けての準備が開始されているのかも知れない。温暖な気候が幸いしているに違いないなと思った。

   

福島の土谷免棚田の景観。向こうに見える近くの島は、右手が飛島、左が小飛島。その向こうに見える長い島影は鷹島か。春の陽光の中に棚田も海も膨らみんで輝いて見えた。

 いやあ、その景観のなんと美しいことか! 全国に幾つかの棚田を訪ねているけれど、今までこれほど美しい景観を見たことはなかった。何が美しいのかといえば、海の景色との調和なのである。棚田の裾には白い砂浜が横たわり、傍にはマリンブルーの海が輝き、その向こうに幾つかの島々が緑の冠を被って点在している。今日は格別のいい天気で、春の陽光がそれらの景観を一層引き立てていた。駐車場脇の掲示板に、この棚田は取り分けてその夕陽に映える様が美しいという写真入りの案内があったが、日中の景観も称賛に値するものだった。しばらくその美しい景観を味わった。

「耕至天」という言葉が好きである。耕して天に至ると読む。大地をコツコツと耕して、やがては天に近い場所まで耕し尽くすという意味だと思うが、その中には大変深いものが含まれているように思っている。天は天体の天ではあるけど、単に物理的な意味合いだけではなく、天命とか運を天に任せるなどというように、より絶対的な存在をも意味することにつながっていると思う。そして、耕すのは大地だけではない。己自身を耕すということにもつながっているのだ。耕して耕し続けてゆけば、その弛まぬ努力は、やがては絶対的な天までを動かし、そこにたどり着くことができる。自分はこの言葉をそのように思っている。

 大自然の中に生きる人間が、「耕至天」を実現している姿が棚田だと思っている。棚田を見ていると、そこに長年にわたって営々と積み上げた祖先・先人たちの暮らしの思いを感ずるのだ。人間という生き物の無限のエネルギーというか、前進する力の逞しさを覚えるのである。今では、棚田というのは、時代遅れの耕作地くらいにしか思われていないのかも知れない。しかし、そのような現在から過去を見下ろすような態度では、棚田の秘めた歴史の深さを知ることはできないし、人間の本物の逞しさも知ることはできないのではないか。そして自分自身を深く耕すこともできないのではないか。そう思っている。ところで、今自分自身はどの高さまで己を耕して来ているのか、この美しい景観を味わいながら、天が遠いことを改めて感じたのだった。  (2012年 九州の旅から 長崎県)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒙古人の油断

2012-11-01 08:53:29 | 旅のエッセー

  佐賀県と長崎県の地形は意外とよく似ている。長崎県といえば、鎖国時代に海外に開かれた唯一の港としての存在を思い浮かべるが、隣接する佐賀県にはそのような港が無かったのかといえば、その地形、即ち半島と数多い島々からの成り立ちから見れば、アウトローの活躍する場が幾つかあったような気がしてならない。伊万里や有田の焼き物は内陸部での制作を思い起こさせるので、佐賀県の海のことは意外と忘れがちだけど、有明海は別として東シナ海に面した島嶼(とうしょ)域では、往古からの松浦党の跋扈(ばっこ)などから見ても、長崎に似た、外に向かって開かれた文化の匂いが漂ってくる感じがする。

 さて、その佐賀県との境を接する島の一つに鷹島というのがある。この島に橋が架かったのがいつなのか判らないけど、それほど昔のことではなさそうな感じがした。その鷹島肥前大橋は、瀬戸内のしまなみ海道の橋と比べても見劣りしないほどの堂々たる大橋だった。福岡に住んでいた30数年前にはその架橋や開通の話は聞いたことが無く、訪れたのも今回は初めてだった。どうしても寄って見たくなったのは、もうかなり昔になると思うが、鷹島の近海で蒙古襲来時の沈没船が発見され、その近くから往時の生活用具などが大量に発見されたという話を聞いていたからだった。蒙古襲来のことは、太平洋戦争を除いて外国からの侵略というものを受けたことのない日本という国にとって、唯一の侵略されかけた出来事だったからである。

   

鷹島肥前大橋の景観。この海峡の近くの海底に蒙古襲来時の船が沈んで眠っていたとのことである。

 蒙古襲来のことは、勿論中学校の歴史の授業で教わっている。しかしそれがどれほどの重さのものなのか実感したことはずーっとなかった。単なる歴史に記録された出来事の一つくらいにしか思っていなかった。その認識が少し変わったのは、転勤で福岡に来てから市内西部の海岸沿いに残されている元寇防塁の跡を見た時からである。又福岡には郊外の大野城市などには水城(みずき)と呼ばれるもう一つの大防塁の一部が残っている。こちらは元寇よりももっと古い大和朝廷の時代に、朝鮮半島の百済国を支援して白村江(はくすきのえ)の戦いに新羅・唐の連合軍に敗れた日本が、彼らの本土への襲来を恐れてその防備のために時の政庁の在った大宰府近郊に作った大規模な水濠・土塁なのである。これらの遺跡を見ていると、島国の日本にも一人安穏と構えていられない外国とのせめぎ合いがあったことを実感させられるのである。

 新羅・唐の連合軍については、その後の政治情勢の変化などにより、事なきを得たのだったが、凄まじかったのは蒙古襲来だったと思う。何しろ往時の世界の大半を侵略し尽くすというほどの連中だったから、その勢いや理不尽さというものは、今日のどこかの性悪国の比ではなかったのではないか。実際に対馬や壱岐を蹂躙した際の蒙古軍の凄まじさは、生き残った人たちの言い伝えや記録からもおぞましいと言っていいほどのものだったと聞いている。一体どういう風の吹き回しで、あの一見平和な遊牧民が世界中を席巻するような振る舞いを生ずることになったのか、自分などには見当もつかないことである。

 その蒙古軍の襲来は、一度目は失敗し、二度目も台風の動きを読めなかったために、半ば自滅したかの如くに失敗して、我が国はどうにか侵略を免れたのだったが、その残骸遺跡類が発見されたのが鷹島付近の海中だった。この発見が縁となったのか、島にはモンゴル村という名のテーマパークの様なものがつくられ、モンゴル出身の相撲取りなども訪れているとのことだった。鷹島肥前大橋を渡ると、その袂近くに道の駅があり、鷹ら島という妙な名前が付けられていた。その昔のお宝を発見した場所という駄洒落風の命名なのだと思うけど、単純にお宝などと言っておちゃらかしていいものなのか、少し疑問を感ぜずにはいられなかった。なぜなら、この海の底には我が国に危害を加えようとやって来た人たちの遺骸も多く沈んでいるはずであり、それらの人たちも戦を離れれば一人の人間として妻も子もあるという存在であるに違いなく、為政者の強制に従わざるを得なくてやって来たに違いないからである。それを強く思ったのは、道の駅の構内に置かれていた、往時の蒙古軍が使った軍船を復元した実物大の模型を見た時だった。

   

元寇時の蒙古の軍船の復元模型。これが実物大だとすると、船というよりも小舟と言った方が良いと思うほどの小型のものだった。

 その船は、船ではなく小舟といった方が相応しい真に安易な造りで、まるで漁師が港の近くで漁をするための伝馬船に毛が生えた如きのものだったからである。こんな小舟にわずかな食糧と水を積んで、よくもまあ大海を渡って来たものである。乗員は恐らく10人にも満たなかったのではないか。大船団を組んで勢いに乗り、東シナ海の荒波もものともせずという、怖さ知らずの意気が上がっていたのだろうけど、無謀といえばこれ以上の無謀は無いように思った。ようやく日本国の本土に乗り込んで、一気に都まで征服しようと意気込んでいたのに、辿り着いた九州の地に偶々台風が襲来し、この船団を大破滅に導いたとは! 彼らにとっては、真に不幸な出来事だった。多くの人々が理由も解らぬままに海の藻屑と消え去ったのだった。これは一方の我が国にとっては、何という僥倖(ぎょうこう)だったのか。まさに歴史的な僥倖だったと言わなければならないと思う。

 しかし、このことを反対側の蒙古人の立場から考えてみると、それは真に以って横着な油断以外の何物でもないということになる様に思う。油断というのは、その本質は思い上がりなのだと思う。台風を知らなかったといえば、それは知識や経験の無智ということになるのかもしれないけど、この蒙古襲来の本質は、連戦連勝の勢いに任せた彼らの驕り、すなわち思い上がりがその根底に横たわっていたのは明らかである。戦によらず敗北の真因は思い上がりに起因することが多いのは、世界の歴史の示すところの様に思えてならない。

 ところで、この歴史的な僥倖を、我が国の後の為政者サイドは、神格化して吹聴し、台風を神風などと呼んで国民を欺瞞し、無謀な戦をし続けて大きな犠牲と代償を払ったことは歴史に新しい。往時の蒙古軍においてもあるいは戦前の日本軍においても、闘争・侵略の本能というのは、一体どこからきているのか。なぜ侵略や闘争が必要なのか。歴史の成り行きがそのような結果をもたらすとしても、平和や博愛などを標榜する人間という生き物のもつ相矛盾した生存の在り方は、自分には不可解である。鷹島は、その矛盾の在り様を今に残す一つの証ではないかと思った。  (2012年 九州の旅から  長崎県)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする