山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

横浜町の菜の花畑のこと

2007-06-29 08:32:38 | くるま旅くらしの話
横浜という地名が全国に幾つあるのかは知りませんが、青森県上北郡にある横浜町は、菜の花の作付面積が長い間日本一ということで、名を売っています。しかし、年々作付面積が減って来ていて、現在は北海道の滝川市に僅か1haの差で、今年の日本一の座を譲ったということでした。

横浜町には、毎年北海道に向かう時に必ず立ち寄る道の駅があります。菜の花プラザと名づけられたその道の駅には、自分の身体までが黄色っぽくなってしまうのではないかと思うほど、様々な菜の花に関連するアイデア商品が溢れており、この町が如何に菜の花にこだわっているのかを感じさせてくれます。

しかし、今まで肝心の菜の花畑を見たことは一度もありませんでした。時期が遅かったり、早かったりで、何処にその日本一といわれる菜の花畑があるのかさえも良く知りませんでした。今回の旅では、時期も丁度マッチングしましたので、是非とも町自慢の菜の花畑を見物しようと思っていたのでした。

訪ねたその日は、丁度菜の花フェスティバルが開催されており、その会場へ行きますと、1haくらいの菜の花畑に、大きな迷路などが作られておりました。会場の周りには、迷路のある畑と同じくらいの大きさの菜の花畑が幾つか点在しており、少し離れた東の丘の牧場の側には、発電風車が6基、巨大な羽を風に回して立っていて、北海道に良く似た、広大な農場の風景が広がっていました。菜の花畑は密集して作られているのかと思ったのですが、そうではなく広い町の農地のあちらこちらに点在しているのでした。

ボランティァのMさんに、町の主な菜の花畑を案内して頂くことができました。キャンピングカーにナビゲーターとして同乗して頂き、道案内の間に、菜の花の栽培に関する様々な知識や情報を教えて頂きました。町の中の菜の花畑の見物は、直ぐに終わるのだろうと軽く考えていたのですが、横浜町はとんでもない広さでした。面積が127k㎡もあり、これは私の住んでいる守谷市の3.5倍もある広さです。恐らく農地だけの比較なら10倍以上になるのではないかと思います。走り終えて元の場所に戻った時はすっかり日が暮れて、走行距離も40kmを超えていました。

黄金(こがね)色の菜の花を、これほど楽しんだことはありませんでした。Mさんのお話では、前年の9月上旬に種を播き、8ヶ月かかって花を咲かせるということです。ボランティアの皆さんの活躍も相当のもので、地元の子供たちにも参加して貰って、畑作りや種蒔きに汗を流しているとのことでした。菜の花の作付けが年々減少するのは、農家の人たちから見れば、収益性が悪くて赤字が必至の菜種よりも、別の作物を選んだ方がずっと家計の助けになるという背景があり、現在までは補助金などがあって何とかやって来れたけど、これから先はかなり厳しくなるということでした。Mさんたちは、そのような農家を訪ね回って、菜の花の継続植え付けをお願いしておられるのでした。

Mさんたちは、単に菜の花の作付けや生育に関わるだけではなく、収穫後の搾油や販売に至るまで、アイデアを出し合って、今まで培ってきた横浜町の菜の花の存在を、何とか残してゆきたいと考えて頑張っておられるのでした。Mさんは、私どもよりは一回りは若い女性の方ですが、菜の花にかける情熱には胸を打たれるものがありました。この町の菜の花畑の全てを熟知されており、その個々の畑の歴史までもが頭の中に入っているほどなのです。

この地の菜の花は、高級品種で、昔の菜種油に入っていた何とかいう身体に悪い成分は一切含まないものだそうで、それゆえなのか単位当りの収量も少ないため、経営的には厳しいという話でした。そういえば、菜の花の色が、他の土地で見たものとは少し違うようです。黄金色なのですが、透明感があるのです。夕日に輝くその色は何ともいえないものでした。油の方も、Mさんのお世話で1本買わせて頂いたのですが、昔の菜種油をイメージしていたのとは全く違って、サラッとした透明感のあるものでした。これでは天ぷらなどに使ったのでは勿体ないなと思った次第です。家に持ち帰り、サラダなどに滴らして少しずつ大切に味わっています。

私たちは、菜の花を花として鑑賞するだけで、良いとこ取りだけをしているのだなあ、としみじみ思いました。花を育て、花を活かして生きて行くためには、決して表には見えない無数の努力の積み上げがあるのだなと思いました。そのお陰を含めて花の美しさを見て、味わってゆこうと思いました。

明日とあさっての両日ブログを休みます。明後日から待望の北海道への旅に出かけますので、その準備のため、今回の旅の話は、これで終わりとします。旅の間は、ブログの投稿は携帯電話から行ないます。コメント等を頂いても返信などができませんので、悪しからずご了承下さい。

 

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鯵ヶ沢の焼きイカのこと

2007-06-28 05:51:45 | くるま旅くらしの話

知ってる人は知っている、知らない人にはお気の毒な話です。

青森県西津軽郡鯵ヶ沢町は、津軽半島の西のとっつきにある町ですが、ここ出身の軽量の名力士に舞の海関が居ます。そして、鯵ヶ沢は舞の海が採れただけではなく、豊かな海の幸の基地でもあります。その中で何と言っても有名なのはやはり日本海のイカではないかと思います。

イカが好きで、どんな種類のイカでも、形振り構わずに腹いっぱい食べてみたいと考え、機会あらばそのようなチャレンジを心がけてきました。しかし、糖尿病になって以来、もう20年近くになりますが、単にカロリー制限だけではなく、中性脂肪やコレステロールの管理もしなければならず、イカや蛸、蟹や魚卵類など、海の好物の殆ど全ては、大食い禁止の食べものとなってしまいました。去年の健診では油断した所為なのか、コレステロールや中性脂肪が正常値の範囲をかなりオーバーしてしまい、それ以来イカを初めこの種の食べものは殆ど口にしていません。

旅に出ますと海の幸の誘惑には耐え難いものがあります。山の幸の方は、健康上何の問題もなく、せいぜい天ぷらなどの食べ過ぎに気をつければいいだけですが、動物性の食べものが多い海の幸は、海藻類を除けば、常に要注意のものばかりが多いのです。何処へ行けば何があるというのは、長い間の経験などから、大体知ってしまっているものですから、その誘惑を逃れることは大変厳しいのです。

鯵ヶ沢の焼きイカもその一つです。焼きイカといえば、縁日の境内で、とうもろこしなどと並んで売られている定番の食べものですが、あの何ともいえない匂いというか香りというのは、小さい頃からの憧れの一つでもありました。イカは刺身でもするめでも、塩辛でも、どんな調理法でも美味いものですが、私の中では、何といっても焼きイカが一番です。そして、その焼きイカの一番が鯵ヶ沢にあると思っています。

鯵ヶ沢の焼きイカは、日本海で採れたするめイカを一夜干しにしたものを焼いてタレを掛けたものですが、その匂いといい味といい悪いけど夜店や縁日のそれとは格段の差のある食べものなのです。鯵ヶ沢の近くを通るとなると、よほどの急ぎの時でもない限り、たとえ50kmも離れていようと、必ず寄ってその味を確認しないわけにはゆかないほどなのです。この魔力には未だ一度も勝ったことがありません。

今回の旅では、黒石近くの田舎館辺りをウロウロしていましたが、意を決して、大変な雨降りの中を、とうとう鯵ヶ沢までその焼きイカを求めて行くことにしたのでした。健診以降、イカを食べるのを我慢し始めてから7ヶ月が経過し、この間イカは一切口に入れていなかったのですから、一度くらい羽目を外しても良かろうという判断です。このような健康に関する自己都合の判断をしょっ中行なうようになると、やがては大問題となりますが、この際は我が身の判断に甘えようと思ったのでした。

あまりに酷い雨降りなので、沿道の売店は閉まっているのではないかと心配したのですが、頑張って開けてくれていて、ありがたいことでした。早速3枚をゲットしましたが、1枚余分にサービスして頂いて、これまた嬉しかったですね。たちまち車の中に程よい香りが立ち込め、何とも言えない刺激です。相棒も最早我慢が仕切れなくなったらしく、一口入れて口を動かし始めたようです。当然のことながらそれを黙って見ているわけにはゆきません。というわけで、その夜の宿に向かう前に、早速の味見となったのでした。

鯵ヶ沢の焼きイカは日本一だと信じて疑いません。その夜は、日本一の焼きイカを心行くまで味わいました。もうこれで来年までイかを食べることは無いだろうと思いますが、その分の味わいを果たしましたので、大満足です。真に妙な食へのこだわりと制限食品との葛藤の話でした。(笑)

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小岩井農場一本桜のこと

2007-06-27 11:42:49 | くるま旅くらしの話
国桜の名木のニューフェイスとして、今年一番脚光を浴びたのは、小岩井農場の一本桜ではないかと思います。冠雪の岩手山を背景に、雄々しく且つ優雅な花を散らす一本の桜の姿は、それを見る人の詩情を誘います。勿論NHKの朝ドラの「どんと晴れ」の画面の中の桜です。

今回の旅では、相棒がカメラを新しく買い替えたこともあって、是非とも本物の一本桜をカメラに収めたいということでした。天気が悪ければ、良くなるまで待っても、何とか納得のゆく1枚をものにしたいとの意気込みでした。角館から抱き返り渓谷を訪ねた後、雫石町にある小岩井農場を訪ねた時は、もう16時近くなっており、撮影よりもどんな所なのか、その下見に行くという気分でした。

小岩井農場は、何度か訪れたことがあり、大体の勝手は承知してはいますが、一本桜が何処にあるのかは全くわかりません。行けば何とかなるだろうと考えて行ったのですが、さすがにTVの力というか、その影響力は絶大なものがあり、農場側では、たくさん訪れるお客さんのために、新しい案内板や駐車場を用意していてくれました。だから、迷うことなどは無用でした。

まだ日は残ってはいるのですが、雲の多い天気で、岩手山も麓の稜線が見えるだけで、頂上の方は全くの雲の中でした。一本桜は通り道からは100mほど遠くの牧場の中にあって、一般の人は近づくことができません。花が咲いているのか、終わってしまったのか、これから咲くのかどうも定かでありません。天気があまり良くない上に、逆光の感じとなるためなのか、桜の樹のシルエット風の景観はいいのですが、その様子がよくわからないのです。230人ほどいた観光客の人たちの間の話では、桜はこれからなのだという様なことが言われていました。とにかく勝負は明日以降だと言うことにして、その日はそこを離れました。

翌日は、早朝の5時半過ぎに駐車場前に到着しました。開場が6時からだというのに、既に数台の車が列を作っていました。昨夜はかなりの雨が降り、大風が吹いて荒れた天気だったのですが、それが効いたのか、今日は真っ青の空が広がる晴天です。岩手山もくっきりと見え、最高のシャッター日和となりました。

相棒はカメラを抱えて直ぐに飛び出してゆきましたが、私の方はお湯を沸かして朝食の準備です。旅車は食事の場所は何処でも可能です。しばらくして興奮気味に戻った相棒と一緒に、車窓に広がる岩手山と一本桜を見ながら、パンとコーヒーの食事は、なかなか豪華なものでした。食べものの中身よりも、車窓の景観の方が層倍の豪華さなのです。これぞくるま旅の醍醐味なのでした。

次第に明るさが増してきて、空はいよいよ青く、岩手山はその雄大な偉容を誇っています。それらを背景に一本桜は見事なポジションを保っています。昨日はよく見えなかったその姿も、今日は大丈夫です。しかし、心なしか花の数が少なく、何だか元気がないように見えました。近くに居た人の話では、今年はウソという鳥が花芽を啄ばんでしまって、花数が激減しているのだとか。それゆえ、花はあまり期待できないとのことでした。

ウソという鳥と桜の花芽との関係は、全国的なものの様で、先日長井市郊外の大明神桜というのを訪ねた時も、90歳になられたその桜の樹の持ち主の家のおばあさんが、その鳥の話をしておられました。ウソが花芽を食べてしまう年には、何やら農作上良くないことが昔からの言い伝えであるようですが、それが何なのかは良くわかりません。

一本桜は、樹齢が凡そ100年くらい、もともと牛たちが夏の暑い日差しを避けて休むために植えられた、という様なことが説明板に書かれていました。桜の樹としては、全国何処にでもある平凡なものなのだと思いますが、この樹がいち早く名木の仲間入りができたのは、そのポジションにあるのだと思います。実にいい位置に植えられ、育っているのです。岩手山がその最大の引き立て役です。それから牧場の丘の景観です。この二つを巧みに使って一本桜は、その存在をアピールしています。偶々人間の目にとまったのがラッキーだったのか、或いは反対にアンラッキーだったのか、それは一本桜に聞いて見なければ判りません。

相棒もたくさんの写真を撮ることができて大満足のようでした。望遠のサイズが少し足りないので、もっといいものが欲しいなどといっていました。写真というのは、所詮はカメラの機能と、レンズの力なのかなと思いました。来年は、ウソ君たちがこの樹にはやってこないように願いながら、満開に膨らむ一本桜を見ながらもう一度豪華な朝食を楽しみたいものだなと思いました。

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抱き返り渓谷のこと

2007-06-26 05:17:34 | くるま旅くらしの話

 今回は、妙な名前の渓谷の入口まで行ったという話です。

 角館から盛岡に向う国道46号線を走っていると、右手に「抱き返り渓谷」という案内板が目に入ります。いつも、ここには寄らずに通過していました。というのも渓谷というからには、道が細くなって、車の離合が難しくなりはしないかという心配があったからでした。しかしその妙な名称は、四国の大歩危・小歩危や越後の親不知などと同じようにある種の興味・関心を惹くものでした。それで、今回は思い切って行ける所まで行ってみようと思い、R46を右折してその渓谷に向ったのでした。

 道路通行の心配は全く無用でした。路線バスも走っており、その終点には広い駐車場、キャンプ場などがあり、そこに車を停めれば渓谷の春夏秋冬を存分に楽しめるようになっていました。訪ねたのは、平日でしたので新緑のシーズンではあっても来訪者はほんの少ししかありませんでした。

駐車場の直ぐ傍を白い泡を吐きながら渓流が流れています。かなりの水量の急流です。今時の東北各地の川は雪解けの水などで、どこも豊かな水量を保って流れているようです。実はこの川が、何という川なのかも知らなかったのでした。否、知ってはいたけど、数日前中仙町(大仙市)の八乙女公園に行く途中に渡った橋の下を流れる玉川だとは気づかなかったのでした。

 玉川は、雄物川の支流で、大曲辺りで合流する川です。その上流は、八幡平の彼の有名な玉川温泉のある辺りらしいです。どうも土地鑑がないため、地図を見ないと現地に見る川は判別ができません。地図を見て初めて目前の川が玉川と知り、なあんだとなった次第でした。

 それにしても何故抱き返りなどという妙な名前がついているのだろうと疑問は消えませんでした。付近を散策すると、幾つかの石碑が建っており、その中の一つに「玉川先賢彰徳碑」というのがあり、その昔玉川は火山から湧出する毒水のために魚が一匹も棲めない川で、農耕灌漑用にも不適の水だったものを、私財を投げ打ってその浄化、利用の実現に貢献した人たちを讃える、大曲・仙北校長会の建てたものでした。明治以降になって初めて安定した活用が可能となった川だったのだということを知りました。同時に最近岩盤浴で有名な玉川温泉というのは、その昔の灼熱の毒水が発生する傍にあるのだということも、そしてそのような毒の力が薬にも転化するのだということを不思議に思いました。

 顕彰碑はこの他にも秋田おばこの開拓・普及者である佐藤貞子という方を讃えるものなどがありました。しかし、これらの顕彰碑が何故この地に建てられているのかはわかりませんでした。ま、そのことは措くことにしましょう。

 少し先に神社のようなものがあり、そこへ行って見ると「抱返神社」とありました。そして、その由緒書をみて、抱き返りの名称の由来が解ったのでした。それによりますと、例の前九年の役で安倍貞任を厨川の柵に攻めようとした源義家が、玉川筋に進軍しようとした時、この地で川の流れの静かなることを願って、持仏を祀って祈願したということです。そして戦に勝利を収めて、再びこの地を訪れた義家は、その持仏を懐から取り出し、堂宇を建ててそれを祀って感謝の念を表したという話があり、懐に抱いていた持仏を持ち還って祀ったという所から、懐き還り神社 → 懐還神社と呼ばれる様になり、明治になって更に抱返神社と改称されたということでした。なるほど、してみると抱き返り渓谷というのは、もともとは八幡太郎義家の伝説に由来しているのでした。

 ところで、肝心の渓谷ですが、散策を始めて直ぐ、現在は遊歩道の補修工事中で、全面交通止めとなっていたのでした。今日の人出が少なかったのは、平日ということだけではなく、この所為でもあったようです。清流が巌を砕き、新緑が渓谷全体を染めて広がり、ハイキングには絶好の場所でしたが、岩石などの崩落の危険があるということなので、今秋の補修完了時までは残念ながら、歩きは諦めなければならない状態となっていたのでした。秋になると、ここでは全山錦秋の景観を楽しむことができるのだと思います。機会を作って、是非再訪してみたいと思っています。 

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金沢(かねざわ)の柵のこと

2007-06-25 06:44:21 | くるま旅くらしの話

国道13号線の横手市郊外を大仙市に向って走ると、「後三年の役金沢(かねざわ)資料館」の案内板があり、道路脇にその資料館があります。ここを何度も通っているのですが、今までに一度も立ち寄ったことがありませんでした。今回はどうしても寄って見るつもりでおり、それが実現した次第です。

東北を旅していると、何箇所か「○○の柵」という史跡の案内板に出会います。最初は昔の牧場の仕切りでもあったのかな、という程度の認識でしたが、何度も金沢の柵の傍を通って、「後三年」というJRの駅名があるのを知り、そういえば確か前九年・後三年の役とか言うのがあったな、と気づいたのでした。気づいたとは言うものの、その内容は知らず、柵というのは、その戦に何か関係があるものらしいと思っただけで、ずーっと放置してきたのでした。今回はその怠慢を許さず、ちゃんと柵の意味も、その戦に絡む歴史なども知りたいと思ったのでした。

雨降りの中、資料館に入り、VTRを観た後、館内の様々な資料を見学して、ようやく往時の東北地方の様子の輪郭が浮かぶようになりました。しかし、細かな人物関係は複雑で、とてもいっぺんに覚えられるものではありません。

前九年の役というのは、以前NHKの大河ドラマで放映された「炎立つ」の安倍頼時・貞任等安倍一族と中央政権との戦いであり、このときには中央軍に同じ東北の豪族清原一族が味方して、安倍一族を約9年かかって滅ぼしたのでした。そしてそれから20年経って、今度はその清原一族に内紛が起こり、これに再び中央政権が絡んで宗家が滅び一族の中から清原清衡という人が勝利を収めて、姓を藤原と改め、居住地を平泉に遷して、いわゆる藤原三代の平泉の黄金文化を残す礎を築いたという歴史です。

東北の歴史は、中央政権と深く関わっているということを改めて知りました。その昔の坂上田村麻呂に与えられた征夷大将軍という称号も、はるかな遠地にあって、中央のいうことに従わない蝦夷(えみし)の連中を、何とか従わせようと、遠征する将官に与えられたものであり、東北地方あっての称号でした。それは東北が中央政権に取り入れられた後にも、武官の最高称号として明治になるまで機能したわけです。

また、全国にはたくさんの八幡宮がありますが、これらは戦の神様として讃えられた八幡太郎義家を祀ったものだと聞きます。八幡太郎義家、即ち源義家は、まさにこの当時の中央政権の代表である陸奥守として、これらの戦に深く関わり悪戦苦闘してようやく勝利し、名を後世に残したのでした。もしこの時代に東北側が勝利したとしたら、全国に八幡神社は生まれなかったのかも知れません。(このようなことを妄想というのだと思いますが。笑)

言いたいのは、中世の全国統一、つまり大和朝廷が真に日本国を統一できるのは、この後三年の役までかかったのではないかということです。それほどに東北は中央政権にとって、手を焼くエリアだったし、東北に住む人たちから見れば、地方主権を脅かす中央政権への反発は大きかったのだと思います。

これら一連の歴史の流れの中で思うのは、人間というのは権力に囚われ、感情に揺さぶられ、意地を張り、それらを通すためには血のつながりなどは無縁の、非情な存在となり得るものなのだ、ということでした。中央の陰謀策術が個々人の欲と複雑に絡み合い、争いの果てに僅かな小康を得て、然る後に再び同様の欲望が再発して争い、戦となりそれが収まって、又一つの歴史が作られてゆく。そのような感慨を抱かずには居られませんでした。そして、それは今尚世界的なレベルで繰り返されているような気がします。

1時間ほどの見学を終えた後、近くにある金沢公園を歩くことにしました。その昔の柵の跡が公園となっていました。柵というのは、古城というか、城には至らぬ砦のようなものをいうのだというのがわかりました。金沢柵は難攻不落であり、どうしても落ちないため新たに兵糧攻めという戦術が生まれた所でもあるということです。後に秀吉が得意としたこの戦術は、真に陰険な戦法のような気がします。勝つためには手段を選ばないというのが戦だとは思いますが、手段を選んでその結果敗死しても、その手段が戦らしい潔いもの(これはイメージだけの世界で言えることなのでしょうが)であればその方に自分は美学を感じます。その意味では織田信長が今川を討った奇襲戦法は納得行く気がします。しかし、もともと殺し合いの戦などというものはあってはならない存在でありましょう。

公園を歩いていると、景正功名塚というのがありました。説明板によれば、後三年の役に、16歳の初陣ながら大活躍をして、幾つかの功名を立てた鎌倉権五郎景正という人が、将軍義家の命令でここに敵の屍を集めて葬り、その弔いのために塚の上に杉を植えたということです。杉の木は戦後間もない時期に焼失したとのことでした。16歳にして屍を埋め、弔うという行為は、功名を上げるということとどの様に関連するのか、今の世の中では到底理解し得ない不可解な感情が胸を過ぎりました。戦というものは、やはり人間の異常感覚の中でしか行なえないもののような気がしました。

東北には金沢の柵のほかにも幾つかの名のある柵が残っているようです。それぞれの柵にそれぞれの哀しい歴史が埋まっているような気がします。今後も機会があれば、それらを一つずつ訪ねて見たいと思っています。

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バッケ味噌のこと

2007-06-24 04:21:35 | くるま旅くらしの話

東北の春の山野を代表する野草の一つにフキノトウ(蕗の薹)があります。北国の東北では、フキノトウのことをバッケと呼ぶようです。特に秋田は蕗が有名ですが、実際に行って見ると、北国の山野には何処にでも野生の蕗が溢れるほどに生育しています。蕗が花を咲かせようとするのは、雪解けが終わる早春の頃かと思いますが、とにかく春が来たことを実感させてくれる植物に違いありません。

今回の旅では、鳥海山の雪解けの道を走ったその道端に、そして奥入瀬から十和田湖畔を走り、黒石に向う途中にある滝ノ沢峠で雪解けの跡にたくさんのバッケを見つけました。雪解けを待っていましたと花芽を出すフキノトウは、そのような長ったらしい呼び名よりも、バッケと呼ぶ方がはるかに実感があります。

鳥海山も滝ノ沢峠も未だ残雪が道の両側にたっぷりと残っており、山は冬が最後の名残りを惜しんでいるという感じでした。鳥海山から1週間遅く通った滝ノ沢峠は、解けた雪の跡地に無数に点在するフキノトウに混じって、咲き始めたキクザキイチゲが随所に薄紫や純白の可憐な花をつけていました。雪の中でその時を待っていたのか、キクザキイチゲの身体は、一様に赤紫になっていて、花には似合わぬ逞しさを覗かせていました。

さて、今回のテーマは相棒の話です。バッケ味噌を作ったという話ですが、バッケ味噌というのは勿論蕗味噌のことです。山地の土産物店などには定番のように瓶詰めにされて売られている、あの得体の知れぬ苦味の詰まった食べ物のことです。

知らぬ間に相棒は秋田の地元の方が作られた郷土料理の本を買っており、その中にバッケ味噌の作り方が書かれていたのでした。とにかく無尽蔵といっても良いほどたくさんのバッケが雪解けの跡から顔を覗かせているのです。これをそのまま見過ごすことができないのは、いつも私の方なのですが、今回はなんと相棒の方が積極的に摘もうと言うのです。平地の方ではもうフキノトウは消えて葉が大きくなり出し、諦めていたのですが、鳥海山麓の1000mを超える場所では今が盛りなのでした。興奮しながらビニール袋に一杯つめて山を降りたのでした。旅のコースの都合もあって、相棒は、2日後に最初のバッケ味噌つくりにチャレンジしました。テキストを参照しながらやったようですが、この間私といえばベッドにもぐりこんで白河夜船の有様。目覚めてみれば出来上がっていたという訳です。早速口に入れてみましたが、これが予想外の出来で、充分満足できるレベルでした。バッケ味噌は、甘辛く、苦味があって、香りもよくて酒の肴にフィットしているだけではなく、熱いご飯に載せても、或いはパンに塗っても大満足の食の万能選手です。

私の思うバッケ味噌の最大の魅力は、苦味と香りにあります。苦味というのは大人の味です。概して子供は甘いものを好み、大人になるに連れてそれ以外の味を覚えるようになり、そして最後に到達するのが苦味です。苦味を美味しいと死ぬまで感じられない大人もいるようですが、それは五感を使い切れていない気の毒な人だなと私は思っています。とにかく相棒のバッケ味噌作りは大成功でした。

その第1回目の作品の在庫がなくなりかける頃に滝の沢峠を通ったわけですが、ここのバッケは、鳥海の時よりも遙かに採り易く、興奮は一層高まったのでした。見境も無く大量のバッケを収穫して山を降りたのでした。別にバッケを探していたわけでもなく、偶々通った所にこんなにたくさんあったというのは、これは天がバッケを我々に配ってくれたのではないかと思うほどです。相棒の第2回目の作品は、前回を凌ぐほどであり、これまた大成功でした。大量の製作でしたので、旅が終わって家に戻った後もバッケとともに東北の春を味わったのでした。バッケ味噌作りの名人を目指すと公言した相棒の目標は今のところ達成されたようです。来年になってもテキストを見ないで作れたなら、名人の評価をしても良いと思いますが、再びテキストに依存するようでは、これは迷人と言わざるをえません。来年が楽しみです。

なお、レシピの書かれている本などを紹介します。秋田県農山漁村生活研究グループ協議会編・発行(40周年記念)「秋田郷味風土記(ふるさとあきたの食百選)」¥2,000

<バッケ味噌作りのレシピ>

 ①バッケを一晩米のとぎ汁に漬けておく

 ②水洗いの後、熱湯で色よくサッと茹で、冷水です

    ばやく熱をとり、笊に上げる

  ③キッチンペーパーでよく水分を取り、細かく刻む

  ④フライパンに油を熱し、味噌、砂糖を入れて良く

    練る

  ⑤刻んだバッケをいれザッと混ぜる

 材料:バッケ200g、砂糖200g、味噌600g、サラ

   少々

 注:味噌や砂糖の量を調整することで好みの味を出せ

  るとあります

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羽黒山のこと

2007-06-23 04:37:14 | くるま旅くらしの話

古来からの日本の宗教といえば、神道と仏教に2大別できるように思いますが、それでは修験道というのは神道なのかそれとも仏教なのか? このようなことにあまり惑わされずに、今まで生きて来たのですが、今回羽黒山を訪ねて、初めて疑問を感じました。単純に神道は神社、仏教はお寺というように分ければその違いは明らかだ、などと思っていたのですが、どうやらそのように簡単なことではなさそうです。

羽黒山は、奥州における修験道の道場の中心的な存在であることは知っていたつもりですが、一体その修験道というのはどんなものなのか、これについては実は神道の一部だと思っていたのです。吉野の大峰山を訪ねた時も、ここは神道の道場であり、神社なのだと思っていたのですが、雰囲気としてはどうもお寺の感じがするのです。それで調べてみましたら、修験道というのは、仏教なのでした。

役の小角(えんのおずの~この人は伝説の存在ですが、私にとっては、超魅力的な人物です)を祖と仰ぐ日本仏教の一派、と広辞苑には書いてありました。山岳仏教と呼ばれるもので、自然との一体化による即身成仏を重視する、とも書いてあります。なるほど、そうならば境内に鐘楼があっても、五重塔があっても何の不思議も無いわけです。

しかし、羽黒山には出羽三山神社という立派な建物がデンと構えておりますし、境内にはたくさんの神様を祭った社が建っています。これは一体どう考えればいいのか、頭の中がグジャグジャにこんがらかってしまって整理が出来ません。

羽黒山は、明治の神仏判然令にはどう対応したのでしょうか。そもそも宗教を神と仏に分けるというのは、無茶な話のように思いますが、国政が大声を上げ、旗を振ってこれを促進したのですから、もともと無宗教に近い大衆はその気になって排仏棄釈に勤しんだのでしょうが、往時羽黒山はどのような扱いだったかは、気になるところです。

少し理屈が長すぎました。羽黒山には以前国宝の五重の塔を見に行きたいという相棒の要請で、そこだけを訪ねたことがありましたが、山頂の出羽三山神社などへは参拝しませんでした。今回は時間もたっぷりあり、天気も上々でしたので、1日かけての参拝であってもいいと思っての訪問でした。参拝は、本来ならば麓から歩いて行くのが筋だと思いますが、そこは手抜きをして山頂まで続いているドライブウエイを利用させて貰いました。

有料道路に入る前に、月山ビジターセンターというのがあり、先ずはそこを訪ねたのですが、構内にある十数本のオオヤマザクラが満開で迎えてくれました。彼方に真っ白な月山の頂上付近の広がりを眺望することができます。とても良い所です。ビジターセンターの建物の中には、月山の動植物に関する資料や写真などが展示されており、四季を通じた月山の様子を知ることが出来ます。私の中では、月山は憧れの山の一つで、お花畑にあるという黒百合の群落を一度見てみたいと思っていました。黒百合は、香りの方は全くダメですが、姿かたちには凛としたものがあります。知人から聞いたその群落の話は、魅力的でした。実現せぬまま今日に至ってしまいましたが、果たしてこの後それらを見る機会が訪れるかどうか、半ば諦めの気持ちになっています。

近くの池には今を盛りの水芭蕉が咲いており、僅かな間しかない楚々とした佇まいを見ることができて最高でした。水芭蕉は観る期を逸するとそのイメージを損なうほどがっかりさせてくれる植物です。1時間ほどかけて付近を散策の後、いよいよ羽黒山への参拝です。

羽黒山頂までは僅かな距離ですが、駐車料込みの有料道路となっており、車社会ではお山を守るためには、不可欠な措置なのかもしれません。連休の最中とあってか、駐車場は大変な混み様で、ようやく空きを見つけて車を停めました。車の後ろの藪には、黒い残雪の塊が未だ融けきれずに残っていました。寒い所なのだと改めて思いました。羽黒山はたった415mの標高なのですが、北国にあるため、恐らく福岡で言えば宝満山(標高869mで、ここも修験道の山です)位の高さに匹敵するのではないかと思いました。登って来るのではなく、最初から下りながら山を見るというのは、何とも横着で腑に落ちない感じがするものです。

初めて見る出羽三山神社(三神合祭殿)は荘厳で迫力のあるものでした。真ん中に月山神社、その両脇に出羽神社と湯殿山神社が祀られています。自分としては羽黒山神社というのがあるものとばかり思っていましたが、そのような神社は無く、出羽神社なのでした。羽黒山というのは、まさに山そのものを指し、そこが修験道の道場であることを意味しているのだということにようやく気づいた次第です。

参拝の後、境内を散策しイヤシロ地の大気を胸いっぱいに呼吸しました。イヤシロ地というのは風水の世界でケガレ地に対応するイメージの世界だと理解していますが、その昔から人々の魂の浄化・安息を図ってくれる場所を指しているようです。その様な場所に神社・仏閣は建てられていると聞いています。羽黒山は、文句なしのイヤシロ地です。境内の大木の根元には、未だショウジョウバカマの花があちこちに咲いていました。心の癒されるいい時間でした。

境内にある歴史博物館にも寄りましたが、そこに展示されている資料や仏像などを見て、やっぱり修験道というのは仏教なのだと再確認をしました。日本人というのは、外国人から観ればかなりいい加減な宗教態度だと思われているという話を聞きますが、仮にそれが偶像崇拝であったにとても、平和裡に信教を調和させて取り入れる能力は、世界各地で血を流し、殺しあっている信仰のあり方よりは、むしろ優れているのではないかと思ったりしました。

羽黒山には、東北に住む人々のそして日本人の信仰心の全てが詰まっているような感じがしました。論理的に不可解な部分は幾つもありますが、それら全てを呑込んだ形の宗教があってもいいのかもしれません。ま、いずれにしましても信仰というのは神や仏よりも、一人一人の、信仰する側の問題なのだと思います。

今度羽黒山に参拝する時は、修験道の精神、大自然と一体になるということを思いながら、麓からじっくりと時間をかけて、歩いて登ってみたいと思います。

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久保桜と大明神桜のこと

2007-06-22 04:11:46 | くるま旅くらしの話

東北には桜の名木、古木が多いようです。どれほどたくさんあるのかわかりませんが、かなりの数に上るのではないかと思います。その中で、千年を超えるものということになると、これはかなり数が限定されてくるようです。

樹木の古木や大木には惹かれるものがあります。私のくるま旅くらしの出発は、屋久島の縄文杉に挨拶に行ったことから始まっているのですが、1日をかけて往復したあの時の感動は、永遠に消えることはないと思っています。樹木は明らかに生き物であり生命体だと思っています。生き物には、いろいろな生き方があるのだと思いますが、植物も千年を超えて生きているレベルになりますと、傍へ行くと何か普通でない命の本性のようなものを感じます。縄文杉は、最早杉などという樹種を超えた存在であり、その樹に宿った命の本体そのもののような感じを受けました。桜も、千年を超える樹となりますと、やはり樹の命が剥き出しになって、現れるような気がするのです。

今回の旅では、山形県長井市にある久保桜と大明神桜の2本の千年を越える桜の大樹を訪ねました。桜というのは、あまり温かい土地では命を永らえるのが難しいようで、どちらかといえば冬の寒さの厳しい、されど日当たりが良くて、水分の補給に苦労をしないような場所が長生きをする樹の条件のような気がします。その様に考えますと、山形県の置賜地方は、桜の存命には良い条件が揃った所なのかもしれません。長井市周辺には、桜回廊と呼ばれるエリアがあり、そこにはかなりの数の長命の名木があるようです。その全てを見たわけではなく、これからが楽しみだと思っています。

久保桜も大明神桜も樹種はエドヒガンで、大きさも略同じようなものですが、大明神桜は久保桜よりは樹高が3mほど高くて約19mあります。樹枝が東西南北に伸ばした広さは、久保桜の方が広かったようで、江戸の昔は「四反桜」と呼ばれていたとのことでした。

桜の古木としては、久保桜の方が有名なようです。というのも久保桜は花の艶やかさが目立つ咲き方をしているからではないかと思うのです。横に広がる感じの枝ぶりにつく花は、見る人により多くの感動を与えるに違いありません。久保桜は江戸時代に、その幹にあった洞に住み着いた浮浪者が火事を起こし、洞を燃やしてしまったため、九死に一生を得た形で、今はまるで二本の古木が身を拠り合わせて生きているような様子となっており、可哀想というか申しわけないという気分が入った観桜となってしまうのです。

幸いなことに最近の樹木の蘇生技術の発達により、久保桜のこの空洞を埋めて元の一本に戻し、新たな根を生やせしめて、本来の元気を取り戻すという、大手術が現在行なわれており、その成功を心から祈りたい気持ちです。この手術が成功した暁には、伊佐沢の久保桜は、ますますその存在感を高めるに違いないと思います。

知名度は久保桜には及ばないとしても、大明神桜も千年を超えた大木であり、こちらも花の季節には見逃すわけには行きません。今回の旅では、実はこの樹は個人の屋敷内のものであり、それを一般公開して頂いていることを初めて知りました。この樹が同じ屋敷に住む人たちを千年もの間、どのように見てきたのかと俄然関心を持つようになりました。そして、家内が、現在その屋敷に住んでおられる90歳のおばあさんと知りあったことから、この家に住まわれる方は、この桜に守られて、元気に長寿を保っておられるのではないかと感じた次第です。90歳のおばあちゃんから家内が頂戴した飾りの小さな手毬(てまり)は、とてもそのような年齢を思わせぬ素晴らしい出来栄えでした。おばあさんは、野良着姿で、畑の見回りから戻られた様子でした。大明神桜には、久保桜とは又違った親近感を覚えるようになりました。この桜はその近くに住む人たちをやさしく包み込んで、守っている守護神のような存在なのだと思います。

今回の旅では、この二本の名木の他にもたくさんの桜に逢いましたが、桜というのは、美しい日本の心を表す最高の花を咲かせる樹だと思います。これらの桜の花のイメージからはほど遠いところで、美しい日本などという言葉遊びをしている世界がありますが、そのような言葉を使ってよいのか、それが許される世界なのかを、桜の花をじっくり見ながら考えて欲しいものだと想いました。

本当はこのような文章には写真を添付することが大切だとはわかっているのですが、どうも取扱が面倒なものですから、よほどの良い写真でもない限り取り上げないことにしています。そのような写真は先ず無いでしょうから、諦めて下さい。厚顔多謝。

 

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白河の関のこと

2007-06-21 06:14:10 | くるま旅くらしの話

今回の旅では、久しぶりに白河の関跡を訪ねました。ご存知のとおり白河の関跡は、福島県南部の白河市郊外にあります。国道294号線を通りますと、栃木県那須町にある道の駅:東山道伊王野を過ぎた少し先辺りに、道案内板が掲げられています。この看板は存外に不親切で、うっかり行きますと目的地には届かないようになっています。というのも、その脇道に入ってからは、その後は何の続きの案内板もないからです。白河の関に行くには、国道289を通る方が確実だな、と今回ナビ無しの車で迷った者の感想でした。

ところで、白河の関が有名なのは知っているのですが、どのような関所だったのかということについては、実は真面目に考えたことは一度もありませんでした。要するにその昔、ここにも箱根の関所と同じように通行人を改める役所が置かれていたのだろうと、その程度の認識であり、それがどのような時代なのかも、実の所あまり気にもせずに訪ねていたのでした。解った様な顔をしていても、現代に生きている私たちは、名所旧跡を観光地として、その程度のレベルでしか認識していないなのかも知れません。否、これは他人様のことではなく、私自身の貧しい認識でした。今回の旅では、もう少しまともに地元や旧跡をを知ることにも力を入れて見ようということで、そもそも白河の関というのは何だったのだろうかと、初めて疑問の目を持って訪ね、考えたのでした。

白河の関は、箱根の関などとは大きく違って、中世前期、或いは古代とも言うべき56世紀頃の時代背景を思いながら、やがてここに関が築かれたのだという風に考えなければならないと思いました。奥州三関[白河・勿来・念珠(ねず)]の一つとして、東山道の守りの要衝として、往時の蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちの南下を防ぐために設けられた、大和朝廷サイドの前進基地だったとの理解が必要だと思いました。今回の旅では、秋田県横手市郊外にある「金沢の柵」と呼ばれた城砦のことをホンの少し学びましたが、この「柵」よりももっと古い時代の柵のようなものの一つが、白河の関だったといえるような気がします。つまり、単に通行人を改めるだけの機能ではなく、大和朝廷の蝦夷を治めるための前進基地のような役割を果たしていたのだと思うのです。

往時のことを現代の感覚で見ていたら、歴史は何も解らないような気がしますが、往時の道路といえば、今のような舗装や砂利道ではなく、田んぼ脇の畦道程度の道が、原生林のような草原や森の中をたった一本走っているに過ぎないような環境ではなかったかと思うのです。何しろ人間の数も現代のように億を超えているわけではなく、日本国全土を合わせても1千万人にも及ばなかった時代です。やたらに通行人が行き交うはずもなく、関所があれば関所破りなどやろうと思えば幾らでもできる環境にあり、通行人から銭を巻き上げるような関所であったはずがないと思うのです。

その後にここを訪れた有名人()の歌などが幾つか残っていますが、これらは関所としてはこの地がかなり落ち着いてからの時代であって、最初の頃とはかなり違ってきていたのではないかと思いました。奥州のここまでやって来ると、地の果てに来てしまったという様な感傷を、遠い都の方からやって来た人たちは抱かざるを得なかったのかもしれません。

1800年に、白河城主松平定信という人が、この関の発掘を行い、ここが白河の関所跡に間違いないと判断し、「古関蹟」の碑を建てたとありますが、もうその時代にはここに関があったのかどうかもはっきりしなかったということでありましょうから、千年以上も経ってしまうと、歴史というのは、大自然の中に埋没してしまうようなものかも知れません。

関所の遺構や来訪人物、その人たちに縁のあるものの紹介などは資料に紹介されていますが、いつも思うのですが、実際にその時代にこの関所が具体的に何をしていたのかというようなことは殆ど書かれておらず、この分はいつも空想の世界となってしまいます。一般人の殆どは、竪穴式住居でのくらしを営んでいた時代だったわけですから、空想を膨らませれば、今の時代では想い描くことも出来ないような、この関にまつわる悲喜劇があったのではないかと思いました。

現代の今では、いい天気の下で、関所の中をこども達は走り回り、親達はそれをコントロールするのに躍起になっています。関所など無関係の楽しい休日を過ごす憩いの場となっています。今はもしかしたら過福(禍福ではなく)の時代なのではないか、と思ったのでした。しかし人々の心の中には、そのような意識は永遠に生まれるわけもなく、欲望は往時の大和朝廷を凌ぐものがあるに違いありません。それでいいということなのでありましょう。でもでも、時には史跡の奥のほうも覗いて見ることも大切だなと思った次第です。

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風土記の丘のこと

2007-06-20 05:56:57 | くるま旅くらしの話

茨城県には石岡市という所に常陸風土記の丘というのがあります。一度だけ訪ねたことがありますが、広大な施設であり、とても全部を見て廻ることはできませんでした。

風土記というのは、その土地の風土、つまり、地誌や物産、文化その他の情勢などについて記したものをいう訳ですが、一般的には奈良時代に書かれた古風土記(出雲・播磨・肥前・常陸・豊後)のことを指すことが多いと広辞苑に書かれておりました。私の頭の中には、風土記と言えばこの古風土記しかありませんでした。

旅をしていると、時々「風土記の丘」という案内標示板を目にすることがあります。今まではそれらの全てを素通りしていました。というのも、風土記というのは、古い遠い昔の神話のようなものであり、何やら難しそうで、よく理解できずそれらが今日にどうつながっているのか見当もつかないことのように思われ、平気で敬遠していたわけなのです。

今回、栃木県那珂川町(旧小川町・馬頭町が合併)と湯津上町(現在は大田原市に合併)にある那須風土記の丘資料館に寄ったのは、古い時代を訪ねる練習のようなつもりだったのですが、良く考えてみると、「那須風土記」というのがあったのか知らん、という疑問が残ります。風土記というものが、一体幾つ書かれているのかよく覚えておらず、那須にもあったのかな、などと思いながらの訪問でした。

那珂川町の方にある小川館というのが本館らしく、立派な建物が建っていました。館内に入ると、いきなり縄文人の竪穴式住居を復元したものがあり、いつもだと陳列されているだけで、その使い方の実際が判らない土器や石器などがどのように使われていたかを知ることが出来るようになっていました。人形も置かれていて、なかなかリアルに再現されています。古代の人々の暮らしぶりは、現代の今の我々からは想像つかないほど厳しいものだったに違いありません。

その次のコーナーは古墳関係の資料、そして次が律令時代に関係する資料でした。ここで、その昔那須には官衙(かんが)が置かれていたのだというのを初めて知りました。官衙というのは役所のことです。つまりはこの辺一帯が、その昔の那須の地の行政の中心地だったわけです。それ故に那須の与一などという人物が、この地から登場したわけです。この資料館もその昔の官衙跡近くに造られており、礎石などが残されているのを知りました。縄文の昔から、この地一帯は、人が住み、営みをし続けてきた所なのだということが良くわかりました。

比較的近くに生まれ育ちながら、今頃になって初めてこのようなことを知るというのは、真に怠慢なことだなと思いました。那須風土記などというものは無くても、那須の風土というのは古来よりあるわけで、この資料館は、それらの資料を保存し、展示、紹介しているのだと気づいた次第です。

これから先の旅では、風土記の丘というような案内板があったら、必ず立ち寄って訪ねようと考えています。それにして、もこのような現代に暮らしていると、遠い昔のことを知るというのは難しいものだなと実感しています。先ずはその古風土記というものをとにかく読んで見なければならないなと思いました。旅に出ると、結構宿題も多くなって、忙しくなります。(笑)

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