山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

大杉漣氏の急死に思う

2018-02-26 09:46:06 | 宵宵妄話

  俳優の大杉漣さんが亡くなられた。66歳だったというから、自分よりも一回りも若い方なのだ。一体何があったのか。驚くと共に生命の終わりの不思議さ、不可解さを思い知らされた感がある。今日元気でいることが、明日も生きて行けることに繋がるとは言えない、という現実がそこにあるのを改めて思い知らされた気がした。

2、3カ月前だったか、牛久市にあるJA直営の農産物等販売所に行った時、大杉さんを初めて見たのだった。その時どのようなロケが行われていたのか全く知らなかったのだが、駐車場に車を止めて建物の中に入ろうとしていたら、白っぽい寝間着のような着衣の少し歳の行った男が、ふらふら歩いて来て、その後をカメラが追いかけているので、何だろうと見ていたら、何とそれが大杉漣さんだった。何か、病院から抜け出して来た患者のような役を演じていたようだった。秋が深まって少し寒さを覚える時期だったので、役者さんも大変だなと同情した。きれいな女優さんだったら回りに人が群れるのだろうが、中年を超えた男の役者には付きまとう人もなく、まあ、見た目には楽なロケだったのかもしれない。その時はそのように思い、珍しい場面に出くわしたと思っただけだった。

でもTVで見る大杉漣という役者には、一味違う鋭さというか演技のキレを感じていて、力のある人だなとずっと好感を持っていた。

役者というのは、与えられた作品の人物を、全身全霊を持って表現する仕事だと思っている。人間というのは誰でも全てが表現者なのだと思う。人とは誰でも自分の持つ思いを何かの形で表現したいと考えている。否、考えているのではなくそのことのために生きているのだと思う。自分が何も表現するものが無くなった時、人は魂を失うのだ。自分はそう思っている。その意味において、役者というのは自分の個性を潜めてまでも、与えられた作品の人物の形振りや心の有り様までを演ずるのであるから、これは大変な仕事なのだと思う。

大杉さんには、我々とは異なった次元での表現に対するご苦労・心労があったに違いない。役者もその他のアーティストも、そしてまた普通の我々も、苦労や心労の数を重ねてこそ人間としての味わいの重さを身につけるというものであろう。その味わいがこれからより多く見られるという時に、この役者を失ったというのは真に残念でならない。この突然の死が、もしそれが天運などというものだあったなら、天というのは随分といい加減なものだなと思ってしまう。

大杉さんの突然死を招いたのは心不全というものだったという。しかし、心不全というのは、結果的に心臓の働きが停止したということであって、何故停止に至ったのかということが解らない、極めて曖昧な死因である。結果でしか死因が解らないというのは、医学の分野にまだ未解明の領域が厳然しているということなのであろう。原因不明の事故死というような捉え方が当っているような気もする。

そのようなことを考えていると、自分自身の老計・死計のゴールとしての「死」に対する考え方を改めなければならないなと思った。自分は今まで死に方の理想として、「PPK=ピンピンコロリ」を考えて来た。コロリと逝く前まではピンピンして生きているという考え方なのだが、大杉さんの死はまさにこのPPKに該当するのである。しかし、それが理想であるとはとても思えないことに気づかされた。この死は大杉さんご自身にとっても又家族や周辺の人たちにとっても或いは世の中にとっても、納得の欠片もない出来事だったと思うからである。

それで、これからはPPKを言わないことにした。突然死は決して理想などではなく、不幸な事故死に過ぎないものと気づいたのである。

ではどのような死が理想なのか。そこで思ったのは、過日100歳超まで現役の医者を勤めてお亡くなりになられた、日野原先生の死に方である。最後が近づいた時に、先生は身近に居られる家族を初め周囲の方々にお一人ずつことばを掛けられて、その後に息を引き取られたと聞く。このような死に方こそが最高ではないか。そう思った。

それでこれから自分は、PPKを止めて「PPY」を目指そうと思う。Pは勿論ピンピンのPである。ではYは何か。それは「予知、予告」のYである。元気でいても真老から深老と進むにつれて、死が近づいているのを予知できるような気がするのだ。そのことに鈍感であれば結局は事故死のようなものとなってしまう。だから自分は予知ができるレベルに至る感覚を磨いて、死というものを迎えるように努めたいと思う。

この歳になると、「死」を考えるというのは「生」を考えるのと同じ枠の中に入るテーマとなる。死を考えずに生を貪っていると、それは事故につながって行くのだと思う。それは避けなければならない。大杉さんの事故死は、自分にそのようなことを教えてくれたように思う。

死が見えて来た時、願わくば家族の者たちに「俺はあと○○ほどであの世の旅に出かけるからな。あとはよろしく頼む」とでも言って、それを実行できたら最高だと思う。先ずはその前に毎日をピンピンで過ごすことが肝要だ。

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近江商人の一方良し

2018-02-12 00:33:09 | 宵宵妄話

 今年の北海道行の準備の一つとして、松浦武四郎のことをもう一度振り返っておこうと考え、図書館から取り敢えず3冊ほど本を借りて来て読むことにした。当初は北海道の名付け親といわれるこの人物の軌跡を辿るのも良いかななどと軽い気持ちで考えていたのだが、何冊かの本を読むにつれてだんだん己の軽薄さを恥じるようになってきた。松浦武四郎の軌跡を辿るなどという大それたことができる筈もないのを思い知らされる気持となった。何というエネルギーを持つ人間なのだろうか! 蝦夷地探索にかけるその情熱、そして何という健脚なのだろうか。読めば読むほどその超人ぶりに驚かされ、その人間の持つ思いの深さに打たれた。

その感動の中で、最も思ったのは、この人の、先住民であるアイヌの人たちに向けられた眼差しの優しさと、その反面にある和人(シャモ)の暴虐極まりなき苛政への憤怒だった。北海道というのは、アイヌの人たち無しには考えられない場所である。

この地の旅に係わる人物としては、松浦武四郎の他に菅江真澄、間宮林蔵などが有名だが、これらの人々もアイヌの人たちの協力なしでは旅は成り立たなかったのだ。北国の原生林の中を渡ってゆくには、今では到底想像もできない悪条件の中を生きる知恵が必要であり、それはアイヌの人たちの力を借りない限り不可能だったのである。それぞれの旅の記録を読んでいると、その苦労の部分の記述は案外にあっさりと表現されていることが多いのだが、現実はもっともっと厳しい、命がけの日々だったに違いない。これらの探検家は、いずれもアイヌの人たちのことを温かい眼差しで見ているのが判るのだが、その中でも特にその暮らしぶりや生きざまに深い関心を寄せたのは松浦武四郎という人だった。

幕末の蝦夷は、徳川幕府の中に組み入れられた幕藩体制の中での松前藩の治める世界だった。この藩は江戸幕府270余藩の中では最低、最悪の政治を行っていたと思われる。北の真反対の南にある薩摩藩の、琉球に対する侵略も目に余るものがあるが、松前藩のアイヌに対する対応は、それを遙かに凌ぐ悪逆非道の限りを尽くしたものであったといえる。

その治世の内容は、先住民であるアイヌの人たちからの暴虐極まりない収奪だけであり、それ以外の政治は皆無だったと思えてならない。アイヌの人々を人間として考えてはおらず、土人として使い捨ての存在にしか扱っていない。ひたすらに収奪の限りを尽くしており、武四郎の記録からは、そのことを激しく厳しく非難し憤怒しているのが判る。人別帳の調査などから見ると、その酷薄さは明確だ。人別の表向きの記録と実態の乖離は大きく、アイヌの人たちの人口は半分以下に激減しているのである。その支配内容についても述べられているが、それらは現在の日本人のプライドの全てを破砕して捨て去るほどの残虐非道ぶりである。

松前藩が他の藩と根本的に異なるのは、往時の米を中心とする日本国の経済体制の中で、米の生産のない領地だったということであろう。このために家士に対する俸禄は米ではなく、商場(あきないば)知行という、蝦夷地を勝手に分割してそこでの交易の権利を配下に与えたのである。その実践に当っては武士たる家臣が直接経営に携わることなどできる筈もなく、結局その経営は商人に委ねざるを得なくなったのだ。それが場所請負制というものであり、これに基づいて各地に運上所とか会所とかいうのが設けられて、そこでの交易の上がりが藩の経営の元となったわけである。

さて、ここで気づいたのがこの場所請負制に深く係わったのが近江商人だったということなのである。実際に誰がどのように松前藩の政策に係わったのかは判らないけど、近江商人の存在が大きかったということである。全国に巧みに商圏を広げていったこの商売の専門家は、自分の住む茨城県にも商売の出先を保有していたし、東北の各地にも進出していたのだから、蝦夷地を逃すはずはなかったと思う。

実は自分は現役時代に、仕事絡みで近江商人のことを少し調べたことがあり、その商いの考え方について賛同するもの大だったのである。その根幹となっているのが近江商人の「三方良し」という考え方であり、それに基づく実践なのだ。三方良しとは、「自分良し、相手良し、世間良し」というもので、商売というものを、社会全体を含めた総合的、客観的に捉えた発想であり、その考え方は今日の商道にも通用できるものである。

ところが、松前藩に取り入った近江商人は、この精神を大きく違えた外道精神の持ち主だった。「自分良し」だけを貪る奸商だったのである。ただ己の利を貪るだけの外道の商売をしていたのである。彼らにとって、愚かな松前藩を誑かすことなど雑作もないことだったに違いない。ご先祖の立派な商の精神も、状況によっては外道に陥るというのを見せつけられたような気がして、これには大きく失望した

アイヌの人々に塗炭の苦しみを味わわせたのは、もしかしたらこれらの近江商人だったのかもしれない。松前藩が権利者として最大の加害者であったことは言を待たないが、現場での商いを請負っていたのは裏で厳然たる権力を握って振舞っていた商人なのだ。勿論実害を及ぼしたのは、現場の下級即ちチンピラ和人共に違いないのだが、それを取り仕切るのは大商人と結託した連中だったのである。

時代背景を考えずに現代の感覚でこの時代を批判したり非難するのは、お門違いなのとは解ってはいても、どうもこの商人の行動には我慢ならないものがある。近江商人の商いの原点が三方良しにあることについての理解は今でも変わりはないのだが、松前藩に取り入り、一方良ししか眼中になかったこの振る舞いについては、どう受け止め考えたらいいのか。

最早現役を引退し、誰に対してもこのようなことを話す場を持たない我が身なれば、蟷螂の斧にも及ばないことなのだけど、ふと思うのは、商道にまつわる話は不動のものではなく、やはり損得の物差ししか働かない限られた世界の寓話に過ぎないものなのではないかということ。

今日の日本企業が世界の至る所に進出して活躍しているについては、真に近江商人の動きと相似たるものがあるのだけど、未開地といわれる場所などで、アイヌに対したと同じように、一方良しの非行に走った商売をしたりしてはいないか。それが心配になる。どのような時代の、どのような場所においても、日本人として三方良しの精神を一時といえども失わないことを願うばかりである。

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我が畏友糖尿君

2018-02-02 00:04:01 | 宵宵妄話

 久しくブログの投稿を休んでいた。この間、あることに集中していたため、書く余裕がなかったのだが、それが終わって、いつものペースに復帰することにした。この歳になって、一時でも集中できることがあるのはありがたいことだと思っている。それが何かは時期がくるまでは秘密である。

 さて、年が明けて早くも1カ月が過ぎ去って行った。最初の報告事項は、健康に関することにしたいと思う。真老ともなると、誰でも何かしら病の一つや二つは取りついていると思われるが、自分も一つの病に取りつかれている。糖尿君である。この病が取り付いたのは、50歳の時である。それまでの暴飲暴食がたたって、体重が80kg超となり、社会人としてのスタートを切った頃より20kgもオーバーしていた。何かしらの動作の度に「どっこいしょ!」が多くなっていた。そのような暮らしぶりでのある日、突然身体が動かなくなり、出勤もままならぬことが出来した。原因不明で1カ月近く休暇を余儀なくされたのである。この間に判ったのは、検査の結果血糖値が異常値であり、これがこの正体不明の体調不全の原因だということだった。それから糖尿君との付き合いが始まった。今はもう四半世紀を超えるお付き合いとなっている。

 糖尿病というのは、不治の病である。不治というのは一度取りつかれたら決して元には戻らないというものだ。ただ、糖尿病がガンや昔の肺結核などと違うのは、不治ではあるが正しく自身の暮らしの振る舞い(特に食生活と運動)をコントロールしていれば、その限りにおいて健康状態を保持できるということである。しかし、それを少しでもいい加減にすると、たちまち病のレベルに戻ってしまうという奴なのである。

 普通の病は、不治であれば行く先は、多少の長短はあっても、あの世に直行ということになるのだけど、糖尿の場合は不治であっても、適切に身を処していれば、寿命が来るまで普通の生活が保障されるのである。これは、薬を飲めば治るというような安易な病ではない。糖尿病で薬や注射をしている人は、その処置だけで健康に戻れることはないのである。薬や注射はあくまでも一時の症状の改善に過ぎず、血糖値が下がったからもう治ったと勘違いして、以前と同じ暮らしぶりに戻れば、たちまち病の症状に戻り、一層悪化する羽目となる。適切に身を処すというのは、そう考えるだけではだめで、必ず実行しなければならないという、真に厄介な病なのだ。

 このようなことを何回も書いているのは、病院の待合室で受診を待つ間に耳に入る話の大半が、薬や注射をすれば治るという安易な話しぶりであり、医者の側でもセルフコントロールについてのキメの細かい指導はできていないと感ずるからである。

 ところで我が身のことなのだが、辛うじてセルフコントロールが通用しているようで、薬を飲まないようになってから10年ほどが経過している。現在はおよそ2ヶ月に1度のペースで専門医の診察を受けているのだが、そのセルフコントロールの目安となるのが、ヘモグロビンA1C(HA1C)というものの数値である。これは糖尿病の患者の方なら誰でも知っていることだと思うが、凡そ1~2か月間前の血糖の平均状態を示す数値であると言われており、薬等を使用しない場合は6%台以下ならばまずはOKのレベル、7%台に入ると要注意で、8%台に近づくと薬の飲用等が必要となる。薬を飲んでいる人ならこの数値はそれぞれ1%くらい下げての目安となるのではないか。

 私の場合はこの1年間7%台の下方の数値を辛うじて辿って来ており、薬を飲むかどうかのギリギリの状況にあった。昨年は6月の受診時に6.8というのが一度あったきりで、それ以外は皆7.0~7.5といった状態であり、7.5となった時は大いに反省して秘策を講じて食事のコントロールに取り組み、次回の受診時では7.0まで戻すことができた。このような危ない状態で推移していたので、正月を挟んでの1月末の検査がどうなるのかが不安だった。

正月はどうしても飲食が増える時期なので、HA1Cのデータも上まる傾向がある。恐らく7%台の上の方に行ってしまって、薬を飲まざるを得なくなるのではないかと思いながらの受診だった。ところが、予想に反して、何と今回は6.7という結果だったのである。嬉しいというよりも些かあっけにとられた感じがした。

 これは何故なのかを反省してみた。正月は、酒類はいつもと変わらなかったのだが、食べ物の方は確かにおせち料理などなかったし、もう面倒なものは食べる気もしないので、野菜類中心の粗食の類だったと思う。運動の方は2か月間で100万歩を少し超える程度で、これはいつもと同じペースだった。他に何があるかといえば、そう、集中して書きものをしていたので、エネルギーの大半はそちらに向かっていたように思う。これらが功を奏してちょっぴり改善が進んだのかもしれない。いつも年初めの検査では悪化する傾向ばかりだったので、今年は幸先がいいぞと少しいい気分となっている。

 私にとって、糖尿君は長生き(=本来の寿命の確保)するための畏友である。畏友というのはいつも本当のことを指摘してくれる怖い存在の親友とでもいったらよいのか。糖尿君を欺くことはできない。言い訳も弁明も全く通用しない、真実だけをずばりと指摘してくれる存在なのだ。いい加減な食生活や運動をサボったりしていると、たちまちHA1Cの数値を突き付けて、私の非を指摘するのである。

 ことしは糖尿君との付き合いが順調の滑り出しである。5月の終わり頃から北海道行を予定しているし、旅に出ると益々セルフコントロールが難しくなるので、この滑り出しの調子を持続して旅から戻った時には6%台の下方の数値を目指して、糖尿君との付き合いを充実させて行きたいと考えているところである。

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