山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

信州・霧ケ峰・美ヶ原の初秋の花たち(9月中旬)<その4~最終>

2013-09-28 04:34:09 | 旅のエッセー

<キツリフネ>

                     

吊り舟草というのがある。不思議な花の形をしており、何と、あたかも舟を吊るしている様な形をしているのだ。その花を最初に見た時は、大自然のあまりの不思議な造形の力におっ魂消(たまげ)たのだった。何とまあ、神様はこのような花を咲かさせたものよと、呆れ返るほどだった。

ツリフネソウは赤紫の花を咲かせているのだが、これはその黄色版である。それでキツリフネと呼ばれている。初めの頃はなかなか見られない花だと思っていたけど、今頃慣れて来ると、結構いろいろな場所で見かけることが多い。八島湿原では数は少なかったけど、北海道などでは、牧場の脇の側溝の藪の中に群生しているのを良く見ている。頼りなさそうな風情だけど、何しろ舟を吊り下げるというほどの力持ちの花なのだから、この植物もしたたかに生き抜いてきたに違いない。か弱そうに見える草ほど、実はしたたかな強さを秘めているもののようである。

今の世の女性などもそうあって欲しいと願うのだけど、多くの女性はか弱そうなどという擬態は決してとらない。むしろ何としても己の個性を主張して、表側から認められたいと願っておられるようだ。今の世に強(したた)かさの塊のような女性が多いのは、男女平等とかいう人間世界の権利主張の価値観の為せる業なのかもしれない。メンタル的には男女平等なんて、太古の昔から当たり前のことだと思うし、フィジカル的には男女の差は歴然としている。ツリフネ草たちほどの強さの女性の存在こそ、この世を健康で平和にできるのでは、というような気がしている。(いや、これは言い過ぎかな?)

 <芒(すすき)>

                     

ススキを花として認識するには少し抵抗があるかも知れない。しかし、この穂はれっきとした花なのである。昔の人も秋の七草の中に入れることを忘れなかった。どこの空き地にでも、あっという間に進出してきて群れをなして勢いを振るうのは、一体どこに秘密があるのか、不思議に思っている。根ではなく、やっぱり実の方に秘密の力が潜んでいるのかも知れない。

聞く所によると、このススキ君たちがアメリカに進出して、彼の地で外来植物として猛威をふるっているとか。日本ではセイタカアワダチソウなどが多数やって来て、やられっ放しの感じがしていたが、その逆もあったのを知って、何だか胸がスッキリした。他愛ない話だけど、ススキ君の頑張りに拍手したい。

ススキは日本人の暮らしには古来より深くかかわって来ているようだ。食用にはならないけど、屋根や緑肥などとして大いに活用されて来ている。昭和の中頃まで、農村には草刈り場という様なものがあり、そこの主役はススキだった。自分が子供の頃もそのような場所があったように記憶している。ススキのことを茅(かや)ともいうけど、東京の日本橋近くにある茅場町などは、その昔の江戸の頃は、茅を刈る草場の一つだったのかもしれない。いや、そうに違いない。

ススキは高原に似合う存在である。霧ケ峰高原には一面のススキの原が広がっていた。八島湿原にも散策道の脇にススキが生えかけた穂をなびかせていた。これもその一枚である。あまりススキが進出し出すと、草原が山林に進展するとも聞く。信州のこれらの高原はそのまま永久にススキの白い穂のなびく高原であって欲しいと思う。

 <コケモモ>

                     

美ヶ原の牛伏山地の礫岩脇の茂みの中にコケモモを見つけた。丁度実の成熟した時期らしく、真っ赤な小さな実を付けていた。その実がきらきらと輝いているので、どうしてもカメラに収めたくなった。コケモモは高さが10cmくらいしかない。うっかりすると見落としてしまう存在だけど、一回その存在を知ってしまうと、コケモモの方からここにいるよと、声をかけてくれるようになる気がする。今回は、発見者は相棒だったけど、彼女もコケモモに声をかけられたに違いない。愛らしい実は甘酸っぱい味がして、これを摘んでホワイトリカーに漬けるとピンク色の酒が出来るのだと聞くが、とても実を摘んでそのような蛮行に及ぶ気にはなれない。しばらく鑑賞させて頂くだけで十分である。

北海道の旅では、7月初めの頃に美瑛側から、大雪山系の十勝岳の登山口のある望岳台という所へ行くと、至る所にこのコケモモが花を咲かせている。小さな白いベルの形をした花がほんのりと赤く染まった部分を見せていて、何とも愛くるしい。その結晶がこの真っ赤な実なのだと思うと、愛おしさは一層膨らむのである。美ヶ原にこの植物が存在するのは、高山帯なのだから、考えれば当たり前のことなのかもしれないけど、予想外のことだったので、本当に嬉しかった。来て良かったなと思った。

 <アキノキリンソウ>

                    

キリンソウの頭にアキノと付いているのは、秋に咲くキリンソウという意味で名付けられたのだと思うけど、キリンソウとは植物の分類は別のものらしい。キリンソウはベンケイソウ科であるのに対してアキノキリンソウはキク科である。その違いは葉や花を良く観察すると明らかである。キリンソウの方は葉は厚ぼったいがアキノキリンソウはざらざらした手触りだ。又、花の方もキリンソウに比べるとアキノキリンソウは数が多く一個一個の花の形もちがっている。キリンソウから言えば、アキノキリンソウは、全くの偽物ということになり、アキノキリンソウから言えば、そのような名前を付けられて迷惑だということになるのかもしれない。似ている、似ていないは、見る者の勝手なイメージの受け止め方方に過ぎず、真実はそれとは別のところにあるといった一つの事例なのかもしれない。

キリンソウは麒麟草と書かれることが多いが、本来は黄輪草と書かれていたそうである。図鑑の解説を読んで初めて知り、納得した次第。麒麟の方は、中国の想像の動物であり、実在するアフリカのキリンではないということだから、単なる当て字に過ぎないように思う。偶に背丈の高いアキノキリンソウもあり、それはキリンに似ていなとも言えない。しかし、高原のアキノキリンソウは概して草丈はそれほど高くはなく、環境が厳しい場所では、20センチにも届かずに花を咲かせているものもある。

アキノキリンソウは、日本の在来種であるけど、この野草と同じ仲間の外来種にセイタカアワダチソウがある。一時、この野草は花粉症等アレルギー症状を起こす元凶として問題視されたことがあるけど、今頃はあまり話題になっていないようである。一時の猛烈な進出ぶりが少し収まっているからなのかもしれない。大型の植物が一挙に進出してワッと花を咲かせ、その後に白っぽい泡のような冠毛を風に載せて大気中にばら撒けば、悪い噂にならないはずがない。今頃は、アレルギーとの関わりはどうなったのだろうか。

セイタカアワダチソウに比べると、アキノキリンソウは同じ仲間でもやはり和風であり、地味である。特に高原に咲くそれは、か弱さの中に凛々しさも秘めている感じがする。泡を吹きまくるなどという下品さはない。このようなコメントは、今の時代では、国際感覚を欠くということになるのかもしれない。しかし、自分はこの国に生まれ、この国に育ち、この国に死ぬことになっている。この国が好きなものなのだから、国際感覚など問題にしていない。

<ウメバチソウ>

                  

この花は、自分の記憶の中ではマツムシソウとセットになっている。セットとというのは、マツムシソウを思い出すとウメバチソウが浮かび上がり、ウメバチソウを思う出すとたちまちマツムシソウの群落がイメージされるということなのだ。

40年ほど前になるのか、もっと後だったのかはっきりしないのだけど、霧ケ峰や美ヶ原高原のビーナスラインが、まだ全線有料だった頃の秋に、美ヶ原まで車で行ったことがある。高原に群れ咲くマツムシソウに感動し、胸が一杯になって興奮しながら歩いている時、ふと足元を見たら小さな白い花があるのに気がつき、しゃがみこんだ。これは何という野草なのだろうと妙に気になったのだった。一面の紫の花のなびく高原の中に、こんな小さな花が存在を主張しているのに気がついて、マツムシソウとは違う感動を覚えたのである。

その後図鑑などで調べて、この小さな花がウメバチソウであると知った。名の由来は、この花の形が太宰府天満宮の梅鉢紋に似ているところからだとか。その昔太宰府天満宮近くに何年か住んでいたことがあり、何度も天満宮は訪れているので、梅鉢紋も良く覚えている。確かにこの花の形はそっくりなのだった。ということは梅の花にも良く似ているということになる。勿論紅梅ではなく白梅の方である。しかし、紅・白梅は樹木であり、こちらの方は小さな野草である。

ウメバチソウは変わった草である。花の写真を撮っている時は花と茎しか見えないほど、下の方がどうなっているのか判らない。草むらの中から20センチほどの茎をスイと伸ばし、その先に一つだけ花を咲かせている。普通はそれだけしか判らない状況なのである。しかし野次馬精神を発揮して、下の方を良く見ると、1枚だけの葉っぱが付いており、それがハート形をしていて大事そうに茎を包むかのように付いているのである。更にその下の株には共通の葉っぱ(=根生葉)が何枚か付いているといった形なのである。これらの全部が判るように写真を撮るのは、今回の場合は不可能だった。それどころか、花を撮るだけでも難しく、自分のカメラではついに焦点の合った写真をものにすることが出来ず、これは相棒の撮った一枚である。

ウメバチソウに愛着を覚えるのは、小さな生命の輝きをそこから感じとることが出来るからである。ともすれば、我々は目立つものばかりに気を取られて、小さな存在の主張を見落としがちである。ウメバチソウよりももっと小さな野草の存在にも、この花は気づかせてくれて、自分の人間としての思い上がりを諫めてくれる存在なのである。

 

以上で計20種類の野草たちの花の紹介を終わります。この他にも、咲いている花、或いは咲き終わってもその存在を主張し続けている野草たちもあり、興味は尽きないのですが、今回2回目となる信州の高原の野草たちの姿に十二分に満足して、身勝手な報告を終わります。

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信州・霧ケ峰・美ヶ原の初秋の花たち(9月中旬)<その3>

2013-09-26 04:37:21 | 旅のエッセー

<ワレモコウ>

                     

この季節、この花は花屋などでおなじみだと思う。守谷市内の空き地などにも何ごともないように咲いている。しかし、この花はやはり高原に咲くのが相応しいように思う。秋の高原にはこのような色をした花が少ない。赤というべきか紫というべきか、花の名は「吾亦紅」と書けば、これは赤の部類なのかもしれない。又「吾木香」とも書くらしいけど、この花に特別の香りがあるとは思えない。丸い花穂はちょっと見には花なのか実なのか判らない気がするが、虫眼鏡などで覗いて見ると、小さな花の集合体であることが判る。美しいというには無理がある花の姿だけど、何だか存在感があるように思えて、この野草のことは子供の頃に一度覚えたら忘れられないものとなった。八島湿原では、芒の生い茂る草むらの中に集団でその存在感を示していた。

 <ヤマラッキョウ>

                    

ラッキョウといえば、漬けものの定番の一つで、これは人によって得手不得手があるようだ。臭いが気に入らないとのご仁が多いようだけど、自分的には味は臭いと一緒に味わうべきものと思っているので、何の抵抗もない。酒の肴としても重宝している。

ところで、あのラッキョウにこんな綺麗で美しい花が咲くなんて、信じられるだろうか。勿論このラッキョウは食用ではなく、野の草の一つであるから同じとはいえないけど、鱗茎の部分は大小の差はあれ、基本的にはやはりラッキョウなのだと思う。鱗茎を持つ野草は美しい花を咲かせるものが多いようだ。山の麓の草むらなどにこの花を見つけた時は、とてもラッキョウなどとは思えないのだけど、我々は普段ラッキョウというものを土中の部分しか見ていなくて、誤解しているようだ。

それにしても、食用のラッキョウにはどのような花が咲くのだろうか。一度見てみたいものだと思う。本当に花が咲くのだろうか。俄然、興味を持ってしまった。ネットで調べたら、この山ラッキョウと同じ様な花が咲くことが判った。今度山陰方面へ行くことがあったら、ラッキョウの花時(多分秋になるのではないかと思うけど)に訪ねてみたい。鳥取県は、砂の畑を利用したラッキョウの名産地であると聞いている。是非一見したいものだ。

 <オミナエシ>

                 

オミナエシといえば、秋の七草の一つである。秋の七草は、オミナエシを初め、尾花(=ススキ)、クズ、キキョウ、ナデシコ、フジバカマ、ハギがそれらであるけど、今の時代どうもしっくりこない花がある。例えば、ナデシコやキキョウは咲き終わっているように思うし、フジバカマだって終わりかけている時期ではないか。温暖化が進んだのか、或いはどんな時期でも花を咲かせてしまう技術が進んだのか、季節感が失われて来ている花が多いようだ。秋の七草の時代は、栽培種などは入ってはおらず、皆野の草の花として当たり前に考えられていた、季節の代表的な花だったのだと思う。そのような野の花を愛でる情緒を、現代はぶち壊し続けている感じがする。

オミナエシは、野には少なくなってしまった。生け花用に栽培されているものが結構多くなっているようだ。消え去っていない分だけ救われる感じがするが、季節感を無理やりつくり出そうとする不自然さがどうも気に入らない。この写真の花は正真正銘の野の花である。草むらの中にきりっとした立ち姿を見出した時はうれしかった。野の花はこうでなければならない。

 <リンドウ>

                  

リンドウは自分のあこがれの花の一つである。どうしてかというと、子供の頃、近隣の山に入って遊んだ時に、藪の中に見つけてその紫色の鮮やかさに感動したのを思い出すからである。懐古の花なのである。野草の中では、際立って印象に残っている花であり、この花を見ていると、遠い昔のあの感動を思い起こして、そこに戻ることが出来るからである。

リンドウは今ではこの季節といわず、花屋さんに並ぶ顔ぶれの中でもトップクラスではないかと思う。しかし、栽培種となってしまったリンドウには、あの昔の山の麓で見た澄んだ紫の美しさが足りないようだ。野生のものとはどこか違うのである。

八島湿原や美ヶ原の高原美術館の周辺にはかなりの数のリンドウを見ることが出来て嬉しかった。開花してからどれくらい花が持つのか判らないけど、どの株にも花の先が枯れ始めているのが付いているのが、せっかくの紫の気高さを汚しているようで残念だった。でもこれらを見ていると、ここへ来て本当に良かったと、嬉しくも安堵するのである。

リンドウにも何種類かあって、北海道のベニヤ原生花園(浜頓別町)にはエゾリンドウの花がみごとだった。又、熊本県を走るやまなみハイウエイの瀬の本高原にあるドライブインの横の草むらに見つけたフデリンドウも印象に残っている。芝生のような丈の短い草むらにフデリンドウが小さな群落をつくって咲いていた。今の季節には、あの妖精たちは、さて、どうなっているのだろうか。

<ヨツバヒヨドリ>

                  

ヨツバヒヨドリは、「四つ葉鵯」と漢字で書く。ヒヨドリと呼ばれる草には何種類かあるけど、これらが何故鵯(ひよどり)なのかは解らなかった。調べてみると、鵯が山から下りてくる頃にこの花が咲き出すので、ヒヨドリと名がついたとか。しかし、今頃の鵯は山になどにはあまり棲まなくなっているようで、どうやら都会に近い森などが気に入っているようだし、この花との関連は極めて希薄となって来ているように思える。

ヒヨドリ草の仲間はキク科フジバカマ属であり、このヨツバヒヨドリも秋の七草の一つのフジバカマと姿も花もそっくりである。名前にヨツバとある様に、葉の付いている箇所を見ると葉が4枚輪生している。花はフジバカマよりも赤みが濃くて派手な感じがする。前回(7月)ここへ来た時には、未だ蕾のものが多かったけど、今は殆どが花を咲き終えており、このような姿で残っているのは数少なかった。

北海道へ行くと、道端や牧場の脇などの至る所にこの花が群れをなして咲いている。元々少し涼しい場所というのか、冬が厳しいエリアを好む草なのかもしれない。その花の棲んでいる環境の1年間をずっと継続して観察するなどして思いを巡らさないと、花を咲かせている野草の気持ちは解らないのかもしれない。花の咲いている時期だけを見て、その花の全てを決めてしまうのは人間の思い上がりだと思う。生け花などというのは、この点どのように考えているのだろうか。ふと疑問に思ったりした。自分的には、生け花は作為的であり、その花の本当の美しさを表現していないように思えるのだ。野の花が一番だと思っている。

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信州・霧ケ峰・美ヶ原の初秋の花たち(9月中旬)<その2>

2013-09-24 03:00:57 | 旅のエッセー

<ツクバトリカブト>

                       

を持つ花は美しいといわれるけど、まさにそれはトリカブトのことを言っているのではないかと思う。上品で気高く美しい花である。トリカブトにも何種類かがあるようで、これはツクバトリカブト(=筑波鳥兜)と呼ばれている。八島湿原には随所にこの花の群落がみられた。紫の花は目立つ存在であり、探さなくても直ぐに気づかせてくれる。筑波というからには、我が地元の筑波山辺りにも自生しているのかもしれない。しかし、今のところ筑波山に登っても登山道の脇には皆無である。どこか秘密の場所で、ひっそりと同じ花を咲かせているのかもしれない。それにしてもこの湿原にこれほど多くの花を咲かせているとは知らなかった。

北海道の旅では、牧場の脇の側溝や道端に無造作に花を咲かせているのをよく見かけたけど、あれはエゾトリカブトとでもいうのかもしれない。アイヌの人たちが熊狩りに用いたという毒の話はあまりにも有名である。今の時代、その毒を人間に対して用いるなどという奴が現れないとも限らない。この花の管理は厳重に行うべきだと思う。美しい花を見ながら、そのような不謹慎ともいえることを想うというのは、哀しいことではある。

 <ハバヤマボクチ>

                      

子供の頃、育った常陸大宮市の実家の裏山の麓の草っ原には、幾つものオヤマボクチが点在して花を咲かせていた。花といっても独特で、厚ぼったい重い感じの紫色の塊が、茎のてっぺんに幾つかついているという感じである。もはやその昔の草っ原は消え去り、味もそっけもない道路が走っている。勿論オヤマボクチなどどこを探しても見当たらない。

それがこの八島湿原に来て、かなりの数を見ることが出来て感動した。これはオヤマボクチではなく、ハバヤマボクチというのだそうだ。ものの本の解説によれば、ハバヤマというのはその昔の農家の緑肥として貴重だった草を刈り集める、草刈り場のことを言うとのこと。その草刈り場の中の草に混ざってこの野草がたくさんあったようである。そして、ボクチとは火口と書き、火口とはこの草の葉の裏にあるクモ毛を集めて火打石から火種を採る火口(ほくち)として利用したことからの名らしい。なるほど、この野草にはそのような人間との係わりのある歴史があったのかと、感じ入ってしまった。

改めてこの野草の姿や花の形をみて見ると、なかなか重厚で男前の感じがする。重厚で男前の人物が人間界からは次第に数を減らしている感じがする。TVを見ていると、ケパケパ他人を笑わせることに懸命になっている芸人や、髭の生えていないイケメンなどという人物ばかりが溢れており、それが悪いとは言わないけど、もう少し重厚な味わいのあるボクチ並みのボクチチャンのような人物が画面に表れて欲しいものだと願うばかりである。

 <サラシナショウマ>

                      

この写真は、湿原に数多く点在しているものの中の一つを取り上げたものであり、その実態を示すのには適切ではないのかもしれない。けれども純白の穂の姿を浮き上がらせるのには、群落よりも個体の花穂を見た方が良いのかなと思って、これを取り上げた。この時期、この花の存在は目立つ。木陰などの暗い空間の中にあって、真っ白な大ぶりの花穂は、とりわけて美しく見える。この花も虫眼鏡で見ると、なかなか可愛らしい小さな花の集まりであるのが判る。

サラシナショウマは「晒菜升麻」と書き、名の由来は、この草の若葉を水に晒(さら)して食べたことから来ているとか。尚、升麻とは、漢方の生薬の一つで、この野草の根を乾燥させて解熱剤などとして用いるものとのこと。キンポウゲ科の草には例えばトリカブトなど毒を持つ草が多いのだけど、この草を食べるというのは、相当に考えものだったのではないか。今の時代では、これを食べるという話は聞いたことがない。尤も同じキンポウゲ科のリュウキンカという野草が、何年か前の東北の春旅の時に、青森のどこかの道の駅で山菜の食用として売られていたのを見て驚いたのを思い出す。人間の知恵は大自然とのかかわり合いの中では、無限であり、もしかしたらトリカブトだって、どこかの国では根を除いたほかの部位を食用にしている世界があるのかもしれない。毒と薬との関係には複雑怪奇なものがある。

話が飛びすぎたけど、サラシナショウマは美しい花である。多くの人たちはこれらの花を遠くから見て、ただ白くてきれいだと見過ごしてしまっているけど、勿体ない話だと思う。是非とも虫眼鏡で覗いて欲しい花を持つ野草であることをもう一度強調したい。

 <ヤマウド>

                      

ウドといえば、春の山菜では定番の野草だし、栽培などもされていて、東京がその栽培地のナンバーワンであることなども知られている。ウドの大木などといわれて、役立たずの代表のように言われたりしているけど、ウドの人間どもへの貢献は大きい。大木などと比喩されるほどには大きくはないけど、野草たちの仲間内では、図体は大きい方には違いない。

ウドの花をご存知の方も多いと思うけど、八島湿原には、かなり規模の大きい群落があって、独特の丸っこい赤紫の花を咲かせていた。所々それらは重なり合って、不思議な造形をつくり出していた。美しいというよりも良く見れば不思議だなあというのがそれらを観察している時の実感である。

ウドといえば、食材としての存在しか知らない人も多いのかもしれない。どんな植物でも芽生えてから消え去るまでの一生があり、その多くはちゃんと花を咲かせる時期があるということを、人間は知らなければならないと思う。食材としてのウドしか知らないというのは怠慢であり、横着であるといわざるを得ない。自分の都合のいい部分の他は知ろうとしないというのは、ある意味で危険なことでもあるように思う。植物の生命というものの価値を知るということは、その植物の一生を見たり考えたりすることによって、初めて理解できるのではないか。部分だけを見て全体を観ようとしないというのが現代の暮らしの中には多すぎるようだ。植物によらず魚だって、切り身だけを見てマグロやカツオやブリなどと言っている知識には、人間の思い上がりを感じるのである。ウドのことから話が大げさになってしまった。

 <ヤマハハコ>

                      

ヤマハハコは「山母子」と書く。ハハコグサ(=母子草)という野草があり、これは普通道端や手入れ不足の庭の隅などのどこにでも生えているいわゆる雑草の一つだけど、ヤマハハコはこれに似ているというのでそう名付けられたとか。しかし、ハハコグサは咲き始めは黄色い仁丹の粒のような花の形をしているので、ヤマハハコに似るまでには少し時間がかかるように思う。

ヤマハハコは湿原には少なく、どちらかといえば、比較的高い山地の草むらや礫地のような場所を好んで棲んでいるようである。写真は八島湿原で撮ったものだけど、花の数は美ヶ原高原の方が遥かに多くて、牛伏山(美ヶ原高原牧場付近にある丘の頂上:1989m)の園地辺りは、ヤマハハコの花園といった様相を呈していた。一見すると白っぽいボヤっとした花の感じがするのだけど、これを虫眼鏡で見ると、なかなかどうして花の一個一個はやや厚化粧の個性を主張しているのが判る。

7月に同じ場所に来た時は、未だ花の咲く時期ではなく、その葉の形状からエ―デルワイス(=ウスユキソウ)ではないかと思っていたのだけど、今回来て見ると至るところヤマハハコの世界であり、その葉を見てなあんだ、大いなる勘違いだったのだなと判った次第。野草たちの姿は、それが幼い時期であればあるほど、その正体は不明なことが多いのである。これはまだまだ自分が彼らのことを解っていない証なのだと反省している。

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信州・霧ケ峰・美ヶ原の初秋の花たち(9月中旬)<その1>

2013-09-22 04:45:39 | 旅のエッセー

  7月の中頃、久しぶりに信州の霧ケ峰と美ケ原の高原を訪れたのだが、それから2カ月経って、もう一度どうしても訪ねたいという思いが募り、再訪することとなった。このような思いつきは最近では珍しい。その最大の理由は、前回のニッコウキスゲにつながって、数十年前に初秋の高原で見たマツムシソウの群落のあの薄紫の世界を思い出し、それをどうしても見たいと思ったからだった。この歳になると、今できることをやっておかないと、悔いを残すことになりかねないという心配が絶えずついて回り、この頃は我がままをためらわないようにと心がけている。人間、まさに生きている内が、動ける内が華なのだ。己の身をすら自由に扱えなくなってしまったら、もはやお手上げなのである。ということで、出発を決めたのは前日だった。飛ぶようにして(途中の道は相変わらず迷って遠回りなどをしてしまったが)訪れた高原は、日射しは強いものの、野の花たちは秋の顔触れが揃っていた。もう終りに近づいているものもあり、高原の秋の訪れは早いのだというのを実感したのだった。

 以下に今回出会った主な野草たちの花を紹介したい。この他にも幾つもの野草たちに逢っているけど、それらのついては別の機会にしたい。なお、写真が必ずしも鮮明でないのは、カメラの腕にもよるけど、カメラの性能にもよるところ大で、本当は相棒の撮ったものの方が遥かに鮮明なのだけど、高画質なので、サイズダウンが面倒なため、このレベルでお許し頂きたい。

<ノコンギク>

       

野菊と呼ばれるものには何種類かがあるけど、それらの中での代表といえば、このノコンギク(=野紺菊)ではないかと思っている。野山の道端に群れ咲いていたり、埃まみれになって車道の脇に忘れられたように咲いているかと思えば、丈の低い雑草が茂る藪の中に、一本だけ気高く紫の花を咲かせて佇んでいたりする。この花を見ていると、遠い昔となった子供の頃に歌った唱歌を思い出す。「遠い山から吹いてくる 小寒い風に揺れながら、気高く清く匂う花 きれいな野菊 うすむらさきよ、~」野の花には、野の花にだけしかない美しさがあるように思う。

霧ケ峰高原には、数多くのノコンギクの群落がみられた。これは池のくるみに向かう途中の道端に見つけて、車を停めて撮ったものである。

 <マルバハギ>

        

萩は秋を代表する花の一つで、秋の七草の中にも入っている。普通は萩といえば、山萩のことで、このマルバハギは、名の通り葉が丸い形をしている。花も山萩と比べて、数が少なく、少し花が大きいようだ。この写真は、八島湿原の散策路の入口付近にあったものを撮ったものである。

この湿原では、山萩も見られたが、マルバハギと共に個体数は少なかった。萩にも何種類かあるけど、八島湿原ではこの他にナンテンハギも見かけられた。ナンテンハギは葉が楠天の葉に似ているので、そう呼ばれており、花の姿形は山萩やマルバハギと同じ形をしている。この湿原では、概して背丈などは低くて、厳しい環境の中にいるというのを証明しているように思われた。マルバハギはその中にあって逞しさを感じさせる存在だった。

 <ゴマナ>

                    

ゴマナというのは、あの食用の胡麻と同じ字を用いて、胡麻菜と書く。しかし胡麻とは姿形も花も全く似てはいない。それなのになぜゴマナと呼ばれるのか、よく判らない。恐らく胡麻の実見たいにチマチマとした花を塊にして咲いているので、そう呼ばれたのかもしれない。八島湿原の周辺にはどこにでも無造作に咲いている存在だ。よく見るとノコンギクと同じような形の花が密集しており、菊の仲間であることが解る。かなり大型の野草で、1mを超えている。花の色が地味なので数が多い割には気を引かされる存在ではない。

この花からイメージするのは、何故か、江戸時代の百姓の人たちの姿である。派手さはないけど、芯の強さは誰にも負けないという自負があったと、自分は思っている。江戸時代を支えたのは、武士ではなく、百姓だった。商人は百姓たちの上澄みを霞み取って儲けを積み上げたのである。ゴマナは、その百姓の精神を主張している感じがしたのだった。

 <ハンゴンソウ>

                      

ハンゴンソウは、反魂草と書く。反魂とは、亡くなった人の魂を呼び返すこと、すなわち蘇生させるという意味だから、この野草には人々のそのような思いが込められているのかもしれない。何故この花がそうなのかは解らない。八島湿原周辺には至る所にこの花が咲いていた。北海道では、道端や草原にこれとよく似たキオンという野草や、ハンカイソウと呼ばれる大型の野草が目立つけど、八島湿原にはそれらは見られず、黄色い花を咲かせる大型の植物といえば、ハンゴンソウばかりだった。

このような花は、群れをなして咲いていると、却って目立たなくなってしまう。それは人間どもでも同じことのようだ。「赤信号皆で渡れば怖くない」の類かもしれない。しかし実際は、野草たちにそのような心があるはずもなく、目立つ・目立たないは、人間どもの心の世界だけのような気がする。

 <ヤマハッカ>

                      

湿原の散策路の脇に、この箇所にだけ花が咲き残っているのを見つけた。薄荷(ハッカ)に似ている花と姿形であり山にあるのでこの名がつけられたのであろう。ハッカといえば、北海道北見市郊外にあるハッカ御殿を思い出す。かつてハッカの栽培で一大の富をなした人物が建てた屋敷と聞いたが、近くで何種類かのハッカが栽培されていた。それを見ているので、このヤマハッカの存在が直ぐに判った。しかし良く似ていてもハッカではないので、葉を噛んでみてもハッカの香りはない。自然界には良く似た植物があるもので、造物主である神様は、やはり気まぐれを以ってこのように似たものを何種類か造ったのであろうか。不思議というしかない。

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再び信州を訪ねました

2013-09-17 16:27:51 | くるま旅くらしの話

  7月に信州の霧ケ峰・美ヶ原高原への旅をしたのですが、もう一度その後の様子を見たくなり、特に今回はマツムシ草やウメバチ草の花が見たくなって、思いが膨らんだのでした。9月になっても依然暑さの方は退却の兆しを見せず、朝晩は微かに秋が近づいているのが窺えても、日中の暑さは真夏のそれと大して変わらない状況が続いています。前回美ヶ原の高原美術館での夜、寒さに震えて眠れなかった悔いが残っており、今回はその挽回をしたいとの思いもありました。又、信州で予てから気になっている、枝垂れ栗の自生している場所というのも一度は見たいなと思っており、それが高原からは比較的近い場所なのを知り、是非行ってみようと思い立ったのでした。何しろ今年は、北海道行を取りやめたこともあって、前回の信州行以降家の周りを歩いているばかりの毎日なものですから、溜まっているストレスやフラストレーションを発散させる必要もあったのです。とまあ、あれこれ思いを巡らしつつ、急遽出発の決断をしたというわけです。11日に出発して、15日の帰宅となったのですが、本当はあと2~3日は旅を楽しむつもりだったののに、台風という悪の権化がやって来て、巻き込まれてはたまらんと、尻尾を巻いて逃げ帰ったという次第です。短い期間でしたが、心に残る出会いにも幾つか恵まれました。

 先ずは大ざっぱな旅の行程などを紹介したいと思います。

第1日(9月11日:水)

自宅 →(R354)→ 道の駅:北かわべ→(R354他)→ 藤岡IC →(上信越道)→ 小諸IC →(R18・R152)→ 道の駅:マルメロの駅ながと(泊)

 家を出発したのは10時半過ぎでした。今回もR354を使って高崎まで行こうと考えての出発でした。この道は、いつも古河市郊外の渡良瀬川を渡った先で、道を間違えてしまっているので、今回はナビを新しくしての挑戦でした。これは上手く行って良かったのですが、その後ナビを裏切って途中から別ルートにしたのがたたって時間を大幅にロスしてしまい、結局は上信越道の藤岡ICから高速道に切り替える羽目になりました。高速道に入った時は、既に15時近くになっており、当初は美ヶ原の高原美術館にまで行って泊ろうと考えていたのですが、とても無理となり、小諸ICを出てから辛うじて黄昏時の道の駅:マルメロの駅ながとに着き、そこに泊ることになりました。只の移動ばかりの疲れの溜まる一日の走りでした。

 第2日(9月12日:木)

道の駅:マルメロの駅ながと →(R152・ビーナスライン)→ 霧ケ峰・富士見台駐車場 → 池のくるみ湿原 → 霧ケ峰自然保護センター付近駐車場 → 八島湿原散策 → 道の駅:美ヶ原高原美術館(泊)

 今日は高原の野草たちの花を見る予定です。9時過ぎに道の駅を出て、前回と同じR152を通って霧ケ峰に向かいました。坂道を登って、大門峠からビーナスラインに入り、霧ケ峰高原の広い展望を楽しみながらゆっくり車を進めました。もうニッコウキスゲなどの花は見られず、穂を出し始めた芒(すすき)の群れが高原を渡る風に白い穂をなびかせていました。少し走って、前回ニッコウキスゲの群落を見るために停まった、富士見台という所の駐車場に再び車を停め、少し歩くことにしました。ここからは富士山が見える筈なのですが、今日は雲が霞んでいて、眺望がきかず残念でした。丘に登る道の傍にマツムシ草が一株花を咲かせているのが見つかりました。この分なら、美ヶ原に行けば未だ十分に花を見ることが出来るのではないかと安堵しました。少し歩くと、ミヤマラッキョウの濃い赤紫の花が点在していました。黄色いアキノキリンソウや白いヤマハハコの花も見られました。注意して見ると、リンドウの紫の花が草むらの中に咲いているのが見つかりました。この分だとこれから先がおおいに期待できるなと心強くなりました。

 富士見台の駐車場を出て、未だ行ったことがないくるみ池湿原を覗いて見ることにしました。ここは八島湿原よりも低地にあり、規模も小さいようです。行ってみると、散策用の歩道が整備されておらず、駐車場も未整備でした。かなり暑くなり出しており、散策は止めて近くに咲いていたツリフネ草や道端に無造作に咲いているノコンギクなどをカメラに収めました。この湿原は本格的な装備をして入らないと野草の花たちを見るのは難しいようです。諦めて、レストハウスなどのある霧ケ峰自然保護センター近くの駐車場に行き、少し休憩することにしました。先ほど道の駅で買って来たジャガイモを茹でて、昼食に供することにしました。これは自分専用で、相棒は別メニューです。1時間ほどかけて昼食の準備をした後は、軽くそのジャガイモを賞味して、その後はしばらく午睡です。外に出ると暑いのですが、車の中は高原の風が良く通って、良い気持ちで惰眠を貪りました。旅の中でいつでもどこでも午睡が楽しめるのはくるま旅の特権です。目覚めて13時。次の目的地は八島湿原散策です。

 10分ほどで駐車場に着きました。平日なので空いているのかと思ったら、観光バスなどが何台も来ていて大盛況なのに驚かされました。今の季節、この湿原がそれほどに人気があるとは意外なことでした。後で知ったのですが、東京の方からの小学生や中学生の子供たちが遠足というのか、強歩訓練というのか、車山の方から歩いて、ここがそのゴールに設定されているようで、その後は湿原を巡る周回路の途中で、大勢の子どもたちに出くわして、野草の観察にはかなりの障害を感じたのでした。木道を走ってはいけないという注意の立札を無視して、走り回る子供たちを見ていて、先生たちの考えに大いなる疑問を感じた次第です。貴重な湿原の散策道を強歩訓練のコースやゴールとして使用するのは如何なものなのかと、都会の先生たちのセンスに疑問を抱かざるをえませんでした。ま、そのことは措くとして、湿原にはこの時期の花が何種類か見られ、大満足でした。トリカブトやオヤマボクチ、サラシナショウマ等々たくさんの花をみましたが、それらについては追って紹介することにします。

 八島湿原の後は、今日の宿を予定している美ヶ原高原美術館の道の駅に向かいました。湿原の散策路の半ばあたりから少し雨の粒が落ちて来て、濡れはしないかと心配したのですが、ここはセーフでした。美ヶ原に向かう途中の空は、少し黒雲が増えて来ており、今夜が騒動にならねばよいがとちょっぴり不安を覚えました。16時少し前に道の駅の広い駐車場に到着。店はまだ開いていましたが、間もなく終了となり、駐車場には数台の車を残すだけとなりました。周辺の散策は明日にすることにして、今夜は快適な涼しさを存分に味わって眠ることを最優先させることにしました。寒くないようにと今回は布団も寝巻きもしっかり用意して来ました。早やめの夕食の後、少しばかりTVを見て、あとはもう寝るだけです。涼しさや寒さを期待して来たのですが、今夜の高原はなかなか涼しくならず、前回の時よりも暑さが膨らんでいる感じがしました。調子が狂ったとはこのようなことを言うのかもしれません。おかげで寝付くまでに少し時間がかかりました。夜半から風が強くなり、風の音に怯えるタイプの相棒は、上のベッドでは眠れないとかで、下のソファに移動したりして、眠った後も安眠の夢は破られ、落ち着かない一夜となりました。

 第3日(9月13日:金)

道の駅:美ヶ原高原美術館 → 牛伏山公園散策 → 美術館駐車場 →(ビーナスライン・R142・R20他)→ しだれ栗森林公園(辰野町)→(県道・R153・R19)→ 重要伝統的建造物保存地区:平沢(漆工町)(塩尻市)→(R19)→ 道の駅:木曽川源流の里:きそむら →(R19)→ 道の駅:日義木曽駒高原 →(R19・県道)→ 道の駅:三岳(泊)

今日のメインの目的は二つあって、その一つは自生していると聞く枝垂れ栗を見ること。もう一つは比較的新しい時期に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された塩尻市楢川町にある漆工芸の平沢地区を訪ねることです。どちらも初めてのことなので、野次馬としては興味津々なのです。

先ずは枝垂れ栗の方ですが、美ヶ原高原を出てビーナスラインを走り、和田峠から旧道を通ってR142に出て、下諏訪から岡谷に向かい、R20を少し走って左折して県道に入り、辰野町の方に向かいました。ナビ任せなので、地図のイメージが湧かず何だか善し悪しの感じがしましたが、スムースに「しだれ栗森林公園」という所に着くことが出来ました。山の中なので、車の通行がどうなのか不安があったのですが、その懸念の全くない良い道で、しかも途中からは一方通行の道となっており、至便の通行でした。

しだれ栗森林公園は、栗だけではなくキャンプ場なども併設されており、自然とのふれあいを大事にする施設であることが判りました。その中では何といってもしだれ栗が主役で、これはまあ、山の半面にかなりの広い面積に亘ってその樹木が自生しており、その数は100本を超えているのではないかと思いました。しだれ栗とは、文字通り栗の木の枝が垂れ下がっているものであり、何とも不思議な感じがします。桜や桃や柳などには枝垂れのものが珍しくありませんが、栗の木となるとこれは珍しいと思います。枝が垂れているので、栗の木の株は遠目には丸い恰好で目に映ります。傍に行ってみると、確かに栗の毬(いが)がついており、それは思ったよりも小さい形をしていました。管理事務所の方の話では、実は柴栗くらいの大きさで、播いてもなかなか芽を出さないので増やすのが難しいとのことでした。これらの不思議な栗の話については、別途書きたいと思っています。

珍しい栗の木に感動した後は、R153に出て、塩尻まで行き、そこからR19の木曽街道に入って、少し南下して旧楢川村の道の駅に寄り、重伝建(=重要伝統的建造物群保存地区)の平沢地区の資料を頂き、そこに向かいました。平沢地区は漆工町としての指定を受けています。木曽の漆工芸は江戸の昔から有名ですが、話には聞いていても、その昔の残る町を訪ねるのは初めてのことでした。町外れの駐車場に車を置いて散策することにして、町並みを覗き歩きました。さすがに漆器具工芸品の店の看板が多く見られて、古い建物も並んでいましたが、通り全体はひっそりとしており、どこで漆を使った作業などが行われているのかは全く判らず、見当もつかない鎮まり方でした。とある店を覗いていたら、そこのご主人と思しき方に声を掛けられ、店の造りの内側の方も見せて頂けることになり、ご案内を頂きました。間口は狭いのですが、その奥は深くて、漆工作業の蔵があり、漆器製作の話なども聞かせて頂いて、大変勉強になりました。これらの話についても、追って別途書きたいと思っています。

探訪を終えた後は、今日の泊りはメイン道路のR19沿いにある道の駅は避け、県道を少し横に入った木曽町の道の駅:三岳にすることにしました。幾つかの途中の道の駅などに寄りながら南下しました。温泉に入ることも考えましたが、この辺りの温泉は皆料金が高いので、もう一日我慢することにして、寄るのを止めました。三岳の道の駅は、最初は静かだったのですが、夜中9時頃までスケボーで遊ぶ子供たちがいて、少し眠りを乱されました。しかし、その後はトラックなどが入って来ることもなく、安眠を得ることが出来ました。

 第4日(9月14日:土)

道の駅:三岳 →(県道・R19)→ 道の駅:奈良井木曽の大橋 →(奈良井宿散策)→(R19・県道)→ 道の駅:今井めぐみの里 →(県道)→ 安曇野みさと温泉ファインビュー室山 →(県道)→ 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里(泊)

 今日の目的もメインが二つあって、その一は久しぶりに奈良井の宿場町をじっくり探索すること。もう一つはとにかくどこかの温泉に入ってムサイ顔の髭や頭をさっぱりさせることです。

 三岳の道の駅は、朝になって外に出て見ると20台を超える車が泊まっているのを知り驚きました。昨日の夕方は、自分たちの他は2~3台しかいなかったのに、どうしたことなのかと不思議に思いました。トイレに行った時に関西から来たという方に声を掛けられ、天気のことを訊かれましたが、それによると今日はこれから御嶽山に登るとのことで、予報はどうなのか、大丈夫なのかということでした。うっかり気づかなかったのですが、御嶽山に登るには、この道の駅は一番近くて、前泊の基地としては最適の場所だったというわけです。それにしても3000mを超える山を日帰りで往復してくるというのですから、うっかりすると山の事故も多くなるはずだなと思いました。今のところ、御嶽山に登る考えはありません。

 今日から3連休が始まることになり、もしかしたら奈良井の宿場町は来訪者が多くて、駐車場が混むのではないかと気になり、早やめに行った方が無難だと考え、先に奈良井宿に行ってから朝食にすることにして、6時半過ぎに出発することにしました。ここからは30分ほどの距離です。早朝の木曽街道は空いていて、7時を少し過ぎた頃には奈良井の道の駅の駐車場に着きました。ここの駐車場は以前は狭くて使いにくかったのですが、今回はそれがかなり改善されていて、ありがたく思いました。

 朝食を済ませ、TVのニュースなどを見ている内に、何だか眠気を覚え出して、どうせ未だ町中は営業活動を始めてはいないだろうと思い、少し眠ることにしました。相棒は間もなく出掛けて行ったようです。このような観光地では、一緒に歩きまわることは、お互いに窮屈なので、夫々自由に行動することにしています。今日の午前中一杯はここで過ごし、その後は木曽街道沿いの蕎麦屋で昼食をする予定です。自分的には奈良井の宿場町はもう何回か来ており、さほどに興味関心は多くはなく、どちらかといえば表通りから外れた裏側の方を覗き歩きたいという考えなのです。と、いうことでそれから10時過ぎまで贅沢な朝の昼寝?を楽しみました。

起き出して遅まきながらの散策に出発しました。予想通り、いつの間にか駐車場は満車に近くなっていました。奈良井の宿場町は木曽街道というのか、中山道の木曽エリアでは最大の宿場町ではなかったかと思います。今でも昔の街並みがほぼ変わりなく残されており、昔を偲ぶには大いに力になる場所だと思います。勿論ここも重伝建に指定されており、それに相応しい保存活動が継続されているのを感じます。メインの通りを少し歩いて、横道がある度にそこへ侵入しながらお寺や神社などを覗き歩きました。替玉神社というのがあり、面白い名だなと思いました。由緒書などがないためどんな謂れがあるのかは解りませんでした。恐らく、旅の厄病ごとなどを善事に取り替えてくれるという様な神様ではないのかなと思いました。しばらくそのような歩き方をしていたら、メイン通りの店の中から相棒に声を掛けられ、焼き団子を食しました。自分は財布を忘れていたので、好都合でした。その後、お六櫛を売る店に寄り、店の方からお六櫛の今昔などについてあれこれ話を聞かせて頂きました。今の世では、このような櫛を殆ど使わなくなってしまっているのを、店の方ならずとも寂しく思いました。嫁御への土産にと相棒はお六櫛を買い求めていました。

その後は一人で車に戻って相棒の帰りを待つばかりです。12時半近くになってようやく相棒が戻り、昼食は予定通り街道筋の蕎麦屋で食べることにして出発です。5分ほど走って、「ながせ」という看板が目に入り、そこで食べることにしました。夏蕎麦とかいう新そばを賞味しました。自分は蕎麦は盛蕎麦に限ると思っており、蕎麦屋に入った時のメニューは決まっています。この夏蕎麦は、腰が十二分にしっかりしていて風味もあり、なかなかのものでした。

その後は温泉を探すだけです。今夜の泊りは安曇野市堀金の道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里に決めており、その近くの温泉ということで、安曇野みさと温泉ファインビュー室山というのを選びました。塩尻からはナビ任せで、サラダ街道と呼ばれる道をしばらく走り続けました。途中に、道の駅:今井めぐみの里というのがあり、ちょっと寄ってみることにしました。この道の駅には季節の野菜や果物が溢れんばかりに並べられて売られていました。相棒はブドウを一箱ゲットしたようです。その後の、ナビに従って温泉まで辿り着くまでの時間の長かったこと。地図を見ていないので、どの辺りを走っているのか見当がつかず、着くまでは不安がらみの運転でした。

温泉は、小さな山の頂上らしき場所にあって、何やら宿泊施設の一部が日帰り温泉となっていました。すべすべした泉質で、久しぶりの温泉を満喫しました。帰りは、道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里迄15分足らずで、あっという間の到着でした。16時30分。もう今日はこれで終わりです。来る途中倅からメールがあり、台風が近づいているけど、帰りはいつになるのかとの内容でした。さてどうするか、しばし迷いました。TVの予報を見ると、どうやら関東エリアを通過するのは確実のようです。せっかく来たのだから、明日は小布施の方を回り、その後は草津温泉に抜けてお湯を楽しもうと思っていたのですが、こりゃあ考えものだなと思いました。とにかく決めるのは明日の朝にしようということにして、先ずはゆっくりすることにしました。堀金の道の駅は、旅の車やその他の車を合わせて、広い駐車場がほぼ満車の状態でした。この辺りは町の中心部のようで、近くに体育館や文化施設などが幾つかあるらしく、それを利用する人たちの声が夜遅くまで賑やかに響いていました。

第5日(9月15日:日)

道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里 →(県道)→ 安曇野IC →(長野道・上信越道)→ 横川SA →(上信越道・関越道・北関東道)→ 真岡IC →(R294)→ 自宅  <総走行距離:809km>

 昨夜は遅くなって雨が降り出し、夜明けごろまでかなり降ったようでしたが、起き出した6時頃には小ぶりとなって、やがて止みました。外に出て見ると、一面雨雲の塊が空を覆っていました。これじゃあ、大雨になるだろうし、明日はこれに風が加わって、地方道では不測の事態が起こるかもしれないなと考え、思い切って旅はこれで止めることにして、一路家に戻ることを決断しました。しかし、ここの道の駅には、豊富な野菜や果物が売られており、開店も7時からなので、それらを手に入れてから出発しようということにしました。

 7時少し前には、早くも店のドアの前に行列が出来るといった状況でした。自分も10分ほど並んで待って、エノキダケやネギなどを買いました。その後、相棒も何種類かの野菜や果物を手に入れたようです。一番欲しかったのはセロリなのですが、未だ出荷前のようで、棚に並んでいませんでした。もう一度秋に来なければと思いました。長野産の野菜や果物は、原発の汚染には無関係だと思いますので、安心です。

 7時30分出発。安曇野ICに入る前に給油を済ませて、長野自動車道に入り、その後は、上信越道、関越道、北関東道とずっと高速道を利用して走り、栃木県の真岡ICを降りて、R294に入り、我が家に着いたのは、12時40分ごろでした。途中かなりの雨降りのエリアを通過しましたが、我家の辺りは雨が止んでいて、所々青空が見えるという按配で、何だか騙されたような気分となりました。守谷市エリアは、あまり天気の悪いことが少ない場所なので、台風も来るのをためらっているのかと思うことにしました。

 実にあっけない幕切れとなって、残念ですが、ま、こんなこともあるだろうと忘れることにしました。旅で拾った幾つかのテーマについて、追ってエッセーなどを紹介したいと思っています。先ずは、ざっとの報告でした。

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へチクラ(=十角ヘチマ)の話

2013-09-10 03:53:19 | 宵宵妄話

  へチクラというのをご存知でしょうか?へチクラは植物です。一説にヘチマとオクラの間の子などという人がいるようですが、生物学的には、何だか違う様な気がします。ヘチマはつる性の植物ですし、オクラはつる性ではありません。しかし、その実の姿形はそう言われればそうなのかという程度は似ていますので、まあ、面白半分にはへチクラという呼び名があっても良いような気がします。

 この植物に初めて出会ったのは、昨年の4月に九州の旅をした際に、鹿児島県の薩摩川内市樋脇町の道の駅でのことでした。九州の旅の鹿児島県では、テーマの一つとして薩摩藩の治世(支配体制)の骨格である外城制度の「麓」という呼び名の、小さな城下町(というより城下村という方が当たっているかも)を幾つか訪ねることにしていました。薩摩川内市エリアには十カ所を超える「麓」があり、その中で樋脇町の近くにある「入来(いりき)麓武家屋敷」の残存状態が良く名を知られています。かの有名な知覧の武家屋敷も外城の一つであり麓の一つです。

 薩摩藩には100を超える外城があり、簡単に言うと、それは藩が外敵に備え、強固な支配体制を形成するために、武士団(郷士と呼ばれる下級武士)を領土内の各地に分散して住まわせ、常時は農事に従事させ、時には戦に備えての軍事訓練等を行うという様な仕組みでした。薩摩藩の中にはこの政治支配の仕組みが張り巡らされており、良く言われる隠密の侵入が困難だったなどという話も、この外城制度という巧みな支配体制が功をなすこと大だったということから来るものと思われます。この話はへチクラとは無縁です。

 さて、元に戻ってへチクラの話ですが、入来麓を訪ねる前に樋脇の道の駅で昼食休憩をした時に、地元の農産物売り場を覗いていたら、野菜類に並んで、枯れて堅くなった角ばった植物の実が売られていました。そこには「ヘちくらの種」と小さな字で書かれた紙が添えられていました。初めて見るもので、これはいったい何だろうと興味を持ちました。店の人に訊くと、「ああ、これはへチクラと言うんだよ。ヘチマとオクラの間の子のようなものだよ」「へえ、食べられるんですか?」と聞くと、「食べられるよ。油炒めなどにするとうまいよ」というオバさんの返事でした。面白そうなので、とにかく買うことにしました。その枯れた大きめの鞘状の実は、オクラの大きさを遥かに超えて20cm以上の長さがあり、堅くてカチカチになっていましたから、到底オクラとは思えず、やっぱりヘチマの類だろうなと思いました。南国の鹿児島県での作物が関東へ持って行っても素直に育つのかなと思いましたが、まあ、とにかくやってみる気になりました。

 5月初めに旅から戻って、その鞘から種を採って、苗を作ることにしました。一晩種を水に浸した後、育苗ポットに2個ずつ種を播いたものを10個ほど作りました。当然全部芽が出てくるものと思っていたのですが、どうやら使えそうな苗となったのは、たった2本だけでした。6月の移植時期になって、いつもそうなのですが、北海道の旅が迫り、そのまま家に植えても誰も面倒を見る者はおりません。どうやらこの植物はヘチマと同じつる性のものらしいので、家での栽培は諦めることにして、農事にチャレンジしておられる知人のところにその苗を持って行き、育ててみて欲しいとお願いすることにしました。知人もへチクラなどとは初めて聞く名前なので、興味津々のようでした。2株の苗を預けて、お願いしっ放しのまま北海道に出掛けて、旅から戻ったのは9月の半ば過ぎでした。

勿論へチクラはもう終わっていました。知人にどうだったかと伺うと、ちゃんと収穫できて、食べましたとのことでした。その話しぶりからは、さほど好評といった感じではないなと思いました。とにかく自分はそのへチクラなる植物は苗の時しか見ておらず、あとは枯れた鞘しか知らないのです。恐らく青い小さなヘチマのようなものを採取して、それを油で炒めるなどして食べられたのではないかと思ったのですが、ヘチマ類を食べるという習慣のない関東では、戸惑われたに違いないなと思いました。それで、来年は自分の家でも何とかして作ってみたいものだと思いました。樋脇の道の駅で買った種は、あと3鞘も残っており、種は2~3年は大丈夫でしょうから、来年はこれを使ってチャレンジしてみようと心に決めたのでした。

それからあっという間に1年が経って、この間に倅が所帯を持つことになり、2世帯住居としては新たに心強い味方が増えました。旅で留守の間の植物たちの面倒を、嫁御にも少しは見て貰えるかなとの期待も膨らみました。今年の5月に入って、種まき時となり、今回は少し多めにポットの数を増やして種をまきました。ところが驚いたことに、昨年から1年が経っているというのに、今年の発芽率は好調で、殆ど100%に近いものだったのです。20株近い苗が育つことになりました。植え付けまでの途中に3週間ばかり旅に出掛けて留守にしましたが、嫁御に水やりなどの面倒を見て貰って、何の心配もありませんでした。

植え付け時になって、さあどうするか、大いに頭を悩ましました。先ずは、昨年と同じように数株を知人の農園に持参し、楽しんで頂くことにしました。残ったものは裏庭のキーウイ棚(未だ植え付けたばかりで、生長が始まっていない)を利用して、残っている苗全部を、3つの鉢に夫々2~3本ずつ、その他の苗は直植えにすることにしました。棚の大きさの割には多すぎるのですが、痩せた苗もあるので、全部が生長するとは思えないと考えての対処でした。棚の上に辿り着くまでにはネットが必要であり、それらも用意して取りつけました。1坪くらいの狭い棚のスペースなので、もし上手く生長してくれたら、扱いが面倒になるな、などの思い過ごしの心配を楽しみました。

その後、今年はいつもの夏の北海道が叶わなくなり、へチクラの面倒を見るには好都合となりました。6月半ばに旅から戻った後、苗の植え付けをしました。裏庭なので、少し日当たりが悪く、最初の頃はなかなか伸びてくれず、こりゃあこのまま終わってしまうのかなと、いつものように早まっての心配が続きました。7月の半ば頃から、生長は本格化し、ようやく網に辿り着いて蔓(つる)を伸ばし始めたと思ったら、その後の生長は目を見張るばかりでした。あっという間に棚の上に辿り着き、棚を埋め尽くして花を咲かせ始めました。植物の成長というのは、人間の思いとは一致しないようで、時間をたっぷりかけて、その後は一気に本性を現すといったもののようです。というよりも人間の持つ欲という奴が、せっかちな性格を持っているということなのかもしれません。特に初めての植物に対しては、このせっかちさは、少し度を越しているのかもしれません。(もしかして自分だけのことかも)

     

我家の裏庭のヘチクラの棚。本来キーウイ用の棚なのだが、今年はヘチクラが棚を覆い尽くして、隣の生け垣にまで浸食しようとそのチャンスを伺っている。

8月に入って、待望の実が3個ほど膨らみ出しました。この後どれくらい収穫できるのか良く判らず、食べるという考えよりも、眺めている時間の方が長い感じでした。最初の実の内の2個は、来年の種を採るためのものとして残すことにして、少し大きくなったのを食べて見ることにしました。角になっている部分をピーラ―で削って、5ミリほどの輪切りにし、油で炒めて、白だしを掛けて食べて見たのですが、これが結構いけるのです。ただ、表皮が堅くて、食べた後に口の中に残るので、家内はそれっきりでした。自分は根っから卑しいもの食いなので、たじろぐことなく完食しました。

     

ヘチクラの実の生っているいる様子。こうしてみて見ると、明らかにヘチマであるが、ヘチマには角が無い。この実が小さい時期は確かにオクラに良く似ている。しかしまあ、ヘチクラとはよく言ったものである。

出だしはそのような状況だったのですが、その後ヘチクラの実はどんどん生って、9月に入った今でも止まるところを知らずにぶら下がり始めています。一体どの様な調理法があるのかと、ネットで調べることにしました。本来もっと早く調べれば良かったのに、うっかりし続けていたのでした。ところが、「ヘチクラ」で調べても殆ど検索が効かないのです。平仮名の「へちくら」で引いて見たら、1件だけ載っていて、そこにヘチクラは、別名「十角(とかど)ヘチマ」というのだと書かれていました。それで、十角ヘチマで検索すると、幾つかの調理メニューが紹介されていました。どうやら、このヘチクラというのは、十角ヘチマというのが本名だったようです。確かにどう考えてもオクラなどではなく、ヘチマですし、輪切りにすると十角形なのです。情報によれば、かなり栄養価も高く、優れた食材とのことです。

     

収穫したヘチクラの実。これで長さは約20cm前後か。本当はもっと早い時期に採った方が良いのかもしれない。

それ以降、茄子や満願寺唐辛子、ししとう、などと合わせて炒めたりしてみて、味付けも白だしの他に味噌やコチュジャン、ボン酢などを使ってみて、大いに楽しんでいます。(基本的に肉は入れないことにしているので、メニューが限定されるようです)一つだけ失敗したのは、輪切りにせずに縦に切って使ってみたら、繊維の残る度合いが急増して、さすがの卑しいもの食いの自分も飲み込むのに抵抗を覚えました。未だに実がどれくらいの大きさが適度な収穫のタイミングなのかが良く判らず、どうしても大きくし過ぎてしまっているようです。オクラと同じくらいの大きさではあまりに幼すぎて、収穫するのをためらってしまうのです。これは、一度本場の鹿児島や沖縄へ行って、本物の料理を味わなければダメだなと思っています。

来年はこの棚はキ-ウイ専用となることでしょうから、さて、どこに植えようかと、早くも頭を悩ましています。何ともノーテンな話でした。

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ビロードモウズイカの話

2013-09-05 03:01:00 | 宵宵妄話

  我家の門脇の街路樹の下に居座った不思議な植物のことについてお話しすることにしましょう。

 今は真に暑い、いや、異常に暑過ぎる夏がようやく終わりかけている時期ですが、その植物に気づいたのは、昨年の冬の12月頃でした。我家の道路に面した側道には、街路樹としてハナミズキが植えられていますが、我家付近には2本あって、これらを自分の担当と心得、一応普段から面倒を見るように心がけています。毎年根元にグラジオラスやスミレなどの花が咲くようにと球根を植えたり、雑草を引き抜くなどの管理をしています。グラジオラスは街路樹の1本には真っ赤な花を、もう1本には純白の花の咲くものを植えて、そのコントラストを楽しんだりしています。道行く人にも少しは愛でて頂けるのではないかと思っています。

 昨年の秋の終わり頃、その街路樹の1本の根元に、ロゼット状に葉を揃えて冬を迎え、送ろうとしている名も知らぬ草を見つけました。ロゼット状というのは、少し難しく言えば、根生葉(こんせいよう)の植物の形状を言い、短い茎に葉が密集して円形に付いてるものです。子供服などに付ける薔薇の花型の飾りリボンのこともロゼットというようですが、同じ形状を言っていると思います。野草の代表的なものとしては、タンポポやノゲシ、ハルジオン、ヒメジオン、ホトケノザなどがあります。

 その名も知らぬ草は、それらのどの種類でもなさそうで、多く見られるヒメジオンよりもかなり大型の葉っぱでした。何だか引き抜くのが可哀想な気がして、そのまま残しておこうと思いました。ハナミズキの木の下には、冬は他には草は生えておらず、何だか目立つ存在となりました。厳冬の時期にも、少し葉っぱを赤く染めて、健気に寒さと戦っている姿にちょっぴり感動したりしながら、ようやく春を迎えたのでした。

 一体何という名の草なのだろうかと調べようとしても、その葉っぱだけの姿からは図鑑を見ても、見当がつきません。どんな植物でもそうなのですが、それが若い時期であればあるほど、一目見てその名を言い当てるのは困難となります。その植物が生長期を経て花を咲かせるのを見て、それがどのような植物なのかを知ることが出来るのです。ですから、その葉っぱだけの草の名は依然として不明なのでした。4月になってもその草の姿は変わらず、ただ葉っぱだけが一段と大きさを増しただけでした。依然謎の草というままでした。

     

今年の4月20日時点での謎の植物の姿。この5分の一にも満たなかった小さな葉っぱが、これで直径が30cm以上の大きさになっていた。

 5月になって、葉っぱは益々大きくなるのですが、花を咲かせるような雰囲気はなく、こりゃあ一体どうなるのかなと、疑問は増すばかりでした。5月の下旬から6月の上旬過ぎまで、20日余りの旅に出て、家を留守にしたのですが、帰宅してみると、なんとその草の芯の部分がにゅっと伸びて、上の方に黄色い花を咲かせているではありませんか。想像もしなかった姿と花の様子でした。草丈は1mを超えており、他の雑草たちを圧倒していました。

     

6月13日時点での謎の植物の全景。もはや葉はロゼット状ではなく、茎が大きく伸びて、てっぺんの方に幾つかの花を咲かせていた。

     

ビロードモウズイカの花。花穂にびっしりと付いた蕾が一つづつ開花して行く。中には開花しないままに終わるのもあるらしい。これは初期の花の様子。

 しかし、この野草の姿はどこかで見た記憶があるのです。タバコの葉に似た葉を付けており、葉の表面には細い毛のようなものが密集して生えていて、触るとべとつく感じがします。しかし、花の方はタバコとは全く似ておらず、淡く澄んだ黄色の花でした。棒状の花穂には花の蕾が密集しており、それらが下の方から幾つかずつ順番に咲き上がって行くという開花スタイルなのです。これをどこで見たのか、懸命に思い起こしました。ようやく思い出しました。そうそう、毎年の北海道の旅で、初めて見たのは、知床半島の北側の付け根の位置にある、ウトロの道の駅に泊った時でした。海の近くにオロンコ岩という巨大な石の塊があるのですが、それに登ろうと向かった時でした。途中の港の荒れ地のそこいら辺に、これと同じようなのが何株も生えていて、黄色い花を咲かせていたのでした。大型の植物なので、目立つ存在でした。その時も一体なんという草なのだろうかと、疑問に思ったのですが、その時は、北海道エリアに生える草の一つなのだろうと思うだけでした。旅から戻るとその花のことは、すっかり忘れ果てていたのでした。

 さて、こうなれば図鑑を見れば載っている筈だと、調べることにしました。草の名前を調べるというのは結構面倒なことで、その特徴から分類名を見当つけて探せば良いのかもしれませんが、それがなかなか分らず、結局は花を咲かせる季節に合わせて、図鑑を片っ端から見てゆくしかありません。咲き出したのが春の終わり頃なので、夏の部を見て探したのですが、見当たりませんでした。では秋の部なのかと探しましたら、ありました!我家のものよりも少し小さな写真でしたが、荒れ地の中に咲いている花の姿の写真が載っていました。その名は何ともややこしくて覚えにくいのですが、「ビロードモウズイカ」というものでした。解説を読むと、葉に触るとビロードのような質感があり、花の中心に毛が密生しているというので、この名があるということでした。なるほど、そう言われてみればその通りだなと思いました。漢字で書くと、「天鵞絨毛蕊花」ということで、恐ろしいほどに難しい字です。でも、「天鵞絨」をビロードと読むのは昭和の初めの人なら常識かも知れず、「毛蕊花」の方は、読みは難しくても、花の特徴をそのまま表しているのが解って、何ともまあ面白く、素直な命名だなと思いました。片仮名では分りにくい名前も、漢字を見ると納得という感じで、今はすっかりこの草の名を覚えてしまいました。

 この草は、地中海沿岸原産の帰化植物ということです。道理で和風とは思えぬ花だなと思いました。この頃は植物の世界でもグローバル化とやらが進展しているようで、鎖国の時代からは全く様相が変わりつつあるようです。自分が気がついているだけでも帰化植物の繁茂は幾つもあって、その内に耕作放棄地などにはサボテン等が居座るのではないかと思うほどです。ハルジオンやヒメジオンは帰化植物ですし、タンポポだって日本古来のものよりも帰化した西洋タンポポの方が圧倒的に多いのは多くの人の知るところです。最近気になっているのは、ブタナというタンポポに似た花を咲かせる植物です。この花もヨーロッパ原産とのことですが、北海道を旅すると牧場の脇辺りを初め至る所にはびこって花を咲かせています。最近では関東の地でも多く見かけるようになり、毎日の歩きのコースの一つである小貝川(利根川支流)の堤防にも数多く見られるようになりました。このままでは、やがて日本の空き地はヒメジオンやブタナ等の花園で埋め尽くされてしまうのかもしれません。複雑な気持ちになります。これらの花が増える分だけ、一方で消え去って行く草もあり、彼らの生存競争も又グローバル化しているのだなと思わずにはいられません。

 ところで、昨年の冬に我家の近くの街路樹の下に突然現れたビロードモウズイカは、一体いつ、どこからやって来たのでしょうか。この草の存在に気づいてから、毎日の散歩の中で気を付けて見ていると、結構あちこちに点在してその大きな葉を見せているのが分りました。中には、自分と同じようにこの花を珍しがってなのか、庭の中で鉢植えにして育てている人などもおられるのに驚かされたりしました。先日霧ケ峰高原に行った時も、上田市の郊外の道路脇にも何本ものビロードモウズイカが埃まみれの花を咲かせていました。結局、自分が気付かなかっただけということなのでありましょう。

 我家のビロードモウズイカは、その後益々丈を伸ばし、2m近くになって、ようやく花穂を伸ばすのを止めたようです。現在はこの猛暑で葉は半分以上枯れて来ており、花はその後脇から出て来た何本かの花穂に花を咲かせた後、黒っぽい花穂の残骸だけが不気味に立っており、ようやく今年の生命を終えようとしているかのようです。この花が多年草なのかそれとも1年草なのか判りませんが、ここ1年近く付き合って来て、さて、この後はどうするか、今迷っているところです。

     

8月22日時点でのビロードモウズイカの様子。上部の花穂はすっかり花を咲かせ終わって、黒い棒状になっている。その下部から新たに何本かの花穂が伸びて、そこに名残の花を咲かせている。

     

8月22日時点、老衰期に入ったと思われるビロードモウズイカの様子。上記写真の花穂の下部辺りを拡大したもの。花の優しさと併せて野草の逞しさが伝わってくる。

 野草というのは、野に在って初めて野草の真価が発揮されるものなのだと考えると、これから先毎年街路樹の下に居て貰うよりも、解放されて別の地で子孫を増やした方が良いのではないかとも思ったりしています。野の草たちは常に同じ場所に住みつくよりも結構移動するのが好きで、ここかと思えば、来年はあちらの方にと住む場所を替えながら子孫を増やす戦略者が多いようです。このビロードモウズイカには、この先はやっぱり己が気に入った他の場所に移って貰うのが良いのかなと思いながら、しばらく様子を見ることにしました。

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