山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第10回>

2018-06-04 07:11:21 | くるま旅くらしの話

【今日(6/4)の予定】 

道の駅:くろまつない → 道の駅:いわない → その先未定(今日は殆どの郷土資料館や博物館が休みなので、行く先は決めずにこの近郊に滞在しての静養の日とする)

 

【昨日(6/3)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:あっさぶ →(R227・R229)→ 八雲町熊石郷土資料館 →(R229他)→ せたな町大成郷土資料館 →(R229他)→ 瀬棚郷土館 →(R229・R230・R5)→ 道の駅:くろまつない(泊)

<レポート>

 今日も付近の郷土資料館等を巡ることにしている。渡島・檜山エリアの日本海側は概ね今日で訪ね終わり、残っている噴火湾側は帰路に立ち寄ることにしている。今日は本来なら乙部町の郷土館を最初に訪ねるのだが、ここは日曜日が休みのため、先ずは八雲町の熊石地区にある郷土館に向かうことにしている。

 厚沢部の道の駅には2泊させて頂いて、感謝。昨日訪ねた郷土資料館では、厚沢部町の明治初期における存在感は薄いものだった。明治17年に愛媛県からの入植移民から開拓が開始されたとのことだが、現在有名になっているジャガイモのメークインについては資料館には何の紹介も無かったのが残念だった。恐らく近年の新しい品種改良技術によってもたらされたものなので、郷土館には未だ入らないものだったのかもしれない。

 朝食一休みの後、八雲町の熊石に向かって出発する本当は乙部町の郷土資料館に寄りたかった。というのも,乙部町は幕末の戊辰戦争の際に官軍が上陸した場所であるからだ。当初優勢だった旧幕軍は江差を初め松前、函館と占領して意気を挙げていたのだが、その後官軍との各地での戦いに敗れ、ついに降伏となったわけである。それらのことについては、今まで見て来た各地の郷土資料館の中にも資料等が紹介されていたが、その官軍が上陸した乙部町には、何か別の内容の紹介があったのかもしれないと思った次第。しかし、休館なので仕方も無いこと。

 熊石は、合併前は檜山エリアに属する町だったのに、今は渡島エリアに属する八雲町に入っている。当初どうして八雲町が日本海側まであるのかと不思議に思ったのだが、すぐに気がついた。ここ十年以上この地区の日本海側を通るのを避けていたので、合併のことにも気付かなかったのである。避けていた理由は、ここを通った時ものすごい強風が吹きまくっていて、危く車を倒されそうになった経験があるからである。それを思い出すとぞっとして、通る気が起こらなかったのだ。今回も昨日までかなりの強風が吹いていたが、幸い今日は波も静かなようで安堵しながらの通行だった。

 熊石の郷土資料館は海岸から坂を登った坂の上方にあり、立派な建物だった。早速中に入って見学する。この地も今まで見て来たと同様に松前藩の傘下にあってニシン漁を中心に暮らしが営まれて来た場所であることが判る。また、この地も縄文時代の遺跡の出土があり、太古は豊かな土地だったことが解った。明治以降もニシン漁を中心にして少しずつ開拓が進められてきたようだが、何しろ海に近くて耕地となるような場所は少なく、それにヒノキアスナロのようなヒバの木も無いので、暮らしは厳しかったようだ。平成の合併で八雲町と合併したのも、人口減少による活力低下を防ぐための一つの重大な決断だったのかもしれないと思った。これは隣のせたな町の各自治体でも同様に言えることのようである。

 熊石の郷土資料館の後は、隣のせたな町の大成郷土資料館へ。ここも合併前は大成町だった所である。元の役場近くに町の主な公共施設が集中していて、郷土資料館は中学校に隣接して図書館と同じ建物の中にあった。入って行くと女性の職員の方が、親切に館内の展示物などの説明をして下さった。この地もニシン漁を中心に暮らしを送って来た場所であり、現在も漁業中心の経済活動となっているとのこと。江差から離れるにつれて、漁業のパワーも規模が小さくなって来ているのを感じた。この地には円空上人が籠って修行したという大田山神社というのがあり、地区のシンボルとなっているとのこと。沖を通る北前船もこの太田山神社に向かって手を合わせて航行の安全を祈願したのだと話しておられた。せたな町の中での旧大成町は人口が約1500人ということだった。岩場の多い海の傍のこの地区の今日の暮らしは漁業中心ということだったが、若者は少なく、学校も次第に縮小されて来ているようで、今日では活力を失いつつあることが、話を伺っていての感想だった。お礼を言って後にする。

 その後は引き続きせたな町の旧瀬棚町にある郷土館を訪ねる。着いた時は既に12時をかなり過ぎていたので、駐車場で簡単な昼食を済ます。邦子どのはこのところの頻繁な郷土館巡りに少し頭の中が混乱しているのか、疲れて頭痛がするとかで、ここの見学はやめるという。これは仕方のないことなので、自分一人が300円也を払って郷土館の中へ。

 この地も郷土館の展示物や解説は今まで回って来た郷土資料館とあまり変わらなかったが、違っていたのは、この地出身の日本の女医の第1号となった荻野吟子という方の来し方の特別展示がなされていたということだった。この方の名前は初めて聞いたように思う。どこかの書物などで目に触れていたのかもしれないけど、記憶としては残っておらず、だから初めて知ったことだった。まだ男尊女卑の考えが強かった時代に、相当厳しい試練を乗り越えて、強い意志を持って志を果たした女性の凄さというのを知り、感動した。

 この地にも南川遺跡という縄文遺跡があり、何点かの出土品が展示されていたが、各地にこのような遺跡があるのを知り、今度来道する時は縄文遺跡を見て回ることをテーマにして見るのもいいなと思った。縄文時代の北海道を初めとする北日本エリアは、現在の気候とは違った、稔り豊かな自然があった場所だったのだと思う。それを訪ねてみたいなと思った。

 他の展示品については、このエリアの日本海側の昔の暮らしと殆ど変ってはおらず、明治以降もほぼ同じような暮らしの道を辿って来ているようだった。せたな町は3町が合併しても人口は8600人ほどであり、これから先も人口減を食い止めるのは難しい課題となるように思った。帰りに町の歴史年表を1冊買い入れた。

 瀬棚郷土館を出た後は、今金町にあるピリカ遺跡を訪ねてみようと考えて出発する。しかし邦子どのが疲れ気味なので、どうするかは近くに行ってから決めることにした。しばらく山の中の道を走った後、平地に出て噴火湾方向へ向かって走り、美利河地区に入ったのだが、入口を見落としてしまい引き返すのが面倒になってパスすることにした。邦子どのも大して気乗りしていないようなので、この上は早く今日の宿と考えている黒松内の道の駅に行って休むことにしよう決める。間もなく国縫からR5に出て、もうここからは太平洋側の噴火湾である。少し走って長万部でカニ飯弁当を買い、間もなく黒松内の道の駅へ到着。15時半ごろか。駐車場はかなり混雑していた。この道の駅ではパンやピザが美味しいと評判なのだが、パンは既に売れ切れており、ピザも品切れとなりかけていた。17時頃になってようやく駐車場も空いて来て、静かになって来た。かなりの風が吹いていて厳しかったが、夜になって次第に収まって来たようだ。やがて静かな夜を迎える。

コメント
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