山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

慧眼の人イザベラ・バード

2020-05-28 04:47:35 | くるま旅くらしの話

 イザベラ・ルーシー・バードという方をご存知でしょうか。明治の初期の頃に英国から日本にやって来て僅か半年足らずなのに、日本という国を知るために、敢えて未だ国としてのインフラも不十分な東北や北海道を旅して貴重な記録を残した人物です。名前からも女性であることが判りますが、19世紀は英国といえば数多くの植民地を保有した大英帝国と呼ばれる存在でした。彼女は、その大英帝国の著名な旅行家であり、探検家であり且つ紀行作家、写真家、ナチュラリストとして、多面に亘る活躍をされた方なのです。日本のみならず世界各地を訪ねて多くの著作を残されています。

 私は現在、一昨年に北海道を旅した時の記録を整理中なのですが、この時のテーマが北海道150年の来し方を訪ねるというもので約4カ月に亘る行程でした。丁度その年が北海道生誕150年に当っており、これを機に蝦夷から北海道となった後の新しい歴史を訪ねてみようと考えての旅でした。各地の資料館や博物館などを訪ねて、それなりにその地の来し方の様子は見当がついたのですが、明治の初めの頃の北海道が実際どのようなものだったのかを知る手立てはなかなか見つかりませんでした。北海道の名付け親の松浦武四郎の日誌や間宮林蔵などの功績についても調べてみましたが、それらの資料の多くは江戸時代の和人の観点から書かれたもので、今一往時の状況のイメージが膨らまなかったのです。

 そして調べている内にイザベラ・バードという方が書かれた「日本奥地紀行」という著作に出会ったのです。この本は、平凡社の東洋文庫に収められており、全4巻あります。その中に「北海道アイヌの世界」というタイトルがあり、これを読んで明治の初期頃の北海道がどのようなものだったのかが、ぐっと眼前に迫って語ってくる思いがしたのです。函館の外人街の様子や、原始林の中の道を搔き分け、アイヌの人たちの力を借りての渡河、そしてアイヌの人たちの暮らしぶり等々が、実に丹念に描写、記録されています。しかも文章の描写が美しい。ぶっきらぼうなメモなどではなく、大自然に対峙した時の感動が、150年近くを経た自分の胸にも伝わって来る、真に詩的な文章なのです。原文ではなく訳文でもそう思うのですから、原文はもっとビューティフルなのではないかと思うほどです。

 それで、北海道だけではなく他の地区を旅した分も読むことにしました。彼女が来日したのは明治11年(1878)ですから、維新後それほど時間が経っておらず、地方にはまだ幕藩体制の余韻が残っていたのだと思います。その辺りの庶民や役人たちの暮らしぶり、仕事ぶりなどを実にリアルに描写し、コメントを加えています。往時の日本人には、彼女の描写や指摘は到底受け入れられないものだったと思いますが、150年後の現代に生きる自分のような者には、これ以上の優れた説明はないと思われるほど、客観的で正鵠を射たものだと思いました。

 アイヌと和人に関していえば、征服と被征服者という関係ではなく、その暮らしと生き方において、バード女史は、アイヌの人たちにその誠実さにおいて軍配を挙げているようです。アイヌが被征服者となったのは、優れた未開人としての誠実さにあったのかもしれません。和人よりもアイヌの方がヨーロッパ人に近いという捉え方には少なからず考えさせられるところがありました。

 東北の旅では、都市部と農村の暮らしの落差、また西洋関連の食品に紛いものが多いこと、日本人は子供の教育に熱心なこと、河川等に関するインフラの整備が出来ていないこと等々が挙げられており、何よりも今と違うなと思ったのは、往時の人たちの異人に対する異常な関心ぶりでした。それは、好奇心の塊のようなものだったようです。宿に泊ると、襖や障子に穴があいてそこから多くの眼が覗いていること、道を歩くと町中、村中の人々が異人さんであるバード女史を一目見ようと大勢が集って来ることなど、まさにこれには隔世の感があります。

 このような時代から150年が経って、今実感するのは、ものごとを如何に正確に伝えることが大切かということです。慧眼(=炯眼)ということばがありますが、それは眼前の世界を如何に正確に伝えるかによって、未来に思いを伝えてゆくかということではないか。正確性を欠き、伝え方が歪んでいればそれは慧眼には値しない。バード女史の記録を読みながらそのようなことを深く考えました。

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スペイン風邪のこと

2020-05-17 01:14:30 | 宵宵妄話

 今回の新型コロナウイルスに関する各社の報道を見ていて、どうして100年前のスペイン風邪のことを取り上げないのかなと思っていた。パンデミックとしては、近世では過去最大規模だった感染症事件に、どうして触れないのかが不思議だった。ところが今日(5/17)初めて、NHKのBSでそのことについて報道されているのを見て、もしかしたら自分が気付かなかっただけなのかと思った。これを見るまでには、民放の各社では現状ばかりを取り上げており、過去の大事件にはあまり関心を向けなかったように思う。

 100年前の大事件から人間は、国際社会は、何を学んだのだろうか。たった100年しか経っていないのである。往時の世界の総人口は約20億人、その内の1/4にも当る5億人が感染し、5千万人以上もの人が亡くなったのである。この数値は、往時が第1次世界大戦の時でもあり、各国が秘密裡に対処したため、正確な数字が判らずこれを上回っているとも云われている。恐るべき大事件なのである。

 わが日本国でも、約2千4百万人の患者が発生し、死者が約39万人にも至ったという。39万人という数字は、茨城県でいえば、県庁所在地の水戸市が全滅し、その上に更に10万人以上の死者が横たわるという恐るべき数字である。この悪性の風邪の流行は3回に亘っており、特に第2波の致死率が高かったという。自分のような昭和の前半に生まれた者には、今回の新型コロナ禍に見舞われるまでは、殆ど関心の外にあったのだが、今改めてこれを知ってみると、その数値においても対応においても、今回とは比較にならないほどの大事件だったことに気づく。

 人間は、この大事件から一体何を学んだのか?そして何を学ばなかったのか?そのことを考える必要があるのではないか。当時の各国の政治体制、国際関係は最悪で、世界大戦の最中であり、それは現在とは比較できないとは云え、学ぶべきことは多かった筈だと思う。

しかし、自分的に思うのは、大して学んでなどいないということである。100年の間に科学の進歩は目覚ましく、医療の分野においても多くの感染症を抑え込んで来たのだと思う。パンデミックになる前に予防薬や治療薬の開発が追いついて、それが何度か繰り返されると、医療に係わっていない世界に住む人間は、たちまち過信という安心を抱くのだ。衛生に対する基本的な対処法などは忘れて、手を洗ったり、うがいをしたりすることなどを無視するようになり、病気になったら注射や薬を飲めば治るものと考えてしまう。糖尿病の患者でさえ、薬を飲んだり注射をすれば元の健康体に戻るなどと考えている人は多い。しかし、これらの考え方は安易な思い上がりなのではないか。

今回のコロナ禍では、飲む薬が、防ぐ薬が無いのである。にもかかわらず、あると考えて行動している人は多いのではないか。有名人死亡の報道で、初めて薬が無いことに気づかされた人は多かった筈だ。治療や予防の決め手になる薬が無いとしたら、これはもう感染しないように或いは感染させないように努めるしかない。100年前も感染しなかった人が生き残ったのだ。このような当たり前のことを、100年前の教訓として現代にも活かすべきだったのだと思うけど、残念ながら殆ど何も伝わってはおらず、医療の進歩に胡坐をかいていた、その油断をコロナに突かれている感じがする。

また、国際的にみると、世界大戦中でもないのに、それぞれの国が自国中心的に対応を決めており、これはまあ当然なのだとは思うけど、治療薬や予防薬の開発競争に我を忘れてしのぎを削っている。見方によれば、それはもしかしたら100年前の戦争状態と同じではないか。この他、経済活動の仕組みは、100年前とはとても比較できないほど細密につながっており、もはや1国だけではどうにもならない状態なのだ。この仕組みが、今何箇所かで破綻しかけている。この綻(ほころ)びが早急に補填復旧されないと、世界は再び大恐慌や戦争の勃発に見舞われるかもしれない。何とも危険で恐ろしいことが起こる予感を拭い得ない。

当初スペイン風邪というから、これはヨーロッパ中心でスペインが発病元となったのかと安易に考えていたのだが、とんでもない歴史認識であり、これは戦争を絡めた世界を揺るがす大事件であり、戦争の犠牲者よりも遥かに多い死者を出した事件なのである。スペインなどではなく、まさに日本においては日本風邪ともいうべき大事件だったのだ。我々は、この事件と合わせて今回の新型コロナ禍の事件を後世に教訓として何を残すかを考えなければならない。これは政治に係わる者も医療に係わる者も経済に係わる者も、全ての分野において、国を挙げてなさなければならない課題ではないか。今、そのようなことを思っている。

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コロナウイルスの地球乗っ取り作戦

2020-05-12 22:22:44 | 宵宵妄話

 新型コロナウイルスという新たな感染症病原体に、本格的に引きづられ始めてから凡そ2カ月が経過したが、事態は多少の減少傾向は見られるもののまだまだ予断を許さない状況にある。そこで、老人の妄想はコロナウイルスたちの本陣に密かに潜入して、彼らがどのような目的で、どのような戦略を立てて人類を消滅させようとしているのかを探ってみた。凡その見当はついていたとはいうものの、その実態を知るにつれて、これはこの後も尋常の手段では対峙できない恐怖があることを感じている。その妄想の概況をお知らせすることにしたい。

 先ずウイルスとは何なのか、その正体は何なのかなのだが、それがなかなかつかめない。科学者によれば、細菌よりも更に小さくてそれは細胞すらも持たない微小な存在なのだという。細胞が無いのになぜ活動できるのかといえば、彼らは細胞に忍び込んでその侵入先の細胞を活用して己のコピーをどんどん作り出して目的を達成しているのだという。その目的を果たすための意思がどこにあるのかは全く不明なのだが、新型コロナウイルスの場合は、その目的は明らかに人類を消滅させることにあるようだ。

 コロナウイルスたちの本陣における基本戦略はどうやら二つあるらしい。その一つは個体としての人間という動物を退治することであり、もう一つは人間が作り出している社会というシステムを破壊することなのだ。人間という生き物は、個体そのものは他の動物たちと殆ど変らないのだが、彼らのつくり出した社会システムという奴が、我々ウイルスに対抗する力を持っており、これを何とかしないと地球を乗っ取ることが難しいのだ。彼らは今、この二つの中核戦略を基に世界各地で人間との戦いに臨んでいるのである。

 人間によらず動物という生き物に対する我々ウイルスの侵攻戦略は、彼らを動けないようにすることである。動物というのは、文字通り動く物という存在であり、動けなくなることが彼らにとって致命的な事態を引き起こす。我々の狙いはそこにある。動けないように身体の内部組織を機能不全にすることが肝要なのだ。動物は、動けなくなると無力になり、やがて死に至ることになる。人間という生き物もそれを免れることはできない。

 ということで、先ずは人間の個体としての存在を抹殺すべく、なるべく体力のなさそうな奴を選んでそこに刺客を送りこむことにした。何やらどこかの国家が我々を刺客として送り込んだとかいう風説があるようだけど、そうではない。我々は国家などという人間の勝手な組織に縛られることなく、いつだって自在に戦略を実現することが出来るのだ。その意味で我々は完全に自由であり、何ものにも縛られない行動力を持っている。

 先ず個体に取り憑いて動けなくするという戦術は、少しずつ成果を挙げ出し、今では全世界で400万人ほどを感染させ、あの世に送った人間も30万人近くのレベルとなっている。しかしこれは100年前の人間がスペイン風邪と呼んでいる、あのときの偉大な成果から比べれば、とても満足できるレベルではない。(あのときは世界の人口20億の1/4にあたる5億人を感染させ、5千万人を葬った)それを超えるべく、今後一層侵攻を強化してゆかなければならない。人間どもはひたすら逃げまくるという作戦を展開しているようだが、必ず気を緩めるという弱点を持っているので、ぬかりなくそこを狙って攻めて行けばいいのだ。

 さてもう一つの人間の社会システムの破壊という戦略だが、これは先ず個体攻略の成果をもとに、その動きを止めることが肝要だ。今のところ、その戦略がじわじわと効いて来ているようだ。人が動けなくなる割合が増えれば増えるほど、人間の社会システムも動かなくなり、それが限界を超えた時、人間社会の崩壊が始まるのだ。現在の人間どもの社会システムは、地球上のすべての人間を巻き込んだがんじがらめの仕組みとなっているので、これがもつれて働かなくなると、彼らの身勝手な生存・闘争本能がむき出しとなって、互いに己の利益だけを主張し合って、やがては戦争に突入することになるのかもしれない。そうなれば面白いではないか。我々のつけ込む隙は益々拡大し、戦略の成果は確実なものとなるに違いない。

 ここ数日、日本国においては、彼らの自粛とやらの逃げの作戦が功を奏して、感染者が減り出したとかで、安堵しているようだが、これが狙いどころなのだ。逃げる者が戦いに勝利するなどということはあり得ない。逃げる者は、戦いに勝利出来る力を獲得できるまでは、ひたすら逃げ続けなければならないのだ。数値が減ったのは逃げの効果がほんの少し出ただけに過ぎない。それを知っている我々は、この後も厳しく戦いを進めてゆき、日本のみならず、この地球を必ず乗っ取ってやるのだ。

 今のところ妄想はここまでで終わりである。ウイルスたちの戦略と戦術は、人類が地球に胡坐をかいている間は、絶えることなく新手のものを編み出し、これからも対峙して来るようである。老人としては、1日も早く人間がウイルスとの戦いに勝利できる力を獲得する日が来ることを願うのみである。

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オキナ草

2020-05-05 21:23:49 | 宵宵妄話

 オキナ草(=翁草)という野草をご存知でしょうか?関東近辺では野草として見るのは困難なのかもしれません。写真のように一目見れば如何にも翁の風体をしているのを実感されるのではないかと思います。このところ山へも滅多に行かず、ましてやコロナ禍の真っ最中では旅に出かけるわけにもゆかず、出逢う野草たちも見慣れたものばかりで、然したる感動も覚えぬまま早朝の歩きに勤しんでいる状況です。

 その中で先日朝の歩きの通りがかりの家の庭先に、久しぶりに翁草があるのに気がつき嬉しくなりました。露地植えと鉢植えのがあって、思わず立ち止まってカメラに収めました。

     

オキナ草の花。これはまだ咲き始めに近い状態。一つだけ咲き終わったのがある。

私の朝の歩きには、いつも三種の神器を帯同することにしています。現在はカメラとスマホとICレコーダーです。少し前まではこれに拡大鏡が付加されていました。老人は直ぐに忘れてしまいますので、気づいたことを記録したり、まさかの時のために連絡用のツールは必携なのです。拡大鏡は植物の観察用です。身近な植物でも花などを虫眼鏡で覗くと、そこには不思議な感動の世界があるのに気づきます。一時それに夢中(?)になったことがありましたが、今は少し醒めています。

余計なことを書きましたが、翁草の話です。翁とはジジイ即ち同類世代にいる私自身のことであります。このジジイを実に巧みに表現して咲く野草があるというのに、大自然の創り出す不思議を感じます。特に面白いのは、このオキナ草は、咲き始めは老人などとは全く無縁の、やや激しさを覚えさせる濃い赤紫の花を下向きにつけているのですが、咲き終わると何故かふさふさの真っ白な髪の毛状となり、やがてそれを地に落として咲き終わるのです。この最終章の姿は実に翁の風情なのです。

野草としてのこの草に出会ったのは、宮崎県の都井岬でした。都井岬といえば、野生の馬で有名です。日本の野生馬と言えば、この都井岬ともう一カ所は青森県尻屋崎の寒立馬(かんだちめ)が有名ですが、北の馬は大型で逞しく、南国の馬はやや小型でおとなしい感じがします。その都井岬に馬を見に行ったのですが、馬というのは草を食むのが丁寧で、食べた後は実にきれいな状態となっています。牛と比べるとそれが良く判ります。牛の方が雑な食べ方なのです。

で、都井岬に行った時に気づいたのですが、きれいに草を食べる筈なのに決して食べないらしい草が、あちらこちらに点在しているのに気づきました。何なんだろうと近くに行って見てみると、何とそれが翁草なのでした。馬が誤って食べると酔っ払い状態になるとかでアセビ(=馬酔木)という木がありますが、草の中にもその様な毒を持ったものがあり、それがこのオキナ草なのでした。確かに花を見る限りでは、少し毒々しさがあり美味そうとも思えませんが、毒草だったとは!とにかく丘に点在して悠々と花を咲かせて生き残っているのが、このオキナ草だったというのが強く印象に残りました。

それにしても馬たちが絶対にこれを食べないというのは、見事なものだと思いました。どこでそれを学ぶのか、本能なのか、これ又不思議です。そこで思ったのは、もしかしたらこれはジジイに関係があるのかもしれないということです。ジジイになるような風体の草を喰ったなら、あとで大変なことになることが予知できる仕組みが馬の脳の中につくられているのかも知れません。

老人を喰ったりしたら、これはもう毒の中でも猛毒に違いありません。人間も植物も老いたものには無数の毒が溜まっているというのは神様の造作の常道なのかもしれません。我が身を振り返ってみても、身体の隅々まで毒が溜まっているのを実感出来ます。

それにしてもこの花たちのふさふさ加減はどうなのだと、若干の嫉妬を覚えざるをえません。というのも我が身のてっぺんは、ふさふさが落ち果てて、終わりの光芒を放っているかの状態なのです。やや複雑な感慨を以て久しぶりの花との出会いを楽しみました。

   

  咲き終えた後のまだ少し勢いの残っている、人間ならば初老の状態?

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