山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

法師蝉の季節

2015-08-30 06:34:18 | 宵宵妄話

 つくつくと何を嘆くや法師蝉 惜しむもむなし このひと夏は    馬骨

 法師蝉が鳴き始めています。法師蝉の生命の時間は短く、せいぜい1週間ほどでしょうか。この蝉が鳴く季節になるとどんなに暑い夏でも、早や峠を越えて次のステージが近づいてくるのを感じます。

守谷辺りはまだかなり蝉たちが多く残っていて、6月のニイニイ蝉から始まって、アブラ蝉、ミンミン蝉と続き、朝夕に蜩の声が挟まり、最後に法師蝉が鳴き終えて、蝉たちの季節が終わることになります。しかし、よく耳を傾けてみると、年を経るごとにアブラ蝉を除く蝉たちの数は次第に少なくなっているようで、特にニイニイ蝉と蜩の数は少なく、今では特定の場所にしか残っていない感じがします。守谷市に農家の屋敷林が無くなった時がニイニイ蝉や蜩たちの消え去る時となることでしょう。その時が間近に迫っている感じがします。

今朝も歩いていると、法師蝉の声があちこちから届いており、哀愁の混ざるその声に耳を傾けていると、思わずあの蝉たちは何を訴えているのだろうか、などと考えてしまいました。その心境を歌にして見たのが冒頭の一首です。このような表現が適切なのかどうか判りませんが、法師蝉たちの鳴き声は、何だか今の世の行く先を嘆いているように聞こえて来て、老いの階段を歩みつつある自分にもその慨嘆が伝わってくるような気がしたのでした。

私は今の世を輝きを失った秋の終わりの季節にあるように捉えています。真夏を過ぎて残暑の勢いも少しずつ衰え始めていますが、それは地球の温帯における自然界の季節の移ろいの話です。しかし、人の世の移ろいの方は、もっともっと加速化しながら最盛期を過ぎた効率化社会が、必要の限界をはるかに超えた情報化社会のもたらす様々な疲弊現象を随所に突出させながら、人の心を衰退させ、やがて凍てつく冬に向かう秋の終末の様な季節感の中にあるように思われるのです。

この頃のニュースを見聞していると、人間の持つ異常性に起因するとしか思えないような犯罪が頻発しているようです。無差別、動機なしの殺人事件、身勝手な理由だけでの殺人や傷害事件、悪質性を拡大し続ける詐欺事件、テロという名の人類の破滅行動等々、日本国のみならず全世界で心魂を凍らせるような異常の極みの様な出来事が頻発しています。一々例を挙げるのもおぞましい気がします。

この先この国、この世界はどこに向かって進むのでしょうか。科学は、人間の心を置き去りにして、局部的な利益のために真実という禍を追求し続けるのでしょうか。この世が生き物としての安全と安心の方向へ進んでいるとは思えず、過去に何度も体験した愚行を、飽きもせずに繰り返そうとしているように思えてなりません。

やっぱり、生き物としての本能というのは、他との協調や共生・共存などではなく、自己本位に尽きるのかもしれない。そのように思えてならない今の世の動きです。平和・平等・友愛は、一時は真実性のあったことばなのかもしれないけど、今は飾り言葉の虚しさを感じます。

悲観的な愚痴は老人の常とはいえ、この頃の報道を見聞していると、随所にこの世の行く先の暗い予兆を覚える出来事ばかりが伝わって来て、この様な状態で、果たして孫の世代まで持つのかと、心配が膨らみます。法師蝉は早くもそのことを見抜いて、我々に警告しているような気がするのです。

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一本道を歩く素晴らしさ(北根室ランチウエイに思う)

2015-08-23 04:28:18 | 宵宵妄話

先日(8/20)NHKのドキュメンタリー番組のにっぽん紀行「一本道を歩く~北海道中標津町~」を見ました。タイトルに中標津町とありましたので、これはぜひ見なくてはと思いました。というのも、例年ならば今頃はいつも中標津町の隣の別海町のキャンプ場で過ごしており、週に1回程度は中標津町に買い物などに訪れているからです。中標津町にある開陽台や養老牛温泉などはおなじみの場所で、町の名を聞けば直ぐにイメージが湧く場所です。その中標津町に、歩くための一本道があるというのは全く知りませんでした。ま、一本道といえば、普通どこにでもある道であり、特別驚くようなことでもないのですが、それが70kmにも及ぶとなると話は違ってきます。

TVを見ていますと、この歩くための道のアイデアを生み出されたのが牧場を経営されている佐伯さんという方で、実際に道づくりにも尽力され、賛同者を募ってついには中標津町から弟子屈町の美留和に至る71.4kmの歩きの道をつくり上げられたということでした。画面ではその道を歩く人、整備する人などが取り上げられて、大自然の中を歩くということの意味、そこから得られるものなどについて紹介されていました。それらは一々首肯することばかりで、とても嬉しくなりました。

TVを見た後で、もう少し詳しく知りたいとネットで調べましたら、「北根室ランチウエイ」と名付けられたその道は、既にかなり有名となっているようでした。そのコースの中に含まれる幾つかの場所は、もう15年以上も前から毎年訪れているのに、そのような情報に全く疎かったのを恥ずかしくも愚かに思いました。尤も、私の場合はくるま旅なので、北海道を訪れた時は、別海町に滞在している時以外は、あまり歩くということを考えたことがないのです。それに一つ一つの牧場が広大なので、別海町でも一つの牧場を一周すると10kmを超える歩きとなり、もうそれだけで満足してしまうのでした。しかし、多くの牧場の中を通り、更に山や森や川の辺などを歩けるコースがあるとなると、こんな嬉しいことはありません。来年はぜひ何区間かを歩いて見なければならんなと思いました。

ところで、私には「歩くことは考えることだ」という信念があります。このようなブログの記事を書くことも、仕事のアイデアを引き出すのも、そのほとんどは歩きながら気づいたことなのです。私が本格的に歩き出したのは、糖尿病を宣告された50歳辺りの頃からですが、それまでは歩くよりも走ることの方に関心があって、週末には時には20kmくらい走るのが楽しみでした。人は走りながらでも何かを考えずにはいられないものですが、歩きと比べると断片的で瞬間的な感じがします。到底楽しみを味わうというレベルには至りません。しかし、歩く時に浮かぶ様々な想念は、考える楽しみに直結しています。

私は現在、家の周辺に幾つかの歩きのコースをつくり、毎日10kmほど早朝の歩きを実践していますが、これが今はもう無上の楽しみとなっています。今の季節は4時前には起き出し、5時少し前に出発となります。歩く時にはカメラとICレコーダーと歩数計を必ず持参着装します。これは私の歩きの三種の神器です。カメラは何かに気づいた時にその対象を映像として収めます。ICレコーダーは、何かの着想を得た時に声に発して記録します。そして歩数計は歩きの意欲を引き出すための指標記録なのです。これらのデータを毎日パソコンに取り込み保存し、必要に応じて取り出して活用するというのが、この頃の毎日の暮らしの核になっています。

さて、自分のことは棚に上げるとして、この「北根室ランチウエイ」というのは、自分には四国の八十八カ所巡りに通ずる大へんに意義のある道の様に思えます。佐伯さんという方の発想は素晴らしい。北海道の大地に広がる幾つもの牧場をつなぐ道を造り、そこを全国の人に歩いて貰おうという発想は、国の福祉や医療政策などよりも遥かに心身の健康推進に貢献する施策であり、本来の人道に叶っていると思います。

牧場がただ牛や馬を飼うだけの場所ではなく、人間の心の癒しの場所であり、身体を動かして生きていることのありがたさを実感させる場所でもあることを知らしめるというのは、画期的な発想の様に思えるのです。そしてこれは、他の場所では出来ない北海道ならではの発想の様にも思えます。バイクの若者たちの聖地ともいわれる開陽台に上ると、北の大地の360度の眺望を楽しむことが出来ますが、そこには農作物の限界地帯といわれた根釧原野を開拓した先人の苦難を乗り越えた結晶として、防風防雪林に囲まれた幾つもの牧場の連なりを見ることができます。北海道の牧場は平地だけではなく、山一つが丸々牧場となっている場所も珍しくはなく、そのスケールの大きさは現地を訪ねた人なら、誰にでも実感できることです。勿論山だけではなく小川も流れ池もある大自然の息吹を何処でも感ぜられる場所なのです。そのような変化に富んだ大地に造られた一本の道を歩けるというのは、何と素晴らしいことでしょう!!

このような厳しくも温かい大自然の中の道を人が歩けば、歩いた人が何を考え、何を得ることができるのか。それは四国の八十八カ所巡礼の歩きと本質的に変わらないように思えるのです。もし変わる部分があるとすれば、お寺を中心とする巡礼と違って、このランチウエイは初めからずっと健康的だということではないかと、自分にはそう思えます。四国の八十八カ所巡礼はもともと死を覚悟の旅でした。それほどに厳しい、心に重いものを抱えた人たちの、宗教にすがる旅でもあったわけですが、このランチウエイは、同様の厳しさがあったとしても、北の大地の恵の明るさに包まれています。難しい問題を抱えていてもいなくても、じっくりと歩きを楽しむことの中から自分の存在を確認できる何かを得るに違いありません。是非とも大勢の方にこの道を歩く素晴らしさを体験して欲しいと願っています。勿論、私自身も来年はコースの一部でもいいから歩いてみたいし、出来れば佐伯さんという偉人にお会いしたいと思っています。

くるま旅と歩きとはあまり関係がないと考えられる方が多いかもしれません。しかし、とても関係があり、くるま旅にとって歩きは重要なのです。例えば、くるま旅の目的が観光であったとします。目的の観光地を訪れた時、その場所を存分に楽しむためには歩かなければなりません。車で走り回って、ざっと表面を眺めただけでは、その場所の本当の素晴らしさを味わうことは難しいと思います。地に足を付けて、出来る限りゆっくり歩くことによって、自分なりのその訪問先の味わいを楽しむことが出来るのです。有名地点をざっと見ただけでは、その観光スポットを訪ねたという記憶だけしか残らないと思います。

今の世は可能な限り歩く手間を省き、その分より多くの場所を訪ね眺めるというような、効率性を狙った旅やくるま旅が多いように思いますが、それは哀しく気の毒な旅のスタイルだと思います。一時の非日常性を楽しむのが旅なのだと考えれば、それを批判することは出来ないと思いますが、私としては、せめてくるま旅の場合は、ツアーの旅ではない、より味わいの深い出会いと感動の多い旅の形を創ることが大切なのだと思っています。

中標津の一本の道の話を聞いて、時にはこのような道を歩いて見るという旅の形を、くるま旅の中に取り入れるのも大事だなと改めて思ったのでした。

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無名異間歩の風

2015-08-17 20:28:29 | 旅のエッセー

 暑い! 全く以て暑い! それにしても暑い! 言ってもしょうがない愚痴を、毎日連発しながら在宅の今夏を過ごしています。いつもだと今頃は道東の別海町や中標津町、或いは道北のクッチャロ湖や稚内辺りに滞在して、朝夕の寒さを満喫しているはずなのですが、今年は地元の逃れられない夏に捕まったまま、じっと酷暑に耐えています。

 このような時は、少しでも寒い話が必要な気がします。そこで、今回は先の佐渡ヶ島への旅で体験した肝も冷えるほどの冷たい風の話をしたいと思います。 

 私にとっては、2回目の佐渡への旅でしたが、今回初めて金山跡を訪ねました。初めて佐渡に行く人なら、必ず佐渡の金山跡を訪ねるのではないかと思います。しかし、私の場合は最初はとてもそこへ行く気にはなれず、相川エリアを素通りして他に回ったのでした。佐渡といえば、江戸時代以降の黄金の国、日本を代表する金山のあった所ですから、ここを外すというのは、かなり異常な行動と言われても仕方ないことかと思います。

それには二つほど深刻な理由があるからなのです。その一つは、佐渡を訪れる数年前に、世界遺産となっている島根県大田(おおだ)市にある石見銀山跡を訪ねたことがあり、その時の経験が頭に残っていて、あの岩に穿たれた地獄につながるとも思われる細い坑道の中に入るのは、もう二度と御免だと心に決めたのでした。私にとってのその恐怖というものは、もはや興味や好奇心の限界を超えた世界なのです。灯された細い火が消えれば、まっ暗闇の世界の中で、殆ど素っ裸に近い姿で、岩石を掘り続ける人たちを想う時、そこには到底働く喜びなどがある筈もなく、地獄にうごめく悲痛な姿だったに違いないと思ったのでした。鉱毒に冒されて30代の半ばまで生きられるのがやっとだったという説明もあり、それを知りながら敢えてそこで働かなければならなかった人たちの心情を思うと、世界の銀の生産のかなりの部分を賄ったという石見銀山であったとしても、それを誇りに思って仕事に勤しんだとは到底思われず、ここでの銀の生産は、多くの労働者の命の犠牲によってもたらされていたのではないかと思ったのでした。そのような忌まわしいとも思える場所を物見遊山気分で訪ねてはならない、そう決めたのです。    

それからもう一つは、暗い小さな空間の持つ閉塞感は、生きていることのすべてを奪われる感じがして、あの恐怖は二度と味わいたくはないと思ったのでした。それは、自分の脳の海馬が毀損して、そこに恐怖が入り込んで定着してしまって、トラウマとなってしまった様に思えるのです。だから、坑道や洞窟などに入るのは真っ平御免なのです。つまり、簡単にいえば私には強度の閉所恐怖症という奴がとりついているのです。

少し脱線しますが、そのことに初めて気づいたのは、30年ほど前に遭遇したある出来事でした。仕事でヨーロッパを訪ねた時なのですが、パリのとある高層ホテルのエレベーターに乗っていた時、突然ガタン!というショックと同時にエレベーターが停止したのです。定員が25名ほどのエレベーターのカゴには、ほぼ満員近い人が乗っていたのですが、それまで意識していなかったこの小さな空間が、その時突然恐ろしい密室の空間に変貌したのでした。坐り込むこともできず、全員が立ったままの状態で復帰を待つだけの状況でした。皆外国人ばかりで、エレベーターの性能も荒っぽくて、何だか嫌な予感がしていたのですが、いざ閉じ込められて見ると、5分もしないうちに脂汗が滲み出て来て、あれれ、俺はこんな筈ではなかったぞと思う間もなく、呼吸が切迫して来て苦しくなりだし、こりゃあ復帰するまで我慢できるのかと、突然の不安に襲われたのでした。幸い15分ほどで動いて元に戻ったのですが、乗り合わせた人たちは、この程度の缶詰事故には慣れているようで、皆何でもない顔をしているのを不思議に思いました。生きた心地もなく冷や汗を流していたのは自分一人だけなのでした。日本であれば、たとえ10分の缶詰事故でも場合によってはニュースになり兼ねないし、保守を担当する会社としては問題の要因を突き止め、徹底的な再発防止を図ることになるのですが、パリのこの乗り物はそのような配慮は皆無の感じがしました。 (皮肉なことに私の元勤務先はエレベーターの保守会社だったのです)

この体験をするまでは、洞窟や鍾乳洞なども冒険の対象として何の疑問も感じなかったのですが、一度閉所の恐怖を知ってしまうと、もう二度と日の当らない、閉ざされた狭い空間に入るのは真っ平御免となってしまったのです。石見銀山を訪ねた時にも、坑道の中に入るのは止めようと思っていたのですが、世界遺産となっている場所でもあり、一度だけは中を覗いておかなければならないのではないかと、自分に強く言い聞かせて、恐怖心を抑えながら中に入ったのでした。それ以降はもう二度とこの種の遺跡などには深入りしないことを決めています。

(閑話休題)

 さて、「間歩」と書いて「まぶ」と読みます。「まぶ」といえば間夫などということばを思い起こすかもしれませんが、全く関係はありません。間歩というのは、鉱山用語で、江戸時代が終わって明治となるまでは、鉱石採掘の坑道をそう呼んでいたということです。佐渡の金山跡では、間歩と呼ばず「坑」ということばを使っているようですが、石見銀山では「間歩」が使われています。恐らく佐渡では、明治以降相当に力を入れて鉱山の近代化が図られたため、「坑」と呼ぶことにしたのだと思いますが、自分的には遺産という見方からは、「間歩」と呼ぶ方が昔の時代を反映しているように感じます。

 佐渡の焼き物(=陶器)に無名異焼(むみょういやき)というのがあります。赤茶色の金属音のする硬い焼き物ですが、独特の雰囲気があって、愛好される方も多いようです。この焼き物の原料となるのは鉄分を含んだ赤土ということですが、これは勿論金銀山の掘削の際に見つかったものであり、副産物の一つということになると思います。佐渡の鉱山跡を歩いていた時に「無名異坑」という表示があるのに気づきました。恐らくあの焼き物の原料はこの間歩から出たに違いないと思い、そこへ行って見ることにしました。

宗大夫坑の少し上手の方の小さな谷を入った左上の方にその間歩の入口がありました。赤錆びた鉄柵が入るのを禁止していました。その間歩の入口は、何故か私にとっては宗大夫坑などよりもずっと往時に近い本物の間歩の姿を訴えているように思えました。「無名異」という呼び名が、どんな理由で付けられたのか判りませんが、この呼び方にはある種の不気味さと哀しさの様なものを感じてなりません。あの焼き物にも他の陶器とは違う神秘めいたものを感ずるのは、恐らくこの間歩から出る赤土によるものではなかったかと、そう思いました。

  

無名異間歩への石段。小さな谷の横に穿たれた穴がその間歩の入り口だった。説明板もないので判らないけど、公開されている坑道などよりは古いものに違いないなと思った。

 ところで、その間歩の前に立った時です。そこから猛烈な冷気が噴き出ているのを感じたのです。これはその前に宗大夫坑の入り口でも感じていたのですが、無名異の間歩の冷気はその比ではなく、心の芯までもが凍りつくほどのものでした。一瞬、これは何だろうと思いました。その日はかなり暑くて、日陰を求めたくなるほどでしたから、その冷気は好都合の筈なのですが、そのような気分を凍(こご)えさせるほどのものだったのです。

 思うに、この間歩の中で、何かがあったのだと思います。その冷気の中には、人間の悪しき感情が全て籠められた怨念の様なものを感じました。冷気というよりも霊気といったものなのかもしれません。細く狭い空間の中に、何百年もの間閉じ込められたままの生き物の噴出す強烈な負のエネルギーの様なものなのか、その間歩の前に行くとぞっとするものを感ずるのです。

 無名異の間歩が、佐渡金銀山の中でどのような位置にあったのか分かりませんが、間歩の中で働く人間の中には、世の見せしめとして送り込まれた無宿人と呼ばれる人別(=戸籍)から外された犯罪者や浮浪者も多くあり、それらの人たちの中には冤罪のケースもあったことでしょうから、恨みや無念の念を抱きながら生命を削らされて尽き果てた人もいたに違いありません。そのような人たちの負のエネルギーの凄まじさは、常人の計り知れないものだと思うのです。佐渡のこの間歩の中には、いまだ収まりきれないそれらの人たちの憤怒と虚しさと恨みの念が坑の遠近(おちこち)の窪みにこびりついて残り、そこから風を送っているのではないか。そう思ったのでした。

 いま、そのなぜかを詮索するつもりはありませんが、あの冷気はどんなに暑い夏の日でも、一瞬にして心を凍らせるほどのものだったなと、思い出すばかりです。歴史の中に忘れられたまま怨念の妖怪と化した人たちのことを思うと、暑いなどと言う愚痴を戒めなければならないと、そう思ったのでした。

  

無名異間歩の入り口。この閉ざされた真っ暗な空間からは、今でも不気味な冷風が絶え間なく吐き出されている。

 

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つくば市の総合運動公園騒動に思う

2015-08-12 04:09:22 | 宵宵妄話

 つくば市は私の住む守谷市には隣接していませんが、20kmほどの近場にあり、その中心となる研究学園エリアは、商業施設等も多く、又文化活動も盛んで、私どもも月に数回は家内のフォークダンスの練習や買い物などで訪れている所です。

 そのつくば市で、先日総合運動公園基本計画の賛否を問う住民投票が行われました。その結果は、賛成が20%弱、反対が80%強と、圧倒的に反対が賛成を上回りました。このことについて、野次馬の立場から私見を述べてみたいと思います。

 まず私が一番先に思うのは、この住民投票は計画に対する賛否を問うているわけですが、休日の1日をかけて多くの住民に問う内容としては、あまりにも単純で、住民の本心を捉えていない、無駄の多い投票だったと思います。本来問うべきは、市当局が作成した計画の良し悪しではなく、総合運動公園が必要か否かということではないかと思うのです。その上で、現在の企画案が良いか悪いかを確認すべきではなかったか。投票で住民の労を煩わすのであれば、もう少し投票のあり方を工夫すべきだったと思います。ま、しかしこれはもう済んでしまったことなので、今更ツベコベ言ったところで始まらないことです。

 さて、この投票結果から、市長は計画を白紙に戻すことを検討しているということですが、これは当然のことだろうと思います。投票率が47%程度ですから、投票しなかった人たちの声を勘案しても反対の声が大きいのは間違いないことであり、民意を尊重せざるを得ないということでありましょう。問題は白紙にした後、市長をはじめとする市政の幹部関係者がこのテーマをどう扱うかということです。反対が多かったので、もう考えることは止めるというのであれば、それは余りにも無責任というものです。なぜなら総合運動公園計画がポシャったのは、反対する市民のせいだという理由だけで片づけてしまってはならないからです。

 私がつくば市民であれば、基本的に総合運動公園の建設は賛成です。仮に500億円をかけて、もっともっと立派な施設を造るべきと考えます。しかし、今回の様な投票のやり方では、やはり「反対」に一票を投ずることになると思います。それは費用が305億円もかかるからという理由ではなく、計画や企画の目的や理念等に関して、或いはその内容や進め方に関して不明で納得し難いものがあるからです。その主な理由としては、次のようなことがあります。

 この問題を考える上では、つくば市民の暮らしという立場だけではなく、つくば市の茨城県における位置づけ、首都圏エリアにおける位置づけ、更にはわが国における位置づけ等々を考えた上で、この先何を目指すのかという視点が重要だと考えます。しかし、今回の計画ではこの点がどのように考慮されているのかが判りません。もし、305億もの費用を投じて、つくば市民のためだけの福利厚生施設の充実を図るというのであれば、それはナンセンスな話であり、これはもう費用対効果という観点からも、福祉倒れ逼迫財政を招来するに違いなく、反対しない方がおかしいということになるでしょう。今回の投票では、その大極的な視点からの発想がどう活かされているのかが見えてきません。

 思うに、つくば市は茨城県の中では、県都水戸市に次ぐ人口を有する市であり、将来的には水戸市を抜いて茨城県第一の雄都となる可能性大です。というのも、つくば市のロケーションは東京という大都市圏の中にあり、TX(=つくばエキスプレス)の運行により近郊の開発は益々進展し、それに伴って人口の増加も継続しているからです。また、日本国内の位置づけを見ても、つくば市は研究学園機能を持つ国内最大級の市であり、日本の頭脳といわれる方たちの多数がこの街で暮らしています。科学エキスポの開催に伴って生まれたこの市は、一方に農村エリアを抱えながらも、確実に国際性を備えた大都市化の道を歩んでいると考えられます。

 そのようなつくば市なのですが、体育文化施設といえば、現在はほんのわずかしかなく、陸上競技場、野球場はもとより、劇場も音楽堂も美術館も他に誇れるようなものは皆無といっていい状況です。これらの施設は茨城県全体を見ても貧弱であり、万人を超える収容力のあるものといえば、サッカーの鹿島スタジアム(鹿嶋市)の他はケーズデンキスタジアム(水戸市)くらいのもので、鹿島スタジアムを除けば、プロのゲームを招聘出来る能力のある施設は無いというのが現状です。

 このような状況の中で、つくば市は半端な運動公園などを造るのではなく、国内でも有数といえるような施設を志向すべきではないかと考えます。陸上やサッカー、ラグビーなどの国際マッチが可能な競技場をメイン施設として、プロ野球の興業が可能な野球場などの他に観客席を備えた総合体育館など、茨城県内では他にない規模の体育運動施設を志向すべきと考えます。勿論これらを一挙に造るというのは乱暴な話で、先ずは百有数年先の市の国際的、国内的な位置づけ等のビジョンを明確に示し、その上で優先順位を決めた各種運動文化施設の企画プランを提示しなければならないと思います。

 今回の投票のことで気になっているのは、305億円という費用が本当に無駄の多い投資なのかということです。民意というものが、運動文化施設というものの意義を忘れ、単にコストのことばかりを問題にするというのならば、つくば市には永遠に国内に誇るような施設は生まれないということになります。確かに今回の東京オリンピック開催に係る国立競技場の問題に関しては、あまりにもずさんな取り組みにあきれ返るばかりですが、だからと言って国を代表するような運動施設が、お金がかかるから不要だということにはならないと思います。

 私はつくば市に建設されるメイン施設としての競技場が300億円を超えるようなものであっても、市の誇れる施設として必要だと考えます。つくば市は、もはや県の代表的な都市として、水戸を凌ぐほどに国内では知名度が高くなっているのです。暮らしの充実という点での民意なるものも確かに大切な視点だと思いますが、当座の暮らしばかりに気をとられている発想では、後世に残るような建造物も遺産も生まれないのです。庶民の暮らし優先だけの行政(=治世)感覚が、後世に残る世界遺産を生み出したというような話は世界のどこを探しても見当たりません。つくば市が民意という妖怪に飲み込まれて、未来に対して何も創り出そうとしない、そのような市とならないことを心から願っています。この後のつくば市の総合運動公園騒動の行く末をしっかり見守りたいと思います。

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ただ今酒のラマダン中

2015-08-05 04:16:11 | 宵宵妄話

 6月下旬、佐渡の旅から戻って、7月半ばに糖尿病の定期検診を受診したのですが、この結果は散々なものでした。Ha1cの数値が、2ヶ月前の受診の時よりも1%近くも高くなってしまったのです。

その原因が、会津の巨大なソースカツ丼を2回も味わってしまったことや佐渡でのはみ出し食事と酒など、旅の間の食生活の乱れにあることは明白なのですが、これを何とか正常レベルに戻さなければなりません。糖尿君という病友は、長年親しく付き合って来ているのに、全くの非情な友であり、わずかな羽目外しも決して見逃してはくれないのです。こんな友には早々に見切りをつけるべきなのですが、決別することは、PPK(=ピン、ピン、コロリ)の実現を不可能にし、且つ生きる楽しみの早期消滅につながることになるので、老人には、もはやそのような蛮行は不可能なのです。

 ということで、何とか元のレベル(6%以下)に戻さなければなりません。戻す方法はいろいろ考えられますが、自分の場合は薬には頼らず、あくまでもカロリーコントロールと運動療法で何とかするようにしています。カロリーコントロールというのは、別の言い方をすると、「食事療法」ということになります。食事療法という言葉からは、何だかややこしい難しげな食事メニューなどをイメージしてしまいますが、重症レベル(8%以上)の場合は厳しい内容が求められるとしても、自分の場合はさほど難しくはなく、いつも次のような方法でクリアしています。

 その1は、食事記録を付けることです。これは少し面倒ですが、毎日、毎回の食事の内容(主食・副食・飲料等)を記入し、それがどれほどのカロリーだったのかを80Kcalを1単位として、およそ何単位だったのかを記入するのです。そして、1日の摂取カロリーの目安を20単位(=1600kcal)以下と決めることにします。この記録を2カ月続ければ、確実にHa1cは改善されます。もし改善が思わしくない時は、さらに継続するだけです。

   

我が食事のカロリーコントロールの標準用具の食事記録表。毎日・毎回食事の後に凡そのカローリー単位を書き込むだけ。1日20単位以上にならぬように気をつける。オーバーする日があっても気にせず、翌日でクリアーするように心がける。継続することが肝要。

この方法を実行するためには、食事メニューのカロリー計算ができなければなりません。そのためには、最初は一々食品成分表を見て覚える必要がありますが、糖尿君と仲良しとなってしまったからには、これはもう覚えるしかないと心に決めて取り組めば、それほど面倒でも難しくもないことが判ります。というのも、我々が毎日食べているものといえば、それほど変化のある多彩なものを摂っているわけでもなく、記録していて気づくのは、ご馳走などというものからは程遠いということです。そのささやかな食事をほんの少し減らす努力をすることが、糖尿君のご機嫌をうるわしくすることになるのです。

 その2は、これは酒飲みの私だけのテーマなのですが、「酒のラマダン」と称して、期間を決めて飲酒を止めることです。ラマダンというのは、イスラム教の信者の皆さんが行っている、期間を決めた日の出から日の入りまでの断食のことですが、今年は6月18日から7月16日までだったとのことです。私の今回の酒のラマダンの期間は、7月22日から9月に孫が生まれるまでとしています。

 この二つの方法を確実に実行すれば、必ず結果はついてきます。もし糖尿病でカロリーコントロールに悩んでいる方がおられたら、この方法をお勧めします。太り過ぎや内臓脂肪などに問題がある方でも、食事記録を付けるという方法をとれば、必ず改善することができるに違いありません。この方法については、別途機会を改めて紹介したいとも考えています。

 ということで、ただ今はこの二つを実行中です。食事のコントロールの方は、元々記録をとらなくても野菜中心など普段から留意していますので、さほど困ることはないのですが、酒のラマダンの方はかなり厳しいのです。アル中一歩手前のレベルにあると自認しているのですが、それゆえこの我慢が利かなくなるかどうかが本物の中毒症となるか否かの判断基準ともなるわけで、今回も今のところどうやら持ちこたえていますが、喉の方は奥から手を出して何でもいいから酒類を持って来いと騒ぐのです。これを黙らせるまでにはやはり1週間は必要で、今現在はどうやらそれをクリアして喉の手も引っ込めたようです。

 酒のない暮らしというのは、真に味気ないもので、食べる物の一切から味わう楽しみが失われる感じがします。義務感に背中を押されての食事は、牛や馬たちが草や稲藁を食むよりも惨めな感じがします。こんな時にTVの鬼平犯科帳などを見ていると、随所に酒を酌むシーンが出てきたりして、真に目を覆いたくなる気分になります。

 ま、そのような心境の中でも、もう少し我慢すれば今度はもっと美味い酒が飲めるぞと、悟ったような顔をして、しばらくは無言を貫くことにしています。二番目の孫にお目にかかれるのは9月の半ばの予定です。その時には、まさに祝杯をあげて美酒に酔うことにしています。

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