山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

10連休の過ごし方

2019-04-27 06:41:33 | 宵宵妄話

 過去最大の連続休暇というのが今日から始まった。毎日が日曜日の暮らしがもう15年以上も続いている身としては、世間の騒ぎが気の毒でならないというのが本心である。現役の暮らしをしている人の立場では、良きにつけそうでないにつけ、この10連休はやはり問題になるのだと思う。夢が果たせる人、逆に一層仕事が嵩む人など様々な思惑が渦巻いているのが現実の世の中なのだと思う。しかし、リタイア後の長い休日の中にいる老人には何の感動も刺激も感じられないのは、不幸というべきなのか。さてさて。

 その実感の無い10連休なのだが、自分としては自治会の仕事も休憩という感じとなるので、どこか近場の旅にでも出掛けようかと思ったりしたのだが、何処へ出掛けるにしても、あの凄まじい渋滞や混雑を思い浮かべると、どうしても危険を感じてしまって尻込みせざるを得なくなる。県内の近場であっても、少し名の知られた所は大なり小なり人の波が押し寄せて来るに違いないから、やはりどこへも行かないで、家の中と付近を歩くだけのいつもの毎日で十分だというところに落ち着く。

 ということで、30日は心静かに平成を見送り、1日には新しい令和の時代を迎えたいと思う。連日天皇の行幸の実績などが放映されているけど、歴代の天皇の中で平成天皇ほど民の心に寄り添って行動されたお方はいないのではないかと思っている。災害の多かった平成の時代だったが、天皇の国民に寄せられた思いはどれほど多くの民の力となって届いたか、計りしれないように思っている。その天皇の御心を思いながら静かに平成という時代を見送りたい。

 令和がどのような時代となるか見当もつかないが、令和天皇は新しい時代の中でご苦労の多いことに直面されるのではないか。けれども、平成に引き続いて民に寄り添う仕事をなさるに違いないので安心している。自分はこの令和の時代に生き物としての終わりを迎えるに違いないけど、平和や安全・安心が確保された時代であって欲しいと願うばかりである。

 さて、時代の交替を見守るのを第一として、実際にこの期間中にやってみたいことがある。それは久しぶりに自分の本を作ってみたいということ。実は昨年ある出版社の無料出版懸賞のようなものに応募して落選した作品が一つある。今までのくるま旅のことを宝もの探しの旅として捉えて、その思いを伝えようとしたのだが、みごと落選して自分のパソコンのデータの中に眠っている。それを引っ張り出して自分なりに本にしてみようと思ったのである。10日間もあれば出来上がるであろうし、費用も旅に出かけるほどはかからない。令和元年の始まりにあたって、自分なりの記念事業(?)として30冊ほど作ってみようと考えた。

 本の方は、今まで旅が終わる度にでこぼこ日記として作っており、昨年の北海道行は240ページにもなる大部となった。落選した本の原稿は、140ページそこそこなので、それほど苦労しないで済むと思うし、退屈凌ぎにはもってこいの仕事だと思っている。本当はちゃんとした出版物としたいのだが、自費の負担分が大きいので、年金暮らしの老人にはそのような冒険はできないのである。自分で勝手に作って、読んでくれそうな知人に配って意見を聴かせて貰えばそれでいいと思っている。ま、一つの道楽なのであろう。

 毎日が休日という暮らしは、時として生きる目標を失いがちとなり、結構危険なのである。10日もの連休に騒ぐのを気の毒だなどと言っているのだが、それが新たな生きる力につながる出来事をもたらすような時間なのであれば、気の毒どころか羨ましいといわなければならない。疲れたとしても、何か活き活きと生きる力を得られるような10連休を、どうか多くの皆さんが過ごされんことを願っている。老人の暇な呟きである。

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舞台の裏表

2019-04-09 18:09:34 | 宵宵妄話

 人生には無数の舞台がある。そして、そこには必ず裏と表がある。自分自身の人生では、人は皆自分が主役を務めている。主役が輝くかどうかは、その舞台の裏がどのようなものかがしっかりしていなければならない。そして、いい主役というのは、その舞台裏を知り尽くすほどに知っていて、地に足を据えた演技のできる人物なのであろう。己だけがいい思いをすることばかりで、裏のことをぞんざいにするような役者は、一時どんなに人気が出ようと、やがては露と消える運命にある。世の中とはそのようなものではないか。

 端(はな)から偉そうな人生訓めいた話となったが、実は今年町内会の会長という役割を引き受けることになっての初めての行事が先日行われた。お花見会と称する行事で、町内にある小さな公園にシートを敷いて、数本ある桜の花を観賞しながら、団子や巻物寿司等をつまんで、飲める人はビールなどを片手に、町内人(?)の懇親を深めようという催しである。

 新しい役員体制になって初めての不慣れな行事なので、この催しに限って、旧役員が計画を作り、それを新役員が手伝うという形で例年運営されて来たということだった。旧役員に全てを任せておけば、大船に乗ったつもりで、当日はお客様と同じような気分で一杯やれるのかと思っていたのだが、2週間後には開催と決まっているのに、旧役員の間では実行計画も出来ておらず、その担当者も明確でないという状況なのである。待っていても一向に動く気配がないので、せっかちな自分は我慢ができなくなり、その泥船の船長さんに代わって、とにかく開催日までには船が沈まないように動くことにした。

 この種のイベントは現役時代に勤めた会社でも何度も経験しているのだが、年の劫を数えるにつれて裏方の仕事はほとんどしておらず、当日に表舞台で挨拶をする程度で済んでいた。細かいことは若手中心の仕事で、年寄りは何かあった時に顔を出して対処するだけの役割で、行事全体を見守るという仕事だった。ま、人事異動が頻繁にあるわけでもなく、お互いに見知った職場の仲間でのことなので、そのような形が一般的なのだと思うけど、町内会はそれとは全く異なっていたのだった。

 我が町内会は三役(会長・副会長・会計)及び班長という自治会運営の要となる役割の全てが1年間の持ち回り制となっていて、メンバーが固定されているのは拠点となる自治会館運営委員と防災担当の関係者だけなのである。つまり、1年経つとメインメンバー全員が一斉に交替するという仕組みなのだ。だから、就任したては全員が新人ということになる。特に要となる三役までが変わってしまうのであるから、よほど引き継ぎの仕組みがしっかりできていないと、会の運営は尻つぼみとなり、退化してゆくことになってしまう。町内に住む人たちの殆どが過去20年以内にこの地に転居してきた歴史の新しい住宅地なので、公正・平等という観点から分け隔てなく役員を務めるという意味では、このような任期の決め方は当を得ているということなのであろう。

 しかし、しかしである。その公正・公平感に基づく運用は、毎年前年度の活動をなぞるだけという結果を招来していて、マンネリ化からの脱却などどこにも道がないといった感じとなってしまっている。どうしてそうなるのかといえば、最大の要因は、会長を初め各役員の役割遂行内容が不明確のまま、曖昧な運営でことを済ませて1年が終わるというシステムだからということなのであろう。加えて、役員の質(性格・向き不向き、知識・ノウハウの有無)などというものは全く考慮されず、順番が決まっているからというだけの理由で仕事が回って来ているのだから、誰がどうやろうとやるまいと流れのままということになってしまう。このようなやり方で済ませて行くのならば、やがては自治会などあっても無くてもどうでもいいということになってしまう。いずれは止めたいという人が続出するのではないかとさえ思ってしまう。これではダメなのだ。今回はそのダメな舞台裏をいやというほど思い知った感じがした。

 何も知らずにお花見会に参加された方々は、裏で誰が何をどのように準備しようと関わろうと知るすべもなくただ楽しめばいいだけの話なのだが、実のところの裏舞台はドロドロしたものが渦巻いていたのである。組織をどう動かすかの知識も経験もないままに、役割を押しつけられた人が意欲を以てそれを遂行しようという気になれる筈がない。彼は犠牲者なのかもしれない。そのような自治会運営がコミュニティ形成に貢献できる部分は僅少といわざるを得ない。犠牲者を生み出しているのも又自治会そのものなのである。この愚かな絆をどこかで断ち切らなければならない。それが当面の自分の役割使命なのだと、今回の裏舞台への係わりの中から強く感じたのだった。

同時に、まあそのドロドロした裏舞台であれこれ思いを巡らし、表の方が上手くゆくようにと動き回ることの楽しいこと。もうすぐ傘寿を迎えるというこの歳回りになって、くるま旅の他にもこんな面白いことがあったのだと、妙に元気が湧いて来ているのを実感している。人生はどうやら表よりも裏の方が面白いようだ。これからもしばらく裏舞台を楽しみながら生きることにしたいと思っている。

 

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