山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年末年始のお休み

2007-12-29 01:49:12 | 宵宵妄話

 今年もあと3日となりました。さて、今日はどうしようかなとあれこれ考えてみたのですが、一つ気付いたのは、もしかしたら私のブログをお読み頂いている方も、かなり読み疲れたのではないかということでした。写真もなく、ズラズラとくどい文章ばかりの記事ですから、よほど我慢強い方でもいい加減休ませてくれよ、と思っていらっしゃるに違いありません。

 それで、今日から4日頃まで、ブログを休ませて頂く事にしました。どうぞ皆様も良いお年をお迎えになり、くつろいだお正月をお過ごしください。

 2月からは少し写真を入れるなど工夫をして、より読みやすい記事となるように心がけるつもりでおります。

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今年の歩き

2007-12-28 01:00:04 | 宵宵妄話

50歳の時糖尿病の宣告を受けたのだが、それまでは歩くというのは嫌いではなかったけど、毎日記録をとってというほどの大げさなものではなく、休日などの気が向いた時に歩きに出かけるといった程度だった。ところが糖尿病となってしまい、食事療法と運動療法だけで何とか対処してゆこうと考えた結果、特に歩きに力を入れることにしたのだった。

それ以来、毎日万歩計を着け、その歩数記録を書き続けている。還暦を迎えるまでは、年間目標は500万歩を上廻っていたが、還暦からは450万歩を目指すことにして来ている。これを月別に分けて指標を設定し、そのクリアを目指している。現在は30日の月は35万歩、31日の月は40万歩が月間の目標となっている。

今まで年間目標をクリアできなかったことは一度も無い。年間の最高歩数が700万歩を超えた年もあった。明らかに歩き過ぎだが、駅伝やマラソン選手の練習から比べれば大したことはないと思っている。本当は普通のサラリーマンの人たちと比べるべきなのだろうが、自分としては何故かそのようなセミプロ以上の人たちのことを考えてしまうのである。損な性格なのだと思っている。

今年は、12月26日時点で、496万2661歩となっている。目標は450万歩だから既にクリアしているし、久しぶりに500万歩の大台に届くと思っている。因みにこの歩数はどれくらいの歩きになるのかを説明してみると、365日で割ると、毎日平均の歩数が1万3596歩となる。これを距離(km)に換算してみると、1歩の平均を70cmとして単純計算で9.517kmとなる。この数値の60%程度が実際の距離だと思うので、0.6を掛けると5.710kmとなる。実感として少なくともその程度は歩いていると思う。つまり、毎日の歩きの平均距離は、約5.7kmとなる。これに365日を掛けると2,084kmとなり、これが年間の歩きの合計距離となる。要するに次のような数値となる。

1日の歩きの平均距離は5.7km

1年間の歩きの合計距離は2,084km

ウサギと亀の話があるが、くるま旅の移動をウサギとすれば、年間の走行距離は2万kmほどだが、歩きを亀とすればその歩行距離は約2千kmとなり、決してバカに出来ない数だと思う。1日6kmの歩きは実感できるけど、1年で2千kmの歩きはなかなか実感できない。私にとっては、ウサギの走りも亀の歩きも今では人生の生きがいの一つとなってしまっているように思う。

歩きもまた旅だと思っている。旅の重要な要素だと思っている。歩きそのものの中にも旅の要素はたくさん詰まっているが、旅の中に歩きがたくさんあればあるほど旅の中身が豊かになるような気がする。一般的に人間の視覚や思考というのは、スピードに反比例して確実性が増すように思う。走っている人よりも歩いている人の方が道端に咲く花の美しさをより多く味わえるし、歩いている人よりも止まって虫眼鏡をかざして花を見る人の方が、花の美しさを超えた神秘さを窺い知ることが出来るようになるのだと思う。

パック旅行を批判するつもりなど全く無いが、有名地への観光旅行などの殆どは、走りながら虫眼鏡を当てて名所、名物を見ようとしているような感じがして、気の毒だなあと思うのである。走りながら虫眼鏡をかざしても、殆ど何も見えないのではないか。お仕着せの歩きが多いのだと思うし、歩きを楽しむ余裕などは殆ど組み込まれていないことが多いように思う。もっとも、だからこそ面白いのだというのであれば、実(まこと)に以ってお節介な見解となってしまうけど。

この頃は、時々いつまで歩けるのかなあ、と歩きの限界を考えることがある。とりあえずは80歳までは、少なくとも年間400万歩は確保したいと思っている。若いときに膝などをかなり虐(いじ)めているので、古傷がいつ痛み出すのかが心配だ。最近、1万5千歩を超えると踵(かかと)が痛くなり出して困ったことがあったが、今はそのトラブルは収まっている。多くの場合、体重を減らせばそのような問題は起き難(にく)くなるようだ。古希を迎えたら食生活を大幅に変えようと考えている。今でもベジタビリアン(菜食主義)指向なのだが、これをより徹底させて体重を60kg前後のレベルに持ってゆく考えでいる。あと5kgほどの減量である。そうすれば、80歳まで、毎日1万1千歩の歩きの維持が可能となるのではないかと考えている。

しかし、命あってのことであるから、80歳に届く前にPPK(ピン、ピン、コロリ)であの世へ行くことになれば、このような話は戯(たわ)けた夢話で終わってしまう。何はともあれ、PPKのためにも、歩きを楽しみ、続けたいと考えている。

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天才飯塚伊賀七を知る

2007-12-27 01:16:14 | 宵宵妄話

家内のフォークダンスの練習に合わせて、つくばの研究学園都市の中心街まで歩きに行くことが多いのだが、その途中の谷田部という所に「五角堂」という建物があり、ずっと気になっていた。道路が狭く、駐車場も見過ごしてしまうほど小さかったので、毎回通り過ごしてから、あれは何なのだろうと思うばかりだった。

先日ようやくそこを訪ねて、その建物が「飯塚伊賀七」という江戸の中期の人(1762年~1836年)が建てたのだということを知った。往時の谷田部は、細川家(肥後細川家の分家)1万6千300石の領地(栃木県茂木町の領地と合わせて)で、町の中心部にお城(といっても城郭ではなく陣屋)があったという。茂木の方が領地は広かったが、江戸に近いためにこちらに陣屋を設けて領主が住まわれていたという。2万石に満たない小さな大名だったが、細川幽齋の流れを汲む名家としてのプライドは高かったようだ。

その谷田部藩領の中で、飯塚伊賀七という人物は、城下町近くの村の名主をつとめる傍(かたわ)ら、数々の優れた発明をされた方だったという。五角堂も彼の作ったものであり、その中には和時計が収められていたらしい。らしいというのは、彼の亡くなった後、ずっと長い間放置されたままになっていたらしく、近年(昭和30年)になって、その部品などが再発見されたというから、不思議な話ではある。

その五角堂を覗いてみたが何も無かった。和時計は郷土資料館にあるというので、先日そこへ行き、残されていた部品と、その後田村竹男さんという方が、長い時間をかけて紛失していた部品を自ら補完製作して作り上げたという原寸大の複製品を見せて頂いたのだった。谷田部藩のことや伊賀七という方に関する知識の大半は、その時ご説明頂いた郷土資料館の館長さんから教えて頂いたものである。和時計の技術的なことについては、さっぱり判らないが、各種の歯車などその殆どは木工製品であり、往時これだけのものを考案し、作り上げるというのは、常人にはとても出来るものではないと思った。伊賀七という方は、数理の理論と実践に詳しい天才だったのだと思う。

伊賀七という方の発明には、和時計の他に現存するものとして「天元術用そろばん」「十間輪(測量の距離計測器)」「脱穀機」などがあり、そのほかに「酒買い人形(ロボット)」「飛行機(実験を禁止されたとか)」「自転車」などがあり、更に建築関係では、「五角堂」の他に「布施弁財天の鐘楼」(柏市布施・東海寺)などが現存している。館長さんは、谷田部のレオナルド・ダ・ビンチだとおっしゃっていた。但し、彼は絵の方はやらなかったらしい。その方面では、谷田部藩には、伊賀七の肖像画を描いた広瀬周度(ひろせしゅうたく)という方がいたらしい。

このような凄(すご)い方が居られたというのは、自分にとっては驚くべき発見である。まだ名前を知ったばかりで、その多才ぶりも作品の項目を知った程度であるから、本当の凄さは知らないのだが、これから少し調べてみたいなと思った。先日の間宮林蔵といい、この飯塚伊賀七という人物といい、そのまま聞き過ごしてしまうわけにはゆかない偉人である。

それで、その手始めに、今日、伊賀七が設計したという、千葉県柏市にある布施弁財天の鐘楼というのを見に行ったのである。布施弁財天は東海寺というお寺の本尊で、関東三大弁財天の一つだという。特段弁財天に興味関心があるわけではなく、伊賀七設計の鐘楼がどんなものかを見たかっただけである。東海寺は我が家からは、利根川の新大利根橋を渡って直ぐの、片道20分ほどの所にあった。

弁財天のお寺は派手な構えが多いような気がするが、このお寺もハデハデの賑やかな装飾の建物だった。弁天様というのは、女性でもあるし、芸能の神様でもあるというから、派手なのは当たり前なのだろう。しかし境内は大木に囲まれて落ち着きのあるイヤシロ地だった。その中に伊賀七設計の鐘楼があったが、それは今まで見たことも無い姿形をしていた。八角形の基壇の上に円形の縁(えん)があり、そこに十二角形の柱が立っており、その中に鐘が納まっていた。何とも不思議な形の建物である。八角、円、十二角という様に、造形の中に数理的な美の感覚が織り込まれているのが良く解る建物で、伊賀七という方の美意識が何となく分る感じがした。

建設時、これを造った大工の棟梁が、その中に鐘を吊るすために、どのようにして入れたらよいのかそれが解らず、伊賀七に問い合わせたというエピソードがあるとのことだが、それは一体どのような方法だったのだろうか。又、戦時中に金属の供出でここの鐘も犠牲になったのだが、その時は出し方が分らず、鐘を小さく刻んで窓から出したという。現在は新しい鐘が収められているけど、これは一体どのようにして問題を解決したのだろうか。なかなか面白い疑問である。

伊賀七という方は、「からくり伊賀七」とも呼ばれたそうだが、飛騨の匠によるからくり人形は有名だが、(からくりというのは、糸の仕掛けで動かすという意味と計略・たくらみという意味があると広辞苑にあったが)伊賀七さんのからくりは、飛騨のそれを超えた、遙かに大きな構想、発想に基づいているように思う。飢饉で力を出せない百姓衆のために脱穀機まで考案したというし、彼の作った十間輪を使っての測量地図は、現在の地図と寸分も違っていないほど精巧なものだ。自転車もロボットも全て単なる遊びではなく、実用につながっているところが凄いと思うのである。

鐘楼を見ながら、この鐘楼から発する鐘の音()を聴いてみたいなと思った。此処からだと、利根川を渡って、先日訪ねた間宮林蔵の生家あたりまで、この鐘の音が届くかもしれない。間宮林蔵より20才ほど年長だった、同時代に生きたこの偉人を知ることが出来て、嬉しいと思った。直ぐ近くに2人もの偉人の縁(ゆかり)の地があることを知って、守谷に住んだことに感謝したい。この後も近所を歩き回って、新しい人物や史跡など見出し、学んでゆきたいと思っている。

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閑話も忙しい

2007-12-26 05:25:43 | 宵宵妄話

この頃は、どうやってブログを休もうかと考えている。妙な、変な話だけど、どうやって学校や会社を休もうかを考えるのに似ているのである。旅をしていない時は、どうしても話材が不足してしまう。できる限り旅に絡めた話題を取り上げようとするのだが、限界がある。そして、もう既に限界に来ているのは明らかだ。

ブログを休もうと思ったら、さっさと休めばよいだけの話なのだが、毎日のアクセスポイント数などを見ていると、予想以上の方が読んでくださっているのだというのが判り、休めば何だか裏切り行為をしているような感じになり、なかなか思い切りがつかないのである。思い切って休む時もあるのだが、その日のアクセス数をみると、これがあまり下がっていない。3日も休めば、諦めて頂けるとは思うのだが、そんな思い上がりの気持ちを持ったら、今度は見捨てられるに違いないと不安になったりするのである。

それで、旅をしていない時は、閑話すなわち旅とは無関係なちょっとした思いつきのテーマが増えることになる。ところが思いつきというのは、そうそういつも簡単に浮かんでくるものではなく、何(なん)にも思いつかないことが結構多い。書くことについてはそれほど悩まないのだが、テーマが無いというのは最大の悩みなのだ。無理してこじつければ、読む方たちが不自然さを感ずるのは明らかだ。若い世代の方のように、日常会話そのものを絵文字や擬似記号のような文章で綴る気には全くなれないので、多少の体裁などを考えると、真に困惑するのである。

このブログも来年2月には開始1周年を迎えることになる。よくもまあ飽きずに続けてきたものだと思ったりもするけど、今は書くという修行をしているのだという自覚がある。それで、原則として写真なしのスタイルを続けてきたのだが、そろそろ無料ブログを卒業して、写真を取り込んだスタイルの書き方にレベルアップしなければならないかな、と思っている。

又、くるま旅くらしだけにこだわることから抜け出して、もう少しフリーになってもいいのかなと思っている。旅というテーマはゆるがせないけど、歩きや近場の旅なども、もっと積極的に旅の範疇(はんちゅう)に取り込んで、人生の総合的な旅として捉(とら)えてゆきたいとも思っている。

年末になって、今年1年の振り返りをしなければならないのかなと、昨日辺りから少しずつそれを始めているが、最近はブログ中毒症とも言える症状を来たしているので、先ずはそのことを反省の第一番目に置こうと考えた次第である。閑話というのは、本当はこのような愚痴めいた話のことを言うのかもしれない。

追記:先日(12/23)の「旅は人を元気にする」の最後に、和田さんご夫妻のNHK出演の話を書きましたが、その詳しい内容は、次の通りです。ぜひお聴きください

放送番組名:NHKわくわくラジオ(滝島キャスター)

放送日時:1月4日(金)11:00頃から10分間ほど

内容:滝島キャスター(女性)とノンフィクション作家加藤仁さんとの話の中で、電話にて松山から生出演とのこと

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クリスマスと初詣

2007-12-25 04:31:03 | 宵宵妄話

昨日はクリスマスイブ、そして今日はクリスマスだ。クリスマスというのは、キリストの誕生日を祝うお祭りのことを言うのだということは知っていたが、念のため広辞苑を引いたら、「元は太陽の新生を祝う『冬至の祭』がキリスト教化されたもの」、とあった。してみると、キリスト教というのは、元々は太陽信仰から来ているのかな、などと単純に思ったりした。キリストがお天道様になり代わったのだ、などというと、敬虔(けいけん)なクリスチャンからは非難・軽蔑されることは必至だ。

しかし今日(きょうび)のこの降誕祭に絡む世の中の狂気は、本物のクリスチャンにとってはどのように映るのだろうか? 俄かに出現したサンタクロースが、ビルの外壁の拭き掃除までもこなしたり、一夜だけのもみの木に過度の電飾を灯し、手に手にケーキなどを持った人々が街に溢れる、この日本という国の様子は賞賛に値するものなのだろうか。一時的ではあれ、キリスト教の信者のごとくの振る舞いは、クリスチャンにとって歓迎される風景なのであろうか。

私は日本のクリスマスの本質には、キリスト教という信教は殆ど無関係だと思っている。コマーシャリズムの煽動に乗って、楽しめることは何でも楽しんじゃおう、というこの国の人の軽い遊び心のなせる業のような気がする。キリストさんなどは、ついででいいのである。いや、ついでにもならない存在に違いない。それがお釈迦様でもアラーでも何でもいいのかも知れない。

この国の人々の節操の無さを批判するつもりは無いけど、賞賛するつもりも無い。生きている時間をどのように楽しむかは、他人に迷惑をかけない限りは、その人の自由であり、勝手であって良いからだ。コマーシャリズムの尻馬に乗っていようといまいと大きなお世話だ、というべきかも知れない。

我が家は今年も何も無い。孫でも同居していれば、他所(よそ)様と同じようにケーキなどを買い、ついでにワインなども買ってくるのかもしれない。やっぱり同じように不節操な思いのひと時を知らん振りしながら送るのであろう。キリストが神としてこの世にお生まれになったことを喜び、感謝するなどということは一切抜きにして、久しぶりのワインの味だけを楽しむに違いない。

今の世には、この種の世過(よす)ぎが溢れている。バレンタインデーもマシュマロデーもハロウィンもその本質は皆同じであろう。これらは皆国際化、グローバル化という奴の恵みなのだろうか。どうも良く分らない。何だかある種の危険性のようなものを感ずるのだが、それは国粋主義者的な精神の傾向をもつ自分だけの過剰反応なのだろうか。自分自身もそのような楽しみのイベントに結構巻き込まれながらも、このような輸入品尽くめのような新しい日本の文化が出来上がってゆくのを、本当にこれで良いのかと、時々大いなる疑念に駆られるのである。

間もなく初詣のイベントがやってくる。これもクリスマスと同じようなものなのであろうか。一体初詣とは何なのだろうか。本当のところ不可解なのだが、やっぱりクリスマスとは、その本質が違うような気がする。日本的だと思う。神が何であれ、この国の中で、千年を超える回数の初詣が続けられてきたことには、この国に住んできた人々の本物の祈りがあるように思えるのである。

この意味では、クリスマスは、敬虔なクリスチャンの国では、初詣と同じようにそこには本物の祈りがあるに違いない。クリスチャンの人たちは、護符や破魔矢などを買ったりして、日本の初詣の真似をはしゃいでするようなことは決してしないであろう。それなのに日本人はといえばクリスマスにはひと欠片(かけら)の祈りを奉げることもなく、手に入る物理的な楽しさばかりを貪(むさぼ)っているのである。これで良いのかと、自己嫌悪に陥りながら、やっぱり疑念を感じざるを得ないのである。

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全国高校駅伝に思う

2007-12-24 07:25:15 | 宵宵妄話

今日は久しぶりというよりも、最近では珍しいことなのだが、全国高校駅伝競走の中継を、男女とも最初から最後までTV観戦した。都大路を若者たちが走るのを見るのは、気持ちの良いもので、何だか自分までもが若返る気分になるのである。駅伝というのは、日本固有のものらしいが、個人と団体の組み合わせで成り立つ、優れた競技ではないかと思っている。

走るのが結構好きだった。だったというのは、40代の前半に走り過ぎて膝を傷め、溜まった水を抜いたりして、回復に2年近くかかり、それ以降は走るのが怖くなって諦め、専ら歩くことに努めている。しかし、本当は走りたい気持ちがまだかなり残っている。

こう見えても(といってもその正体をご存知でない方が殆どだと思うが)私は、所属したクラブは体育系なのである。中学から始めたバスケットボールは、高校、大学と続け、就職後も新入社員たちなどと30歳過ぎまで一緒に遊んだりしていたのだった。大して強いクラブではなかったが、高校、大学と一応はレギュラーの端くれだった。あまり背が高くないので、戦力としては使いにくかったのではないかと思う。バスケットボールというのは、走る格闘技であって、シュートなどの裏では結構厳しい駆け引きや競り合いなどが潜んでいるのである。

バスケットボールの走りは、ボールの動きに合わせて全くの混迷の織りなす走りなので、走りに集中するというのは殆ど不可能である。そのようなこともあって、長距離走というのは、結構楽でいいなあとずっと思っていた。息を整えながら自分のペースで走れるというのは楽しいものである。

私の出身の高校は、最近3、4年前だったか、「夜のピクニック」という小説と映画で少し話題となった学校である。最近はそれがどのような形で行われているのか良く分らないけど、我々の入学した昭和31年頃は、ピクニックどころの話ではなく、県外から学校のある水戸城址まで歩くコースが3つあって、一つは栃木県の小山から、あと二つは福島県の勿来と矢祭山から、40kmほどを夜を徹してクラスごとに幟などを立てて歩き、早暁時に今度は20kmほどを個人のマラソン競技として走るという荒っぽいものだった。

多くのクラスメイトは、40kmの歩きの中で足に肉刺(まめ)を作り、マラソンなど出来るはずもなく最初の3、4kmを辛うじて走った辺りから歩き始めて、ふうふう言いながら校門に辿り着くのだった。正午までに到着しないと、順番外となってしまうのである。

高校時代の私の唯一つの取り得といえば、そのマラソン競技で上位入賞を果たしたことくらいなのである。1年生の時は10位、2年は途中で中止になり、3年の時は16位だったかと思う。全学年1,300名近くの在籍者がいたのだから、20位以内に入れば上等といってよいと思う。少し走る距離が長ければもっと上位に入る自信があった。バスケをやっているくせに短距離は遅くてダメなのだが、長距離になると、何故か走ってもあまり疲れないのである。

そのようなこともあって、30代を過ぎてからも休日の日などに20kmくらいを走るのはごく当たり前の愉しみだった。私の走り方は、走り出したら家に着くまで決して休まないというのを心がけていた。どんなにスピードを落としても停まらないのである。一旦休んで歩いてしまうと気が抜けてしまい、走るのがつまらなくなるのである。それは現在の歩きにもつながっており、歩き出すとゴールに着くまでは殆ど休まない。しかし、この頃はそのようなことにこだわらなくても良いのではないかと思うようになった。

何だか駅伝とは違う話になってしまった。戻すとしよう。今年は女子は立命館宇治、男子は仙台育育英が優勝を果たした。それぞれ厳しい練習の成果が出たのだと思う。大いに賞賛のエールを送りたい。彼らの走りを見ていて感ずるのは、1位と47位の差が何処から、何故生まれるのだろうかということだ。素質や練習の仕方、指導者の優劣などがあるのかもしれない。画面を見ていると、概して下位チームの人の走りの方が苦しそうである。上位チームの人たちの走る表情には、左程の苦しさは伺えない。

これを見ていて思うのは、全てのチームが県の代表校とはいえ、練習への取り組みには各校に大きな差があるのではないかということだ。弱いチームはやることをやっていない所が多い。練習で笑って本番で泣いてというコメントがあるが、そのようなことを言うつもりはないけど、上位チームは恐らく練習で存分に苦しみ、泣いて来ているのではないかと思う。

全国大会という視点では、下位チームの練習不足は否めないのではないかと思ったのである。素質などというものには、それほど大差ないはずだから、結果を出すのはどれだけチームが一丸となって練習に励んだかという以外に大した理由などないように思う。また、駅伝にはアクシデントというのがあるが、今回走っているのを見ている限りでは、タスキを渡す直前で足が攣()ってしまった女子選手がいて、ほんとに可哀相だなと思ったが、それ以外は大して事件はなかったように思う。TVに映らない世界では、脇腹が痛くなったりなどのアクシデントもあったのだとは思うが、その殆どは練習不足と休養不足のどちらかだと思う。試合に向けてのコンディション調整が上手く行かないというのは、練習不足以外の何ものでもないというのが私の見解である。やることをやらないで、やったつもりになることほど危ないことはない。

駅伝は、人生のレースそのものである。一人ひとりの力が最大限発揮されて、チーム(組織)全体の成果が出せるのである。今日の駅伝に参加した多くの若者たちは、その意味をちゃんと理解してくれていると思うが、今日のいざという本番で力を発揮できなかったという反省がある場合には、練習不足と自分の甘えに対して厳しく対峙して欲しいなと思ったのだった。選ばれた者の責任というのはそれほどに厳しいのだということを知って欲しいなと思った。

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旅は人を元気にする

2007-12-23 09:39:54 | くるま旅くらしの話

昨日、愛媛県は松山市在住のWさんご夫妻から名産のみかんなどをお贈りいただいた。その中には、お二人からのお手紙に添えて、ご夫妻のことが取り上げられている記事の掲載されている月刊雑誌「現代」が入っていた。更に、奥様のお心遣いなのか、みかんに混ざって丁度食べごろのあたご柿の干し柿が数個入っていた。そこいら辺のみかんの箱を送って頂いたのではなく、真に手作りのお心の籠もったプレゼントであった。嬉しいプレゼントであった。

Wさんご夫妻とは、今夏、北海道の別海町でご一緒したのだった。別海町の中心市街地区にある、ふれあいキャンプ場は、私たち夫婦の北海道における最も気に入りのキャンプ場で、毎年長期滞在をする場所の一つでもある。Wさんはそこの利用者の最長老でもある。キャンプ場が出来て20年近くなるようだけど、この間に管理人さんは3度代わったらしいが、Wさんはその3人全てを良くご存知とのこと。キャンプ場の経営者も町の関係者との親交のパイプも太く、キャンプ場滞在時は新聞を届けてくれる有志の方がいらっしゃるのである。

別海町のふれあいキャンプ場では、恐らく日本のキャンプ場の中では唯一此処だけだと思うけど、毎年8月20日の夕刻に、その日此処に滞在のキャンパーによる一大パーティが開催される。勿論キャンプ場のご好意や町の関係者のご支援を得ての話だが、このようなキャンパー主催の野外パーティが開かれるキャンプ場を私は他に知らない。キャンパーは道外、道内からの様々な人たちなのである。このお祭りを運営するきっかけを作られたのがWさんであり、Wさんはその集まりの初代会長さんでもあった。そのようなお話を、始めてこのパーティに参加させた頂いた数年前に、他の方から伺ったことがある。

そのWさんと親しくお話をさせて頂いたのは、今年が初めてだった。今年は、私どもも別海での長期滞在をもくろんで8月初めにふれあいキャンプ場を訪れたのだったが、その時にはもうWさんは1ヶ月も前からお出でになっておられ、キャンプ場のいつもの位置に車を留められ、タープを張って北国の夏の生活を楽しんでいらっしゃった。そのお暮らしぶりについては、このブログでも紹介させて頂いた(9月23日:男の美学)が、私は本当にその姿に胸を打たれたのだった。

昨日同封されていた「現代」(2008年1月号)の記事は、加藤仁というノンフィクション作家の方がお書きになっているシリーズもののようで、「入門『大人旅』」というタイトルで、その第2話は「喧嘩も楽し『夫婦旅』」というものであった。このお話の中の3番目あたりにWさんご夫妻のことが簡潔に紹介されていた。凡そは直接Wさんから伺った内容だったが、ご存知上げていなかったことも分って、Wさんご夫妻を知る上で参考になった。

Wさんの生き方については、男の美学の時にも書かせて頂いたが、私の旅に対する一つの信念として、「旅は人を元気にする」というのがあるが、Wさんご夫妻はその体現者であり実践者だと思う。そもそものくるま旅のきっかけが、奥様が体調を崩されたことから始まっているとのこと。奥さん孝行のために56歳で早期退職をされ、それ以来マイカー、ワゴン車の手作りキャンピングカー、そしてキャブコンと乗り継いで、全国にまたがるくるま旅を奥さんと共に続けて来ておられ、それがもう20年以上続いているのである。

70歳の時に、胃にポリープがあるのを検査入院で発見された時に、「もはやこれまで、…」と考え、「心残りがあるのは、本物のキャンピングカーに乗らずして、あの世へ逝くこと」と思われたとのこと。そして退院されると、直ぐにキャブコン購入の手配をされたのだった、と記事に書かれていた。この決断こそが大切なのだと私は思っている。多くの人はこの決断が出来ずに、更なる病院通いをしながら朽ち果ててしまうのではないか。Wさんは、この決断によって生きるという力をより一層強められたのではないかと信じて疑わない。

さらに加藤さんの記事の中で、「行くか」「行きたい」という見出しの箇所があるが、この夫婦間の会話の背景は、何と奥様が骨粗しょう症で脊髄の圧迫骨折で入院して3ヵ月後に、猛暑に見舞われた松山から、北海道へ抜け出す相談の会話なのである。医師に内緒でフェリーの予約をしてお盆が過ぎる頃別海町へ向かい、そこで2ヶ月を過ごされたとのこと。驚くばかりの勇気と信念である。

そして昨年は、今度はご主人が病魔に魅入られ、春先に7時間に及ぶ前立腺がんの手術を受けることになったのだが、尿漏れが完治しないまま迎えた夏に、「このままアウトドア生活とおさらばすると、すぐにあの世からのお迎えが来る気がしてならない。だったら行くべきだと思いましてね」と、何とこれまた北海道へ渡り3ヶ月もの暮らしを実行されたのだった。

今年は「自分たちの病の進行を止めるには出かけるのがいい。松山におっても暑くて、ボケていく」と、2ヵ月半を北海道で過ごされたのだった。この時に私たちはご一緒できたわけである。

これらの一連の暮らし方を、老人の我がままなどとコメントする輩は、人間が何かを知らない、首から上だけで生きている人だと思う。人は生きるためには何らかの励みとなるもの、生きがいとなるものが不可欠だ。それを無くしたとき、人は急速に人であることを失ってゆくように思う。人が人であるためには、活き活きと生きることが大切だと思っている。人は、いずれはあの世へと旅立たなければならないが、あの世とこの世のけじめは、PPK(ピンピンコロリ)といきたいものである。生ける屍のような生き方は最も避けたいものである。

話は少し暗い方に傾き、Wさんには大変失礼な話となったが、この加藤さんのお書きになった「大人旅」「夫婦旅」の中にWさんご夫妻が取り上げられたのは、真に正鵠を射たものであり、嬉しい。大人であっても子供以下の旅しか出来ない、或いはその旅すらも出来ない夫婦は無数におられる。経済的な理由からできないという方もおられるのだから、思い上がって旅の必要性をことさらに強調するつもりはないが、私は「旅は人を元気にする」という意味で、リタイア後の世代が、残された人生を活き活きと過ごすためにも、是非とも検討に値するテーマだと思っている。

松山在住のWさんとは、和田憲二郎、静のご夫妻である。くるま旅の大先達として、生き方の名人としてこれからもいろいろと教えを乞うてゆきたい。

(尚、和田さんは、来る1月4日()10:0011:00に放映予定のNHK番組に、お声だけだとかですが、生放送で出演予定とのことです。是非ともお聞き頂きたいと思います)

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眠り薬

2007-12-22 03:02:18 | 宵宵妄話

私の眠り薬といえば、それは本を読むということである。この習慣は、就職してしばらく経って、個室で過ごせる生活が始まった頃からずっと続いている。疲れて、眠り薬など無用な時期も多かったが、この頃は概して毎日が暇なので、午睡の時も夜寝の時も、枕元に本は欠かせない。眠れなくて本物の薬を飲む人も結構多いようだが、そのような方は真にお気の毒だと思う。

眠り薬としての本は、どのような領域のものでも構わないのだが、襟を正して読まなければならないようなものは、これは別である。私の本に対する姿勢は、領域を問わずの乱読であり、普段は速読を心がけているが、寝る時にはそのようなことは忘れて、好きな箇所を好きなように時間をかけて読むようになった。それは当たり前のことかも知れないが、実に楽しいのである。

生涯に読める可能性のある本の大半は、もう揃っていると思っている。本棚には、まだ読まない本がたくさん並べられている。恐らく死ぬまでかかっても読みきれないに違いない。30年経っても、一度も開いたことがない本(全集に多いのだが)は、恐らくこれからも開かないのだと思うが、それでも本に囲まれていると何故か安心するのである。

眠り薬となる本の大半は、時代小説などの読み物である。好きな作家もたくさんあるけど、特に好きな人を敢えて5人挙げるとすれば、池波正太郎、藤沢周平、山本周五郎、平岩弓枝、澤田ふじ子となるだろうか。この他推理小説などもファンだから、結構忙しい。歴史や宗教、天文・宇宙、地学などにも関心があるし、その時々で飛び火ばかりしているので、何を読むのか落ち着かないのが実態だ。

本はいつも新しいものばかり読むかといえば、この頃はその傾向は急速に衰えて、再読、再々読というのが多くなった。先のブログに、毎年1回は必ず読むシリーズが幾つかあって、「鬼平犯科帳」のことを書いたが、この他にもたとえば、平岩弓枝の「御宿かわせみ」や澤田ふじ子の「公事宿事件書留帳」などは欠かせない。

今読んでいるのは池波正太郎の「剣客商売」である。池波先生の本は、シリーズものが多く、話がつながり、まとまっているので、読むのが楽しい。「仕掛け人・藤枝梅安」シリーズなどは、表紙がすり切れるほど何度も読んでいるが、読む度に益々面白さが増す。池波先生の大ファンであり、先生が70歳代にして亡くなられたのを真に残念に思っている。

剣客商売は、実に面白い本である。秋山小兵衛という剣術遣いを中心に、その周辺に起こる出来事を書いたものだが、道場を閉じた、今流に言えばリタイアした後の、融通無碍(ゆうずうむげ)の自由な境地での暮らしぶりが、実に巧みに述べられているのである。これは池波先生ご自身の心境を、秋山小兵衛という人物を通して語っておられるように思うのだ。書き手ご自身が一番楽しみながら、物語を書いておられるように思う。

古希に一歩近づいて、この頃は、このような書き方が出来るようになりたいものだと思ったりしている。このような物語は、若い人には決して書けないのではないか。40歳も年下の女性を嫁にしての自由自在の暮らしぶりは、呆れ返るよりも真にもって羨ましく思えるのである。女性陣には不評かもしれないけど、男ならば、出来ない現実を飛び越えて、小兵衛さんのような暮らしをしてみたいと考えるのはごく普通ではないかと思う。

眠りに就いた後の夢の中で、我も秋山小兵衛に成り代って、主役で登場できればいいなと思ったりするのだが、それが実現した例(ためし)はない。それどころか、この頃は夢さえも殆ど見なくなった。目覚めれば、隣人に鼾(いびき)がうるさかったと非難されるばかりである。夢と現実の差がこれほど大きいのが現実なのである。

私の眠り薬は、今までは旅に出ると午睡が出来る時以外は殆ど使えなかった。夜になると電源の確保に不安を感ずるからだった。それが、ソーラーを取り付けた事で、どうやら大丈夫となったようである。これからは、旅先でも中毒するくらいその薬を多用して楽しみたいと思っている。

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間宮林蔵を讃える

2007-12-21 02:17:25 | くるま旅くらしの話

間宮林蔵といえば、かの間宮海峡の発見者というか、確認者であり、世界に名を馳せた探検家でもある。その方が、我が守谷の隣町伊奈(今はつくばみらい市)の出身であることを知っている人は少ない。斯くいう自分も、3年前守谷に越して来て初めて知ったのだった。そのお人の記念館とお墓が、自転車で行ける距離にあり、越して間もない頃、一度訪ねたことがある。

今日は、旅車のLPガスのボンベの検査が終了したので、取手までそれを取りに行った帰り道に、思いついてその記念館に立ち寄ったのだった。ついでにチョッと紹介するのだが、私がLPガスを入れて貰っている取手(といっても元の藤代町)のLPガススタンドは、日本一善良なお店だと思っている。5kgで千円+消費税で入れてくれるし、残量があればその分を差し引いての料金にしてくれるのである。ボンベの検査料も3千円に満たない。我が家からは少し遠いけど、このようなお店があることをありがたくも嬉しく思っている。このお店を知って以来、東京や北海道のボッタくりぶりが際立っている感じがするのである。

間宮林蔵の生家は、近くを小貝川が流れる傍にあり、記念館もその近くに建てられ、構内には彼の生家が移築されている。この辺りは、関東平野の真っ只中で、広大な平地が筑波山の彼方まで広がっている。山などは全くない。今でもわが国の中では、恵まれた穀倉地帯であり、野菜などの産地であるといってよいと思う。

間宮林蔵という方は、この地で1,780年に農家の一人息子として生まれた。幼少から神童と呼ばれる人であったという。16歳の時に、村の河川工事での進言が取り上げられ、その時に幕府の役人に見出されて江戸に出ることとなったという。その後の詳しい履歴について、ここに述べるわけにはゆかないけど、縁あって蝦夷地の測量に係わるようになり、かの有名な伊能忠敬とは21歳の時に師弟の約を結んだという。伊能忠敬が為しえなかった蝦夷地の測量を引き継いで果たしたのが間宮林蔵であり、その最大の成果が、カラフトが島であることを確認したという、すなわち間宮海峡の発見だった。

江戸時代も200年の泰平が続き、日本近海に何かと外国の手が伸びだして、国防上の様々な不安や脅威を、知る人は知っていたに違いない。鎖国などと一方的な国政のあり方を決めたとて、力ある外国が攻めてくれば、負ければ属国や植民地となるのは明らかなことだからである。間宮林蔵は、そのような時代に生まれ、国のために身を挺して蝦夷地の測量、偵察を行ったのである。

私は、彼のその使命感というか責任感というか凄まじい探究心のエネルギーに圧倒されるのである。頭が良いだけでは、このような偉業は到底成し遂げられるものではない。知恵の塊を持った真の勇気ある人物だったに違いない。

というのも、往時の蝦夷といえば、これはもう北海道もカラフトも皆アイヌの国であり、今のような開発された状況では全くない、想像もできないほどの原生林に埋め尽くされた土地であったと思う。測量は海岸沿い中心だったのだとは思うが、平坦な砂浜ばかりが続いているのではない。切り立った崖や浜辺まで草木が押し寄せて生えているような場所が多かったのではないか。何しろ北国の植物は図体がでかいのだ。内地で見るイタドリはせいぜい大きくても2mくらいの高さだが、北海道のそれは倍以上もあるのが普通なのだ。それに原生林というのは、全くの自然状態なのだから、100m進むのに1日がかりというような場所も多かったに違いない。今のようなテントやシュラフがあったわけではない。頼みとする舟だって、数人乗るのがやっとの小舟なのである。現代人がそのような状況で、測量探査などという任務を命ぜられたら、測量の前に生き続けることさえ難しいのではないのかと思う。それなのに、間宮林蔵という人は、アイヌの人たちの協力を取り付けながら、幾多の困難と闘いながら、克明に測量の記録を書き続けたのである。

今年も北海道に行き、宗谷を訪れたが、最北端の岬に彼の北方樺太を望む銅像を見たときは、今までにない感動を覚えたのだった。あの身分制度の徹底していた時代に、守谷近くの百姓の倅だった男が、弱冠29歳の時に此処から小舟に乗って船出し、後世此処に銅像が建つほどの大偉業を成し遂げたということに、今更ながら敬服するのである。

探検や冒険というのは、旅の本質につながっていると思う。マッキンリーで消息を絶った植村直巳さんだって、大きな旅をされていたのだと思う。それが命にかかわる厳しいことであれ、無上の幸福感に満たされるものであれ、未知の何かとの出会いに期待して人は旅に出かけるのだ。

私の提唱するくるま旅くらしは、それほど激しいものでは全くないけど、やっぱり何がしかの冒険心や探検心をどこかに秘めているように思う。リタイア後の世代は大志ではなく、小志で良いのではないかというのが持論だが、志は不可欠だと思うし、その中には幾許(いくばく)かの冒険心や探究心が潜んでいるのだと思っている。

間宮林蔵という偉大な人の功績に触れて、改めて旅への思いを巡らしたのだった。

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鬼平犯科帳のこと

2007-12-20 07:05:35 | 宵宵妄話

 今日の新聞を読んでいたら、先日来防衛省の贈収賄事件で贈賄側の主役だった人が、塀の中で取り調べの時間以外は、差し入れされた「鬼平犯科帳」を読んでいるという記事があった。別に、あ、そうと思えばそれだけの話なのだが、池波正太郎先生の作品に特別の思いを寄せている自分としては、何だか少し気になるのである。

 鬼平犯科帳は、毎年1回は繰り返し全巻を読んでいる。それが、もう10年以上続いている。江戸時代の凶悪犯の犯罪捜査に係わった、加役の長谷川平蔵を中心とするいわば捕物帖とも言うべき物語集なのだが、池波先生の文章、文体は往時の江戸庶民の心情を飛び越えて、現代の我々にもたくさんの教訓、示唆を与えて下さっていると思うのである。

 池波先生の作品では、正義と悪との関係を人間の心根の原点に立って描いているものが多い。悪の世界にも正義があり、正義の中にも悪が潜んでいる。それらのことを実に明快に浮き上がらせて登場人物に語らせているのである。歯切れの良い文章には、江戸っ子そのもの粋が一杯詰まっている。何度読んでも、益々その魅力にとらわれてしまう。

 何回も読んでいるので、おおよそのストーリーも登場人物も殆ど判っており、結末がどうなるかも承知しているのだが、それでも読みたくなり、同じ所を読めば同じように涙したりしているのである。これぞ本物の小説といえるのではないか。ノーベル賞を貰った人の書かれるややこしい文章よりも、自分には池波先生のような、人間の正邪入り乱れたぎりぎりの生き様を描いた話の方が遙かにわかりやすく、本物のような気がする。コメントの視点が多少ズレているのは承知しているけれど、真理というのは解り易さと大いに関係があるのではないか。

 鬼平犯科帳だが、この物語集における長谷川平蔵の断罪のあり方は明快だ。法で裁けないものは、世の中の正邪判断の物差しに照らして、己の判断で処断している。読んでいる人は自分が平蔵さんに成り代った気分になってそれを支持しているのではないか。支持できない人はこの本を読めないし、庶民の心根というものを掴み、知ることも出来ないだろう。

 しかし、このような断罪のあり方は現代では不可能だ。オーム真理教のようなとんでもない邪悪な教祖の行為に対しても、無駄な時間と税金をかけて、もう判っている筈の結論を出せずにいる。また、何の係わりもない他人を、己の欲望や狂気のために殺したとしても、殺された者よりも生きている殺人者を保護するかのごとくにダラダラと時間をかけて結論を出せないでいるのだから、殺された側の思いは如何ばかりかと思うのだ。殺人者は即刻死刑にせよ、というほど乱暴なことは言わないけど、殺人者を保護するような甘ったるいやり方は何とかならないものなのか。こんな調子で世の中が移行してゆけば、人の世は再びカオスの中に没落してゆくに違いない。

 ところで、言いたいのは何かといえば、彼の塀の中のお人は、一体どのような気持ちで鬼平犯科帳を読んでおられるのかということである。加役の出番は火事や凶悪犯罪なのだから、贈収賄とは無関係だとは言えるかもしれないけど、犯罪という本質に変わりはない。とすれば、自分を忘れ果てない限りは、読みにくいのではないかと思ったのである。まさか鬼平になったつもりで読むなどということはないと思うけど。

ま、余計なお世話の話だということは承知しているけど、この本をどのような読み方をするのかについては、大いなる関心を持ったのだった。願わくは、興味本位に読まれることなく、作者の本当の心情に触れながら、深い反省の念を持って読んで頂きたいと思った次第である。

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