山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

置き去りか居座りか

2015-04-29 02:28:01 | 宵宵妄話

私の歩きは、早朝の日の出少し前に家を出るようにしていますので、冬期は6時過ぎ頃、夏期は4時半くらいが普通で、季節の移り変わりに合わせて出発の時刻も早くなったり遅くなったりしています。4月下旬の今ごろは、5時頃の出発となります。なぜ早朝かといえば、何よりも空気が落ち着いていて静かですし、邪魔が少ないからです。何しろ昼夜逆転の暮らしが身について以来、早起きという観念が無くなっており、物書きにつかれた時などは、歩きの時刻が来るのが待ち遠しいのです。

毎朝歩いていると季節の変化と一緒に様々な小鳥たちの鳴き声が耳に届いてきます。耳に届くのは鳥たちの鳴き声だけではなく、虫たちや風の音など様々ですが、やはり生きものが発するのが一番季節感があり、その中でもとりわけて小鳥たちの鳴き声が季節の微妙な変化を伝えてくれるような気がします。 

今ごろの季節は、小鳥たちのさえずりの一番賑やかな時で、どの鳥たちも精一杯の生命のさえずりを放っているようです。先ずこの地区で一番のものといえば、守谷市の市の鳥に指定されているコジュケイの「コッチャコイ」というやかましい鳴き声、それに地方訛りのウグイスたちの「ホケキョケ?」や「ホー、ゴインキョ」、或いはシジュウカラたちの張り上げる「ツッピー」の声の大きさ、などとなります。

勿論この他にもスズメやヒヨドリたちのいつもの賑やかさも届いてきますし、ツグミやムクドリ、或いは雉たちの一声の警戒心の表現も健在です。寝ぼけトーンのキジバトも随所で鳴いていますし、聞きたくも無いカラスの破壊的な大声も姦しく届きます。

それら様々な鳥たちの鳴き声を聴きながら歩いていると、ふと気付くことがあります。鳥たちの渡りや移動などの生態についての疑問です。沼地や川に見られた鴨やコハクチョウたちは、北の方を目指して既に飛び去って見られなくなっていますが、留鳥ではない筈の鳥たちが残っていたり、群れで暮らす筈の鳥がはぐれていたりするのを見かけるのです。この鳥たちは置き去りにされたのか?それとも自ら居残り、居座ったのか?という疑問です。

ヒヨドリやムクドリなどは渡りをするものと留鳥の両タイプがあるようなので、残っているとすれば留鳥の方なのでしょう。この頃はこの留鳥がかなり増えて来ている感じがします。ムクドリはあまり見かけませんが、ヒヨドリたちは時々庭へ押しかけて来て、せっかく咲き始めたブルーベリーやナツハゼの花を啄ばんだりしてしまいますので、大迷惑です。今年は既に防鳥ネットを設えて彼らの悪行(?)に備えることにしています。

この頃は渡り専門である筈のツグミが残っているのを見かけて、これはどういうことなのだろう?と首をかしげることがあります。それで、置き去りか?それとも居座りか?と思うわけです。置き去りというのは、勿論仲間からはぐれ外されて、気づかぬままに渡りのタイミングを失してしまったということであり、居座りの方は自ら仲間を離れて渡りを止めてしまったものをいうわけですが、私の思うところでは、後者の居座りの方が多いような気がします。簡単に言えば、渡りなどという危険で辛い移動の仕事はしたくも無いということになるのでしょう。毎年命懸けでそのような面倒なことをしなくても、暑さを何とか凌げば、ここに留まっていた方が餌も豊富に手に入れることができるし、ずーっと楽なのだから、ということなのでしょうか。

そもそも鳥たちが何故渡りをするのかということが、私には不可解なことですが、単に寒暑の問題だけではなく、餌の調達や繁殖のための環境など、その鳥たちにとっての大切な要件があるからなのだと思うのですが、それらを放棄してしまうというのはどういうことなのでしょうか。鳥たちも又安全で楽な道を常に求めているということなのでしょうか。疑問は増すばかりです。

それで、ふと思うのは、もしかしたら彼らは人間の真似をしているのではないか?という疑問です。というのも、人間ほど楽を求める動物はいないと思うからです。「最少のコストで最大の効果を」というのは、企業経営の常識であり、その発想は人々の普段の暮らしの中にもかなり浸み込んでいるように思います。簡便法はないか、楽して得する方はないか、を求めて人々は苦労を重ねている、といった皮肉が当てはまるのが今の世の中の有り様のような気がするのです。

ま、過去のどんな時代であれ、楽して得することを求めない暮らしなどあったためしがない、とは思うのですが、今の時代ほどひどくはなかったように思えるのです。人間は一動物であることを忘れてしまって、身体を動かすことさえ面倒などと横着し、体調が不良になるのを感ずると、簡便法のサプリメントなどを追い求め、基本的な大切なもの・ことを失ってしまっている感じがするのです。特に若い世代ほどその傾向は強いようで、食生活などは簡便法が蔓延しているようです。少しでも早くその危険性に気づいて欲しいものです。

さて、元に戻って渡り性の鳥たちですが、置き去りにされたものはともかくとして、居座って居残ったものたちには、楽して得することの危険を、この夏を通してしっかりと味わって貰いたいと思います。長い時間をかけて自分たちの先祖が培ってきた生きるための方法を、人間に倣って楽をしようなどと、安易に放棄することの危険を思い知って欲しいと願うばかりです。

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筑波山登山の記(第35回)

2015-04-26 02:24:29 | 筑波山登山の記

<第35回 登山日 2015年4月22日(水)>

 前回は男体山登山の御幸ヶ原往復コースだったので、今回は白雲橋コースを往復して女体山に登ることにして出発する。今回は1時にはもう起きていたので、寝過ごすことも無く予定の4時に家を出発する。最近の日の出は5時を少し過ぎた頃となっており、4時になるともう夜が終わりかけているのが判る。道路は空いていて、走っているのは殆どが大型・中型のトラックばかり。40分ほどでいつもの駐車場に到着する。今日もウグイス君たちが姦しく「ホー、ゴインキョ」で迎えてくれた。この辺一帯のウグイス君たちは、何ともはや「ご隠居」に関心大らしい。

 今日からはしばらく晴れ基調の天気が続くようだ。しかし、朝夕は結構寒くて、車の外に出ると冷気が一気に押し寄せて来た。この駐車場辺りの標高は300mを少し超えるくらいか。直ぐに準備をして歩きを開始する。神社脇を通って、間もなく登山口の鳥居を潜る。前回のこのコースは雪の世界だった。あれから2週間が過ぎて、勿論雪など残っている筈もなく、あの出来事は何だか遠い過去の夢幻世界のように思えてくる。登山道は、昨日まで続いた雨模様の天気で、ぬかるみは消えていない。滑り易いので、足元には要注意である。

 今日は小鳥たちのさえずりというのか、鳴き交わす声が賑やかである。何という鳥なのか、知りたいと思っても姿も見えず、ただ聴きながら歩くのみ。白蛇弁天からは、ほぼ直線的な登りの道が続いている。前回は雪で足元の位置が確認できなかった箇所も、今日はむき出しの石がゴロゴロと続いている。1時間ほど登って、弁慶茶屋跡に着く。前回は、ベンチに20センチほどの雪が積もった向こうに下界が俯瞰できたが、今日はそのベンチはただの古びた腰掛にしか見えない。下界も霞にけぶっている。一呼吸して先に進む。

   

今日の弁慶茶屋跡からの景観。前回はこのベンチの上に純白の雪がこんもりと積もっていた。2週間前の出来事であった。

 ここからはこのコースの楽しみが満載の箇所となる。先ずは弁慶七戻りの大岩を潜る。少し登って右手に高天原、更に少し登ると母の胎内くぐりの大岩がある。まだここを潜ったことはない。ここを潜れば生まれ変われるということらしいけど、生まれ変わっても自分的には又同じような人間にしかなれないことを知っているので、胎内は本物の母だけで十分満足している。その先はほんの少し平らな道になるのだが、ここには右手に巨大な陰陽石がある。不思議な造形が続く。

 更に少し登ると国割り石という何だか古事記の神話に出て来る石の世界があり、その先に出船入船という不思議な形の石があり、その少し先に裏面大黒というおかしな格好の大岩がある。これらを見ながらの歩きには、疲れなど全く忘れてしまう。大岩の力というのは、甚大なものなのだなと、通過する度にいつも思う。少し登り下って平らになっている箇所は、先日は樹氷の名所とも思える景観だったが、今日は未だ芽吹きも始まらないブナの林の景色だった。北斗岩を過ぎ、少し登ると大仏岩があり、もうここまでくると女体山頂まであと200mである。6時50分山頂に到着する。

   

前回は見事な樹氷林だったこの道には、間もなく芽吹きを迎えようとしているブナたちが静かに佇んでいた。正面は女体山。

 今日の山頂は、吹き上げる風も無く穏やかな空気に包まれていた。自分以外に誰もおらず、久しぶりに独り占めの気分を味わった。女体山頂は男体山のそれに比べて展望が利く。360度とはゆかないけど、250度くらいは関東平野を俯瞰できるのではないか。頭上には澄んだ青空があるのだけど、それ以外の遠景はどこも霞んでいてはっきり見えない。いつもは見える霞ヶ浦さえ朧である。このところの雨と少し暖かくなったことで、空気が膨らんでいるのかもしれない。本来の春の景観ということなのかも。先日見事な綿飴樹氷を作っていた木の枝には、若葉が芽生えていた。樹の名前は解らないけど、これはブナではないようだ。ブナたちは未だ目覚めていないようだ。しばらく独り占めの景観を楽しむ。

   

今日の女体山頂からの俯瞰。関東平野は間もなく田植時を迎える田畑の耕作の最盛期を迎えようとしているようだ。

   

前回は見事な綿飴樹氷を作っていた女体山頂付近の木にはもう逞しい若葉が芽吹いていた。

 毎度着替えを持参しているのだが、さっぱり汗をかかないので、いつも持ち帰るだけとなっているのだが、今回もそうなってしまった。今日は大して寒くも無いというのに、どうして汗をかかないのか不思議に思う。かかない方が面倒でないから好都合のように思えるかもしれないけど、自分的には大汗をかいて体内の水系統の器官を循環させて活性化したいと思っているので、何か物足りない。もしかしたら、老人となって早くも枯れ始めたのでは?などと思ったりした。次回以降に期待するしかない。下山を開始する。

 下りは油断なく足元を確認しながら歩を進める。今日も二本の杖を持参している。今回は少し長めの物でトライしてみようと、20年ほど前に西国三十三観音巡りをした時に第一番寺の青岸渡寺で買ったものを持参している。この時の杖が3本残っていたので、それにニスを塗って再使用することにした。長さが150センチほどあるので、下りには効果的かなと思った次第。使って見て、長さはOKなのだが、この杖には頭の方に宗教的なギザギザ模様が刻まれており、それが握りを邪魔しているのが残念な感じがした。ま、要は使い方次第ということかもしれない。

 淡々と下山を続ける。弁慶茶屋跡を過ぎた少し下に沢があって、その付近に二輪草の群落があり、その周辺にはカタクリやキクザキイチゲも多く見られるのだが、前回は全くの雪の中だった。2週間後の今は、カタクリとキクザキイチゲたちの花は雪と一緒に消え去ったようで全く見られず、純白の二輪草だけが春を謳歌していた。そこを通過した後は、ひたすら足元を見ながら下山を続ける。白蛇弁天が近づく頃に、登山道が、散った桜の花で真っ白に染まっているのに気づいた。登るときはひたすら足元ばかりを見ていたので、このような風情ある景色に気づかなかった。何処に桜の木があるのかわからないのだけど、これはもう山桜に違いない。やっぱり、山桜はいいなあと思った。間もなく登山口に着く。

   

山桜の花吹雪の道。これは上の方から撮ったもので、写真では平らのように見えるけど、実際はかなりの急坂である。

 あとは駐車場まで歩いて戻り帰るだけなのだが、この途中に気になっている場所があった。それは筑波山神社の境内脇に咲いている筈のツクバキンモンソウの確認である。ジュウニヒトエに似たこの小さな植物には、特別の愛着があって、3年前に見つけて以来、毎年それを見るのを楽しみにしている。今朝も登りの時に咲いている筈のその辺りを探してみたのだが気づかなかった。それで、帰りにはもっと慎重に探してみようと思っていた。まだ少し早い時期なのか、土手に生えている草たちも少ない感じがするけど、ツクバキンモンソウはなかなか見つからない。少し下ってようやく発見した。小さな株が3つほどあって、紫色の小さな花を咲かせていた。嬉しく安堵した。良かった。それにしても昨年はもっとたくさん元気よく咲いていてくれたのに、こんなに少なくなっているのはどうしたことだろうと思った。もしかして、筑波山も山麓辺りは駐車場の工事などが続いており、次第に本来の筑波山らしい環境ではなくなって来ているのかもしれない。ちょっぴり複雑な気持ちになった。

   

筑波山神社境内の脇道に見つけたツクバキンモンソウ。地べたに這うようにして小さな紫の花を咲かせている。注意してみないと見過ごしてしまう存在だ。それ故に愛おしい。

 駐車場に戻ったのは8時20分だった。直ぐに車を出発させ帰途に就く。自宅に戻ったのは9時15分だった。今月4回目の登山を終えて、身体の方も次第に馴染んで来たらしく、もはや筋肉痛も殆ど感じなくなった。あと一回くらいは基本コースを辿ることにして、そろそろよりハードなコースにチャレンジしたいと思っている。何よりも、大汗をかきたいと思っている。  

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孫、初めて頭を下げる

2015-04-23 04:45:43 | 宵宵妄話

 ハイハイを卒業した孫に次に期待しているのは、ことばの世界にいつ参加してくれるか、ということです。今のところ、毎日やって来ると、大体同じようなパターンで引き戸の開閉や、引き出しを開けての丼お椀(壊される心配があるので扱うのはプラスチック製に限定)を取り出すなど、遊びの研究に余念がないのですが、この頃はそれに加えて、玄関に向かって歩き、自分の靴を掴んだりしています。これは外へ出たいという合図なのか、それとも自分の靴に何らかの愛着を覚え出したのか、なかなか判断の難しいところです。

 で、ことばの方ですが、時々「ナイ、ナイ。ナイ、ナイ」などと言いながら歩き回っているのですが、ネガティブに「無い、無い」と言っているわけでもなさそうですので、まだ考えを伝えることばにはなっていないようです。最初に覚えることばといえば、「ママ」というのが世界共通のようですが、さて、我が孫君は世界標準から始めるのでしょうか、それとも「ジジ」からか?これ又楽しみの一つです。

 ところで、一昨日倅に抱かれて2階から降りて来た孫が、倅の「こんばんは」という誘いのことばにつられて、ヒョコンと頭を下げたのにはびっくりしました。先日嫁御が、「おはようございます」の挨拶(動作)ができるんだよね、などと言っていたので、へえ、とは思っていたのですが、それを見たことは無く、やって来た時はいつもニコリかニヤリかの挨拶しかせず、あとは調査・探究に専念しているだけですので、頭を下げるというこの反応には驚きました。

 母親から毎々「おはようございます」や「こんばんは」の挨拶の言葉を教わっている内に、ことばよりも先に頭を下げるという動作、しぐさを覚えたのでしょう。その姿を見たのは、一瞬のことで、一度きりだったので、まだまだしっかり身にはついていないのでしょうが、言葉より先にしぐさを覚えるというのは、やはり、なるほどなあと思ったのでした。ことばがなくてもコミュニケーションはできるというのを示してくれたのでした。

 若い頃に、いっとき脳の発達について興味を持ったことがあり、いろいろ調べたり考えたりしたことがありました。孫を見ていると、今、そのおさらいをさせられている感じがします。生まれたばかりの動物たちの脳は、本能と言われるものの働きで無意識的に生きてゆく力を持っているわけですが、人間は更に高度に発達する脳を持っており、本能に加えてたくさんのイメージを取り込み、やがてことばを獲得し、それを活用して論理的にものを考える力を備えてゆくようになるわけです。

 我が孫は、只今イメージの取り込みに大忙しといったところなのでしょう。ここでイメージというのは、一般的に使われている映像や想像とかいう様なものではなく、人が五感を通して脳に刻み込む、その置かれた環境における全てのもの(=情報)を指しています。引き戸を開閉する動作の中には、彼の眼に映る全ての世界、聞えてくる音、手に触る感触、部屋の臭い、見守っている母親やジジババの視線や姿など、それらの全てがイメージであり、これを脳に刻み込んでいるのだと思います。同じようなことを何度も繰り返すのは、そのイメージが納得行くまでは何度でもチャレンジするという衝動のもたらすものではないかと思うのです。

 ところで、「こんばんは」の投げことばに対してヒョコンと頭を下げる「しぐさ」が何を意味するかといえば、それは「ことば」よりも先に、「しぐさ」の方を身につけたという証になるわけです。これは、ことばを獲得するためのかなり高度な学習をしたことになるのだと思います。つまり、このようなしぐさができるようになると、ことばの獲得開始も間近になるのだと思うのです。

 理屈っぽいジサマは、このようなややこしいことを考えながら孫の一挙手一投足を見守っているのですが、ふと思ったのは、我が孫君は、この先の人生で、いったいどれほど頭を下げることになるのだろうか、ということでした。挨拶はともかくとして、頭を下げるという動作は、「ゴメンナサイ」にもつながるものであり、己の誤りを素直に認めるためには、それは必要不可欠の動作ではありますが、社会人となってから先は、TVなどで良く見かける頭を下げる人たちの仲間には入って欲しくないなと思いました。

身を立てるという意味では大いに偉くなって欲しいと思いますが、ゴメンナサイを内包するような仕事は、できる限りして欲しくないと思うわけです。しかし、世の中はきれいごとばかりで成り立っているわけでもなく、時には潔くゴメンナサイをする必要もあると思いますが、ゴメンナサイに慣れてしまう様な人間には断じてなっては欲しくない、などと思ったりしたのでした。 ジジバカの話でした。

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筑波山登山の記(第34回)

2015-04-20 06:51:54 | 筑波山登山の記

<第34回 登山日 2015年4月16日(木)>

   先週の白銀の世界への登山から1週間が経った。この間、次の登山を早めにしようと待ち構えていたのだが、天気はずっと愚図ついていて、曇りどころか雨や雷雨などのロクでもない空ばかりが続いていて、あっという間に1週間が過ぎてしまった。ようやく晴れとなったので、今日は少し早い時刻に家を出ることにした。

  4時には家を出るつもりが珍しく寝過ごし、15分ほど遅れての出発となった。天気は予報通りのようで、少し雲は残っているものの、昨日の雨で清められた空には下弦を何日か過ぎた月が、東の空に鋭い鎌形をして光っていた。もう今ごろは日の出が5時を少し過ぎるくらいになっているので、4時半になると空が明るくなり出して来ている。早朝のドライブは快調で、40分位でいつもの駐車場に到着する。駐車場付近の森にはウグイスたちがたくさんいて、この地のウグイス君たちは「ホー、ゴインキョ、ホー、ゴインキョ」と鳴くので、何だか自分が呼ばれているような気がして、思わず笑ってしまった。靴を履き替え、直ぐに出発する。

  今日は御幸ヶ原コースを、男体山を目指して往復するつもりでいる。早朝の門前町は静まり返っており、通る車も人もいない。大御堂というお寺の脇の急坂を登ってしばらく歩くと筑波山神社の脇にある登山口に至る。早速登山を開始する。今日は淡々と登り、淡々と下りて来るだけにしようと思っている。先週の雪以来何度かの雨と、特に昨日の一日中降り続いた雨で、登山道の足元はかなりぬかるんだ状態となっていた。所々水が溢れている箇所があって、筑波のお山もまだ排水中という感じだった。

  今日は新兵器(?)を持参している。それは2本杖である。いつもは仙人が持っているような6尺ほどの手づくりの長い杖を使っているのだが、今日は4尺ほどの短い杖を2本持参して、それを両手で使い分けようというわけである。いずれも昨年の冬に家の付近の森や林を歩き巡って、樫の木の手頃な長さの枝を伐ってきて皮を向いて1年ほど乾かし、火であぶり、その後にニスを塗ってこさえたものである。このような杖を5~6本作ってあるのだが、短いものを持参したのは今日が初めてなのだ。市販されている2本杖を持っての登山者を多く見かけており、自分もそれを少し真似てみようと思った次第。但し、買うのは面白くないので、杖は全て自作しようと思っている。

杖を手づくりしようと思ったきっかけは、秋田県大仙市の旧中仙町に住んでおられた、彼の有名民謡「ドンパン節」の作者である円満造ジサマ(本名・高橋市蔵~東北の左甚五郎と呼ばれた名人宮大工)を知ってからである。大仙市にある道の駅:なかせんには、米俵の上にちょこんと乗った円満造ジサマの塔が建っているけど、その下の方の写真には、杖を持った円満造ジサマが写っている。それらを見て大いに刺激され、憧れとなっている。これからも良い枝ぶりの木を見つけたら、ものにしたいと考えている。

  脱線したけど、今日の2本杖は結果オーライだった。1本杖も悪くは無いのだが、やはり2本の方が身体を支える力のバランスが良いようで、登りも下りも効果的だった。欲を言えばもう少し長めの方がより使い易いように思った。これは今後の課題である。杖づくりの楽しみも登山に付加することにしたいと思っている。

  淡々と登って、6時半頃には御幸ヶ原に到着。その少し手前の辺りには、前回は見ることのできなかった二輪草の群落が幾つもの花を咲かせていた。又、道端の片隅にハルトラノオの小さな花を見つけて感動したりした。カタクリも点在して咲いており、こちらの方はもう花の最盛期を過ぎたものが多いようだった。

   

御幸ヶ原近くの樹木の下に広がる二輪草の群落。所々にカタクリも混ざって咲いている。1週間前はこの辺りは完全に雪に隠れていた。

   

小さすぎて判りにくいけど、葉の中央の辺りに薄いピンク色のぽやっとした花を咲かせているのがハルトラノオ。この株は草丈が10cmにも満たなかった。

直ぐに男体山頂上へ。勿論、1週間前の白銀の世界など想像もできない周囲の様子で、芽吹き始めた木々たちのその向こうに、田んぼの耕作を始めたらしい黒い水田や緑の畑などが広く俯瞰できた。頭上は青空なのだが、地平線の彼方には雲の帯が掛かっており、見える筈の富士山も日光の連山も那須の峰々も、皆その雲の帯の中に消えていた。ご本殿を拝して直ぐに下山を開始する。

   

男体山ご本殿の裏側にある標高の標識板。今日の登山の証拠として撮影しておいた。

   

男体山頂付近から下界を俯瞰する。前回は男体山には登らなかったけど、この樹木たちは樹氷になって固まっていたに違いない。下界は、間もなく農事が本格化する。

  御幸ヶ原に下りて、ケーブルカー頂上駅脇にある休憩所で一息入れる。持参した枇杷茶が美味い。この頃はお茶といえば専ら自家製の枇杷茶である。クチナシの実を1個入れて、よりパワーアップしたこのお茶は、糖尿君をなだめるのに相当に力を発揮してくれているように思っている。市販のサプリメントなんぞクソくらえ!である。このお茶を飲むと、トイレに行く頻度は増えるけど、体内の水に係わる器官類の回転が活性化しているのだから、その効果は疑いなしと思いこんでいる。(これは、登山には関係の無い話でした)

  間もなく下山を開始する。滑り易くなっているので、慎重に足を下ろす。二本杖が有効だ。それでもドジをして2度ほど尻もちをついてしまった。男女川源流を過ぎる辺りから登って来る人が多くなり出した。その殆どは自分と同世代と思しき人たちで、これはいつもと変わらない。今日は女性が少なく2~3人しか出会わなかった。1時間と少しかかって登山口に着く。駐車場に着いたのはその10分位後。直ぐに帰宅の準備をして車を発進させる。帰宅は9時5分。早過ぎた帰りを、カミさんはTVを見ながら少し驚いていた。今回はこれで終わり。

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ICレコーダーを買う

2015-04-18 03:57:39 | 宵宵妄話

 どうってことない、ヒマつぶしの話です。先日何年かぶりにICレコーダーというのを買いました。この用具は20年ほど前にも一度購入したことがあり、活用を図ろうとしたのですが、どうも使い勝手が悪く、大して使わないままに何処かに消えてしまいました。ICレコーダーというのは、あまり老人には関わりの無い電気器具だと思います。これはテープレコーダーの進化版のようなもので、録音機器なのは言うまでもありません。

 従来(自分が現役だった15年以上前)は、小型化されたテープレコーダーなどを活用して会議録などを作成したものでした。それでも録音できる時間は、最高機種でもテープの両面往復で120分ほどが限度だったような気がします。会議などの人の動きの少ない場面での録音には好都合なのですが、動きのある場面や持ち歩きながらの録音となると、小型化されたとはいえポケットなどが不自然に膨らみ使いにくいものでした。

 最初にICレコーダーを買ったのは、往時から自分がものを考えたりするのは概ね歩いている時でしたので、思いついたアイデアなどを記録するのに便利ではないかと思ったからなのです。歩きながら一々メモを取るのは結構面倒なことで、歩きには邪魔なことでした。それで新兵器の用具として、売り出され始めた頃に飛びついたというわけです。

 その頃のICデコーダーは記録時間が短くて、せいぜい15分ぐらいではなかったかと思います。それでもちょっとした思いつきを歩きながら録音するには、さほど支障は無かったのですが、歩きから戻ってその録音を聴きメモを作る際には、再生の音が判りにくいことが多く、使い勝手が思ったほどではなかったのです。何度か使っている内に飽きてしまって、そのまま忘れ消え去ったという次第です。

 ところが、最近久しぶりに家電店のそのコーナーを覗いて見たら、相当に進歩しているのに気づかされました。先ず、録音時間が飛躍的に延びており、何と連続20時間以上もOKなのです。そして何よりもこれは使えるなと思ったのは、記録したデータをそのままパソコンにつないで、音として記録できるということでした。これならば、音を再生して聞く場合に、スピーカーを通して拡大することができ、聞き洩らすことは無くなります。又、その音をパソコン内に日時別に記録保存しておくことができますので、写真同様の活用が可能となります。それに価格も以前は3万円くらいしていたものが、1万円以下でも手に入れることができるのです。これなら大丈夫だと思いました。早速買うことにしました。

 私は現在写真に関しては、パソコンの中に「デジカメ日記」という記録保存のためのアイテムを設けており、日々の写真記録をその中に取り込んでいます。この方法だと、日付ごとに簡単な見出しをつけておけば、その写真をいつ・どこで、どのような状況で撮ったのかを思い出すことができるのです。特に旅の期間中は、この記録方法は有効で、旅から戻った後の振り返り時には、それらの写真を見れば、その場の状況、流れなどを明確に思い出せるのです。このやり方だと、10年前のことでも決して忘れることはありません。旅以外でも、写真を撮った時は、必ずその日にデジカメ日記に取り込むことにしており、最近では孫の動画なども増えて来ており、あと何年か後にはそれらの記録が役立つこともあるように思っています。

 で、ICレコーダーを購入したのを機に、せっかくの録音データを使い捨てにしないことに決め、パソコンの中に新たに「音の記録日記」のアイテムを付加しました。そして、毎日の歩きの中で拾った思い付きのテーマやアイデアの口頭記録を、写真と同じように保存しておくことにしました。

 私は普段の暮らしの中で、起きている時間の内2~3時間を歩きに使うことにしています。これは勿論運動のためということがありますが、最大の目的は「考えること」にあります。「歩くことは考えることである」という箴言(しんげん)めいたことばがありますが、私はこれを本当だと思っています。京都には有名な「哲学の道」というのがありますが、京都ならずともどのような場所であっても、何も考えずに歩くなどということはあり得ず、人は誰でも何かを考えながら歩いているのだと思います。

 この歩いている時の思い付きの中には、結構使えるものがあることに、かなり前から気づいていたのですが、特に大きな思い付き以外はその殆どを忘れ、流し去っており、考えてみれば随分と勿体ないことをして来たものです。今ごろになって、改めてICレコーダーを再発見し、思いつきを拾って行こうというのですが、これはもはや遅きに失すということなのかも知れません。でも、念願の「PPK(ピン・ピン・コロリ)」の実現のためのボケ防止には、結構役立つに違いないと思ったのでした。

 さて、そのICレコーダーですが、少しずつ慣れて来て、今度は大丈夫のように思います。今までの歩きの際には、必ずカメラと携帯電話を持参していましたが、これからは、ICレコーダーを加えて、3種の神器として常時の活用を図ってゆこうと思っています。筑波登山の際には、コースの要所で通過時刻や付近の様子を吹き込んだりして、至極便利に使っていますし、歩きながらの思い付きの拾い上げにも力を発揮しつつあり、このブログテーマもその一つなのです。人は歩きながら、不断思っている以上の様々な物事を考えており、その内にもしかしたらお墓の仕様のことまでもあれこれ思いつくのかもしれません。この3種の神器は、どうやらこれからの私の人生の不可欠の道づれとなりそうです。

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筑波山登山の記(第33回)

2015-04-14 05:07:04 | 筑波山登山の記

<第33回 登山日 2015年4月9日(木)>

  先週の木曜日に登ったので、次は今週の火曜日が良いなと思っていた。最初の登山の後は、しばらく使っていなかった筋肉を酷使するので、腰や足それに膝の痛みなどが続くことになるのだけど、その痛みがまだ少し残っている5~6日後くらいに登るのが、その後の体調のことを考えるとベストなのである。それなのに、このところの天気は極めて不機嫌で、雨降りばかりが続いていた。ようやく今日木曜日は晴れるというので、何が何でも登ってやるぞと出掛けた次第。

  昨日は雪交じりの冷雨が降り続いた一日だった。山のことは忘れて、寝床の中で本読みを楽しんだのだが、まさか、筑波山に雪が積もっているなどということは思いもしなかったのである。車を走らせながら、筑波山に近づくにつれて、何だか山全体が白っぽくなっているのを見て、あっ、昨日の雪が山を化粧したのだというのに気づいたのである。それでも、まあ、大したことはなかろうと、アイゼンを持参しなかった不安は押し込めることにした。

  いつもの駐車場に車を置き、登山口に向かう。山から吹き下ろす風が超冷たい。既に四月になっているというのに、今までの登山の中では真冬のそれを超えた一番の寒さだった。足元にはモクレンや桜の花びらが飛散していた。顔をあげると、まだ咲きかけたばかりの桜があって、強風にもめげずにしっかり花を咲かせていた。神社の参拝路の石段付近からの見上げる女体山の頂付近は、真っ白な雪が朝日を受けて輝いているのが見えた。

   

筑波山神社の門前にあるご神橋下の階段付近から見上げる女体山山頂付近は真っ白な雪にけぶっていた。

筑波山神社の脇を抜けて、今日は白雲橋コースを行くことにした。少し遠回りになるけど、このコースの方が様々な形の巨岩が迎えてくれて変化があり、楽しみが多い。そう思いながら登山口近くに来ると、民家の駐車場に止めてある車の屋根に10cmほど雪が積もって凍りついているのを見て驚いた。こりゃあ、昨日はかなりの雪だったのだなと、一気に不安が膨らんだ。

  登山口の鳥居を潜り、登りを開始する。足元だけを見ながら、しっかり呼吸を整える。この辺りは大して雪は積もっていなくて、ぬかるんでいるだけだった。しかし、5分ほど歩いて迎場という分岐点を過ぎると、俄然雪の量が多くなり出して、白蛇弁天というのを祀る小さな社(やしろ)の屋根には15cmを超えるにが積もり、付近の樹木は雪の重さで枝を曲げているものが何本もあった。こりゃあ、この先は大ごとだなと思った。ここからはかなりの急坂が続くのだが、いつもだと石段代わりにゴロゴロ転がっている石やむき出しの木の根がたくさんある筈なのに、それらは全く見えず、全て雪の下に埋もれており、足元の道を探すのにかなり気を使った。

   

全くの雪道となった登山道の様子。ここは比較的平らな場所なので、歩きやすいのだが、急斜面には吹きだまりもあり、少々難儀した。

  更に30分ほど登り続ける。全くの白銀の世界となった。真冬である。いつもならば聞こえてくる筈の小鳥たちの鳴き声も全く無く、静まりかえった森の中に時々バサッ!という雪の落ちる音が耳を打つだけだった。足元の雪は樹間の道なのに15cmは軽く超えている感じで、しなだれかかる雪を被った枝を避けながらの行進となった。雪がなければ、二輪草やキクザキイチゲの見られる筈の水場近くの道端は、完全に雪に覆われていて、全く春とは思えぬ状況を呈していた。更に少し登って、ようやく弁慶茶屋跡に到着する。ここからは下方のつくば市郊外の展望が利くのだが、それよりも幾つかあるベンチの上に積もった20cm近い雪の量に驚かされた。同じ場所で休んでいた人の話では、今の時節に、こんな景色に出会うのは今まで一度も無かったと所感を述べられていた。もう相当なこの山のファンの方らしかった。

   

弁慶茶屋跡からは僅かに下界が眺望できるのだが、いつもならリュックを置いて汗を拭うベンチは、こんもりと雪が積もって、今日は除雪が勿体ない感じがした。

  その後は巨岩群のコースとなる。先ずは弁慶七戻り、高天原、母の胎内くぐり、などを経て、陰陽石、裏面大黒と進んで、更に登って国割り石、出船・入船を過ぎる辺りから、一面は見事な樹氷の世界に一変した。先ほどまでも、枝に着いた樹氷を何度も見て来ているのだが、一味違うのである。ここは既に標高800mを超えており、昨日の寒気は、ブナなどの樹木たちに強風で雪を吹き付け、それを凍らせたらしく、様々な形の純白のサンゴの大木が、至る所に太陽の光を浴びて輝いていた。このような景色を見るのは初めてであり、少なからず興奮した。登って来た疲れなどは全く感ぜられず、とにかく思いっきりこの景観を楽しもうと、何度もカメラのシャッターを切った。北斗岩から大仏岩を経由して女体山の山頂に到着したのは8時半丁度だった。

   

久しぶりに見る大仏岩(女体山頂下、200m)の周辺には雪の精をまとったブナたちが、大仏様を取り囲んでいた。

  山頂からの景観は、上空には青空が広がっているのだけど、目を遠方に向けると地平線は雲で覆われており、見える筈の富士山も日光や那須の山々も皆雲の中だった。まだ天候は機嫌を治し切ってはおらず、今日の今の晴れは、気まぐれサービスの天気なのだなと思った。その展望よりも、間近にある樹木たちに咲いている氷の花の方に気を取られて、千載一遇のチャンスを逃すべからずと、カメラを向け続けた。10分ほどで下山を開始する。

   

今日の女体山ご本殿の様子。真上は眩しい青空なのだが、遠く彼方の四方は雲が覆って、富士山も日光連山も那須の山々も見えなくて残念。

  帰路は前回の御幸ヶ原コースを辿ることにした。女体山からはガマ石のある道を下って、御幸ヶ原に下りることになる。このコースは、樹氷オンパレードの感じで、様々な樹木に付着した雪と氷の塊が、世にも不思議な造形の美を存分に展開していた。途中にカタクリの里というのがあり、下の観光協会の建物には、その宣伝の幟がはためいていたけど、今はその一帯は完全に雪に埋もれており、カタクリたちにお目にかかれるのは、あと1週間近くかかるに違いないなと思った。御幸ヶ原に下りて、ケーブルカー頂上駅の脇にある休憩所で一息入れて、持参した枇杷茶を流し込む。今日初めての水分補給だった。

   

カタクリの里下の道から見た御幸ヶ原、ケーブルカー山頂駅の広場と男体山。男体山も樹氷の中。

  男体山には上らず、直ぐに下山を開始する。こちらのコースは、下り始めの頃は足元も雪で固められてしっかりしていたのだが、次第に雪が少なくなり、ぬかるみ始め出してきた。気温が上がって樹木の枝などに積もっていた雪が溶け出したのか、滴(しずく)の落ちる音が次第に高くなり出した。登って来る人も次第に多くなってきて、交わす挨拶も忙しくなって来た。間もなく男女川源流の水場に着く。同世代男女と思しき数人の団体の皆さんが、賑やかに休憩をしていた。カタクリの話などをされているので、今日はそれは皆雪の下で、見ることは叶わないけど、それ以上に素晴らしい樹氷の世界を見られますよ、と余計な声を掛けてしまった。カタクリはいつでも見られるけど、この時節に樹氷を見るのは滅多に叶うことではない。でも、おばさん達はその価値をどう見積もるのかな、などと、どうでもいい興味心が動いたりした。

  更に下って中間点近くに至り、ケーブルカーのローブを動かす回転音が聞こえ出したので、少し急ぐことにした。直ぐに到着。丁度いいタイミングだった。この登山道でケーブルカーの上下車両を一度に見られるのはこの場所しかない。前回の登山で会った人の話では、ケーブルカーの車両が新しくなったと聞いているので、それを確認する意味でも是非カメラに収めたいと思っていた。下方を覗くと小さく登って来る車両が見える。数分待つうちに見る見る大きくなった車両は「わかば」だった。同時に上方から「もみじ」が下りて来た。短い時間の間にこの両方の車両を撮るのは結構難しい。どうやら撮影は失敗した様だった。それにしても見た限りでは、新車両とはなっていないようで、表面の塗装を改めただけのように思えた。ケーブルカーを利用したのは、昨年一度だけしか無く、良く覚えていないのだが、どうもそのように見えたのだった。模様替えの塗装をしたのかもしれないけど、車両の愛称は同じだったので、何故か安堵した。

  そのあとは、溶け出した雪の滴に濡れながら下山を続ける。筑波山神社脇の登山口に着いたのは、10時20分だった。ぬかるみ続きの足元に気を取られての下山は、かなり疲れた。しかし、足も膝も思ったほどショックは受けていないようだったので先ずは安堵した。駐車場に戻り、帰りの準備をする。その後は、途中買い物などをして、家に戻ったのは正午を少し回る頃だった。

  今日の登山は、今まで33回のチャレンジの中で、最も印象に残るものだった。昨年も雪の中をアイゼン無しで登って、危険を感じた帰りの下山はケーブルカーとせざるを得なくなったり、或いは持参した杖を雪の中に滑落させて見失うなど、冬の時期での幾つかの失敗の思い出があったのだが、それらは小さな出来事に過ぎなかった。今日のこの思いもかけなかった樹氷オンパレードという夢幻郷の世界を体験できるとは、何と言う幸運なのだろうか。4月に入ってからの、想像をはるかに超えた出来事だった。丁度この日に登山を敢行したこと、登山の時刻も又コースの選択もベストだった様に思う。何もかもがラッキーだった。この思い出を大切にしたと思っている。

 

以下に今日の数々の樹氷の中から4枚ほどを掲載します

   

女体山山頂付近の樹氷。真っ青な空に純白の氷の花が、何とも美しい。このような筑波嶺の花を見るのは初めてだった。

   

「綿飴樹氷」と呼ぶのが相応しい氷の造形。強い北西風が相当長い時間を掛けてこのような不思議を作りだしたのだと思う。

   

太陽を取り込む樹氷林。純白の樹氷たちも、取り込んだ太陽の光には、その正体を見透かされてしまっているよな気がした。

   

巨大な白いサンゴ樹。巨木のブナも今日はサンゴと化して青空に聳えていた。今日の代表的な樹氷の姿である。

 

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<お知らせ> 今年の春の旅は6月まで超我慢です

2015-04-11 05:21:44 | その他

 このところ旅の話から遠ざかっています。毎年の東北方面の春の旅は、今年は取りやめることにしました。というのも、我が家の1、2階の入れ替えの引っ越しが、倅たちの仕事の都合もあって、5月初め頃に予定されているため、その後の整理時間などを考えると、5月中はのんびり旅をするのは難しいと判断しました。その代わりと言っては何ですが、6月に入ったら佐渡島に行こうと考えています。

 佐渡の6月の田植えの後の時期は、各所で薪能などが上演されており、これを見ることが何年か前からの大きな(楽しみの)課題となっていました。能のことはさっぱり知識もなく、鑑賞の経験も少なくて、少しは勉強したいものだと思っていましたので、これはいい機会だと思っています。少なくとも20日ほどは滞在して、各神社等の能舞台で演ぜられる地方の伝統的な能を味わいたいと思っています。

 佐渡には何年か前に10日ほど滞在したことがあり、凡その地形等の状況は承知しているつもりですが、その後どう変わっているのか、変わっていないのかを訪ねるのも楽しみです。これから時間を掛けて旅の前楽を楽しみたいと思っています。

  ということで、これから5月一杯頃までは、このブログは凡々たる気まぐれ所感の掲載が続くことになると思います。旅の話を期待されてお読み頂いている皆様には申し訳ないと思っていますが、しばらく旅の話から遠ざかることをお許し頂きたいと思います。取り敢えずのお知らせでした。

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孫、ハイハイを卒業する

2015-04-09 05:19:09 | 宵宵妄話

 今のところ、我が身近な生き物(?)で最愛のものは、同じ屋根の下に棲む孫なのです。勿論、長年の相棒である家内や倅たち、その連れ合いの嫁御たちも疎かにはできず、離れて住む孫娘たちも可愛いのは少しも変わらないのですが、その中で誰が一番?と問われたら、やっぱり孫のケイシだということになります。一体、誰が一番か?などと問うのは、真に愚かな行為であって、序列や順位などというものは、人間に関してはそうそう簡単に決められるものではないのですが、今現在の可愛さという点で言えば、これはもうジサマのアホ丸出しで、少しも億することなく、身近(=2階)に棲む孫なのです。

 本来ここでその孫の姿を掲載すべきなのですが、家内のバサマから堅く肖像権の逸脱を禁止されているため、自慢げに孫の写真を披歴することは出来ません。尤も孫の映像の大半は、この頃は写真ではなく動画で撮っているので、ブログにアップするのはやはり遠慮した方が良いなと思っています。あの世に行った頃の大きくなった孫に、「俺が赤ん坊の頃にジサマはとんでもないことをしてくれたもんだ」などと言われないようにするためにも、これは守らなければならないことだとは思っています。例え身内であっても、赤ん坊であっても個人のプライバシーは大事にしなければならないというのが、当節の世情的な常識のようですから。

 その我が孫は、先月の下旬に満一歳の誕生日を迎えました。そのことは先日書いた通りなのですが、その孫が、餅を担いでデングリ返ったその時から2週間が過ぎて、それまで超スピードでハイハイしていた動きを卒業し、一気に伝え歩きからヨチヨチ歩きに進んだという話です。ま、ヒマな老人の単なる観察記録に過ぎないのですが、様々な思いを巡らしながら、今それを楽しんでいるところです。

 日に1回以上必ず孫が顔を見せてくれます。勿論これは嫁御の配慮の賜物であり、その心遣いをジジババはとても嬉しく思っています。居間に入って来ると、孫はたちまち探検・調査を開始します。先ずはTV台に向かい、ガラスのドアが押して開けられるのを確かめ、次に世界遺産のDVDのセットの入っている箱から、DVDを取り出す作業にチャレンジします。TV台の方はもう卒業していますが、このDVDを取り出す作業はなかなか難しくて、まだ1回しか成功していません。それが偶然だったので、確実に取り出せるまでは、本人は納得できないらしく、毎回諦めるまでチャレンジし、その後は台所の引き出しを開ける楽しみにチャレンジしています。この頃は我が書斎に目をつけているようです。先日は、机に向かって立ち上がり、何かゴソゴソやっているなと思っていたら、黒い欠片(かけら)を取り出したので、何だろうと近づいて見てみたら、何と我がパソコンのキーボードのシフトキーの片割れをつまんでいました。結構握力が強くて、手につかめるものや触れるものは、何でも引っ張りたい様で、それを全力をあげてやるので、シフトキーも堪ったものではありません。何とか元に戻しましたが、その後少し調子が悪いのは我慢することにしました。

 ハイハイを卒業してからは、少し目線が変わったのか、只今は引き戸の開閉に懸命に取り組んでおり、居間の周りにある3カ所の引き戸は、どれも簡単に開けられるようになりました。指を挟んだりしたら大ごとなので、注意深く見ているのですが、今のところ上手に開閉をしているようです。先ずは手前の戸を開けたら、次に向こう側に移って、ガラス越しにこちらを覗きながらその戸を閉めるという手順で、これを何度も繰り返し、満足したらヨチヨチ歩きながら次のドアに向かうといった順番で、いやはや実にエネルギッシュな動きをしてくれています。

 やはり、ハイハイと歩きとは大いに違うものだなと、ジジババはその不思議さを目を細めながら見守っています。「這えば立て、立てば歩めの親心」と言いますが、孫が今丁度その時期を迎えているのを実感しています。生きものとしての人間の人間らしさの原点は、二足歩行にあるのだなと改めて感じ入っています。もし四足歩行だったら、手の器用さは生まれなかったでしょうし、従って脳の発達も獣止まりで終わっていたことでしょう。改めて孫の育って行く過程を見ていて、そのことに気づかされます。ハイハイを卒業するというのは、人間だからこその具えられた力なのだというのが解るのです。二本足で歩くのは当たり前というのは、もしかしたら思い上がりなのかもしれません。この恵みを人間はもっと大切にしなければいけないようにも思いました。

 孫は、まだことばが話せません。時々大声を爆発させたりしていますが、母親と一緒の時は何やらもっとたくさん声を張り上げているようで、時々2階からそれが伝わってきます。今は、気合を入れて目に触れるもの、聞こえるもの、触っての感触、匂い、そして味わい等々の五感を精一杯働かせて、それらを全身、全力を挙げて吸収しようとしているのだなというのが解ります。あまりちょっかいを出さずに、「ジジババ育ちは三百文安」とならぬように、しっかり見守ってゆきたいと思っています。

 生まれた時から始めた「孫貯金」も、自転車の前乗り椅子を買う分には達しています。ことばが少しは話せるようになったら、早速購入して連れ回し、身近な自然の様子を見させてやろうと楽しみにしています。ジジバカの近況報告でした。

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筑波山登山の記(第32回)

2015-04-07 11:09:52 | 筑波山登山の記

<第32回 登山日 2015年4月1日(水)>

   長いこと筑波山に足を向けなかった。登山が嫌になったわけではないのだが、一度途切れてしまうと、強引に目前の些事を押し切って山に向かう意思が働かなくなり、些事に引きまわされて動きを止めてしまうという日々が続いていた。昨年の4月25日以来だから、早や1年近く経っての再開ということになってしまった。昨年は最低でも月2回、年間24回の登山を目指していたのだが、結果は19回という惨めさで20回にも至らず終いだった。今年は立ち上げの開始が遅れてしまったが、昨年以上の実績は積み上げたいと考えている。あまり大きな数値は言い触らさない方が賢いと思うようになっている。

  登山はしなかったけど、歩きの方は欠かさず行っており、昨年も500万歩以上の実績を残すことが出来てはいる。しかし、平地を歩くのと登山のそれとでは一歩の価値というのか、エネルギー消費の格差は大であり、比較するのはナンセンスである。使う筋肉も多岐に亘ることになり、身体を鍛え維持するには、このハードさが不可欠だと思っている。筑波山麓の梅林の観光が3月末日に終了するので、それを待って登山を再開することを決めていた。観梅時には車での来客が多く、駐車場はかなり混雑するので、それを避けたいとの思いがあった。

  自分の毎日の起床は、深夜の2時~3時の間で、これは仕事や思考のための時間の使い方を、昼夜逆転させることを思いついて以来の自分の習慣となっていることなのだが、登山にも叶っている起床時間である。この日も3時過ぎには起き出して所用を済ませる。天気が不良との予報なので、ご来光は期待できないため、暗闇登山は止めて明るくなる5時半頃から登山を開始することにして、家を4時半に出発する。途中の道は勿論空いていて、筑波山麓のいつもの駐車場に着いたのは5時10分頃だった。ところが、いつもは無料で置いておける梅林駐車場はすっかり様相が変わっており、機械式の有料駐車場となっていたのである。これには驚いた。駐車料は500円だという。登山の度に500円もの大金を払う気にはなれず。近くのガマ広場と呼ばれる空き地の方へ行って見たら、こちらは200円也の臨時駐車場となっており、管理の人もいないようなので、取り敢えずそこに車を置き登山を開始することにした。料金をとられるなら、戻って来てから払わせて貰おうと思った。それにしてもこの1年の間に随分とまあ、変わるものだなと思った。筑波山麓に幾つかある市営の駐車場は、いずれも500円の料金で、これはかなり高額のように思う。一元の観光客だけを相手ならば、それでいいのかもしれないけど、リピーターにとっては、さほど混んでもいない時期でも500円というのは納得しがたい金額である。重伝建のある桜川市の真壁の町だって、雛飾りのシーズンの臨時駐車場は200円ほどと良心的である。つくば市は、東京都心辺りの行政のやり方と同じでいいと勘違いしているのではないかと思った。機械式では、キャンピングカーは入らず、今年は泊まりがけの登山は無理かなと思ったりした。

  久しぶりの登山なので、仕切り直しの敬意をこめて先ずは筑波山神社に参拝して安全を祈願する。5時30分神社脇の登山道入り口からの登山を開始する。今日は最もポピュラーな御幸ヶ原コースを登ることにしている。今回からメモをとる代わりの新兵器として、ICレコーダーを持参している。今までは、登山コースの各ポイントで、メモ帳を取り出して通過時刻や所感などを記録していたのだが、これが面倒なので、先日新兵器を購入したという次第。ICレコーダーは、それが登場した30年前の頃にも買って使ったことがあるのだが、今日でのそれは記憶量も機能も大幅に進化しており、その中でもパソコンに残しておけるというのが魅力的である。これだと、書かなくても生の自分の声で、その日その時の思いを残しておくことができるのである。大いに活用して行こうと思っている。

  5時25分神社脇の小さな石の鳥居のある登山口から出発する。筑波山神社のご本体は勿論筑波山であり、神社のご本殿は男体山と女体山の二つの峰の頂上に築かれている。今日の登山は、いわば男体山ご本殿への参詣と同じというわけである。ゆっくりと足を運ぶことに決めて、一歩一歩を進める。登山で大事なのはむやみに休まないことだと心得ている。今までの筑波山登山で、途中で休んで水を飲んだことは一度も無い。呼吸を整えながら確実に一歩を進めてゆく。この単調な作業が登山の真髄なのだ。久しく忘れていた登山道の石の並びなどを思い出しながら、そう、もう少し行くと、さざれ石になりかけた岩の露出している所があるな、などと自分が勝手に名づけた箇所や位置が目に入って来る。そのような場所を幾つか通り越して、間もなく中間点のケーブルカーが交差するのが見えるポイントを通過する。ここまで45分。いつもよりは5分ほど遅いペースだ。今日はこれでいい、と自分に言い聞かせて汗を拭って更に歩を進める。

そこから少し登り続けていると、左足の膝に違和感を覚えて来た。痛いというのではなく、何だか力が入らず踏ん張りが利かなくなっている感じがし出した。や、これはヤバイぞ、と思った。というのも左膝には爆弾を抱えているからだ。30年ほど前、半月板を痛めたことがあり、回復するまでに1年近くかかったことがある。その時の専門医に言われたのは、半月板の故障そのものは治らないと思え、但し普通の暮らしができるようにするためには膝の骨を動かしている筋肉を鍛えるように、とのことだった。それ以降はこの忠告を守り、走ることは控えるようにしている。元々は自分は走ることが好きな人間なのだ。又、ハードな歩きをするときは、両膝に必ずサポーターをして、膝への負担を少なくするようにしており、登山の場合は勿論しっかりサポーターを装着して来ている。ちょっとでも違和感を覚えた時は、決して無理をしないように留意しなければならない。登山の場合は、歩けなくなったらお終いなのである。救急車に来て貰うこともできないのだ。左膝には極力負担を掛けないような歩き方に努めることにした。しばらく慎重に歩いていると、違和感が少なくなってきたので安堵した。6時50分、御幸ヶ原に到着する。

天気は予報通りで、青空は全く期待できない。それどころか、かなりの風が吹き上げて来ており、寒さも相当なものだ。休憩なしで男体山の頂上に向かう。頂上までは今まで以上の急な岩場が待っている。途中の坂道の端にカタクリとキクザキイチゲを見つけた。カタクリはまだ蕾。イチゲは寒さのせいか開花した花をつぼめてしまっていた。寒くなければ愛らしい花を見られたのにと残念に思った。岩場を乗り越えて頂上のご本殿に。無事に登山で来たことを謝し、更に今後の登山の無事を改めて祈念した。

   

今日の登山の証明写真。男体山ご本殿。山頂は僅かに春の気配を樹木たちの芽のふくらみに感じるけど、今日は冬の寒さだった。

   

御幸ヶ原から男体山頂へのコース脇に見たカタクリの花の蕾。麓の観光案内所では、カタクリの花畑の宣伝の幟がはためいていたけど、本番はもう少し先になるなと思った。

   

カタクリの直ぐ近くにキクザキイチゲの株があった。こちらも寒そうに咲きかけた花をすぼめていた。

いつもだとここで着替えるのだが、今日は寒くて、あまり汗もかいていないので、そのまま直ぐに下山することにした。いよいよ下りが始まるのだが、とにかく膝を痛めないように細心の注意をしながら一歩一歩を進める。10分ほどで御幸ヶ原に戻り、ここでほんの少し休憩し、持参の枇杷茶を流し込む。近くにいた人に挨拶すると、その方が話かけられて来て、何やらケーブルカーが新しくなったとのこと。直ぐ傍の頂上駅を覗くと、ピカピカの新車が停まっていた。もう一個の相棒の車両は下の駅に停まっており、この両方を見るには、もう少し遅く来て、中間点で見るしかないなと思った。そのようなことを思いながら、直ぐに下山を開始する。

その後も順調に下って、登山口の鳥居に着いたのは、8時20分頃だった。直ぐ下の筑波山神社の境内が騒がしいので、何だろうと見ていたら、何やら神輿のようなものを担いだ人たちが、一列になって階段を登って来ていた。何をするのか、山頂の方に向かっているようなので、これから何かの神事が行われるのかなと思った。そのまま下ってゆき、ホテルの前を通過するときに「筑波山神社御座替祭」とあったので、そうなのかと納得した。「御座替(おざがわり)祭」とは何なのかと調べてみたら、年に二回(4月1日・11月1日)男体山・女体山のご本殿の神衣を新しいものに着替えるという大切な神事だとか。なるほど、それで朝から花火が打ち上げられて空砲が鳴っていたり、大勢の人たちがやって来ているのかと思った。しかし、当方は登山だけが目的なので見物する気にはなれず、そのまま駐車場に戻る。

   

筑波山神社の神事「御座替祭」の景観。これは先頭方の人たちで、この後も続々と人が集まって来ていた。神様も年に2回衣替えをなさるのかと、あとで人間の気遣いを微笑ましく思った。

駐車場には数台の車が停められていたが、管理人はおらず、料金の徴収もなさそうなので、着替えを済ましてそのまま車を出発させる。我が家への到着は9時45分。久しぶりの登山は終了した。さて、明日からしばらくの間、身体の節々が痛くなるぞ、と覚悟した。

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これぞ最高のPR

2015-04-04 05:17:02 | 宵宵妄話

 先日ネットを見ていたら、最近に無いとても素晴らしい話題に触れることが出来ました。そのことを少しく述べてみたいと思います。

先ずは、その話題となった岩手県は盛岡駅のJR駅の方が書かれた、今春高校生活を終えた若者たちへのメセージです。

 

 

この春に卒業を迎えたみなさまへ

          ご卒業おめでとうございます

雨の日も、雪の日も、鹿や熊が出た日も

東北本線、田沢湖線、山田線、花輪線、新幹線の列車をご利用頂きましてありがとうございました。

朝早起きして、列車に揺られ、勉強して、部活動をして、友達と楽しい時間を過ごして、夜の列車に揺られて帰る、……。疲れて寝過ごしそうになったこともあったでしょう。

そんなみなさまの毎日を、私たちが少しでもサポートさせていただけたなら、とても幸いです。

4月から始まる新生活、ふるさとを離れる人もいらっしゃるでしょうね。またひとつ大人になったみなさまが、今度は新幹線で岩手に帰ってきてくださることを、私たちは心よりお待ちしています。

これまで盛岡駅をご利用くださりありがとうございました。これからも引き続き盛岡駅をよろしくお願い致します。

 お祝いと感謝の気持ちを込めて   盛岡駅社員一同

                                                                          」

うん、素晴らしいアクションだ、と思いました。この文章が駅構内のホワイトボードに書かれていたのを読んで、感動された方が駅員の方に断ってネット上に投稿したのが、多くの賛同を得て話題が膨らんだとのことでした。

 この時期新しい年度を迎え、社会に巣立つ若者たちに、JR盛岡駅社員一同が感謝の思いを込めて、書かれたものということです。印刷物などではなく、消せば直ぐに消えてしまうホワイトボードに書かれたということも、意味があることのように思います。若い駅員の方の発想・提案からの実践だったとのことですが、これも素晴らしいなと思いました。

 ジジイの自分がひと様以上に感動を覚えるのは、最近のTVや新聞等のコマーシャル等を見ていて、苦々しく感ずるものがあまりにも多いからなのです。このホワイトボードの記事をコマーシャルなどと同類に扱うのは、真に失礼なこととは思いますが、その本質は変わらないと考えています。広告宣伝もコマーシャルも、その本質は事業者や広告主という主体者が世の中に呼びかけて主体者の思いを伝えようとするものです。一般的に言うPR(=Public Relation)というのは、主体者と公衆との関係のあり方を言うのであって、広告宣伝やコマーシャルは、企業者等が自己の製品や商品の価値を公衆に伝え、それを販売の業績につなげる行為を言うわけですが、その中身は真実であり受け取る公衆側の一人ひとりがそれを実感・享受できるものでなければならないと考えます。

 今の世の中に溢れている宣伝広告や各種コマーシャルのあり様をみていると、真実を疑うものがあまりにも多いように思えてなりません。一般大衆の利得心をくすぐり、例えば1%の効果を100%に拡大して購買心を動かすようなマヤカシ的なものが溢れているような気がします。また、ただ奇を衒(てら)うだけ(=気を引いて目立とうとする)の愚行としか思えないことをタレントやアニメの人物や動物などにやらせて、遮二無二知名度を上げようとするという様な手法ばかりがTV画面に溢れて、うんざりするばかりです。本来の番組の価値を損なうほどにコマーシャルが邪魔をしていることなど、お構いなく放映を機械的に続けている時間帯があまりにも多いのにも害を覚えずにはいられません。本来のドラマを見るためには、コマーシャルの悪行をひたすら我慢することが必要なのだ、と多くの視聴者は思っているに違いありません。喜んでいるのは、何も知らない小さな子どもたちと当事者たちだけかもしれません。ま、コマーシャルの放映料に支えられて放送局の経営が成り立っているのですから、致し方ない世情であることは承知しているのですが。

 JR盛岡駅のこの掲示板の記事こそが、無上の優れたPRのお手本ではないかと思いました。現代の若者にも素直に受け止められる、ありのままの内容だと思います。「いや、これはJR盛岡駅のおためごかしの宣伝じゃないか」などとひねた受け止め方をする者も少しはいるのかもしれませんが、悪意を覚える者はいないでしょう。ホワイトボードに手書きというのも、誠実感があって好感を覚えます。

 私がこれこそ本物のPRだと思うのは、このやり方が手馴れた作為的なものではなく、卒業して社会に巣立つ高校生たちに、自分自身の過去の思いを振り返りながら、本気でありがとうの思いを込めて新しい旅立ちを祝いたいという、駅に勤務する人の真情が伝わって来る、自然発生的な企画だからなのです。発想も手法も見事だなと思いました。

 この掲示板の話題は、ホワイトボードを撫でるほどに、たちまち消え去り忘れられてゆくことでありましょう。しかし、この文章に心のどこかを動かされた若者は、この駅と故郷を思う気持ちをしっかりと胸に刻んだに違いありません。そして、それはこれからの長い人生の時間を通して確実に実践されてゆくことと思います。それは盛岡駅に勤務するJR社員にとっては、直接には薄い関係なのかもしれませんが、このホワイトボードの記事は、地元を旅立つ若者たちに対して、事業の布石ともいえる、未来に続く大切な効果を及ぼしたのだと思います。本物のPRというのは、言い包(くる)める様なやり方ではなく、相手の心に素直に届いて溶け込んで行く、そのようなことばであり行為なのだと、この素朴なメセージを読んで改めてそう思いました。

盛岡の石割り桜の開花も間もなくのことでしょう。新しい旅立ちの若者たちに、大いなるエールを送りたいと思います。

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