山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

トキたちへのインタビュー

2009-03-31 04:10:00 | 宵宵妄話

今朝の新聞を見ていたら、「最後のメスも本州へ」という見出しで、佐渡で野生化を願って放鳥されたトキが、佐渡島を離れて本土の方へ行ってしまったという記事が目に入りました。しかも島を離れた鳥たちの全てがメスなのだといいます。これでは自然界の中での繁殖を期待した関係者の思惑とは全く違ったこととなり、佐渡市では、島から逃げ出した連中を捕まえて戻したいという要望を環境庁に出したということでした。

   

佐渡市、トキ保護センターの案内板。この奥の方に鳥舎があって、そこに保護されたトキが養育されているが、遠く離れた所にあり、望遠鏡ででも見ないと肉眼で観察するのは困難。

トキたちの気持ちというのはどんなものなのでしょうか?退屈に紛れて、ちょっぴり考えてみました。

<4羽のメスの言い分>

Q1:どうして島を離れてしまったの?

A:「あのねえ、あたしはさ、何時までも島の中にいたくなかったんだよね。だってさ、ずーっと籠の鳥だったでしょう。自由になりたいんだよね」

B:「そう、あたしもそうなのよ。箱入り娘のままで何時までもここに居たんじゃあ、婚期が遅れてしまうじゃない。島の中で一緒に育ったオスたちはさあ、皆頼りなくて気に入らないんだもん。海の向うになら、きっと心をときめかせてくれるようなハンサムさんが居るんじゃないかなあ」

C:「あたしはね、ちょっと違うんだよね。もっと美味しいご馳走をたんと食べたいのよ。島の中にはロクに泥鰌(どじょう)もいないしさ、それに人間たちが差し入れしてくれる餌だって、いつも決まっていて飽きちゃうんだよね」

D:「あたしはね、皆みたいに目的なんか何も無かったんだ。島に居ても良かったんだけど、メスの皆は出て行ってしまって、残ったのはわたしばかり。島には不細工で無気力な雄ばかりしかいないんだもの、淋しいじゃない。海を渡るのはちょっと怖かったけど、島に居る雄なんかにプロポーズされたりしたら大事(おおごと)だと思って、こっちへやって来ちゃったの」

Q2:本州に渡った感想はどうですか?

A:「自由を手に入れたって実感してるわ。だって好きな所に、いつでも好きなように行けるんだもの。でも足にへんなものを付けられて、何だか人間どもに監視されているって感じは拭えないわね。この間はさ、九州の方まで飛んで見たんだけど、疲れたわ。ちょっと行き過ぎだったかなって反省してる」

B:「わたしも確かに自由は感じるけど、意外に思うのは、何処へ行ってもハンサムな雄など見当たらないのよね。都会に行ったら居るのかなと思って、近くまで行ってみたのだけど、真っ黒なカラスの奴ぐらいしか見当たらなかったわね」

C:「わたしはご馳走狙いなんだけど、これは難しいなと思ったわ。だって、何処の田んぼに行っても泥鰌なんて居ないし、蛙は居るけど夏の間だけだし、寒くなってからはご馳走どころか餌を見つけるのが大変よ。ちょっと考えが甘かったかなって思ってるわ」

 D:「未だ飛んで来たばかりだから、よくわかんない。佐渡よりは良さそうみたい」

Q3:これからどうしますか?

 A:「そうねえ、わたしも年頃なので良い相手でも探そうかな。佐渡に残っている奴よりマシなのがどっかに必ず居ると思うわ。そんなことを心がけながらもっともっと飛び廻りたいわ」

 B:「わたしはね、決めて出てきた以上は、何としてもハンサムな連れ合いを見つけ出したいと思うわ。こんなに広い世界だもの、必ず人間どもが未だ気がつかない山奥かどこかに住んでいると思うわ」

 C:「うん、私も、も少し頑張ってご馳走を探して見るわ。新潟ではダメでも、少し足()を伸ばして、信州の山奥の方に行ったら見つかるんじゃないかな?何でも、千曲の向こうにある山の棚田には、農薬を使ってない場所が残っているというから」

 D:「エ~ッと、わたしどうしようかな。とりあえずはご馳走を探そうかな。その信州の棚田って所に一緒に連れてってくれない?」

Q4.佐渡に戻る考えはありますか?

 A:「あたしはそんなこと考えたことないわ。だって、こっちへ来て分かったのだけど、あそこは、昔島流しの犯罪者が住んでいた所だって云うじゃない。何だか怖い感じがするもの。もう二度と戻る考えはないわ」

 B:「わたしも帰る気はないわ。残っているオスたちのことを思うだけで、うんざりするもの。何としてもこちらでいいのを見つけなくっちゃあ」

 C:「もちろん、戻らないわよ。未だ何もご馳走を見つけていないんだもの。お腹一杯食べて、満足するまではそのような考えなど浮かぶもんですか。これから、これから!」

 D:「そんなことはわかんないなあ、わたしは。しばらく先輩たちに教わって過してみて、その後で考えたいわ。でもあの怖い海をもう一度渡るのはいやだなあ」

というわけで、本州に渡ったメスたちには、島に戻るという考えは殆んどないようでした。無理に連れ戻しても、又飛び出してきてしまうという公算大の感じがしています。

 

<オスたちの言い分>

Q1:君たちはどうして島を離れないのですか?

 Z:「ボクはね、此処に居たいの。だってね、ママのそばから離れたくないもん。ママが判るんかって?もちろん知っているよ。ほらあそこのさ、センターの中にある孵化器って奴さ。あれ懐かしいのよね。ママを置いて遠くに行く気なんか考えられないよ」

Y:「めんどくさいんだよ、俺は。メスのバカどもは、皆海を渡って行っちゃったけどさ、何もわざわ危ねえ思いをして、遠い所に行かなくても、人間どもがちゃんと餌を世話してくれているんだろ。苦労なしに喰って行ければ、俺はそれでいいんだよ」

X:「ボクはね、行方不明になったV君のことが心配なんだ。彼はね、生まれた時僕の隣に居たのさ。その所為なのか、妙に気が合ってさ、ずっと一緒に居たんだけど、ある日突然行方不明になっちゃったんだ。何か、事件に巻き込まれたんじゃないかと心配でさ、彼の消息の判るまでは、此処を動く気にはなれないのさ。人間さんたちは、どうしてもっと真剣に彼のことを探してくれないのかなあ。だって、足にチップ付けていたんでしょ」

W:「俺らは佐渡が好きなのさ。此処で生まれたんだし、此処で飯を食って、此処で一生を過そうと決めたんだ。佐渡ってさ、一回り飛んでみたけど、いい山もあり、川もあり、湖だってちゃんとあってさ、平野には田んぼだってたくさんあって、此処は天国だぜ。何も無理をして海を渡ることなんか無いさ。そう思わない?」

Q2:君たちは結婚問題については、どう考えているの?

Z:「ボクはそんなこと考えたこともないよ。結婚なんかしなくても、ママが幾らでも僕たちの兄弟姉妹を生んでくれるんじゃない。それに、飛んで行っちゃった彼女たちには、結婚したいなどと思うほどの魅力あるのは居なかったしね」

Y:「それも、めんどくせえなあ。第一、もう島にはメスなんぞいねえし、したくたって無理というもんだぜ。仮に嫁さん世話して貰ったとしても、子どもが生まれてそいつの面倒を見るなって、真っ平ごめんだぜ」

X:「V君のことが心配で、とてもそんなこと考えている暇は無いよ。V君の消息がはっきりして、安心できる状態になったら少しは考えてもいいけどさ」

W:「結婚ねえ、……。うーん、考えさせられるなあ。実はね、飛んで行っちゃった4羽の中に、好きになりかかっていた奴が居たんだけど、彼女はあんまりこの佐渡が好きでないみたいなんだ。その内にやっぱり佐渡は好いとこなんだと気づいて戻ってきてくれたら、そのときは思い切ってプロポーズしたいと思ってるんだ」

Q3:もし島を出た4羽のメスたちが連れ戻されて島に帰ってきたらどうしますか?

 Z:「ボクは、今と変らないよ。なるべく喧嘩など吹っかけられないように気をつけるだけさ」

 Y:「めんどくせえなあ。人間どもがやたらに子作りに気を使うのは煩わしいぜ。ブスばっかりで、なかなかその気になれないぜ。どうしてもというなら、子育ては無しという条件で結婚を考えても構わんけど、……、でもめんどくせえなあ」

 X:「だから、さっきから言ってるでしょ。V君のことが心配だって。同じことを何度も訊かないでよ」

 W:「そうねえ、そうなったら彼女に早速結婚を申し込むよ。ま、説得が必要かもわからないけど、この島のためにはどうしても俺たちの愛を育てる必要があるんだと口説けば、何とかわかってくれるんじゃないかな」

ざっとこのような具合で、オス君たちはどうも情熱不足のような感じがしました。他にも幾つか質問を用意したのですが、新聞記事の期待に応えるような回答は難しそうなので、これにて質問を打ち切ることにします。

   

トキ保護センター入口付近で飼われていた、東南アジアの何処かからつれてこられた紅色のトキ。こちらの方が日本在来のものよりもずっと派手である。

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老人ホーム火災死亡事件に思う

2009-03-30 00:41:48 | 宵宵妄話

群馬県渋川市の「静養ホームたまゆら」の火災事故で10人の死者が出たことが、様々な形で問題となっています。この問題の背景には、自分自身を含めたこれからの高齢化社会をどう生きるか、老人をどう面倒を見るかという、個人と国家運営の基幹に関わる重要なテーマが幾つか潜んでいるように思います。このことについて少し触れて見たいと思います。

新聞記事やTVのニュースを見ていて、やたらに施設の建物や設備の方に話題が行っているのを、何だか問題の本質からズレたことを騒いでいるなと思わずにはいられません。建物や設備がきちんと必要条件を具備し、安全確保の運営が出来ておればこのような惨事には至らなかったという考え方は、それはもうあたりまえのことです。火災要因や死亡要因についての調べが進むにつれて、あれこれと欠陥の指摘が報道され、運営者の非が責められていますが、それは正しいとしても、真の問題解決のためには、何だか見当違いのような気がするのです。

10人もの死者を出したということは、運営者としてその責任や非を追及されても当然のことであり、責めを負わなければならないことに違いありません。安易に許されるはずなどあり得ないことです。しかし、何だかそれだけではないような気がするのです。もし運営者サイドに経済的な余裕があったとしたら、このような施設や設備は造らなかっただろうし、管理のあり方も違っていたのではないかと思うのです。TVに出て謝罪している責任者の老人の顔を見ていると、この人を責めても意味が無いような気がしました。

欠格だと分かっていながら敢えて粗末な建物を立て、老人を受け入れ、不十分な管理に甘んじているのは、心底からの悪心の為せることではないように感じました。不正のことは承知していても、やりたくても出来ないので、何とか出来る範囲のことを目一杯やろうとしていたに過ぎなかったように思えるのです。そして、その背景には、多少の不備はあったとしても、とにかく何とか入所を引き受けて貰って、面倒を見て欲しいという強いニーズの現実があるに違いありません。

私はこの事件の本質というか、背景には姨捨山伝説と同じものが横たわっていると感じています。姨捨山伝説すなわち棄老伝説には幾つかがありますが、もっとも有名なのは長野県千曲近郊(現筑北町)の姨捨山(=冠着山:かむりきやま)伝説ではないかと思います。これは深澤七郎の小説「楢山節考」を読むとイメージが膨らみます。70歳を迎えると、糊口を減らすために楢山という姨捨山に入定(にゅうじょう=死ぬこと)のために向わねばならぬという、真に悲しくもおぞましい、貧しい地域社会の掟のような慣習を、深澤七郎は小説の形で語ったのですが、これを読むと、人間社会の本質は必ずしもビューティフルなものではないという、厳しい現実を突きつけられた感がします。

余談ですが、先日旅の途中で安曇野から千曲に抜けるR403を通った時、聖高原から千曲高原へ出て、千曲川を見下ろす高台から川中島の辺りを見渡して、往時の信玄と謙信の戦のことなどを思ったのですが、その坂を下りた所に「姨捨」という名の駅があるのに気がつき、そうか、此処がかの姨捨伝説の近くなのかと思い当たり、その駅を訪ねたのでした。結局どこにあるのか訪ね当てることが出来ずに諦めたのでした。未だお前はちょっぴり姨捨のことを考えるのは早いという、天の啓示のような気もしたのでした。

後で地図を見ると、千曲高原の南東に少し行った所に姨捨山(=冠着山1,252m)というのがあるのを知ったのでした。この地方はその昔、恐らくやっとの思いで生きている農民たちの小さな集落が幾つかあったのかも知れません。今でも天に届くような棚田が山の斜面に張り付いて広がっています。往時は、ただただ貧しさ、貧困のどん底にあったが故に、口減らしのために働く力がなくなった者を除かざるを得なかったのだと思います。そうしないと、全員の命が途絶えてしまい兼ねなかったのでしょう。真に哀しい話であります。

この小説を書いた深澤七郎は、当時は良い意味でも悪い意味でも相当に注目され、話題となった人のようですが、私は今の時代では、この作品を通じて優れた問題提起をされた方ではないかと思っています。なぜかといえば、姨捨伝説は現存すると思うからです。早い話が、今回の事件がそれを語っているのではないでしょうか。

「静養ホームたまゆら」の入所者の殆んどは身寄りの無い、或いは身寄りはあっても生活保護を受けているようなご老人だったと聞いています。不幸にして焼け死んでも、心の底からそれを悲しみ、涙を流してくれる人がいたのでしょうか?もしかしたら、そのような恵まれた老人は一人もいなかったのではないでしょうか。ニュースや新聞では、そのようなことには一言も触れていないような気がします。触れてはいけない部分なのかも知れません。

私には、この「静養ホームたまゆら」というのは、現代の姨捨山に他ならないように思えるのです。生きがいもやり甲斐もなく、ただ世の中に害を与えぬように、じっとそのときを待つ場所として、そこが用意されていたのだという気がしてなりません。楢山節考では、おりん婆さんは自ら志願して、冬の山での入定を願ったのですが、今の世では、山ではなくこのような欠陥のある建物に収容されて、その日が来るのを待つということなのでしょう。

しかし、今の世の中をよくよく眺めてみれば、このような姨捨山に住める高齢者は実は真に恵まれているのであって、そこまで辿り着けずに孤独死し、ミイラ化している者だって居るのですから。糊口を凌(しの)げなかったという、貧困ゆえの姨捨ではなく、現代はそれとは異種の姨捨現象が起こりつつあるのではないかと思えてなりません。

一体、その責任は誰にあるのか、なかなか見当がつきませんが、一つはっきりいえることは、現代人の多くが抱えている心の貧しさが根底にあることは間違いないと思うのです。政治などが責任を負うべき社会システムの構築なども、高齢化社会に関しては極めて不明確のような気がします。

渋川の事件は、貧しい運営者の運営するホームに入った貧しい入所者の悲しい出来事だったと私は思います。そして、それはわが国の高齢者問題の現実の、厳しい断片を示しているように思います。この問題は、施設や設備の改善対策だけでは決して解決できない重い課題を内包していると思うのです。

これから先間もなく、わが国の人口構成は、65歳以上の高齢者が4人に1人という現実を迎えることになります。現在のような不況期が到来すれば、この4人に1人が生み出す様々な問題を支える仕組みや財源の確保など不可能となってくるのではないかと心配です。仮に3千万人の内の1%を姨捨対象的な存在とし捉えたとしても、その実数は30万人にもなるのです。恐らく問題を抱える人はそのような少ない数ではあり得ませんから、その対応のあり方をきちんとしておかないと、日本国は老人行政で押しつぶされてしまうことになり兼ねません。

先日認知症に関する講演を聴いた時に、現在その患者が170万人も居り、更に増えつつあると聞き驚きました。この170万人は家族等を含めて少なくともその3倍の関係者に甚大な影響を及ぼすことになると思われ、認知症だけでも間もなく1千万人近くがこの病で振り回されることになるわけです。家族の手に負えなくなった時、最後は姨捨を考えざるを得なくなるのではないでしょうか?諸条件によほど恵まれている人を除けば、多くの家ではとにかく安全などは二の次に、安い費用で面倒を見てくれる施設を探すに違いありません。

このような現実にどう対応するかは難しい問題ですが、基本的には二つの側面があって、その一つは個人の、高齢者としての自覚と取り組みであり、もう一つは社会システムを整備するという立場での政治・行政のあり方ではないかと思っています。この二つの側面の実現に当たって、とりあえず私自身が出来ることは、これから先を高齢者としてどう生きるのかという覚悟だと思っています。如何に安心の内にあの世に行くか。そのために何をどうしなければならないのか、ということです。

渋川のこの事件は、様々なことを自分に考えさせてくれました。対岸の、遠い所の火事ではなかったと思います。何時我が身が姨捨山に担がれるのか、明日はその時かもしれないのです。それにしても「静養ホームたまゆら」とは、よくも名付けたものだと思います。「たまゆら」とは、「束の間、瞬間」といった意味だと思いますが、束の間の静養が焼死に至るとは、……。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りせずにはおられません。  合掌

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WBC日本優勝に思う

2009-03-29 00:11:27 | 宵宵妄話

思考停止の状態の中でも、そのようなことに無関係に様々な出来事が起こり、時間が流れてゆきました。その中から幾つかを引っ張り出して、自分の感慨などを延べて見たいと思います。今日は、早くも興奮が醒めかけているWBCの日本優勝についての話題です。

先ずは単純に日本の優勝を喜んじゃいましょう!完全優勝とは言えないとしても、結果を出して頂点に立つことができたのですから、これはもう最高です。銭の無い老人は、午前中の放映でもたっぷりある時間を使いながら、TVの前で焼酎を舐めながら観戦できる幸せを、喜びの拍手で見終えることが出来てとにかく満足でした。これを味わい、嬉しがらない奴は、日本人ではないと断言して、喜んでしまうのが何よりも一番大切なことなのではないかと思います。

そのあとで、ひねた老人はいろいろなことを考えたりしてしまうのです。喜びの中にあるもの、喜びの脇にあるもの、喜びの裏にあるものなどなどを思ってしまうのです。70年近く人間をやってしまうと、出来事の真実と言うのは一つではなく、無数の事実と嘘に彩られていることを思ってしまうのです。我ながら素直でないなと思うのですが、まあ、お許しあれ。その幾つかを記したいと思います。

◇日本チームはイチローが全て?

先ずゲーム全体を通して、WBCがそれを観戦もしくは関心を持つ人々のために開催されているのだと考えますと、それに最大限応えたのは、イチロー選手だったと思います。監督でも活躍した若手でもなく、むしろチームの苦戦の大きな要因となったイチロー選手の不活躍だったのではないかと思ったのでした。最終的に優勝が出来、日本中がその喜びに沸いたのも、イチロー選手の不調を前提とした最後の活躍があったからではないでしょうか。もしどのゲームも平均的にイチロー選手が活躍していたら、却ってつまらない雰囲気となったのではないかと思うのです。期待通りに願いがすんなり叶えられると言うのは、実はあまり面白いものではありません。願いを叶えるために100ある目標の内、99まで期待を裏切られたとしても、最後の一つを実現して、それが最終の目標の達成につながったと言うような状況が、人びとの感動を増幅させるのではないでしょうか?イチロー選手は、まさにそれを身をもって実践してくれたのだと思います。

しかし、観客の側はそれでもう大満足なのですが、ご当人のイチロー選手そのものは、これはもうたいへんな心の激痛・辛苦の中にもだえながらの毎日だったと思うのです。彼は天才などではなく、実に細やかな理論実践の努力家なのだと私は信じて疑いません。天才の部分があったとしたら、それは運を引き寄せる力であり、それもまた努力の結果なのだと思っています。今回のチームに「サムライ」という名前が付けられましたが、このチームの中で本当にサムライだったのは、イチロー選手を筆頭とした数人ぐらいではないのかと私は思いました。

ガムをくちゃくちゃ噛みながらゲームをしている奴はサムライなどではありません。私の中では、「サムライ(侍)=武士」というイメージがあり、戦いに向う武士が戦いの前に飯を食うのは当たり前としても、命を賭けての戦の最中に口の中にものを入れてくちゃくちゃやっているのは、言語道断であり断じてサムライの資格など無いと思います。侍というのは、精神だけで語るものではなく、形に於いてもそれを具現する者でなければならないと思います。侍というのは、生死をかけて戦う故に、悩み・苦しみながら己を鍛えて平常心を求めるのです。くちゃくちゃやりながら苦しむという手もあると思いますが、それは武士道とは無関係の世界の話です。

◇韓国という素晴らしいライバルの存在に感謝

野球というゲームが、本場のUSAを置き去りにしてアジアの小さな二国がその頂点を争うと言う現実は、この両国国民のライバル意識の熾烈さにあるように思います。日韓の過去の不幸な歴史が、韓国をしてこのゲームを燃え立たせる最大の要因なのかも知れませんが、その怨とか恨とかいわれるものも少しずつ浄化されて、本物のライバル意識となりつつあるような気がします。切磋琢磨(せっさたくま)ということばがありますが、怨や恨などから解き放されてお互いの力を磨いて競う時に、そこに感動の結果が招来するのだと思うのです。野球というゲームにおいては、日韓はこれから先も素晴らしいライバルであって欲しいと思います。

私は韓国と言う国には未だ一度も行ったことがありません。だからその現実がどうなのかは分らないのですが、儒教の国と言うことでは、日本の師に当たる歴史を重ねていることを疑いません。日本の文化の発展は韓国の恩恵を抜きにしては考えられないと思っています。北朝鮮は儒教を捨て、訳のわからない軍事独裁の国に成り果ててしまっていますが、この国だって歴史を辿れば日本とは大いに関わりがあり、本来友邦であったのです。今でも朝鮮を蔑視する向きの人がいますが、その人は天に向かって唾を吐いているような自分に気づいていない人だと思います。なぜなら、もしかしたら日本人と言われる民族の大元は朝鮮からの渡来者である可能性だってあるのですから。

今回は5戦して日本が辛うじて勝ち越しましたが、7戦すればどうなるかは判らない話であり、韓国という素晴らしいライバルがいて初めて日本が力を伸ばしうるのだと言うことを肝に銘じる必要があると思います。

◇USA・カナダは本気なのか?

もう一つ不思議なのは、野球発祥の地であり、大リーグに30球団も擁しているUSAやカナダという国が、本気でこのWBCに参加しているのだろうかという疑問です。その答えは明白です。カナダはともかく、USAなどは全くのお付き合いのためのお遊びでしかないと思っているに違いありません。まあ、それなりにメンバーを選んで(といっても、誰を選ぼうが全員大リーガーに違いないのですが)ゲームには参加していますが、選ばれた彼らには、何が何でも勝つなどという大それた思いなど全く無いと思います。怪我をせずに、なるべくなら負けないようにするという程度のことが参加選手の共通意識なのでしょう。それは彼らのゲームでのプレーの様子を見れば自ずと判ります。メジャーリーグでの戦いぶり、とりわけてワールドシリーズの戦いぶりなどから比べれば、全く戦意の上がらぬこと夥(おびただ)しい感じがするのです。負けてもあまり悔しがらないのも見て取れます。

各国はそれなりに国を挙げてのチームとしての意識を持ってゲームに参加しているのに、なぜ肝心のUSAが本気にならないのでしょうか?その最大の理由は、何と言ってもUSAではメジャーリーグが第一であり、WBCなどと名を打っても、そのような謂わば枝葉のチームの集まりの大会など、騒ぐほどのものではない。ということなのでしょう。そのようなUSA大リーグのプライドがそこにあるのだと思います。

そして何よりも思うのは、USAの利得主義といったものです。私はUSAというのは、善悪でものごとを判断するのではなく、損得での意思決定を最優先する国だと思っています。これが無ければ尊敬できる国なのですが、アメリカンドリームなどと一見美しく輝く自由のムードも、皮を剥がせば損得の美醜に過ぎない空しさを感じて、どうも心が許せないのです。その最たる出来事としては、京都議定書の批准問題があります。地球をダメにしても自国の利益を優先するという思想が明白に示された事件でした。国際社会における他の多くの問題も、USAは国益優先を表に出さないようにしながら、決して損をしないような政治経済の運営を図っているように思うのです。ま、この発想は何もUSAだけではなく日本を含めて世界の全ての国が国益をないがしろにするなどということはありえないのですが、何と言っても世界での最強国がこのような発想むき出しなのですから、始末に終えないなと思うわけです。

というわけで、この考え方をWBCに当てはめれば、USAとしては、この主催は大リーグ機構と大リーグ選手会によるものであり、ショービジネスの一環として収益に供するか否かが重要であり、国を挙げての戦いぶりなど、とんでもない見当違いの話だということになるのでありましょう。ですから、参加する選手も勝利そのものよりも、ビジネスとしてのリターンを確保できれば、それで十分という発想となるのだと思います。大リーグのプライドなど、本番のメジャーリーグで示せば良いことと割り切っているに違いありません。この辺が言ってみれば利得に長けた大人と子どもの違いということになるのだと思います。

公平感のない訳のわからない組み合わせ、審判の不明確さなどゲームの運営には明らかに不透明の感が否めないものが随所に見られるのも、最終的にビジネスとしての興行に益するのであれば、大した問題ではないと考えられているからでありましょう。善悪の物差しよりも損得の物差しの方がはるかに優先されていることは明らかです。そして、日韓を初め、各国がそれなりに燃えてくれたことが興行に大いに貢献してくれる結果となり、従ってこの興行は大成功だったというのが、USAの野球関係者の本音なのだと思います。とにもかくにも、朝日新聞の解説記事によれば、興行の収益の7割弱はUSA(大リーグ機構と選手会)のものであり、残りの3割を他の国が分け合うというらしいのですから、この世界ではこれはもうUSAの一人勝ちというしかありません。(少し悪意が強すぎる解釈かも)

しかし、最後に思うのは、USAのこのような考え方が、やがては野球というゲームをダメにしてゆくのではないかという懸念です。ゲームの中に損得だけではない要素がたくさんあるのをきちんと受け止め、それを力にしたビジネスを展開しなければ、やがてはUSAのベースボールもその魅力が縮小されてゆくに違いありません。メジャーリーグでは、これから先も益々各国の有力選手を集めることになるのだと思いますが、その国際化が進むにつれて、WBCが現在の主催者の手を離れてゆくことも考えられ、むしろそう願いたいものだと私は思ったりしています。金まみれのスポーツは美しくないと思います。運営費+αで、どの国も本気でゲームに参加するような大会であって欲しいと願っています。ま、生きている間は無理でしょうから、あの世から観戦することにしましょう。

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思考停止からの脱却

2009-03-28 01:42:25 | 宵宵妄話

毎年3月は思考停止となる日が多発することもあって、ブログには古い旅の記録を持ち出して、写真を多用しながら紹介をさせていただきました。その3月も間もなく終わろうとしています。桜の開花も報じられて、次第に本格的な春が近づいてくるのが実感できる季節となりました。花ならぬ鼻の方は相変わらず薬無しでは正常に機能しない状態が続いていますが、幾らなんでも何時までも思考停止を続けているわけにも行かず、とにかく2005年の春の東北行の掲載が終わりましたので、話題を換えて思考停止からの脱却を図りたいと思っています。

我が家の裏庭に作った小さな野草園では、今月に入って間もなくニリンソウが芽を出し、その後間もなくして春ラン(昨日掲載)が花を咲かせ、カタクリが芽を出し、キクザキイチゲやイカリ草も芽を出し柔らかい小さな葉を広げています。去年アケビのために作った棚に、半分ほど絡みついたまま枯れたようになっていたアケビの蔓からも小さな緑の葉が存在を主張しています。去年花を咲かせてくれた雪割草は、今年はどうなのか少し心配していましたが、たくさんの蕾を膨らませて笑っていました。今朝覗いたら、ショウジョウバカマが愛らしい花を咲かせてくれていました。

この季節になると、私はこれらの小さな生命の芽生えに元気づけられて思考停止からの脱却を図ることができるのです。

<野草園の芽吹き>(3.26.2009)

      

ニリンソウ(二輪草) 今年は2月の半ば頃から芽を出し始めたが、花の方は未だ蕾も見えない。このところの寒さで、咲かせるのをためらっているようだ。

   

カタクリ(片栗)とキクザキイチゲ(菊咲き一華) 中央右手の一枚葉がカタクリ。カタクリは去年も花を咲かせてくれたので、今年も大丈夫だと思う。イチゲにも蕾が見えたので、二、三輪は花を咲かせてくれるかもしれない。

   

ノカンゾウ(野萱草) 丁度今が食べごろかも。茹でて酢の物などで春を味わうことが出来るらしい。未だ食べたことは無い。去年は、夏近くに大きな橙色の花を咲かせてくれた。

   

イカリソウ(碇草) 我が家の野草園には三種類のイカリソウが植えてあるけど、これは数年前に秋田の峰浜の道の駅で買求めた、普通のイカリ草である。

         

シラネアオイ(白根葵) 薄紫の花の姿を早く見たいものだと心待ちしている。野に咲くシラネアオイはこの世で最も美しい花の一つだと思っている。日本固有の花。

   

ユキワリソウ(雪割草) 何年か前、佐渡の帰りに越後の米山の道の駅で買ったもの。当時は小さな株だったが、今では三周りほど大きくなったような気がする。もうたくさんの蕾をつけている。早よう、咲け!

   

アケビの芽と蕾 このアケビは、喜多方の春ランに紛れてやって来たもの。昨年は棚を作ったのだが、その半分も満たしてくれなかった。今年は棚を一杯にしてくれることと、出来たら実をつけて欲しい。

 

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旅の記録から:2005年東北の春訪ね旅(最終日)

2009-03-27 04:51:11 | くるま旅くらしの話

第25日(最終日)<5月17日()

道の駅:喜多の郷→(米沢街道・越後街道・茨城街道経由)→道の駅:東山道伊王野(栃木県那須町)→道の駅:下妻(茨城県下妻市) →自宅    <243km>

今日はひたすら帰りの道を辿るだけである。折角ここまで来ているのだから、ついでに西会津の道の駅などにも寄っていってはどうかな、などとも思ったが、きっぱりと取り止めた。

朝の周辺散歩はいつもの習慣だが、近くの山に入ってゆくと切り倒された雑木林の中に春(しゅん)ランの大株があった。開発のためなのか木を切り倒されたのでは、この春ランたちは生きては行けないのではと勝手に考え、家に連れてゆくことにした。罪の意識はない。木を切る奴が反省すべきだなどと思っている。

   

我が家の野草園の春ラン。喜多方の山から連れて来て4回目の春を迎えたが、益々元気でたくさんの花芽を膨らませてくれている。(3.25.2009撮影)

喜多方のラーメンも酒も(無理に)見向きもせずに南下し、越後街道(国道49号線)から茨城街道(国道294号線)に入る。何とこの道は我が棲家のある守谷市まで続いているのだ。今日はずーっとこの道を辿ってゆくことにする。地図では猪苗代湖が左手にあるのだが、全く見えない。山中の道を下り続けて行くと白河市に入る。この市街地は整備が遅れていて、いつも道が分からなくなって迷う。何度も来ているのだが今回も少し迷った。

この町はあまり好きではない。その最大の理由は町にあるのではなく、かつての江戸時代のこの藩の治世者であった白河候、松平定信という人物が好きでないからである。名君などという人もいるらしいが、将軍になり損ねた怨念を田沼意次に歪めて振り向けた人物であり、田沼贔屓の拓には性が合わないのである。この町の道がくねっているのも彼の根性の悪さがもたらしたものなのではないかなどと勘繰ってしまう。(しかし、地元の方にはとんでもない偏見と映るのは間違いなく、本当はこのようなことは黙っていた方が無難だということは承知してはいるのだけど、……)消えてしまった国道294号を探し当てて更に南下を続ける。

白河市を過ぎると茨城街道は旧陸羽街道と名が変わる。昔は東山道と言ったのかも。那須町にある東山道伊王野という道の駅で小休止。ここは栃木県なので東北道の駅スタンプラリーとは関係なし。黒羽町、小川町、烏山町、茂木町と南下を続ける。これらのエリアはその昔の戦国時代には常陸の守護大名佐竹氏が切り取りに苦労した場所である。群雄割拠の時代は、全国規模の争いだけではなく、小豪族の争いも熾烈(しれつ)を極めていたのだろう。のんびりと田畑の広がる景色を見ながらいろいろなことを思った。

やがて茨城県に入り下館(今は筑西市となった)から下妻に来て、ここの道の駅で最後の小休止。ここまで来れば家まではもう1時間もかからない。周りの田んぼに植えられた稲の青さが東北のそれと大分に違っているのに気づく。緑の色が数段濃い。

その後は一気呵成(かせい)(?)に我が家へ。到着は14時20分。これで旅は終りとなる。

 

<旅を終えて>

24日目の我が家に戻って驚いたことが幾つかある。我が家の庭の植物達も我々と同じように、この地で迎える初めて春である。出かけるときには未だ芽を出さない奴や、なかなか新しい葉に生え変わらない木があって、大丈夫なのかと心配したのだが、それらの様子が一変していて、殆どの木々や苗たちが生き生きと息づいているのに感動した。

その中でも特に驚いたのが3つある。その第一は桃色タンポポ。これは去年の晩秋に旅先の鳥取県大栄町で買ってきたものだが、冬を越して春になっても一向に花を咲かせる気配が無く、今まで見たことの無いタンポポだったので、どのような花を咲かせるのかが楽しみだった。しかし出かける前はとうとう花を見せず、うなだれた蕾が頼りなさそうに風に吹かれていたのである。それが帰ってみると、思わず「えっ!これはなんだ!」と指差して叫んだほどインパクトのあるたくさんの花を咲かせて待っていたのである。確かに桃色のタンポポの花なのだが、道端のタンポポのイメージからはほど遠くて、群がって伸びたかなりの背丈(50cmほど)の先に一斉に花を咲かせているのである。そうか、こんな奴だったのかと不思議な感動に打たれたのであった。

次に驚いたのは、これも同じ大栄町で買ってきたイチゴである。10鉢の苗を玄関先の生垣の前に植えたのだが、それらが大きく育って、たくさんの熟れた赤い実をつけていたのだ。冬の間中、なかなか大きくなってくれなくて、これでは実をつけることが出来ないのではと心配したのだが、今は逞しく幾つものランナー()を出して、結構大きな実をつけていた。早速口に入れるとやや酸味の強い甘さの味と香りが口の中いっぱいに拡がった。

もう一つ驚いたのがある。それはやはり去年の同じ旅の途中、九州の大分でやっと見つけて手に入れた「木立ダリヤ」という南国の花の苗木である。持ち帰った時は、既にかなり弱っていて、とても冬は越せないだろうと思いながらも、自分なりに懸命に藁などで包んでやって大切に扱ったのだが、春先にはすっかり枯れてしまって、その残骸を切り去っていたのである。ところがその同じ場所に紛れも無くあの木立ダリヤの茎と葉をしっかりつけた新しい生命が生え育っているではないか!大丈夫だったんだ、と改めて植物の生命(いのち)は、地上表面だけにあるのではないということを思い知らされた次第である。

この他にもクロガネモチやソヨゴなどの葉も生え変わって、つやつやと新緑に輝いていた。東北の春も素晴らしかったが、我が家の春もそれ以上にすばらしいということを思い知らされたのであった。

今年こそはゆっくりと旅くらしを楽しもうと思いながら、又しても走り回り過ぎを反省する結果となったが、少しずつ東北の良さが分かりかけてきたように思う。今回は北東北地区中心の旅だったが、下北や津軽、そして早池峰などの山奥を訪ねてみて、まだまだ知られていな美しい日本の姿があるなと思った。特に東北の山々は桜が美しい。大好きな山桜は東北では殆どが大山桜で、その美しさは吉野のそれにも引けを取らず、むしろそれ以上に楚々とした艶やかさがあるように思う。それは東北に住む人たちの心の美しさと繋がっているのかもしれない。今回幾つもの山桜に逢って、ついにはその苗木までも買い求めることが出来て大満足である。来年もまた是非、東北に純粋な日本の春を訪ねたいと思う。

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旅の記録から:2005年東北の春訪ね旅(第23日)

2009-03-26 00:26:23 | くるま旅くらしの話

第23日 <5月16日()

道の駅:米山→道の駅:南方(宮城県南方町)→(古川佐沼線・陸羽街道)→道の駅:三本木(宮城県三本木町)→道の駅:おおさと(宮城県大郷町)→(陸羽街道・仙台、白石市経由・七ヶ宿街道) →道の駅:七ヶ宿(宮城県七ヶ宿町)→大峰桜(宮城県七ヶ宿町) →道の駅:高畠(山形県高畠町)→(米沢市・八谷街道)→道の駅:田沢(山形県米沢市)→道の駅:喜多の郷(福島県喜多方市)(泊)<257km>

 今日は宮城県で残っている道の駅を拾いながら七ヶ宿街道から米沢経由で喜多方の道の駅に泊まり、旅の垢を落として明日家に戻ることにしようと決める。

 朝、周辺を歩いてみると、隣接する公園の中に銅像が建っており、「第三代横綱 丸山権太左衛門」とあった。江戸時代のこの町出身の怪力無双の名横綱だったとのこと。そばにこの人の句碑があり、「一つかみ いざ参らせむ 年の豆」とあった。なかなかの人物だったことがわかり、妙に嬉しくなってカメラのシャッターを何回も切った。

  

 第3代横綱 丸山権太左衛門の銅像と句碑(宮城県米山町出身~江戸時代)

食事のあと出発。南方町の道の駅に寄った後、陸羽街道に出て仙台に向け南下。仙台バイパス通過してさらに南下を続け、白石市郊外から七ヶ宿街道に入って七ヶ宿の道の駅に向かう。七ヶ宿というのは江戸時代参勤交代で江戸までを往復する際この街道に七つの宿場があり、それがこの町の名の由来らしい。山又山のなかに宿場が点在していたのであろう。

途中町外れ(といってもこの辺りは皆どこも町外れの感じがするのだが)に「大峰桜」の案内板があるのに気がつき、車を停めて立ち寄る。今にも消え入りそうな小さな桜の古木が、周囲を防護柵に守られてそこにあった。

 山形県に入って、高畠町の道の駅に寄った後、米沢市外を通過して喜多方市に向う八谷街道へ。市の郊外(山中)にある道の駅戸沢に立寄る。喜多方に向う山道は、往路とは見違えるような新緑だった。4月末にこの道を下ってきた時は未だ両側に雪が残り、それが融け出して山の早春という感じだったが、今はわずかに山頂に付近に雪の塊を残すのみである。その生命の萌える輝きに感動の連続を味わいつつ、何本かの長いトンネルを抜け、喜多方市のはずれにある道の駅喜多の郷に着いたのは16時半頃だった。

 この道の駅にある「蔵の湯」という温泉は、17時を過ぎると100円割引となり300円で入ることが出来る。とても良心的な経営だと思う。お湯もいい。今日が最後となるので心ゆくまで温泉の湯浴みを楽しんだ。最後のビールも美味かった。

   *   *   *   *   *   *

<旅のエッセー>

        大 峰 桜 に 思 う

 宮城県白石市から米沢市に向って山間を縫って走る国道113号線は七ヶ宿街道と呼ばれている。七ヶ宿街道は、江戸時代の参勤交代の大名行列や一般の旅人が、白石と米沢との往来に要したこの山道に、七つの宿場があったことに由来している。白石市側から坂道を登ってゆくと、阿武隈川の支流である白石川上流の深い渓流に沿って小原温泉というのがあるが、この辺りを碧玉渓とも呼ぶらしい。更に山奥のトンネルを幾つか潜りぬけると大きなダム湖に出くわす。ロックヒル方式というコンクリートなどを使わないやり方で造られたダムで、完成までにかなり長い年月を要したようだ。そのほとりにある道の駅からは、観光客向けなのか巨大な噴水が時々水煙を上げているのが見える。

東北の春めぐりの旅も終りに近づいて、米沢を抜けて喜多方に立ち寄って、旅の締めくくりとして温泉に入って一夜を過ごしてから家に帰ろうと考えこの道を来たのだが、周囲の山々の萌え騒ぐ様子は、噴水の独りよがりの騒音よりもはるかに騒々しく目に聞こえてくる。その騒々しさを味わいながら幾つかの宿場らしい集落を通り抜けてゆくと、道の右側に「大峰桜」の案内板があるのに相棒が気づいた。あわてて車を停め、その案内板に近づいた。

十日以上前になるだろうか、秋田辺り確か角館だったか、TVのローカルニュースで、東北には1本しかないという桜の話を聞いたのを妙にはっきりと憶えていたのは、この旅の楽しみの一つが観桜にあり、且つとりわけ山桜に関心が深かったからなのかもしれない。そのたった1本があるのが、この七ヶ宿だったのを思い起こしたのだった。
こころ弾ませながら近づいてみると、周囲を保護柵に囲まれて4、5本の細く古い枝をわずかに伸ばした桜の株が一つあって、その枝先にほんの少し紅を含んだ白い楚々とした花を咲かせていた。今が満開のようである。けれども華やかさよりもむしろ悲壮さ、哀しさのようなものがその桜には漂っているような気がした。案内板には平成16年に天然記念物として町の文化財に指定された旨が記されていたが、それ以前はかなり乱暴に扱われていたか、或いは虐待されていたのかもしれない。今頃になって人間どもの突然の心変わりに戸惑っているようにも思えた。

 

 大峰桜。山桜に近い花が密やかに咲いていた。この後もずっと咲き続けて欲しいと願わずにはいられない。

 案内板によると、大峰桜というのは大山桜と奥丁子桜との自然交配により生まれた品種で、新潟県の大峰山という所で最初に発見されたのでその名がつけられたという。そしてわが国では新潟県と長野県の一部にしか自生していないという。その別格の1本がここにあるというわけである。日本中の至る所に在るソメイヨシノも、もともとは江戸ヒガンと大島桜の人工交配から生まれたもので、親はたった1本であり、それを枝分けした皆一代限りの樹なのだと聞く。寿命も100年そこそこで、確か弘前城址の隅に日本一の長寿という枯れ掛けたような感じのソメイヨシノの古木があったのを思い出した。東京の桜の名所の一つである小金井公園の中にも、小金井桜と名付けられた自然交配の桜が1本あったが、あれも長生きが難しそうな樹だった。この大峰桜も薄命の不倫の子のような運命を辿っているのかもしれない。(いや、これは考えすぎであろう)

桜の花に哀しみを感ずることは殆どないのだが、この樹にはどうしても華やかで楽しい美しさを覚えることはできなかった。でも生命の尽きるまでは精一杯美しい花を咲かせ続けて欲しい。そのことをひたすら願う。                              

大峰の桜花愛しや七ヶ宿    馬骨

 

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旅の記録から:2005年東北の春訪ね旅(第22日)

2009-03-25 00:22:13 | くるま旅くらしの話

第22日 <5月15日()

道の駅:東和→(釜石街道・陸羽街道)→道の駅:石鳥谷(岩手県石鳥谷町)→道の駅:紫波(岩手県紫波町)→(折壁峠経由)→道の駅:早池峰(岩手県大迫町)→(旧釜石街道経由)→道の駅:遠野(岩手県遠野市)→(釜石街道・釜石市経由)→道の駅:三陸(岩手県三陸町)→大船渡おさかなセンター(岩手県大船渡市)→道の駅:高田松原(岩手県陸前高田市)→(気仙沼バイパス)→道の駅:大谷海岸(宮城県本吉町)→(西郡街道経由)→道の駅:林林館(宮城県東和町)→(一関街道経由)→道の駅:津山(宮城県津山町) →道の駅:上品の郷(宮城県河北町)→(石巻別街道・佐沼街道経由)→道の駅:米山(宮城県米山町)(泊)<337km>

今日は太平洋側に出るつもりだが、その前にスタンプを押しに未だ寄っていない道の駅を廻ろうと釜石街道から再び陸羽街道を北上して花巻市の北にある石鳥谷の道の駅へ。ここは南部杜氏の町というので、お酒の資料館や展示販売所があるのだが、到着が少し早すぎて未だ開店していなかったのが残念。

次は隣町紫波の道の駅へ。少し道に迷って着いた時に又雨が降ってきた。驟雨のような降り方である。スタンプを押して、次は山の中にある道の駅早池峰に向う。

早池峰ウスユキソウ(エーデルワイスの仲間)で有名な早池峰山には是非一度登ってみたいが、未だチャンスを作っていない。その山の麓はどのような所なのだろうかと期待に胸が膨らむ。旧釜石街道から県道20号線へ。近道でと考えたのだったが、これがSUN号にとってはとんでもない大変な道だった。

   

道端の桜。紫波町の折壁峠に向う途中の道端にあった桜の花。なんという種類か分らないけど、枝垂れ桜のようで、見事な花を咲かせていた。思わず車を停めてシャッターを切った。

地方の国道や県道の多くは、平野部は広く立派な道でも、山に入る辺りから突然狭くなり、離合がやっと出来るほどになってしまう。この道もその典型だった。小雨の中の新緑は、魅力的で賞賛に値するものだったが、細道と急崖の連続には神経をすり減らされた。ようやく折壁峠というのを越え下り坂へ。折壁などとよくもまあ名付けたものだと思う。

   

折壁峠近くの山の春。何ともいえない春の彩りの景観が広がっていた。山笑うと言う表現が本物なのだなあとしみじみ思った。

下りもまた同じような細道で、所々に山菜採りの人のものらしき車が停まっている。それらを避けながらようやく道の駅に辿り着く。

   

早池峰ダム付近の山笑う景観。同じような写真で申し訳ないけど、東北の春の素晴らしさはこのような景観の中にたっぷりと、確実に潜んでいると思う。

道の駅は、早池峰ダムというダム湖の側に造られていた。地元大迫町で作られるワインの販売所があり、山の中にしては瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気の所だった。いい感じの若者の販売員も気に入って、赤白のワインを夫々1本ずつ買う。

一休みの後、別の県道を大迫町市街へ下る。この道は来た道とは違って、ずっと狭くはならない立派な道だった。早池峰山へはこの県道43号線を行くのが一番楽なようである。

旧釜石街道を遠野に抜け、遠野の道の駅で昼食を食べた後、釜石街道を下って釜石市郊外で浜街道(国道45号線)へ。ここからはもう太平洋側である。今日はこれを南下しながら幾つかの道の駅に立寄り、適当な所で泊まるつもりである。

三陸町、大船渡市、陸前高田市と進み、気仙沼市からは宮城県である。魚市場とフカヒレラーメンに心が動いたが、時間が合わないのでパス。本吉町から西部街道に入り、未だ行ったことのない東和町にある道の駅を目指す。そこでスタンプを押した後、北上川河畔に出て一関街道を南下し、再びぶつかった国道45号線を少し戻って、津山町の道の駅に行きスタンプを押す。やや惰性的な流れである。

18時近くなり暗くなり始めた。河北町に最近オープンした、温泉施設のある上品の郷という名の道の駅に泊まろうと思い、そこへ着いたのが18時10分。行ってみたら、もの凄い人と車に驚いた。入浴料金も高い。今日は日曜の所為なのか、何だかごちゃごちゃしていて、これではゆっくり眠れまいと考え、急遽別の場所を探すことにした。

近くの米山町にある道の駅ならば大丈夫だろうと思い、そこを目指す。照明をつけて走るのは、この旅では初めてか?19時半頃ようやく到着。温泉は無いけど静かではある。今日だけで337kmも走ってしまい、少し疲れた。風が強くて、田んぼの中にある道の駅への風当たりは厳しそうだが、眠ってしまえばもうそんなことはどうでもいい。

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旅の記録から:2005年東北の春訪ね旅(第21日)

2009-03-24 00:26:06 | くるま旅くらしの話

第21日 <5月14日()

道の駅:路田里はなやま→イオンタウン<買物他>(宮城県金成町) →(陸羽街道・一関経由)→道の駅:巌美渓→道の駅:川崎(宮城県川崎村)→道の駅:水沢(岩手県水沢市)→道の駅:種山が原(岩手県住田町)→(荷沢峠経由)→道の駅:宮守(岩手県宮守村)→ (釜石街道)→道の駅:東和(岩手県東和町)(泊)<202km>

今日も雲の多い天気だ。太平洋側を目指すが、ついでにまだスタンプを押していない道の駅にもなるべく多く立寄ることにして出発する。先ずは国道457号線で隣の鴬沢町を通過。この初めて聞く優雅な名前の町は、昔何を掘ったのか知らないけど細倉という名の鉱山があったらしい。資料館などがあった。栗駒町から県道に入り陸羽街道(国道4号線)に出て、金成町のイオンタウンで小休止。ここから再び北上して岩手県に入り、一関市郊外にある巌美渓の道の駅を目指す。晴れ間もあるが雨が降り出しそうな天気だ。巌美渓という景勝地には立寄らず、道の駅で昼食をして再び宮城県に戻り川崎村の道の駅へ。スタンプを押した後、水沢市郊外にある道の駅水沢へ。ここの道の駅は小さくて、北上川に架かる藤橋の直ぐ側にあった。移動ばかりで忙しい。

次は種山高原にある道の駅種山ヶ原へ。国道397号線の姥石峠の下を走るトンネルを抜けると直ぐに道の駅があった。この辺りは未だかなり冬が残っている感じだ。その昔、宮沢賢治がこの辺の山の鉱山調査に来た時、高原の素晴らしさを絶賛したとか。今日は少しガスっていて寒いが、晴れれば素晴らしい高原の春の広がりが展望できるに違いない。

スタンプを押して山を下り、そのまま行けば太平洋側に出られるが、あまり泊まりに適した道の駅はないので、ここまで来たら少し距離があるけどもう一度東和町の道の駅に行って泊まろうと考え、国道107号線を北上する。この道には荷沢、糠森という二つの峠があって、その辺りの景観は北の山国の春を味わうには充分過ぎるほどのものだった。

今回3度目となる宮守村(今では遠野市)の道の駅に立寄る。ここの駅の直ぐ側に釜石線の陸橋があり、それは石で出来ためがね橋になっている。宮沢賢治のかの銀河鉄道のモデルになっているとか。そこを渡る列車の写真を撮ることにして、しばし待機。30分ほど待ってどうにかそれらしき写真を邦子どのは撮ったようだった。

   

道の駅:みやもり(宮守)近くにある、銀河ドリームライン釜石線のめがね橋。この景観が宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」のモデルとなったとか。確かに想像を豊かに膨らませれば、宇宙につながる鉄道となるような気もする。

東和の道の駅には「日高見の霊湯」というのが併設されており、少し料金が高いのが珠に瑕だが、もう旅も終りに近づいているので、2度目の湯をじっくりと味わって、山を走った疲れを癒す。

   *   *   *   *   *   *

<旅のエッセー>

          

       尻 屋 崎 の 寒 立 馬(かんだちめ)

下北半島の最北端大間崎の反対側、即ち東側の最北部にあるのが尻屋崎である。大間崎は北海道の最南端よりも遥かに北に位置しているのだが、この尻屋崎もわずかながら道南最南端よりも北に位置しているようである。一般には北海道は本州よりも全て北にあると思っている人の方が多いのではないか。斯く言う自分も何年か前、北海道は松前の白神岬に行く前まではそう思っていた。

岬というのは日本、いや世界の至る所にあるが、その全てに何か心惹かれるものがあるのは、人はそこへ行くと何かを思い出したり、見つけたり出来るような錯覚にとらわれるからなのかもしれない。遠い国の岬に立ってみたいような気持ちに時々なることがあるのは、自分ひとりだけの想いではないような気がする。

むつ市郊外のキャンプ場で一夜を過ごしたとき、朝の散歩から戻られた同宿の夫妻から「尻屋崎に行きましたか?とってもいい所ですよね」と念を押すように話しかけられたが、その時はまだ行っておらず、尻屋崎という名もよくわからなかった。しかし、その方の話を聞いて、何が、どういいのかが気になっていて、今回の旅の中で機会があれば訪ねてみようと思ったのであった。それが、二度目の下北訪問で実現させることが出来たのである。

刃を左に向けた石斧のような形をしている下北半島の右上の天辺が尻屋崎であるが、そこは東通村に所属している。東通(ひがしどおり)村は、核燃料問題で有名になった六ヶ所村のさらに北に位置し、北海道を遠望できる海岸線を持っている。勿論初めて訪れるところであり、むつ市からの県道を岬に向かって走ったのだが、建物は点在していても人の姿は殆ど無く、この村の人たちは一体何処へ行ってしまっているのだろう?と不思議に思ったりした。尤も最近の旅くらしの経験からは、田舎を走っている時は何処へ行ってもそうなのだが、めったに人影を見ることが無い。

岬近くになって、坂道を曲がると、突然、巨大な工場・設備が現れた。石灰岩を切り出してセメントなどをつくっているらしい。もっとロマンチックな風景を思い浮かべながら来たのに、このグロテスクな自然破壊の機械・設備には驚き、がっかりした。これらの工場設備は、村の経済活動においては重要な役割を担っているのであろうが、気ままな旅くらしの人間には、野暮の骨頂の代物に見えた。

その施設を通過してしばらく行くと、灯台へ向かう道の入口があり、そこに「寒立馬(かんだちめ)」の案内板があった。どこかで聞いたことのあるような、ないような「寒立馬」という言葉である。道の付近は牧場のようになっていて、近くで馬が草を食んでいた。「あ、そうか。寒立馬というのは、ここだったのかと改めて記憶を手繰り寄せた。

日本には野生の馬が生息している場所が幾つかあり、その一つがここなのだと気がついた次第である。しかしその気づきは案内板を読んでいて間違っていたのを知った。寒立馬の由来は、昭和45年に地元尻屋小の岩佐校長先生がお正月の書初めに「東雲に 勇み嘶く寒立馬 筑紫ヶ原の 嵐ものかは」と詠まれたのが、その後詠まれた歌にある「寒立馬」が有名となって拡がったということである。そして、寒立馬は野生ではなく、南部藩時代から一年中冬の間も含めてここで半野生的に飼われているということであった。野生馬といえば直ぐに宮崎県の都井岬にいるのを思い出すが、あれも本当は野生ではなく、半野生ということなのかなと思ったりした。真偽はよくわからない。

馬が好きである。競馬のような博打要素のあるのは敬遠したいが、馬の走る姿は美しいし、動物の中で持続性のある美しい走り方が出来るのは馬ぐらいなのではないか。チーターやライオンなどは、瞬時のスピードでは勝っているかもしれないが、長距離は馬の方が上ではないかと勝手に思っている。でも自分の、馬が好きな最大の理由は走りではなく、その目(瞳と眼差し)にある。馬の目は、それがどのような馬であっても慈愛に満ちている。喜びも悲しみも全て包み込んでくれる優しい母親のような大きな目。或いは厳しいけれど信頼してやまない父親の目のようでもある。馬頭観音という観音さまの姿がある。これは人々の苦しみや悩みを、馬が草を食むようにたちどころに取り去ってくれるというものだが、その観音さまの目は、馬のそれと同じであるに違いないと思っている。馬が本当に好きな人は、あのなんとも言えない目に心惹かれるのではないか。

その寒立馬は、岬の灯台を中心に、近くの丘に三々五々屯して草を食んでいた。そばに行ってもびくともしない。マイペースだ。どの馬も実に逞しい、重厚な姿をしていた。競走馬のスマートさは全くない。走るのは下手かもしれないが、戦においては、南部の馬たちは、じわじわと勝利を確実にしてゆく底力を持っていたのではないか。ま、そのようなことはどうでもいい。すばらしいのは、やっぱりその目だった。脚や図体の逞しさとは無関係に、何と優しい目をしているのだろう。猿の目とは全く異なって、馬の目は善意の塊だ。しばしその目を見ながら、自分自身もこのような目を持ちたいものだと、しみじみと思った。

 光る海寒立馬らは春を喰む       馬骨

 嘶(いなな)きを凍てさせ立つや寒立馬  馬骨

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旅の記録から:2005年東北の春訪ね旅(第20日)

2009-03-23 00:08:33 | くるま旅くらしの話

第20日 <5月13日()

道の駅:東由利→八塩いこいの森<黄桜探訪>→道の駅:東由利<昼食>→(本庄街道・矢島街道)→道の駅:鳥海(秋田県鳥海町) →道の駅:雄勝(秋田県雄勝町)→(羽後街道・鬼首街道)→道の駅:あ・ら・伊達な道の駅(宮城県岩出山町)→道の駅:路田里はなやま(宮城県花山村)(泊)<178km>

20日目を迎えて帰心が少し膨らんだような気がするのは、お天気の所為なのか?昨夜も雨が降り続き、朝9時近くなってようやく降るのを止めたようである。出発の準備をした後、八塩山麓にある八塩いこいの森へ。2時間ほどゆっくり散策する。御衣黄(ぎょいこう)や鬱金(うこん)などの黄桜は確かに五分咲き程度で少し早かったが、充分鑑賞に耐えるものであった。4月下旬に来た時には、小さな人造湖の周回道の、かなりの部分が雪の中にあって、歩くのに苦労したのだったが、今はすっかり融け消えて、雪の下で眠っていた黄スミレが満開の花を咲かせていた。あれからもう2週間以上が過ぎ、春は確実に前進しているのが分かった。

      

 黄スミレの株。半月ほど前は雪の下に隠れて何も見えなかった湖畔の至る所に、この花が群生していた。呼び物の黄桜は、まだ写真に撮れるほどの咲きっぷりではなかった。

 昼食を食べにもう一度道の駅に戻る。ここのレストランでは地元で育てているというフランス鴨の肉を使った料理に力を入れているが、これが上品な味でなかなかのものなのだ。あまりハイカロリーのものを食べてはいけない拓は、上品なラーメンをほんの少し(?)食す。

お昼の後は、本庄市郊外から矢島街道に入り、新しく鳥海町(秋田県)に出来た道の駅を通って雄勝方面へ向かうことにして出発。

今日も天気は雲が多くて鳥海山は全く見えない。鳥海山の東麓にある鳥海町は、山又山の土地だった。しかし全ての山が萌え立っていて、呵呵大笑(かかたいしょう)している感じだった。山を越え雄勝の道の駅でスタンプを押した後、宮城県の方へ向う。鳴子に向う鬼首街道(仙秋サンライン)と呼ばれる国道108号線をひたすらに走る。鳴子辺りで温泉に入ろうかと探したが、うまく見つけられず通過し、岩出山町の道の駅に到着。

   

仙秋ライン(R108)の春。新緑の中に所々残雪の雪渓が残っており、それらの溶けたのを集めた水が谷間を奔り下っていた。

今回の旅で、今まで宮城県には殆ど縁が無かったので、明日あたりは太平洋側まで行ってみようと考えている。「あ・ら・伊達な道の駅」という妙な名の道の駅は泊まるには向いていなかった。今日は温泉に入るのは諦め、少し先の山の中にある花山村の道の駅に行って泊まることにした。17時過ぎ雨模様の所為で暗くなった中、道の駅に到着。さすがにここは車の通りも少なく、静かである。意外とTVもよく映る。多分今夜の泊まりの車は我々一組だけであろう。小雨の外の様子は気にしないことにして夕食の準備に取り掛かる。夕食が終わって、いつものように少しの間TVなどを見て、静かな一夜を過ごす。

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旅の記録から:2005年東北の春訪ね旅(第19日)

2009-03-22 05:22:09 | くるま旅くらしの話

第19日 <5月19日()

道の駅:比内→(秋田ロマン街道・森吉町経由・五城目街道)→道の駅:上小阿仁(秋田県上小阿仁村)→(森吉町経由・阿仁街道) →道の駅:阿仁(秋田県阿仁町)→植木育苗園<大山桜の苗購入>(秋田県阿仁町)→(大覚野街道)→角館町<知人訪問&買物>→ 六郷湧水(飲料水補給>(秋田県美郷町)→道の駅:東由利<黄桜温泉>(秋田県東由利町)(泊)<210km>

今日は角館に寄らなければならない用がある。先日角館で会った三人姉妹のお父さんが手作りの草履の制作をしておられ、二人分をお願いしておいたのが出来上がっているので、それを受け取るというわけである。この草履は室内履きとして活用する考えで、健康志向の商品として足裏や足の指のツボ刺激に極めて有効な履物なのだ。その目的で昔の絹の古着などを利用して巧みに作られた作品で、特に邦子どののお気に入りである。

角館には森吉町経由の阿仁街道を行くことにしたが、その前にスタンプを貰う目的で上小阿仁村の道の駅まで森吉から五城目街道を往復する。

森吉から阿仁の道の駅に向って走っていると、途中に「苗木販売」の看板があった。今までホームセンターや植木販売店などで大山桜(東北を代表する美しいピンクがかった花びらの山桜である)の苗木をず~っと探し続けてきたのだが、どこにも無く、山に入っても苗木などは見つからなかったのである。ふとひらめいて、もしや!と車を戻して苗木を育てているらしいその農場のような所へ入って行き訪ねると、なんと「あるよ」というではないか。担当の人に案内してもらうと、確かにそれらしい花を今咲かせている苗木が数本あった。値段は何と、なんと1本500円だという。全部買い占めてしまいたいほどである。驚きと感動で興奮しながら4本買い求めた。1本は家の庭に植え、残りは田舎の畑に植える考えである。ようやく念願が叶い、大満足で阿仁の道の駅に到着。

軽い昼食の後大覚野街道と名の変わる国道105号線を山越えして西木村から角館へ。この途中の山や渓谷の景観も素晴らしかった。東北の春はやはり海ではなく山にあるのだなと改めて思った。

   

オオヤマ桜の花の雪洞。萌えはじめた樹木たちの淡い緑の生命に囲まれて、山襞の中に灯る雪洞は、何度見ても飽きない美しさがある。

   

オオヤマザクラ。この苗木が欲しくて、随分と探し回ったのだが、今日ようやく手に入れることが出来て大満足である。(後日談:この苗の内1本は我が家の庭の真ん中に植えてあり、4年間逞しく生長してくれているのだが、今年も未だ花を咲かせてくれる気配は見られない。)

角館では、早速手作りホヤホヤの草履を受け取った後、みやげ物や味噌などを少々買い込む。我が家の味噌は、殆ど角館の安藤家のものが使われている。邦子どのがそう決めているらしいが、味は抜群である。

さて今日はどこに泊まるか。少し考えたが、そろそろ東由利の八塩いこいの森の黄桜も咲き出しているのではないかと思い、も一度そこに泊まることにしようと決める。その前に飲料水も残り少なくなりだしたので、六郷名水を汲んでゆくことにした。

六郷町(今は美郷町)の湧水群は全国でも有名である。町の至る所に清冽な水が湧き出ていて、「○○清水」というような呼び名がついている。その一つ「お台所清水」の近くにある観光協会が用意した水汲み施設で幾つかのペットボトルを満たす。

横手市内を通過する頃に降り出した雨は、再び本降りとなった。雨の中到着した東由利の道の駅にあった黄桜開花情報板には、只今五分咲きと書かれていた。今日は雨降りでそろそろ暗くなりかけているので行くのはやめ、明日ゆっくり鑑賞することにした。先ずは併設されている黄桜温泉に入る。温泉に入った後はいつもの通り一杯やりながらの夕食。そのあと拓は直ぐ眠りに。邦子どのの、それから後のことは朝まで知らない。

    *   *   *   *   *   *

   <旅のエッセー>

            石川啄木と宮沢賢治のこと(断片)                    

盛岡市を挟んで北と南に、東北の誇る二人の偉人作家の出身地がある。この地を何度も通りながら、今まで一度も立ち寄ったことがなかったのは、横着というより他にない。 

特に石川啄木の記念館は、通り道の脇にあったのにパスし続けてきた。その昔、少年時代自分なりに啄木の歌に傾倒したことがある。一夜に百首を超す歌を詠んだという啄木に負けるかとチャレンジしたこともあった。しかし、その後の長いサラリーマン生活は、浮世の塵埃(ちり)と共に我が身に歌作などの無為がこびり付いて、少年の日の蒼い情緒などかけらもない姿をつくり出し、その落差の大きさを密かに隠す心が働いたのか、啄木の歌も本も殆ど手にしたことがなかった。 

宮沢賢治に至っては、これまたメルヘンの世界への傾倒の頃も忘れ果て、只ひたすらに現世、現実の利益だけを追求するおぞましい暮らしぶりを続けてきた自分を正当化するためにも、彼の著作に触れるのを恐れてきたようにも思う。真に自分勝手で妙な話である。

さて、そのような自分が今回はからずもこの二人の記念館を訪ねることにしたのは、もはや昔のそのようなことなど、どうでもいいと言い切れる自由な生活を手に入れたからなのかもしれない。その実態と言えば、もはや蒼い情緒もメルヘンも宇宙の彼方に手放してしまった老人とは成り果てたことの安堵感に他ならないのだ。いずれにしてもこの二人の偉人を訪ねるのには、本当のところ自分としては勇気が要ったのである。 

啄木と賢治とどちらが先輩かご存知だろうか?意外と賢治の方が年上と思い込んでいる人が多い。実際は啄木のほうが10歳年長で、賢治が16歳の時この世を去っている。この二人は若くしてその才能を惜しまれながら早世したという点でよく似ているが、その生き方は全く違っているように思う。勿論それぞれの生い立ちや環境が異なるのであるから、それは当然のことだが、今回記念館などでそれぞれの生涯を垣間見て、文学に関する取組み方などもずいぶんと違うのだなと改めて実感した。 

啄木はかの有名な渋民村の出身である。「かにかくに渋民村は恋しかり思い出の山思い出の川」と読まれた渋民村は、今玉山村となっており、近くには盛岡市との合併が予定されているようである。啄木記念館は旧渋民村地区の陸羽街道(国道4号線)脇にある。一度建て替えられたようで、彼が代用教員として教鞭をとった小学校の旧校舎とその当時借家住まいをしていた家が移築保存されていた。 

渋民地区からは南西の方向に岩手山がよく見える。この山も雄大である。そして村の後ろにはなだらかな姫神山の稜線が広がっている。その昔、若き啄木少年もこれらの山懐に抱かれながら多感な少年時代を過ごしたに違いない。思うに啄木という人は不遇の現実に振り回されたロマンチストのままあの世に逝かざるを得なかった人のようだ。館内に展示されている遺品の数々は楽しさや嬉しさよりも哀しさ、気の毒さを抱かせるものが多い。時分の花という見方があるとはいえ、啄木という人にはせめてあと30年は生きていて欲しかったと思う。そうすればもっと多くの名作が生まれたに違いない。生活に追われるというのは辛いものだが、啄木の場合は辛さが先回りして生活を蝕み、家族全員の身体を蝕んでいったような気がする。26歳というのは、今の時代ではまだ碌に自立も出来ていない若者が溢れている年齢だ。残念というか気の毒というほかない。 

彼が代用教員を勤めた小学校の校舎の中に入って見たが、見かけとは大違いの木造の粗末な教室は、たった二つで小さな机と教壇が設えてあった。往時の人々の学ぶことが如何に大変だったか、又大志を抱いたまま片田舎で悶々と教鞭をとる若い青年教員の思いを偲ばずにはいられなかった。黒板にチョークがあったので、思わず好きだった歌を書いてしまった。「函館の青柳町こそ哀しけれ友の恋歌矢車の花」我が青春時代、何度か口ずさんだ歌を思い出したのである。その頃は北海道に一度も行ったことのなかった自分が、なぜこの歌に心とらわれたのかよくわからない。

宮沢賢治は天才であると思った。どのような種類の天才なのかは分からないが、この人は単なる文学界の関係者ではなく、科学者でもあることを知った。銀河鉄道やアンドロメダの星座など宇宙規模での発想は、作品のターゲットをメルヘンにしか投射できなかったのではないかと思った。音楽にも造詣が深くセロを弾き、作曲もある。一方で頑固な真宗の信者であった父親を自分の死後 日蓮宗の信者に転向させてしまうほど深く仏教(法華経)に帰依していたというのも驚きであった。

 岩手県では圧倒的に宮沢賢治に人気が集まっているようだ。啄木の玉山村に比べて花巻市の方が財政基盤が大きいといったことなどに拘らず、宮沢賢治記念館は広大な敷地の中に幾つかのテーマ毎の施設があり、じっくり見るなら1日は必要なほどの規模だった。また、記念館以外でも岩手県内の至る所で宮沢賢治の名が見られるのは、啄木とは違った賢治の活動基盤や発想によるものなのであろう。「アメニモマケズ」と「銀河鉄道の夜」くらいしか読んでいないが、今回新たな課題を示されたような気がした。(5.7.2005記)

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