山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

二つの雛祭りの町を歩く

2012-02-29 01:46:46 | 宵宵妄話

  来る3月3日は、五節句の一つ「上巳(じょうみ・じょうし)」であり、桃の節句とも呼ばれ、ご存知のひな祭りでもあります。女の児の健やかな成長を願っての、昔からのお祝いの行事ですが、私が育った戦後の頃は、そのような行事が可能な家は殆ど無く、私の家は兄弟姉妹5人の内、男が4人でしたから、たった一人の妹にもひな祭りは無縁のものとなっていました。又自分の家庭でも、二人の子どもはいずれも男でしたので、やはり雛祭りとは無縁の暮らしとなってしまいました。従って、私自身は雛祭りのことは一度も体験したことはなく、せいぜいその日近くになると雛祭りの童謡が流れてくるのを耳にして、(そうか、もう雛祭りか)と思う程度のことでした。

 

今ごろは、一般の家庭の中でこの行事がどのような形で、どれほど行われているのかよくわかりませんが、思うに、このような行事となるとコマーシャリズムばかりがしゃしゃり出て、普通の家ではさほどに祭りなどという気分は少ないのではないかと感じます。何しろ「女らしく」とか「男らしく」とかいうことばが死語となってしまった今の世は、男とか女とかを強調するような行事は時代にそぐわないという感覚が当たり前となってしまったようですから、古い時代の生き残りの方が伝統を守ろうと頑張っている家を除いては、皆他人事として見過ごされているのが現実ではないかと思います。男女同権と男と女は同じという主張を一緒のカテゴリーで考える人には、桃の節句も菖蒲の節句も不平等の典型であって、時代遅れなのだなどというトンチンカンな捉え方になるのかもしれません。男らしさとか女らしさについて、ことさらに議論をする気は毛頭ありませんが、人類にとっては、それはとても大切なことであり、必要欠くべからざるものではないかと私は思っています。ですから、このような行事は日本人としてはとても大切なものなのではないかと思うのです。

 

この頃はこの季節になると、各地で雛飾りのイベントが開催されるようで、その種のニュースが入って来ます。我が家では気が向くままに、近場のそのようなイベントに出掛けることにしています。このところは毎年真壁(茨城県桜川市真壁町)の雛祭り見物に出掛けていますが、今年は真壁を訪ねた後に久しぶりに佐原(千葉県香取市佐原)の雛飾りにも出かけてきました。その感想などを述べてみたいと思います。

 

真壁も佐原も合併で町の名前が変わってしまって、何だかちょっぴり残念な気がします。昔からの伝統を受け継いだ祭りなどの行事は、やっぱり昔の町の名前が出てこないと変な印象を拭えません。あと20年もしたら馴染んでしまうのかもしれませんが。 雛祭りのことを除いても、真壁と佐原には共通しているものがあります。それはいずれも国指定の「伝統的建物群保存地区」であることです。真壁は茨城県唯一の、そして佐原も又千葉県唯一の指定地区なのです。しかし残っている古い町並みは大きく趣が異なり、真壁は在郷町という区分であるのに対して佐原は商家町という区分となっています。このことは町を訪ねると直ぐに気づくことですが、佐原は江戸と下総をつなぐ商業の中心都市として、利根川やその他の水郷と呼ばれる水路を利用した交易で栄えた町であり、その昔の裕福な商人の残した店や倉などの建物が数多く残っています。真壁の方は商業というよりも産業と言った方が良いのか、江戸時代は笠間藩の飛び地として、置かれていた陣屋などを中心にこの地の産業(木綿、米、麦、大豆、酒、筑波石など)が栄えて、その往時からの建物の町並みが今に残っています。

 

    

佐原の小野川沿いの町並みの景観。この川のここから500mほど先に伊能忠敬の屋敷などが残っている。古い町並みの中心街は、伊能家の辺りに多く遺っている。

 

佐原の方がその繁栄ぶりが大きかったように思われるのは、水路と船を使った交易の規模は、陸地の限られた交易手段しかなかった真壁と比べて大きな差があったことからも想像できます。実際に訪ねてみると真壁の町並みがちんまりと整っている感じがするのに対して、佐原の方はより豪勢な雰囲気を醸し出しているように思えます。飾られているお雛様を見ても、商家と在郷の違いがあるようで、佐原の方がよりお金が掛かっているのではないかと思われるものが多いような気がします。(私には元々お雛様の飾りを鑑賞する眼も力もないものですから、本当のところはよく判りません)

 

本当のことを言えば、私には雛飾りを見て回ることにはさほど興味も関心もなく、それよりも残されている古い町並みの持つ雰囲気を味わい、楽しみながら、歩き回るのが訪問の真の目的なのです。その昔このような環境の中で、人々は日々どのような暮らしを送っていたのか、そこに思いを巡らしながら町中を散策するのは、まさに旅の楽しみの一つであるからです。真壁を訪ねた時は、真壁のその昔の暮らしに思いを馳せ、佐原を訪ねた時は、小野川に浮かぶ小舟を見ながら、往時の交易の様子を思い浮かべ、その熱気を感じながら、この辺りに巣食っていたヤクザの連中のことなどまで妄想しながら歩き回るのです。

 

ところで、今回はこの二つの町並みの歩きを楽しんだのですが、強く印象付けられたのは、昨年3月の大地震の影響でした。二つの町とも、古い家屋で成り立っているわけですから、あれだけの大地震では、蒙った被災度も相当に厳しかったことが歴然としています。未だ修復の手掛かりを模索中と思われる建物も多く、完全復旧はとても無理と思われるものもあるようでした。古い建物を修理するための費用は、新しく立て替える費用の比ではなく、所有者にとっては自費では到底叶わないというケースも多いように思われました。佐原の旧家にお雛様を見せて貰った家内の話では、偶々震災前に葺き替えを終えた屋根の瓦は無事だったものの、壁などその他の部分の破損等は厳しく、1千万円以上の出費のことを思って、さてどうしたものかと今でも困惑しているのだと、そこのご主人が話をされていたとのことでした。古い家屋の所有者は、恐らくどちらの家でも、同じような悩みを抱えておられるように思いました。

 

震災の被災後の状況から感じたことは、その昔裕福だった町の方が、復旧がより難しいのではないかということです。真壁も佐原もほぼ同じ程度の地震の揺れに見舞われており、被災程度も類似していますが、町中を歩いて見ると、佐原は水路の中心となっている小野川の石垣までが崩れた状態であり、個別の建物も重厚なものが多かっただけに、被災の修復には、よりお金と手間がかかるように思いました。真壁が貧しい在郷町だったなどとは思いませんが、佐原と比べると修復のスピードは少し早い感じがしました。それでも現役の造り酒屋さんなどの、より大きな建屋は、まだ屋根にブルーシートが被せられたままであり、大きい建物ほど元に戻すのが大変なことを実感させられます。

 

    

真壁の登録有形文化財の一つ、市塚家店舗及び主屋。辛うじて崩落を免れた感があり、良かったなあと思った。でも内部や壁などがどうなっているのかちょっと心配だった。

 

天災地変に加えて人災のことまで考えますと、古いものを残してゆくということの大変さ、難しさを実感させられます。国が伝統的建物群保存地区に指定し、個々の建物を登録有形文化財として指定した場合、その所有者にどのような扱いをするのか全く分かりませんが、只指定するだけでは、建物群のような文化財は、時代を超えて残り続けて行くことは困難なように思いました。現在わが国には93カ所の国指定伝統的建物群保存地区があるとのことですが、これから先これらの文化財を遺してゆくために、公と個人の合理的な調和のとれる法律や施策を、より充実させることが重要だと思いました。そしてこの二つの町を初め、その他の被災された東北各地のエリアでの復興が叶うことを切に願ったのでした。

 

※   ※   ※

 

余談ですが、今回この二つの町を歩いて決定的にその違いを感じたことがあります。それは町の造り・性質と歴史に起因するのかもしれませんが、訪問者に対する受け入れ方という視点で見ると、商家町の佐原と在郷町の真壁とでは、真面目さの点では真壁に軍配が上がり、力という点では佐原により魅力を感じました。

 

   

真壁の真面目さの象徴のような中山家の雛飾り。庭の奥に建てられた重厚な造りの土蔵の中に、今年も美しく飾られていた。

 

それはどういうことかと言いますと、早い話、昼飯の食べさせ方です。佐原には例えば川筋にうなぎ屋さんなどの昔からの店がありますが、真壁にはそのようなものは無く、俄か作りの炊き出しと変わらぬテント下の「すいとん」の店などしかなく、食堂と名のつく店に入っても発泡スチロールのどんぶりに入ったうどんやそばが高価な値段で提供されるだけです。そのレベルは呆れ返るほどで、やはり在郷町なのだと毎度実感している次第です。お雛様の方は佐原よりも遥かに見やすくて、町を挙げてのもてなしの心を感ずるのですが、昼飯となると田舎の良さではなく、その反対を感じさせてくれるばかりなのが真に残念です。茨城県民としては真壁にエールを送りたいのですが、喫食の関係者の方は、せっかくの訪問者をがっかりさせないように、もっともっと工夫をして、その地で食べられる楽しみをつくり出して欲しいと思ったのでした。リピーターやファンをつくり出すための町づくりには、「食」の魅力が不可欠のように思います。祭りの間の1ヶ月間だけを、毎年何とか手軽に乗り越えることでお茶を濁しているのでは、せっかくの他には無い大きなお宝の文化財が、さっぱり活きなくなってしまいます。新たに伝承館が出来上がったのは結構だと思いますが、幾分町の自己満足の様なものを感じてしまいます。B級グルメの検討など、町の当局者も、もっと訪問者から見た魅力などを研究し、町の盛り上がりを工夫して欲しいと思ったのでした。

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810ルーメン

2012-02-21 00:01:56 | 宵宵妄話

 

今週(=2月第3週)はそのほとんどの時間を、我が家の前庭に鎮座まします旅車(=SUN号)の中で、一人暮らしました。風邪のための自主隔離独居です。旅車は家で使っている電源をつなぎさえすれば、もうそれだけで立派な1DKの個室として使えるのが魅力でもあります。TVもビデオもOKです。水道もガスも大丈夫。喫食もトイレ(大の方は別)も本家に行く必要はありません。もちろんパソコンもネットもメールも何の支障もありません。小うるさい山の神も、風邪の伝染の危険を感じて近寄りません。束の間の天国の味わいなどと言ったら、天国から締め出されてしまうのでしょうか?

 

昨年の大震災後、キャンピングカーが世に注目されたというのも、単なる贅沢品でないことに気付かれた人が多いのも、首肯できることです。キャンピングカー(私的には、そのような呼称は誤りであり、これはモーターホームと呼ぶべきものであって、旅車であると思っています)という自動車の一種が、その有効性や可能性に注目されたのは、真に喜ばしいことです。本来日本人であれば、もっと早くそのことに気付くのが当然ではないかとも思ったのでした。

 

世の中には、定年間近になって、退職金をはたいて一生の記念のつもりで高級乗用車などを買う人もおられるようですが、人生の最後にベンツを乗り回したいなどと本気で考えている人は、大病で明日の命も覚束ないことを覚悟した人よりも、もっとお気の毒なように思います。真に以て余計なお世話でありますが、そのような高級車よりも中古の旅車を手に入れて、折角のこれからの人生をちょっぴりくるま旅などという奴を楽しんでみようか、と、そんな夢の実現にチャレンジする人にこそ、私は大いなるエールを送りたいと思います。

 

車などというものは、所詮ツールに過ぎない(これには異論のあることは承知していますが)のであって、人生というのはどんなにお金のかかったツールを手に入れたとしても、それだけでは満たされないのが普通ではないかと思えるのです。より大事なのは、ツール(=手段)を得た先に活き活きと取組める目的があり、目標があるということなのです。巨額を投じてツールを手に入れた先に、もっと大きな目的や目標がある場合は別として、その欲望充足(=満足)の先にあるものが霧の中だとするなら、私はボロの旅車を手に入れて、ワクワクしながら日本一周の旅への夢を膨らませている、その様な生き方にこそ大いなる価値があるように思っています。その様な夢を見ながら、在宅の一日をその旅車の中で過ごして、改めてボロ車の素晴らしさを自賛するというのも、これまた人生の楽しい時間ではありませんか。

 

さて、今日はその我が愛すべきボロ車の空間が、少し暗かったので照明を取り替えたという話です。入居した日から6日経つまで、ずっと曇天と雨と、時には雪までもが落ちてくるという悪質な空模様が続きました。晴天ならば、夜が来るまでは車内の照明の様子など気にもならないのですが、連日が終日の暗さに包まれた中で、病に取り付かれてジッとしている身には、照明の暗さは決して放置してはおけない問題なのでした。

 

この頃は、旅車の照明もLEDを活用することが当然となってきています。多くの旅車のオーナーの皆さんは、自ら腕をふるって思い思いに照明を工夫されて取り付けられていますが、頭も腕もない只の運転手に過ぎない私には、車の配線を構うなどとんでもないことなのです。とてもその様な大それたことを行なう気にはなれず、さりとて旅の間の電源確保が難しい現状では、バッテリーの許す範囲の中で旅の間の暮らしを成り立たせるために、ソーラーを取り付け、せめて照明くらいは何とかLEDに切替えねばと考え、思い立ったのが、普通のソケットを買って来てインバーターとつなぎ、その先にLED電球をつけて天井から吊るすというやり方でした。さすがに裸電球では生活が少し惨め風なので、ソケットにカバーの傘を被せるくらいのことは施したというわけです。これは半年ほど前に思いついて行なったことでした。その当時はLED電球もかなり高額でしたので、とりあえず夕食とパソコンが使える程度の明るさならば、ま、いいか、とせいぜい40W程度のものを取り付け、そのままにしていたのでした。

 

ところがこの度の独居暮らしでは、夜寝るだけではなく昼間もこの中で過ごすことになり、これじゃあ、何とかしなくてはならんと思ったのです。それで、体調のやや回復したのを見計らって、近くのホームセンターへ電球を買いに出かけたのでした。いずれもっと明るいものに替えなければならないと考えて、時々LED電球の普及・販売状況を幾つかの店に寄って調べていたのですが、記憶の中ではそのホームセンターで扱っているものが、同じ性能では格安なのでした。その電球は810ルーメンの電球色で、価格は1980円でした。これは同じものを家電の大型量販店で買う場合の半額近い値段なのです。この価格差のカラクリがどんなものなのか、よく解りませんが、深入りするよりも取り敢えずは喜んでおくことにします。

 

で、今それを取り付けてこれを書いているわけなのですが、まあ、今までと較べたら、随分と明るくて快適となりました。私という奴は、田舎の貧乏育ちなので、本来のケチな性分は如何ともし難く、3ヶ月ほど前から1980円のLED球に心惹かれながら、手が出せないまま迷い続けていたのでした。現役時代は、貧乏根性を覆うべく、新し物好きを装い何でもそれを試そうという動きが人一倍強かったのですが、この頃は年金暮らしに染まり果ててしまったようで、その昔の田舎育ちの本性がしっかりと再生の道を歩み出したのを自覚しています。

どうも話が勝手に要らぬ方に揺れ動き出すので、我ながら困ってしまいます。今日言いたかったのは、とにかく思い切って少し高価なLED電球を手に入れたことに関して、そこに書かれている「ルーメン」というこの変な明るさの呼び方についてなのです。

 

「おりゃあ、そんな言い方なんぞ知らんぞ。明るさといったら、おまえ、ワットとかルックスとか言うのが普通じゃないのか。」

「この頃はどういう風の吹き回しか知らんが、食べものでもないのに、ラーメン、あいや、ルーメンだなんて、一体今頃の電気業界ってのは、どうなってんだ。パソコン言葉だけじゃなくて、明るさまで別のカタカナ文字に変えようってのかい。コリャなんかの陰謀なんじゃないか?」

「おい、電気業界だけじゃないぞ、天気予報だって、いつの間にか気圧の単位がヘクトパスカルになっちまったじゃないか。俺達が育った頃は、確かミリバールてのが常識じゃなかったか。それがどうだ、あれ、何か変だぞ、などとこっちがもたついている間に、今はもうすっかりヘクトパスカルてのに収まっちまったじゃないか」

 

等など。まあ、斯様な疑問を心の奥に溜めて、己の無知に蓋を被せたようで、どうもスッキリしない思いを抱えた老人は、世の中に結構多いのではないかと思うのです。何てったって、私自身がまさにそうなのですから。同じ暮らしの空間を照らす光の明るさなのに、何で突然今までと違った明るさの単位のようなものが飛び出してくるのか解せない、まことに解せない。とまあ、こういうわけなのです。

 

それで早速ネットという奴で、ルーメンなるものを調べてみました。いろいろ解説が載っていました。しかし、それらを読んでいると、今度はもう、もっと大変なことになりました。そもそも光という奴が何だったのかが、それを理解していないということに気づかされたのです。光そのものが解らないのですから、ルーメンなんてものが理解できるはずがありません。ルーメンというのは、「全ての方向に対して1カンデラの光度を持つ標準の点光源が1ステラジアンの立体角内に放出する光束」と定義される、などと書かれているのですが、こりゃあ一体何のことなのか。ほんとに光のことを言っているのか。益々己の不明度が増すばかりの感じです。専門家の常識の始まりのような知識がそこに得意げに羅列されているような感じを受けたのでした。(これこそが老人の証なのですが)

 

今日買ってきた810ルーメンというLED電球の明るさが、今までの100ワットや60ワットの電球、或いは蛍光灯の電球の明るさとどう比較できるのかなどということは、この定義を読んでも何一つ解決されないどころか、何の理解の足しにもならず、頭の中は益々混乱するばかりです。光源は理解できても、光束、光度に加えて輝度、照度等などの言葉が入り乱れてくると、これはもう一々確認のノートなどを記してみる気にもなれず、せっかち老人のイライラは、探究心を暴発させて何処かへ吹き飛ばしてしまうのです。

そもそも世の中というのは、アバウトで支えられて持っているのに、何で今頃になって妙に正確な用語が、しかも国際レベルで出現してくるのか、やっぱり解せないのです。ワールドワイドとかグローバルとか、もはやそれが当然の世の中に暮らしていることを思えば、己の無知や理解力の欠如を棚に上げて、横着振りを声高に強調したところで、滑稽の一語に尽きるのですが、老人のプライドは、やっぱり依然として失敗体験が積み上がるのを許せないのでありました。

 

風邪の鬱陶しさからようやく開放されて、今日はこの特別個室の空気を入れ替え、夜でさえも明るさを増した810ルーメンのLED球の光の下で、全面的に気分も入れ換えて、さあて、明日は先ずはラーメンでも食って体力の回復を図るとしましょうか。ホイ、だけど糖尿や動脈硬化には、ラーメンよりもやっぱりルーメンの方が有効のようですぞ? まあ、老人というのは、このように万病の巣窟の中に生きているようですな。ハイ。お退屈様。

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懈怠心(けたいしん)

2012-02-17 07:00:38 | その他

 懈怠心という言葉は、いかにも難しげな言葉です。これは仏教世界の言葉で、「精進」という前向きな行為に対する反対語です。要するに怠慢とかサボるとか一所懸命にならないというほどの意味の言葉です。

 

 私は人を欺く手立ての一つとして、わざと難しげな言葉を無理に引っ張り出して使うことにしています。そうすることによって、己の本性を少しはごまかせるかも、などと思っているのです。しかし、実のところは欺いたと思っているのは己だけであって、世の中の殆どの人々は、このような愚かな手段など端からお見通しなのでありましょう。

 

 この頃はブログに旅以外のことをやたらに書き廻すことに飽いてしまいました。もともとこのブログはくるま旅くらしの心覚えとして始めたものなのですから、本来それが主流なのであって、旅以外のことは世迷言といえどもやたらに宣(のたま)うべきではないはずなのです。その様な思いが心の何処かに積もり出してから、かなり長い時間が経ち、この頃は旅に出掛けない間はブログを休もうかな、などと考えています。 

 

昨年までは書き物の練習というか鍛錬ということもあって、無理やりに1日5千字以上を書くことを目標に取組み、その中にブログも取り込んでいましたので、連日の掲載となってしまったのですが、今はその様な目標にはとらわれずに、書きたいときに書きたいものを書くことにしています。また、それらを全てブログに載せることも考えていません。別途書き綴ったものは、その気になった時に別枠で掲載するようにすればいいのかなと思っています。

 

話は変わりますが、日頃から××は風邪を引かないなどと、己の××ぶりを公言して憚らず、多少咳をしたり熱があったりしても、朝風呂などに入ったりして、家内や倅から冷ややかな眼差しを喰らっている私なのですが、遂に××の免疫が切れてしまったらしくて、風邪に取り付かれてしまいました。ここ3~4日は、庭先に鎮座する旅車の中の特別病棟暮らしと相成りました。久しぶりに39度近い高熱を味わいながら、そろそろ死ぬる時のことも考えおかねばならぬかなどと、ふと思ったりしました。でも未だとても本気にはなれず、浮世を愉しみたい気持ちは膨らむばかりですから、これから先は××の免疫もなくなったと考え、真さに××なことをせぬよう自戒が肝心なのだなと感じ入った次第です。

 

さて、もう一度冒頭の懈怠に戻ってですが、これから先、ブログの方は旅に出掛けない間は、旅のテーマに係わることを除いて、週1回程度の掲載に留めたいと思います。古希を過ぎた世代となると、世の中のことが多少は見えるような錯覚に陥りがちで、己のことは棚に上げて、政治でも経済でも若い世代の暮らしぶりなどに対しても、そのあり様が気にいらず、罵詈雑言を迸り出させる向きがあるのですが、我が身を振り返っても、その傾向は否定できません。それどころかTVに向って怒りの声を投げつける姿に、山ノ神でさえも呆れ果て、寸部の同情も使い果たしたと眉をひそめられているのが私の現状なのです。旅に出掛けない間、連日その様なことばかりを書き連ねたとしたら、これはもう愚の骨頂に辿り着くといったことになってしまいます。特別病棟の中で、こりゃあもう、ダメなものはダメなのだから、脇で老人がわいわい騒ぐことはあるまい、とまあ、こう悟ったようなわけです。

 

それで、こんな愚かな行為を押し留めるのは、要するに世の中の出来事を一々自分の物指しで計って物申すなどという、律儀な精進心など働かせせぬが一番と思ったわけです。大河の流れに指を挿しても、その行く先など全く不変なのであって、所詮決まった方向へ水は流れてゆくのですから。現代という時代に生起する出来事の全ても、善悪・過不足・創造破壊等々その種類区分の如何を問わず流れの行く先は、自ずから決まるのだと思えば、こいつはもう、流れなんぞも無視して懈怠心の赴くままに生きるのが肝心というものでありましょう。旅のない季節は、このことを意識してのんびりと気まぐれにゆきたいと思った次第です。

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国王神社に参拝する

2012-02-13 00:07:18 | 宵宵妄話

    今年の大河ドラマでは、平氏が脚光を浴びています。勿論主人公の平清盛の生涯を描いたものですが、その描き方がどのような軌跡を辿るのかちょっぴり楽しみにしています。平氏については、その後の源氏との攻防の果てに没落の道を辿ったという見られ方から、何となく影が薄い感じがしますが、これは歴史の作為のような気がします。時代史などというものは、国家というものが生まれて以来、常に勝者の記録であり、敗者については必要以上に勝者側はこれを消そうという本能のようなものが働くからです。

 

平家については、武家の先駆けとしてあまりに急に階段を駆け上り過ぎたということが、その悲劇の発端であった様な気がします。急な階段を一気に駆け上がった者は、長く頂上に留まるすべを知らず、気がつけば急速に坂を転び下りてしまうことを、幾つかの史実が証明しているようですが、平家という武士集団もその一例だったと言えるのかもしれません。

 

TVの大河ドラマに対して、どこぞの知事さんとやらが、舞台となっている自分の行政区域の海の色などの映像が汚なすぎる、とかで文句を言ったとか。これは平家の歴史とは本質的に別問題であることは明らかですが、今の時代は、そのような所にまで気を使って己の政治の扱う場所をよく見せようとする意識が働くものなのかと、これはまあ、真に恐れ入った話でした。このような、どうでもいい話をわざわざ取り上げて、庶民のご機嫌を取ろうとするマスコミも、よほどに退屈なのだろうなと、庶民の一人として気の毒に思った次第です。

 

話が端(はな)からあらぬ方向へ向かい始めましたが、今日の話は平清盛よりは著名度は全国版でないけど、関東ではその昔から名を上げていた、その平家の先輩の一人である平将門という方を祀る神社に参拝したというものです。平将門という方は、朝廷への反乱者として扱われ、時代によってその評価が正反対になったりして、右往左往された感があるようです。明治維新以降太平洋戦争が終わるまでは、国賊などと言われて、随分と悪者として名を貶(おとし)められたようですが、私がもの心ついた頃には戦争は終わっていましたので、そのような評価などは気にもせぬままに育つこととなりました。もはや朝廷などというものが無くなった今日では、この方の評価もご本人が納得ゆける辺りに落着くのではないかと思われます。

 

私の住む茨城県南部の利根川流域は、その昔は下総の国と呼ばれており、守谷市もその一部でした。平安時代の関東地方がどんな所だったのか、現代の感覚では全く見当もつかないほど、未開拓の原野が広がっていたのではないかと思います。その中で、一時ではありましたが、全国版で名を挙げたのが、平将門という武将でした。そこに至るまでにはいろいろな経緯があったようですが、国の役所を襲い、印璽を奪って自ら新皇を名乗ったということですから、これは当時の朝廷も超びっくりしたことでありましょう。そのような朝廷に対する反逆が、天皇に対する暴虐行為として明治時代などは悪者の代表のように取り上げられたのだと思いますが、果たして本当にそうだったのか疑問を感じます。反逆行為の背景にはそれなりの理由があると思いますから、朝廷のあり方そのものに問題があったという考えもおろそかにはできないと思います。

 

さて、その平将門の本拠地は守谷市に隣接しているといっていいほど、我が家からは近い坂東市にあったようです。坂東といえば、坂東武者の代表のような感じがしますが、坂東武者というのは源氏方が多く、平家の一族の本拠地という意味では、坂東市という市名よりも以前の岩井市の方がぴったりしている感じがします。この頃は効率性優先の行政手法ばかりが優先し、合併などによって昔をとどめる地名が失われて行くのを残念に思っていますが、この坂東市もその一つのように思えます。近くに利根川(坂東太郎)が流れ、出身の武将が関東一帯に名を馳せたことからこの名前が使われたのだと思いますが、はて、このような変化を将門新皇ならば何とコメントされるでしょうか。

 

平将門を祀る神社は幾つかあるようですが、今日参拝したのは坂東市の中心部近くに位置するその名も国王神社という所でした。ここは将門が戦死した際に難を逃れ奥州の方に庵を結び出家隠棲していた三女の妙蔵尼という方が、父の33回忌にあたる天禄3年(972年)に、この地に戻り付近の山林に霊木を得て父の像を刻み、祠を建てて安置し祀ったのが始まりと説明板に書かれていました。その当時から神社が国王と呼ばれていたのかどうかは定かではありませんが、思うにその当時は今よりも小さな祠一つだったのではないかと推察します。

 

          

国王神社正面の拝殿。この日は日差しが強くて樹木の影が邪魔をして判りにくい写真となった。真に質素なたたずまいに、歴史におけるこの人物の存在感のようなものを感じたのであった。

 

現在の国王神社は、拝殿も本殿も茅葺屋根で造られており、いつの時代に造り替えられたのか判りませんが、それなりの風格というか時代を偲ばせるものを持っている様に感じました。全体としては周辺の樹木も粗末で、規模も小さいのは、やはり明治時代からの歴史評価が変わるまでは、随分と軽視されたというか、表に出られなかった、そんな感じがしました。それにしても今頃、岩井市や坂東市は随分と平将門を売り物にして利用している風に思えるのに、これらの史跡の保護に関しては雑というか、ほったらかしの感じがしてなりませんでした。もう少し将門を大事にした扱いを、随所に心配るべきではないかと思いました。一度役場に行って話を聞いてみたいなと思いました。

 

          

国王神社の本殿を後ろ側から撮ったもの。茅葺の屋根も、又その下の建物も真に質素で、彫刻等の飾りもほんのわずかしか見られなかった。

 

国王神社参拝の後は、近くに将門の菩提寺があるというので、行ってみることにしました。神社から200mほどの所に医王山嶋薬師延命寺というのがあり、これが菩提寺ということでした。何だか荒れ放題のお寺の感じがして、ここも又将門の評判とそれに対する扱いとのギャップを感じたのでした。どこかに墓標や墓碑のようなものがあるかと探しましたが、不明でした。このお寺の建物は、どうやら火災などで焼失してしまったらしく、仮の建物のまま朽ちかけて来ているといった雰囲気でした。菩提寺なるものがどこに幾つ存在するのか分りませんが、他のお寺はここよりも上等であって欲しいなと思いました。

 

         

平将門の菩提寺である医王山嶋薬師延命寺の境内風景。中央左の赤い建物は医王堂。その奥に見えるのが本堂。周辺の樹木も乏しく、境内は荒れて寂しげな感じがした。

 

帰りには守谷に越して来て以来いつも愛好している将門煎餅を、市内のその本店で購入して戻ったのですが、ついでに将門所縁の守谷市内にある海禅寺にも立ち寄りました。守谷市も将門との縁は深く、出城の一つである守谷城の城址の跡が残っています。海禅寺は将門七人の影武者を弔ったという話が残っており、その七つの墓の石塔が残っています。詳しいことは解りませんが、主人だった将門の神社や菩提寺を訪ねたのですから、その側臣の墓に詣でるのも礼ではないかと思ったのでした。

 

         

守谷市内にある海禅寺境内の、将門の七人の影武者の石塔。一番右の少し高い塔には、「平親王塔 天慶三庚子年」と刻まれており、それは西暦940年将門が戦に敗れて戦死した年ということになる。この石塔がその時に建てられたものなのかは不明だった。

 

 

平将門の史実等については、殆ど知識がなく、海音寺潮五郎先生の「風と雲と虹と」を読んだ程度ですから、どのようにこの人物を受け止めていいのか戸惑いがあります。しかし、現代の今の世につながる歴史の登場人物であったのは間違いないことですから、これからも機会をとらえて史跡などを訪ねてみたいと思っています。

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悪の進化の時代

2012-02-08 07:23:04 | 宵宵妄話

 世の中には「悪」というものが常在します。必要悪といったものもあるそうですが、その本質が反社会・反人間性のものならば、それはやはり不要だといわなければなりません。

 

この頃の世の中を見ていて思うのは、50年前に比べても悪というもののレベルが相当に進んだということです。世の中は善悪まみれて成り立っているものと認識していますが、ここ50年間で、善の方はレベルも量も大して進んでいないのに比べて、悪の方は加速度的な質量の増加です。簡単にいえば、世の中悪くなっている、悪の方が優勢となって来ているということです。

 

例を上げればきりがありませんが、私の場合の卑近な出来事としては、Eメールの被害があります。時々、いわゆる迷惑メールと呼ばれるものが混ざって来ていたのですが、何とかこれを排除したいとかねがね思っていました。ある時、その迷惑メールを振り分ける新しいソフトが開発されたという案内のメールが入っていました。ちょっと疑問を感じつつも、どんなものか問い合わせてみようと、そこへアクセスしたのですが、何だか要領が解らぬままに取りやめたのでした。ところが、その後はとんでもない事態となりました。連日迷惑メールが束になって送られてくるようになったのです。多い日には50を超える、くだらない内容(アダルト系)のメールが送られてきます。それは今でも続いており、どう対策するか迷っていますが、取り敢えずアドレスの変更は面倒なので、しばらくの間削除続けるつもりでいます。どうせ暇ですから、メールを開く度に削除するのも楽しみといえば楽しみのようなものです。

 

ところで、よく考えればこれは相当に悪質です。己が悪であることを承知しながら、善の姿をして相手を騙すという手口は、振り込め詐欺よりも悪質といっていいかもしれません。この場合はお金が絡んでいない(メールの内容の中にはお金のことも織り込まれていますが、それは当然無視です)ので、振り込め詐欺よりは被害は少ないことにはなりますが、欺くという悪の本質は不変です。

 

このような悪質な行為は、50年前にはこれほど一般的ではなかったと思います。詐欺をするのは詐欺師といわれるような、一種の病理的な欠陥をもった人間による場合がほとんどだったと思います。従ってその犯罪件数も少なかったと思うのですが、現在はネット等情報流通技術の高度化によって、犯罪がゲーム感覚化し始めています。ゲームの中に取り込まれている犯罪を、現実の世界で行うというような、反社会的な現象が出て来ているような気がします。バーチャル(=仮想)とリアル(=現実)の世界を混ぜこぜにして、その区別がつかないような人種が世界各国で生まれて来ているようです。このまま放っておけば、悪のレベルは益々進歩し、犯罪の量は増加するに違いありません。

 

何が悪を進化させているのかといえば、その最大のものは、「個」を中心とするコミュニケーションのツールが高度化し過ぎたところにあるような気がします。高度情報化社会の到来ということが叫ばれたのは30年ほど前だったような気がしますが、その当時の予想以上に、現在の情報やり取り技術は進化しているようです。音声と画像・映像と文字とが一体化した情報のやり取りが、個人レベルで可能となる時代が既に到来しています。しかし、これをコントロールする技術も知恵も人間はまだ持ち合わせていないような気がします。それらの使い方は個人任せであって、それが反社会的であってもそうでなくても、全て個人の振る舞いに委ねられています。そのことの良し悪しは一概に決めつけられるものではありませんが、予感として、放置したままだと小さな功利のための組織は成り立っても、国家などは成り立たなくなるような気がします。

 

何年か前、「『ケータイ・ネット人間』の精神分析」(小此木圭吾著)という本を読み、いろいろ考えさせられるところ大でした。今の世の中の人間同士の結びつき(これを絆ともいうらしい)は、一見平和風な環境の中では、「個」が中心であるがゆえに極めて脆弱となって来ているように思えます。というのも、「個」が中心ですから「他」とかその代表である「社会」などというものは、全て「個」の中に収められてしまっていて、隅の方で忘れられかけている存在だからです。この度の大震災で「絆」が脚光を浴びたのは、このような「個」が中心の社会のあり方に一つの課題を投げかけたのではないかと思っています。

 

私の話がぐらつくのはいつものことでありますが、ここまで来て、何だかこのようなことを偉ぶって述べてみても、滑稽な感じがしてきました。所詮は己に対する慰めに過ぎない妄話のような気がするからです。私は「個」というものの大切さを決して否定するものではないのですが、今日の世の中の悪というものの増幅ぶりを見ていると、このままでは日本国も東京都も茨城県も力を失い、やがてその見返りとして、「個」そのものが堕落し、衰退して行くのではないか。そのような思いにとらわれるのです。

 

池波正太郎先生の鬼平犯科帳や必殺仕事人、それに剣客商売などを読んでいると今の世のありがたさの半面、勧善懲悪の曖昧さに対する怒りのようなものが湧きたってきます。明らかに悪と解っていても懲に対する姿勢が今の世はあまりにも甘く、かったるい気がします。オーム真理教の事件の後始末をはじめ、新聞沙汰となっている多くの社会面での出来事は、やたらに悪を弁護するようなものばかりで、悪人は再犯率を高めるばかりです。今の世は、本当の人間に対する優しさを忘れており、被害者よりも加害者に味方する傾向大のような感じがします。「個」が「悪」そのものならば、そのような悪は抹殺・削除すべきです。長谷川平蔵や藤枝梅安や秋山小兵衛などの振る舞いを羨ましく思います。

 

それにしても、顔の見えない悪は、これから先どこまで進化して行くのでしょうか。コミュニケーションのツールがこんなに進化して便利となったというのに、便利を逆手にとって迷惑メールを送り続けてくる小賢しい悪の姿を打つ飛ばしたてやりたい思いに駆られながら、今日も削除の作業を数回行ったのでした。

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乙戸沼での妄想

2012-02-04 00:15:00 | 宵宵妄話

     毎度の話ですが、毎月曜日もしくは木曜日には、つくば市まで往復する家内のお抱え運転手を相務めており、我が御大がフォークダンスの稽古を終えて戻るまでは、市内の好きな所をほっつき歩くことにこれ努めています。今日もその話の一つで、乙戸沼というのを紹介したいと思います。

 

茨城県の県庁所在地は水戸ですが、私が育った頃の県南の中核都市といえばそれは土浦市でした。現在では人口14万人余の土浦市よりも、隣接するつくば市の方がはるかに人口が増え、20万人を超えて水戸市に追いつく勢いを見せておりますが、20年ほど前まではつくば市など存在せず、幾つかの町村の田園が広がる農業の主力産地であったのです。

 

その土浦市の南西部に乙戸という地名のエリアがあり、その中心に乙戸沼という小さな湖があります。周囲が2km弱しかなく、湖というよりもやはり沼というべきなのかもしれません。その昔は現在の3倍ほどの大きさがあって、ジュンサイやウナギなどが獲れて、この辺りに住む人々の暮らしに大きく係わっていたのだそうですが、現在は全域が公園となっていて、湖畔には桜の木が植えられ、その樹間を縫ってジョギングコースなどが設けられており、市民の憩いの場となっています。

 

     

乙戸沼の様子。沼の手前側の方は氷が張っており、水鳥たちは遠く向こう側で暮らしている。名所の桜のつぼみはまだ固い。

 

私はこの散策コースが気に入っており、月4~5回のつくば市行の中で、1~2回は必ずここを訪れ散策を楽しむことにしています。春の終わり頃から秋にかけては旅に出掛けてしまいますので、この沼の景色が季節によってどのように変化しているのか、その様子は定かではないのですが、春の桜は近郊の中では花見の名所の一つとなっていますから、その後の葉桜や夏の木陰は、市民の憩いの場所として大いに親しまれているのではないかと思っています。

 

私がここを歩く時の楽しみの一つに、水鳥たちに会えることがあります。何故なのか解りませんが、この公園には放し飼いの鶏、烏骨鶏、チャボ、アヒル、ガチョウなどがそこいら辺を歩きまわっており、その数は年々増えて来ているようです。特に目立つのはガチョウで、何とも不細工な顔を気にもせずに、あちこちをモタモタ、ヨタヨタと歩き回っています。このような鳥たちにつられるのか、ドバトたちや時にはキジバトまでもが一緒にヨチヨチと歩き回っています。これらの鳥たちはあまりにも身近で図々しいので、立ち止まって観るようなことはしませんが、この他にも何種類かの水鳥たちがいて、目を楽しませてくれています。

 

留鳥としてはカルガモ、バンやカイツブリなどがいます。これらは水の中にもぐって餌を探していますが、臆病なバンなどまでが時々陸に上がって、どさくさに紛れてカルガモの傍で昼寝などをしたりしているのを見かけると思わず小さな笑いが浮かんでしまいます。しかし居眠りをしていても、危険に対する反応が敏感で、傍に近づいてカメラを向けようものなら、たちまち水の中にドブンと飛び込んでしまいます。ま、これでいいんだと思っています。このような野生の鳥たちにも懐いて貰いたいというのは、人間の思い上がりであり、はっきりとした区分があるのが自然界の決まりなのですから。

 

    

左は遠来の渡り鳥たちに負けじと珍しく群れをなして泳ぐ留鳥のバンたちのグループ。右は岸辺でカッパえびせんを撒く人の近くに形振り構わずに群がる鴨たち。マガモ、オナガガモが多い。

 

冬のシーズンの今ごろの楽しみは、何種類かの鴨たちの飛来と、それから何といっても白鳥がやって来てくれることです。この渡り鳥たちは適度の警戒心と親近感があり、人間とは良い関係を保っているように感じます。どのような彼らの基準を以って、白鳥たちが飛来場所としての湖や沼などを決めるのか解りませんが、乙戸沼には今年は70羽ほどがやって来て、賑やかに暮らしているようです。まだ羽の色が白くなりきれていないのも混ざっていますから、何家族かが子連れでやって来ているに違いありません。

 

     

沼の真ん中寄りで遊ぶハクチョウたち。右手前の黒っぽい2羽は幼鳥らしい。約70羽の内2割近くがこのような若鳥が占めているようだ。

 

渡り鳥の彼らを見ていていつも思うのは、どこが一体故郷なのかということです。生まれた所がそうなのか、それとも育った場所なのか、或いは一番暮らしやすい所がそうなのか、はたまた留鳥となるのを決めた場所なのか。大別すれば今住み暮らしているこの乙戸沼とそれからもう一つの生まれ育った北国のどこかの場所、このどちらかが故郷ということになるのでしょうが、さて、こいつは彼らの本心を訊いてみなければわからないことでありましょう。

 

こんなことを考えるのも、私自身が渡り鳥のような暮らしをしながら、今守谷市という場所に巣を作って暮しているからなのだと思います。勿論私には父母に育まれ大きくなった、れっきとした故郷があるのですが、その父母もこの世を去ってかなり長い年月が過ぎ去り、故郷の現地もその昔とは大きく様変わりしてしまっています。自分にとって故郷というのは、どうやら次第に死語となりつつあるような気がします。いや、死語ではなく、ことばの意味が変わってきているといった方が良いのかも知れません。つまり、故郷というのは現存するものが少なく、その実体といえば、心の中にいつの間にか収まった原風景といった意味になるのではないかと思うのです。

 

渡り鳥たちは、どうやら同じ場所を季節に従って往復しているようですが、自分といえば、渡るというよりも流れるというのがより当て嵌まる暮らしぶりであり、渡り鳥たちのような謹厳さは持ち合わせていない感じがするのです。その流れも止まりかけた頃から、新たなくるま旅を始めたのは、自分というものが、よほどに旅という流れ続ける暮しが気に入ってしまったというか、身についてしまったからなのかもしれません。

 

寒風吹きすさぶ中を気がつけば3周以上も周り続けて、あれこれとそのようなことを、今日は考え続けたのでした。これからの自分にとっては、旅の中の時間の全てが、故郷のようなものとなるのではないか。特別な場所がなくても、この大地に生きている限りは、そこで過ごす全ての時間が生きていた証としての故郷になるのではないか、と、そんなことを考えたのでした。この乙戸沼も又故郷になるに違いありません。少しオーバーな気がしますが、旅そのものが故郷のさすらいのような気がしたのでした。

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ブログ開設満5年となりました

2012-02-01 05:09:12 | その他

今日でこのブログの開設の満5周年を迎えました。2007年の2月1日から早くも5年が過ぎ、今日から6年目に突入したわけです。さほど長い時間ではないのですが、既に延べ18万人の訪問を頂き、閲覧数も52万件を超えることが出来、お読み頂いていることに心から感謝し、お礼を申し上げます。

 

私のブログは文字ばかりの長文が多く、写真も少ないので、お読みになられる方には途中でうんざりなさって、お止めになる方も多いのではないかと思っています。それなのに予想を超える実績を頂いているのは、真にありがいことだと感じ入っています。もっと読みやすくし、画像や映像或いは音なども取り入れるようにすれば、現代風になって喜んで頂けると思うのですが、私としては今のスタイルを大きく変える考えも、力もないと思っており、このまま行きつく所まで続けてみたいと考えております。

 

このブログは、元々は、くるま旅くらしを通して出会った様々な出来事をお伝えする中から、リタイア後の人生を活き活きと生きて行くためのヒントになるようなものを感じとって頂ければ嬉しいなという思いから始めたものです。

 

これからの世の中は、老人の生き方が、未来を担う世代に大きな影響を及ぼすことになるのは必定です。老人世代が世の中に最も貢献できる仕事というのは、一人ひとりが何か世の中に役立つ特別なことをすることなどではなく、そのいのちの終わりが来る時まで、心身共に健康であるということではないかと思っています。そのために何よりも大切なことは、日々を活き活きと生きるということではないでしょうか。老化に伴う体力の低下、変調は不可避的なことですが、それらの現象に只流されるままに、心の張りをも失って、病に翻弄されるような生き方は、自分自身だけではなく世の中全体にも大きな迷惑と負担を掛けることになります。

 

消費税の増税の話題が本格化していますが、もしかしたら、高齢者がこの増税の必要性を後押ししているのかも知れません。そうだとしたら、高齢者は増税に反対しながら医療費負担の増加を求める前に、先ずは己自身の健康管理を強化し、不要な医療費の発生を未然に防ぎ、最小限の医療費で国の財政が賄えるような努力をするのが筋ではないかと思うのです。

 

話が大きくなりそうなので止めますが、高齢者の一人として、私はくるま旅くらしを通して、糖尿病などの病を乗り越えて、活き活きと生きてゆきたいと考えています。それが自分が世の中に貢献できる最大のものであるように思っています。人には夫々の様々な生き方があり、それをどうこう批判するのは僭越というものでありましょう。でも、活き活きと生きようじゃないかという提言は、それほどひどい僭越行為でもないように思っているのです。

 

私のブログ記事は、1.くるま旅くらしの話 2.宵宵妄話 3.ホト発句 4.その他 の4つのカテゴリーに区分していますが、勿論本命は1.です。2.3.4.はおまけのようなものです。可能な限り在宅時でもくるま旅くらしに絡む話題を書きたいと思っているのですが、なかなかそうもいきません。でもこれからはその割合をもっと増やし、「旅」という時間・空間が、人が生きて行くために如何に有用かということを、少しでも多くお伝えできたら良いなと思っています。

 

旅で出会った大切な知人の中に、御歳80歳になんなんとされているご夫婦がいらっしゃいますが、ご主人は、旅の間も全国の仲間とのアマチュア無線の交信を絶やさず、パソコンを自在に操って旅の計画表や記録を絵図などを取り入れ、楽しみながら自在に作成されています。又奥様は、毎々の料理づくりを、思いを込めて楽しんでおられます。ご夫妻とも至極お元気です。そこには毎日を活き活きと生きることを実践なさっている姿があります。私はこのような生き方を目指したいと思っています。時代を先取りするなどという無理なことは考えずに、老人ではあっても文明の利器と思われるようなものは最大限使わせて貰って、私なりに活き活きと生きることに努めたいと思っています。

 

その意味において、このブログは私にとってはとても大切なツールであり、場でもあるのです。お読み頂いている皆様の無言のコメントの中に、私を鍛えてくれる多くの声があるのを、時々耳を澄ませて聴くように、これからも努めて行きたいと思います。とりあえず、次はあと5年の節目が迎えられるように頑張りたいと思います。

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