山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ニワトコの変身術に思う

2009-02-28 00:26:23 | 宵宵妄話

昨日(2/26)も終日曇り空で、時々小雨が降る寒い天気でしたが、夕方から今朝にかけてその寒さは益々強さを増して、この分じゃ、もしかしたら雪になるかも?などと思っていたら、10時過ぎから本当に雪が降り出しました。今年初めての雪らしい雪が舞い落ちてきて、2時間もすると、我が家の庭はうっすらと白くなりました。

   

 今朝の我が家の庭先の様子。梅の花が咲いているばかりで、そのほかの樹木たちは真に頼りない姿をしている。

 北国では、雪など珍しくもないと思いますが、この守谷の地は茨城県といっても、歴史的にも地形的にも千葉県に近く、比較的温暖な土地なのです。この地では、雪というのは、必ずしも寒いとされている1月などに降ることよりも、もう直ぐ暖かくなる時節や、もう春だななどと実感できるような時に降ることが多いようです。

 

今日は、その雪の話題ではなくニワトコという植物の話です。今朝、朝日新聞の科学欄に「ニワトコが『変身術』」という記事があり、それが目に入りました。それによりますと、ニワトコは暗い所では草の姿をし、明るい所では落葉樹の姿に変るという話でした。森林総合研究所などのグループが、野外調査とモデル計算で明らかにしたということです。

そのようなことはどうでもいいと、気にもしない人が殆んどなのではないかと思いますが、糖尿病の運動療法としての歩きを始めてから、野草や樹木に関心を抱いている私としては、真(まこと)に見逃すことの出来ない興味津々(きょうみしんしん)の情報なのです。

ニワトコのことは、家内が以前ボランティア活動で、古民家のメンテナンスやガイドをしていたとき、わが国の民族文化に触れることが多くなって、この木を使って魔よけなどの祭祀用の飾りを作るというような話を、やや強制的に聞かされたことがあり、どのような木なのだろうかと探したことがあって、それが意外と身近な所に生き残っていることを知ったのでした。ニワトコは畑の隅や山際の藪のような日当たりの良い場所で育っている姿を見ることが多く、そのような場所が好きなのだと思っていました。実を啄(つい)ばんだ小鳥たちのせいで、日当たりが良くない場所に生えてしまうことも当然あるわけですが、そのような場合はどうなるのかについては考えたこともありませんでした。それが、なんと草の姿をしてじっと我慢して、やがてチャンス到来の暁(あかつき)には樹木に変身するというのですから、これには驚かずにはいられません。 

   

ニワトコの姿。少し黄色っぽくなっているが、実際は白い花序が幾つもついている。これは草ではなく、かなりいい条件で生育している姿である。

念のために少し辞典などで調べてみました。何と和名は、漢字で「接骨木」と書くのです。これはどういうことかと調べましたら、その昔は骨折した場合に、この木の枝を黒焼きにしてうどん粉などに食酢を入れて練り合わせたものを患部に厚く塗って、添え木を当てて押さえておくという治療法がとられており、骨折した骨をつなぐということからこの名が付けられたということでした。ニワトコには、この他にも漢方では、花序(小さな花がたくさん集まっている部分)を乾燥させて利尿剤などとして使うということですから、人間や動物にとってはたいへんありがたい樹木なのだと思います。

少し余談になりますが、北海道の旅で、日高エリアの平取町、二風谷(にぶたに)の萱野茂アイヌ資料館を訪ねた時、家内が、「あっ、ここにもニワトコで作った魔除けがあるわ!」と声を出したのを覚えています。アイヌ民族でも、ニワトコは魔よけの御幣(ごへい)として使われていたようです。ニワトコの木は乾燥させると軽く、加工しやすいので小刀で削って御幣状のものを作りやすいのかもしれません。ニワトコは、日本民族とアイヌ民族に共通する文化の中で活用されていた樹木だったということなのでしょう。

さて、その変身術の話ですが、これは言い方を代えれば環境適応ということになるのだと思います。ニワトコにはソクズ(別名クサニワトコ)という本物の野草がありますので、今回の記事はそれとの混同ではないかと思ったのですが、研究所の専門家がモデル計算(どういう計算をされるのか興味津々です)をして確認されているのですから、そのような誤りをされるはずも無いと思ったのでした。

草という姿と樹木という姿の使い分けは、凄いなあと思いました。姿を大型にしたり、超小型にしたりして、環境に必死に適応しようとしている野草の姿を見ることは珍しくありません。今頃土手などに咲くタンポポは、茎の部分を殆んど伸ばさないままに花を咲かせていますし、ノゲシだってハルジオンだって、冬に咲かせる花は皆茎が短く小さい状態です。これらが本格的な春を迎え、初夏ともなると一斉にのびのびと大きな花を咲かせているのが判ります。

しかし、草が樹木になるというのは知りませんでした。まさにこれは本格的な変身だと思います。よく考えてみると、草と樹木の違いというのは、一体何が決定的なのでしょうか。これは結構難しいようで、植物学的には、草も木も同じということのようです。専門的には草のことを草本、木のことを木本というようですが、木本の方は二次肥大というものを行なって木部を形成するのに対して、草本の方は二次肥大をしないというのが特徴のようです。しかし、竹などは二次肥大をしないままに成長を続けて生きながらえて(=年輪を作らずに)いますが、これを草というのには違和感があります。ま、そのような理屈は措くとして、ニワトコによらず、植物にはもしかしたら自在の環境適応力があるのかも知れません。進退窮(きわ)まったいざという時以外は、一番生き易い姿で立っているのかもしれません。

動物以外の生物でも環境適応というのは、生存のための最大のテーマですから、その意味ではニワトコというのは、かなり繊細な植物といえるのかも知れません。

このような植物の不思議な能力を垣間見るとき、我々人間の場合はどうなのだろうかと思いをめぐらします。環境適応というのは本能の発揮するものなのだと考えると、人間の動物としての環境適応能力は、文明の発達と共に低下し、劣化しているような気がします。もし世界中が一挙に大飢饉になって、日本国には一木一草の実も輸入されないとなったら、多くの日本人が餓死するという悲惨な事態が現出するに違いありませんが、そのときに家の近くの道端に、生命をつなぐ野草があったとしても、今の日本人ではそれを食べるという知恵も勇気もなくなっているような気がします。為す術(すべ)も無く環境の悪化に晒(さら)されてあの世行きとなるに違いありません。ニワトコのような用意周到な環境適応の本能が働くとは思えません。ま、そのような悪質の妄想はしない方が、今の世では安全なのかも知れません。

3月が近づいていて、世情が更に厳しく悲劇的になるのが心配です。百年来の未曾有の不況の本番を迎えるのは年度末です。大騒ぎをしながら、政治の混乱は相変わらず国民大衆意を置き去りにして迷走を続けているようですが、決算期には環境適応の出来なかった企業が、その生命を絶たれるという悲劇が多発しないかと心配です。生きているものは全て、身を置くその環境に適応しなければならないという自然界の摂理は、人間の営みが作り出している経済環境においても全く同じように当てはまるものであり、その試練の決定的なときが間もなくやって来るのです。この際、ニワトコの変身術に学ぶことが幾つかあるのではないでしょうか。もう時遅しなのかも知れませんが、……。

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携帯電話

2009-02-27 11:58:45 | 宵宵妄話

携帯電話(=ケータイ)は、今では生活の必需品です。我が家でも一人一台となって久しくなります。固定電話を使うことは滅多になくなりました。毎日の生活の中での活用は当然ですが、特に旅先では、これを持参しないと困ることが多いのです。旅先での家内と別行動の場合は、移動手段と宿とを共有している関係上、連絡を取り合わないとミスマッチが起こった場合に、とんでもない事件に発展する可能性があるからです。

私たちの場合は、家内のケータイはTV付き、私のケータイはTVなしとなっており、画像での情報が欲しい時には、運転をしない家内が隣で情報収集の役割を果たすためにそのようにしているわけです。もともとさほどTVの好きでない私には、小さな画面に映る映像を覗くことなど大して興味も関心もありません。世の中の多くの夫婦は、夫の方が高性能のケータイを持ち、妻の方が持たせてもらえないか或いはグレードの低い機能の機器に甘んじているケースがどうやら一般的(特に高齢者となるほど)らしいですが、我が家では逆になっているようです。

ケータイといえば、そのほとんどは通話ではなくメールでのやり取りが多いようです。通話では無駄が多く、時間がかかり、コストも高くなりますのでメールの方がコミュニケーションのツールとしては優れている感じがします。

私の場合は、旅先ではブログへの掲載をメールで行なっていますので、そのための活用を最優先させています。何しろ時には3時間もかけて原稿を作成することがあり、そのような時にはパソコンと同じくらいの大きさの、キーボード付きのケータイはないものかと思ったりします。多分その方面の知識・情報に詳しい方は、そのような機器があることをご存知なのだと思いますが、私は踏み出して調べようとしないので、今のところ投稿のツールは小さなケータイしかありません。パソコンにケータイなどをつないでの利用は、通信速度が遅いため、コストがかかってしまいとても無理だと思っています。年金暮らしでは、とにかくコストのかからない方法を選択することが大切なのです。

ところで、今日ケータイを取り上げたのは、自分たちの活用ぶりを紹介するなどということではなく、今朝の新聞に文科省が昨年秋に実施した「子どもの携帯電話等の利用に関する調査」の調査結果に関する記事が掲載されているのを読んで、少しばかり考えることがあったからなのです。

「中高生携帯漬け」という見出しに、先ずは驚きました。「中2の2割メール1日50通」、「高2の2割食事や授業中も」ともありました。新聞というのは、意外と主観的なコメントが多いので、念のため文科省のホームページにアクセスして、調査報告の詳細を見てみました。感想としてはデータの読み方によって、いろいろな解釈が出来るなと思いましたが、この現象に対して注意・警告を発するという意味で、新聞の取り上げ方は正鵠(せいこく)を射ているかなと思いました。

私が思うには、本当は高齢者となるほどケータイ活用のニーズが高いのではないのでしょうか。ケータイというのは、コミュニケーションのツールです。人間というのは、一人では生きられない存在ですから、常に誰かと係わり合いを持ちたがるし、持たなければならない存在なのだと思うのです。そのような他と関わることが一番必要なのが、本当は高齢者なのではないかと思うのです。

しかし現実はケータイを自在に使って、他の誰かとのコミュニケーションを取れる高齢者は極めて少ないのではないかと思います。現代文明の進化のスピードは、多くの高齢者を置き去りにしています。人間にとって極めて便利で有用な情報機器を生み出しているのに、その恩恵は高齢者には届かないようです。その代表的な機器がケータイなのではないかと思います。その責任の大半は個々の高齢者自身にあるというのは明白ですが、マーケットとしてさほど重視していない関係業界のあり方や行政のあり方にも問題があるように思います。

まずは、このような問題意識のもとに、文科省の調査結果を考えてみると、子どもたち若い世代がケータイを活用していることは、基本的には大いに結構なことだと思います。ケータイを使えないような子どもがいたなら、それはケータイを使えない高齢者よりも悲劇的なことではないかと思うのです。

問題はそれをどう使うかということなのでしょう。これを規制するのは極めて困難だと思います。使っている機器の性能や機能を制限しない限り、使い方をコントロールすることは不可能だと思います。物理的にはそのような発想しか考えられません。最も期待できるのは、本来ならば子どもにケータイを買い与えている親が、指導し、管理することなのでしょうが、親よりも子どもの方が使い方の要領をより以上知っているという現状では、そのような期待も望み薄です。自由と放任とを混同している親が圧倒的に多い世の中では、親に期待できるものはあまり多くないというのが現実なのだと思います。新聞にも、親はケータイの実態を知らないと書かれていました。結局のところ、携帯電話は良くも悪くも子どもたちにとっては、これからの人生に大きな影響を及ぼすと共に、その子供たちが大人になって作るこれからの社会のあり方にも大きな変化をもたらすものとなるのではないかと思われます。

ITとか情報革命とか言われている、今のようなコミュニケーションツールの進歩と普及は、世の中の既成の道徳観念などでは律することが出来なくなるのではないでしょうか。情報革命のもたらした成果の中に、人間不信と悪性指向が少しずつ増殖しているのを感じないではいられません。人間の持つ悪意が、新しい情報ツールの発展に伴って拡大しつつある感じがしてなりません。子どもたちがそのような悪意や不信に巻き込まれて、人間としての健全性を失わなければ良いがと心配です。

何故ケータイ漬けの子どもたちが多いのか、その原因というか要因は明白です。誰かとつながりたい、コミュニケーションを取りたいという子どもが多いからなのでしょう。一人でいることに不安を抱く子どもが多いからなのでありましょう。逆に言えば、大勢の人間に取り巻かれていながら、一人ぼっち感を抱いている子どもが多いからなのだともいえます。もっというならば、自分というものに対して本当の自信が無い子どもが多いということかもしれません。表面的にはたくさんの人間に囲まれて、差し障りの無いコミュニケーションが取れているけれども、その実心の奥深い所では、つながっていない、切れているという感じを持っているということではないでしょうか。

親子であっても、心の深いところでつながっているケースは稀なのだと思います。ましてや他人であれば、一層そのつながりは脆(もろ)いものに違いありません。薄っぺらな人間関係ばかりの中で、子どもたちは他人に対して、自らケータイを通じてその薄っぺらの度合いを強めているのかも知れません。

今の世はお笑いタレントや芸人がTVなどを通じて世の中をかき回している感じがします。この風潮は、タレントや芸人にとっては自分を磨き主張する絶好の手段だと思いますが、それを楽をしながら似非の優越感の中で、TVを通して眺めている一般大衆にとっては、自分をほんの少し慰める程度の効果しかなく、その実は益々孤独感を高めているように感じます。そのような世の流れの中で、子どもたちは薄く、軽く、そしてより広がりのある人間関係のあり方を、ケータイというツールを通して懸命に学んでいるのかも知れません。その学びの度合いは、中学、高校と思春期から青年期にかけてより強まっているようです。より深いつながりを求めるのであれば、そのような行為は、自分自身にとって大して役に立たないということに、本当に気づいていないような感じもするのです。

今の子どもたちが本当にIT革命のツールとしてのケータイを使いこなしているとはとても思えず、自分自身を見失った状態で、ケータイの持つ魔力に取り付かれてしまった感じがするのです。プロフのことなども書かれていましたが、見知らぬ人と知り合っても、その出会いにどう対処し、どう処理するのかも知らぬまま、傷を負って退散するというのでは、知り合わない方がずっとマシだと思うのですが、心の奥深い所では、やっぱり出会いを求めているのでしょう。このような迷いに対して、手も足も出ないような親が多いのは、真に嘆かわしいことですが、今の社会・経済システムが、基本的に競争原理をもとに成り立っている限りでは、古来より培われてきた日本人の道徳観などというものは、風化してゆくのは当たり前のことなのかもしれません。

子どもたちの調査結果のことばかりでは無く、20代や30代の世代においても、ケータイの存在は不気味に世を動かし始めている気がしてなりません。文明というのは、時々この世に魔物を送り出すようです。もしかしたらケータイというのは、その魔物なのかも知れないな、と思いました。

それにしても高齢者のことが気になります。電話といえば、「モシモシ、ハイハイ」と通話の交信しか知らない老人ばかりでは、人生の最終ステップにあって、孤独感からの脱出に力のあるはずのケータイをとても使いこなせるはずも無く、益々邪魔な存在となり下がってしまうのではないかと、明日の我が身を思ったのでもありました。

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ホームページ完成!

2009-02-26 00:51:08 | 宵宵妄話

ここ1週間ほど悩まされ続けてきたホームページの改変が、ようやくゴールに到達しました。ヤレヤレです。昨日までに、一応は作りあげて公開してはいたのですが、どうも変化に乏しくて、とても改変などと大口を叩くほどの出来栄えではありませんでした。

それで今日もう一度やり直しをすることにしました。固い頭からは、どうしても固い作品しか生まれず、結果的には大して変らないものとなりましたが、少し写真などを入れて気分を和らげられるようにしたつもりです。

私のホームページは、「くるま旅くらし元帳」としましたように、くるま旅くらしについての、私の基本的な考え方をお知らせするのが目的です。その構成は次のようになっています。

①くるま旅くらしの提唱

②私たちの自己紹介

③旅車SUN号の紹介

④私たちの旅のあしあと

⑤著作・記録集のご案内

くるま旅くらしを提唱させて頂いている対象は、リタイア後の第2の人生をこれから歩もうとされている方、既に歩み始めておられる方など、私と同世代の方たちを中心にイメージしています。

思うに、人生の本当の楽しみは、仕事をリタイアした後にあるのではないでしょうか。それがどのような仕事であっても、現役時代の場合は、仕事に遊びの要素を組み入れるなどということは、よほどの恵まれた環境にいない限り、とても無理だったと思います。毎日生起する様々な障害をクリアするために、汗を流し、神経をすり減らしながら、その分のストレスを溜めながらの来し方だったと思います。

定年を迎え、或いは現役からリタイアするということは、それらの制約から解放されるということでもあります。これからのくらしを賄うためのある程度の蓄えは必要ですが、そればかりにこだわっていると、人生を楽しむ最後の、最大のチャンスを逃してしまうのではないでしょうか。自分が自由に使える時間がたっぷりあるのですから、これを使って大いにこれからの人生を楽しみたいものです。

その楽しみ方には様々なものがあり、何を選ぶかはその人の自由ですが、私はその選択肢の中に「くるま旅くらし」もしくは「くるま旅」を加えては如何でしょうか、とお勧めしたいのです。旅には様々なスタイルがあると思いますが、たっぷりある時間を存分に使って、可能な限り安いコストで、様々な出会いを拾いながらの旅を実現するには、くるま旅が一番だと思います。そのような旅のスタイルを提唱したい思いをこめて、ホームページを作っているつもりです。

ホームページの出来栄えといえば、これ以上単純なものはないというほどのレベルなのですが、 「シンプル イズ ベスト」のつもりで、お読み頂ければ嬉しく思います。一人でも多くの方が、現代文明の最大の利器の一つである車を使っての旅にチャレンジされ、人生を大いに楽しんで欲しいと願っています。

ブログからのホームページへのアクセスは、右蘭にある「ブックマーク」をクリックして頂ければOKです。

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真壁に雛人形を見に行く

2009-02-24 22:42:06 | くるま旅くらしの話

今日(2/23)は気分転換に40kmほど離れた所にある真壁町(今は合併して桜川市)で開催されているひなまつりを見に行きました。

真壁町は、常陸の南西エリアの中では近世の歴史ではかなり存在感があったのではないかと思っています。この地に最初に築城した真壁氏は、当初は佐竹氏と勢力争い等をするほどの力を有していたとのことですが、やがては佐竹氏の家臣団に加わり、佐竹氏の出羽への国替えに従って角館へ移転したため、真壁にはその後浅野氏(浅野長政の隠居料として真壁5万石が与えられたとか)の居城となったとのことです。しかしその後藩主の転封により廃城となり、今は古城跡が残るのみです。しかし、町の方は江戸末期まで栄えて残り、今日に至っています。第2次世界大戦の被害にも会わなかったこともあり、往時からの屋敷や蔵などが現存しており、その多くは登録有形文化財として国の指定を受けています。

その真壁地区では、毎年2月下旬から3月上旬にかけてひなまつりが開催されています。守谷に住んでからは、都合のつく限り見に来ており、今回で3回目の来訪です。真壁の雛祭りは、町並みを形成する住民の方々が、夫々の家に伝わる歴代の雛飾りを、自家を開放して一般来訪者に公開するという形で行なわれており、今年の参加数は178軒となっていました。江戸時代から今日までの様々な雛飾りが並べられ、その家の先祖から伝わるお雛様に託す家族の絆への思いが伝わってきます。通常のお雛様だけではなく、吊るし雛やガラス製のもの、石で作られたものなどいろいろの種類のお雛様があることに驚かされます。

私自身はお雛様には全く無縁の、いとむくつけしジジイなのでありますが、今日は二人の孫娘のことなどを想いながら、かなりの数の雛飾りを見て廻りました。その中から幾つかを紹介したいと思います。

先ずは、ひなまつりの開催されている真壁の町並みの様子です。平日ですが、かなりの人気が有り、マイカーも多く、又観光バスも何台か訪れてきていました。観光客の大半は私共と同世代前後の人たちで、その8割は元娘の人たちでした。

 

真壁の街には、国の登録有形文化財が150件以上もありますが、この猪瀬家の医薬門もその一つです。

 

標準的な雛飾りの一つです。全体を収めようと撮影すると、お雛様の顔が見えなくなってしまい残念です。

 

年代ごとに飾られたお雛様には、江戸、明治、大正、昭和、平成と並べられていました。見事な飾りっぷり(?)です。

 

これは石で作られたおひなさまです。真壁は加波山の麓にあり、そこからは石が切り出されています。その石を使っての加工技術を駆使した作品なのだと思います。

 

この雛飾りは、石の中に様々な貴石を埋め込んで作ったものなのだそうです。石だけでこのような温かさの感ぜられる作品が出来るとは驚きです。

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早春の野草の花言葉(その4)

2009-02-24 02:41:34 | くるま旅くらしの話

今日は終日の雨でした。毎週月曜日は、家内のフォークダンスの練習日で、在宅の時にはここから25km近く離れた、つくば市内の練習会場まで出かけるのですが、その際にはお抱え運転手として一緒に行き、練習が終わるまでの3時間ほどを、市内の遊歩道(その殆んどは自分で作ったコースですが)を歩くことにしています。

昨日までに、いろいろストレスが溜まっていますので、今日は思う存分春を楽しみながら歩くつもりでした。しかし朝起きて外を見ると、すっかり雨降りの天気になっており、傘をさしての歩きは、少しばかり気の重さを感じたのでした。しかし、花粉の飛ぶ量がいや増している最近では、雨降りは歩きにとっては好条件の一つなのだと、気分を切り替えて出発したのでした。

いつものことですが、私の歩きは、歩き始めたら出発点に戻るまでは、3時間といえども休憩無しです。3時間も傘をさして歩き続けるのは、些(いささ)か精神状態に問題ありなどと、時には思ったりするのですが、私にとっての歩きというのは、いろいろなことを考えて楽しむ時間でもあり、休憩などしていると楽しみが途切れてしまうのです。

歩き始めたのは、50歳の時に正体不明の病で1ヶ月ほど勤務先を休んだのですが、どうやら糖尿病が原因らしいと宣告され、それ以降のことなのです。最初は治療のためと我慢しながら歩いていたのですが、糖尿病というのは一度罹病したら二度と元には戻らないということを知り、結局死ぬまで歩くことを強いられる病であると悟った次第です。それならば、苦痛を背負って歩くのは止めようと考え、楽しく歩く方法を自分なりに工夫するようになったのです。最初はAM、FM、TVの音声が聞ける携帯ラジオを聴きながら歩くことから初め、ウオークマン(有名人の講演記録や自分自身の講義原稿を吹き込んだものを聴く等)を経て、街の観察(マーケティングを兼ねて歩くコースの街のお店の点在状況などを数えたりして観察する)、野草や樹木の観察、等々いろいろなことをやりましたが、今一番大事にしているのは、野草の観察です。

というわけで今日の歩きは傘をさしながらの歩きとなりました。その中で拾った幾つかの野草たちの姿の中から、印象に残った4つの植物について、いつものように花言葉を付けてみました。

<ネコヤナギ(猫柳)>(ヤナギ科)

 花言葉:いっとき(一時)の愛 (馬骨命名)

少し風が出ていて、傘を傾けながら歩いていて、前が見えなかったのですが、ヒョイと傘を上げたらそこにこの猫柳が光っていました。通りすがりの民家の庭にうえられているものが、塀の外へはみ出していたのが、いきなり目に入ったわけです。思わず立ち止まってシャッターを切らせて頂きました。

猫柳は、もちろん柳の一種ですが、普通はこのような場所ではなく川辺など水のあるとことに自生しているのが多いのですが、最近はなかなかそれを見ることが少なくなりました。あまりそのような川などへは行かなくなった所為なのかもしれません。

春先の猫柳は、これは芽なのかそれとも花なのか、判別が難しいように思いますが、どうやら花のようです。その姿はとても愛らしく暖かい春の風情を覚えます。猫柳の呼び名の所以(ゆえん)は、あのふっくらとした有様が猫の尻尾に似ているところから来ているようです。なかなかの命名だと思います。

ちょっと脱線しますが、昔の田舎には何処の家にも猫一匹くらいは飼っていたものでした。今のようにシャカリキになって猫の面倒を見なくとも、勝手に棲みついていて、当たり前のように囲炉裏を囲む時には家族の誰かの傍に坐っているか、膝の中で眠っていたものでした。猫柳の命名は、そのような暮らしの中の猫の尻尾から取られたものだと思うのです。今のようにコンクリートの部屋や、縁側の無い家では、猫の尻尾から柳の花を連想することも、柳の花から猫の尻尾を連想することも出来なくなっているように思います。自然との共生などということばをよく耳にしますが、この猫柳を見ていると、その昔の人間の暮らしの中での動物との自然なる共生の姿が思い起こされ、懐かしく感じます。

その猫柳も、花が咲き終わると、春に熔かされてしまうのか、あっという間に姿を変えて、ただの何の変哲もない、柳であることすらも判らないような姿に変わってしまうのです。

<ダイコン(大根)>(アブラナ科)

花言葉:九死に一生 (馬骨命名)

少し前にハマダイコンの花を紹介しましたが、今日は本物の大根の花です。雨の道脇の畑の中に、採り忘れられた大根が何本か残っており、その1本が花を咲かせていました。咲かせているといっても、本番はこれからという状態で、未だ咲き始めたばかりのようです。

大根にも花が咲くのだと、多くの人は、一応それを知っていると思いますが、実際に花を見るのは、農家の人でも少ないのではないかと思います。採り忘れるというのは、多くの場合、畑の面倒が見切れなくなって途中から放置せざるを得ないような場合だと思います。まともであれば、花の咲く前に胃の中に入ってしまうからです。今日の畑もまさにそのような状態でした。

私の記憶している大根の花は、このようなたくましいものではなく、もっと優雅な風情のある雰囲気だったと思いますが、これは未だそこまで辿り着くには至っていない花のように思いました。花言葉というのは、同じ植物の花であっても、咲いている状態によって異なっても良いように思います。次回この株の花の咲き振りを見たときには、別の花言葉を思いつくに違いないと思います。

<ブロッコリー>(アブラナ科)

花言葉:脱出  (馬骨命名)

ブロッコリーの花を見るなどというのは、都会の人たちには想像もつかないかもしれません。食用にしているあの董(とう)立ちの状態をほんの少し放って置くと、菜の花状の花が咲くのです。アブラナ科の植物の花は、皆菜の花なのだといって良いと思います。

ブロッコリーに良く似た食材となる植物にカリフラワーがありますが、この双方はキャベツの変種ということですから、親戚みたいなものだと思います。カリフラワーの花というのは、未だ見たことがありませんが、恐らくブロッコリーと同じようなものなのでしょう。

この花も、大根と同じ畑に、採り忘れられて咲いていたものですが、大根よりも必死になってたくさんの花を一時に咲かせようとしているように見えます。ブロッコリーとしては、いつももう少しで花を咲かせるぞと思う寸前にちょん切られてしまうのですから、この株などは、ようやくその恐怖から脱出できたと、先を急いでいるのかも知れません。

<アネモネ>(キンポウゲ科)

花言葉:忘れられた誠実  (馬骨命名)

 

 つくば市は1987に発足した新しい市ですが、研究学園都市のエリアを除いては殆んど田舎です。私はそれを誇りとすべきだと思っています。この人口21万人の都市の中心部には発足時に建てられたマンションやアパートなどが多いのですが、中には幾つかの廃屋となっているものがあります。一時的に安普請の建物を作って、20年足らずで用済みとなっているのは、殆んどが公務員宿舎のようですが、今話題のかんぽの宿以外でも、国の役人連中のやることは、いかにも中途半端でお金をいい加減に使っている感は否めません。

その廃屋らしきコンクリートの建物の庭の片隅に、このアネモネを見つけました。洋花にはあまり関心はないのですが、この花の雨に濡れた楚々たる姿に気がつき、もうどこかに消え去った植え主の一時の優しさに応えて咲いているいる感がして、思わず足を止め、シャッターを切りました。

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厄日ここに極まるか!?

2009-02-23 00:21:56 | 宵宵妄話

ここ数日ホームページの改変騒ぎで、普段のペースを大きく乱されているのですが、今日(2/22)はそれに輪をかけて思いもかけないトラブルが発生しました。いやはや、とんだ厄日でした。

作成したホームページの転送が、とにもかくにも実現して、あとはページの出来具合を確かめながら再調整をすれば良いと、ホッとしたというのが今朝までの状況でした。一応は何とかなる目処がついたので、気分転換にETCを取り付けようとSUN号をオートバックスまで持ってゆき、取り付けを依頼しました。というのも、SUN号は基本的に高速道を走らないことにしていますので、ETCは要らない主義で通してきたのですが、昨年秋四国八十八ヶ所巡りのときに、大阪神戸の混雑を避けたいと久しぶりに高速道を利用したのですが、あとで調べて見ると、ETCを取り付けた場合とは料金にかなりの差があり、大損をした気分となりました。

そのようなことがあって、政府の出す高速道の料金割引に関する施策は、ETCを取り付けていないと何の恩恵も受けられないということを、悔しいけど改めて実感したのでした。ETCを普及させて、料金所の人件費コスト下げるという大目的には、それほど賛成する気持ちはないのですが、ETCなしで片手落ちの施策にまんまと乗っかって高い料金を払うのは馬鹿げていると、結局はお上の施策に妥協する形にならざるを得ないのでした。

とにもかくにもETCの取り付けが済んで、やれやれとその帰り道に、土日特売(83円/L)のスタンドで給油しようと立ち寄ったのですが、給油側のカバーを外して給油口を見ると、な、何と給油口の蓋が無いではありませんか? えーっ!という感じです。びっくりしてしまいました。何処に落としたのか? 昨日千葉に行く際に、セルフで給油したのですが、そのときにはちゃんと蓋を閉めた筈なのです。閉めにくい蓋なので、何時もそれなりに注意はしているのですが、昨日はもしかしたら、誤った締め方をしていたのかもしれません。給油の後、今まで往復100kmと少し走っていますから、その間のどこかからは、蓋無しのまま走ったことになるわけです。

今日給油したのは、来週24日から数日、伊豆の方へ河津桜などを見に行こうと考えていたからなのです。ETCをつければ、都心を抜けるのに多少とも割引の恩恵を受けられるとも考えていたのでした。しかし、給油口に蓋のない状況では、旅に出かけるわけには行きません。急いで、トヨタに出向いて善後策を検討したのですが、結局部品は県内には無く、名古屋から取り寄せなければならないため、その到着が27日だというのです。随分遅い到着だなと思いましたが、文句を言うわけにもゆかず、何よりも己のチョンボが情けなく、罰を受ける心境で、言われるがままに従うばかりでした。1万円弱の料金も高いなとは思いましたが、今は天下のトヨタも不況でアップアップしているのだから、多少は貢献するのも必要なのかもしれないと、見当違いの負け惜しみ心も働いて、戻って来たのでした。

そのようなわけで、今日はとんでもない厄日でした。来週からの伊豆行も不意となり、その間は畑でも耕して、ジャガイモ植えの準備でもすることにしようかと考えています。それにしても、今日給油をしなかったら、給油口の蓋がないまま伊豆の旅に出かけてしまったかも知れず、それを未然に防げたのは、不幸中の幸いといえるのかも知れません。

ここ数日愚痴の連続ですが、この辺でスパッと暗い心境を切り払いたいと思います。明日からは気分転換して、少しずつホームページの修正に、……、いや、まともなブログの作成に取り組みたいと思います。

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ホームページほんの少し浮上

2009-02-22 09:49:42 | 宵宵妄話

昨日は頭を冷やすため、ちょいと千葉の方まで家内のお抱え(?)運転手として、日中の時間を過ごしました。何しろ待ち時間が5時間以上もあるので、もちろんキャンピングカーでの往復となりました。家内を所定の場所で降ろした後は、もはや自由です。とにかく昼食をと、近くにある大型スーパーの駐車場に車を停め、食材を買って来て、いつもの特製きつねうどんを作りました。先ずは油揚げを甘辛く煮ます。そのあとうどんを茹でて木製の丼(=大型のお碗?)に入れて甘だれを適当に注ぎ、それに煮付けた油揚げを入れうどんの茹で汁を少し注ぎ、更に刻みネギを適当に振りかけて完成です。一人で「うめえ~」とは、あまり絵にならない景色ですが、美味いのは真実なのです。このような馬鹿げたことを楽しく出来るのも旅車の優れた特徴だと思います。

さて、どうするかと思案しているうちに急に睡魔が襲ってきました。なにしろいい天気で、車の中はもう春なのです。春眠暁を覚えずというではありませんか。昨夜も暁近くまで起きていて沈没したわけですから、眠いのはあたりまえ。ということでベッドにもぐりこみました。いい気持ちで眠って、目覚めたのは14時半でした。

そのあとは沈没した奴を何とか浮上させようと、厚い読み難いこと極まりない資料をめくって、1時間ばかりお勉強(?)をしました。データの代替テキストをきちんと作っていなかったのが一つの原因かなと、その要領をしかと頭に入れました。それだけで1時間近くもかかったのは、何しろ面白くないので、覚えたくないという意識が邪魔をするからなのです。

そんなことをしながら時間を過ごしているうちに、気がつけば16時半となり、再びお抱え運転手のお勤めに戻って、帰宅は19時近くとなりました。

 少し前進した気分になり、早速代替テキストを整備して、さていざ転送!と意気込んだのですが、結果は以前と同じで途中でエラーメッセージが「ハイ、コンニチワ!」でした。とにかくプロバイダーのファイルに転送できないのですから、どうしようもありません。その後、あれこれとトライしてみましたが、全て×でした。浮上に失敗して、更に惨めな気持ちになりながら、推理小説を少し読んで眠りに着いたのは1時近くでしょうか。

朝になって、良く眠って悪い夢(内容は覚えていないけど、目が醒めるほどに性質の悪い夢だった)に驚いて起きたのが、7時過ぎでした。それからもう一度参考書を読んでいるうちに、送信の設定に問題があることに気づきました。もしこれがダメだったら完全沈没となり、浮上には外部から重機のようなものを持ち込む必要があり、廃船となってしまいます。

その起死回生のポイントは、送信に関して「パッシブモード」を用いるということでした。早速トライしたところ、なんと送信できたではありませんか!いやあ、とにかくホッとしたところです。しかし、ネットの上の画面はパソコン上とは少し違って、文字のズレなどがあって、見やすいとは言えないレベルです。これから少し時間をかけて修正に取り組むつもりです。

新しいホームページのタイトルは「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」です。URLは以前と同じ(http://www1.ocn.ne.jp/~vaco8855/)です。しばらくは以前と同じ「山本馬骨のくるま旅くらしの泉」というタイトルでアクセスすることが出来ると思います。とにかくこれでちょっぴり浮上することが出来ましたので、ま、何とかなると思います。それにしてもここ数日はロクに歩きにも出かけられず、調子の狂った時間でした。ブログのブックマークへの登録はきちんと完成してからにしたいと思います。

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ホームページ沈没

2009-02-21 00:50:30 | 宵宵妄話

昨日に引き続きホームページの作成に取り組みました。今朝の就寝は5時半過ぎでした。横浜に会社がある倅が出勤する少し前の時刻です。家内の方は、一番眠りを楽しめる時間の中に居たのではないかと思います。冷えた寝床に、冷えた寝巻きでカッカした頭を持て余しながらも、枕元の推理小説を読もうと2ページほど頑張っただけで、たちまちあの世への旅立ちとなりました。眠りの世界というのは、身体が生きていてもいなくても、あってもなくても同じものだと私は思っています。人間というのは基本的に毎日この世とあの世とを往復しているのだと思います。

さて、あの世から戻って、今日も殆んど終日ホームページ作成に没頭したのですが、どうしてもいけません。念のためのもう一度全てのページの作成手順を見直し、作り直しをしてサイトを立ち上げてみたのですが、いざ転送となると、これがどうしても上手くゆかないのです。パソコン上のサイトは完璧で、何処にもエラーは見出せないのですが、転送となると途中でエラー表示が出てしまい、それっきりです。問題は転送の設定にあるのかもしれません。出来ることはすべてやってみたのですが、どうにもなりません。沈没です。

恐らく転送設定の仕方の中に何か忘れていたり、間違っていたりしている問題が潜んでいるのだと思いますが、パソコンの知識やネットの知識がない自分には、今のところそれが何なのかを見出すことが出来ないようです。今までネット上に公開していたホームページも消え去ってしまいましたから、転送に関して何かが作用していることは確かなのだと思います。これで只今ノーホームページとなってしまいました。

いっそもう止めにして、ブログだけで行こうかとも考え出したりしています。ホームページとブログとを運営する場合は、動のブログに対して静のホームページとなることが一般的です。元々は動のホームページを作って、それ一本で行こうと考えていたのですが、コストのことを考えると、結構厳しいと判断して今のような形となっていたわけです。ブログだけでも良いのですが、自分の考えなどをしっかり理解して欲しいという思いは、やっぱり静の世界にあるホームページないと難しいと思います。

とにかくしばらく沈没して、深海の様子でも探りながら頭を冷やすことにしました。しかし、難破船の船長ではなく、宇宙戦艦ヤマトのように、しばらく経ったら海底から一気に飛び出したいと思っています。とにかくストレスが溜まって、たわけた負け惜しみを言わずにはいられない心境なのです。今日はこれで終わりです。フー。

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ホームページの改変

2009-02-20 00:14:23 | 宵宵妄話

ブログとホームページを開設してから3年目を迎えており、ブログの方は一応ちょっぴり見直しをした(といっても、その実は殆んど変ってはいない)のですが、ホームページの方も見直そうと思い、ようやくイヤイヤながらに重い腰を上げて昨日から取り掛かっています。

いやあ、全くやンなっちゃうというのが現実です。たった2年しか経っていないというのに、ここ1年ほどは全く触っていなかったため、何が何やらさっぱり解らないのです。八戸の民謡に「なんにゃら、どやら」というのがありますが、あの唄を聴いているのと同じ心境です。

もともとパソコンとかホームページとかいう類を扱うのは好きではなく、はっきりいえば嫌い!なのですが、そのような信念を貫いていたら、時代に取り残されてゆくのは間違いないのですから、何とか最小限のレベルの理解だけはしておこうと取り組んだのでした。

ちょっと脱線しますけど、間もなくTV放送はデジタル化されますが、私と同じの、間もなく古稀を迎えようとする世代以降の人たちの殆んどは、デジタル化の意味を知らないのではないかと思います。これからはTVとパソコンが合体するのだなどといっても、何のことか見当がつかないでしょうし、携帯電話が「モシモシ、ハイハイ」などで使われるよりも、音楽やTVやメールで使われている領域の方が遙かに多いなどといっても、これ又何のことやら解らないのではないかと思うのです。新聞を読んだり、TVの解説程度では、地デジが始まるのだということは解っても、では何故地デジなのかということは、デジタル放送の技術的な知識やそれを使っての可能性についての識見がなければ、到底理解することは困難なのではないかと思うのです。ま、解らなくても、何やらこれからはTVの画質が良くなったり、メディア製作側との双方通行のやり取りが出来るのだと、素直にそれを活用しようとするならば何の問題もないのですが、それらの時代の変化を理解しようともせず、頑固に過去に拘(こだわ)って、そこから一歩も前に出ないような、或いは出ることが出来ないような人ばかりが増えると、これは問題です。そのような老人ばかりが全人口の20%も占めるようになったら、現役世代との断絶は悲劇的なものとなるのではないかと思います。

老人は、今まで働いてきた矜持(きょうじ=誇り、プライド)に甘えて、そんなことなど知らなくても生きていけるなどと考えていたら、とんでもないことになりはしないかと心配です。知らないというのは強みでもありますが、時としては救いがたき落とし穴に嵌(はま)ることもあるのですから。少なくとも、自分自身はそのような仲間には入りたくないと思っています。世の中を動かしている現実の力と全然マッチングしない(できない)老人にはなりたくないと思うのです。

ところが、どうやら自分もかなり危なくなり出したのではないかと、パソコンの画面を見ながら、昨日からぼやくことしきりなのです。初めてホームページを立ち上げた時は、1週間ほど悪戦苦闘を強いられました。しかし、今度は見直しなのだから、細かいことを忘れてはいても、せいぜい3日ほど一所懸命に取り組めば何とかなるだろうとタカを括っていたのですが、現実はトホホ、トホホの連続なのです。ついにテキストを引っ張り出してきて、一からやり直しとなりました。パソコンを新しくした時に、直ぐに切り替えて置けばよかったのですが、何しろ以前のデータをうっかり消去してしまったため復元ができず(復元できたとしても、どう扱うかについては忘れ果てているので、同じ結果だと思いますが)、あれこれやってみてもさっぱり思うようにはならず、昨日などは半日以上もかけて何一つ得るものはありませんでした。堂々巡りばかりで、試行錯誤とは大違いだと、我ながら腹も立たないほどの情けないありさまでした。

飽きっぽいのとシツコイのとが同居しているのが私の性格らしく、堂々巡りから抜け出して試行錯誤のレベルに辿り着いたのは、今日の昼過ぎでした。ようやくページごとのリンクが正常に出来上がって、これから掲載記事の転載を始めようとしています。時間はいつの間にか3日目に入って、今これを書いているのは、19日の午前4時近くです。ようやく見通しはついたという感じはしてきました。しかし、これから先サイトを立ち上げ転送するまでには、まだまだ幾つかの不都合に出くわすに違いありません。これが会社なら、誰か若いのに、「おい、未だ出来上がらないの?」などと言っておられるのでしょうが、周囲には自分よりも遙かにノータッチの相棒が一人居るだけなのですから、そのような愚かな空想は何の気休めにもなりません。

というわけで、ブログを書いているヒマもなく、今は頭の中を怪しげな記号と親しみを感じられない文字が駆け巡っているばかりなのです。もしかしたら、明日のブログは休みかも。このところ終末に休んでばかりいますので、何とかちゃんとしたいとは思っているのですが、……。今日は老人の愚痴のお話でした。どんどくもり。

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世界RV会議報告を読んで

2009-02-19 00:10:05 | くるま旅くらしの話

先日キャンピング&RVショーを見に行った時に、JRVA発行の広報誌「くるま旅」第5号を頂戴しました。今号はたいへん大きなテーマで、世界のキャンピングカーニュースとして、「World RV Report」の特集が組まれていました。たいへん興味ある情報でした。それを読ませて頂いて感じたことを少し書いて見たいと思います。

   

日本RV協会(JRVA)発行の会誌「くるま旅(VOL.5)」

先ず冒頭に大なグランドキャニオンの写真と一緒に、それにも負けない大きな字で「キャンピングカーは世界人類の財産」と書かれているのにド肝を抜かれました。又「キャンピングカーが地球を救う」とも書かれており、実に壮大な発想、捉え方だなと思いました。私自身は今までこのような発想を持ったことはありませんでした。さすがに世界というのはスケールの大きい考え方をするものだと思った次第です。

何故に世界の財産なのか、地球を救うのかという点については、些(いささ)か戸惑いを覚えたのですが、「家族や自然と調和しながら生きる」というキャンピングカーやモーターホームが持つ本質的な機能の捉え方を読んだとき、その疑問は氷解しました。くるま旅や旅車の本質というものは、世界共通なのだと改めて確認したと同時に、その認識がこれからの地球環境の中に生きる人間にとって、確かに大きな力となるであろうことを思った次第です。

「世界と日本のキャンピングカー人口、販売台数の比較」という紹介記事では、あまりにもその差が大きいことに愕然(がくぜん)とさせられました。単なる全人口比率や国土面積比率の比較ならば、ある程度は予測のつく筈の数値と比べて、日本は遙かにかけ離れている低い普及率だなと思いました。アメリカ・カナダやヨーロッパの数値は絶対数に於いても人口比においても日本とは雲泥の差があると感じました。それは基本的には文化の差なのではないかとも思いました。

日本の国民所得は、アメリカやヨーロッパと比較しても、絶対数値上はそれほど遜色(そんしょく)はない筈です。車の国内走行台数だって決して引けをとることはない筈です。それにも拘らず、キャンピングカーやRV車の普及率で明らかに引けをとっているのは、くるま旅を楽しむ文化が日本には未だ育っていないということに尽きるのではないかと思ったのです。この領域で各国との競争にうつつを抜かすなど愚の骨頂だと思いますが、車を使っての家族や自然との調和を求めながら、人生を楽しもうという文化が、これほどの車社会を作っている国なのに、さっぱり育っていないという現実に、心の貧しさのようなものを感じて、ちょっぴり寂しく思いました。ただあくせくと働くだけが人生の生きがいややり甲斐だとしたら、それはあまりにも寂し過ぎることです。

「お茶を濁す」ということばがありますが、日本人というのは、このことばの持つ生き方が、もしかしたらお茶以上に好きなのかも知れません。旅といえば、短期間の一見豪勢なツアー旅行のようなものだけでお茶を濁して満足してしまい、心の底から家族や大自然と触れ合える旅をしようなどとは余り考えないのかも知れません。北海道の旅先で、ツアーで来た観光客の一団にキャンピングカーを取り囲まれて、「うわー、金持ちい!」などと冷やかされることが何度かありましたが、私から言わせて貰えば、一見安い旅の費用の様に見えますが、その実はかなり高価なコストをかけて落ち着きのないツアーの旅に参加している人たちの方が、遙かにリッチに見えます。それは人生に対してお茶を濁して、自分の可能性を騙(だま)しているようにも思えるのです。

7千万台以上も車が走っている国なのに、キャンピングカーはたった6万台程度しかないというのは、国が狭く、道路も細くて、その上車が多すぎて走りにくいからなどという理由ではなく、車をベースとした旅というスタイルで、人生を楽しむという文化がさっぱり育たず、根付かず、車は単なる移動手段や多少の見栄張り心を満足させる道具くらいにしか考えられていないことに起因しているように思えてなりませんでした。

もしそうだとすると、この側面からのアプローチを強化しないと、どんなに国情に合った優れたキャンピングカーを作ったとしても、わが国のキャンピングカーはたちまち頭打ちになってしまうのではないかとの不安を感じた次第です。

アメリカにはアメリカのキャンピングカー文化があり、ヨーロッパにはヨーロッパのキャンピングカー文化があるのだと思いますが、日本には未だそれが育っていないのだと思います。道の駅や高速道のSA、PAくらいしか泊まる所がないのも、文化の無さと国の施策の無さのもたらしている哀しい現実の表れであり、先進の国から不思議に思われるのも致し方ないように思われたのでした。(レポーターのプレゼンでは、わが国の侘び・寂び文化の延長線にあるのかもという説明に興味関心が集まったというようなお話でしたが、……)

フランスはパリ郊外のブロニューの森にあるキャンプ場に投宿した場合は、スーツに着替えてオペラ座でオペラを鑑賞する、……などという記事を読みますと、わが国が例えば京都に行った場合、それに匹敵する施設がどこにあるのか、又東京でそれに見合うような施設が何処にあるのか、私には見当もつきません。1時間何百円とかの窮屈な駐車場にようやく駐車できたとしても、泊まるなどとんでもない夢であり、用が済んだらさっさと都市部からは行き去って貰いたいという世知辛いムードしか日本には無く、やむなく排気ガスと騒音まみれのSAや道の駅で図々しく仮眠を貪るしかないのがくるま旅の現状環境なのです。

くるま旅の愛好者が増え、旅車が増えればそれを迎え入れる環境も自ずから整備されるのか、或いはその逆に安心してくるま旅の出来る環境が整備されればくるま旅の愛好者や旅車が増えるのか、鶏と卵の関係のようですが、文化というのはそのような後か先かという問題ではなく、この国に住む人々がこの国で数多く使われている車というツールを、如何に上手く使って生きていることを喜び、楽しむかということであり、そのためには何よりも環境を整えることが第一ではないかと思ったのでした。アメリカやカナダ、ヨーロッパが車を使った文化を楽しんでいるのは、車が増えたからではなく、車が生まれて間もなくの頃から、車を使って人生を楽しもうという文化が育ち始めたからではないかと私には思えるのです。

遅ればせながらも、わが国にもその機運が見え始めているようです。くるま旅の環境整備として、せめて簡易なモーターホームプール(トイレ、水場、電源、ゴミ処理等の基本要件を具備した)でも良いから、出現することを願わずにはいられません。

これから先、どのようなタイミングでこの種の会議が開催されるのか分りませんが、日本のキャンピングカー文化の育成向上のために、より大きな刺激を戴くためにも、継続的な開催を願っています。そしてその成果がいろいろな面で活かされることを願っています。

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