山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

へのへのの旅(07東北春旅)第14回

2008-06-30 01:20:44 | くるま旅くらしの話

第14日 <5月12日()    

道の駅:矢立峠 →(R7・R102)→ 弘前市郊外コインランドリー → 道の駅:田舎館 → 温湯温泉 → (R102) → 道の駅:虹の湖(泊)  <55km

昨夜は一時雨が天井を叩いたが、大したこともなく、朝になって雲はあるけど雨の心配は無い天気となっていた。今日は田舎館辺りでのんびり過ごす予定でいるが、その前に旅に出て半月近くになり、かなり溜まった洗濯物を洗う予定。昨日ここまで来る道の途中、弘前の郊外辺りにコインランドリーがあるのではないかと見当をつけている。その前にこの道の駅には水が無いので、田舎館の道の駅に行って補給しようと少し早く出発する。

途中で考えが変わり、先にコインランドリーを見つけることにした。それらしき所に見当をつけてぐるぐる廻って探したが、なかなか見つからず、10分ほど探し回ってようやく発見。さっそく洗濯に取り掛かる。といってもこちらは邦子どのの専門。自分はお湯を沸かし、朝食の準備。洗濯の合間に朝食というのは、かなり働き者ということになるのかも知れない。2時間半ほどで終了。コインランドリーはお金がかかるけど、短時間で乾燥まで済ませるので、くるま旅には重宝だ。これで帰宅するまで洗濯は不要だろう。

洗濯をしている間はヒマなので、付近を歩き回ったが、その間にLPガスの充填所があるのを発見した。ガスボンベ(5kg)も1本空になっているので、洗濯が終わった後、そこに寄って充填を済ます。こちらの方も帰宅するまで大丈夫だろう。ついでに近くにあったホームセンターで飲料水を1箱買い入れる。我が家では旅先の飲料水と調理用の水は市販のものに依存している。地元で名水などを汲める場合はこの限りではないけど。

10時半、田舎館の道の駅に到着。今日はしばらくここでゆっくりするつもり。

田舎館の道の駅の景観。木造の細長い売店の駅舎の他に、レストラン棟もあり、この駅舎の裏には、博物館や小さな遊園地なども作られている。  

昨日摘んだフキノトウでバッケ味噌も作る予定。今日は土曜休日なので、構内でボロ市のようなものが開かれているらしい。邦子どのは裂き織り用のボロでも探すのか、飛び出していったきりなかなか戻ってこない。バッケ味噌を作ることなど忘れてしまっているかのようだ。こりゃダメだと諦めて、久しぶりに肉なし肉じゃが(旅での得意?料理)を作ることにした。ジャガイモとニンジンの皮をむき、玉ねぎを1/4に切ったのを入れて煮込み、角館で買ったあまだれを入れるだけの簡単な料理ともいえないほどの料理だが、これが結構いけるのだ。

時間ほど経ったころ、邦子どのが二人のおばさんを連れて戻ってきた。何事かと思ったら、古い布地のことで話のウマが合ったらしい。話の続きをしたいらしくて3人が一緒になってやってきたと言うわけ。お二人とも古い布地を使ってリメイクの作品を作っておられるとのこと。こうなると自分は部外者なので、お二人に車の中に入って頂き、今度はこちらが外出する番である。丁度煮物も出来上がったところだったので好都合でもあった。裂き織りやリメイクについてのおばさんたちの話を一緒に聞く勇気は全く持ち合わせてはいない。

しばらくの間、道の駅の売店などを覗いたりして、付近をうろつく。この道の駅の裏には場外馬券売り場や縄文時代の遺跡の資料館などがあるらしい。休日とあって、なかなかの賑わいである。一回りして戻ると、どうやら話の区切りが付いたらしく、一同解散となった。

一段落して邦子どのがバッケ味噌づくりに取り掛かるというので、こちらは午睡を決め込む。15時ごろ目覚めると、バッケ味噌も出来上がっており、上出来だった。この前作ったものよりはレベルが少し上がったようだ。自然の食材を使った食べ物を、旅先でふんだんに食することができるのは、ありがたく嬉しいことである。フキノトウの苦味と、味噌が適量の砂糖を介して調和した味は、ご飯でもパンでもそのまま酒の肴にもなって、万能の食べ物である。

一昨日深沢峠付近で採ってきたフキノトウ(バッケ)。

 

出来上がったばかりのバッケ味噌。前の作よりは濃い味で、全体として素材であるバッケの風味が味噌にうまく閉じ込められていた。

今日はこれからもう一度、昨日の温湯温泉に入り、その後は上にある虹の湖の道の駅に泊ることにして出発。温湯温泉は今回2回目だが、今日は休日の所為もあってか、かなり混み合っていた。ここにはサウナなどは無いのだが、入浴を何回か繰り返すうちに、たっぷり汗が出て、体重は1.2kgくらいは減るのだ。旅の間に2kgくらいの減量をしたいと考えてきたのだが、入浴後は目標数値を達成できるのに、その次の入浴前は1kgくらいオーバーしてしまって、なかなか安定しない。それでも何とか達成を目指したい。

虹の湖の道の駅に泊るのは初めてである。何度も立ち寄っているけど、このような場所に泊ると、夜中が静か過ぎて、邦子どのはお化けが出るのではないかという様な心理状態になるらしい。加えて湖の水が溢れ押し寄せて、車を押し流すのではないかという様な妄想にも囚われるらしいのだ。還暦を過ぎたというのに、である。今夜は、もし強風が吹き、豪雨などが来たなら移動しなければならないだろう。しかし、その気配はなさそうである。明日は朝一番でもう一度温湯温泉に入ることにして、バッケ味噌などをつつきながら一杯やって早めの就寝とする。

[お断り:明日から少しの間、ブログを休みます。土曜日再開の予定です]

 

 

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へのへのの旅(07東北春旅)第13回:その1/2

2008-06-29 03:37:28 | くるま旅くらしの話

第13日 <5月11日()

道の駅:奥入瀬 →(R102)→ 石ヶ戸(奥入瀬渓流散策)→ (R102)滝ノ沢峠 → 道の駅:虹の湖(青森県・黒石市)→ 温湯(ぬるゆ)温泉) → 道の駅:田舎館(田舎館村)→ (R102R7) → 道の駅:矢立峠(秋田県・大館市)(泊)  <124km

吹き荒れていた風も朝方には収まり、どうやら今日の天気は大丈夫のようである。いつもの準備(=カセットトイレの処理、給水、タイヤ等の点検)をした後出発。石ヶ戸到着740分。先着の車が2台あったが、人影は無かった。いつもの場所に車を停め、朝食の準備。キザに言うならば、モーツアルトを聴きながらパンとコーヒー2杯の朝食を摂るのがここへ来る最高の目的である。車窓の新緑は、何ものにも換え難い大自然の癒しの色だ。少し時間をかけて食事を楽しむ。今回は少し大きいスピーカーを持ってきたので、音楽もいい感じだ。

その後は3時間ほどかけて、新緑と清流の空間を雲井の滝という所まで往復する。今回は時期が少し遅かったので、イチゲの花などは終わってしまっていて、少ししか見られなかったが、その分緑の鮮やかさは今まででは最高の状態だった。所々オオヤマザクラの花の淡い紅色のボンボリが灯っていて、それが新緑と調和して温かい雰囲気をかもし出してくれているのが嬉しい。10時を過ぎると観光の人たちもバスを降りてきて結構な人出となった。今回は川沿いに腰を下ろしてスケッチをしている人を何人も見かけた。どこかの絵画教室の人たちなのかも知れない。これほどの景観であれば、何を描いて良いのやら的を絞るのが難しいのではないかと思った。以下に3時間の散策で見かけた思い出の野草や風景のスナップを記します。(続きは、その2/2へ

   

  キクザキイチゲ:この時期の東北を代表する山の花の一つである。

   

  エンレイソウ:葉の大きさの割には真ん中の花は小さい。

   

  ミスミソウ:三角草とも書く。葉が三角なのが特徴。

  

 ミヤマスミレ:路地ではなく、深山の腐葉土などの中に楚々と咲くスミレ

 

 ヤマエンゴサク:細長いラッパのような花に特徴がある。薬草でもある。 

 

    早春の奥入瀬渓流の景観:これ以上癒される空間はないのではないかと思うほどの柔らかい自然がある。

 

  奥入瀬渓流の脇にある雲井の滝。本流には銚子の滝というのがあるが、脇にある滝の仲ではこれが最大。

 

 がっしりと岩を掴んで生きていることを主張している樹木もある

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へのへのの旅(07東北春旅)第13回:その2/2

2008-06-29 03:35:53 | くるま旅くらしの話

存分に楽しんだ後は、弘前方面に向かって出発。今日は田舎館の道の駅辺りで泊ろうと考えている。奥入瀬渓流を遡り、十和田湖に出て、R102と別れて十和田湖を右回りで行くことにして、R103R454を通って滝ノ沢峠にて再びR102と合流する。これがいつもの黒石方面に向かう時のコースである。

途中宇樽部からは新しいトンネルが開通していて、あっという間に休屋に行けるようになっていた。今までは急坂を上り下って行くので、時間もかかり神経も疲れたが、それが無くなったのは大助かりである。しかし残念なのは今まで必ず寄っていた瞰湖台からの十和田湖の展望を楽しむことが出来なくなったこと。わざわざ旧道を行く気にはなれないという、人間のわがままがある。

R454に入ると、未だ寒さが去っていないようで、キクザキイチゲやニリン草などがたくさん咲いているのを見ることができた。しばらく急坂を登って滝ノ沢峠へ。ここは未だ雪の塊が残っており、溶け去った雪の跡には、丁度食べ頃のフキノトウがたくさん芽を出していた。駐車場に車を入れ、しばらくフキノトウを摘むことにした。邦子どのは前回のバッケ味噌作りで成功の味を占めているので、今度はより以上のものを作るために再チャレンジしたいということなので、異存はない。その辺のフキノトウを全部摘んでしまおうかなどと思ったが、到底摘みきれるものではない。15分ほどでたちまち袋一杯となってしまった。満足である。

峠で合流したR102に戻って、後はひたすら坂を下るだけ。30分ほどで道の駅:虹の湖に到着。ここで少し休憩。虹の湖は、浅瀬石川を塞き止めて造ったダム湖である。その湖畔に自然公園のようなものが造られ、その中に道の駅がある。売店に入って邦子どのがなかなか出てこないので行ってみたら、何やら古着のようなものがあるらしく、店の人と話し込んでいた。裂き織り用の布の話でもしていたらしい。

虹の湖から10分ほど下ると、黒石温泉郷がある。その中で温湯(ぬるゆ)温泉鶴の湯というのが気に入っていて、ここを通れば必ず入ることにしている。今日も避ける理由は無い。さっそく駐車場に車を入れ、浴場へ。この温泉の歴史は400有余年という。鶴が湯に浸って痛んだ羽を休め、元気になって飛び立ったのを見た人が温泉を見つけたのだという。そのような由来についての説明書きがあった。1時間ほど湯に浸かってのんびり過ごす。14時過ぎの時間帯は、空いていて何やら独り占めに近い優越感を感ずることが出来る。料金はたったの180円。

    

温湯(ぬるゆ)温泉(鶴の名湯)の景観。素朴だけど文句なしに好い湯である。

風呂を出て今日の宿を予定している田舎館の道の駅へ。ところが着いてみると、風が強く、車が少し揺れるほどなのだ。この道の駅は田んぼの真ん中のような所に造られており、風を防ぐ物が無いため、強風をまともに受け止めなければならず、この分だと邦子どのの安眠が確保できない状況と判断。どこか他の場所を探す必要がある。検討の結果、風の問題ならR7の秋田県との県境にある道の駅:矢立峠が良かろうと移動することにした。1時間ほどで到着。矢立峠は、杉の大樹などに囲まれた窪地の駐車場なので、杉が倒れないほどであれば、風が吹いても大丈夫なのだ。何度か利用させて頂いているので、証明済みである。TVの映りは悪いが止むを得ない。天気は更に悪化して、少し小雨が降り出した。今夜は雨なのかもしれない。

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へのへのの旅(07東北春旅)第12回

2008-06-28 04:11:09 | くるま旅くらしの話

第12日 <5月10日()    

道の駅:折爪 →(県道・R4)→ 三戸城址公園(青森県・三戸町)→ 三戸大神宮 → 関根の松(三戸町) → (R4・県道) → 歴史みらいパーク(五戸町)→ (R4) → 道の駅:十和田(十和田市) → (R4R102)→ 道の駅:奥入瀬(十和田市)(泊)  <86km

旅の行程も半ば近くとなった。へのへのの旅の下見は、九戸を中心に動いてきたが、今日は三戸と五戸辺りを訪ねて、そのあとは十和田に行き、明日は奥入瀬の新緑に染まりたいと考えた。その後一先ずへのへのの旅のことは忘れ、青森県の中をうろついて、又戻ることにしようと大雑把な予定を立てた。

時半ごろ折爪の道の駅を出発。30分ほどで三戸城址公園へ到着。三戸は以前、邦子どのの友人の竹林さんの配慮で、役場の方に馬渕(まべち)川に架かる望郷大橋や名久井岳山麓の果樹園など、町の農産業の実態の一部を案内して頂いたことがあり、特別の親近感を覚える町である。今日は城址公園の散策と園内にある町立歴史民俗資料館を訪ねることにしている。三戸は、古い南部宗家の居城だった所で、盛岡に移る少し前まで(一時期九戸城(=福岡城)に在居してはいたが)は此処が本城だった。かなり大きな規模の城であったことが窺われる。隅々まで見て廻ったら半日では足りないほどの広さである。

今日はまずざっと城跡を歩いた後、糠部神社に参拝する。糠部神社は南部氏が奥州入りした時に得た最初の領地が糠部郡といわれており、その地の守り神として、それ以来の南部氏が崇敬する神社だったようだ。本殿の傍にご神木の杉の大木がある。推定樹齢800年とか。又、境内にはサイカチの大木や松生桜(松の木の枝脇から桜の木が生え育って花を咲かせている)等があり、興味深い。ウコン桜も何本か植えられて、丁度今が花の盛りであった。

歴史民俗資料館は、以前は素通りばかりしていたのだったが、今日は時間をかけてゆっくりと見学した。町立の資料館としてはかなり立派な施設である。南部宗家としての居城があったことから、それに関連する資料も多く展示されていた。南部氏については、その枝葉というか家計の絡みが複雑であり、どれがどうなのかよくわからない。しかしまとめれば、江戸時代からは盛岡の南部宗家と、支藩である八戸南部氏に集約されるようである。このようなまとめ方をすると、良くご存知の筋からは非難されるかも知れないが、外から見ただけではこの一族の家系はわかりにくく、直ぐに入り乱れてしまって忘れてしまうのだ。宗家が移った後は、ここには代官所を置いていたようである。

   

   三戸町歴史民族資料館

資料館の中には、庶民サイドの資料として、民具などが並べられていたが、東北特有のわら細工などが関心を惹いた。昔の人の知恵や技術は相当なものだなと思った。又、子供の頃に記憶のある相撲取りの横綱鏡里がここ出身であることも初めて知った。昔の横綱は、ほんとに強かった。今は強いのか他が弱すぎるのか良くわからない。

城址公園を後にして、お城の坂を下り、町中にある三戸大神宮という所に行ってみることにした。お寺や神社は歴史を知る上では必見の場所でもある。石の階段を登ってゆくと、それほど大きくはないが立派な本殿があった。参拝の後周辺を歩くと、杉原凱という人の顕彰碑があった。幕末会津藩校日進館の教授だった方で、その墓がここにあるとのこと。その教えを受けた人たちがこの神社の境内に、自分たちの学問の師としてその名を残そうとしているのがわかる。立派な方だったのだと思った。

三戸には関根の松という名木があるというので、それを見てからどこかで昼食することにして、出向く。直ぐに探し当てて見物。松とは思えぬほどの大きな枝振りの樹形だった。葉を見れば確かに松なのだが、幹の方はといえば、とても松とは思えない。名木と言われるものには、人を惹きつける何ともいえない力が宿っているようだ。時間と共に、その木の命の本性がそこに滲み出てくるのであろうか。

   

   関根の松:葉は松だが、幹は?

食事休憩の後は、五戸に向け出発。五戸の町はR4からは県道を少し右手に入った所が中心街らしい。道が細く駐車する場所がなかなか見つからず、ウロウロしながら走っていると、大きな建物が見えたので、そこなら駐車場もありそうだと行って見ることにした。そこは歴史みらいパークという所で、五戸町の中心的な文化施設だった。よかった。図書館とその昔の五戸代官所を再現したものが建っていた。

とりあえず駐車場に車を停め置き、図書館に入る前に、案内板に古民家の江渡家住宅というのがあるのを見つけ、そこまで歩いて行って見ることにした。江戸時代に遡ったつもりになって初めて来た町の通りを歩くのも楽しいものだ。江渡家は天明年間に飢饉の救済事業として建てられたと説明にあったが、その内容はよくわからない。85坪もある茅葺屋根の立派な建物だった。

車に戻り、図書館の中へ。要領がよく解らないので、入口付近にいた人に、何か五戸を知る資料などがないかを訊ねたところ、大変親切にして頂いて、それから1時間近くかけてご案内を頂き恐縮した。あとで伺ったところ、なんと図書館の館長さんと知り益々恐縮してしまった。

図書館の中には、中川秀政ホールというのがあり、わが国の航空機の開発に大きく貢献された中川博士の偉業を讃えるVTRなどの放映の他、シュミレーター、実物の軽飛行機なども展示されていた。中川博士は、この地の代官の直系の後裔でいらっしゃったとか。

その後、館長さん自らのご案内で、通常は中に入れないらしい代官所の建物の中を見学させて頂いた。五戸には城は無く代官が治めていたと言うが、その石高は14千石強というから、大名級のものだったといえよう。昔の行政の事務所の中をこれだけ詳しく見たのは初めてである。大変勉強になった。ありがとうございました。今度行く時には拙著を寄贈させて頂こうと思った。

   

   五戸館:代官所の門と屋敷

歴史みらいパークに別れを告げ、今夜の宿を予定している道の駅:奥入瀬に向う。途中道の駅:十和田に立ち寄り野菜などを買う。奥入瀬の道の駅に着いたのは16時半頃だった。空模様が怪しくなってきていて、風も強い。道の駅は車も人もまばらだった。しばらくたつと小雨が降り出した。明日は大丈夫だろうか。明日は奥入瀬渓谷を訪ねることにしている。奥入瀬渓流の散策は、いつも早朝にここを立つことにしているので、明日の晴天を願いつつ早めに寝ることにした。

 

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へのへのの旅(07東北春旅)第11回:その1/2

2008-06-27 04:23:48 | くるま旅くらしの話

第11日 <5月09日()

道の駅:折爪 → 村内探訪【枝垂れ栗 → 長興寺 → 千本松 → 九戸神社】 → 折爪岳山頂 → (R340395R4) → 道の駅:三戸 →(R4) → 二戸市民族資料館 → 九戸城址(二戸市) → (県道他) →九戸村・ふるさとの館 → 道の駅:折爪(泊)  <109km

いい天気だ。眼前に折爪岳が見える。山頂らしき所にTVの電波塔のようなものが何本か建っているのがみえる。案内図を見ると、どうやらあの頂上の展望台まで車で行けるらしい。今日はいい天気なので、思い切って行ってみようかなどと思った。今日は此処にもう一泊させて貰うことにして、九戸という所の探訪をしたいと思っている。

九戸といえば、九戸政實の九戸の乱が有名だ。政實という人は、南部の一族だったが、宗家の継承問題に関連して豊臣秀吉に反抗する立場となり、6万を超える秀吉側の大群を前に6千の軍勢で九戸城に籠って善戦したのだが、衆寡の差には敵わず、空しく破れ去った武将である。この戦を以て戦国時代が終わったと言われているが、地元では人望の高かった人物のようである。九戸城は今のこの村には無く、二戸市の方にある。九戸村には九戸神社と九戸南部氏の菩提寺などが残っているが、今日はそれらを訪ねてみようと思っている。

遅い朝食を済ませ、道の駅の売店が開くのを待って新鮮な山菜などをゲットし、まずは九戸家の菩提寺である長興寺を訪ねることにして出発。少し行った所に何やら小さな案内板のようなものがあったので、車を停めて行って見たら、何と枝垂れ栗の木の案内板だった。よく見ると、丸い傘の骨のように四方に枝を広げた樹がそこにあった。未だほんの少ししか葉が出ていないので、目立たず気づかなかったが、なるほど栗の樹である。枝垂れの樹というのはいろいろ目にするが、栗の樹は初めてで、珍しい。説明板ではちゃんと実もなるという。秋にも来て、その実がついているのを見てみたい、そしてあわよくば2、3個手に入れて口にも入れてみたいものだと思った。

  

   桃の向こうに見える笠がかった鳥の巣のようなのが枝垂れ栗の木。何とも珍妙な木だ。

長興寺は名刹の趣きがある。もし政實公が滅びることが無かったら此処は菩提寺としてもっと大切に扱われたに違いない。歴代の藩主の墓が並んでいたが、心なしか勝者の側のお墓に較べて寂しい感じがした。合掌。境内にかなりの樹齢らしき銀杏の大木があったが、政實公の手植えだとか。これはあまり信じない。

   

  九戸家菩提寺の長與寺本堂(左)と九戸実政手植えといわれる大銀杏の古木

お寺の近くに千本松(別名箒松)という変わった松があるというのでそれを見に行くことにした。どんなものなのだろうと思いながら行って見ると、イヤー、あった、あった。ほんとに箒を逆さに立てたような姿をしている。松といえば街道に植えられた曲がりくねった姿のものを思い描くが、この松はどの枝も真っ直ぐに伸びて、箒のような形になって立っている。何だか日本の松の木ではないような気がした。明らかに異端者ならぬ異端樹である。先ほどの枝垂れ栗といい、この松といい、その異端性は九戸の地の意地を現しているのかもしれない。

   

長與寺近くにある千本松(別名箒松)と呼ばれている変わった枝振りの松の大樹

九戸神社は長興寺からは2kmほどの山の麓にあった。創建は842年、この地を知行した九戸氏の代々の祈願所だった所とか。思ったよりも小さな社殿だった。

   

   小さいけれど往古の九戸家の歴史を感じさせる端麗な風姿の九戸神社本殿の景観  

その脇に政實公を祀った政實神社というのが有志の方たちにより建立されていた。その説明書きによれば平成6年に取り掛かったと言うことであるから、新しいものであり、政實公の徳望は400年を経た今でも不変であるようだ。人間の評価は、それぞれの時代の、評価する者の思いによって、大きく変わるものであるが、政實公はあの世でこれらの遷り変わりをどのような顔でご覧になっているのであろうか。

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へのへのの旅(07東北春旅)第11回:その2/2

2008-06-27 04:23:12 | くるま旅くらしの話

九戸城へ行きたくなったが、その前に目の前にある折爪岳に上ることにした。少し雲が出てきて視界はあまり良く無いけど、行ってみれば何か面白いものが見られるかもしれない。

  

  九戸村の道の駅:折爪から見た折爪岳の遠望。頂上が平らの山なので、たいしたことがないように見えるけど、筑波山に近い高さの山である。

R340を軽米町の方へ少し戻り、案内板に従って左折すると、急坂の途中に現役の麦藁屋根の家が数戸建っていた。道がいきなり細くなったので、心配になってその家の傍にいた人に大丈夫なのか尋ねると大丈夫だと言う。邦子どのはこのような民家に興味があるので、さっそくおばちゃんたちに話しかけて写真を撮っていた。此処には未だ少し古い岩手が残っているなと思った。

その後はヒメホタルラインと呼ばれる曲がりくねった急坂を20分ほど登り続け、ようやく山頂へ。SUN号は図体が大きいので、このような坂道はいかにも苦しそうだ。しかしディーゼルエンジンは結構坂道には強くて、心配することは無い。途中オドデの滝など幾つかの小さな滝を眺め、又石割桜などというものも見物した。石割桜と言えば、盛岡の裁判所前にあるものが有名だが、こちらの石割り桜は、少し趣きが違って、石を割っていると言うよりも支えていると言う感じだった。樹もあまり大きくない。

頂上からの展望はなかなかのものだった。空気が澄んでいれば太平洋ももっとはっきり見えるのだろうが、それでも岩手山や早池峰の峰などを遠望することができた。広い駐車場もあり、此処は自然公園になっているらしい。休日には天気が良ければ人出も多いのかもしれない。しばらく景観を楽しんだ後、下りを開始する。

下り始めて直ぐに、山の自然が育(はぐく)む小さなお花畑に気がつく。車を降りて見てみると、何と今頃だと言うのに早春に咲く福寿草が咲いていた。山エンゴサクやニリン草、それにコバイケイソウもあった。此処は北国の標高800mを超える高さだから、まだ3月レベルの気候なのだなと思った。思いがけなく早春の花たちに出くわして嬉しくなった。ヒメホタルラインを下りたが、そもそもヒメホタルというのはどのようなホタルなのかなと思った。ヒメというからには小型のホタルに違いない。いつかそれを見てみたい。

九戸城址に行く前に、燃料が少なくなってきたので補給に三戸まで行くことにした。所定の給油スタンドは、この辺では三戸の郊外にしかない。少し遠回りになるけど三戸の道の駅にも寄れるので,そこへ行って昼食休憩にすることにした。三戸の道の駅には13時少し前に到着。邦子どのの友達の竹林さんは店を出しておられるかなと期待したが、ダメだった。竹林さんは地元で手広く農業を営んでおられる方である。今頃は農作業に超多忙を極めておられるのであろう。

一息入れて二戸に向う。市内に入って、民俗資料館というのがあったので行ってみたのだが、閉館だった。別の窓口で、九戸城のことを訊いたら、SUN号でも安心してゆける道を教えて頂いた。直ぐに到着。

九戸城はスケールの大きな城だった。6万余の秀吉の軍を敵として戦った九戸政實の思いが伝わってくる感じだ。もともとは南部家の中の正統争いが絡んでおり、中央政権に対する政實の判断遅れが、謀反人として秀吉に敵対する結果となったようなことであり、戦の真実などは歴史の流れでその正邪などは判別できないような気がする。結局戦に破れた政實は反乱者として悪者になり、首を切られることとなった。その後、この城は手を加えられて南部宗家の当主となった南部信直が入城し、盛岡に移るまでの間南部家の本城として、福岡城と改称され、その役割を果たしたということである。

以前高校野球で、岩手県代表として福岡高校というのが出場したことがあるが、何で岩手なのに福岡なのかな、などと思ったことがあったが、福岡高校はここ二戸では名門校なのだ。その校名はこの城の名称に拠るものということがわかった。

本丸、二ノ丸跡は公園になっていて、それらを1時間以上かけてゆっくり散策した。城跡からは、馬淵(まべち)川に沿って発展した二戸の町並みが一望できる。政實公はここに立て籠もって、どのような思いで眼下の6万余の大軍を見下ろしたのであろうか。敗因は策謀によるものだったと聞くが、組織における人心というのは、なかなか一枚岩とはゆかなかったのであろう。

  

  九戸城本丸跡の景観。夏草や兵者(つわもの)のどもが夢の跡、といった感じがした

車に戻ってしばし休憩の後、今日は九戸村にあるふるさと館という所に入浴施設があるというので、そこへ行って風呂に入り、折爪の道の駅に泊ることにして出発。16時少し前、ふるさと館に着いたのだが、何と今日はお風呂の掃除日となっていて、開場が18時からだという。かなり待たなければならないので、少し迷ったが、邦子どのが天ぷらを揚げてくれるというので、風呂がOKとなるまでの間、待つことにした。ここは村の一大福利厚生施設のようで、湯っこという入浴施設の他に、体験学習施設やパークゴルフ場などもあり、なかなかいい所である。今回はパークゴルフの用具を持参しなかったのは失敗だったなと思った。やがて少し早やめに開場して頂いて、入浴。天ぷらは冷めてしまうけど、道の駅に行ってから食べることにする。湯船からは九戸村の動脈のR340に沿って点在する民家の灯りが一望できる。ここは温泉ではないらしいが、いい入浴施設だった。

19時折爪の道の駅到着。珍しく遅い到着となった。構内につくばナンバーの車を見かけた。声を掛けるには遅きに失していて、最早就寝されたらしかった。天ぷらで一杯やって今日も終り。

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へのへのの旅(07東北春旅)第10回:その1/2

2008-06-26 01:13:39 | くるま旅くらしの話

第10日 <5月08日()

道の駅:雫石 →(R46・県道)→ 小岩井農場一本桜 → JR雫石駅 → (R46・県道他) → 小岩井農場・まきば園 → (県道・R282) → 道の駅:西根(岩手県・八幡平市)→ (県道・R4) → 道の駅:石神の丘(岩手町)→(R4)→ 北上川源泉公園 → (R4) → 御所野縄文公園(岩手県・一戸町) → 二戸市合同庁舎 → (県道・R340) → 道の駅:折爪(岩手県・九戸村)(泊)  <179km

起床3時半。それから1時間以上かけて日記とブログの投稿記事を書く。これが現在の一日の始まりとなっている。携帯でのブログ投稿もようやく慣れてきたけど、時間がかかるのはどうしようもない。たった千文字ばかりを1時間以上もかけて書くなんて、非効率だ。しかしもともと時間はたっぷりあるのだから、文句を言ってもしょうがないと思うようになってきた。それでも時々上手くゆかずにイライラして、コンチクショウなどと声を出し、邦子どのを起こしてしまうことがある。要注意である。

4時過ぎに外を見ると、風は未だ少しあるけど、どうやら今日は晴れるらしい。道の駅の此処からは岩手山は見えないので何ともいえないが、昨夜来の強風が雲を吹き飛ばしてくれているのではないかと思う。朝食は一本桜近くの駐車場でとることにして出発。

昨日の下見では、駐車場の開場は6時だったので、少し早めにと10分ほど前に着いたのだが、既に数台の車が駐車場の手前で開場を待っていた。空は、予想通りの雲ひとつない快晴だ。岩手山が朝日に輝いている。一本桜も昨日よりははるかに存在感がある。間もなく開場になって、車を停めた後は、邦子どのはさっそくカメラを抱えて飛び出していった。自分の方は炊事当番である。といってもお湯を沸かし、パンとコーヒーの準備をするだけ。車窓からも岩手山がくっきり見える。大きな山だ。標高2000mを超えており、小岩井農場の発案者の小野という方もこの景色に魅了されたのではないかと思った。(小岩井というのは、小野、岩崎、井上という三名の方の姓の頭の字を集めて命名したもの)

 

小岩井農場の一本桜。この日の早朝は全くの快晴で、雪を残した岩手山が、くっきり、どっしりと桜の木の背景を支えていた。

しばらくして邦子どのが戻り朝食。文句なしの撮影日和である。朝食の間も、想いは山の方へ向けられる。桜の方は少し遠くて、邦子どのの望遠ではあまり届かないらしい。又新しいレンズを何とかしなければならなくなるのは明白である。それを決めるのは彼女自身だから、自分は何もいわないことにしている。反対はしない。人間生きている間、出来る間しか好きなことは出来ないのだから、多少無理をしてもできることはやっておくことが大切と思っている。

食事の後もしばらく撮影に専念する。1時間半ほど駐車の後、昨日のJR雫石駅へ。トイレ休憩をした後、北に向かって出発。今日の予定としては、小岩井農場のまきば園などに寄った後、R4に出て、へのへのの旅の下見を開始することにしたい。一戸や二戸それに九戸辺りにまでは届くかも知れない、と考えている。

まきば園は、機会を作って是非とも孫娘たちを連れてきたい所だ。今日は中へは入らず、駐車場に車を置いて、専ら岩手山をバックに桜などの花の写真を撮ることにした。勿論邦子どのの世界の話であり、自分の方は車の掃除などをしたりして付近をぶらつくばかりである。30分ほど写真を撮ればもういいでしょう。

その後も時々車を停めながら岩手山を取り続けて、やがてR282に出て道の駅:西根にて小休止。この道に駅に寄るのは初めてだったが、水汲み場もあり、宿泊にも向いているように思った。機会があれば泊まることになるかもしれない。

道の駅を出た後は、R4を目指して県道を行ったのだが、途中で道を間違え、かなり遠回りしてしまった。R4に入ってからは流れは順調で、11時半ごろ岩手町の道の駅:石神の丘に到着。此処で昼食休憩。先ほどまで快晴だった天気は、その後雲の数を増して、何だか怪しげになってきた。良い時に写真が撮れてよかったと思う。昼食はあまり食べてはいけない非常食用のカップヌードルにした。めんどくさがってはいけないのは解るけど、たまにはまあ好いだろうと身勝手に妥協する。 (以下その2/2へ)

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へのへのの旅(07東北春旅)第10回:その2/2

2008-06-25 04:55:38 | くるま旅くらしの話

休憩の後は再び北上を続ける。途中知りながらも今まで一度も訪ねたことのなかった、北上川の源泉のある公園に寄ることにした。R4から細い道を少し入った所にその源泉があった。御堂観音堂という社があり、その奥にある杉の老木の根元にその源泉があった。弓弭(ゆはず)の泉というとのこと。何やらその由縁が書かれていたが眉唾物のような気がした。その昔、前九年の役に、源の頼義・義家父子がこの地平定に兵馬を進めていたとき、炎暑で飲み水がなく苦しんでいたため、義家(八幡様の元祖)が天に拝し、観音に念じて持っていた弓の端で岩を突いたところ、そこから清水が湧き出たというようなことが、説明板に書かれていた。近くに彼の征夷大将軍坂上田村麻呂が自ら立木十一面観音を刻んで祀ったお堂があり、義家もそれにあやかったのであろうか。願えば直ちにそれが叶うという観音信仰が生み出した言い伝えなのかもしれない。

そのようなことよりも、この老木の間から静かに湧き出でた水が、延々と250km近くも東北の背骨を流れ下って、石巻で太平洋に注ぐということに大きな感慨を覚えた。岩手町と石巻市を結ぶ記念碑が建てられていたが、意義あることだなと思った。

   

北上川源流の弓弭(ゆはず)の泉。この杉の根本の小さな泉からの一滴がやがて大河となって海に注いでいる

再びR4に戻って北上を続ける。一戸町に入って奥中山高原入口という案内標識があったので、横道にそれて行ってみたのだが、牧場とスキー場などがあるだけで、一戸らしさを覚えるものは何もなかった。直ぐ引き返す。その後一戸町に入り、いつも案内標識で気にしていた「藤島の藤」とか「実相寺の大銀杏」などを訪ねようと近くまで行ってみたのだが、道が狭く、駐車場も無いため近くまで行っても見ることは出来なかった。このような状況ならわざわざR4に大きな案内板を出さなければいいのにと思い、少し腹が立った。

同じ町の中に「御所野縄文公園」というのがあるので、そこへ行ってみることにした。これは素晴らしかった。広大な敷地の中に竪穴式住居を復元したものなどが点在していた。又入口にある全てが木で出来ているという「きききの吊橋」という木造の吊橋があり、それを渡ると博物館の玄関に到達する。中には邦子どのだけが入り、自分の方は広い芝生や付近の林などを散策することにした。吊り橋の下には、その昔縄文の人々が使ったと考えられる水場などがあって、この辺一帯が暮らしの場であったことがわかる。

   

   御所野縄文公園内に造られた竪穴式住居などの景観。広大な敷地の中にその昔の名残を再現している。

思うに、竪穴式住居などを見ていると、これは何も縄文時代のものだけではなく、奈良時代辺りでも貴族などを除けば一般大衆は同じような掘っ立て小屋に住んでいたのではないか。地方によっては江戸時代も同様な暮らしぶりではなかったのではないか、そのように思った。食べるのに然()して困らない現代のような時代は、日本の歴史の中では稀有の恵まれた生活環境にあるのではないかと思う。それにつけても、縄文時代は我々から決して遠い所にあるのではないということを、もっと知っておく必要があるように思った。

邦子どのは、縄文時代の織物などに興味を持ったようである。館内で実際に織ってみることが出来るようなイベントもあるらしく、今度来た時には、終日それに参加したいなどと言っていた。今日は一戸のことはあまり知らなかったけど、この施設を通して一挙に縄文時代の一戸まで行ってしまって、何だかはぐらかされたような感じだった。ま、下見なのでそれも良かろうと思った。

次に九戸城跡に行きたくて、二戸の町の中に入ったのだが、駐車場が見当たらずやむなく合同庁舎という所の駐車場に車を入れる。時間も遅く、九戸城跡までは少し遠いので、今日は行くのは取り止め、今夜の宿は九戸村の道の駅:折爪にすることにして出発。九戸村は、山を越えた向こう側にある。30分ほど走って到着。

道の駅にはオドデ館という交流施設が作られており、以前1度だけ此処を訪ねたことがある。その時は雨降りで折爪岳は見えなかったが、オドデというのは、折爪岳にまつわる民話に登場する鳥で、どうやらフクロウをイメージしたものらしい。駅の売店の入口にその石像が建っている。泊るのは今日がはじめてである。水汲み場もあり、トイレもきれいだしゴミ処理もスムースに出来て、嬉しい道の駅だ。一つだけ残念なのは、地形の影響なのか、TVが殆ど映らず、音声で確認するレベルなのだ。見なければ済むことなので、心配は無用である。

早めに夕食を済ませ、早めに寝ることにした。ここは夜間の交通量も少なく、静かな夜を過ごすことができた。

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へのへのの旅(07東北春旅)第9回

2008-06-25 04:15:41 | くるま旅くらしの話

第9日 <5月07日()    

道の駅:中仙 → 八乙女公園 → (県道他) → 水神社・円満造翁生家など探訪 → (R46・県道) → 抱き返り渓谷 → (県道・R46) →小岩井農場一本桜の下見 → 七田の弘法桜 → JR雫石駅 → (R46) →  道の駅:雫石(岩手県・雫石町)(泊)  <113km

今日は少し北上しようと考えている。雲はあるけど明るい空なので、朝食の後、八乙女公園を散歩することにして出発。散歩には狙いがある。アケビの芽がたくさんあるに違いないと見込んだのである。八乙女公園は、古城の跡でもある。角館を流れる桧木内川と合流して水量を増した玉川が古城のふもとを流れ、その向こうに平野が広がっている。なかなかの景観である。桜の季節には、隠れた名所の一つといってよいのではないか。今は桜も終り、ショウジョウバカマも咲き終わって、桜の木の下に何本かその名残りを留めていた。アケビの芽は、探すまでもなく至る所で、お出でおいでをしていた。予想通りであった。1時間ほどかけてかなりの量を収穫。今年はもうこれで終りにしようと思った。充分に満足した。

車に戻り、出発。まずは昨日寄り損なった、秋田県唯一の国宝の鏡があるという、中仙町郊外の水神社に行くことにした。直ぐに到着。田畑に囲まれた小さな森の中に神社はあった。宝物庫らしきものもあったが、鏡は普段はここには置かれはいないようだ。宮司さんも不在のような小さな神社なので、保管は無理なのかもしれない。少し期待外れだったが、仕方ない。その帰路昨日の円満造翁の生家というのを見つけた。現在も子孫の方が住んでおられるようで、それほど遠い時代の話ではないのを改めて感じた。

    

   秋田県唯一の国宝の鏡がある水神社(左) 右は円満造翁の生家

角館を離れ、R46を田沢湖方面へ。途中、抱返り渓谷という妙な名前の案内標示板があり、いつもどういう所なのだろうと気になってはいたのだが、渓谷というからには細い道で。厳しいのではないかと不安があり、一度も寄ったことはなかった。しかし、どうやらバスも通っているらしいので、今日はちょっと行ってみることにした。行き止まりまで行って見ると、そこはキャンプ場になっており、その奥に抱返り神社というのが建っていた。又幾つかの顕彰碑などが建てられていた。その中の一つに、江戸時代の昔、この玉川は源泉近くに毒水の熱湯が湧いており、そのため魚が一匹も棲めない川だったとか。それを私財を投じて魚の棲める川にしたという、先賢を讃えるものがあった。その後再び毒水が流れ出すという出来事もあったが、明治以降先賢の努力を無にせぬよう、行政がこれを担って現在の玉川があるということが記されていた。なるほどなあと思った。北投石で有名な玉川温泉辺りがその毒水の源泉となっているのかもしれない。末期がんにも有効と聞く玉川温泉には、まだ行ったことが無い。

  

  玉川(雄物川支流)の源流近くにある抱き返り渓谷の景観

此処で昼食とすることにし、お湯を沸かし、今朝採ったアケビの芽を茹でたりして、のんびりくつろぐ。渓谷には遊歩道が作られているので、散策をしようと出かけたのだが、途中から工事をしていて通行止めとなっていた。崖の崩落などがあり、危険な状態となっているらしい。今秋にはその補修工事が完了するとのことだった。新緑も素晴らしいが、秋の紅葉も見事なのだろうなと思いつつ、散策を終え、元のR46に戻り、盛岡方面へ。

今日は小岩井農場の一本桜の下見をし、その後雫石の道の駅に泊ることにした。小岩井農場の一本桜は、今NHKの朝ドラでやっている「どんと晴れ」に使われているシンボルの木である。邦子どのが新しいカメラに収めたいらしいので、天気の良い日が来るまで待っても何とか撮影できるようにしようと考えている。今日は天気があまり良くないので、恐らく岩手山は見えないのではないかと思いつつ仙岩トンネルを抜け、雫石町へ。坂を下りた所にある道の駅は一先ずパスして、そのまま小岩井農場へ。一本桜はTVで取り上げられたこともあり、訪問者が多いらしく、ちゃんとガイドの立て札も立っていた。少し遠い駐車場に車を置き、700mほど歩いて現場へ。こちらにも駐車場はあるが、大変混み合っていた。

問題の一本桜は、何だか冴えないように見えた。傍へは行けないようになっており、花が咲いているのか終わったのかも定かでない。たくさん花がついていないことだけは確かである。岩手山も雲がかかっていて、裾野のホンの少し上くらいまでしか見えない。写真を撮るには不向きな状況であった。それでも大勢のカメラマニアが押しかけていた。

  

  小岩井農場の一本桜。この年はNHKの朝ドラ「どんと晴れ」で有名となってしまった  

話では、今年はウソという鳥が花芽を食べてしまったので、桜の花数が少ないのだとか。どこかで聞いた話である。そうそう、長井の大明神桜もウソにやられたと90歳のおばあちゃんが話していた。ウソは桜の天敵なのかもしれない。桜は咲き始めたばかりで、これから盛りになるとか。樹齢100年ほどの、然()して大木とも思えぬ木なのだが、岩手山を背にする位置取りが実に良い。これが買われたのであろう。本番は明日にすることにして、此処を去る。

道の駅に戻るには未だ少し早いので、寄り道をして雫石の街中を通って見ることにした。雫石の町は鯨の背のようなところを走る県道が町の中心街を形成していた。そこを横切って坂を下るとJR雫石駅があった。銀河ステーションと付記されているのは、この辺りでは晴れた夜空には銀河が見えるのかもしれない。或いは郷土の天才宮沢賢治の銀河鉄道の夜からつけられた名称なのかも知れない。きれいな駅舎で、町の案内などもキチンと整理されて行なわれているコーナーがあった。「しずくいしの昔話を聞く会」発行の冊子があったので、買い求めた。地元の方たちがおばあちゃん達から昔話の聞き取りを行い、それを原語に近い形で冊子にまとめているとのこと。係りの方の話では大変な作業らしい。でも大切なことだなと思った。今回の旅では、民話も少し集めてみようと思っており、これがその収集の第1号ということになった。

駅舎を出る頃から空模様がおかしくなり、風が強く吹き出した。途中で食材などを仕入れて道の駅へ。その夜は、強風時々雨の天気だった。これだけ風が吹けば、もしかしたら明日は良い天気になるかもしれない。そうなることを祈りつつ、長い夜を過ごす。

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へのへのの旅(07東北春旅)第8回:その1/2

2008-06-24 00:15:39 | くるま旅くらしの話

第8日 <5月06日()

道の駅:中仙 →(R13R105)→ 角館・武家屋敷駐車場(仙北市) → (街中散策) → (県道他) → 八乙女温泉 → 道の駅:中仙(大仙市)(泊)  <60km

昨夜は良く寝た。眠るというのは、あの世へ行っているのだと思っている。人間は毎日(或いは不定期な時もあるが)あの世とこの世を往来しているのだ。そして誰でも、いつか必ずあの世に行きっ放しになる、とも思っている。生きている間のあの世との往来は、意識がないほど確実にあの世へ行った時ほど、この世に戻ってから元気が出るようだ。今日は元気である。

さて、今日は久しぶりに角館を歩いてみようと考えている。角館は去年の秋以来だ。本当ならこの季節は、もう少し早く来て武家屋敷の枝垂れ桜や桧木内川堰堤のソメイヨシノの桜のトンネルを楽しむのが一番だと思うけど、今回はそのようなことにこだわらないことにしている。町全体を楽しめばよい。

ところで、中仙の道の駅には、シンボルタワーのようなものがあり、そのてっぺん近くに米俵に腰を掛けたお爺さんのような人形があるのだが、あれは何だろうと気になった。今まで大して気にもしていなかったのだが、何だろうとふと気になった。塔の下に何やら銘板があるので行って見ると、どうやらあの人形はドンパン節(元唄)の作者の円満造(えまぞう)翁という方をモデルとしたものらしい。この道の駅は米どころとして、又ドンパン節の里としてアピールしているので、それをシンボルタワーとしていたのだった。何度もお世話になりながら、今回初めて円満造爺さまなどという方が居られたのを知り、恥じ入るばかりだった。

出発して少し走ると、元の役場があったらしい道端にちょっと変わった銅像が建っているのに気がつき、寄って見ると何とそれはあの円満造爺さまの銅像だった。円満造爺さまは、本名高橋市蔵という方で、明治時代を生きられ、活躍された方のようで、本業は東北の左甚五郎と呼ばれるほどの名人大工さんとか。本業の他にも多才ぶりを発揮され、ドンパン節も「円満造甚句」として地元の多くの人から愛され、更には全国的にも有名なものとなっているとか。銅像の下にその円満造甚句の元唄が書かれていたが、何のことかさっぱり意味が解らなかった。偉い人なのだなと思った。

     

   道の駅:中仙にある、円満造翁をモデルにしたからくり時計(左)と、旧中仙町役場近くにある円満造翁の銅像。円満造翁は、町の名を広めるための偉大な存在だったようである。

角館はこの時期特設のいつもの有料駐車場に車を入れる。8時半を過ぎたばかりなので、未だ車はパラパラで少ない。桜の花も殆ど終わっており、観光客は少ないのかも知れない。まずは桧木内川の堰堤を歩く。桜は殆ど散り、散った花びらが雨上がりの歩道を薄く白く染めている。歩道脇の草たちの緑も濃くなっていて、この地に確実に春が到来していることを証明しているようだ。堰堤から西宮家に向う。西宮家も武家屋敷の一つであるが、現在は明治・大正時代に造られた建物などが、レストランや土産売店、資料館などに使われており、中庭ではイベント等も行なわれている。我々がここを必ず訪ねる目的は、この蔵の一隅で布巻草履を手づくりされている千葉さんの顔を見たいためだ。今日は何の前触れもなく訪ねることにしている。

9時半ごろ到着。少し早や過ぎるかと思ったのだが、千葉さんは既に来ていて、作業に取り掛かっておられた。毎日ブログに1日遅れの旅の報告を書いているので、そろそろ近づいているなとは思っていたが、今日だとは知らなかったとおっしゃっていた。さほどびっくりさせることは出来なかったようだ。邦子どのはさっそく草履を手に入れていた。我が家では家の中での履物は千葉さんの作った草履と決めている。世の中にたくさんの同じような布巻草履はあるけど、1年履いても履き心地が持続できるものは、千葉さんの作品を置いて他に知らない。初期の作品には、欠点もあったが、それらを克服して、今は技術の面でも名人の域に到達しつつあるようである。併せてデザインや色合いについても、本当に思わず履いてみたくなるような、或いは勿体ないので飾っておきたいような作品が生まれている。その取り組みの真摯さには頭が下がるばかりである。

   

   布巻き草履つくりの名人千葉さんと歓談する邦子どの。蔵の中なので暗くて(?)うまく撮れませんでした。ゴメンナサイ。

今回は、健康志向の観点からの工夫の参考にと、大分前に自分が凝っていた惹石健康法という足裏のツボに関する解説書を持参し、プレゼントさせて頂いた。スリッパと草履の決定的な差は、全て足裏や足の指先などのツボの刺激のあり方に関わっていると思っている。千葉さんもご自分でその辺のことは研究されているようなので、余計なお節介だったようにも思うけど、多少は役立ってくれればと思っている。自分の場合は足裏健康法を始めて以来靴下はずーっと五本指に決めており、それ以外の靴下は基本的に使わないようにしているが、その成果なのか今は靴のサイズが約1センチほど大きくなっている。その分しっかり大地を掴めるようになったということなのかもしれない。しかし裸足になることは滅多にないので、真意はわからない。

千葉さんの話では、今日11時からここの中庭で、郷土芸能の一つであるこども手踊りがあるという。以前千葉さんと知合いになったきっかけは、同じ中庭で開催予定の子供手踊りの出番を待っていた可愛い秋田おばこの衣装姿の三姉妹に、写真を撮らせて欲しいと声を掛け、それを旅から戻ってプリントして送らせてもらった、その三姉妹のお父さんが千葉さんだったのである。ところが時間の都合でその時は肝心の手踊りは見ず終いだった。だから、今日は是非それを見させて貰おうと思った。千葉さんの娘さん達はもう上のお姉ちゃん達は中学生となっており、こども手踊りには出られなくなっている。

開始まで1時間以上時間があるので、邦子どのとは別れて町内を散策する。未だ行っていなかった神明社などに参詣する。境内に菅江真澄終焉の地という碑が建っていた。そうか、あの優れた紀行家はここで最後を迎えられたのかと、感慨に打たれた。

   

  角館の鎮守様神明社本殿(左)と右は、その近くにある江戸時代の旅の名人菅江真澄の終焉の地の碑(いしぶみ)

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