山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ジさまの七夕さま

2019-07-09 05:18:12 | 宵宵妄話

 7月7日はご存知の七夕さまでした。我が自治会では、こども七夕祭りと称しての小イベントを企画しました。町内の学童や幼稚園児などのこどもたちに、少しでも良い思い出を作って頂こうと願っての企画でした。というのも、我が町内にはこども会というのがないのです。昔(昭和の時代)は、どこの市町村にもこども会があったように記憶しているのですが、今頃はだんだんこのような集まりが無くなって来ていて、学校や塾などという個人主体の学びばかりで、地域のこどもたちが集まって、みんなで遊ぶという環境が消滅してしまっているようです。

 さて、その企画は七夕祭りの2週間前に思いついて取り上げたものでした。急なので、取り敢えず各世帯にチラシを配ってお知らせをしたのですが、さて、どの程度こどもさんを持つ家庭に届いたものなのか、知る由もありません。とにかく決めたことなので、準備に取り掛からなければなりません。ここからは裏話です。

 何しろこの企画は老人の企画なのです。本当は若い親の世代の人たちが中心になってあれこれアイデアを出して盛り上げるべきなのでしょうが、その世代の人たちは集まって何かをやろうという余裕がある人は少なく、そのために夜間や休日を当てるなどというのは到底無理なことなのです。ですからどうしても老人の出番となってしまうわけです。

それで、このジさまは他のジさまやバさまに声をかけては迷惑だと考え、可能な限り自分で準備をして当日に備えようと考えました。

準備するものとしては、短冊や折り紙や筆記具などの用具一式があります。それらを揃えた後は、先ずは竹笹を用意しなければなりません。これは近所の竹藪に行けば容易に手に入りますので、前日までに用意することにして、あとは雰囲気を盛り上げるための童謡などのCDがあればいいなと思いつきました。これをどこで手に入れるか困惑しましたが、嫁御に訊いたら図書館にあるのではということなので、早速出掛けました。図書館の受付で、「たなばたさま」と「きらきら星」という童謡の入っているCDを探して貸して欲しいとお願いすると、そこの女性はちょっとばかり訝しげな表情で自分を見るので、こども七夕祭りで使いたいと話して納得して貰いました。それにしても傘寿に近いジさまが童謡とは?と思われたに違いありません。

 これで一通りの準備品が揃ったのですが、来てくれた人たちにだけ飾り付けを期待したのでは、もし誰も来なかったら笹だけとなってしまうと気づいて、とにかく少しは予め何か作って飾ることにしようと、その制作に取り掛かることにしました。先ずはリングを数個作りました。その次はお星さまの形を切り抜いた金色と銀色の星型を幾つか作り、更に折鶴もあった方がいいなと30個近く作りました。なんでこの歳になってこんなことをしているのか?という囁きが時々聞こえてくるのですが、折っている鶴の形がだんだん様になって来ると、それに従って心もだんだん無心になって来て、70年前のこどもの世界に戻ったりするのが不思議でした。

 こども七夕祭りはたなばたさまの前日の7月6日のイベントです。その前日に竹笹に飾りつけをして、当日の早朝に会場となっている自治会館の入口付近に竹を置きました。10時からの開催ということで、開始時刻近くとなって早速CDを回して「たなばたさま」や「きらきら星」の曲を流し始めました。

 誰も来ません。土曜日のこの日は我が自治会ではコーヒーを飲みながら懇話を楽しむ日となっているのですが、やって来るのはそれを目当ての老人ばかりで、こどもと一緒の家族連れは皆無なのでした。1時間が過ぎましたが、誰も来ません。老人たちの会話も下火になり出しました。2時間が経ちました。誰も来ません。老人たちの殆どは退散して静かになりました。そして午を過ぎてしばらく経った頃、待望の若い一家族が一人の天使を連れてやって来ました。ジさまの思いが届いた人がやって来てくれたことをありがたく嬉しく感謝しました。そしてその後は、しばらく経ってから、おばあちゃんに連れられたもう一人の天使と、16時の閉店間際に兄妹天使がやって来てくれました。長い長い待ち時間は、4人の天使の来訪で終わりました。

 ジさまの企画はどうやら何かが抜けていたようです。第一番目には何と言っても思いつきのタイミングの悪さです。もっともっと早くなければならないのです。そしてもっと大きい抜けは、来訪する側の事情の読み不足です。梅雨の曇天の続く時期の休日に、わざわざ出かけて来てくれる人は稀有の世の中だということを忘れて、こちらの思いと都合だけで甘い勝手な夢を描いた不用意さ。おかげ様で、用意した用品やプレゼントは次回分も大丈夫と思われるほど余りましたし、もう一つ別のイベントを行うのにも使えるようです。

 惨敗の企画でしたが、ジさまにとっては、いい体験でした。鶴を折るなどというのは、普段ではあり得ないことです。折り方も忘れかけていたのを思い出して元に戻れたのは、まだボケていない証でもありましょう。糸と針で連鶴を作ったり、長いリングを作ったりして、ほんの少しですが童心に帰っての貴重な時間でした。こどもたちのための七夕祭りの楽しみを、ジさまが独り占めしてしまった後ろめたさを感じながら、次回はこの反省を活かして頂いて、こどもたちのための本来の祭りができるようにと、密かに星に願ったのでした。

   

ささやかな我が町内会の七夕祭りの飾り。何といっても願いの短冊が少ないのが寂しい。

  

 

 

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自信→過信→思い上がり

2019-07-03 03:48:42 | 宵宵妄話

 人間を80年近くやっていると、普通の人間の陥り易い欠点というのか、性向というのか、そのことに気づく。この頃時々気になって、やっぱりそうかと頷くことがときどきある。それはいわゆる有名人といわれている人たちが、失敗をやらかす度に感じることでもあり、又自分自身についていえば、体調管理に問題を覚える時である。

 どんなことかといえば、人間という生き物はとんでもない思い上がりに向かう性質を持っているということなのだ。それは性質というよりも本能に近いような気がする。もっと解りやすくいえば、人間というのは一つ成功体験をつかむとそれが自信となって、自分の生きている存在を確認し安堵するのだが、それをそのまま維持することは難しくて、自信はたちまち過信となってしまうのだ。そしてその結果思い上がるという行動現象を来してしまう。有名人の失敗の殆どは過信に気づかず思い上がって愚かな振る舞いに及ぶということだ。

 思い上がりは政治家や芸能人に多いようだ。特に政治家にはそれが多いように思う。いわゆる失言というようなものを吐く政治家の大半は、己が政治家として国民のために尽くしているなどという思い上がりに気づかず。国民を愚弄するようなことばを吐く。マスコミなどに騒がれて取り消すなどということをすることが多いが、一度口に出したことを取り消すなどといっても国民は誰も信用などしていない。中には思い上がりならまだしも自分が言っていることが解らないなどという無知の大臣等も混ざっているから、何とも不思議な世界だ。芸能人も又思い上がる人間の多い世界だ。ロクな芸も見せず磨かず、口先だけで解った風のことをぬかして、正義の味方ぶっているような奴は、よほどに気をつけていないと思い上がりが身を滅ぼすことになるだろう。人々に受け入れられる本物の芸人は、磨かれた芸を持ち、且つ自信をひけらかすことのない謙虚さを持った人物なのだと思う。それは人気などという軽薄なバロメーターで計れるものではない。

 さて、他人様をとやかく言うのはいい加減にしなければならない。我とわが身に関しても自信が知らぬ間に過信となり、思い上がって身を破滅に導きかねないことを何度も繰り返しているのである。自分は28年前、糖尿病を宣告された。この病は不治の病で、一度罹ってしまったら二度と病から逃れることができない。ただ、救いとなるのは、きちんと食事や運動等の体調管理をしていれば健康な状態を保つことができることだ。もし少しでもいい加減な羽目を外すような振る舞いをすると、たちまち血糖値が上がり病の状態に戻ってしまう。一般に人は病に取りつかれた時は、薬や手術をして病原を除去してしまえば、元の健康を取り戻せると考えるのだが、糖尿病の場合は、そうはいかないのだ。薬を飲んだとて、注射を打ったとて、一時の健康は取り戻せるけど、治ったと思って不摂生をすれば、忽ち病の状態に立ち戻ってしまうのだ。多くの糖尿病患者はこのことに本当に気づいていない。そして、知らず合併症に近づいている。それが糖尿病患者の実態のように自分は思っている。

 そこで、糖尿病患者である自分は、医者の指示をきちんと守り、食事管理や運動を我が身に課し、今日までほぼ健康状態を維持して来ているのだが、その中身といえば、「不安→自信→過信→思い上がり→不安」の繰り返しなのだ。不安を解消するためにセルフコントロールに取り組み、それが上手くいっているのを確認できるともう大丈夫、これでやっていけると自信を持つのだが、それはたちまち過信となり、ちょっとくらい羽目を外しても大丈夫とたちまち思い上がって、その結果少し経つと医者から悪化したデータをつきつけられて、再び一挙に不安に突き落とされる。この繰り返しを何度行ってきたか。真に我ながら呆れかえった存在だなと思う。幸いハッと我に返って直ぐに是正して事なきを得ているのだけど、これらを知りながら、どうしてもこの愚を抑えることができない。

 恐らくこの愚かな行動は、人間の本能のようなものなのではないかと、自嘲しながらこの頃思っている。ま、自分自身のことは最早この歳まで来てしまっているので、成り行きに任せて対処すればいいのだと思うけど、前途有為の人たちがマスコミなどに取り上げられて騒がれているのを見ていると、ついお節介なアドバイスをしたくなるのである。公私いづれの面においても思い上がりをコントロールできるような人物となり得たなら、それは人生の達人と称賛していいのではないか。この頃そのようなことを思っている。

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