茨城県には、日本で2番目に大きな湖があります。霞ヶ浦です。私たちが子供であった頃には、この湖は日本で3番目の大きさだと学びましたが、2番目だった秋田県の八郎潟はその後干拓が進んで、消え去ってしまいました。勿論我が国最大の湖といえば琵琶湖がそれですが、霞ヶ浦はその4分の1しかなく、琵琶湖の大きさが際立っています。ちなみに3番目の大きさの湖は北海道のサロマ湖です。
昔の子供たちは、今と違ってTVもゲーム機もなく、ラジオだけが視聴覚の世界でした。しかしその殆どは大人用の番組で占められており、しかも我が家には中学2年までは電気も引かれていなかった状態でしたので、ラジオが聴けるようになったのは、我が家に電灯がともる少し前の中学1年生頃に、父がトランジスタの携帯用ラジオを買って来てくれたのがその始まりでした。今考えると想像も出来ないような環境の田舎に育ったのでした。 (当時の村には他のエリアには電気は勿論通ってしましたが、開拓者の入植地だった私たちの集落には、どういうわけか忘れられていたのです) 従って、家の中での遊びといえば何もすることがなく、父が買ってくれる子供向けの雑誌や友達から借りた本を読むくらいでした。そんな中で私は地図を見るのが好きで、退屈した時は地図帳を取り出し、日本や世界の山・河・湖などのランクなどを言い当てたり、各県庁所在地や世界各国の首都などを言い当てるなどの遊びを勝手に作って楽しんでいました。その習慣は今でも尾を引いているようで、我が家のトイレには世界地図と日本地図は常に常備されていますし、その他各種図鑑や年表などが置いてあります。
話が脱線しましたが、当時第3位だった霞ヶ浦が現在では2位になっているというのは、考えてみれば不思議なことです。湖が勝手に消え去ったのではなく、勿論その後の人間どもの手によって干拓が行なわれ、広大な面積が耕作地に変わってしまったというわけです。八郎潟は海と繋がった塩湖でしたが、今は美田(?)になり代わっているようです。この干拓がその後の秋田県に何をどれだけもたらしたのか判りませんが、旅の途中でそこを通るときは、もし湖がそのままだったら随分と景色もくらしも違っていただろうなと思ったりします。私的には干拓は反対です。
霞ヶ浦は実は干拓向きの湖だと思います。何しろ水深が7.3mしかないのですから、その気になって埋めればあっという間に陸地になってしまうことでしょう。ついでに東にある細長い北浦も埋めてしまえば、守谷市が5つ半ほど入る土地が手に入るのです。八郎潟よりも条件的には東京に近く、利用価値は極めて高いように思います。しかし、私は干拓には反対です。これが全部陸地になってしまったなら、茨城県の気象状況はおかしくなるに違いありませんし、土地をめぐって碌なことが起らないと思うからです。自然というのは可能な限り弄り廻さないということが大切なのだと思っています。
さて、その霞ヶ浦なのですが、実は県北に育った私は、名前以外は殆ど知らないのが実情なのでした。県南に住むようになって6年目を迎えましたが、霞ヶ浦といえば、2~3度その湖畔にある道の駅:たまつくり(行方市玉造)で休憩したくらいで、湖畔を歩くなどということはついぞしたことがなかったのでした。それが、先日家内のフォークダンスの集まりが土浦市の霞ヶ浦湖畔であったものですから、お抱え運転手(?)として送迎を担当し、集いが終るまでの4時間ほど湖畔の散策を楽しんだのでした。その時のことをちょっぴり書いてみたいと思います。

土浦市霞ヶ浦総合公園から見た霞ヶ浦の景観。モニュメントの前方(東側)に湖が広がっている。この彼方に潮来市などの水郷地帯がある。予科練はずっと右手の湖岸にあった。
土浦市は霞ヶ浦の西端にある茨城県の主要都市です。土浦といえば有名なのは、レンコンの栽培でしょうか。あとは昔の予科練(=海軍飛行予科練習生)があった場所ということくらいで、これといった特徴のない、しかし水戸とは違った歴史を持った城下町です。地形的には殆ど平地ばかりと言って良いように思います。会場は丁度霞ヶ浦の湖畔にある総合運動公園の傍にありましたので、湖畔を歩くのには好都合でした。
歩きの目的地は土浦市に隣接する阿見町にある阿彌神社までとしました。往復12kmほどの行程です。何しろ初めての道なので、地図は頭の中に入れてきたものの、現地はかなり違っていますので、あとは勘を働かせるだけでした。もうすっかり冬の寒さが定着していて、湖面を渡ってくる風は顔に当たると、少し痛さを覚えるほどでした。岸辺近くにはたくさんの鴨などが飛来していて、中には白鳥が混ざっているエリアもありました。その数は20羽前後のようで、多くはないようです。

鴨たちに交じって、白鳥の一団も飛来していた。岸辺には水鳥がかなり多く来ており、姦しく騒いでいた。
湖畔の道を30分ほど歩くと、予科練に因んだ記念館の案内板などがあり、戦前まではこの辺に予科練があったのだと言うことが判りました。阿見町に入ってしばらく歩くと、「予科練平和記念館」というのが来年2月開館を記して工事が進められているのに出会いました。これはもう一度来なければいけないなと思いました。予科練については、名前以外は詳しいことは殆ど知らないと言うのが実情です。 「若い血潮の予科練の 七つ釦は桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が湧く、……」と言う若鷲の歌(西条八十作詞 古関裕而作曲)はなんとなく知っていて、時々歌ったりするのですが、良く考えてみれば、あれはこの地の予科練を歌ったもので、今日はその現地跡を歩いているということになるわけです。

霞ヶ浦湖畔の予科練跡地に建設中の阿見町の「予科練平和記念館」の建物。来年2月開館の予定とかで、工事は急ピッチで進められているようだった。
この歌は思わず口走ってしまいますが、予科練と言うのは結果的には戦争の末期に大勢の悲惨な若者たちを作り出した場所であり、それを煽っていたのがこの歌だと考えると、少し複雑な気持ちになります。
湖畔近くには所々名物のハスの栽培田があり、氷の張ったその中に入って、身体の半分以上を泥の中に埋めて、レンコンの採取をしている人たちがいました。これは大変な作業だなと思いました。冬の風物詩として、見る人側からは良いかもしれませんが、作業をしている人には天国を夢見る地獄の作業に違いありません。

体半分を泥の水中に没してのレンコンの収穫作業風景。付近のレンコン畑には氷が張っていたから、この作業は相当に厳しいに違いない。
レンコン畑を通過してしばらく歩いてから、台地の方にある森が見えましたので、そこに向かっていって見ますと、そこが阿彌神社でした。神社仏閣を見つける私の勘はかなりのもので、見知らぬ土地に行ったときでも全体の地形と森の様子などを見れば、ある程度の見当がつくのです。以前良寛さんのお墓を訪ねた時も、地図無しで見出すことができたのでした。阿彌神社は初めてですが、戦前の県社ということだったそうですから、それなりの歴史がある所なのだと思います。今回はただの折り返し地点として選んだだけでしたので、その詳しい由緒などは調べませんでした。
帰りは違う道を1時間半ほど掛けて歩き、再び湖畔の道に出て出発点に戻ったのでした。初めての霞ヶ浦近郊の散策は、とても満足できるものでした。湖としてはかなり汚染度が酷くて残念ですが、これからは時々やって来て、この日本で第2番目に広い湖のことを知ることにしたいと思っています。