山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

南房の花:宮廷と下町

2008-02-29 03:28:35 | くるま旅くらしの話

 下町やその外れの方には何度も行ったことがある。というよりもそこに住んでいるのだ。だけど宮廷というのは殆ど知らない。日本で言えば皇居とか御所のことをいうのであろうが、中へ入ったことがないので、そこがどのような世界なのかは知らない。その昔ベルサイユ宮殿というのを観光で訪ねたことがあるが、とても人の住むようなところではないなと思ったりした。

 南房には、この季節、下町の中に宮廷が作られ、夫々の世界に花が育っている感じがする。圧倒的に下町の世界の方が広いが、人間どもが騒ぎ訪れるのは、宮廷の方である。宮廷は同じ大地の中にあるが、そこに咲かされている花は、美しい。美しくない花などないが、丹念に精魂を傾けて美を追求した結果の花が、とりわけて美しいのは当然なのかも知れない。

 先日ポピーの花のことを書いたが、ポピーというのは、中国では虞美人草と呼ばれる花のことである。いかにも宮廷の花という感じがする。そのことを書き忘れていた。

 宮廷の花を三つ、下町の花を三つ取り上げたい。

 先ずはストック。よく似ているキンギョソウは今回写真を撮らなかった。それでストックに登場して頂く。ストックには2種の育て方があるようだ。一本の樹から小枝を張らせてたくさんの花を咲かせるのをスプレーストックというらしい。ここに写っているのは、そのスプレー種である。スプレー菊も同じような栽培方法らしい。実際どのようにすればそのような花を咲かせることが出来るのかは知らない。人間というのは、自分たちの都合のいいように、花までも操作しているようだ。ストックは今頃の花畑では、その姿といい、香りといいまさに女王という存在であろう。我が家には今その濃艶な姿と香りが漂い溢れており、数日間も経った今は、些(いささ)か辟易(へきえき)している感がある。

   

  ストック:この季節の女王。これはスプレー種で花数が多い

 次はキンセンカ。これはズングリむっくりの女王様という感じか。女王というよりも年を召した女帝という方が合っているかもしれない。キンセンカを仏さま用の花としか考えない人もいるようだけど、どうしてどうして、よく見れば美しい。仏様に何で丈夫な花を供えたがるのかはよく解らないが、キンセンカは丈夫で美しい花である。

   

   キンセンカ:地味だけどしっかりした花

 今回は数少ない宮廷花レベルの中からヤグルマ草(=矢車菊ともいう)を撮った。この花を見ると、いつも啄木の歌を思い出す。「函館の青柳町こそ哀しけれ 友の恋歌 矢車の花」 青柳町を通って、函館山を往復したことがあるが、その季節には矢車の花は無かった。ヤグルマ草は、群れ固まって咲くよりも、孤独風の方がいい。

  

   矢車草:本来は初夏ごろの花

 下町の花は、野の花すなわち、野草である。いろいろな花があったが、その中から目立ったものを三つ挙げると、ハマダイコン、オオイヌノフグリ、タンポポということになった。

 ハマダイコンは、大根が野生化したものだという。確かに大根の花と同じだ。ハマダイコンの根が大根と同じように太いのかどうか確認したことが無いのでよく判らないけど、花だけを見ていると、根からは想像も出来ないほど繊細な楚々とした花である。この写真は悪条件の場所に咲いていたもので、その美しさを撮りそこなった感がする。ハマダイコンさんには申し訳ないような気がしている。

   

   ハマダイコンの花:なんとなく憂いがある

 既に書いたオオイヌノフグリを再び取り上げてしまった。もっと大写し出来ればよいのだが、虫眼鏡で覗いたレベルの写真が撮れないカメラなので、これ又オオイヌノフグリさんにも申し訳ないと思う。

   

  オオイヌノフグリ:あえて群れていないのを撮った

 最後はタンポポ。たった一輪が春を唄っているのがいい。何処にもありふれた花だけど、タンポポは野草の女王の一つでもあると思っている。今年は我が家の白花タンポポはきちんと咲いてくれるだろうか。桃色タンポポ(これは栽培種らしい)は、初夏を飾ってくれるだろうか。一輪の花を見ながら想いは膨らむばかりである。

   

     タンポポは、四季咲きの野の花の女王である

宮廷の花も美しいと思うけど、自分的にはやっぱり野の花の方に魅かれるのである。馬の骨には野の花のほうが似合うのである。勝手にそう思っている。

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どうにも止まらない 

2008-02-28 00:07:00 | 宵宵妄話

 俗に3ポというのがある。薩摩ッポ、土佐ッポ、水戸ッポ。ある種の県民性のようなものをいうのかも知れないが、本来は幕末あたりに発揮された武家社会の藩閥集団の特性のようなものを呼ぶようになったのではないか。3ポには共通した頑固さのようなものがあるが、この中でどうやら程度をわきまえぬほどひどいのが水戸ッポらしい。幕末の中で、最も早く尊皇攘夷を掲げながら、結果的には一つの力として、歴史の転換にあまり貢献できなかったように見えることが、それを証明しているようにも思う。(この考え方には私としては異論を唱えたい思いがあるが、今日は止そう)

 私はどうやら水戸ッポらしい。水戸藩の末裔ではなく、徒(ただ)の馬の骨なのだけど、精神は水戸に育てられたようなところがあり、飛び切り頑固になることがあるのである。人間、間もなく古希を迎えようとするほどの者ならば、いかに馬齢を重ねようと人前で辺り憚(はばか)ることもなく、大声を上げて相手に吠え掛かるなどということをするのは見果てた奴だと言われざるを得ないのだが、昨夜それをやってしまった。

 年に1、2回開催される同じ学舎のゼミ仲間の集まりに出席したのだが、宴も二次に入り、久しぶりにカラオケなどに興じているときに、メンバーの一人との対話の中で怒り心頭に発することがあったのである。その詳しいことは書かないが、私は自分が大事にしているものを踏みにじられるようなことがあると、それを黙って耐え忍ぶなどということが出来ない。侮辱(ぶじょく)と受け止められることがあると、もう断じて我慢が出来ないのである。

 大事にしているものが幾つかあるが、その一つに話す態度というのがある。話すというのは聴くという行為とのやり取りで成り立つものである。どちらか一方がどのように懸命にたくさんのことを話しても、相手が聴かなければ話合いは成り立たない。話すというのは、だから聴くということなのでもある。その話す態度の中で、最も許せないのは、自分が訊きたいことだけを相手に話させようとする態度である。「お前のそのようなことは聞きたくない!俺の聞きたいことだけを話せ!」などという態度は、例えそのようなことばを吐かないとしても、断じて許せない。コミュニケーションというのは、ことばだけで成り立つものではなく、態度や行為等を含めたその人間全体の心の働きがなせるものなのであるから、その心の働きが自分を侮辱したようなものである場合は、直ぐにそのことはわかるのである。少なくとも私自身はそう思っており、他人(ひと)との話にはそれなりに感性を働かせているつもりである。

 その感性がカチンと来たのであった。その昔の現役時代、新社長と重役さんが集まった会議の中で、私の責任担当の部署の説明会があったとき、新社長から説明を求められ、関連事項も含めて説明をした方がより正確にご理解を頂けると考え、そのような話を始めたのだったが、その新しいトップから関連事項は話すなと強く遮(さえぎ)られたことがあった。そのとき、関連事項もお聞き頂かないと説明が不十分となると申し上げたら、急に怒りだして私の言うことが聞けないのなら、お前は馘首(くび)だ、などと言われたことがある。簡明に報告・説明することが時間効率上も含めてビジネスの要点のひとつであることぐらいは、こちらも重々承知はしているが、碌(ろく)に話も聴かないで、己(おのれ)が求めたものだけ聴けば大概のことは解るのだ、というのは思い上がりである。冗談じゃない。お前さんを馘首にしたいのは俺の方だ、とそのとき思った。ビジネスの場なので、ま、一理はあるのだろうと我慢したが、ビジネス以外の世界では、この種の人間行為を簡単には許せない。許さないのではなく、許せないのである。

 一昨夜は、似たような状況だった。普段かなり信頼していた人物だったので、殊更に腹が立った。一喝した。相手は勿論、その場にいた人は吃驚(びっくり)したであろう。突然雷鳴が鳴り響いたようなものなのであるから。振り返れば申しわけないことをしたと思うが、さほど反省はしていない。傍(はた)から見れば、酒席上のお決まりの悪い癖が出たなどと映るのであろうが、私は怒り上戸でも酒乱でもない。人間は酒を飲むと本当のことを言うことが多いように思う。酒の席のことは酒が言わせているのだから忘れろ、などと人は無責任に言うけど、私は決して忘れない。本当のことには敏感に対処したい。だから、この種の侮辱に出会うと、放置できないのである。

 江戸時代で、もし自分が武士だったらどうだろうかとふと思った。当然のことながら決闘を申し込むであろう。いや、果し合いなどと面倒なことはせず、その場で切って捨てるかも知れない。しかし、怒ったままでは人を切るのは難しいだろうから、一瞬にして冷静になるに違いないと思う。冷静になれば、確実に人を切ることができる。剣士というのは、冷静な人物しかなれない。確実に人を切ることができるから、滅多なことでは剣を抜かないのであろう。何だか変な話になりだした。

 もともと変な話なのである。他愛もない話といっても良いのかも知れない。一喝した後、自分的には冷静に戻ったのだが、周囲は逆に今度は冷静にはなれなかったようである。それでも相手が少しは気づいてくれたのか、或いはその種の上手の者なのか判らないけど、折れてくれたので掴(つか)み合いにはならなかった。間もなく古希を迎える者同士が掴み合いの立ち回りをやったら、けが人が出るに違いない。真に愚かなことである。愚かなのは自分ひとりだけだったのでよかった。いやはや。水戸ッポの成れの果てだなと思った。

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南房の花:ポピーの花の精

2008-02-27 08:14:13 | くるま旅くらしの話

南房の花を代表するものといえば、ストック、キンセンカ、キンギョソウなどが挙げられるが、もう一つポピーも忘れてはならない。今回の旅では、ポピーはもう終わってしまったのか、それともこれからなのか、あまりその艶やかな姿を観ることは出来なかった。

ポピーを育てるのに、どのようなご苦労があるのかはよく知らないけど、買う側からは少し扱いにくいところがある花だ。咲いているときは美しいが、咲く前の蕾がどんな花を咲かせてくれるのか判りにくいし、咲いてしまえば散るまでの時間が早いような気がする。一瞬の美しさを愛でるような風情の花であり、たくさん買うのにはかなりの勇気が必要のような気がする。

今回の花畑には数少ない、咲いているポピーの花の中から、5色を選んでカメラに収めてみた。相棒が花屋のお母さんと花を選んでいる間の束の間の時間だった。

ポピーの花は、全部で何色あるのかは知らないけど、5色もあれば私には十分である。どの花にも繊細な色合いがあるけど、ポピーの場合は、花を咲かせようとするエネルギーがとりわけて大きくて、その色合いの微妙さも際立っている感じがする。一体に芥子科の花にはある種の毒々しいほどの艶やかさがあり、時に不気味さを感じさせることもあるけど、ここのポピーには、それはないように思えた。初めて春の房総を訪れた時に見たポピー畑には、ただただ繊細な美しさだけが一面の畑を覆っていたのを思い出す。

芥子の花言葉を拾ってみたら、次のように書かれていた。赤:慰め 深紅:妄想 白:眠り、忘却、私に毒 とあった。花言葉は、どうやらイギリスが発祥の地らしいが、詳しいことは判らない。この芥子に関する花言葉を見る限りは、何だか当てはまっていないような、いるような感じがした。それで、自分でも作ってみた。

  

    花言葉:隠せぬ情熱

  

    花言葉:鮮烈な想い

  

    花言葉:落胆の哀しみ

  

    花言葉:空しき忘却

  

    花言葉:遥かな離別

 

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日溜まりの

2008-02-26 06:23:03 | 宵宵妄話

冒頭に一句。

「日溜()まりの閑(しず)けさ集め 馬酔木(あしび)咲く 馬骨」

      

  馬酔木の花:この木はかなり大きなものだが、普通はもっと小さくて、

  路地の片隅に在るともなしに花を咲かせていることが多い

 このところ句作をしていない。俳句というのは、私の心の中では物を書く原点となっている。短詩形の文学としては最高の表現形式の一つだと思っている。俳句は短いゆえに難しい。無理に作ろうと思えば、わざとらしい駄作となる。さりとて、自然発生的に句作の興趣が湧いてくるのを待っていたのでは、ほとんど作品は生まれない。現在の自分は、待っているばかりである。

句作に興味を覚えるようになったのは、小学校3年生の時だった。国語の時間に先生が俳句の話をされて、皆も作ってみようということで、そのとき思いついて作ったのが、「冬の山松の木だけが青々と」という句(?)だった。何故かそれを先生が取り上げて褒めてくださったのである。冬の山には松の木の他にも落葉しない木は幾つもあるのだが、その頃の村の山は圧倒的に松が多かったので、自然とその勢いのようなものが目に入ったのであろう。豚もおだてりゃ木に登る(?)というけど、褒められて嬉しくないのは無感情な鉱物くらいのものであろう。そのとき以来俳句を作るのが意識から離れなくなった。中学生の頃は、密かに新聞に投稿し、誰にも知られず入選作が掲載されるのを期待したりした。何度か入選したが、誰にも黙っていた。

長いサラリーマン時代を終えて、くるま旅くらしをするようになってから、再び勝手に句作の意識が働くようになったような気がする。サラリーマン時代は句作の余裕などなく、せいぜいひねた川柳を読んで拍手した程度であった。自分で作るという気持ちが湧いたことはない。それが、このところ時々句作を思い立つようになったのは、何故なのか自分にもよく分らない。

私の句作は、そのテーマも表現も湧いて来るのを待つだけである。駄句でも何でも良いから、ふと思い浮かんだものを温める。そしてこの程度かなと思ったところで書いてみる。それを少し弄(いじ)り回して終りとしている。冒頭の作品も駄作には間違いないが、2年くらいは温めたろうから、自分の中では春というのは馬酔木の花が咲きこぼれた時に確認できるものという思いがある。

俳句には季語というものがあって、厄介だ。何故季語があるのだろうか。そのようなことをあまり深く考えたことはないが、句作をしていると季語の重なる表現をすることが多い。詠もうとする対象に対する思いが強いほど季語がダブルのである。そうすると、当人ばかりが思い上がった独りよがりの句となってしまう。季語のルールというのは、そのような思い上がりを戒(いまし)めるための、日本という国独自のきめ細やかなルールなのかも知れない。俳句というのは、油断も隙もない表現の極致を求めているような気がする。

しかし、現実の人間はそのような細かいことに拘(こだわ)っては句作を楽しむことはできない。そのようなルールなどほどほどにして、自分の思いを句作に傾ければいいのだと思う。(本当に言いたかったのは、このことである)

「白椿 六十路も終り近くなり 馬骨」

「一輪の生命(いのち)膨らみて椿咲く 馬骨」

     

     椿の花:椿は花びらごと地に落ちる。生命の重さと空しさを感じ

      させる花のように思える

やっぱり駄作だなあと思う。今日は我が句作の話でした。

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南房と伊豆の関係

2008-02-25 00:07:18 | くるま旅くらしの話

 3日目の朝、野島崎の道の駅を発って館山に向かう途中の海の彼方に、雪を冠した山々が連なっていた。一瞬何処の山なのだろうと迷ったが、あれは天城連峰なのだなと判った。ここから見える山といったら、富士山でもない限り天城しかない。それにしても天城があれほど雪を冠しているとは思わなかった。真っ青に輝く海の向うの山も輝いて見えた。

   

   白浜町根本辺りからの天城連峰の遠望(少し霞んでいる)

南房と伊豆は近い。守谷から南房までは150kmほどあるが、伊豆ならば海上を60kmほどしかないはずだ。天城の山々がよく見えるはずである。気がついてみれば、館山の少し先の金谷からは東京湾フェリーが通じているが、三浦半島の久里浜までは30分ほどで渡れるのである。三浦半島と伊豆半島を比べてもあまり意味がないけど、その昔の鎌倉時代の始まり頃は、南房を含めたこれらのエリアは、日本の政争の中心地として名を馳せていたに違いない。

 後に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、その権力を手中にするまでは、鎌倉を中心に、伊豆や三浦半島、そして南房のエリアを戦い、負けては逃げ隠れたりして、多くの逸話を残している。戦というのは、いつも勝ってばかりではなく、負けることもある。頼朝という人は、弟の義経とは違ってあまり戦上手ではなかったようである。しかし政治に関しては、武家の頭領としてそれなりの人望があったのであろう。後世の馬の骨が、このようなコメントをして良いのかどうか、若干恐れ多いという感じはするけど。

 頼朝は南房へは敗れて逃れ来たことが多いようである。いわば再起の場所であったということか。京都の方で言えば、さしずめ吉野山あたりに同じということなのかも知れない。その昔から、歴史では再起を期す場所というのがあるようである。何事も一挙に頂点へというわけには行かない。一挙のように見えても、多少の逆境を経験しないと人はなかなか強くはなれないようである。頼朝という人の場合は、南房が再起の場所であった。鴨川郊外の仁右衛門島には頼朝かくれ岩というのがあるし、野島崎の灯台近くにある祠にも頼朝に縁(ゆかり)の何とやらがあったように記憶している。たった800年余しか経っていないのに、歴史というのは伝説を生むのが好きなようである。

 その頼朝さん(失礼)の子孫が、この辺りには何人も住んでおられるらしい。花作りのおばさんがそう話していたと、相棒が聞いてきた。子孫の方は皆、それなりの顔立ちをしておられるとか。(ホンマかいな?)昔の英雄というのは、戦に負けて逃れても子孫を残すためには戦を忘れたのだろうか。本人よりも周囲がそれを大事にしたようだから、多くの子孫がこのエリアに残っていても不思議はないのであろう。馬の骨からは、ちょっぴり羨ましい()話ではある。

  

   千倉町七浦漁港近くのお花畑の花摘み風景

 お花畑が広がるのどかな風景の中には、その昔の凄まじい歴史の息吹は少しも感じられないのだけど、遠く美しい伊豆の秀峰を望みながら、ひと時歴史に絡む様々な出来事を思ったのだった。

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海は碧かった

2008-02-24 05:03:30 | くるま旅くらしの話

  今日(2/23)は、午後から大風が吹いて物が吹き飛び、とんでもない荒天となった。春一番だという。季節の変動は、時には劇的な印象を見せつけるように企んでいるのかも知れない。それにしても昨日までに戻ってきたのは正解だった。海側の風は、こんなものではないだろうから、やれやれと胸をなでおろしている。

 旅(というには大げさすぎるけど)から戻って、今回は記録を作るほどでもないので、幾つか思い出を記すことにしたい。先ずは海の印象である。このところ、海を見る機会があまりなかった。北海道の旅で夏のオホーツク海を見た後、帰り道に大間の津軽海峡を見た他はずっとご無沙汰だった。久しぶりに訪ねた南房の海は、大気汚染や温暖化などを忘れさせてくれるほど真っ青の透明で、きれいだった。

 大多喜の道の駅に泊まった後、国道297を勝浦に向かって出発。勝浦で国道128に入り、鴨川方面へ向かう。勝浦は何度か訪れている場所だ。朝市なども開かれていて、それを見て回ったこともある。今週末から神社の境内にある階段を使ってのひな祭りが開催されるという話を相棒が盛んにしているが、もう一度出直してくるつもりはない。確か、イージス艦との海難事故はここの漁協所属の舟だったと思うから、ひな祭りを屈託無しで喜ぶには無理があるのではないかと思う。

 漁師町は何処へ行っても道が狭いが、ここもやっぱり変わらない。バイパスも造るのが難しく、多分無理して造ったのであろうそれは有料道路となっている。でも狭くても200円也()を払うつもりはなく、一度も使ったことはない。何だか間もなく無料となるらしい。どうでも良いことだけど。今回もあまり混んではいなかったけど、狭い道を通らせて貰った。

 しばらく走って天津小湊へ。トンネルを出ると直ぐに信号があって、それを左に曲がると、彼の日蓮上人縁(ゆかり)の誕生寺がある。その向かいの海が鯛の浦である。よく見たことはないが、ここには天然の鯛が群がっているという。日蓮様を慕って寄ってくるのだろうか。誕生寺に寄って見たいのだが、駐車場がなかなか見つからないので前回も諦めたのだった。今回もパスすることにした。

 少し先に行った所に小さな船溜まりがあり、そこで小休止することにした。鯛の浦をじっくり見てみたいなと思ったのである。何でもそうだけど、事の真ん中や事件の最中にいるとものがよく見えないものである。鯛の浦も少し離れた所から見た方がその良さが判るのではないかと思った。そして、それはその通りだった。

   

        天津小港:鯛の浦を望む

 その小さな船溜まりは鯛の浦を見るにはぴったりの場所だった。誕生寺も対岸の丘の上によく見えた。鯛の姿は見えなかったけど、覗き込んだ海の色は透き通って、魚の存在などどうでもよいほどきれいだった。これほどきれいな海を見たのは久しぶりだった。マリンブルーという色があるが、この本物がどんな色なのか実は良く判らない。何年か前、北海道松前町の白神岬で見た海も鮮やか紺碧だったが、千葉の近海にもこのようなところがあったのかと、感動を新たにしたのだった。

   

       鯛の浦近くのマリンブルーの海のきらめき

 相棒は船溜まりの岸で岩のりらしい海草を採っていた地元の女性の様子を写真におさめていた。その向うには海に突き出た白い崖があって、その上には照葉樹の森が輝く緑で、がっしりと岩肌を染めていた。少し変な表現だが、この季節の緑の森は、実に逞(たくま)しい。岩のりを採る女性も逞しいけど、この森の樹木には敵わないような気がする。

   

            逞しき照葉樹林

  (わず)かな時間だったけど、久しぶりの碧い海を見て、逞しい緑の森を見て、まだ地球は大丈夫なのではないかと思った。

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房総チョット旅:第4日

2008-02-23 00:01:59 | くるま旅くらしの話

 もう帰ってきてしまった、というのが今の感想である。でも昨日までの調子に合わせて旅()の最終日の報告をしなければならないと思っている。携帯からではないので、写真も載せることにしましょう。

 さて、第4日は只家に向かって帰るだけの行程である。真につまらない時間なのだが、少し余計なことも書きながら終りにしたい。

 道の駅:長柄(ながら)は、昨日は夜遅く(でもないけど、着いた時は昔だったら真っ暗だった)の到着だったので、辺りの様子が良く判らなかった。県道14号線に面した駅舎の駐車場は狭かったので、後ろ側の方へ回って、そこに車を停めたのだった。トイレ近くにも駐車場はあったが、トラックなど大型のスペースが直ぐ傍だったので、これは遠慮するしかない。とにかく余裕のない駐車スペースばかりの印象だった。我々の他には、勿論泊まりそうな車などなく、もしかしたらここに泊まるのは奇跡的なことなのかもしれない、などと思いながら、早めに夕食の準備に取り組む。

 今回はかなり古い歌謡曲全集のテープをMDに入れ替えたものを持参しており、毎晩それを聞きながらの夕食となる。偶には歌謡曲も良いものだ。歌謡曲というのは、歌い手によって随分と受け止め方が違うものだが、今回持参したものは皆本物の歌手の歌声なので、安心して聞くことが出来る。自分よりも下手な歌手()の歌を聞くとがっかりするが、本物はさすがである。裕次郎さん八代亜紀、川中美幸などの歌が中心。その中で何故か増位山の歌が一番多いのが気に入らないのだが、しょうがない。その昔これでも歌謡曲の評論を書いたことがある。島倉千代子論などを書いたこともあった。若気の至りであった。クラシックを聴くのも好きだけど歌謡曲も良い。演歌には日本人のしょうもない原風景が籠められている。今回は毎晩ほうれん草などの野菜鍋で腹を満たしながら、演歌を喰ったという感じだった。相棒が声を上げるのを少し不思議に思った。この人は、歌謡曲のコメントばかりで、声を出すのを聞いたことがない。

 とにかく裏庭の隅っこの駐車場なので、夕食が終われば後は寝るしかない。8時半には就寝と相成る。

 朝起きると道の駅の全容が判ったが、やはり狭苦しい。道の駅のために作られた道の駅なのだという印象だった。大型トラックが2台駐車していたが、とても線引きのスペースには止めることは難しくて、それを無視しての駐車だった。つまりは、最初から現実の状況をしっかり捉まえないままに道の駅の設計を行い、その通りつくったということなのであろう。お世話になったのに、批判的なコメントで申し訳ないけど、この道の駅は、道の駅と呼ぶのにはかなり課題を抱えているように感じた。

 さて、今日は帰るだけなのだが、往路に寄った道の駅:栗源(くりもと)にもう一度寄ってゆくことにしている。この道の駅は、紅小町という名のサツマイモでうっているのだが、その他にもマッシュルームや地産の豚肉などが好評な場所なのだ。相棒の要請を尊重して寄ることにしている。8時40分出発。栗源到着10時半丁度。結構時間がかかった。最大の理由は前を走っている老夫妻の軽自動車が制限速度を大幅に下回って、ずーっと走っていてくれたおかげである。30分近く同じコースを走ってくれたのだが、文句を言うのは困難である。このようなことが旅の中では結構多くある。

 栗源の道の駅は、地産の売店だけではなく、脇に公園もあり史跡(日講上人のかくれ卵塔)などもあって、気に入っている道の駅の一つである。前に一度泊まったこともある。我が家からは3時間足らずの近場にあるのだが、時々来たくなる場所の一つである。ここに着く少し前に倅からメールがあり、明日は孫たちも来るようなので、相棒は少し多めに買い物をしたようだった。

   

   名産品:紅小町などのサツマイモが輝いている売り場

    

   日講上人のかくれ卵塔(=六角又は八角の台座の上に卵形をした塔身を載せた石塔。日本では禅僧の墓などに用いる~広辞苑)日講上人は、日蓮宗の一派で、江戸幕府の虐待を受けたとある。詳しいことはわからない。

  10時半出発。佐原の街を抜け、利根川を渡って、R125を龍ヶ崎方面へ。途中から県道となり、龍ヶ崎市内を抜けて、取手市郊外のスタンドで、空になったLPガスボンベを充填する。ここのガスは日本一安いと思っていたが、今回は200円アップしていた。そのことを確認したら、事務のおばさんが「うちは今まで安すぎたので」と言っていた。どうせ言うなら、「原油高が影響していますので、…」とでも言ってくれた方が判りやすいのになあ、と思った。でも他と比べればまだまだかなり安いので、文句など言うつもりもなくむしろ感謝している。

 ガスの充填が済めば、後は家に向かうだけ。ここからは30分もかからない。帰宅時刻は13時30分丁度。短命の旅ここに終わりぬ、である。はて、旅に命がるのかどうか。その後はいつものように片付けに大童(おおわらわ)であった。

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房総チョット旅: 第3日

2008-02-22 08:27:46 | くるま旅くらしの話
昨夜(2/20)はかなり風が強かった。その分朝は快晴の空が広がっていた。丁度7時頃が日の出だった。横着して野島崎灯台の方へは行かず、車の中で朝食の準備にかかる。パンとお茶だけ。しばらくしたら、昨夜ご一緒したUさんがわざわざコーヒーを淹れて持って来て下さった。多謝。その後Uさんご夫妻としばらく歓談。
Uさんはトヨタの生技にいた方で、車のことについては超詳しい方だった。コストダウンの話などいろいろ伺ったが、それは書かない。
Uさんご夫妻とお互いの再会を祈りながら別れて、館山方面へ。道の駅:南房パラダイスに立ち寄る。途中真っ青な海の彼方に雪を冠した天城連峰が望見でき、感動した。南房と伊豆は近いのだ。道の駅で小休止の後、館山郊外を抜け隣の富浦町の道の駅へ。ここは房州枇杷の名産地だが、今はその季節にあらず、特に目につくものなし。しばらくウロウロした後、次の道の駅:富山へ。ここはハイウェイオアシスとなっており、今のところ千葉県では唯一なのかもしれない。昨日と同じように、特製うどん昼食。好い天気が続いている。南房は温かい。
次はもう一つの道の駅:三芳村へ。ここで相棒は探していた夏ミカンに出会う。南房の道の駅の中では、ここが一番魅力的な場所というのがわかった。房州ミカンの産地でもあり、野菜類も豊かである。相棒はキンカンと蜂蜜を求めていた。
その後、明日の行程を再検討して、急遽変更し、今日再度野島崎に泊まる予定を止め、もっと先まで行くことにした。つまりは、明日帰宅予定なのだが、少し早めに戻ろうというのがこと。それで、今日の内に花を買うことにして、千倉の花畑へ。
相棒は昨日花屋さんと仲良くなっており、その畑へ直行する。この辺の花畑には番号が付られており、20番の落合さんご夫妻の畑が、相棒の向かった場所である。良く手入れされた畑で花も生き生きしていた。花のことは相棒に任せ、近くの道の駅の建物内の海産物屋へ干物を買おうと出向いたのだが、今一気に入らず止めにする。花の方も無事買い終わって出発。
今夜の宿を茂原近くの長柄町の道の駅にすることにして、途中給油する。この辺は油価が比較的安い。救われる。
18時半、道の駅到着。すっかり暗くなってしまった。予想以上に狭い道の駅で、交通量も多い。とにかく早く寝ることにする。今日はここまで。
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房総チョット旅: 第2日

2008-02-21 07:17:18 | くるま旅くらしの話
昨夜(2/19)の冷え込みはかなりのものだった。車内は、冷蔵庫の中の低いレベル状態で、3℃以下は間違いなかった。満月らしい月が澄んだ天空に冴えて輝いていた。朝車の壁は霜で真っ白だった。この辺は千葉県の中です一番寒い場所なのかも知れない。
さて、今日は何処へ向かうか。少し迷った後、オーソドックスな海岸線を南下することにした。勝浦に出て、鴨川に向かう。途中天津小湊の小さな船溜まりに寄り休憩。日蓮の誕生寺に寄りたかったけど、駐車場の確保が困難なのでパス。空は青く晴れ渡り、海も澄んで静かだ。照葉樹の森が逞しく海岸の岩を掴まえて輝いていた。先ほどまでの冬を忘れさす景観だ。相棒は岩海苔採りのおばさんたちの写真を撮っていた。
鴨川では観光案内の地図などを買おうと本屋を探したが見つからず、それは止めにして、夕食の食材などをゲット。今夜は豆腐に登場して貰おう。
鴨川を後にして、少し行った所にある道の駅:鴨川オーシャンパークに寄る。特に興味を引くものはなかったが、地元の漁師の熊谷繁さんという方のデッサン展がひらかれており、これは素晴らしかった。この方の穫った魚で一緒に一杯やりながら、絵の話を伺えたらいいなと思った。
次は真っ直ぐに千倉に向かう。千倉の道の駅に行き大休止の予定、間もなく到着。千倉は南房総の花の中心地の一つだが、ここはその中でも花の本場だ。特製うどんで腹を満たした後は、二人てんでんバラバラに好きな場所で、好きな時間を楽しむ。
今頃の花は、キンセンカ、ストック、金魚草、ポピー、矢車草などが中心で他は知らない。でもそれだけで十分である。相棒は、花売りの元少女や花作りのおばさんなどと話込んでいたらしい。おばあちゃんに気に入られて、カトレアの切り花と胡蝶蘭の小鉢を無料で頂戴してきた。何ということだろか!花は一本も買ってこないのに。
16時過ぎ、白浜にある野島崎の道の駅に向け出発。今日は此処にお世話になる予定。野島崎は先日自衛隊の護衛艦と漁船が衝突したという事故があった場所から近い岬である。今日も幾つもの沖行く船が見えたが、航行の安全を祈らずにはいられない。道の駅は海から少し離れた所にあり、国道からも離れており、静かである。泊まりは自分たちだけかと思っていたら、豊田から来られたUさんご夫妻とご一緒することができた。夕食のあと、2時間余りお越し頂いて、くるま旅のあれこれについて歓談する。我々と同じように北海道など全国を旅されていて、話が合って時が経つのを忘れる。旅の最大の楽しみに出会って、恵まれた嬉しい時間だった。
夜が更けてから風が強くなったが、満天に星が輝く空が広がっていた。
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房総チョット旅: 第1日

2008-02-20 07:05:36 | くるま旅くらしの話
さてどうなるのか?第1日は出発は9時半。先ずは佐原を目指す。我が家からは、利根川に沿った道を下流にひたすら走る。途中急に道が細くなって焦ったりしたが、無事に佐原近くの国道に出る。相棒が潮来の道の駅に寄りたいというので、急遽反対方向の鹿嶋の方へ。ところが、前にも来ているのに、道を間違え手間取りバカにされる。
道の駅で軽く昼食。その内容と言えば、お湯を沸かしお茶を淹れ、道の駅で買ったおにぎり二つ。美味なり。それで終わり。
佐原はわかりにくい街中だ。駐車場を探すの苦労する。観光協会に教えて頂いて、山車会館の駐車場に。ヤレヤレ。
そのあとは、個別行動。佐原の原風景の小野川河畔の散策の他、中心市街地を2時間ほど歩く。佐原銀座は東京とは違って、寂れていた。昔のメイン商店街の殆どはかくのごとし。やはり、ここも同じだった。
3時過ぎ道の駅栗源(くりもと)に向け出発。ここに泊まろうかと思ったのだが、早過ぎるので次の候補地の睦沢の道の駅に行くことにした。その前にここで名産のベニコマチなどのサツマイモをゲット。なるべく小ぶりの物を選ぶ。
その後はひたすら運転に専念。この間相棒はコックリコと船を漕ぎ続ける。東金、茂原と過ぎ、さてさて、そこから先は再び道に迷って、結局睦沢の道の駅を見つけることができず、相棒に重ねてバカにされる。曰わく、「どうして、間違えるの?」「バカもん!わからないからに決まっているじゃないか」 実に腹が立つ。迷う楽しみをむげにされるのは、腹が立つ。ホントは己に腹が立つているのだけど。
と言うわけで、今夜の泊まりは道の駅大多喜となった。夕食はデラックスな野菜鍋。ほうれん草をタップリ腹に入れたけど、明日の朝の空腹に耐えられるだろうか?今日はこれで終わり。
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