山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

薔薇一輪の反省

2019-11-28 15:58:04 | 宵宵妄話

 今年もあと1ヶ月余となった。昨年の今頃は、来年は春が来たら東北を訪ねるかそれとも久しぶりに四国や九州の方を巡るか。そして今年の夏の北海道行は少し遅らせて短い秋の黄葉を見てみたいなどと思いを巡らしていたのだが、それらの思いのあれこれは全て消え去ってしまった。

 というのも2月の終りになって突然自治会の役員の仕事が回って来て、会長という役回りとなってしまったからである。せめて半年くらい前に予知されていたのなら、そのような夢など描かなかったのだが、任期開始の僅か1ヶ月余前の出来事だったのである。自治会の運営にはそれまで全く関心がなく、当番が回って来るのはもう少し先のことと考えていたから、これは寝耳に水の事件だった。

 我が町内の自治会役員は、三役(会長・副会長・会計)も班長も全て1年任期の交代制で、夫々選任のルールは一応決まっているようなのだが、運用のあり方に曖昧さがあり、特に交替引継ぎのタイミングについては前任者の任意に任せる様なところがあり、今回のように直前になって申し送るというようなやり方での引き継が慣習となって来ていたようなのだ。

 今さら愚痴を言っても始まらない。とにかくこの地に住んで15年間、地元に対して何の貢献もしていなかったので、これが最後の地域貢献のチャンスと覚悟して、3月以降その準備に取り組み4月からの本番は、もはや旅のことなど考えずにこの一年をこの仕事に集中することにした。

 この仕事は、要するに同じ町内に住む人々の暮らしの安全と安心を確保し維持するというのが活動の核ということになる。会長の実際の動きとは、使い走りの小使いさんのようなものである。会員からの問題等の申出でがあれば、その関係先に出掛けて行って解決の折衝や依頼をするとか、会員が必要な情報を可能な限り漏れなく共有できるように連絡や報告に務めるとか、細かいことを疎かにせずに一つずつこなすことと覚悟して取り組んできた次第。

 考えてみれば多少煩わしく面倒くさいところもあるのだけど、普段くるま旅などにうつつを抜かして、地元のことにはほぼ無関心・無知の状態だった自分には、結構面白い発見もありそれなりに得るものも少なくなかったように感じている。何か特別な出来事でもない限り滅多に訪ねることのなかった市役所にも何度も足を運んで、その役所の中がどうなっているのかも凡そ見当がつくようになったし、職員の人たちの仕事ぶりもそれなりに理解できるようになった。これらの中には同感する部分と批判しなければならない部分とが混同しているけど、少なくとも無関心という姿勢は無くなって来ている。これは、今後の一市民としてのくらしの中で大いに参考になる経験・体験だったと思う。

 あと4ヶ月余の時間が残っており、そのメインの仕事は、如何にスムースに次年度の役員の方たちに仕事を引き継ぐかということである。選任のタイミングも今までのやり方よりも少しでも早めるようにして、自分が体験した戸惑いの時間を少なくするように努めたいと思っている。

 ところで、そのような忙しない年末なのだが、話は変わって、薔薇の花のことになる。何と今頃の、もうすぐそこに冬が来ているという季節、庭の二つの大鉢に植えている薔薇の木の一方に、一輪の花が咲いているのに気づいた。2階に住むようになってからは、庭の樹木たちの観察が疎かになってしまっているのだが、今年は自治会の仕事をするようになってから特に疎遠さが増し、心の余裕が少なくなった感じがしている。

薔薇は10年ほど前に、この花が好きな家内に謎をかけられて、何年間か毎年1鉢ずつ買って来てプレゼントしたのだけど、手入れが難しくて、残っているのは大鉢に移し替えた2本だけ。枝が上の方に伸び過ぎて扱いにくい形となっていて、些かもてあまし気味で、内心処分したい気持が続いていた。ところがこのバラたちは、そのような悪意的な気持ちが膨らみ始める頃になると、どういうわけなのか1~2輪花を咲かせるのである。まるでこちらの心の内を探り知っての振る舞いであるかのように。そして花が咲くとそれを見つけた家内はすぐさま切り取って家の中の花瓶などに生け飾ってしまうのだ。

 今回も冬が近づいて庭の整理をしようかと思い、さて、薔薇はどうするかと考えていたら、たった一輪大急ぎで花を咲かせたのだった。家内の切り取って来たその一輪をテーブルの上で観ながら、我が忙しないこの一年の振る舞いと来し方を振り返ったのだった。やはりこの薔薇を処分するのは止めるべきだなと思った。

        

庭先の痩せた木にたった一輪咲いた薔薇の花。忙しなさの中に我を忘れていた自分を諌められた感じがした。

 

 

 

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消費税値上げ便乗の騙し打ち

2019-11-15 22:58:43 | 宵宵妄話

 数日前、北海道の親しき知人からジャガイモとかぼちゃが送られて来た。大きな袋に入った、かなりの量と重さだった。十勝にお住いの知人は、知りあって以降毎年律儀に名産の芽室メイクイーンを送ってくださっている。というのも、自分がジャガイモ大好き人間で、毎日、朝昼晩とジャガイモを食べていても決して飽きないほどなのだということを知ってくださっているからなのである。こんなに重いものを送るのは大変なことだろうと思いながらも、その心情が嬉しくて、また本当にそのジャガイモが美味いのをありがたいと甘えている次第。長年旅をしていて、北海道には何人かの、このジャガイモ大好き人間の理解者の方がおられて、自分は本当に幸せ者だと思っている。おかげさまで我が家では一冬ジャガイモに困ることはない。真にありがたく嬉しいことだ。

 さて、話はジャガイモのことではなく、日本郵便のことである。嬉しい気持に浸りながら早速お礼の手紙を書いて投函したのだが、今日あたり届く頃かなと思っていたら、何と郵便受けに付箋付きでその手紙がそっくり戻っていたのだ。何だろうと思いながらその付箋を見たら、なんと料金不足だと書かれていた。手紙の料金が82円になったのもハガキが62円に値上げされたのもつい最近のことかと思っていたので、料金不足という付箋は寝耳に水の一方的な宣告に思えた。この頃一頻り不正な働き方を強制しているという話題で簡保問題が騒がれたが、日本郵便は、今度は抜き打ちで料金値上げを敢行したのかと、疑念と共に怒りが湧いて来た。

 それで、どういうことなのだと調べてみたら、この10月から消費税の値上げに合わせて郵便料金も値上げになったということだった。消費税のことは大騒ぎだったので承知してはいたのだが、郵便料金までが便乗するというのは全く知らなかった。マスコミもほとんど触れていなかったようで、TVも新聞でもその話を殆ど耳にしていない。郵便局にもそのような張り紙がしてあったかどうか記憶にない。消費税と同じように10%の値上げなら、82円の郵便料金は90円くらいになる筈だから、84円ということで2円の値上げに止まっているのは、もし同じ消費税という範疇なら良心的と言えるのかも知れない。しかし、郵便料金というのは消費税の対象となるのかどうか、今一よく判らない。だからこれは便乗値上げなのだと思うしかない。何だかどさくさにまぎれて騙されたという感がしてならない。 

 僅か2円の値上げなのだから、つべこべ騒ぐなということかもしれないのだが、届く筈の手紙が戻って来るというのが気に食わない。しかも直ぐに戻るならまだしも、彼の地に届くかなと思っていたタイミングで戻って来るのだから、腹が立つ。直ぐに追加料金を払って再投函したのだが、届くまでには当初思っていた倍以上の時間がかかることになる。メールやラインなら直ぐに届くという今の時代に、如何にも時代遅れのアナログ行為で腹を立てているというのは、老人の特性のようなものと失笑されるのかもしれない。

手紙を書くという行為は、メールはまだしもラインなどでチャラチャラ身勝手はセリフを吐くのとは違うのだ。少なくとも寸言的な感情の露出などではなく、何度も何度も相手の気持ちを考えながら自分の気持ちを伝えようと考えての行為なのだ。だから、届くタイミングも大切なのだ。それなのに、それなのに遅らせて尚料金を払えというのである。知らなかったのが手落ちということなのだろうけど、今回の郵便料金の値上げは、事前のPR行為も無かったと言ってよいほど不足していて、善良な多くの庶民を騙し打ちにしている。

どうしても黙って我慢している気持にはなれなかった。郵政が民営化されたからといって、国政に便乗して善良な庶民を騙すような行為をしてはならない。蟷螂の斧なのは知っているけど。

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天命に従う

2019-11-10 03:13:20 | 宵宵妄話

ここ十年ほど、毎年健康診断でPSAの検査をして貰っているのだが、年々その数値が上昇して、今年はとうとう10.3となった。この数値は癌となる確率が60%を超えているという。昨年は念のため生体検査をして貰ったのだが、結果は異状なしとのことだった。今年は診断の前にMRIによる造形剤を入れての検査を受けたのだが、結果は癌の影は見出せなかったという。再度生検をしますかという医師の話には即座に「ノ―」と返答した。1日半入院のあの検査はもうコリゴリである。なにしろ下半身の部位を扱われるので何が何だか判らず、退院してみればしばらくは血の小便が続いて、何とも不愉快極まりない検査なのである。この経験から、次に入院するのは癌が見つかったときにそれを取り除いて貰う時だと決めている。

自分の親兄弟で、癌になったという話はまだ聞いていない。両親は既に他界しているけど、二人とも癌との係わりはなかった。弟や妹からの話も聞いていない。してみると、もし近々癌が見つかったとしたら、我が家系では自分が先駆者となるのであろうか。長男であり間もなく傘寿を迎える歳回りだから、先鞭をつけるのも、ま、いいか、などと思っている。  

癌については、もう何人もの哀しい顛末を見て来ている。もし自分がその立場になったらどうするかを考えたことも何度もあった。しかし、幸いなことに今までそれに近づくような健康上の問題は起こらなかった。それがここ数年でどうやらそれらしき病魔が近づいているようである。不気味といえば不気味だが、この頃は居直るかの様にいざという時の覚悟が固まって来ている。

医療の進歩は、かなりのスピードで人命を救ってくれているようで、最近は癌といってもいきなり絶望感を抱くようなことは少なくなった。仮にステージ4と宣告されても、直ぐにあの世に行くということではなくなっているようだ。ま、例外はどこにでもあるから、安易な安堵感は役には立たないのだと思うけど、簡単には死なないのだと思うと、少しホッとする部分はあるのだと思う。

まだもう少しこの世でやり残していることがある。どんなに長い時間生きたとしても、完ぺきにやり終えるなどという人生はあり得ないだろうから、ま、今すぐあの世に旅立っても、あと10年生きていても、それほど大きな差はないのかもしれない。それなのにもう少し生きていたいと願うのは、人間の欲というものなのであろう。この欲がある間は、やり残しというのは問題なのだと思う。自分にはまだこの欲が残っていると思っている。

しかし、欲を張ることはほどほどにしたいと思っている。人生というのは有限であり、いつかどこかで終りがやって来るものだ。だから、それがやって来た時には、素直に認めなければならない。どんなに欲を張ってもそれに逆らうことはできない。それは天の定めたものなのである。天命には素直に従うしかない。

この頃は人生の終わりのことを考えるようになった。80歳を一区切りとして、24時間の人生時計を動かして来たつもりでいる。人生80年の1年は、時計表示では18分となる。18分を80回繰り返して80年となるのだ。この時計では、自分の人生はあと20分足らずで24時のゴールを迎えることになる。しかし、未だ少しは生きて行けるような気がする。そこから先は余慶の時間だと思っている。この余慶の時間を迎えたなら、その先は欲を張らないで小欲を満たしつつ天命に従うしかない。それは最早自分の中では不動の覚悟となりつつある。

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