山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

真老の坂を一歩下って(今年の反省など)

2016-12-24 23:24:41 | 宵宵妄話

今月、為す術も無く又一つ馬齢を重ねて、真老世代の歩を進めることになった。12月は自分の誕生月である。この歳になると歩を進めるといっても、前に行くことでも上ることでもなく、ただ下ることだけである。下りの一歩は速い。筋力の衰えた老人には、つまずく危険性がますます高まる。これからは努めてゆっくりと歩くことを心がけなければならない。誕生日の感慨はそのようなことしかない。

毎年誕生日が巡ってくると、合わせて年の瀬が迫ってくる。12月というのは、一年を総括して締めくくるという月でもある。しかし、この一年には総括するようなことは殆ど無かったような気がする。それでもやはり振り返りは必要であろう。

 今年の最大の出来事といえば、やはり義母の死ということになると思う。10年もの闘病の暮らしを、よく耐えて頑張った母だったが、ついに来るべき時が来てしまったという感じだった。それにしても過酷な長い時間だった。過酷というのは自分にとってではない。何よりも母本人にとってである。それゆえに最後の時を迎えた以降も、なぜか悲しみの思いは少なく、むしろその過酷な時間が終わって良かったね、という気持の方が大きかった。不謹慎かも知れないけど、それが正直なところなのである。天国の母は、今は正気に戻って、いつものようにお節介をしたがっているに違いない。これからは、天国から送られてくるそのサインを、しっかり受け止めて生きてゆかなければならないと思っている。

 旅については、春に東北のエリアを、秋には越後と信濃の街道を訪ねる旅を、そしてその後に京都などを訪ねる旅をしたのだが、いずれも1カ月にも満たない短い期間であり、ホンの僅かの刺激しか見出せなかった。それでも、もう一度訪ねなければならない場所が幾つか見つかり、これは来年以降の楽しみとなっている。

2年連続で断念した夏の北海道の旅は、母のことなどもあって、これはもう仕方のないことだった。来年は少し早目に出掛けて、野草の花咲く天国を散策するなどして、北海道を旅する感覚を取り戻すようにしたいと思っている。 

 このブログについては、真に不調だったと思っている。旅の記事が少なかったのは仕方のないことなのだが、それ以外のものも含めて、どういうわけなのか書く意欲のようなものが萎んでしまい、或る種のスランプに見舞われてしまっているようである。それは今現在も続いており、何とかしなければならないと思っている。ま、このような時もあるのだろうと、それほどスランプ脱却にもがいているわけでもなく、己の心の回復を待っている状況である。

 総じて後退的というか、沈滞的というのか明るさの欠けたこの1年の自分だったけど、唯一の楽しみは同じ屋根の下に棲む二人の孫たちの成長を見ることだった。

上の男の児は満2歳半を過ぎて、来年の春には幼稚園に入ることとなる。話すことばもおぼろながらその大要が判るようになり、いろいろと知恵も働くようになってきたようだ。生きて動ける間は、孫には可能な限り自然界の中での様々な体験をさせてやりたいと思っているけど、これからが楽しみだ。

下の女の児は、満1歳を過ぎて直ぐにヨチヨチ歩きを始め、今では2階の我らの住まいまで、自力で階段を上がって来てしまうまでとなった。それを防ぐために、階段の入口に親たちが用意した障害物が並べられている。親たちの気づかぬ間に一人で行ってしまったら危険なので、それを防ぐためにとられた手段なのだが、この児は強力の持ち主なので、間もなくそのような障害物は払いのけてやってくるに違いない。2階へ来ての楽しみは、探検にあるようだ。ジジババの暮らす世界には、自分たちが暮らしている世界とは違う物が幾つも点在しており、それを確認するのが楽しみとなっているようである。その動きを見ていると、今まで、孫に向かって「かわいい」などといったことはないジサマなのだが、この孫娘にだけは、それを言ってしまっている。じつにカワユイのである。

二人の孫には感謝したい。

 間もなく今年も終わりとなる。今まで正月を外で迎えたことは無かったのだが、今年は小さな旅の中で迎えたいと考えている。来週から天気の様子などを見ながら、房総エリアを訪ねることにしている。ゆるりと道を辿って、南房総の辺りで数日を過ごし、4日ごろまでには戻って来たい。野島崎辺りで、元旦の日の出が見られたらいいなと思っている。

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二人の母に思う

2016-12-20 05:17:38 | 宵宵妄話

結婚している間は、誰でも二人の母を持つことになる。すなわち、実母と義母の二人である。この二人の存在は生きていても亡くなっていても絶対的な存在であり、現在の生死とは無関係だ。どんな人にも、生まれる前には産んでくれた母がいるからだ。人は母がいなくても育つことはできるかもしれないけど、母無しで生まれることはできない。それゆえに母というのは偉大な存在なのだと思う。

私にも二人の母がいる。実母は22年前にこの世を去り、義母は今年の10月に幽界に旅立った。だから、今は「二人の母がいた」という書き方が正しいのかもしれない。この二人の母のことについて、少しく書いて見たい。というのも、この二人の母からはたくさんのことを学ばせて貰ったからである。その学びの中で最大のものは、一つは生き方であり、もう一つは死に方であったと思う。この歳になると生き方は一方的な反省となり、死に方は間近な課題となっている。

実母の生き方は、文字通り身をすり減らすという過酷なものだったと思う。兼業農家の柱として、朝から夜遅くまで農業に勤しむ傍(かたわ)ら、三度の食事を初め全ての家事をこなし、五人の子どもを育てたのだった。その暮らしの中には、楽しみというものはほとんど存在しなかったように思う。晩年になって、多少は旅行などにも出かけられるようになって、僅かに人並みの楽しみを味わえる時もあったのだと思うけど、それはむしろ時代そのものが母にプレゼントしてくれたものだったのかもしれない。そのような母に報いることが少なかったのは、親不孝以外の何ものでもない。後悔先に立たずというのは、まさに母に対する己の不徳の指摘以外の何ものでもないように思う。

この母から学んだことは、良い意味でも反面の教えとしても、今までの自分の人生を築く基盤となっていることは間違いない。楽しみの少ない人生は、苦しみを楽しみに転換させる力をもっており、母はそれを実現・実行した人だと思っている。足を地に据えての人生の歩みが何よりも大事だということを母からは数多く学んだと思っている。

この母の死は、突然だった。くも膜下出血で倒れたとの知らせに、東京から直ぐに水戸の病院に飛んで行ったのだが、病院に母の姿は無く、退院したのかと実家に行ったのだが、早や母は幽界に旅立っていたのである。死に目にも会えないという、そのことばの意味するものの厳しさを実感させられたのを覚えている。それは悲しみを超えた反省だった。しかし、母の突然死は、後期高齢者のこの歳になると何故か一つの憬れのような感覚となって来ている。不謹慎なのかもしれないけど、死に行く者としてのそのあり方は、必ずしも悪くはないな、という思いなのである。

 

さて、もう一人の母(義母)も自分にとっては、その生きざまにおいて多くを学んだ人だった。ある意味では実の娘である家内以上に、この母から学んだことは多い。結婚して2年目の記念日に、あろうことか家内の父(義父)が亡くなったのである。4人姉妹の長女の家内以下3人の娘たちを残して、である。結婚していたのは家内だけで、末の妹はまだ高校生だった。そのような突然現れた厳しい環境の中で、その後も母はめげることなく、持ち前の明るさと生きる知恵とを発揮して、3人の娘を育て、嫁がせて、それぞれの家庭を見守り続けて、しっかりと自立させたのだった。この母のパワーは実母とは又違った意味で、学ぶことが多く、尊敬できる存在だった。この母もまた楽しみよりも苦労の多い人生だったと思う。しかし、この人の凄さは苦労を決して他者に見せないことにあったように思う。これは簡単なようで並の人間には出来るものではない。大して苦労もしていないのに、他者に苦労を自慢げに話すような人がこの頃は増えて来ている感じがするのだが、本当に苦労をした人はその苦労を決して他者に話したりしないものだと自分は思っている。

その母は、還暦を過ぎた頃に大病に取りつかれ、オストメイトの身となってしまったのだが、そのハンディを克服して傘寿(80歳)を超えても同じ仲間の集う会の役員などを勤めて元気だった。ところが、自分の年齢を気にして、後輩に役を譲ると決めて会を辞してから以降は、急速に物忘れがひどくなり、やがて認知症という病に取りつかれる結果となってしまったのである。人がやりがいや生きがいを無くした時に、この病は一気に取りつくような気がする。恐ろしいことだ。

それからの、この世を去るまで10年間という時間は、大へんに厳しいものだった。人を人として支えているものの全てが、一つずつ壊れて行くのである。記憶も思考も運動の力も失われてゆくのである。この病の恐ろしさは計り知れないものがある。そのような母の姿を見るのは、耐えがたいほどに悲しいものだった。特に寝たきりになって病院のベッドに身を横たえるだけとなってしまった頃からは、見舞いに訪れても、もはや声をかける勇気も無く、遠くからそっと見守るだけだった。プライドの高い母だけに、そのような姿を見せたくないという気持が強く訴えて来ているような気がして、声が出なかったのである。そのような振る舞いの良し悪しは、他者から見れば不可解なのかもしれないけど、自分にとっては、見守るだけが出来ることのすべてだったのである。

その母も力尽きてこの世を去って行った。本当に可哀相な長い闘病の時間だった。この間に母が教えてくれたことはただ一つ、決してこの病だけには取りつかれるな、ということに尽きると思う。あんなにエネルギッシュでバイタリティに富んでいた母が、このような最期を迎えるとは想像もできないことだった。どんなに惨めで苦しかったことか。その母の思いが解るような気がするのである。身を以てその病の厳しさを教えてくれた母に対して、その子どもたちは同じ病の道を辿ることがあってはならないと思う。生きる力の源となっている生きがいややりがい、張り合いなどを失ってはならないのだ。母はそのように教えてくれているように思う。

 

生き方と死に方について、二人の母の残してくれたものは大きい。あと数年過ぎれば我が身も傘寿を超えるのである。自分的には「死計は老計の中にあり」と思っているけど、その実践はまさに今をどう生きるかにかかっている。もはや二人の母も二人の父もこの世にはいない。最後の母を見送り、四十九日の法要を終えた後、改めて父母の残してくれた教えに思いを巡らせたのだった。

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京都他短か旅:第7日&第8日(最終回)

2016-12-04 04:21:13 | くるま旅くらしの話

第7日<11月24日:木> 天気: 雨のち曇り

 <行程>

 道の駅:飯高駅 →(R165・R368・R24)→ 勢和多気IC →(伊勢道・東名阪道)→ 御在所SA →(東名阪道・伊勢湾岸道)→ 刈谷HO →(伊勢湾岸道・新東名道)→ 長篠設楽原PA →(新東名道)→ 浜松SA →(新東名道)→ 森PA →(新東名道)→ 静岡SA(泊) 走行282km

 <レポート>

 今日からは完全に帰途のコースである。特に書くことも無いのだが、一応途中で寄った場所で気になったことなどを書きとどめておくことにしたい。

先ずは雨降りの中、飯高駅を出発する。旧飯高町のこの辺りはお茶の生産地で、道路の両脇には手入れの行き届いた茶畑が広がっていた。ちょうど今は茶の花の開花時期なのか、茶の木の畝の所々に白い花が見えていて、ああ、あの木たちもしっかり生きているのだなと思ったりした。しばらく農村エリアを走って、間もなく勢和多気ICが近づく。高速に入る前に燃料タンクを満タンにする。高速道SAの給油所の価格は、何故なのかリッター辺り20円以上も高くなっている。何時も抱き解けない疑問である。

勢和多気ICから伊勢道に入り、そのあとは東名阪道、伊勢湾岸道と順調な流れに乗って高速走行となる。天気は相変わらずはっきりしないが、雨は降ってはいないようで、何よりも風がないのが幸いだった。高速走行時の強風にはこのSUN号は超弱いのである。路面がかなり湿っているようなので、慎重に運転を続ける。

間もなく刈谷ハイウエイオアシスに寄り、ここで少し休むことにする。このハイウエイオアシスは必ず寄る所で、今回来るときにも寄ったのだが、今日は土産にエビせんべいを買うことにしている。各地にいろいろなせんべいがあるけど、名古屋のこのエビせんべいは他のせんべいとの差別化がきちんとできており、エビだけではなくそれに加えて何種類かの味の追加がなされており、いつも感心してしまう。百年一日の如く同じせんべいを作り続けることも一つの方法かもしれないけど、事業拡大のためにはやはり創意工夫が不可欠だと思う。ここのエビせんべいはそれを見事に実現していると思った。

刈谷を出た後は、少し走って新東名道に入る。今日の宿はこの新東名道のどこかのSAにしようと考えている。というのも、昨日からのニュースでは、関東エリアにはかなりの降雪があり、夕刻になると路面凍結の恐れがあり、無理して今日中に帰宅するのは止めることにしたのである。松阪市辺りでも昨夜はかなりの冷え込みがあったけど、未だ雪を見るには至っていない。恐らく御殿場辺りに行けばかなりの積雪があるに違いない。明日は晴れるというけど、道路の状況を確認しながら遅い出発をと考えている。

来た時と同じ浜松SAにしようかとも思ったのだが、着くのが早過ぎて結局今日の泊りは静岡SAとすることにした。新東名のSAの駐車場は、一般車とトラックとがきちんと分けられているので、ありがたい。15時頃に着いて、そのあとはこの旅の最後の長い夜を迎える。

 

第8日<11月25日:金> 天気: 晴れ

 <行程>

静岡SA →(新東名道・東名道)→ 足柄SA →(東名道)→ 海老名SA →(東名道・首都高・常磐道)→ 谷和原IC →(R294他)→ 自宅   走行227km   [8日間の総走行距離 1,493km]

 <レポート>

旅の最後の朝を迎える。今日は予報通り天気の方は大丈夫のようだ。未だ雲は残っているけど、空の半分以上が青空になっているので、追って晴れ渡るようになるだろう。久しぶりの晴天である。御殿場辺りが通行止めという表示も無いので、それほど出発を遅らせることもあるまいと、9時少し前にSAを後にする。

少し走ると清水PAの手前あたりから、左方に白雪を冠した富士山が見えるようになった。久しぶりの間近に見る富士山の山容である。その雄大さ、荘厳さにはハッとさせられ、心を打たれるものがある。そのあともしばらく見え隠れたりしながらの走行だったが、これは御殿場近くの足柄SAまで続いた。御殿場辺りからは道の両側にかなりの積雪がそのまま残っているのが見えるようになった。半端ではなかったのだなと思った。SAでしばらく休憩した後、東京方面に向けて出発。

最後の休憩を海老名SAでとって、そのあとは只管我が家を目指す。東名が終わりになり、首都高に入る辺りから渋滞に巻き込まれる。そのあとも何箇所か渋滞があって、東京を横断するのにかなりの時間とストレスが溜まった。毎日このような渋滞の中を車を運転しなければならない仕事の人たちは大変だなと、改めて思った。ようやく常磐道に入って、谷和原ICで出て、我が家への到着は13時半ちょうどだった。やれやれである。足かけ8日間、総走行距離1,493kmの旅だった。

 <旅を終えて>

今回の旅には次のような主な三つの目的があった

①  新しく交換したバッテリーの機能を確認すること

②  駐車の難しいエリアの訪問探訪にパーク&ライドの方法が上手くできるかどうかにトライすること

③  孫たちに関西エリアの秋の味覚(ミカンと柿)を持ち帰ること

半ば思いつきの旅なのであるけど、ふと息抜きがしたくなったというのが本当の理由なのかもしれない。

 僅か8日間の旅は、往復に4日間ほどを要して、旅の半分はただの移動の時間となったのは残念である。往復に4日間もかかる旅ならば、普通は1ヶ月くらいは旅を楽しめるものを。このような旅の仕方は今まであまりしたことがないのだけど、長いこと遠出を制限せざるを得ない事情があったので、それから解放されたことを実感したかったのかもしれない。

 さて、旅の三つの目的だが、先ずバッテリーの方は何の問題も無く、夜間などかなりの長時間使用しても警報が鳴るなどという事態は招来しなかった。これからの旅では困惑することはあるまいと思う。それから3番目の孫たちへの土産のミカンや柿については、一応の目的は果たしたと思う。ミカンについては、もしかしたら少し時期尚早の嫌いがあったのかもしれない。最盛期は12月に入ってからということなのかもしれない。でも、ひとまずは先ずそれなりに美味しいミカンをゲットできたし、又柿の方も満足のレベルだったと思う。

 三つの目的の内、最も重要なパーク&ライドについては、これだけは満足のゆくものではなかった。その理由の最大のものは、パーク地として選んだ道の駅:びわ湖大橋米プラザが探訪先の京都市内からは少し遠かったということか。加えて時期も悪かった。秋の京都の最も訪問者の多い場所を探訪先に選んでしまったということも、ライドの煩わしさに加えて失望感を膨らませた結果となってしまった。二人分の交通費を合わせると、多少駐車料が高くても何とか訪問先に近い場所に駐車場を探して留めた方が得なのかもしれない。当初は、くるま旅の中に新しい旅の仕方を付加できるのではないかと考えたのだが、これは少し甘かったようである。

 京都の古寺や史跡の探訪を旅のテーマとする時は、パーク&ライドなどといういわば苦し紛れの方法にすがるのではなく、訪問先の選定に合わせて、べスト思われる訪問の仕方を慎重に工夫することが大切なのだということを実感した。これは当たり前といえば当然のことなのだが、その実践はなかなか難しいことなのである。まだまだ訪ねたい場所はたくさんあるので、これからの課題として考えて行くことにしたい。

 その他、今回の旅では特に思い出となるようなものは無かった。ただ、九度山の道の駅に泊った際に、静岡から来られたというご婦人から声を掛けられ、自分のブログのファンの方らしく、書いている自分よりもその内容をよくご存知のようなので、これには驚かされた。見知らぬ人から親しげに声をかけて頂けるというのは、芸能人ならずとも、ありがたくうらしいことではある。このところブログの方はかなり雑になって来てしまっているけど、ここは気を取り直して、原点回帰を図って取り組む必要があることを強く思った。(終)

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京都他短か旅:第6日

2016-12-03 08:41:28 | くるま旅くらしの話

第6日<11月23日:水> 天気: 曇り

 <行程>

  道の駅:柿の郷くどやま →(R24・R370)→ 道の駅:宇陀路大宇陀[奈良県宇陀市] →(R370・R165他)→ 室生寺参詣・探訪[奈良県宇陀市] →(R165・R370)→ 道の駅:宇陀路大宇陀 →(R166)→ 道の駅:飯高駅[三重県松阪市] 走行141km

 <レポート>

朝になった。静かである。外に出たら、どこからなのか外国から来た若い男性からおはようございますと声をかけられた。どうやら高野山にでも上る予定らしい。若い時にこのような体験を積むことは、あとで人生の大きな財産になるに違いない。いいなと思った。

さて、今日はどうするか。当初の予定では真田一家の暮らしの跡などを辿ることにしていたのだが、天気予報では今日は曇りらしいのだが、明日は雨になるという。明日は室生寺に参詣しようと思っていたのだが、雨になるとちょっときついなと思った。昨日読んだ資料などからは、真田一家の遺跡などはそれほど多くはなさそうだし、急ぐ必要もないので、今回は止めにすることにして、室生寺参詣を優先させることに決めた。室生寺は何度も訪れているのだが、今回は特に家内の要望が強い。というのも京都での古寺参詣では何か満たされぬものがあり、改めて本物のお寺の風情を味わいたいと思ったのであろう。それは自分にとっても同じような気持なのである。

ということで、あっさり予定を変更して室生寺へ向かうことにして出発。京奈和道で五條まで行き、そこからR24、R370などを通って、途中の道の駅:宇陀路大宇陀に寄り、昼食用の柿の葉寿司をオーダーする。帰りに寄って受け取ることにした。これらはすべて家内の係わることで、どういうわけなのか今回は特に柿の葉寿司に取りつかれているようだ。実は昨日も手に入れて夕食に供したのだが、家内にはモチモチしていて食べにくいとかで、結局自分一人で全部を平らげてしまったのだ。そのことがあってか、こだわるのであろう。

その後榛原町の判りにくい道に惑わされながら、少し手間取って室生寺近くの駐車場に着く。思ったよりも空いていたので安堵した。早速参詣に出向く。入口の室生川にかかる太鼓橋の上から紅葉を見る。もう最盛期は過ぎたようだけど、未だ魅力は残っているレベルだった。拝観料を払って境内の中に足を入れる。室生寺はいわゆる女人高野と呼ばれていることでも有名だ。参詣に関して男と女を区別したり、差別したりするというのは、衆生一切を救うのを目的とする仏道の世界では、邪道のように思うけど、それが当たり前という時代があったのは事実であり、人間というのは、どうでもいいような理屈をこねまわして、格好をつけたがる生き物なのだなと、ここへ来る度に思うのである。

     

室生寺山門の雄姿。この門を潜ると浮かれた心も、悩む心も何か厳かなものに包まれて、安心の世界に一歩が踏み出せるような気持ちになる

大きな石段をゆっくり上ると正面が金堂でその脇に御勒堂がある。いずれも背景に紅葉の樹木を控えて、いつものような静かな佇まいだった。更に少し石段を登るとそこに本堂があり、少し上の左の方に国宝の五重塔が形よく鎮座していた。いつもと同じ景観がそこにあった。それぞれにお参りした後は、奥の院まで往復することにして先に進む。

     

室生寺の金堂に至る石段の紅葉。大きな自然石を組み立てて作った石段には、過去この石段を踏みしめながら登った人たちの、一つ一つの思いが浸み込んでいるような気がした。

     

国宝の室生寺五重塔。台風で杉の大木の倒木が直撃して壊されて修復してからは、若々しい彩の存在となった。小型の愛らしく美しい置物のような感じにとらわれるのは、この塔が女人高野と呼ばれるシンボルであるからなのかもしれない。

石段は次第に急になり出し、家内の足は大丈夫かと気になったが、それは本人に任せてマイペースで上り続けることにした。2千段の石段昇降をやって以来、この程度の石段にはさほど大変さを感じなくなっているのは、効果が出ているということなのだろう。間もなく上り切って御影堂に着く。ここには納経帳を持った人たちが列を作っていた。今頃は納経が又流行り出したのかなと思った。お経も読まず、書くことも無く、ただ寺の毛筆サインとスタンプを押して貰うだけで、御利益があるのだから、そのような振る舞いがあってもいいのかもしれない。仏様は寛大だから微笑みなが見守ってくださっているのであろう。

絵馬堂のような建物の反対側に行くと、そこから室生川の刻む渓谷のせせらぎが聞こえて来た。谷間の向こうには小さな集落のたたずまいを見下ろすことが出来る。紅葉の彩の向こうの景色は心を落ち着かせてくれるものがある。しばらく待って、納経所の方に行ったら、既に到着した家内が坐っているのを見つけて、何だ、何でもなかったのかと不思議を感じた。このような場所に来ると、別人の力が備わるのかもしれないと思ったりした。

少し休憩した後、深山の空気を味わいながらゆっくりと下山を開始する。この谷間には天然記念物の暖地性シダの群落があり、杉の大木も多くて、空気は浄化されている。足元に注意しながら下山を楽しんで、五重塔まで来て、ここで家内とは別れて自分は先に戻ることにした。家内の方は金堂に鎮座する仏像などをじっくり愛でるとのこと。広い境内を寄り道をしながら歩き回って、間もなく車に戻る。

やはり室生寺に来て良かったなと思った。先日の京都のお寺とは雲泥の差がある。京都だって蟻の行列がなければ、それなりに落ち着いた雰囲気が醸されるに違いない。だから不満や愚痴を言うのは至当ではないのだが、あの蟻の行列では、もはやお寺ではなくなっており、ただの観光客用のジャパニーズ寺院となってしまっている。室生寺もそれなりに観光客は多いのだけれど、深山幽谷の趣があるから、蟻の行列はここまではやって来ないのではないかと思う。京都の寺院を気の毒に思った。

室生寺の参詣を終えた後は、もう本番の帰途につくだけである。今日の泊りは、この後道の駅:宇陀路大宇陀に寄ってオーダーしている柿の葉寿司を頂いたあと、伊勢街道の一つとなるのか、和歌山街道というのか、のR166を通って松阪市に入り、道の駅:飯高駅に泊ることにしている。道の駅:飯高駅には温泉施設も併設されていて、その湯の素晴らしさは良く承知している。今回もその恵みを享受したいと思っている。

来た道を戻って、間もなく道の駅:宇陀路大宇陀に寄る。この道の駅は奈良の神社やお寺巡りの際の拠点として何度も利用させて頂いており、関西エリアに来た時は必ずお世話になっている場所だ。昨年来た時には工事中だった駅構内の駐車場はもう完成していて、以前とは違ったレイアウトとなっている。我がSUN号にとってはありがたくないものとなってしまっていた。駐車ラインの線引きが狭くて、駐車しにくい形となってしまっていた。これからは少し離れているけど、第2駐車場にお世話になることになるなと思った。家内は幾つもの柿の葉寿司の入った袋を抱えて戻って来た。直ぐに出発する。

R166は、いつも不思議な気分にさせられる道である。この道は大宇陀の道の駅を出てから旧菟田野町や東吉野町を通って高見山のトンネルを潜って松阪市エリアに出るのだが、何年か前にこの道を通った時に、時間が止まっているのを実感したのである。高見トンネルを潜る前に気づいたのだが、道脇の植物類の全てがそよとも動かずに静止していた。風がなくても何かしら動くものはある筈なのに、ここの空間では全てのものが動かず静止していた。その空気はトンネルを抜けて松阪市エリアに入ってからもしばらく続いたのだ。人家はあっても人は見掛けられず、犬や猫や鶏の声も聞こえず、本当に時間が止まった異次元の世界に入ってしまったような錯覚を覚えたのだ。そのあとも何回か通っているのだけど、いつも同じような感覚に襲われるのである。さて、今回はどうなのかと思いながら行ったのだが、部分的にそのような感覚を覚える場所はあったが、ススキの穂が揺れていたので、なぜかホッとしたのだった。

山を下り、少し道幅の細くなっている集落エリアを抜けて、間もなく道の駅に到着する。今にも雨が降り出しそうな空模様となっていた。ここは南と北に高い山が連なっており、TVは地デジは全くダメで、BSしか見ることはできない。ラジオもあまりよく聞こえない。相撲は諦めて、先ずは温泉に行って温まって、早めに寝ることにした。夜半から雨が降り出し、明け方まで天井を叩き続けていた。

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京都他短か旅:第5日

2016-12-02 06:12:44 | くるま旅くらしの話

第5日<11月22日:火> 天気:曇り後晴れ後曇り

 <行程>

道の駅:妹子の郷 →(R161・R1)→ 京都東IC →(名阪・近畿・阪和道他)→ 有田IC →(K他)→ 道の駅:明恵ふるさと館[和歌山県有田川町] →(K他)→ 有田IC →(阪和道)→ 和歌山IC →(R24他)→ 道の駅:青洲の里[和歌山県紀の川市] →(K他)→道の駅:紀の川万葉の里[和歌山県かつらぎ町] →(R24他)→ 道の駅:西かつらぎ[和歌山県かつらぎ町] →(R24他)→ 道の駅:柿の郷くどやま[和歌山県九度山町](泊) 走行255km

 <レポート>

二日間の京都探訪が終わって、今日は一気に和歌山県の有田まで行ってミカンを買う予定である。今回の旅の目的の一つが有田のミカンを買うことなのだ。これはもう自分で食べたいというよりも孫たちに食べさせたいという気持ちが強い。糖尿病の自分には果糖類は要注意なので、ミカンも柿も食べるに際しては計算が必要なのだ。因果な話である。

 毎年12月前後のこの時期になると有田のミカンを思い出し、本場の有田川町にある、道の駅:明恵ふるさと館が目に浮かぶようになる。小さな道の駅なのだが、ここはミカン畑に取り囲まれており、上等な味のミカンが驚くほど安価に手に入るのだ。今回は少し時期が早い感じがするけど、早生種のミカンならばもう終わりかけている頃だろう。必ず手に入ると思いこんでの来訪なのである。

昨日はR161の和邇IC付近に新しく出来た道の駅:妹子の郷に泊った。もう京都へ行く予定はないので、道の駅:びわ湖大橋米プラザには迷惑をかけたくないという気持もあった。でも、新しいものを見たい・知りたいという好奇心の方が強く働いているのかもしれない。妹子の郷というからには何か遣隋使の小野妹子に関係があるに違いないと思ったのだが、やはりそのようで、小野妹子はこの近くの小野という土地に係わりのあった人物とのこと。

この人物のことは歴史のまる暗記だけで、遣隋使といえば小野妹子と覚えているだけで、この人がどんな人物で、その時代にどのような役割や使命を果たしていたかの実態は、知っていること皆無である。遣隋使というからには、往時の朝廷では重要な役割を担っていた人物なのであろう。そう思うだけである。

道の駅の方は、駅舎を挟んで上方が表、下方が裏のような関係で作られていて、自分たちは下方の駐車場を使わせて頂いた。駅舎に行くには、専用のエレバーターが設置されていて、高齢者などにはありがたいことだなと思った。夜中に雨が降ったりして天井は騒がしかったが、快適な一夜を過ごすことが出来て感謝。

さて、その道の駅を出発した後は、湖西道路を走って一路名神道の京都東ICを目指す。今朝の琵琶湖は雨雲の下にあるようだが、間もなく晴れるのであろう、雲が散り始めていた。しばらくこの景色ともさよならである。間もなく京都東ICから高速道に入り、あとはナビの指示するままに幾つかの高速道を乗り換えて、最後に阪和道に入って、トンネルを潜って有田ICで一般道へ。道の駅:明恵ふるさと館に着いたのは11時を少し過ぎた頃だった。

駐車の車も無く人の気配も無い道の駅は、今日は休日なのかと勘違いしたのだが、駅舎の売店は営業していたので安堵した。ミカンもちゃんと販売されており、早速買い入れる。箱買いするよりも袋に入ったものを見つくろった方が変化があって良いように思い、何袋かを選び買い入れる。箱二つ分くらいの量でも一箱分の値段にも至らぬほどの安さである。味の方も勿論満足レベルである。わざわざ遠くからやって来て旅費も掛っているのだけど、そのようなことは一切忘れるほどの嬉しさを覚えた。来年もまた来なくちゃと思った。

ミカンを手に入れた後は、今夜の宿と決めている九度山町にある道の駅:柿の郷くどやまに向かって出発。有田ICから阪和道で和歌山ICで行って降りて、あとは紀の川沿いのR24を走って、紀の川が吉野川と変わる上流近くまで幾つかの道の駅などに寄りながら夕方前には着くようにと考えている。紀の川の両端のエリアは果物などの産地が広がっており、この時期は柿が主流となっている。目指す九度山町も道の駅に柿の郷と名付けているほどだ。柿を手に入れるのも又、今回の旅の目的の一つなのである。

和歌山ICで下りた後は、R24を順調に走り続ける。岩出市というあまり馴染みのない街があるのだが、ここは何だか異常に市街地化している感じがするところで、市のどの辺りを走っているのかよく判らないのだが、R24の両側には幾つものショッピングモールやその他さまざまの販売施設が続いており、給油価格などもかなり安いのに驚かされた。関東に住む者には未知の都市なのだが、関西南部エリアの中では、かなり発展著しい街なのだろうなと思った。少し走って、紀の川市に新しく出来た道の駅:青洲の里という所に寄って見たのだが、ここは駅舎がどれなのかも判らず、物産販売所も閉まっていたので、そのままパスした。

間もなく葛城町に入り、道の駅:紀の川万葉の里に寄り、柿を物色する。柿は九度山の道の駅で求めればいいと思っていたのだが、家内は何か気に入ったらしき柿を見つけて買い入れたようだった。少し休んで、近くに出来た新しい道の駅:かつらぎ西という所へ行って見ることにした。ここは京奈和道のかつらぎ西ICの近くに設けられていて、そこへ行くのに少し迷ったのだが、行って見たら、未だ完全には出来上がっておらず、アンテナショップの様な形で営業されていた。高速道利用者向けの道の駅のようである。

そのあと今日のゴールの九度山町の道の駅へ。今日ここを泊りにと選んだのは、明日九度山町の史跡などを散策しようと考えているからなのである。勿論その中心は、真田昌幸・幸村の一族が暮らした跡であり、先月の越後・信州の旅で訪ねた真田の本拠地に続いて、隠居を余儀なくされたその暮らしの様子などを探って見たいと思っているからなのである。今は開発が進んで柿などの名産地となっているけど、400年前の九度山は山深き人の住み家も疎らな土地だったに違いない。そのような中でどのような暮らしを送っていたのか知りたいと思った。

この道の駅を訪れるのは二度目である。前回は出来たばかりの時だったので、大変な混雑ぶりだった。今回はどうかなとやって来たのだが、大河ドラマ真田丸の影響もあるのか、やはり大変な混みようで駐車スペースを探すのに苦労した。夕方になれば空くだろうと、取り敢えず空いていたスペースに車を留め、しばらく駅舎の中の町の案内情報などに目を通す。資料類の他、大型の写真などで町の歴史を紹介するコーナーもあり、いい勉強になった。その後、物産品売り場も覗いてその盛況ぶりを見て回った。今は柿が旬の時であり、巨大なものから小型のものまで様々なサイズの柿が所狭しと並んでいた。道の駅が盛況なのを見ると嬉しい気分になる。

夕食までには未だ少し時間があるなと思い、車の中で資料などを見ていたら、外で「山本さん、山本さんですか?」と呼ぶ声がした。家内が「は~い」と出て対応すると、どなたなのかご婦人のようで、SUN号の表示を見て声をかけて下さったらしい。自分も外に出て話を交わす。静岡県の方からいらっしゃった方で、自分のブログを読んで下さっており、今日偶然ここへ来て車を見かけ、声をかけられたとのことだった。その後しばらく夕暮れの中での立ち話となった。その方は驚くほど自分のブログをよく読まれて覚えていらっしゃって、それはもう自分以上に内容を知り尽くしているかの如くだった。このような方もいらっしゃるのだと、お話を伺いながら、もっとしっかり書かないといけないなと反省させられた。10数分の短い時間だったが、とても嬉しい、ありがたい時間だった。その方はお名前もおっしゃらずに、これからご主人と次の場所に向けて出発されるとのこと。

この頃は旅に出ると、時々このような僥倖に出会うことがある。何よりも嬉しいのは、まだ一度もお会いしたことがない方とのご縁が、既に出来上がっているのを知らされることである。ネット社会の恵みなのであろうか。世の中の広がりを実感できることは嬉しいことである。人は何もしなければ、自分の回りに何の変化も起こすことはできない。ブログを書き、読んで頂き、その結果が新しい自分の世界を一つ拡げることにつながるというのは、自分が生きている価値を確認できた一つの証のようにも思えるのである。

その方とお別れしてから間もなく、周辺は夕闇に包まれ出し、一気に夜が迫ってきた。さすがの混雑も潮が引くように収まって静かになり、泊りらしき車も数えるほどになった。いつものペースで夕食を済ませ、今夜も早い就寝となる。

 

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京都他短か旅:第4日

2016-12-01 04:21:54 | くるま旅くらしの話

第4日<11月21日:月> 天気:くもり

 <行程>

の駅:びわ湖大橋米プラザ →(徒歩)→ 堅田駅 →(JR湖西線・奈良線)→ 東福寺駅 →(徒歩)→ 東福寺散策[京都市東山区] →(徒歩)→ 東福寺駅 →(京阪線)→ 祇園四条駅 →(徒歩)→ 建仁寺散策[京都市東山区] →(徒歩)→ 祇園散策・錦市場[京都市東山区・中京区] →(徒歩)→ 四条駅 →(地下鉄)→ 京都駅 →(JR湖西線)→ 堅田駅 →(徒歩)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ →(R161他)→ 道の駅:妹子の郷[滋賀県大津市] →(R161)→ 比良とぴあ →(R161)→ 道の駅:妹子の郷(泊) 走行29km

 <レポート>

 チャレンジの二回目の日である。今日の予定は先ずは東福寺としている。そのあとは状況を見て相国寺辺りに行ければいいなと思っている。昨日とほぼ同じ時刻に道の駅を出発してJR堅田駅に向かう。行く先は京都駅で乗り換えて奈良線の東福寺駅。京都駅での乗り換えには少し待ち時間があり、ちょっとした旅気分。くるま旅とは違う雰囲気がある。しかしそれも発車までの車内の待ち時間だけで、東福寺駅はたった一駅先なのである。直ぐに着いて、まあ何と狭いホームなのか。危険極まりない感じの駅のホームだった。京阪線とせめぎ合うように狭いホームが錯綜しており、何だか関西らしさを感じたのだった。

 さて、そこから先なのだが、これ又昨日と同じように駅から東福寺まで蟻の行列なのである。道に迷う心配は皆無なのだが、人に悪酔いする心配は無限なのだ。やれやれこりゃあ又大変な時期に大変な場所に来てしまったものだなと、改めてそう思った。今の季節、京都のお寺の紅葉を見るというのが、京都観光の目玉となっているようで、どの案内パンフにもそれらしい写真が溢れている。人々のあこがれは皆同じようで、それが実現すると、このような形で表れるということなのであろう。実のところ、自分としてはあまりそのようなことを考えずに、不用意にやって来てしまったのだが、家内の方はそれが当然と解っていたとのこと。安易に考えていた自分の方に問題があったのかと、ちょっぴり反省する。

     

東福寺駅から東福寺へ向かう人の群れ。所々紅葉も見られるが、まだ10時を少し過ぎたばかりだというのに、帰りの人も多い蟻の行列が続いていた。

 東福寺は昨日の南禅寺や永観堂よりも余裕のない場所だった。というのもここの観光の目玉は、橋の上からの紅葉観賞にあるらしいのだが、何と、その肝心の橋の上からの撮影は禁止されていたのである。しかも通行料400円也を払ってもである。これでは何のためにここに来たのかと、さすがの家内も疑問が怒りに昇華していたようだった。それで、結局橋は入口の無料側だけを通って有料の方は渡らないことにした。紅葉だけを撮るなら、境内にもそれなりのスポットはあるようである。

家内は、実は昨日の永観堂の写真撮影の半分ほどがうっかりカメラの操作ミスで不意にしてしまっているので、今日に期待していたらしいのだが、それが又ダメになってしまってご機嫌斜めなのである。永観堂の方へは、来年また再挑戦するとか息まいていた。

 東福寺は、室町時代に奈良の東大寺と興福寺を凌ぐほどのスケールの大きなお寺を建てることを発願して造られたものであるとか。東福寺という名も、東大寺の東と興福寺の福をとって名付けられたとか。そのようなこともあってなのか、確かにスケールの大きな建造物だった。昨日の南禅寺も大きかったし、それらを比べて云々するなどナンセンスだと思うけど、往古の権力者の見栄というのか、愚かさというのか、そのようなものがこのような遺産につながっているのかと、歴史の正体を見るような気がした。

     

東福寺の巨大な三門。南禅寺も巨大だったが、こちらの方は付近に紅葉はなく、その分近付く人が少ないので、安心できる。

東福寺の観光スポットである橋からの景観の場所を除けば、人混みの度合いも苦痛に耐えられるほどなのだが、それにしても仏像の存在すらも判らず、昨日と同じ疑問は残ったままだった。1時間ほど歩き回って、そのあとは、相国寺に行くのはやめて、京阪線で四条祇園まで行き、そこから歩いて建仁寺を訪ねることにした。建仁寺も五山の一つに数えられている。

建仁寺は良かった。というのも、ここは蟻の行列がなかったからである。紅葉の映えるような場所ではなかったからなのかもしれない。京都に来て、ようやく本物の古寺に巡り合えたような気持になった。下調べもしないままに来てしまったので、とにかく境内とその中に並ぶ建造物だけをしっかり見ることにした。境内の中には、道元禅師が学んだ跡や栄西禅師が中国から持って来られたお茶の記念碑などがあって、歴史の古さを想った。本堂などの中には入らなかったので、仏像の類には一切お目にかかってはいない。今回は下見のつもりでやって来ているので、次回までの課題にしようと思っている。広い境内の中をゆっくりと歩いていると、自然と心を洗われる感じがした。

そのあとは、祇園の一角を通って、錦市場に向かう。祇園は人気が高いのか、外国人の観光客も多くみられ、中国人らしき何人かが奇声のような大きな声を張り上げているのが耳ざわりだった。祇園は観光客とは無縁の場所のような気がするのだが、これはもう致し方ない。

     

昼間の祇園の一角の風景。町屋の風情も闊歩する観光客の足音で消されてしまいそうだ。何だか違うような気になった。

四条大橋を渡って、少し迷いながら錦市場へ。目的は鯖寿司を一本買い求めること。久しぶりの来訪だったが、錦市場も又超混みあった蟻の行列状態で、前に進むのに往生した。ようやく鯖寿司を売っている店を見つけて買い入れる。若狭でとれた鯖を使った鯖寿司は京都の名物の一つなのだろうけど、今の時代は若狭の鯖ではなくノルウエーからのものではないかなと思ったりした。それでも文句などなし。買い入れた後は直ぐに人ゴミを離れて、帰途につくことにしたが、その前に昼食をと探したが、今日も適当な店が見つからず、結局デパートの食堂でようやく食にありつけるという状態だった。田舎者には、京都での昼食の店探しは、どこも行列ばかりで、うんざりの連続だった。

そのあとは、地下鉄に乗り、京都駅まで行って湖西線に乗り換えて、本物の帰途に着く。この二日間の京都の古寺探訪は、下見とはいえ殆ど成果のない空振り続きの時間だった。このチャレンジはやはり失敗だったような気がする。改めてもう一度パーク&ライドのあり方について振り返って考えてみることにしたい。

 

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京都他短か旅:第3日

2016-12-01 03:38:26 | くるま旅くらしの話

第3日<10月20日:日> 天気: くもり

 <行程>

 道の駅:びわ湖大橋米プラザ →(徒歩)→ JR堅田駅[滋賀県大津市] →(湖西線)→ 京都駅 →(地下鉄)→ 蹴上駅 →(徒歩)→ 南禅寺・永観堂[京都市左京区] →(徒歩)→ 蹴上駅 →(地下鉄)→ 京都駅 →(JR湖西線)→ 堅田駅 →(徒歩)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ(泊)

 <レポート>

昨夜は真夜中に大声で談笑する若者のグループがあり、安眠を妨害された。若者というのは、グループになると自分たちのことしか見えなくなり、傍若無人な振る舞いをする奴が多い(ま、老人でも同じなのだが)。夜中にこのような振る舞いをする奴らは、スポーツカーなどの高級車を乗り回す者が多く、エンジン音も高くて、真に迷惑だ。何とか排除する手立てはないものかなどと思ってしまう。これが江戸時代ならば、無言で刀の峰打ちでもくれてやれるものをと、眠りはぐれた老人の陳腐な発想が頭を駆け巡る。

朝になった。今日は車を離れて他の交通手段による小さな旅、すなわち京都の古寺巡りへのチャレンジの初日である。今までずっと京都の表の顔を訪ねることをして来なかった。くるま旅を始める前までは、それなりに古都京都を訪ねてはいたのだが、その後くるま旅が本格化すると、京都に関しては、裏の方(丹波や日本海側)にばかり気持が動いて、表を敬遠するようになってしまった。というのも、表側の京都は、すっかり観光都市化してしまい、それに少し図体の大きいSUN号を留める駐車場が少なく、又あっても料金は高いし加えて拝観料とやらもしっかり徴収されるので、何だかバカバカしくなって敬遠していたのである。

しかし、裏ばかりでは、やはり京都の正体はつかめない。ま、そんな大げさなことではなくても、表裏一体ということばがある如く、ものごとは何事も全体を見てそれが何かが解るのであり、偏っていては解らないのである。それで、この頃はやはり京都の表を少しずつで良いから見てみることにしたのだ。そして、その方法として、いわゆるパーク&ライドというのにチャレンジしてみることにしたのである。いろいろ調べた結果、先ずはパークについては、道の駅:びわ湖大橋米プラザを使わせて頂こうと思った。ライドの方は、JR湖西線をベースに私鉄や地下鉄などを活用することにした。これならば京都市内の狭いエリアでの駐車の問題にも関わらないで済む。

ということで、道の駅を訪れたのだが、一つ問題があった。どうやらこの道の駅では、そのようなパークの仕方を歓迎していないようなのだ。ま、日中の一般の来訪者を優先させるのは当然であり、あまりメリットのない滞在者には遠慮して貰いたいというのは、今の世の常識なのであろう。それで、先ずは昨日、長時間滞在の実態をそれとなく調べてみたのだが、確かに何台かそれらしい車が見受けられ、中には放置されていると思しきものもあるように思えた。しかし、この道の駅の駐車場が満車になるというのは格別のイベントでもない限りは滅多にないようにも思え、今回はとにかくトライしたいので、目立たない第2駐車場の方へ車を置かせて貰い、チャレンジさせて頂いた次第である。

本当は、これほど遠い道の駅ではなく、もっと京都市内に近い場所にパーク&ライドの可能な施設が造られていたら、くるま旅も内容が充実するのになと思った。自分の知る限りでは、今までそのようなことが出来たのは長崎市だけだった。現代の車社会のこのようなインフラの貧困は、観光立国などを標榜する国家の大いなる怠慢ではないかと自分は思っている。

前置きが長くなったが、先ずは道の駅を8時半ごろ出発して、徒歩でJR湖西線の堅田駅に向かう。家内の足が遅いので25分くらいかかったが、文句は言わない。急がせて脱落されるよりはましだからである。この日は朝から霧が深くて、既に発車していたはずの電車が遅れてやって来て、直ぐに乗ることが出来た。30分ほど立ちながら揺られて京都の駅に着く。

そうそう、今日の予定は、南禅寺とその脇にある永観堂禅林寺の探訪である。これは家内の要望を優先させて決めたことである。これらの後、余裕があれば他のお寺さんを見ることにしている。古寺巡りの初めは、京都五山の古刹の探訪と決めているのだが、南禅寺は五山の別格の存在であり、いわば最上位ということなのであろうか。仏様に上下関係があるというのは、釈迦の教えとは無関係のような気がするのだが、坊さまも人間なので、そのような位などという位置づけが好きなのであろうか。ま、とにかく、家内は何よりも永観堂の紅葉の景観にあこがれているようである。

京都駅から地下鉄に乗り、烏丸御池で東西線に乗り換えて蹴上駅で下車。わけのわからない階段の続く地下道を歩いて、ようやく外に出て、さて、どちらの方へ行ったものかと思案する隙も無く、とにかく物凄い人の行列が続いているので、その流れに乗って少し行くと、どうやらそれが南禅寺に向かっているらしい。レンガ風の短いトンネルを潜ってしばらく行くと金地院という掲額のようなものがあった。南禅寺は近いらしい。その蟻の行列に流されていると、間もなく南禅寺の三門が見えた。石川五右衛門が気取って、「絶景かな!」とか叫んだあの門である。高所恐怖症なので上にあがることは止めたが、確かに往時は五右衛門さんの言う通り、都が見渡せたのかもしれない。巨大な建築物だなと思った。その傍に南禅寺の本堂らしきものがあり、これ又巨大な建造物だった。よくもまあこのようなものを造ったものだなと呆れ返るほどである。

     

南禅寺三門辺りの紅葉。とにかくものすごい人混みなので、落ち着いた雰囲気の写真が撮れるような場所は皆無だった。けれども紅葉の方は文句なく美しい。

ここいら辺で少し人の列から離れ、写真などを撮る。奥の方にレンガ造りらしき水道施設が見え、あれが京都(琵琶湖)疏水の名残りかとそれを見に行く。お寺さんよりはかなり新しいものなのだろうが、何だか同じ時代に造られた遺構のような感じがした。人の波はここにも押し寄せて来ており、もはやどうあがいてもこれからは逃れられないのだということを次第に観念するようになった。京都の観光の正体を見たような気持が次第に強くなってきた。境内にあるモミジの紅葉は写真の中では人混みから離れて静かさを装っているけど、モミジの下は人いきれが溢れているのである。

流れのままに少し離れた永観堂禅林寺へ。ここは南禅寺よりはかなり狭い境内とあって、人の混み具合は危険と裏合わせになっている感じがするほどだった。もはや入口付近の紅葉を見ただけで、中に入る気は失せて、自分は別の場所を歩くことにした。家内の方はあこがれの永観堂はこれからだと、人混みの多さなどにめげずに、カメラを抱えて中に入って行った。大したもんだなと思った。

     

永観堂の入口あたりの紅葉の様子。周辺は南禅寺以上の人の群れなのだが、この紅葉は人が入れない場所を覗いて撮ったものなので、そこの静けさも一緒に収まっている感がする。

そのあとは、家内が満足して戻るまで自分の方は、周辺の町屋の路地などを歩き廻る。蟻の行列を外れて一本細道に入れば、そこには普段の京都の人たちの暮らしが潜んでいる。今日は休日なので、家の中で寛いでおられるのかもしれない。人混みとは別世界の静けさが横たわっていた。路地のような通りを歩いている内に次第に気持も落ち着いてきた。小一時間ほど歩き回って、疲れたので永観堂の入口付近の脇道にある置き石に腰かけて休むことにした。モミジの赤い落ち葉の向こうに、ツワ蕗が澄んだ黄色い花を咲かせていた。静けさと本物の京都がそこにだけしっかり宿っている感じがした。

     

人混みの蟻の行列の続く南禅寺界隈も、一本筋を離れて歩けば、そこには普段の暮らしの静けさが横たわっており、安堵をおぼえる。

しばらく待って、家内はどうなっているのかと電話をすることにした。どうやら写真の方も終ったらしく、戻るとのこと。間もなく出口付近で一緒になって、もう今日はこれで終わりにしようということになり、蹴上駅の方に向かう。水分補給をしようにもそれを手に入れることもできなかった家内は、ようやく駅近くの自動販売機を見つけて、念願がかなったようである。本物の蟻の行列の中の蟻君たちは、やはり同じように水分補給もできずに歩き続けているのだろうか。ふと、そんなことを想ったりした。

その後、昼食をと店を探したのだが、近くに見当たらず、それでは京都駅まで行けば何とかなるだろうと、地下街に行ったのだが、どの店も行列ばかりで、もはやうんざりしてしまい、結局デパ地下で弁当を買い、湖西線の電車の中での行楽弁当となった次第。いやはや呆れ返るばかりの古寺観光となってしまった。考えてみれば、仏像一つ見たわけでもなく、参詣と言いながらも一度も手を合わせることも、心経を念ずることも無く、ただあれよあれよと人の波にまぎれ漂っただけの古寺探訪だった。

ところで、この日には不幸なエピソードが一つ生まれた。それは、車に戻って、今日撮った写真をパソコンに記録したのだが、何と家内の撮ったあこがれの永観堂での写真の3分の2程度が真っ黒なのである。何かの間違いなのだろうかといろいろやって見たのだが、ダメなのだ。冷静になった家内の話では、どうやら撮影の途中で、何かのボタンを操作したらしく、その修正を忘れたまま写真を撮り続けたらしい。相当に思いを込めて撮ったものもあったらしく、まあ悔しがることしきりだった。来年、もう一度リベンジに来ることを誓って、とにかく今年の分は諦めることとなった次第。これもまた蟻の行列の犠牲なのかもしれない。とにかく正気の沙汰でない観光実態なのである。

 

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