山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

時々「近況報告」:気候の異変を憂う

2021-09-11 22:48:30 | 宵宵妄話

時々「近況報告」:気候の異変を憂う

 9月12日(日) 何だか変だ。9月に入って、急に涼しくなったと思ったら、涼しさをとり越して寒さが近づいてきた。10日ほど前は、猛烈な暑さの中にも、つくつく法師の鳴き声を何度か聞いて、こんなに暑くても、ああ、もう秋が近づいているのだなあと思ったのだが、今はこの急変ぶりだ。もはやTシャツ一枚では、寒さを感ずるほどで、急遽長袖のTシャツに着替え、朝夕はその上にもう一枚着る程になっている。

コロナはほんの少し感染の勢いを弱めたようだが、重症者や死者は一向に減らず、医療体制は尚厳しい状態だという。それに感染者の内容も変化して来て、若年層や幼年者層までひろがっているという。ワクチンの接種を終えた人でも再感染する人も出ており、この感染症の危険は一向に収まってはいない。

そのような状態の中で、この異常とも思われる天候の変化である。気象学上では、いろいろ説明がつくのだろうが、何で斯くも急に炎暑からこんなに寒くなるのか。どうもその天(・)の(・)真意(・・)が何なのかが解らない。

もうすぐ台風の季節である。予報では、南方には小型だけど猛烈な破壊のエネルギーを持った台風が発生し、先島諸島や九州を狙っているとか。まだその進路は定かではないけど、何だか無気味な予感がする。防災の為の対策等について、注意喚起の呼び掛けがあるけど、どんなに事前に対策を講じたとしても、想定をはるかに超える大自然の猛威の前では、人間は真の安全を確保することなど到底できるものではない。たとえ頑丈な建物の中にいたとしても、それが根こそぎ破壊されてしまう様なことがあれば、もはや如何とも難い。2年前の台風15号による千葉県での被害状況は、人間の防災能力をあざ笑うかの如くだ。関東全域がブラックアウトに見舞われる様な事態が起こらないとも限らず、そのようなことに怯えながら暮らすというのは、人生の晩期を迎えている老人にとっては、真に不安極まりない。

太古の昔から、人間は、大自然の予想外の脅威に対峙しながら、何とかそれを乗り越えて来たのだと思うが、文明がかなり進んだと思われる現代に於いても、その不安は少なくなるどころか、最近では天災地変の予感により一層怯えながら暮らすようになっている感がしてならない。

そして、この頃時々思うのは、もしかしたら、人間が長い時間をかけて追及してきたより(・・)よい(・・)暮らし(・・)、利便(・・)なものが、知らず自然界のあるべきバランスを破壊し、それが様々な異常現象を生起させる根本原因となっているのではないかということである。温暖化の問題など、その原因がかなりはっきりしているものもあるようだけど、これら以外にも、まだまだ数多くの人類の負の遺産があるのではないか。

自分が生きて来たここ半世紀は、生まれる半世紀前とは比較にならないほど、人間の暮らしはあらゆる面で飛躍的に進歩した。これほど急劇に世の中が変わった時代は、人類の歴史上存在しなかったと思う。しかし、人類は本当に豊かさや幸福なるものを獲得したのだろうか。答えは明確に「ノン」であろう。世界のどこかで殺し合いは続いており、無差別無意味と思われるテロなども多発しており、大国間の緊張は絶えることなく続いており、尚一層拡大しようとさえしている。人類は、明らかにこの住んでいる地球の使い方を誤っているようだ。このままでは、どんなに科学や文明が進んだとしても、行き着く先は自滅か地球破壊となってしまうのではないか。しかもそれは、恐ろしいスピードで進み、近づいている気がしてならない。

この秋、そして冬辺りまでに、どんな出来事が起こるのか? 何一つ明るい兆しはないように思えてならない。80年も生きて来て、最後の見納めとなるものが、天然地異の挙句の果てだったなどということがないよう、心して祈るばかりである。

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菅首相の退陣宣言に思う

2021-09-07 18:39:37 | くるま旅くらしの話

 菅総理が、次期の自民党総裁選に立候補しないことを表明した。さもあろう。国民の多くは、当然であるかのように納得するに違いない。思えば菅という方もコロナ対応などという想定をはるかに超える事態に、総理として四苦八苦させられるなどという、とんでもない貧乏くじを引いてしまったものだ。コロナさえなかったら、まだまだ政権を維持できたものをと、少し気の毒な気もする。

 しかし、この方は本当はラッキーな人だったのだ。阿部前総理の突然の引退表明で、思ってもみなかった総理の座が突然転がり込んで来た。本人も含めて誰も予想していなかったのに。運命のめぐりあわせなのか、恐らく長い官房長官の時の実績が買われたのであろう。この人には総理もできるのではないかという期待が党内で膨らんで、本人も何とかなるだろと受けてしまった。

 最初の頃は何とかなっていたのだけれど、コロナの感染が予想以上に長引いて、結局新しい手も打てず、同じような施策の繰り返しを行ってきた。総理としての力量の限界が来てしまったということなのだと思う。

 この人は確かに一所懸命にコロナ対策に取組んだのだと思う。繰り返して言う「国民の生命を守るために」という言葉には、それなりの容易ならぬ覚悟が潜んではいたのだと思う。しかし、同じ言葉を繰り返すだけでは、その気持ちは国民ひとり一人には伝わらない。何か新しい対策を打ち出すか、新しい方法で国民にアピールすることが必要だった。

 新しい対策はあったのだろうか。ワクチンの接種以外に決め手となるような対策はないのである。ワクチンは予防薬に過ぎず、その他の治療薬は、今のところ見当たらない誠に困ったものである。だから同じことを言うしかなかった、ということだったのであろう。この点に関しては、他のどなたが総理をやろうと、批判ばかりに終始している野党の人が総理をやろうと同じなのだと思う。

 しかし、そこで思うのは、国民に対するアピールである。これについては、菅という人は、真に下手くそというか、無策というか、同じ言葉、しかも具体性のない「国民の命を守る」などというのを繰り返すばかりだった。尤も他の担当している閣僚なども又、終始同じことばを繰り返すばかりだし、それは東京都知事だって、他の首長だって同じことなのかもしれない。彼ら為政者の代表として、首相が槍玉に上げられたということなのかもしれない。

 では、どうすれば国民にその気持ちが届いたのだろうか。いろいろ考えられるが、自分は次のように思うのである。

 この厄介な感染症は、治療面で決め手になる対策はない。しかし、防ぐ方法はある。国民の大半はそれを知っており、三密を避け、マスクをかけ手洗いをする等の予防策を実施している。それなのに感染拡大は一向に収まらない。クラスタ―も発生している。何故なのか、その根本原因は、まだまだ国民一人ひとりに、これら予防策を厳守行動することの重要性が分かっていないからなのだと思う。つまり、この感染症の根本対策は、国民一人の自覚に基づく予防対策行動の実践しかないのである。油断して甘く考えて行動している人が感染し、知らないままに他者への感染を広げている。これを如何に無くするかが最重要なのだと思う。

 なのに、現実は、もうそんなことは言わなくても国民は分かっているはずだと考えているのか、為政者は誰一人国民にアピールすることを怠り、特定の職業やイベントなどの制限などにばかり目を向け、それこそが施策の要だと思っている。これは、必要なことには違いないけど、対策の核に置くべきものではなく、あくまでも二次的、三次的な対策に過ぎないのだと思う。しかもこれらの規制は、対象者に犠牲を強いるものであり、その見返りとしてのコストも膨大なものとなる。

 為政者は、何故もっともっと、国民一人ひとりに、一人ひとりが予防の為の基本対策を厳守することが不可欠なのだということをアピールしないのか。TVやネット他アピールする手段は幾らでもあるのに、行われていても極めて断片的だ。これでは国民一人ひとりに為政者の思いが届くわけがない。

 例えば、毎日必ずどこかのTV等に総理が顔を出し、熱意を込めて、一人ひとりが予防策を厳守行動することの大切さを生の声で、声をからしてアピールする。これを365日続けたら、誰も首相の熱意の本気なのを疑う者はいないだろう。時々記者会見等で決まり文句を言うだけでは、新聞やTVがどんなに上手にそれを伝えても、国民は、又か、と思うだけである。

 とにかく、期待はずれのままに菅総理は総裁選に出馬しないことを決め、これからはコロナ対策に専心されるという。しかし、残念ながら求心力を失ったあとでは、何の効果も期待できない。もういいから、ゆっくり静養して、それこそコロナなどに取り付かれないうにして欲しい。そして、新しい総理には、その思いと熱意が、国民一人ひとりに届くような政治を期待したい。

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