山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

我が2020年の総括

2020-12-24 00:47:20 | 宵宵妄話

 激動の2020年もあと一旬を残すほどとなった。この一年が我が人生の中でどのような位置を占めるのかは、未だ定かではないけど、今までの80年という時間の中では、群を抜く予想外の、歴史に太字で記録される時間となるのだろうと思っている。

 人類にとって、感染症というものがこれほどの強敵というか、生存に敵対する存在であることを初めて知った。様々の破壊されてゆく世界を目の当たりにして、その重大さを思い知らされたのである。新型コロナウイルスがパンデミックとして喧伝されるまでは、パンデミックという意味も殆ど知らなかったし、それゆえ、何故大騒ぎをするのだろうかと、疑問にすら思えていたのだった。

それまでは、感染症といえば、悪質な風邪の流行(はや)り病のようなもので、最近ではそれはインフルエンザという単なる風邪の変種の一つくらいとしか思わなかった。風邪なのだから、しっかりひかぬよう注意していれば、防げるものだと思っていた。

 しかし、この認識はまるで幼児ほどのめでたい無知レベルであることを思い知らされた。人間の営みのあらゆる領域、部分に至るまでに生命も人間が創り出したあらゆる種類の組織もその機能も破壊する、恐るべき存在なのだと思い知ったのだ。それは個人レベルのみではなく、全世界の企業や国家というレベルに至るまで、まんべんなく浸透して破壊し続けるという恐るべき存在であることを見せ付けているのである。その破壊活動は、人間が創り出している現代社会がどのようなものなのかを、その弱点を暴露することによって、如実に指摘しているかのようでもある。あらゆる場面で、人間の思い上がりを否定し、あざ嗤うかのようである。人間の科学の進歩や文明の進化などは、ウイルスの持つ破壊力、変異力のパワーに比べたらものの数ではない。ワクチンの出来あがる速さよりもウイルスの変異力の方が格段のスピードで、強化されているというのは何という恐るべき力なのだろう!まさに悪魔を司る神の為せる業ではないのか。宗教的に考えるならば、神は今人間の味方ではなく、悪魔に助力しているという感じがする。

 コロナ禍と一口に言ってしまえばそれだけのことなのだが、この感染症が巻き起こした、彼のハルマゲドンともいえるカオスの世の現出を目の当たりにしているという現実こそが今年を総括する全てである。過去80年間でこれほど世が困惑して乱れた時は無かったと思う。そして、このカオスの中から何とか這い上がって残りの時間を生きなければならない。そう思っている。

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癌になる。どうする?

2020-12-22 04:38:41 | 宵宵妄話

癌になりました。と言っても、今頃は傘寿の老人がそのようなことを話ししても、そりゃ大変!などと真面目に感じたり、同情したりする人など殆どいないのではないか。せいぜい、「あ、そう」と相槌を打って貰えれば上等というものだろう。そう、それでいいのだ。今の世の老人にはもはや癌など驚きの病ではなくなっている。これは見方を変えれば医療技術の進歩によるありがたい世であり、また一方では老人切り捨て心境の残酷な世となっているということでもある。

 さて、その傘寿の老人(=自分)が癌となった話です。いきさつを述べると、 もう10年くらい前からになりますか、市の健康診断を受ける際に、PSAという前立腺癌の予兆を示す血液検査があり、それをずっと続けていたのですが、当初は標準近い数値だったのが、加齢と共に上昇し始め、一昨年はとうとう10の大台を突破する状況となりました。それで、念のためにと1泊入院での生体検査というのをやって頂いたのですが、結果は異常なしということで一先ず安心したのですが、それから2年経って、今年の健康診断では、PSA数値は更に上昇し、何と標準値の3倍近くの12を超えるレベルとなったのです。放っておいて癌の為すままに弄(もてあそば)されることになっても癪なので、専門医に相談し、一応はMRIによる精密検査をしたのですが、明確にその有無を確認することはできず、癌の最終判断は、生体検査によるのだということで、再度の生体検査のための入院となった次第。そしてその結果、何箇所か採取した細胞の中の一つに、今度は癌があるとのが判明したというわけです。医師の話では、性質(たち)の悪い癌ではないとのことでしたが、癌の性質のことは自分には判らず、ま、そんなものかと受け止めた次第。あなたは癌で死ぬことはありません、と医師から2度ほど念を押されたのですが、これは患者がパニックなどを起こさないための慰めだと理解した次第です。

 前立腺癌は癌の中では最も生存率が高いということですから、手遅れでない限りは、まあ、大丈夫ということなのでありましょう。長い時間をかけてようやくほんの少し見つかったというレベルの話ですから、手遅れということではないでしょうし、自分的にはパニックなどとは無縁なのです。

 とはいえ、癌という病をバカにしているわけでも、或いはこの先に控えている「死」というものを軽視しているわけでもなく。それらの全ては当然のこととして受け止めなければならないという覚悟は決まっているのです。

 人生の最終章では死計即ち如何に死ぬかということが大きなテーマだと考え、その答えを「老計の中にあり」と見出し、我が老計はくるま旅による人生の宝物探しによって実現すると決め、今日までそれなりに道を歩んできたのですが、この頃は少し欲が出て来て、せめて卒寿(=90歳)迄くるま旅を続けたいと思うようになっていたところに癌が取付いているのを知ったというわけなのです。

 この後、癌とのどのような付き合いが待っているのか見当もつきませんが、自分としては癌とは戦うのではなく、極力宥(なだ)め賺(すか)して妥協し合って過ごしたいと考えています。ま、このようなことは軽いからこそ言えるセリフなのでしょうが、その思いは変わらず、病との付き合いは、それがどんなものであれ全て同じ考えでやってゆこうと思っています。

 人の終り方には様々なタイプやスタイルが用意されているのだと思いますが、多分自分の場合は、病というよりも循環器系の故障で命が終わりとなるという予感がしています。故障というのは病とは別の種類のもので、人間の場合は事故と同類ではないかと思っています。PPK(ピン・ピン・コロリ)というのもやはり同じものなのだと思います。

かつて死に方の理想をPPKと考えていましたが、今はそうではなく、予告死というのが最高と考えています。予告といっても自殺などではなく、あくまでも自然死での予告です。事故タイプの死に方では、予告は大変難しいのだと思いますが、そう決まったわけでもなく、これからは常時己の体調に耳を傾けてゆきたいと改めて思っている現在です。

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信州小さな秋旅の記録<第6回>

2020-12-03 00:28:14 | くるま旅くらしの話

2年ぶりに旅に出かけました。旅と言ってもたった4日間の小さなものです。長いこと休んでいたため、旅の感覚が大きく鈍っているのを実感しました。6回に分けて久しぶりの旅の所感を報告させて頂こうと思います。

【旅を終えて】

 3年ぶり、たった3泊4日の短い旅の感想は?と、問われれば、その答えは「あ~あ、疲れた~」の一言に尽きるような感じがする。どこを探しても今のところ楽しかったという感想は無い。この2年間のブランクは大きい。旅に出ている時は、それなりの勘が働くものなのだが、今回はそれを取り戻すには至らなかったようだ。全山紅葉は楽しめたけど、どうもいつもより出会いの印象が少なかったような感じがする。人との出会いも、それ以外の出会いも記憶に残るようなものが少なかった。これはもう期間が短かかったのだから当然といえば当然のことなのだろうけど、もう一つ大きいのは、出会いを探し味わう感覚が鈍ってしまっている、というのがあるのだと思う。

一つ思いついてチャレンジしたことがある。今回の旅では、句作に努めようと思った。歳をとるにつれて、自分の思いを表現する方法の中で何が一番なのかを考えるようになって来ているのだが、この頃思うのは、この記録のような駄文を連ねるばかりでは自分の思いは伝えられないということ。ことばでの思いの表現には、散文、詩、短歌、俳句などいろいろあるけど、旅で出会った記録についていえば、一番は俳句だなと思うようになった。これには大先輩がいる。口はぼったいことなのだが、勿論俳聖芭蕉である。奥の細道は、まさに旅の記録だが、そこに織り込められている俳句の数々は、その時々の蕉翁の心が捉えたもの、そのものの表現なのだと思う。この記録を何度も読むうちに、芭蕉という方がどんな気持ちでその旅の瞬間を捉え、表現しようとされていたのかが少しずつ解るような気がして来た。

自分が捉えた一瞬の情感を表現するには、やっぱり俳句が最高の表現方法だと思う。俳句でしか表現できないのではないか。全山紅葉に感動しても、その情景をずらずら、だらだらと書いてみたところで、字数を多くすればするほど冗長となって、己の思いは伝わらなくなる。短歌でもダメな気がする。やはりこの表現方法でも冗長なのだ。もはや句作しかない。そう思うようになっている。今までも何度か旅の記録の中で感じた気持ちを俳句や短歌で表現したこともあったのだが、どうも中途半端で済ませてしまっている。

この2年間のブランクを取り戻すための一方法として、今回は句作を心がけてみようと思った。素人の思いつきであっても、始めることが肝要であり、無理やりでいいからチャレンジすることにした。傘寿を迎えてあとどれくらい生きられる時間が残されているのか全く知らないけど、生きている間は旅であろうとなかろうと、一瞬の感じた情感を句作で表現し、己の生きた証としようと決心したのである。

疲れたけど、やはり旅はいい。在宅の時も毎朝2時間近くを、幾つかのコースを設けて歩いており、そこで旅の気分を味わっているのだけど、それだけでは足りないものがある。季節の移ろいなどは実感できても、やはり日常から抜け出すことはできない。非日常性が生み出す感動の大きさは、旅でしか味わえないのだ。初めて見聞するものに対する好奇心が生きているという己の存在を実感させ、小さな出来事にも心を震わされるのである。

思うにコロナ禍というのは旅の天敵だ。人間の好奇心や感動を根こそぎ奪い消えさせようとしているかのようだ。この天敵に勝つためには、我慢に我慢を積み上げ、耐性を強化し、天敵が諦めて離れるのを待つしかない。しぶとさに対してはそれ以上のしぶとさで対処するしかない。旅から戻って、益々悪化するコロナの第3波の状況を聞きながら、そう固く思っている。

家に戻って、庭を見ると、そんなコロナの感染などは問題にもせず、びっしりと赤い実を付けたクロガネモチの木の下にはツワブキが、その向こうには菊の一株が、花を咲かせているのを見て、妙に感動した。

 

 寒菊のしぶとく咲くや歳の暮れ  馬骨

 秋寒の庭に凛として石蕗(つわ)が咲く 馬骨

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信州小さな秋旅の記録<第5回>

2020-12-02 04:17:28 | くるま旅くらしの話

2年ぶりに旅に出かけました。旅と言ってもたった4日間の小さなものです。長いこと休んでいたため、旅の感覚が大きく鈍っているのを実感しました。6回に分けて久しぶりの旅の所感を報告させて頂こうと思います。

 

第4日(11/17〔火〕)

道の駅:オアシスなんもく→(県道・R254)→道の駅:下仁田→(R254)→下仁田IC→(上信越道・関越道・北関東道)→太田藪塚IC→県道)→みどり市知人宅→(県道・R50)→道の駅:みかも→(R50・R294)→自宅

何事も無く一夜が更けて朝が来て、いつものように5時には目覚めたけど、外は暗く明けの明星他の星が輝いていた。やっぱり6時を過ぎるまでは歩きは無理のようだ。6時半近くなってから、着替えを済ませ歩きに出かける。初めて来た土地なので、何処に何があるかなど全く判らない。とにかく思うままに歩くだけである。旅に出た時はいつも毎朝その地をさ迷い歩くことにしているので、今日もいつもと変わらない。昨日の朝は安曇野の平野の散策だったけど、今日は打って変わった山地の、細い谷川の両側に山の迫る中に造られた幾筋かの道を橋を渡り向こう側に行き、少し歩いて又橋を渡ってこちら側に戻るといった繰り返しの歩きとなった。何という川なのか、多分に南牧川とでもいうのだろうか、橋を渡るとき川の名を確認しようとしたのだが、橋の名しか書かれていなかった。谷川に迫る北側の山の下方中腹には人家が点在していた。この地では農業は無理だと思われ、恐らく昔より林業などで生計を立てて来ているのだろうなと思った。川に流れ込む小さな支流には、大雨の時には土石流の発生に注意と書かれた警告板があった。昨年の台風の大雨の際には、被害が出たのだろうなと思った。そういえば、昨日来た道の途中でも災害復旧工事をしていたらしいのが何ケ所かあり、一昨日のアップルラインの千曲川の氾濫だけではなかったのだと、自然災害の怖さを改めて思ったのだった。1時間ほど見知らぬ土地の景観を楽しみながら8時半過ぎ車に戻る。今日は休業だという道の駅には訪問者は無く静かで、車も自分たちだけだった。カミさんは寝床の中。寒いのでしばらくの間エンジンをかけて車内を暖める。その後朝食とする。

今日は旅の最終日とするつもりでいる。明後日は病院に行かなければならないので、今日中には家に戻っておきたいと思っている。それで、今日の行程なのだが、元々は富岡の世界遺産の織物工場を見学したり、その後で足利学校などに寄るのもいいかななどと考えていたのだが、駐車場のことなどを考えると、この車で行くのには不安があり、探すのがめんどくさい。それで昨日思いついたのは、今年の春にみどり市に移住された親しき知人のお宅を訪ねて、どんな暮らしぶりをされているのかお邪魔することにしようということ。昨夜電話で予めご都合を伺う話はしているので、そこへ寄り道することに決めている。

朝食の後、準備をして出発したのは9時半頃か。下仁田から高速道でみどり市の近くまで行くことにして、先ずは途中の道の駅:下仁田に寄り、名産の下仁田ネギを買い入れる。帰ったらこのネギを使って久しぶりにすき焼き鍋でも贅沢に味わうことにしょうという考え。旅の間は概して粗食なのだ。如何にも美味そうなネギの大束を買い入れた。ついでに大粒の銀杏があったので、こちらもゲット。山の幸の豊かな所である。

買い物を済ませ、間もなく上信越道下仁田ICから高速に入り、北関東道の大田藪塚ICを目ざす。上信越道から二つのJCTを経由して北関東道に入り、間もなく大田藪塚ICで降りて県道に入り、みどり市の方へ向かう。住所は調べてあるけど、これはもうナビを当てにするしかない。昨日のようなことは無いだろうけど、近くまでガイドして貰えば、何とかなるだろうという考え。

ところでみどり市というのは、全く土地勘の働かない市である。何年か前に初めてここを通った時には、突然見知らぬ市の名前が出て来て、これは一体何だと思ったのを思い出す。何年前だったか平成の大合併でこの市が生まれたてだった頃だと思う。それ以来のこの地の訪問となった。知人は横須賀在住の方だったので、今春突然転居の知らせを受け取ったときには驚いた。でも住所にみどり市大間々町とあったので、それを見てああ、大間々かと直ぐに解った。大間々とか笠懸という地名なら以前から知っていたのだが、いきなりみどり市などとなったものだから、一体ここはどこだろうと思ったのだった。時々国の施策で大合併というのをやらかされるが、全国を旅していると、そのおかげでわけのわからぬ新しい市や町が生まれていて、戸惑い何だかがっかりすることがある。みどり市もその一つだった。

大間々町のそれらしき所まで辿り着いてナビのガイドは終ったのだが、付近を探しても見つからない。そこで電話をして、結局迎えに来て頂いて、判ったのだった。直ぐ近くだったのだが、やはり少し迷ってしまった。でも上出来と言ったところか。

それから知人宅をお邪魔し、しばらくの歓談となった。知人のiさんは、横須賀に住んでおられて、今回の突然の転居に驚いたのだが、このご夫妻はもともと大のナチュラリストで、海や山を初めとする大自然に遊ぶのが大好きで、お若い頃から ずいぶんと沢山の経験をされたと聞いている。10年ほど前だったか、旅で知り合った頃は、ご主人は北海道での砂金採りに嵌っておられて、用具の板を抱えて嬉しそうに笑っておられたし、横須賀では畑を借りて農作物に力を入れたり、併せて蜜蜂を飼われたりして楽しんでおられたのだった。今度はどのような動機でこの地を選択されたのかと少し不思議な思いがしたのだが、訪ねたお宅は敷地300坪、屋敷は100坪を超える大豪邸だったので驚いた。伺ってご案内頂いたのだが、庭というのか畑というべきか、200坪を超える土地には、多種の果樹や野菜類が植えられており、ミカンやキウイなどが沢山の実をつけていたし、畑にはセロリなど何種類かの野菜類が育っていた。そして庭の隅にはミツバチの棲家の箱が置いてあり、数匹のミツバチたちがその入り口近くで、今日の陽気を味わうかのように肩を寄せて集まっていたのが愛らしかった。いやぁ、よくもまあこのような場所にこのような家を見つけられたものだと、その慧眼に敬服の念を抱いた。ⅰさんは未だ順老(老に馴れる世代=65~75歳)世代の人である。これからの人生を堪能するにはもってこいの、この上もない素晴らしい環境だなと思った。いろいろとご苦労もあるのだろうけど、それが楽しみなのだから、iさんにはご苦労などいうことばは無いのだろうなと思った。その後話し込んでいる内にあっという間に時間が過ぎて、午近くとなってしまい、慌ててお別れの挨拶を交わす。初めての訪問だったが、我が家からは横須賀よりはずっと近くなったし、これからは、会いたくなった時には、いつでも来易くなって良かったなと思いながら帰宅の途に就く。iさんは自分よりもお若いのだが、人生を楽しむについては、自分などよりも層倍の経験を持つ名人である。改めてそれを実感した。

そのあとは、高速を利用するのは止め、R50で行くことにしたのだが、これは正解だった。車の流れはスムースで、足利市から小山市を通りぬけ、筑西市でR294に入り、そのまま直進して、我が家到着は思ったよりも早くて、16時10分だった。やれやれである。結局3泊4日の行程で、総走行距離は693Kmだった。

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信州小さな秋旅の記録<第4回>

2020-12-01 00:21:09 | くるま旅くらしの話

2年ぶりに旅に出かけました。旅と言ってもたった4日間の小さなものです。長いこと休んでいたため、旅の感覚が大きく鈍っているのを実感しました。6回に分けて久しぶりの旅の所感を報告させて頂こうと思います。

第3日(11/16〔月〕)

道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里→(県道・R19・R254・県道とんだ山道)→道の駅:マルメロの駅ながと→(R254)→道の駅:女神の里たてしな→(R254・県道)→道の駅:オアシスなんもく(泊)

安曇野の道の駅の一夜もかなり冷え込んで、朝6時過ぎ外を見ると枯れ草の上にうっすらと白い霜が着いていた。日が昇って明るくなり出したので、付近の散策に出かけることにした。先ずは道の駅の構内をぐるりと一回りした。反対側の駐車場の方に何台かの旅の車らしいのが泊っていた。その後、近くの畑の脇の道を山の方に向かって歩き始める。この地では北アルプスの常念岳の景観が一番愛されているようだ。手前の山は紅葉に染まり、その向こうに常念岳の大きな山容が見えた。その手前の有明山もいつものようにすっきりとした姿を見せていた。しばらく歩くと神社の森に出くわした。そこを通りぬけ、庭先の赤い柿の実が朝日に輝く農家の脇道を通って、山側の方へ歩いてみることにした。道端のススキの株の幾つかが白い穂をなびかせて、如何にも秋の風情を感じさせた。登校の子供たちが歓声を挙げながら元気よく走り回っていた。そうか、今日は月曜で登校日なのだなと気づき、小学校1年生の孫の顔が浮かんだ。

その後も付近をぶらぶらと散策しながら1時間ほどさ迷い、8時少し前に車に戻る。カミさんは勿論寝床の中。体調を崩されたりすると困るので、決して起こしたりはしない。

さて、今日はどうするか。今回の旅ではついでに行っておきたい場所が一つあって、それは群馬県の南牧村という所なのである。コンニャクとネギで有名な下仁田から少し山の方へ行った場所である。何時だったかTVで新しい道の駅が出来て、過疎の村に少し元気が出たというようなことが放映されていた。又この村には幾つかの限界集落があり、その状況が放映されているのを見たことがあり、一度どのような場所なのかを見てみたいと思っていた。それで、今日はそこへ行って泊ることにしようと考えている。カミさんには行程メモを渡しただけで、自分の思いなどは伝えていない。あまり過疎の話をしたりすると逆効果となり兼ねないので、そっと行ってしまえばいいだけなのだと思っている。南牧村へ行くには、ここからだとR254を道なりに辿ってゆき、下仁田から県道に入れば直ぐに到着出来る筈だと読んでいる。R254には途中に何箇所か道の駅もあるので、久しぶりに各所に寄りながら浅間や佐久平の景観を眺め味わいたいと思っている。

遅い朝食の後は、8時半に構内の売店が開店となるので、そこへ向かう。既に行列が出来ていた。コロナ禍で密を避けるために間隔を置いての並びの最後尾につける。中に入り、今日の目当ては新鮮な朝採りのセロリの大株である。それらの山の中から3株を籠の中に入れた。これで、しばらく野菜摂取不足の問題は解決するだろう。その他近くの農家のお母さん方手づくりのおかずなども売られており、何種類かを手に入れた。その選択はカミさんの仕事。10時までに準備を完了させて、10時過ぎ出発。一応ナビにはR254経由で、最初の道の駅:マルメロの駅ながとを目ざすよう設定した。

ということで、無事出発し、安曇野IC脇を通って犀川に架かる橋を渡り、R19に出て長野方面へ向かう途中からR254に入る。いつものコースである。そのまま道なりに進めば良かった筈なのだが、何と途中でナビが突然変なガイドを開始し始めたのだ。上田の方向ではなく、交差点の信号を山の方に向かう道をガイドしたので、何か変だなとは思いつつ道脇の道路標示板を見たら、確かにR254とあったので、一応信用することにしてそのままガイドに従うことにしたのだった。

ところが、これがとんでもないガイドで、道はいつものR254のイメージとは全く異なる、曲がった山道をガイドし始めたのだ。全山紅葉を見たいと何度も口走っていたので、ナビがその意を勝手に斟酌して、紅葉の山道をガイドしてくれたのかなどと最初は冗談を言いながら行ったのだが、道は次第に細くなってカーブが増し、厳しさを増して来て、紅葉どころの話ではなくなってきた。1時間ほどそのまま進んでいると、何と美ヶ原とか王が頭などという案内板が現れ出したではないか。これは一体どこへ行こうとしているのか。それらは夏以外は決して行くことのない場所なのだ。行く先を長和町の道の駅としていたので、もしかしたら和田峠の方へガイドしているのかなと思ったのだが、どうもそれにしては変なのだ。やがて道が別れているので、左の方へ行くと、何やらカーブの番号表示があり、それを見ると350番台となっていた。山を降りるのにはこの道しか無いのではないかと思って選んだのだが、これから300箇所以上もカーブをこなさなければならないのかと思うとうんざりした。今更引き返すわけにもゆかないので、しかたがない。そのまま坂を下ることにした。それから1時間以上かかってようやくカーブの番号が一ケタになり、どこか知らぬ集落に出た。燃料も少なくなって来ているので、早々に道の駅まで着いて貰わないと困るのである。ようやく国道らしき道に出て、間もなく道の駅の案内板が目に入った。やれやれである。本来なら1時間前にはここに来ている筈なのに、何というガイドをするナビなのだ!腹が立つというよりもナビに翻弄された自分に、何だか呆れかえってしまって、力が抜けるのを感じた。山道近郊のエリアでは、今後は二度とナビに頼るのを避けなければならないと固く思った。何年か前まではナビなし主義でやって来たのであり、全国何処へ行くにも地図を主体に事前に調べ尽くすほど眺めて旅をするように取り組んでいたのだが、周囲の人たちが当たり前のようにナビを取りつけ、それらを見ている内に時代に取り残されてはなるまいと思うようになり、とうとうナビを取りつけたのだが、このようなトンチンカンな目に何度か合っている。その中でも今回ほど酷い目にあったのは初めてだった。ナビの設定の仕方が間違っていたのでは?というのがカミさんの指摘だが、今回に限っては間違っているとは思えない。間違っているのは明らかにナビの動作の方なのだ。

さてさて、どうにか道の駅:マルメロの駅ながとに辿り着いて、しばらく小休止。この道の駅には何度も訪れているけど、今回はコロナ禍の所為なのか、車も人も少なくて寂れている感じがした。

一息入れたあと、気を取り直して次の道の駅:ほっとぱーく浅科を目ざして出発する。浅科に着いたら昼食にするつもり。20分も走れば到着すると思っていたのだが、いつもの道を行くと、何と道の駅の案内板があり、それには女神の里立科と書かれていた。そんな道の駅は聞いたことが無い。もしかしたらリニューアルか何かして、駅の名称も変更したのかと思った。その場所は以前記憶しているのと同じ感じがしたからである。ただ、構内のレイアウトが以前とはかなり変わっているようで、何だか変な感じだった。取り敢えず昼食にすることにして、何か売店で弁当のようなものが売られていないかと覗いてみたのだが、食事に係わるようなものは一切置かれていなくて、ありふれた野菜類などしか並んでいなかった。以前の浅科とはかなりレベルダウンしているなと思った。取り敢えず湯を沸かしカップラーメンなどの即席麺で腹を満たす。ここからはもっとしっかりと浅間山が望見出来た筈なのだが、どうも少しいつもとは姿が違う感じがした。

 何だか変な気分で食事を終え、取り敢えず給油をしなければならないと考え出発する。15分ほど走ると、何とほっとぱーく浅科という案内板が出て来たではないか!どうやら本物のようだ。とすると、先ほどの女神の里とかいうのは新しい道の駅なのであろう。それにしてもこんなに近くに二つも道の駅が必要なのだろうか?  立科というから立科町が作ったのだとは思うが、あまりにもものまね仕事で町の発展にこれじゃあ何の貢献もしないだろうなと思った。全国を回っていると、時々隣村や隣町らしいのが、このような猿まねの思いつきで作った全く独創性の無い道の駅に当ることがあるが、がっかりするだけである。女神の里とはどういういわれの命名なのか知らないけど、何が女神なのかサッパリ解らない。ここからは蓼科山は見えないし、見えるのは浅間山だけだ。何だか腹が立って、浅科の道の駅もパスして、下仁田方向を目ざす。途中佐久市郊外で給油を済ませ、その少し先のスーパーで少なくなってきた飲料水を買い入れる。燃料も水も今回の旅の行程計算では、途中の補給は不要と読んだのだが、2年間のブランクは旅の行程づくりの勘を鈍らせたのかなと思った。

その後はR254を走り続けて、間もなく荒船山や妙義山等の山の中を行くこととなった。これらの山々は、いつも岩肌や岩石むき出しの厳しい姿をしているが、今日はそれらの山肌に紅葉の樹木たちが取付いて、全山紅葉とは少し違った趣の景観を為していた。間もなく下仁田町に入り、右折して県道に入る。少し道幅が狭くなり、曲がりも多くなって、何だか運転し難い道となった。地図では単純な一本道に見えたのだが、実地はそうではなく、それなりの山道だった。

14時丁度、道の駅:オアシスなんもくに到着。谷川に沿った僅かな平地に建物と駐車場があった。南面に大きな山が迫っており、こりゃあ大雨が降り続いて時など、山崩れが起きたりしないかなあと、ふと不安を覚えた。どういう地質なのか知らないけど、この山は一枚岩ではなさそうだった。このような場所にしか造れない村のご苦労を思った。

駅舎の中に入り、売店などを覗いたのだが、目当てのパンはもう在庫が少なくっていた。カミさんが聞いた話では、パンを作っておられる方は毎日ではなく、週に何回かここで販売するとのことだった。それに、何と明日はこの道の駅は休みだという。少しがっかりした。同時にこのようなペースで道の駅の営業をしていて、本当に村の活性化や村興しができるのかなと疑問を感じた。旅人は気まぐれだから、最初の一度の印象で再来の気持ちを固めてしまうものなのだ。このような営業ぶりでは、リピーターが増えるとは思われない。もっと工夫が必要ではないかと思った。道の駅というのは、造るまではエネルギーを注入するのだが、その後は力が抜けてしまって、そのままで進化が止まってしまうというケースが多いようだ。全国千カ所以上の様々なエリアの道の駅を見て来ているけど、竜頭蛇尾で村興しが終わってしまっている姿を見ると、何だかがっかりしてしまう。この道の駅は、そうならなければいいなと思った。

 とにかく今日はここに泊ることにして夕食の準備などに取り掛かる。今回の旅ではまだご飯を炊いたことがなかった。が、今夜はご飯を炊いて今朝道の駅ほりがねの里で買った、お母さんたち手づくりのおかずがあるので、それらを味わうことにした。そのおかずで軽く晩酌をした後、久しぶりに温かいご飯を食べる。美味い。この頃は何故かご飯が美味いのをより強く感じるようになっている。日本の米は弥生時代に始まるというけど、自分は米は弥生人が普及させたのではなく、米を食べた縄文人が米の美味さに中毒状態になって普及したのではないかと思っている。自分は確実に縄文人の末裔だと思っている。日本の古代史を読むたびに、知る度にその確信が固まって来ている。

道の駅は静かで、今夜ここに泊る車は我らだけらしい。ちょっと寂しい。そして不安もある。コロナ禍の中にあって、夜中に人が集まることも無いとは思うけど、今の世は時々とんでもないことが起きる話もあるので、油断はできない。しっかり鍵をかけて、早めに寝ることにする。この地の夜も冷え込みはきついようだ。2日ほど車中泊を経験して、少し慣れてきているので、寒さ対策は大丈夫。TVもラジオも無しで、あとは黙って眠るだけ。秋の夜は長いというけれど、旅の無沙汰の夜は更に長いことになる。というわけで寝床にもぐりこみ、眠りがやってくるのを待つことにする。ほんの少し妄想を楽しんでいる内に眠りがやって来た。

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