第17日 <10月18日(土)>
道の駅:宇陀路大宇陀→(R370・R166・R165・R169)→大神神社(奈良県桜井市)→(バス利用)→石上神宮(奈良県天理市)→(山の辺の道散策歩行)→あきのの湯→道の駅:宇陀路大宇陀(泊) <39km>
今日は天気が良さそうである。関西方面の旅では、必ず山の辺の道を歩くことにしているのだが、今日はその歩きには絶好の日和のようだ。大宇陀の道の駅の直ぐ後ろの山側にはお寺さんがあって、その境内の山もみじがそろそろ紅葉し出しているのだが、未だ本格的な色にはなっていないようである。今年も暖冬なのかもしれない。7時半頃から、この道の駅でも地元の野菜などを売り始めている。結構元気な市場なのだが、売り場が狭くて、農家の人たちの思いを届けるには支障があるような気がする。行ってみると、ここでも黒豆の枝豆が売られていた。またまた嬉しくなって買ってしまった。
食事を済ませ、大神(おおみわ)神社に向けて出発。山の辺の道は、桜井市の大神神社と天理市の石上(いそのかみ)神宮との間の約13kmを歩くのだが、行く度に出発地点を交互に替えて歩くようにしており、今回は石上神宮から大神神社を目指して歩く番である。
先ずは大神神社の駐車場まで行き、そこに車を置いて、バスに乗り天理方面へ向う。大神神社を出発して、石上神宮に着いたのは、丁度10時頃だった。桜井から天理の市街に至るR169からの景観は、不断滅多にバスに乗らない自分たちには、結構楽しい時間である。奈良時代の史跡が幾つも残る中を走っているのだと思いながら、左右の景観を楽しむ。巨大な古墳なども幾つかあり、歴史の重さと深さを感ずるのである。30分足らずの小さなバス遊覧の時間だった。天理の市役所前近くのバス停を下りてから神宮までは2kmくらいあって、結構時間がかかる。
歩きの出発前に、神宮の本殿に参拝する。ここでは心経は誦さない。大樹に囲まれた神宮の、掃き清められた境内には清々しくも厳かな雰囲気があって、身も心も清めてくれる感じがする。
石上神宮本殿。鬱蒼とした森に包まれた敬虔なイヤシロ地である。
荷物の運び役は相変わらず拓の担当で、今朝作ったおにぎりを背負って、歩きの開始である。山の辺の道は、桜井と天理間だけではなく、もっとあるらしいが、まだこのコース以外を歩いたことはない。まさに奈良盆地の東に連なる山々の裾を縫って作られた道は、その名に相応しい。奈良時代頃からの飛鳥と奈良とを結ぶ往還だったのであろうか。小さいけど結構きついアップダウンの続く小道である。
山辺の道。三輪山に近いこの辺りは、古道の雰囲気のある道となっている。
時に小さな森の中を潜り抜け、時に柿やみかんの畑の中を通り、所々に神社やお寺の境内を通って、その道は続いている。道端には、地元の農家の自動販売所が至る所に設けられていて、100円玉1個でみかんや柿や野菜などをゲットすることが出来る。変化にとんだ素晴らしい歩きの道だと思う。もし自分がこの辺りに住んでいたなら、この山の辺の道に枝道を見出して、新しい自分なりの歩きのコースを作るのになあ、などと思いながら歩いたのだった。邦子どのも意外とへたることなく歩いていた。重いカメラを持っているので、急な上り坂などにはそれを持たされることもあった。何しろ不断から拓は運輸省(今は国土交通省)担当、邦子どのは大蔵省(今は財務省)担当と役割は確定してしまっている。
半分くらい歩いた所の休憩所で、お昼にする。今日は絶好の歩き日和となって、少し暑いくらいで汗も掻いている。我々の他にも大勢の方が歩いており、休憩所は坐る場所を探すのに手間取るほどだった。早速担いできたリュックからおにぎりを出しパクつく。何時もだとコンビニのおにぎりなどを買ってくるのだが、今日は横着をしないで自家製のものを持参した。やっぱりこの方が層倍のうまさである。うめえ~、などといいながら30分ほど休む。
その後も時々脇道にそれながら写真を撮ったりして、十二分に歩きを楽しんだ。お昼が済んで軽くなったリュックは、そのあとみかんなどを幾つも買い込んで、来た時よりもはるかに重い荷物と相成った。大神神社が近くなると、次第に山が近づき、奈良平野が一望できるようになる。この辺りからの景観は、古代の都近くに住む人たちの暮らしの匂いが漂ってくるような感じを覚えるのである。都といっても恐らく人口1万人あるか無いかくらいの規模なのではないか。現在の都市感覚では窺い知ることは出来ない世界だったのではないかと思う。今の時代に竃(かまど)から立ち上る煙はない。竃すらないのだから。
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大神神社本殿。後ろに控える三輪山を御神体として、飛鳥時代から多くの人びとの信仰を得ている。
無事に大神神社に着いて、参拝を済ませ、車に戻る。邦子どのは参道の入口近くにある手工芸品を売る店に以前から関心があり、そこに立ち寄るので、先に車に戻ってお湯などを沸かし、お茶を飲んで一休みする。万歩計を見たら2万4千歩超えていた。14時少し過ぎの時刻なので、約4時間の歩きだった。お昼の休憩以外は休みなしだったので、結構ハードな歩きだったと思う。へたることなく今でも買い物に精を出している邦子どのも結構丈夫なのだなと思った。しばらく経って、何やら手に入れたらしく満足そうな顔をして戻ってきた。
さて、これからどうするか。とにかく汗を掻いているので、先ずは風呂に入りたい。桜井市郊外にあすかの湯というスーパー銭湯があるので、そこに行こうかとも思っていたのだが、どうせなら温泉の方が良いだろうということになり、昨日は無料で入ったあきのの湯に、今日は有料でもう一度入ることにし、その後は大宇陀の道の駅でゆっくり疲れを癒すことにした。
16時、あきのの湯に到着。長期滞在でもないのに、連続して同じ温泉に入ることは珍しい。今日は土曜日ということもあって、あきのの湯は昨日よりは少し混んでいるようだった。山辺の道の歩きのことを反芻しながら思い浮かべて、たっぷりと汗を流して今日の疲れを取る。いい湯だった。すっかり暗くなった中をほんの少し走って道の駅へ。
夕ご飯の前の一杯の肴は、勿論今日も黒豆の枝豆である。どっさり茹でて、もうご飯も無用という感じだった。枝豆は殻があるので、思ったよりも食べる量は少ない。それに繊維質に富んだ食べ物なので、明日の朝の通じの快適さは保証されている。毎日枝豆を食べていれば、便秘などという体調不良は起こらないと思っている。但し某国産の冷凍枝豆などは要注意だと思う。少し余計なことに触れたけど、寝る前にもう一度万歩計を見たら、なんと31,724歩となっていた。これは今のところ今年の1日の歩きの最高記録である。何やかにやで20kmくらいは歩いたことになる。その割にはそれほど疲れは感じない。ま、早寝に越したことは無いので、20時にはもういびきの世界をさ迷っていた。
◇「色」の2系統について
妙なタイトルである。我々は色(=現象)の世界に生きているのだと思うが、その色の世界には二つの系統があると観自在菩薩はおっしゃる。一つは「色」という物質的現象の世界であり、もう一つは「受想行識」という精神作用の世界である。
この物質的現象と精神作用が共に空という本質から生まれ出ているという考え方は、究極の部分において論理的ではない、飛躍があるような気がするが、人間という生き物の場合は、やっぱり精神的作用というのも空に生まれ空に還るのではないか。人は物質的な存在として生まれ、そこに宿った精神的な作用が肉体と相俟って成長を遂げ、やがて肉体が滅びると共に精神作用も消え去ってゆく。物質的現象と精神作用はその中身が相反することはあっても、常に不即不離の関係にあり、したがってこの両者は間違いなく色として存在しており、その本質もまた同じ空であるということが出来るのではないか。
心と身体が不即不離の関係でなくなったとき、人間は人間としての実体を失う。それを死と呼ぶ。死の対極にあるものが生であるが、生の前に何があるのか、死の後に何があるのかといえば、それは空である。空と言うのは空っぽの何もないものではなく、空と呼ぶ存在がそこにあることを意味しているのだと思う。何もないところからは生は形成されないし、精神作用も生まれては来ないと思う。
このように考えると、今更ながらに色というものが人間にとって極めて重要だということに気づく。人間は空は認識できないけど、生きている間は色の世界にいるのであるから、その色(=心+身体)をありがたいものとして目一杯享受してよいのではないか。というよりも色を享受することそのものが生きているという証なのだと思うのである。受想行識のもたらす様々な喜怒哀楽現象は、生きている証拠なのであり、それがなければ生きていることにはならない。
あれこれ想い惑って、ここに至って残りの人生の大切さに気づくのである。つらいことも楽しいことも哀しいことも嬉しいことも、全て生きているという証であり、それは等しく享受しなければならないのである。これから先必ず厳しいことに出会うに違いないが、自分の色が終わるまでは、ありがたいこととして、生を享受してゆきたいと思っている。