山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

漫画と現世が同居する場所

2017-12-12 05:58:11 | 旅のエッセー

 晩秋の旅で鳥取県や島根県など中国地方の日本海側を訪ねた。11月半ばのこの季節は、風が強く吹いて季節の冬への移行を顕わにしている感がある。今回も強風は鳥取砂丘に嵐を到来させ、砂粒を全ての来訪者に吹き撒いていた。一夜泊った北栄町の道の駅では、終夜旅車を揺るがし続けていた。この地方の冬の厳しさを思わせる体験だった。

 鳥取県は二人の偉大な漫画家を輩出している。一人は亡き水木しげる氏。もう一人は青山剛昌氏である。それぞれの代表作といえば、水木氏は「ゲゲゲの鬼太郎」青山氏は「名探偵コナン」である。これらのマンガを知らない人で、もしその人が日本人ならば、それは変人か仙人のような類の人物に違いない。大衆の中に居ることに安心感を覚える人ならば、誰でも本や動画でお目にかかっている筈である。

 自分的には水木しげる先生の漫画作品に昔から共感するものが大だった。妖怪に対する親近感を覚えるようになったのは水木先生のおかげだと思っている。墓場を怨霊などが屯(たむろ)する恐怖の場所と思いこんでいる人は多いと思うが、自分はもう、そう思わなくなっている。歳を取り過ぎて自分自身が妖怪化しているからなのかもしれないけど、水木先生の妖怪に対する考え方に共感を深めるようになって以来、意識は急速に変化したのである。そして、妖怪というのは実在すると信じている。水木先生は手塚治に比肩する偉大な漫画家だと思っている。

ところで青山剛昌という方を知らなかった。真に失礼千万で申し訳ない。作者よりも先に、その作品の主人公に強く魅せられたのがコナン君である。現代のセンスが随所にちりばめられた作品である。科学的、論理的そして空想的推理の面白さを味わわせてくれる、コナン君が活躍する世界を想うのは楽しい。

青山先生がその作者であることを知ったのは、大栄町(現在は北栄町)にある道の駅を初めて訪れた十数年前のことである。構内の端の方に小さなコナン君の銅像が建っているのに気がついて、どうして此処にこれがあるのか不思議に思ったのがそのきっかけだった。そのコナン君の生みの親である青山先生がこの地出身の方だったのである。それ以降、コナン君のTVを見る度に北栄町への親近感はいや増し続けている。

 さてさて、今回の旅では、このお二人の作品の世界が単なる空想に止まらず実在しているのを実感したのだった。

先ずはコナン君の世界である。今回初めて道の駅の裏に「青山剛昌ふるさと館」というのがあるのに気がついた。10年も前に開館していたのに知らなかった。その日は時間的に無理だったので中には入れなかったが、その代りに早朝散歩で、道の駅から1kmほど離れた所にあるJR由良駅まで歩いて往復したことで、この町がコナン君への思い入れが半端でないことを知って驚き、又感動したのである。

道の駅からJR山陰本線の由良駅に向かって歩き出すと、直ぐに目に入るのが「コナン駅」という道案内のオフィシャル看板である。由良駅の別名なのであった。バス停のベンチの脇に屈み込んでいる男がいて、その傍に行ってみるとそこにコナン君が居るのである。又、その通りを300mほど歩くと運河のような川に橋が掛っており、その欄干の袂にもコナン君がいて、その橋の名がコナン大橋となっていた。橋を渡り道路を右折して少し行って左折すると、その道がコナン駅に向かう通りとなるのだが、その通りの両側にはコナン君の所縁(ゆかり)の何人もの友達たちが、あのマンガの一場面の中に居るようにいろいろなポーズで佇んでいるのである。そして駅前には等身大を超えるコナン君が、駅からの乗降客を迎えるように立っている。最早この世界はマンガと一緒になった現実世界となっているのであった。このような像だけではなく、コナンの家パン工房などというのもあって、この辺一帯は恰もコナン君の世界をそっくり受け入れて暮らしている感じがするのである。

 

バス停には眠りこける毛利探偵がいて、その脇にいつものスタイルで話すコナン君がいた。

コナン大橋とコナン君の像。

コナン君の友達の女の子の一人。名前は覚えていないのでゴメン。

コナン君の友達の太った男の子。名前は覚えていないのでこれもゴメン。

このようなマンガの世界が現実の中に息づいているのを見るのは、実は北栄町の此処だけではない。もう一人の偉大な漫画家水木しげる先生の出身地の境港市の場合も同様である。境港市の場合は、街の中心地に水木しげるロードというのがあり、そこへ行くと先生の作品に登場する主人公の鬼太郎や目玉おやじ、ねずみ男や猫娘は勿論、様々な妖怪たちの大小の銅像が通りの至る所に解説付きで並んでいるし、米子空港は米子鬼太郎空港となっている。

境港市水木しげるロードの中のアーケード街。この奥に記念館がある。

ねずみ男の銅像。鬼太郎に次ぐ人気者のようだ。

おなじみのこなき爺の像。リアル感大である。

これもおなじみの砂かけ婆の像。

通りの中には妖怪神社もある。いやはやもうここは妖怪たちとの共同体である。

なんと、通りの中には妖怪が歩いているのだ。これは砂かけ婆のようだ。

今回の旅では境港を訪ねることはできなかったのだが、思わぬ所で水木先生の作品所縁の銅像などにお目にかかれて、驚き感動した。それは隣の島根県出雲市郊外にある一畑薬師というお寺に参詣した時だった。境内の中に目玉おやじの小さな像があり、そこに「おやじは寝るもの」とあったのを見て、何だか嬉しくなった。又本堂近くには「のんのんばあとオレ」という二人の人物の像があり、のんのんばあというのが実在の景山ふさという方であるのを知った。この方は水木先生の実家に勤められたお手伝いさんで、しげる少年に妖怪について語るなどして絶大な影響を及ぼされた方だったとのこと。のんのんというのは、この地方では神仏を拝む人のことをそう呼んでいたとのこと。景山さんのご主人がその拝み手で、熱心な一畑薬師の信者だったことから、のんのんばあという呼ばれていたのだとも書かれていた。水木しげる先生の世界は、境港市だけではなく、広くこの日本海側の風土の中で育まれ、それは生涯消えることなく、先生の作品の中にとどまって居るのだなと思った。のんのんばあとオレという像を見ていると、何だかその傍には大勢の妖怪たちが取り巻いて、二人を嬉しそうに見上げているのを感じたのだった。

一畑薬師の境内にある目玉おやじの像。ここでは涅槃おやじとなっている。

昔はマンガをバカにするといった風潮があったのだけど、今はそのようなものは拭い去られて、作品の中の登場者たちが現実世界の中に共生しているのを何だか微笑ましく思ったのである。現代はTVやネットなどの情報の技術革新がもたらすバーチャル世界が、様々な問題を起こしているように感じているのだけど、このようなマンガ世界との共生は悪につながる心配とは無縁のように思えて、ほっとするのである。

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碧祥寺博物館を訪ねる

2017-07-05 03:31:33 | 旅のエッセー

 岩手県西和賀町の沢内という所に本宮山碧祥寺というお寺がある。このお寺に、この地方の民具などを集めた博物館がある。そこには、このお寺の先代の住職(第14代)が、村の教育長、村長を務める傍ら私財を投げ打って近隣各地から集めた膨大な民具や資料が展示されている。ご住職は、現代化が進むにつれて急速に失われてゆくこの地方の少し前(昭和30年代頃)までの暮らしの証となるさまざまな用具や資料を、何とか保存して残し、後世に伝えたいと思い立たれて、それを実践されたのである。その膨大なコレクションが、庫裡や新しく造られた二つの収蔵庫に残されている。これらのコレクションの中には、国の有形民俗文化財に指定されているものが数多くある。雪深いこの地の暮らしは、相当に厳しいものだったに違いない。その分だけ、生きるための暮らしの知恵は、暖地や都会に住む者には想像できないほどの独創的な力を持ったものなのだ。それはここに収められている多種多様な民具を見ていると、自から伝わってくることなのだ。

 旅というのは、たった一度だけその地を訪ねて、優れた景観や美味なる食べ物などを味わいさえすればそれで良いという考える向きもあるのだけど、くるま旅を提唱する自分は、同じ場所を何度も訪ねることに意義があると考えている。その地の本当の良さは、たった一度や二度の訪問などでは到底解る筈がないと思っている。訪ねる回数が増すごとに味わいが増す。そこにこそ、くるま旅の真価があるのではないか。同じ場所を何度訪ねても少しも飽きがこないという旅こそ、本物のくるま旅なのだと思っている。人間の出会い・発見とそれに伴う感動は無限・無数であり、それを創り出し味わうことこそがくるま旅の本質なのだ。碧祥寺博物館は、そのくるま旅の醍醐味を味わわせてくれる場所の一つである。ここを訪ねるのはまだ2度目なのだが、このあとも東北を巡る旅では可能な限り寄り道をして、奥羽山脈の懐深い山里のその昔の暮らしを思い描いて見たいと思っている。

碧祥寺博物館は、5つの資料室が3つの建物の中にあり、第1から第3資料室はお寺の大きな庫裡がそれに充てられ、別棟として雪国生活用具館とマタギ収蔵庫が建てられている。旅をしていると、各市町村に民俗資料館などが数多く存在していて、その土地の暮らしの歴史の証を示す様々な民具や用具などが展示されているのを見ることが出来るのだが、この碧祥寺博物館ほど膨大な土地の歴史の証を取り揃えてある場所は無いように思う。国立や県立等の博物館とは違った、たった一人の発案と行動で成し遂げられた、その人の思いのいっぱい詰まった品々が数多く収蔵され展示されている、他とは一味違った感動を覚える場所なのだ。

碧祥寺博物館第1.2資料室のある庫裡。この中には膨大な数の民具などが収められている。

第1,2資料室に入ると、江戸末期の頃から昭和の戦後辺りに至るまでの、この地に住む人たちが暮らしの中で大事にしていた、大小様々なの民具などが数多く展示されている。それらのすべてを短時間で見るのは不可能と思われるほどの量である。恐らくもう不要となったそれらの品々を、近隣の人たちから譲り受けたりして集められた物なのだと思う。自分のような戦前に生を受け、戦後の厳しい社会経済環境の中で子供時代を過ごした者には、何とも言えない懐かしさを覚えるような民具も数多くあり、あの頃の貧しくてもそれなりに目一杯生きていた時代を思い出すのである。

民具の中にはオシラサマなどの信仰の対象となっていたものも混ざっており、それらを見ていると遠野物語の世界を思い出す。遠野は、奥羽山脈のはるか東に位置する早池峰山や六角牛山などの山麓に位置する山国だけど、この奥羽山脈和賀岳の西麓にある沢内村も、その暮らしぶりにおいては殆ど変りはなかったのではないか。都会からはるか離れた閉ざされた空間の中では、そこに暮らす人々の思い描くものは、遠野でも沢内村でもそれほど違わなかったように思えるのだ。遠野には「遠野物語」のような記録の数々が残っているけど、この沢内村でも、もし柳田や佐々木喜善といったような方が居たなら、「沢内物語」が出来上がっていたに違いない。数々の民具を見て回りながらそのようなことを想った。

雪国生活用具館の中に入ると、大型の生活用具が目立った。雪国の暮らしには、季節を通して様々な工夫によってもたらされた、様々な生活用具があるのを知った。中には見知っているものもあるのだが、展示されている物の多くは初めて見るものであり、その使い方も見当もつかないほど不思議で且つ迫力あるものだった。ワラビの根からでんぷんを抽出する大型の木製の桶は、大木をくり抜いて作った野性味あふれた造作物であり、この地の食料調達の厳しさを思わせた。又橇(そり)といえば、ワンパターンの形しか思い浮かべられなかったのだが、実際にはその用途に合わせて様々な橇が作られ使われていたのを知り、その暮らしの逞しさに感動したりした。

雪国生活用具館の景観。4月下旬のこの時期は、建物の周辺にはまだかなりの残雪があった。まさにここは雪国なのだと思った。

自分的に一番興味があったのはマタギ収蔵館だった。というのもマタギの暮らしぶりには何故か心惹かれるものがあり、その実際を知りたい気持が膨らんでいたのである。その最大の理由は、最近になって太古の人々の暮らしなどに興味を覚えるようになり、特に縄文時代の人々の暮らしに関心大なのである。マタギの人たちの暮らしは、その縄文人の暮らしにつながっているように思えるのである。農耕の暮らしが始まった弥生時代よりも遥か前から何千年も続いていた、狩猟と採集の暮らしの縄文人に魅せられるのだ。特に狩猟というのは生き物を捕獲することで暮らしを成り立たせるのであるから、一個人の腕前だけでは限界があり、集団の力がどうしても必要となる。マタギの人たちは、そのために必要な掟を決め、それを厳しく守って暮らしを継続してきたのである。展示室にはそれらの掟を定めた巻物なども展示されていて、「ああ、あれを手にとって開いて見てみたいなあ」と思った。今が食べ時の美味しいご馳走をガラス越しに見せつけられているようで、何とも悔しい思いの見学だった。

マタギ収蔵館の入口の景観。内部の展示資料は撮影禁止なので紹介できないのが残念。

というようなわけで、ワクワクしながら、時に遠野物語の世界を思い浮かべたりしながら、或いは前後の貧しかった時代を思い起こしたりしながら、外は雨の降る中を2時間ほどの見学を済ませたのだが、残念なことに展示資料については撮影禁止となっており、ここに写真を掲載できないのがもどかしい。これは文化庁とやらの指示によるものらしく、何だか通り一遍のやり方のように思えて疑問を感じた。というのも、今の時代は、カメラのフラッシュなどたかなくても、写真はそのままできれいに撮ることができ、展示物に害を与えることなどない筈なのだ。何で撮影禁止なのかが判らない。

訊くところによると、文化庁の指定はただ指定するだけで、保護や維持に関する予算的手当てなどは無いということである。このままでは折角のコレクションも維持が難しくなって、空中分解しなければよいがと思ったりした。これだけの収蔵物を一個人や財政の厳しい町の行政にゆだねて維持してゆくのには無理があるのではないか。文化庁の役割の仕組みがどのようなものか知らないけど、「重要有形民俗文化財」として指定するなら、その保存・維持に不可欠な支援は為すべきであり、経済的側面のみならず展示品の紹介解説等についても学芸員を派遣して整備するなど、専門的な面からの支援を行うべきではないか。このままの状態では、やがてはその名称も使われ方も忘れられて、ただ物だけが残るといった状態になりかねない、そのような展示物が結構多くあるように思った。きちんとした記録を残し、明文化された解説資料がもっともっと用意されなければならないのではないかと思った。それこそが文化庁の義務ではないか。

見学が終わっても未だ雨は降り続いていた。境内にはまだ解け残った雪の塊が幾つか残されており、今見て来た世界を証明する現実の世界が目前に広がっているのを感じた。200年前の今頃もこの残雪のある景色は今の時代ともそれほど違わなかったのであろう。もう後戻りする必要もない現代に居るのだけど、200年前の先祖たちの暮らしを忘れたてはならないのだ、と思った。

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羽黒岩伝説と遠野幻想

2017-07-01 03:39:50 | 旅のエッセー

東北を巡る旅では、遠野を外すことはできない。何故なら遠野には昔のこの地方の暮らしの思い出がいっぱい詰まった話や場所がたくさん残っているからである。遠野を旅した人なら、「とおの物語の館」に立ち寄って、地元のおばあちゃんが語ってくれる昔話、そう、「昔、あったずもな、で始まり、‥‥‥どんどはれぇ」で終わる、遠野弁での解りにくいけど、何となく土地の温もりの伝わってくる話を聴かれたことがあるのではないか。遠野は民話がいっぱい生まれ、育ち、そして残っている土地であり、そのことは柳田国男の遠野物語にも数多く書き留められている。

今年(2017年)の東北春旅の中で、遠野を訪れたのは4月下旬だった。その日は夜明け近くまで雨が降り続き、日中の天気回復も期待できそうもないので、予定していた荒川高原牧場(国指定重要文化的景観)に行くのを諦めたのだが、朝方になって雨がやんだので、一寸付近を歩こうと出掛けたのだった。泊っている道の駅:遠野風の丘は、国道283号線沿いにあり、どうやらこれは新しく造られた道のようで、下を走るJR線の近くに旧道らしき道があるので、それを市街地とは反対の方向へ歩いてゆくことにした。

初めての道であり、東西南北も見当がつかない。北国や日本海側を旅すると、時々東西南北の感覚が180度狂うことがある。特に南北の感覚が狂うことが多いのは、自分の育った土地では北の方に山があったのに、この地では南の方に大きな山があるという風な場所である。東西の感覚が狂うのは、育った土地では海は東側にあるのに、日本海側では西となってしまうからである。人は生まれ育った環境によって、方向の感覚が随分と違うものなのである。磁石がないとTVのアンテナ設定も覚束無いことを何度も経験している。

国道よりは少し道幅の狭いその旧道らしい道を歩いて行くと、直ぐに妙な物が道端に建っているのに気づいた。近くに行ってみると、何と大きな下駄だった。それは石で出来ていて、紅白の巨大な鼻緒が挿(す)げられていた。なんだろうと、案内の標識を見たら「遠野遺産第78号 羽黒堂と羽黒岩」とあり、傍に羽黒岩についての伝説の説明が書かれていた。また、もう一つの石には「湯殿山」と刻まれていた。直ぐ傍には朱色の鳥居が建っており、それらを見て、これは出羽三山に絡む修験道信仰に関係がある場所なのかなと思った。

羽黒岩伝説の残る出羽神社の入口にある巨大な下駄の案内標。

道の駅から歩き出してまだ10分ほどなのに、これは面白いものに出会ったと、俄然興味が湧き、その羽黒岩というのを見に行こうと決めた。参道とも思えない農道のような細い道を辿って歩きを開始した。間もなく道は森の中に入り、もう直ぐかなと緩い傾斜道を軽い気持ちで歩いていたのだが、300mも行った辺りから登りが次第に厳しさを増し、息が上がり出したのには参った。その羽黒岩というのがなかなか見えないのである。ハアハア言いながら登って行くと、神社と思われる粗末な建物が見えて来た。その傍に巨石があったので、これが羽黒岩だなと直ぐに判った。神社の掲額には「出羽神社」とあった。やはり出羽の修験道の山伏などと関係のあるものだなと思った。遠野のこの辺りにも山伏が布教のために訪れていたのであろう。

羽黒岩を御神体とするのだろうか。傍にあった神社は何の飾り気もない質素な造りだった。

その羽黒岩は、二つに分かれており、高い方は9mほどであろうか。てっぺんの方が少し欠けているのが、天狗に蹴飛ばされたという箇所なのであろう。近くに矢立松というのがある筈だが、それは見えなかった。松の代わりに何本かの杉の木が立っていたが、皆若いものばかりで、松の樹に変わるほどの貫禄はなかった。少し拍子抜けがしたが、恐らく松の樹は伐られたか枯れてしまったのだろうと思った。何年前に生まれた伝説なのか見当もつかないけど、植物がそのままの姿で今まで残ることはないのだから、これは仕方がない。それにしてもこれほどの巨石を蹴飛ばして頭を欠かせるというのだから、天狗というのは物凄いパワーの持ち主なのだなと思った。そこに出羽三山信仰の秘めた力の様なものを感じた。

羽黒岩。二つに分かれていて、右側の方が高い。てっぺんが少し欠けているのは、天狗に蹴飛ばされた跡だという。いやあ、おもしろいことを発想するものだなと思った。

いやあ、早朝からいきなりいいものを訪ねることが出来て、ラッキーだった。真に偶然であり、このような伝説があることもこの場所も全く知らない初めての来訪だったのである。説明板に「遠野物語拾遺」に収められているとあったので、旅から戻ったら調べなければならないなと思った。遠野物語は読んでいるけど、その拾遺というのは読んだことがない。楽しみが一つ増えたと喜びながら住まいの車に戻った。

さて、旅から戻って、早速「遠野物語拾遺」を買って来て調べてみた。以下はその全文である。

 「綾織村字山口の羽黒様では今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けしてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名を矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃は光明寺に保存せられている。」(遠野物語拾遺 題目:石 番号十 柳田国男)

これを読んで、首肯すること大だった。矢立松が無かったことも判明した。先年というのが何時のことなのか判らないけど、伐り倒されてしまったのだから在るわけがない。また、石には二つに裂けただけではなく、更にひび割れしている箇所も見られたので、天狗説よりも石自身がくやしがって裂けたという説の方が面白いなと思った。矢立松の由来に坂上田村麻呂が登場するのも面白いし、更にはこの将軍が射た矢の鏃(やじり)が現在も光明寺に保存されているというのも面白い。今回は気づかなかったので、光明寺に寄ることはなかったけど、今度行った時はお寺を訪ねてその鏃のこと訊いてみたいと思った。

遠野の伝説はそのほとんどが空想なのだろうけど、それらの話には現地、現物が存在しているのが面白い。伝説の生まれたその現地を訪ねることが出来るのである。この羽黒岩の他にもデンデラ野(蓮台野)やダンノハナ、それにカッパ淵など数多くその現地がある。

その昔(といっても僅かに100年ほど前までのことなのだが)、東北地方の長い冬の、閉鎖された空間の中での暮らしの中で、そこに住む人々は、何か目立った特徴のあるものや出来事に対して、様々な空想を思い描いたに違いない。伝説の多くは、恐らく冬の間に生まれたのではないかと思った。深深と雪の降り積もる、音一つ聞こえぬ世界の中で、耳を澄ませ目を閉じれば、出来事にまつわる様々な思いが膨らみ、そこに一つの物語が生まれてくるのを止めることができないのであろうか。それほどに東北の冬という季節は、寂しく厳しいものだったのだと思う。そしてその分だけ、心の世界は豊かに活動するのではないか。もしかしたら、その創作者の多くは老爺・老婆だったのではないか。自分の経験や親などからの話を孫に語って聞かせ、それが代々伝わって来ていて、その内いつの間にか空想ではなく現実の世界に定着してしまった、などということもあったのかもしれない。遠野の昔話は、今日のような騒々しく、暗闇の夜を忘れた、明るくて情報の入り乱れる世界に住んでいる者には、なかなか味わえない話なのだと思う。

現代に生きる人びとは、科学の力を頼んでの利便性を享受していることに甘えて、200年前の人たちよりも自分たちの方がはるかに優れていると錯覚していはしないか。よく考えれば、優れているのは、科学を頼んだ利便性だけであって、人間としての心の持つ力は、それほど豊かになっているとは思えないのである。むしろ、あまりにも効率や利便性などを追いかけるのに気を奪われてしまって、心をすり減らしているのではないか。現代の科学の進展をまるで自分の手柄のように錯覚して思い上がるのは、これは実はとてつもなく危険なことではないのか。羽黒岩の伝説に絡んであれこれと思いを巡らしている内に、ふと、そのようなことに思い至ったのだった。

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日本三大虚空蔵尊に詣でる

2017-06-26 02:53:33 | 旅のエッセー

小学校の4年生の頃だったか、父に連れられて村松の虚空蔵さんへ十三詣りに行ったのを覚えている。その頃は滅多に乗れなかった汽車(田舎の列車は皆SLだった)に乗れるのが嬉しくて、前夜は興奮して良く眠れなかったのを思い出す。十三詣りがどのようなものかも知らず、父から何か説明があったのかも知れないのだけど、それはさっぱり頭には入らず、とにかく汽車に乗れるのが嬉しくて、当日は上の空でお詣りに行ったのだが、肝心の村松の虚空蔵尊のことは何も覚えていない。

十三詣りというのは、子どもが誕生してから十二支を一巡りして十三歳となった時、ここまで無事に育ったお礼に、知恵と慈悲の仏様である虚空蔵尊(=虚空蔵菩薩)が祀られているお寺にお詣りするという習わしであり、自分の住んでいた茨城県北部では、東海村にある村松の虚空蔵さんにお詣りするのが普通となっていた。水郡線から水戸で常磐線に乗り換えての父と一緒の道行きは、子どもにとっては学校の遠足以上に興奮する小さくて大きな旅だったのである。

そのようなことから虚空蔵尊という名前だけは知っていたのだけど、この仏さまの智慧のことも慈悲のことも知らずに育っており、そのお力が我が身にどれほど肖(あやか)り得たのか。それは今でも如何わしい状態である。それもそのはずで、お参りに行った以降は虚空蔵尊のことなどすっかり忘れ果てており、この歳になってようやく寺巡りの中で、少しずつ認知できるようになったというレベルなのだ。

今年の東北の春を訪ねる旅の中で、日本三大虚空蔵尊と呼ばれている、虚空蔵尊を祀るお寺の内の2箇所に参詣し、村松の虚空蔵尊と合わせてそれらすべてに参詣するのを得たという次第。尤も、この三大虚空蔵尊とか或いは三体虚空蔵尊とか言われているお寺にはいろいろな見方があるようで、もしかしたら自分が参詣した宮城県登米市の柳津虚空蔵尊は、違っていたのかもしれない。でも、もう一つの千葉県鴨川市の清澄寺にも参詣しているから、一応は大丈夫だと思っている。

因みに虚空蔵尊については、次のような取り上げられ方をしているようだ。

<日本三大虚空蔵尊>

・村松山虚空蔵堂 ~ 茨城県東海村

・福満虚空蔵菩薩圓蔵寺 ~ 福島県柳津町

・柳津虚空蔵尊 ~ 宮城県登米市

・日蓮宗大本山清澄寺 ~ 千葉県鴨川市

 <日本三体虚空蔵尊>

・村松山虚空蔵堂(大満虚空蔵尊) ~ 茨城県東海村

・福満虚空蔵菩薩圓蔵寺(福一虚空蔵尊) ~ 福島県柳津町

・朝熊山金剛證寺(徳一虚空蔵尊) ~ 三重県伊勢市

三大と三体とは区分のベースが異なっているようであり、この中で双方に共通して含まれるのは、村松山虚空蔵堂と福満虚空蔵尊圓蔵寺の二カ所だけであり、三大の方は4箇所となっているようだ。これらの中で未だ参詣していないのは、三体の中の伊勢の朝熊山金剛證寺だけである。こうなったら、これは近いうちにどうしても参詣して、漏れないようにしたいと思っている。

 

今度の旅では、偶々福島県喜多方市の道の駅に泊っていた時に、市内観光をする予定が、雨降りだったので面倒になり、近くに他にどこかいい探訪先は無いかと探していたところ、柳津町に日本三大虚空蔵尊の一つの福満虚空蔵菩薩圓蔵寺というのがあるのを知った。しかもピンポイント天気予報を見たら、なんと柳津町だけに晴れマークの時間帯があると出ていたのだ。その時三大虚空蔵尊というのに、東北ではもう一つ宮城県登米市に柳津虚空蔵尊というのがあることを知り、ならば今回の旅でそこへも参詣すれば、三大虚空蔵尊の全部をお詣りしたことになるのだと妙な挑戦心を起こしたのである。

この日はとにかく柳津町の虚空蔵尊に参詣することにして、雨の中を向かった。20分ほどで到着したのだが、不思議なことに、降っていた雨は途中で止み、何と青空が覗く天気となってきたのである。これは虚空蔵尊のご威光の現われなのかなと思うほどだった。福満虚空蔵尊圓蔵寺は、只見川の急流が抉り削いだと思われる巨大な岩石の上に建てられており、海の傍の村松虚空蔵尊とは違った、大自然の厳しさを思わせる場所にあった。道脇の駐車場に車を止めて、急な石段を上がると、威厳を備えた立派な本堂がそこにあった。境内には未だ少し残雪があり、この地の冬の厳しさを思わせた。本堂の中に入り、参詣を済ませたのだが、肝心の虚空蔵尊のお姿は暗くて確認はできなかった。よく分からないけど、もしかしたらここも秘仏となっているのかと思った。元々仏像にはあまり関心がなく、自分の信仰の対象は虚空蔵尊という仏様であり、それは自分の勝手なイメージだけでいいのだと思っている。これは信心という姿からはほど遠いものだと、そう思って納得している。

会津柳津の福満虚空蔵尊本堂の景観。左手には下方に只見川が流れていて、このお寺は岩盤の上に建っている。右手にも幾つかの堂宇が並んでいる。

そのあと境内を歩きながら、さて、村松の虚空蔵さんはどうだったかなと、改めて訪ねる必要があるなと思った。10年ほど前にちょっと立ち寄っただけであり、その後は忘れ果てているのである。もしかしたら、この身に僅かに縋りついていてくれている智慧と思しきものも、あの十三詣りの際に虚空蔵尊が授けて下さったものなのかも知れないのだ。ま、身勝手な感謝心なのだけれど、そんな気持ちになった。

この会津の柳津の福満虚空蔵尊圓蔵寺を訪ねてから5日後、今度は登米市にある柳津虚空蔵尊を訪ねることとなった。こちらの柳津も同じ字を書くので紛らわしいのだが、同じ地名なのである。全国には柳津という地名が幾つかある。こうなるとどうして柳津なのかというのが気になる。それで分かったのは、どうやら柳の木と川というのが絡んでいるらしい。津というのは港であり船着き場という意味だから、柳津というのは、川端に柳の木などがあった船着き場もしくは川港ということなのであろう。確かに会津の柳津も只見川が傍を流れていたし、この登米の柳津も傍を北上川が流れている。偶々その柳津に同じような虚空蔵尊を祀るお寺があったということなのであろう。

登米の柳津虚空蔵尊は、会津のそれとは違って、ややインパクトが少ない感じのお寺だった。杉やケヤキそれに銀杏などの大樹に囲まれた森の中に、小振りのお堂が一つ鎮座していた。その本堂は屋根が六角形か八角形状に造られているのが特徴的だった。お寺の入口に縁起が書かれていたのを読むと、ここの本尊の仏像は行基上人の作であり、その後弘法大師が立ち寄って、本尊の脇に大黒天と毘沙門天の2像を刻んで備えたとか。会津と村松山の虚空蔵尊像は、いずれも弘法大師の作というから、このお寺の方が古いのかなと思った。行基上人は、弘法大師よりも100年と少し早い生まれである。しまし、まあ、本当はどうなのかわからない。境内の一番古い樹でも、樹齢が400年ほどというから、歴史の真実を証するものは何もない。本尊は秘仏ということだから、見ることはできないし、弘法大師作の2像も普通では見ることが出来ないのだから、やはり、仏像など構わない方が正解のような気がするのである。なお、ここの説明書きでは、三大ではなく「日本三所の一」と書かれていた。

仏像のことなど忘れて、境内にあった水を汲ませて頂いた。この水の方が、今日の自分にとっては虚空蔵尊の恵みのように思った。いい加減なようだけど、仏様というのは、常にどこにでもいらっしゃって、人間の喜怒哀楽の出来事をまんべんなく見ておられて、必要な時にそっと手を差し伸べて下さる、そのような存在なのだと思う。拝んでも拝まなくても、信じていてもいなくても、そのようなことは一切問題にしない、それが仏様という存在なのだと自分は思っている。

登米柳津虚空蔵尊の景観。4月下旬だったが、境内にはまだ桜が咲き残っていた。ここは樹木に囲まれた環境にある。

二つの虚空蔵尊を訪ねた後は、やはり地元の村松山虚空蔵尊のことが気になり、旅から戻って1カ月ほど後に参詣してきた。久しぶりの虚空蔵尊は、以前と変わらぬ威厳ある佇まいだったが、途中の道にはひたち海浜公園などが造られていて、すっかり周辺の景色が変わっているのに驚かされた。人間のやることは移り気が多い。それが時代のニーズだとしても、果たして虚空蔵尊の教えてくれる智慧や慈悲に叶っているのだろうか。ふとそのようなことを想いながら、つい先日油断事故のあった原研のある東海村を後にしたのだった。

東海村にある村松山虚空蔵堂の景観。ここは右手300mほど歩くと海があり、その昔は白砂青松の自然の中にあった。境内にはこの裏手に三重塔も建てられている。

 

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出羽の国 最上川

2017-06-21 02:46:59 | 旅のエッセー

最上川は、山形県を流れる東北有数の大河である。大河などというと、世界諸外国のそれと比べて、日本には大河などないと声を挙げる向きもあると思うが、それは河川の絶対的な側面だけを見ているからであって、仮に100kmに足りない川であっても、この国では大河と呼んでも差し支えない川が幾つもある。それは、そこに住む人々の暮らしの、川との密着度によって決まるからである。

最上川は出羽の国(≒山形県)一国だけを流れる川であり、今の世では一県一川ということになる。全長229km、全国第7位の長さであり、流域面積は9位となるけど、そのすべてが山形県ということになるだから、このような川は珍しいと言っていいのだと思う。

 山形県の中を何度も通りながら、最上川に架かる数多くの橋を何度も通っているのに、今までこの川について考えて見なかったのは真に迂闊だった。そう気づいたのは今年(2017)の東北の春を訪ねる旅で、置賜の桜を見ようと長井市に立ち寄ったのがきっかけだった。

 丁度その時、長井市に新しく開設した道の駅のオープニングセレモニーがあり、偶々通りがかりに面白半分に立ち寄って、その人だかりを覗いていたのだが、その道の駅の名称が「川のみなと長井」というので、一寸興味を抱いたのだった。川のみなととは何なのだろうと思ったのである。港といえば海だけのもので、日本には川の港などというものは無いのではないかと思っていたからである。

でも、よく考えて見れば、港というのは人や物を運ぶ舟が出入りする場所なのだから、河岸といわずに港と呼んでも良い場所もあって不思議ではない、そう思ったのだった。しかし、なぜこの長井という場所が港なのか?というのは見当もつかない。傍を最上川が流れてはいるのだけど、港らしい場所など全く見当たらず、理由が解らなかったのである。

 しかし、オープニングセレモニーの会場の中に、何故川の港なのかの由来が書かれた表示板を見て、なるほどと納得がいった。それによると、江戸時代のこの地は米沢藩の治める所であり、長井は最上川の舟運を利用した藩の交易のための一大基地だったということである。往時の輸送手段の最大のものは船便であり、米沢藩においては、藩内で生産された諸物資を長井まで陸送し、そこからは最上川の舟運で日本海の最大の交易港ともいえる酒田まで運んで、全国各地との交易をおこなっていたということなのだ。従って長井という所は、舟運によって栄えた米沢藩の一大交易港都市だったわけである。

 このような歴史のことは、地元の人たちにとっては真に当たり前のことなのだと思うけど、いつも通過するだけの者にとっては、全く気づかない無知の世界だった。セレモニーが終わった後、街の中や最上川の河畔などを歩いて見たのだが、往時の繁栄の証と思われる建物が街中に幾つか見られたものの、港の名残のようなものはどこにも見当たらなかった。今更ながらに、舟運が消え、鉄道さえも活力を失いつつある今の時代では、昔の面影を残すことが難しいことを思い知らされた感じがした。

その昔の面影などどこ吹く風のごとくに、長井市の中心部脇を悠然と流れる最上川。この時期は雪解けの水を集めて水量は豊だ。

 このことがあってから、最上川に対する関心が高まったように思う。こあと、最上川の少し下流にある朝日町の道の駅に泊った翌朝、2時間ほど早朝に最上川に沿った国道や県道を歩いたのだが、雪解けの水で量を増した川は、幾重にも曲がって流れており、一所とてまっすぐに流れている箇所は見当たらなかった。このような川を本当に酒田まで舟を操ることが出来たのかと思うほど流れは急で、危険個所ばかりが続いているように思えてならなかった。往時の船頭さんや船乗りの人たちは本当に命がけで舟を操っていたのだと思った。

長井市の少し下流にある朝日町辺りを流れる最上川。遠望できるのは、昭和12年に造られた旧明鏡橋。今は土木遺産となっている。

 最上川舟唄というのがある。難し過ぎて自分には到底歌えない唄なのだが、聴くことはできる。その歌詞に耳を傾けて見る。

 

酒田さ行ぐさげ 達者(まめ)でろちゃ

流行(はやり)風邪など ひかねよに

股大根(まっかんだいご)の塩汁煮(しゅっしるに) 塩(しんにょ)しょぱくて くらわにゃえちゃ

碁点(ごてん) 隼(はやぶさ) ヤレ 三ヶの瀬(みがのせ)も

達者(まめ)でくだったと頼むぞえ

あの女(へな) 居んねげりゃ小鵜飼乗り(こうがいぬり)もすねがったちゃ

山背風(やませかぜ)だよ あきらめしゃんせ

おれを恨むな風うらめ

あの女(へな)ためだ 何んぼとっても足らんこたんだ  

            (正調 最上川舟唄 ※掛け声は省略)

 

これらのことばを話しているのをまともに耳にしたら、土地の人でない限り、恐らく殆ど意味不明としか受け取れないと思う。でも、こうして書いて見ると、しみじみと土地の船乗りの男の心情が伝わってくる。愛する女性を想いながら、彼女のために命がけで舟に乗って荷を運んでいる、その厳しさ、哀しさが伝わってくるのである。

 唄の中にも入っている難所の、碁点、三ヶの瀬、隼の瀬などの近くを何度も通っており、特に三ヶの瀬辺りは、どうしてこれほど曲がるの?と言いたくなるほど「つ」の字状の流れであり、こんな危険な場所を一体どうやって舟を操るのかと思うほどである。

 この最上川舟唄は、大江町の左沢(あてらざわ)が発祥の地だとか。この左沢は何度も訪れている。最上川の川筋で繁栄したのはこの左沢だけだと思っていたのだが、ターミナルとしての長井があったというのを知って、又新たな気分で左沢を見て見ようと思った。

左沢は現在国の重要文化的景観に指定された場所であり、この地にある楯山公園(元古城のあった場所)に上ると、最上川の舟運で栄えた左沢の町の様子が俯瞰できる。この場所も最上川が大きく湾曲しており、それを巧みに利用して、舟運を以て発展した町の様子を見下ろすことが出来るのである。舟唄から、何度も訪れている左沢の景観を思い出した。

大江町の楯山公園から見た左沢地区。川の両岸の河岸を中心に、最上川の中間の港として栄えた所である。今は国の重要文化的景観に指定されている。

 最上川には、現在は舟運なるものは消え去って、僅かに観光用としての舟が運行されているようだ。何年か前に、最上峡近くの道の駅で休んだ時は、近くに舟乗り場があって、観光客が舟に乗りこむのを、少し驚きを持って見たのを思い出す。舟に乗れば恐らくあの舟唄が流れるのであろうけど、それを聴きながら、舟乗りたちの命がけの思いを思い浮かべることが出来る人がいるのか、どうか。唄は残っても、歴史の持つ厳しさや哀しさが次第に色褪せて行くのは、これはもう運命としか言えないのかもしれない。

 今回の旅で初めて最上川が出羽の国に住む人たちにとって大河であるということを、そしてその意味なるものを知ったような気がした。この川は出羽の国を形成する大動脈であったのだ。この地に住む人たちの暮らしを自在に操って、時に厳しく時に温かく、そして少しずつ豊かにしてきたのである。大自然のその力を、改めて畏敬の念を以て感じたのだった。

 

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置賜の二大老桜樹に想う

2017-06-16 03:56:47 | 旅のエッセー

 山形県南西部に位置する置賜地方の中で、長井市と白鷹町にまたがって「置賜さくら回廊」と呼ばれる、桜の老名木が点在する場所があります。置賜地方は、1万年以上も前から人が住んでいた遺跡の点在する、気候風土に恵まれた土地だった、というのを高畠町の「まほろばの里歴史公園」の中にある「うきたま風土記の丘考古資料館」を見学して知りました。この辺りは、東西にかなりの高さの山が連なり、そのほぼ中央を最上川が流れていて、それに沿って人々の住む町や村が広がっています。太古の地形は、現在とは大きく異なるものだったのでしょうが、それがどのようなものなのかは、見当もつきません。しかし、さくら回廊の桜の古老たちが生まれたのは、1200年ほど前ということですから、その頃は未だ原生林や原野が多かったとしても、全体の地形は現在とそれほど変わってはいなかったように思います。

 その置賜地方にある「さくら回廊」を訪ねるのが、東北の春を訪ねる旅の中での一つの楽しみとなっています。全国に桜の名所は数多くありますが、限られた地域の中に幾つもの一本桜の老名木がある場所は、それほど多くは無いように思います。老樹が多くあるというのは、古来より桜の木が生育するのに適した場所だったという証でもあり、そこは同時に、人間が暮らしの場を持ち続け得た、桜との共存共生の場でもあったということにもなるのではないか。そのように思えてなりません。

 思うに、桜というのは、古来より人々がその花をこよなく愛でた樹木であり、それは自然界の原野にあるそのままの姿を観るだけではなく、人々が暮らしの営みの傍に持ち来たりて植え、代々の時間を共有しながら今日までやって来た、特別な樹木であるような気がするのです。名木と呼ばれているような桜の樹には、単に花の美しさや樹の逞しさだけではない、もう一つの人間の歴史との関係が存在し、観桜の際にはそのことに思いを馳せることが大切なのではないか。そう思えてならないのです。

 さて、理屈はともかくとして、その置賜地方の桜の名木を代表する二本の老樹についての私の所感を述べたいと思います。その二本とは、長井市上井佐沢の久保桜、それから同じ長井市草岡の大明神桜です。今年は久しぶりにこの桜たちを訪ねました。つい2~3年前に訪ねたつもりでいたのですが、記録を見るとなんと前回の訪問から10年が経過していたのでした。桜たちにとっての10年は、人間のそれと比べれば瞬き一つの時間に過ぎないほどだと思うのですが、それでも今回は感ずること大でした。

 最初に訪ねたのは、久保桜でした。久保桜は、長井市の東を流れる最上川の更に東に位置した小さな盆地の上伊佐沢地区にあり、直ぐ傍に伊佐沢小学校があって、そのグランドの片隅に連なる小さな崖の上に、その痛々しげな老体を見せていました。

 

 今年(2017年)の久保桜の様子。大きな包帯を巻いたように巨樹の根元は厚く保護されているのだが、咲かせている花はほんのわずかで、痛々しい感じはぬぐえない。

樹齢1200年といいますから、日本の歴史では奈良から京都へ都が遷される頃に誕生したことになるのでしょう。桜の樹もこれくらい古いものになると、幾つもの口伝があるようで、この桜については、征夷大将軍の草分け的存在である、坂上田村麻呂に係わる言い伝えが残っているとのことです。

それによると延暦11年(792)、坂上田村麻呂が蝦夷征討軍に従事し、この地に来た時に土地の豪族久保氏の娘のお玉がその面倒をみたとのこと。将軍が去った後もお玉は追慕の恋情に耐えられず、翌年に病没してしまった。これを知った将軍が一株の桜をお玉の墓に手植えして、墓標とした、という話です。この他にも様々な口伝があるということですが、真実がどうなのかなどは追求する必要もなく、ただ、今の世に残って花を咲かせ、その生を止めている姿を見て、古に思いを馳せることが大切なのだと思います。

征夷大将軍というのは、今の時代から見ると随分と東北地方に住む人々を見下げた言い方であり、それが江戸時代まで権力者の象徴として用いられていたというのは、良く考えれば変な話だなとも思うのですが、中央に坐する権力者から見ると、往時の東北に住む人たちは、言うことを聞かない厄介な存在だったということなのでしょう。歴史というのは、最大の権力を握った民族や者たちによって正当化されるのが普通ですから、日本国においては、大和民族であり、その当時の天皇(=桓武)の下の中央政府がそれに該当するのだと思います。征夷大将軍となった坂上田村麻呂という人物は、相当の知略に富んだ豪傑というイメージがあり、なかなか従わなかった蝦夷の人たちを、初めて従わせるに至ったということなのだと思います。その征伐として語られる一方的な話の中には、様々なプロセスと出来事があり、東北地方を旅すると、至る所に坂上田村麻呂に係わる伝説が残っているのを実感します。このお玉の話も、勿論真実は解りませんが、お玉の豪族の側から見た時には、本当に美談の如きものになるのかどうか? 自分の歴史解釈の中では違う要素も含まれている感じがするのです。真実を知っているのは、この桜の樹だけということなのでしょう。

今回見たその桜の樹は、10年前とは愕然とするほど衰えた姿をしていました。この桜の樹はかつて四反桜(4反=4a=1200坪)といわれるほど、樹葉と花の溢れる大木だったとのことですが、幕末の頃に根元の空洞部分で浮浪者が煮炊きをしようとして火事を起こし、そのため樹形が一変するほどの酷い事件があったとのこと。その後の人々の手厚い看護の下に今日まで花を咲かせ続けることができたということなのですが、今回見たその姿は、10年前と比べて、がく然とするほどに、急激に樹勢の衰えを感じさせるものでした。10年前は元の洞の部分から二つに分かれていた幹の双方から伸びた枝に花を咲かせていたのに、今回は片方の幹は完全に枯死してしまっていて、もう一方も辛うじて僅かな花を懸命に咲かせているという姿でした。

花は相変わらず艶やかさを保ってはいるものの、全体から聞こえてくるのは悲鳴のようなものでした。人々の手厚いターミナルケアの下にここまで存(ながら)えて来た生命(いのち)も、旦夕に迫っている感じがしたのです。それは花を愛でるという気持を通り越して、何か悲しみのようなものが膨らむのを抑えることができませんでした。生命あるものはいつか必ずその終わりがやってくるという。その1200年の生命が間もなく終わってしまうのではないか。そう思ったのでした。そして、それはどのような手立てや祈りを捧げても、もはや何ものにも止めることができない、厳粛な時間なのだと思ったのです。斯くなる上は、静かにその最後を看取るしかないのだと、観桜の気分とは全く違った、今回の久保桜との出会いでした。

   

 十年前(2007年)に撮った同じ久保桜の景観。このときは左方の幹にもまだ力があり、4反桜のイメージを彷彿とさせる圧倒感があった。

もう一つの、いわば1200年の時間を共にした、同期の桜とも言える草岡の大明神桜の方は、どうなのかと心配を抱えながらの訪問でした。実はこの桜が花を豊かに咲かせているのを未だ見たことがないのです。桜の花は季節の遷り変りに敏感で、気候の微妙な変化に反応するものですから、その年によって花を咲かせるタイミングが違うのです。大明神桜は久保桜とは最上川を挟んで反対の西側にあり、どうやらこちらの方が少し開花期が遅れるようです。今年はどうなのかと期待しながら行ったのですが、やはり少し早かったようで、あと1週間後くらいが観桜の時期になるとの地元の方の話でした。久保桜の方は、力を振り絞って咲かせている花は4分咲きほどでしたが、こちらは蕾は膨らんでいるものの、咲いている花は皆無でした。同じ長井市にあるのに、今回も花を見ることが叶いませんでした。10年前は丁度いいタイミングだったのですが、その年には花芽が膨らみだした頃に、鷽(うそ)という鳥が大挙飛来して、その花芽の殆どを食べてしまったということでした。僅かに咲いている花たちを見ながら、その鳥たちを恨んだのを思い出します。

大明神桜も坂上田村麻呂との係わりがあり、これは田村麻呂が蝦夷を平定した際に記念植樹をした5本の桜の内の1本だと伝えられているそうです。他の4本の桜がどこに植えられたのかというのは判りませんが、それは考えないことにします。この桜にまつわる話で面白いのは、戦国時代末期の東北の英雄である伊達正宗に関する話で、彼がまだ若かりし頃、初めての戦に敗れた時、この桜の蔭に身を隠して生き延びたという伝説があり、「桜子の 散り来る方を頼み草 岡にて又も花を咲かせん」と詠んだとのことです。(ウィキぺディアより)その後、大成し身を立てた後にもこの桜を手厚く保護したという話です。

現在この桜は民家の裏庭の一角に在り、個人の所有となっているようですが、なにせ花の時期となると、一目見ようと自分たちのような者が大勢が押し掛けてくるのですから、実質は町の共有物となっているのでしょう。どのような経過を辿って現在のような所有形態となったのかも興味あることですが、それも又本当のことを知っているのはこの桜の樹だけということになるわけです。もしこの桜の樹が人間と同じことばで語ってくれるとしたら、伊達正宗のこと、そのずっと昔の坂上田村麻呂のことなど、一体どのような話が聞けるのか。そのようなこと思うと妄想は尽きることがありません。

この桜がいつから大明神と祀られるようになったのか判りませんが、久保桜と比べると、人気は今一の感じがしますので、少し遅れてそう呼ばれるようになったのかも知れません。大明神桜は、久保桜と比べての容姿はぐっとスマートでダンディな感じがします。久保桜はどちらかといえば樹幹が太くてがっちりしたタイプですが、それに比べると樹高が高くてすらっとした感じがします。長生きしている多くの樹木は、久保桜タイプが殆どのように思いますが、風雪や雷などの被害のことを考えますと、大明神桜の存在は、格別のような気がしてなりません。

今年お目にかかった大明神桜の姿は、10年前のそれと比べて、殆ど変っていないことに大いなる安堵感を感じました。その時ふと思ったのですが、これから10年も経たないうちに、久保桜の時代は終わり、大明神桜の時代がやってくるのではないか、と。置賜さくら回廊のなかで、名を為していた釜の越し桜は既に完全に枯死しており、久保桜のあの姿を見た後には、1200年を生き抜いて来ている誇りを示せるのは、この大明神桜しかないのですから。この桜には久保桜の分まで歴史の無言の語り部として生命を永らえて行って欲しいと願っています。

(2017年東北春旅から))

  

 今年(2017年)の大明神桜。まだ開花前なので、花の豊さが分からない。少し離れて撮っているので、小さく見えるけど、根元近くの幹は10mを超える巨大さである。この樹は20m近い樹高があるので、すらりとして見える。

 

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浄土幻想(白水阿弥陀堂に想う)

2017-06-11 03:38:39 | 旅のエッセー

今年の東北の春を訪ねる旅の最初の向かい先は、福島県いわき市にある白水阿弥陀堂だった。何故ここだったのかと言えば、一つには我が家から最も近い場所にある浄土を表わそうとした寺院だからである。真老世代(75歳~85歳)ともなると、時々あの世のことも考えるようになるのである。今の世の科学万能の時代では、あの世などある筈がない、と一方的に無視する嫌いがあるのだけど、何千年もかけて人々が描いて来た死後の世界は、科学などでは辿りつけない不思議の彼方にあるのではないか。この頃そう思う気持が強くなって来ている。

平安時代の末期の頃から、人々の間で浄土思想というものが強くなりだした。仏教の世界においては、或いはそれ以外の宗教においても、この世の終わりが来るという恐怖に取りつかれた末世の思想が浮き沈みするのだが、浄土思想の蔓延はそれを裏付ける一つの歴史の証なのかもしれない。この世の終わりというのは、世の中が余りにも汚れてしまっているというのが、一つの大きな要因ということなのかもしれない。平安時代というのは、その名の持つイメージとは異なって、時間が経過するにつれてその汚れや濁りが酷くなりだした時代なのかもしれない。

そのような世の中であったからこそ、人々はこの世では望めない極楽浄土という安寧の世界を求めたのであろう。そして、それを現実の世界に描き出現させようと考えて創り出したのが、浄土庭園といわれる形式の園池を有する寺院だったのだと思う。

人々(と言っても権力や財力を備えた人物に限られるわけだが)は、汚濁した現世の苦悩から逃れるために、或いは汚濁した現世の中に没した人を慰めるために、永遠の安寧が保障される世界を描き、それをこの世に創り出そうと考えたのであろう。宗教というもののもたらす人間の執心は、祈りだけにはとどまらず、何か形ある物を見出そうという、そのようなエネルギーを内在させているように思う。それがどのような形で実現しているのかを示すのが、即ち浄土式庭園と呼ばれるものなのだと思う。

自分は京都にはあまり馴染みがないため、宇治の平等院を除いては、この形式の寺院を見たことがない。それゆえ、浄土庭園の姿は、奥州平泉の毛越寺や福島いわき市の白水阿弥陀堂などを訪ねて確認しているのだが、とりわけて白水阿弥陀堂に往時の建立者の浄土というものに対する思いを汲みとることが出来るように思っている。毛越寺の方は、規模が大き過ぎて浄土からは少し遠い感じがするのだ。寺院の規模が大きく豪勢になればなるほど、本物の浄土というのからは遠ざかるような気がしてならない。

白水阿弥陀堂を訪ねるのは三度目だろうか。ここへ来た時は、往時の世の中のこと、自然環境の状況などを目一杯想像を働かせて思い描くことにしている。恐らく往時のこの辺りは、原生林に近い山野の中にこれらの建物や池などが造られたのではないか。春の今頃の季節は、現在ほど濁ってはいない池の周辺には、山桜などの花と樹木の若芽に彩られた中に、阿弥陀如来を中心とする浄土へ導く力を有した仏たちが祈っている堂宇が佇み、それらが池の水面に静かに影を映して、鎮まりかえっていたに違いない。そこに描かれている浄土の姿は、唯唯大自然に取り込まれて、安寧の中に永遠に息づく心が休む、そのような景観だったのではないか。白水阿弥陀堂は、その姿を容易にイメージさせてくれる場所なのだ。境内を歩きながら、時々立ち止まって眺めたりしながら、想像は膨らみ続ける。

白水阿弥陀堂の景観。池の水面に映る阿弥陀堂は、質素でただ静けさだけをそこに集めてひっそりと鎮座している風情だった。1千年前の人が描いた浄土は、全てが自然の中にあった。

建立した藤原清衡の娘の徳姫の亡き夫に対する思いとはどのようなものだったのか。往時の岩城氏の力とはどれほどのものだったのか。藤原家との関係はどうだったのか。治世の状況はどうだったのか。なにゆえに徳姫はこの寺の建立を思い立ったのか。様々な疑問が湧き起こってくる。本来そのような疑問を抱くのは、浄土を目の前にしては、真に不謹慎なことなのかもしれない。

我に返って、ああ、自分は今現代にいるのだっけ、と気がつく。そして思うのだ。今の世も同じように末世が近づいているのではないか、と。いや、それが近づく速さは千年前以上とは比較にならないほどのものとなっているのかもしれない。平安末期の人たちには、この庭園のような浄土を描く力があったけど、現代人は、果たして浄土を描く力を保持しているのであろうか。残念ながら私自身、今それを描く力はない。もしそのような力を持つ人物がいたとしたら、一体どのような浄土が描けるのであろうか。

この千年の間に、人間は世界規模で、安らぎを与えてくれるはずの大自然を、破壊し続けている。奢り思い上がり続けている者が描く浄土は、大自然とは無縁の、人工物に溢れる偽物に満ちた世界なのかもしれない。そのような世界に馴れ出している者には、浄土を描くことなどできないのではないか。いま、現代人は、浄土から見放されつつあるのではないか。白水阿弥陀堂の浄土景観を眺めながら、ふと、そのようなことを思った。    

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無名異間歩の風

2015-08-17 20:28:29 | 旅のエッセー

 暑い! 全く以て暑い! それにしても暑い! 言ってもしょうがない愚痴を、毎日連発しながら在宅の今夏を過ごしています。いつもだと今頃は道東の別海町や中標津町、或いは道北のクッチャロ湖や稚内辺りに滞在して、朝夕の寒さを満喫しているはずなのですが、今年は地元の逃れられない夏に捕まったまま、じっと酷暑に耐えています。

 このような時は、少しでも寒い話が必要な気がします。そこで、今回は先の佐渡ヶ島への旅で体験した肝も冷えるほどの冷たい風の話をしたいと思います。 

 私にとっては、2回目の佐渡への旅でしたが、今回初めて金山跡を訪ねました。初めて佐渡に行く人なら、必ず佐渡の金山跡を訪ねるのではないかと思います。しかし、私の場合は最初はとてもそこへ行く気にはなれず、相川エリアを素通りして他に回ったのでした。佐渡といえば、江戸時代以降の黄金の国、日本を代表する金山のあった所ですから、ここを外すというのは、かなり異常な行動と言われても仕方ないことかと思います。

それには二つほど深刻な理由があるからなのです。その一つは、佐渡を訪れる数年前に、世界遺産となっている島根県大田(おおだ)市にある石見銀山跡を訪ねたことがあり、その時の経験が頭に残っていて、あの岩に穿たれた地獄につながるとも思われる細い坑道の中に入るのは、もう二度と御免だと心に決めたのでした。私にとってのその恐怖というものは、もはや興味や好奇心の限界を超えた世界なのです。灯された細い火が消えれば、まっ暗闇の世界の中で、殆ど素っ裸に近い姿で、岩石を掘り続ける人たちを想う時、そこには到底働く喜びなどがある筈もなく、地獄にうごめく悲痛な姿だったに違いないと思ったのでした。鉱毒に冒されて30代の半ばまで生きられるのがやっとだったという説明もあり、それを知りながら敢えてそこで働かなければならなかった人たちの心情を思うと、世界の銀の生産のかなりの部分を賄ったという石見銀山であったとしても、それを誇りに思って仕事に勤しんだとは到底思われず、ここでの銀の生産は、多くの労働者の命の犠牲によってもたらされていたのではないかと思ったのでした。そのような忌まわしいとも思える場所を物見遊山気分で訪ねてはならない、そう決めたのです。    

それからもう一つは、暗い小さな空間の持つ閉塞感は、生きていることのすべてを奪われる感じがして、あの恐怖は二度と味わいたくはないと思ったのでした。それは、自分の脳の海馬が毀損して、そこに恐怖が入り込んで定着してしまって、トラウマとなってしまった様に思えるのです。だから、坑道や洞窟などに入るのは真っ平御免なのです。つまり、簡単にいえば私には強度の閉所恐怖症という奴がとりついているのです。

少し脱線しますが、そのことに初めて気づいたのは、30年ほど前に遭遇したある出来事でした。仕事でヨーロッパを訪ねた時なのですが、パリのとある高層ホテルのエレベーターに乗っていた時、突然ガタン!というショックと同時にエレベーターが停止したのです。定員が25名ほどのエレベーターのカゴには、ほぼ満員近い人が乗っていたのですが、それまで意識していなかったこの小さな空間が、その時突然恐ろしい密室の空間に変貌したのでした。坐り込むこともできず、全員が立ったままの状態で復帰を待つだけの状況でした。皆外国人ばかりで、エレベーターの性能も荒っぽくて、何だか嫌な予感がしていたのですが、いざ閉じ込められて見ると、5分もしないうちに脂汗が滲み出て来て、あれれ、俺はこんな筈ではなかったぞと思う間もなく、呼吸が切迫して来て苦しくなりだし、こりゃあ復帰するまで我慢できるのかと、突然の不安に襲われたのでした。幸い15分ほどで動いて元に戻ったのですが、乗り合わせた人たちは、この程度の缶詰事故には慣れているようで、皆何でもない顔をしているのを不思議に思いました。生きた心地もなく冷や汗を流していたのは自分一人だけなのでした。日本であれば、たとえ10分の缶詰事故でも場合によってはニュースになり兼ねないし、保守を担当する会社としては問題の要因を突き止め、徹底的な再発防止を図ることになるのですが、パリのこの乗り物はそのような配慮は皆無の感じがしました。 (皮肉なことに私の元勤務先はエレベーターの保守会社だったのです)

この体験をするまでは、洞窟や鍾乳洞なども冒険の対象として何の疑問も感じなかったのですが、一度閉所の恐怖を知ってしまうと、もう二度と日の当らない、閉ざされた狭い空間に入るのは真っ平御免となってしまったのです。石見銀山を訪ねた時にも、坑道の中に入るのは止めようと思っていたのですが、世界遺産となっている場所でもあり、一度だけは中を覗いておかなければならないのではないかと、自分に強く言い聞かせて、恐怖心を抑えながら中に入ったのでした。それ以降はもう二度とこの種の遺跡などには深入りしないことを決めています。

(閑話休題)

 さて、「間歩」と書いて「まぶ」と読みます。「まぶ」といえば間夫などということばを思い起こすかもしれませんが、全く関係はありません。間歩というのは、鉱山用語で、江戸時代が終わって明治となるまでは、鉱石採掘の坑道をそう呼んでいたということです。佐渡の金山跡では、間歩と呼ばず「坑」ということばを使っているようですが、石見銀山では「間歩」が使われています。恐らく佐渡では、明治以降相当に力を入れて鉱山の近代化が図られたため、「坑」と呼ぶことにしたのだと思いますが、自分的には遺産という見方からは、「間歩」と呼ぶ方が昔の時代を反映しているように感じます。

 佐渡の焼き物(=陶器)に無名異焼(むみょういやき)というのがあります。赤茶色の金属音のする硬い焼き物ですが、独特の雰囲気があって、愛好される方も多いようです。この焼き物の原料となるのは鉄分を含んだ赤土ということですが、これは勿論金銀山の掘削の際に見つかったものであり、副産物の一つということになると思います。佐渡の鉱山跡を歩いていた時に「無名異坑」という表示があるのに気づきました。恐らくあの焼き物の原料はこの間歩から出たに違いないと思い、そこへ行って見ることにしました。

宗大夫坑の少し上手の方の小さな谷を入った左上の方にその間歩の入口がありました。赤錆びた鉄柵が入るのを禁止していました。その間歩の入口は、何故か私にとっては宗大夫坑などよりもずっと往時に近い本物の間歩の姿を訴えているように思えました。「無名異」という呼び名が、どんな理由で付けられたのか判りませんが、この呼び方にはある種の不気味さと哀しさの様なものを感じてなりません。あの焼き物にも他の陶器とは違う神秘めいたものを感ずるのは、恐らくこの間歩から出る赤土によるものではなかったかと、そう思いました。

  

無名異間歩への石段。小さな谷の横に穿たれた穴がその間歩の入り口だった。説明板もないので判らないけど、公開されている坑道などよりは古いものに違いないなと思った。

 ところで、その間歩の前に立った時です。そこから猛烈な冷気が噴き出ているのを感じたのです。これはその前に宗大夫坑の入り口でも感じていたのですが、無名異の間歩の冷気はその比ではなく、心の芯までもが凍りつくほどのものでした。一瞬、これは何だろうと思いました。その日はかなり暑くて、日陰を求めたくなるほどでしたから、その冷気は好都合の筈なのですが、そのような気分を凍(こご)えさせるほどのものだったのです。

 思うに、この間歩の中で、何かがあったのだと思います。その冷気の中には、人間の悪しき感情が全て籠められた怨念の様なものを感じました。冷気というよりも霊気といったものなのかもしれません。細く狭い空間の中に、何百年もの間閉じ込められたままの生き物の噴出す強烈な負のエネルギーの様なものなのか、その間歩の前に行くとぞっとするものを感ずるのです。

 無名異の間歩が、佐渡金銀山の中でどのような位置にあったのか分かりませんが、間歩の中で働く人間の中には、世の見せしめとして送り込まれた無宿人と呼ばれる人別(=戸籍)から外された犯罪者や浮浪者も多くあり、それらの人たちの中には冤罪のケースもあったことでしょうから、恨みや無念の念を抱きながら生命を削らされて尽き果てた人もいたに違いありません。そのような人たちの負のエネルギーの凄まじさは、常人の計り知れないものだと思うのです。佐渡のこの間歩の中には、いまだ収まりきれないそれらの人たちの憤怒と虚しさと恨みの念が坑の遠近(おちこち)の窪みにこびりついて残り、そこから風を送っているのではないか。そう思ったのでした。

 いま、そのなぜかを詮索するつもりはありませんが、あの冷気はどんなに暑い夏の日でも、一瞬にして心を凍らせるほどのものだったなと、思い出すばかりです。歴史の中に忘れられたまま怨念の妖怪と化した人たちのことを思うと、暑いなどと言う愚痴を戒めなければならないと、そう思ったのでした。

  

無名異間歩の入り口。この閉ざされた真っ暗な空間からは、今でも不気味な冷風が絶え間なく吐き出されている。

 

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ソースかつ丼の功罪

2015-07-26 10:04:22 | 旅のエッセー

 佐渡への旅の途中に、行きと帰りの二回会津地方を訪ねました。福島県は面積の大きい県で、天気予報などは3つの区域に分けて報道されています。東の太平洋側は浜通り、中央エリアは中通り、そして西のエリアは会津となります。会津といえば会津若松市を中心に西会津、南会津、奥会津などの山岳地帯が続いています。今回訪ねたのは、南会津町の前沢集落(国の重要伝統的建造物群保存地区指定)、下郷町の塔のへつり(国の天然記念物指定)、大内宿(国の重要伝統的建造物群指定)などでしたが、只見町他の奥会津エリアも幾つかの道の駅に寄りながら通ってきましたので、これらのエリアの凡その様子は理解することができたと思います。

 さて、今回の会津訪問の一番の目的は、何度も傍を通っていながら、まだ一度も訪ねたことがなかった会津若松市内の鶴ヶ城をじっくり見て回るということでした。ようやく旅車を留められる駐車場を見つけて、その目的は達成されたのですが、実はもう一つ楽しみの目的がありました。それは会津名物の一つであるソースカツ丼なるものを食べてみたいということなのです。

糖尿君との長いお付き合いのこともあって、ハイカロリーの食べ物は敬遠せざるを得ない状態がずっと続いており、このような目的を掲げるのは、健康管理上真に遺憾であり、且つ危険なことでもあるのです。しかし、残りがさほど長くもない人生ならば、偶には魔が差す振る舞いがあってもいいんじゃないかと、と、まあそう思った次第です。

 会津のソースかつ丼をどうしても食べてみようと思ったのかは、実は自分にはカツ丼に対する思い出とあこがれの様なものがあるからなのです。それは、高校時代のクラブ活動(バスケットボール部)定例の新年会で、毎年それを食べるのが楽しみとなっていたからなのです。何しろ勉強などよりも運動を優先させていたその頃の自分には、育ち盛りということもあって、常に空腹を忘れられない身体状況だったのです。

因みにその頃の毎日といえば、午前中の4時限の授業の内2時限が終わると10分間の休み時間に持参の弁当を食べ終え、お昼には売店でパンを買って大急ぎで食べた後は、体育館に直行して走り回って遊び、午後の授業が終わると部室に入って着替えて、18時半過ぎまで練習するという毎日でした。練習が終わると、帰宅に向かうのですが、通学は水戸駅からJRの単線の列車(水郡線)で、いわゆるSLという奴に乗って約50分間、参考書を開きながら眠りと戦い敗れ続け、家の最寄りの駅で降り、それから山道をひと山越えて30分ほど歩き、家に着くのは21時近くとなります。もはや教科書など開く気にもなれず、夕食を済ませれば後は寝るだけです。

往時の食糧事情は戦後間もない頃(小学生時代)から比べれば、かなり改善されて来てはいたものの、それでも我が家は麦めしが主体で、そのような家は珍しくもない時代でした。今の様に健康のために麦めしを炊くのではなく、米が足りなかったのです。そのような時代でしたから、カツ丼や天丼などという外食は、滅多にお目にかかれるものではなく、何か特別な時でもない限り口にすることは難しかったのです。

高校の部活の新年会では、先輩も何人か来訪されて、後輩との交流戦の後、城跡の下(わが母校は水戸城址の本丸に在りました)にある食堂に注文したカツ丼を取り寄せ、皆で歓談しながら食べるのが定例となっていました。この時に食べるカツ丼は、確か店の名が「ばか盛り食堂」というところが作ってくれるもので、文字通りボリューム大の「ばか盛り」の一品だったのです。一年に一度の大御馳走なのでした。今思い出しても、いやあ、あれは美味かったなあ。世の中にこんなに美味いものがあるんだというのを実感した、人生最初の時間でした。あれから60年になろうとしている今でも、それを超えるカツ丼はまだ現れてはいないのです。

全国には様々なカツ丼があります。西日本(高松・福岡)に計12年暮らしましたが、こちらのカツ丼はどこで食べても馴染めないものでした。メリハリがない味で、カツのうま味を台無しにしている感じがしました。名古屋の味噌カツ丼はそれなりの味があって好きなのですが、自分の遠いイメージのカツ丼とは違ったタイプなので、比較は無意味です。30年ほど前に関東に戻って以降はカツ丼を食べる機会がないまま糖尿病を宣告され、一挙に縁が遠くなってしまったのです。

それがここに来て会津のソースカツ丼というのを食べてみたいと思ったのは、前述のように、残り少ない人生なのだから、もう一度思い切ってあの昔につながるような奴を食べてみたいと、急に思いついたのです。というのも、会津エリアの旅の情報を集める中の「食」の部では、ソースカツ丼が一番の様に喧伝されているのを見て、昔のカツ丼を思い出したのかも知れません。糖尿病と30年近くもつき合っていると、偶には敢えて裏切ってやろうという気持が湧くのを止められなくなったのかもしれません。

ということで、幾つかの店を選び食べてみることにしたのですが、旧市内にある店の殆どは、旅車を置く場所が見つからないのです。いろいろ調べた結果、郊外なら大丈夫だろうと、河東町にある十文字屋という店を選びました。老舗というわけではなさそうでしたが、ネットで見ると、ボリュームの大きいのが自慢のメニューがあって、面白そうだなと思ったのです。

11時半ごろに行ってみると、20台くらいは留められる駐車場は満車近くになっていて、危うくセーフでした。十文字屋はカツ丼の専門店ではなく、ラーメンや餃子などもメニューにある、普通の食堂という感じの店でした。カツ丼には4種類のメニューがあって、磐梯カツ丼、ミニカツ丼、ヒレカツ丼、ミニヒレカツ丼とありました。早速、ヒレカツ丼というのをオーダーすることにしました。出来上がるのを待ちながら、周囲の人の様子を見て驚きました。普通の丼ご飯の上に巨大なカツが聳(そび)え立って4枚も載っているのです。とても一度で完食できるものではありません。どうするのかと見ていたら、食べられなかった分はお皿にとっておいて、後でパックに入れて持ち帰りができるようです。自分も完食の自信は全くありません。

間もなくテーブルの上に注文のヒレカツ丼がやってきました。いやあ、圧倒されるボリュームです。子供の履く草鞋の半分くらいはありそうな、ソースをかけられたカツが3枚載っていました。4枚載っているのは、磐梯カツ丼という奴の様です。2枚くらいなら何とか平らげられそうだと、早速チャレンジです。ソースに秘密があるのか、それがカツと微妙にバランスしていて、美味いものだなと思いました。これほどのボリュームのトンカツなるものを口に入れたのは何年ぶりなのでしょうか。糖尿君との付き合いが始まって25年近くが経ちますから、それを超えているのは間違いありません。

     

会津若松市河東、十文字屋のヒレカツ丼。磐梯カツ丼は、ヒレ肉とは違うけど、これにもう一枚のカツが載って出てくる。

1枚を食べ終えた時、残りを持ちかえりにしようかと迷いましたが、もう少しいけそうなので、さらにチャレンジすることにしました。しかし、全部はとても無理で、1枚は夕食に回すことにしました。家内もふうふういいながらどうにか2枚を収めたようでした。もう、完全に満腹です。そのあと、その日の目的地のある新潟方面へ向かったのですが、途中でどうしても眠くなり、運転に危険を覚えて、西会津の道の駅で1時間ほど熟睡しました。

高校時代のあのカツ丼の味とはやはり違ったものでしたが、それなりにカツ丼の美味さの新しい発見だったように思いました。そのあと佐渡で半月ほど過ごして、帰りに再び会津を通ったのですが、どうやらあのボリュームと味に毒されてしまったようで、再び十文字屋を訪れ、今度は4枚もカツが載っている磐梯カツ丼にチャレンジしたのです。これも2枚止まりで、それ以上一度に食べるのは無理で、夜の部に回したわけですが、何だか今までずっとコントロールされていた枠が消え去った気分で、久しぶりの開放感に浸りました。

さて、それから3週間が過ぎて、糖尿病の定期検診に行ったのですが、前回6.4だったHa1cの数値がなんと7.3%にもなっていたのです。2か月の間にこれほど高くなることは珍しく、医師も首を傾げられていました。自分自身も多少は高くなってるとは思ってはいたのですが、まさかこれほどになるとは、まさに想定外でした。

さすがに糖尿君というのは正直で厳しいなと思いました。魔が差すなどという甘えは断じて許さないようです。残りの人生がさほど長くはないとしても、それをわざわざ縮めることはないわけですから、再び糖尿君の言い分を守ることにしました。ま、たった二回のソースカツ丼喰らいの暴走が、このような結果を招来したわけではなく、その他にも佐渡でのはみ出し暴飲や暴食が起因しているのは間違いありません。これからは早急に元のレベルに戻し、さらに改善できるように努める覚悟です。

ということで、今回はとんだバカな話となりましたが、高校時代のあの頃を思い出させてくれた会津のソースカツ丼に感謝する気持で一杯です。そして、今度また会津を訪ねる機会があったら、敢えて糖尿君に逆らって、もう一度ソースカツ丼にチャレンジしたいと思っています。

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二つの田んぼアート

2014-11-04 14:35:32 | 旅のエッセー

田んぼアートというのがある。予てからその話を耳にし、実際に最も有名な青森県田舎館村のその田んぼ近くまで何度も行っているのだが、残念ながらまだ一度もそれを見たことがなかった。というのも、田舎館村を訪れるのは何時も田植えをする前の時期であり、稲の植えられていない田んぼは、普通の田んぼに過ぎないからである。

今年は幸運にも二つの田んぼアートを見るチャンスに恵まれた。その一つは北海道の雨竜町(雨竜郡)の道の駅に泊った際に、近くに町の青年団の人たちが作ったという田んぼアートがあるというので、それを覗いたこと。もう一つは本家本元ともいえる田舎館村の今年の田んぼアート作品である。それらを見物した感想などを述べて見たい。

先ず、雨竜町の青年団(JA北そらち青年部雨竜支部)の作品だが、一言でいえば、良く判らなくて残念で勿体ない感じがしたということになる。田んぼには「たうえ」と茶色い稲で描かれていたので、田植の情景を表わした作品らしいのだが絵が良く判らない。想像するにどうやら子どもが笑顔で田植をしている姿のようだ。しかし、かなりの斜め下から覗いているので、今一はっきりしないのである。

   

雨竜町の田んぼアート作品。たうえと手前に書かれているが、どうやら子供が笑顔で田植えをしているらしい。せめて展望台があと2m高かったら、はっきり判るのに。

その原因は展望所があまりに低く作られているため、折角の作品を満足に俯瞰できないからなのである。3mくらいの高さしかないので、そうなってしまう。足場パイプで作った簡易展望所なのだが、それ以上の高さのものを作るのには技術的には大丈夫だとしても、費用もかかるし厳しいのかもしれない。しかし折角の作品が中途半端にしか見せられないのは、真に残念なことではないか。そう思った。

   

青年支部の人たちの手作りと思える簡素な展望台。反対側の平地から見ると、絵の方は何なのかさっぱり判らない。

こちらの田んぼは30m×80mくらいの大きさで、稲で絵を描くには植えるに適当な広さなのであろうけど、作品を見るにはより高い展望台が必要のようである。逆に現在の展望台を前提とするなら、よりコンパクトな絵を描くように植え方を工夫する必要があるのかもしれない。この辺のことは、平面に描かれた絵の大きさとそれを俯瞰する位置との関係で決まるようである。どんな立派な作品でも、規模の大きなものとなると、傍で見る限りでは何の絵何かなど見当もつかない。ペルーのナスカの地上絵だって、空の上から見て初めてそれ何かが判るのだから。

とにもかくにも雨竜町で見た田んぼ絵は、青年たちの思いを込めた作品なのに、何だかそれらが充分伝わって来ない不満のようなものが残った。しかし、もはや稲作は北海道に定着し、このような田んぼアートが可能となるほどに進化しているのは素晴らしいなとも思った。北海道の稲作は確実に進化しており、新潟を抜き去って日本一の生産地となるのは時間の問題ではないかと思っている。

9月の初めごろに雨竜町の田んぼアートを鑑賞してから10日ほど経った日に青森県を通過することになった。いつもだと帰り道は高速道のため、あっという間に通過してしまうのだが、今年は是非とも本家田舎館村の田んぼアートを見ておきたいと思い、少し遠回りして七戸町の方から八甲田山麓の山越えをしてやって来たのだった。田舎館村には昼過ぎに到着。直ぐに村役場近くにある第一会場の方へ向かった。

田舎館村の田んぼアートは、この頃は毎年大きな話題となっている。というよりももはや話題は定着しており、今年の作品は何なのかを楽しみにしているファンも多いようだ。今や全国的にもこの村の名物となっているようである。しかし、自分たちにとっては初めての本物見物だったので、会場が二つあるということもここへ来て初めて知ったことだった。

その第一会場は村の拠点である役場のすぐ傍にあった。田舎館村の役場の建物は独特の姿をしている。城郭風に作られており、遠くから見ても直ぐにあれが役場だと判るのである。一時は趣味の悪い建物だなと思ったこともあったのだが、見慣れてくるにつれて、却って日本の建物らしくて良いじゃないかと思うようになって来るのは不思議である。第一会場の田んぼアートは、その役場の庁舎の天主閣ともいえるてっぺんから俯瞰して鑑賞できるように作られていた。田んぼの傍に駐車場があり、役場まで少し歩いたのだが、傍の田んぼに何が描かれているのか、稲を見ただけでは全く判らない。

作品を描くために植えられている稲の品種が道脇に10種類ほど紹介されて植えられていた。白っぽいものから黒っぽいものまで、微妙に稲の葉の色も穂の色も違っている。これらを巧みに使って稲を植え、何かを表現するのである。稲のことを熟知していなければ、到底描くことなど不可能で、田舎館村には弥生の時代から稲作が行われてきた遺跡があり、いろいろなものが出土しているということもあって、元々その古代からの伝統に因んでこのような田んぼアートなるイベントが発想されたようである。凄いことだなと思う。

役場の入口で200円也の入場料を払って、3階までエレベーターに乗り、そこから先は歩いて展望所へ。合わせて5階くらいの高さであろうか。さて、どんなものが見られるのかと下の田んぼを見下ろしてアッと驚いた。巨大な天女らしき女性が衣をまとって雲に乗って天に昇ってゆく姿が描かれていた。その右の方の田んぼには、富士山が描かれていて、双方の絵のテーマが三保ノ松原の天女伝説を表わしていることが解る。大変なスケールの作品である。実に緻密に表現されており、天女の顔立ちや表情までが艶やかに描かれていた。富士山の描かれた田んぼとの間に道路が一本走っていて、これが野暮な邪魔立てをしているのが残念だったが、これはいた仕方ない。全体をカメラに収めようと思ったけど、あまりにスケールが大き過ぎて普通のレンズでは無理だった。しばらくその絵に見入った。

   

左側の田んぼに描かれた天女昇天の図。大き過ぎて顔の表情などを撮りきれていないのが残念だ。

   

右側の田んぼに描かれている富士山。手前の文字などが描かれている濃い赤紫の部分は海を表わしている。船が一艘浮かんでいる。芸が細かい。この二つの絵はペアになっている。

これだけのものを作るというのは、半端なことではない。植えた稲が枯れたり、病気になどなってしまったら、絵そのものがダメになってしまうのである。植えた後の面倒見も相当に慎重に心を砕いているのだと思う。それらが今実りの秋に、真に見事に稔って大地にこの村の意気込みを描いているのである。多くの関係者の人たち、そしてこの村の皆さんに拍手を送りたいと思った。日本国の食を長年支えて来た米という作物が、このような描く力を持っていたことに心底驚きを感じたのだった。そして、それを見事に引き出したこの村の情熱にもあらためて感嘆の声を上げたのだった。

   

田舎館村役場の庁舎。右側の天守閣様の箇所が展望所となっており、津軽平野一帯を俯瞰できるようになっている。

やっぱり来て良かったなと思った。雨竜町のそれとは比較すべきではないとも思った。比較すればどちらが上でどちらが下などという見当外れの評価などをしてしまうからである。敢えて比較するのであれば、前年との比較で優劣を競うべきの感じがするのだが、本家田舎舘村の場合は、それすらもナンセンスのような感じがする。最早単純にその年年の作品を存分に楽しむだけでいいのではないかと思う。

次の日は第二会場へ行くことにしたのだが、結果として行ったのは家内だけで、自分の方は欲張らないことにした。見なくても作品の素晴らしさは見当が付く。家内の話と写真を見さえすれば充分だと思った次第。果たして、戻ってきた家内の報告は予想通りだった。こちらの方は泊った道の駅の直ぐ傍に会場があり、そこにはサザエさん一家が描かれていた。こちらの作品も大作で、やはり全部をカメラに収めるのは無理だったという。

   

第二会場に描かれたサザエさん一家を描いた絵。この絵の一番右にマスオさんが描かれているのだが、大き過ぎてカメラには入らなかった。

   

第二会場近くを走る鉄道(弘南鉄道弘南線)には臨時の駅(?)なども設けられていた。この付近に弥生時代の農耕遺跡がある。

田んぼアートという如何にも日本的な発想のこの企画は、単なる遊びの芸術ではなく、それらを描き出してくれる稲という作物への感謝を込めたものでなければならないなと、改めて思ったのだった。

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