ちょっと思うことがあって、妙なタイトルを付けました。中の上というのは、文字通り中くらいのレベルの中でちょっぴり上の方かという意味なのです。
物や成果などを比べて評価する時に、「上」「中」「下」と区分する方法があります。これはレベルの区分ということでもあります。人々の大半は、恐らく自分自身の暮らしのレベルに対しても、この上・中・下の区分を何処かで意識しながら毎日を送っているような気がします。そのことについて、最近ふと感じたことがあり、それを述べることにしました。
私が上・中・下というのをとりわけて意識して思うようになったのは、高校時代の学業成績でした。進学校だったその高校では、学業成績を通信簿に、学年全体の評価区分として上・中・下に分け、更にそれぞれの区分の中で同じく上・中・下という二次区分を記入して渡されたのでした。つまり、最高の区分は上の上ということになり、最低の区分では下の下ということになるのです。この区分の元になるのは、学期ごとに行われるテストの点数なのですが、わざわざこのような区分を設けて知らしめるというのは、本人のやる気を奮い立たせるという目的があったのかもしれません。しかし、評価される側から言わせてもらえば、点数だけで自分の人間的なものまでが上・中・下などと区分されているように思えて反発心が湧き、やる気も起こらない様な受け止め方でした。ま、勉強好きな素直な人たちは、より高い区分を目指してその気になって学習に励んだのかもしれません。しかし、身体を鍛えることを第一としていた自分には、納得のいかないことでした。
このように言うと、自分の成績のあり様が自ずと知れてしまうことになりますが、高校時代計9回の通信簿を受け取っての自分の評価は常に「中」にあり、中の下もしくは中の上といったところだったでしょうか。運動中心の高校生活で碌に勉強もせず、その割には運動の方も大した成績を残したわけではないのですが、それなりに身体を鍛えて、それまでの軟弱な身体を脱したことが何よりの成果だったと思っており、勉学の方は自分自身でしっかり取り組んだ思いは一つも無いのですから、「中」の区分にあること自体が不思議なくらいだと思っていました。しかし、この上・中・下という宣告を受ける度に思ったのは、何だか自分は永久に中位のしかもその中でも又中位をふらつく人間だと決めつけられるようで、愉快ではありませんでした。
さて、それから50年以上が経って、この間にどうにか生き延びて今日に至っているのですが、高校時代以降、頭の中に嵌め込まれたこの「上・中・下」という評価区分意識は、自分の人生では一体どうだったのだろうかと思うこの頃です。その時々では、上であったり、下であったりしたのは間違いないのですが、総じて言うならば、やはり「中」だったというのが正解のような気がします。ということは、高校時代の成績の評価の枠を抜け出し得ない人生だったということになるわけです。
話は変わりますが、先日元勤務していた職場の古いメンバー(会社の入りたての50年ほど前、その会社で企業内教育に係わる仕事をしていた職場の人たち)の集まりがあって、13名ほどが久しぶりに再会したのでした。このメンバーは、往時会社が創設されて10年目くらいに開始した、企業内訓練生制度に係わった人たちで、親会社の制度を真似ながら、見様見まねで学習プログラムや研修システムの構築と実践に係わっており、50年を経た今でも深い絆で結ばれています。同じ会社の中でも特異な職場での苦労がその源をなしているのだと思います。その時から50年以上が経って、元のその職場の現在地には、何棟もの実習施設や寮棟が並び建ち、今回は新寮が竣工したというので、それの見学を兼ねての集まりということでした。
集まった13名のメンバーの他にも、勿論参加されるべき方が何人もおられるのですが、夫々に事情があって出席が叶わなかったのは残念なことでした。勿論、皆既に現役をリタイアして、新たな未知の人生を歩んでおり、会社人だった時とは違う暮らしを余儀なくされているわけです。
久しぶりにお互いの無事を確認し合った13人の人たちの中にも、様々な出来事があって、連れ合いを亡くされた方、病と格闘中の方、人工関節に依存せざるを得ない方、などなど老に向かっての様々な障害・難事のことが気になる話の多いことでした。しかし、いずれの方たちも未来を諦めることなく、毎日を前向きに生きてゆく力が感じられて、何よりのことだと思いました。一人ひとりが近況の報告をして、たちまちに予定の時間が過ぎてしまいましたが、久しぶりに味わった、昔を想ういい時間でした。
この時にふと思ったのです。あの「上・中・下」のことを。皆がみんな、やはり「中」の人生なのではないか、と。幸・不幸は上・中・下の評価などには関係が無いのであって、関係があるのは絶対的な「中」という生き様ではないか。そう思ったのです。人生を評価するのに「上」などというのは思い上がりに過ぎず、「下」と思うのは、己を見失っている状態であり、人は「中」にあって、己を自覚できるのではないかと。絶対的な「中」というのは、上や下の枠区分を外れた世界であり、ひとはその中にあって初めて安心を得られるように思えるのです。
セレブとか貧困とかいうのは、富(財産?)の過多の問題に過ぎず、絶対的な「中」というのは、それらの中間という位置づけでは無く、富の大小に関係なく人が生きてゆくための安心・安堵要件なのだと考えます。逆に言うならば、人が安心・安堵の暮らしが出来るためには、絶対的な「中」の中に居なけらばならないということになるわけです。人生というのは、絶対的な「中」の中にあって、普段の暮らしの中で様々なレベルの喜怒哀楽の出来事に関わりながら、それでも安心して終わりの時間を全うするようなことを言うのではないか。そのように思ったのでした。
長いこと心の中で拘って来た「上」「中」「下」という区分意識から解放された感じがします。今までは密かに「中の上」くらいでいいや、と思っていたのですが、そのようなことはどうでもいいのだということに気づかされたのでした。いま、「老」の中に居て、身に纏っている鎧の一部が溶け去ったような気持ちとなりました。