山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

「中の上」意識からの脱却

2015-03-27 03:25:54 | 宵宵妄話

 ちょっと思うことがあって、妙なタイトルを付けました。中の上というのは、文字通り中くらいのレベルの中でちょっぴり上の方かという意味なのです。

 物や成果などを比べて評価する時に、「上」「中」「下」と区分する方法があります。これはレベルの区分ということでもあります。人々の大半は、恐らく自分自身の暮らしのレベルに対しても、この上・中・下の区分を何処かで意識しながら毎日を送っているような気がします。そのことについて、最近ふと感じたことがあり、それを述べることにしました。

 私が上・中・下というのをとりわけて意識して思うようになったのは、高校時代の学業成績でした。進学校だったその高校では、学業成績を通信簿に、学年全体の評価区分として上・中・下に分け、更にそれぞれの区分の中で同じく上・中・下という二次区分を記入して渡されたのでした。つまり、最高の区分は上の上ということになり、最低の区分では下の下ということになるのです。この区分の元になるのは、学期ごとに行われるテストの点数なのですが、わざわざこのような区分を設けて知らしめるというのは、本人のやる気を奮い立たせるという目的があったのかもしれません。しかし、評価される側から言わせてもらえば、点数だけで自分の人間的なものまでが上・中・下などと区分されているように思えて反発心が湧き、やる気も起こらない様な受け止め方でした。ま、勉強好きな素直な人たちは、より高い区分を目指してその気になって学習に励んだのかもしれません。しかし、身体を鍛えることを第一としていた自分には、納得のいかないことでした。

 このように言うと、自分の成績のあり様が自ずと知れてしまうことになりますが、高校時代計9回の通信簿を受け取っての自分の評価は常に「中」にあり、中の下もしくは中の上といったところだったでしょうか。運動中心の高校生活で碌に勉強もせず、その割には運動の方も大した成績を残したわけではないのですが、それなりに身体を鍛えて、それまでの軟弱な身体を脱したことが何よりの成果だったと思っており、勉学の方は自分自身でしっかり取り組んだ思いは一つも無いのですから、「中」の区分にあること自体が不思議なくらいだと思っていました。しかし、この上・中・下という宣告を受ける度に思ったのは、何だか自分は永久に中位のしかもその中でも又中位をふらつく人間だと決めつけられるようで、愉快ではありませんでした。

 さて、それから50年以上が経って、この間にどうにか生き延びて今日に至っているのですが、高校時代以降、頭の中に嵌め込まれたこの「上・中・下」という評価区分意識は、自分の人生では一体どうだったのだろうかと思うこの頃です。その時々では、上であったり、下であったりしたのは間違いないのですが、総じて言うならば、やはり「中」だったというのが正解のような気がします。ということは、高校時代の成績の評価の枠を抜け出し得ない人生だったということになるわけです。

 話は変わりますが、先日元勤務していた職場の古いメンバー(会社の入りたての50年ほど前、その会社で企業内教育に係わる仕事をしていた職場の人たち)の集まりがあって、13名ほどが久しぶりに再会したのでした。このメンバーは、往時会社が創設されて10年目くらいに開始した、企業内訓練生制度に係わった人たちで、親会社の制度を真似ながら、見様見まねで学習プログラムや研修システムの構築と実践に係わっており、50年を経た今でも深い絆で結ばれています。同じ会社の中でも特異な職場での苦労がその源をなしているのだと思います。その時から50年以上が経って、元のその職場の現在地には、何棟もの実習施設や寮棟が並び建ち、今回は新寮が竣工したというので、それの見学を兼ねての集まりということでした。

 集まった13名のメンバーの他にも、勿論参加されるべき方が何人もおられるのですが、夫々に事情があって出席が叶わなかったのは残念なことでした。勿論、皆既に現役をリタイアして、新たな未知の人生を歩んでおり、会社人だった時とは違う暮らしを余儀なくされているわけです。

 久しぶりにお互いの無事を確認し合った13人の人たちの中にも、様々な出来事があって、連れ合いを亡くされた方、病と格闘中の方、人工関節に依存せざるを得ない方、などなど老に向かっての様々な障害・難事のことが気になる話の多いことでした。しかし、いずれの方たちも未来を諦めることなく、毎日を前向きに生きてゆく力が感じられて、何よりのことだと思いました。一人ひとりが近況の報告をして、たちまちに予定の時間が過ぎてしまいましたが、久しぶりに味わった、昔を想ういい時間でした。

 この時にふと思ったのです。あの「上・中・下」のことを。皆がみんな、やはり「中」の人生なのではないか、と。幸・不幸は上・中・下の評価などには関係が無いのであって、関係があるのは絶対的な「中」という生き様ではないか。そう思ったのです。人生を評価するのに「上」などというのは思い上がりに過ぎず、「下」と思うのは、己を見失っている状態であり、人は「中」にあって、己を自覚できるのではないかと。絶対的な「中」というのは、上や下の枠区分を外れた世界であり、ひとはその中にあって初めて安心を得られるように思えるのです。

 セレブとか貧困とかいうのは、富(財産?)の過多の問題に過ぎず、絶対的な「中」というのは、それらの中間という位置づけでは無く、富の大小に関係なく人が生きてゆくための安心・安堵要件なのだと考えます。逆に言うならば、人が安心・安堵の暮らしが出来るためには、絶対的な「中」の中に居なけらばならないということになるわけです。人生というのは、絶対的な「中」の中にあって、普段の暮らしの中で様々なレベルの喜怒哀楽の出来事に関わりながら、それでも安心して終わりの時間を全うするようなことを言うのではないか。そのように思ったのでした。

長いこと心の中で拘って来た「上」「中」「下」という区分意識から解放された感じがします。今までは密かに「中の上」くらいでいいや、と思っていたのですが、そのようなことはどうでもいいのだということに気づかされたのでした。いま、「老」の中に居て、身に纏っている鎧の一部が溶け去ったような気持ちとなりました。

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新幹線に乗る

2015-03-22 03:24:16 | 宵宵妄話

 何の話だ、と思われるでしょうね。文字通り、新幹線に乗ったという話です。

 先日、静岡県は藤枝に住む姪の結婚式が静岡市内の超高層ビルの中で行われ、それに出席して来ました。この年齢となると、甥や姪の独身者も少なくなり、計13名の内残るのは5名となりました。この頃は結婚年齢がかなり延びているので、全員が片付く頃まで生きていられるのかどうか、先ずは無理だろうなと思っています。

 この頃は遠出の際にはいつも旅車を利用しており、何年か前に今回の姪の姉の結婚式の時にも、旅車で出向いたのですが、今回は式場が静岡駅前の賑やかな場所にあり、旅車が止まれるような駐車場が見当たらないため、列車を利用することにしました。東京の中心エリアへ出向く時は、勿論TXやJRの電車を利用しますが、それも最近は年に2~3度くらいで、ましてや新幹線となると、守谷に越して以来一度も乗ったことがないという有様なのです。守谷に越したのが11年前で、それ以前の仕事での移動も、新幹線よりは飛行機の利用の方が圧倒的に多かったので、今回の乗車は15年ぶりくらいになるのかもしれません。

 3月14日のこの日は、丁度話題の北陸新幹線が金沢までの営業を開始した日であり、久しぶりに訪れた東京駅は、何となく混雑して騒がしい雰囲気でした。勿論、我々の方は北陸も東北も無縁で、一番古い東海道新幹線のホームに向かいました。予定していたのは静岡駅にも停車する「ひかり」だったのですが、いつものせっかちの性分が先を急がせて、予定よりもかなり早く東京駅に着いてしまったので、どうせ自由席なのだから、良いじゃないかと少し早い出発時刻の、各駅停車の「こだま」に乗ることにしました。静岡駅までは「ひかり」よりも30分ほど余計に時間がかかるとのことでしたが、1時間近くも早く出発するのですから、何の問題もありません。

 ということで、一番先頭に並んでしばらく待って、入って来た「こだま」に乗り込みました。ちょっとした旅の雰囲気です。右側の座席は2列で、左は3列でした。どちらに座るか少し迷いましたが、家内と二人のこともあり、それに富士山を見るのなら右側でなければダメなので、2列の方を選びました。その車両は、それほど混み合っているわけでもなく、50%そこそこの乗車率でした。ですから、どこに座っても何の問題も無かったのですが、一度座ると動くのが面倒なので、そのままで過ごすことにしました。

 旅の気分を味わうためには、ここで弁当を広げるとか、缶ビールで喉を潤すとか、何やらの食べ物などを引き出しての振る舞いが望ましいのだと思いますが、まだ10時を過ぎたばかりだし、これから先のイベントが結婚式なのですから、アルコールは止めておいた方が無難だし、幸いに車内販売も無いようなので、列車旅の定番的な振る舞いは一切無しの1時間半となりました。

 電車や列車に乗った時の私の一番の楽しみは、外の景色を見ながら観察と空想を楽しむことです。移り変わり行く車窓の景色は千変万化で、それらの随所に思いを絡ませて眺めていると、飽きることは無いのです。現役の頃、まだ航空機の利用が一般化されなかった頃の出張といえば、名古屋などの中間地なら特急や急行、遠地ならば寝台特急を利用するのが普通でした。東京から九州や北海道への出張は寝台特急を利用しても、目覚めた後にもかなりの長い距離を走ることになり、しばし仕事のことは忘れて、外の景色を楽しむことに集中したものでした。飽きないのですから、決して眠ることも無く外の景色を眺め続けたものです。我ながら呆れ返るほどの楽しみでした。

 ついでに告白しますと、近場の電車に乗った時の楽しみは、人間観察です。勿論、ラッシュ時の超満員の電車などではこのような楽しみなど皆無で、ただ苦しみに耐えるだけの時間となりますが、数名が立つ程度の乗車状況ならば、人間観察を楽しむことができます。しかし、この観察は要注意事項があります。それは決して見つめないということです。「ガン(=眼)をつける」ということばがありますが、これは相手の心に複雑な影響を与えることになります。それは、好意よりも悪意と受け止められることが多いようです。誰だって、ガンをつけられたらムカつくに違いないからです。ですから、人間観察はそれとなく行うのです。自分的にはこれは心理学の現場演習をしているのだと思っています。表情から所作、ふるまい、声、話の内容、持ち物、居眠りの様子、等など、その人の持つ様々な情報が入って来る感じがします。そして、電車を降りる時には、それらの全てを一気に放り投げて忘れ去ることが大切です。

 さてさて、今回の新幹線の往路1時間の旅は、何しろ15年ぶりの乗車なので、1分も無駄にしないようにと窓の外に意識を集中させました。品川駅に停まるのを経験したのは初めてでした。新横浜駅を通過しても、辺りの景観は変わらず、長短のコンクリートの構造物の合間に、マッチ箱のような家が坂も崖も切り崩して群れだって造られており、大都市のパワーの凄まじさというのか、それに引きづり込まれざるを得ない、人間の生きざまのようなものを感じて、少し複雑な気持ちになりました。自分自身も、かつて同じような暮らしの中にあり、今現在でも似たり寄ったりの環境の中にいるのですが、車窓から見ていると、主観を離れて客観的な、或いは傍観者的なコメントが浮かび上がって来るのです。 熱海駅を過ぎて、トンネルを潜り抜けても、島田から先の富士の裾野の海に向かっての広がりは、人間の暮らしの営みで溢れており、工場や人家で埋まっている景色が続いていました。それをしっかり見るようにとの思いやりなのか、富士山は雲の中でした。

 新幹線というのは改めてスピードが速いのだなと実感する間もなく、気がつけば間もなく静岡駅でした。「のぞみ」や「ひかり」に追い抜かれるための待ち時間がやたらに多くて、その時にだけ、街が近くに見えて、人々がそこに生きて動いているのを確認できたのでした。走っている間は、「こだま」であっても、そのスピードは他の列車とさほど変わらず、それゆえに客観的なコメントの景色しか感ずることが出来ないのです。文明が進めば進むほど、人は客観的なコメントを無視して、主観的な生き様に浸るようになって行くのかもしれません。

 さて、そのあとの結婚式については、これはもうプライベートなことなので書くのは論外です。

ところで、勿論結婚式が済んで、帰りも又新幹線に乗ったのですが、これは「ひかり」の方で、東京駅までは1時間ほどの乗車時間でした。乗車したのが19時半を過ぎており、この時間帯では残念ながら外の景色を楽しむことはできず、宴の酒に酔うままに、妙に空腹を覚えて大食し、家内の顰蹙(ひんしゅく)を買いながら、多少よろけつつ我が家に辿り着いたのでした。もはや、楽しみが失せると、客観性も主観性も失った只の老人と化したのでした。15年ぶりに乗った新幹線の感想でした。

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松蔭先生に問う

2015-03-16 04:40:48 | 宵宵妄話

先日、朝の散策で市内の野木崎という所を歩いていたら、小さな広場の隅に、何やら漢詩のようなものが書かれた掲示板があるのを見つけた。以前からここを何度も通っていたのに、気づかなかったのかなと近寄ってみたら、何とそれは松蔭先生の詩だった。吉田松陰が旅の途中でこの辺りを通りかかられた時に詠んだ詩とのことだった。地元の郷土史家の方の思い入れで建てられたようである。それを紹介しよう。

  筑波山刀根之川

 吾今俯仰発浩嘆

 刀根之川遠達海

 筑波之山高衝天

 吾原浮躁浅露質

 觀物寓戒豈徒然

 気象高峻志趣遠

 須臾勿忘川與山

       <嘉永四年十二月十五日 下川岸にて詠む>

 

掲示板に掲げられ、紹介されていた吉田松陰作の漢詩。下はその読み方と書かれているけど、意訳されたものと理解する方が適切な様に思った。

筑波山と利根川に掛けた松蔭の思いを詠いこめた七言律詩である。嘉永4年は西暦では1851年であり、松蔭が脱藩して東北や蝦夷に向かって遊歴したのが嘉永5年だというから、その1年前のこの年にも、何か目的があってこの地を訪れたか通りかかったのかもしれない。

守谷のこの辺りは鬼怒川の運河が利根川に合流する地点にあり、往時は江戸からの船運も多くあって、鉄道が敷設されるまでは、利根川や鬼怒川の河岸はかなりの賑わいを見せていたというから、多くの著名人もここを通過して行ったのかもしれない。利根川のハケの下に田んぼや荒れ地の広がるだけの今の様子からは到底想像もできないことではある。

この詩は松蔭が21歳の時の作であり、そのエネルギッシュな思いが溢れている感じがする。漢詩というのは概してオーバーな表現が多いように思うが、この詩も例に漏れないようだ。しかし、日本の未来を思い、この国の現状をつぶさに見て回ろうとする若者の情熱は、この詩の表現以上のものであったのかもしれない。現代の若者たちには、筑波山を見ても或いは利根川を見ても、このような感動の思いは欠片(かけら)もない様に思える。

丁度今、今年の大河ドラマ「花燃ゆ」が始まっており、掲示された漢詩の傍には、郷土史家の方の思いを込めた、現代の若者たちへのメッセージなどが書かれていた。「花燃ゆ」は松蔭ではなくその妹の方にスポットを当てたドラマの様であるが、今のところ我々老人からは、やはり関心事は松蔭の生きざまの断片ということになるのは致し方がない。

さて、私の松蔭という人物への所感といえば、ドラマの中での落ち着いた振る舞いの人物などではなく、超過激で超行動的な、超愛国者という若者のイメージである。幕末の頃の世界情勢といえば、欧米列国の侵略の最盛期であり、隣の大国の中国(=清)でさえも、その侵略に為されるがままの状況だった。これらの情勢を知るにつけても、この国を思う若者の思いは居ても立ってもいられないほどの切実感というか、何とかしなければならないという逼迫感、切迫感の中にあったのだと思う。その強烈な国を思う志の前には、がんじがらめの幕府の規制など問題ではなく、自らの命でさえも問題にしなかったのではないか。

しかし、死んでしまえばその人の力はもはや発揮できないのであるから、松蔭という人の最大の功績は己の志を託す人物を、僅かの時間の中でしっかり育てたということではないかと思う。そこに松下村塾の意義と価値が見出されるのは、周知のことである。

萩の城下町を訪れ、今は松蔭神社となったその境内に残されているその塾の様子を何度か訪ね、付近を歩き回ったことがある。しかし、百数十年前の往時と今とでは、城下町もその周辺の村々も相当に違ってしまっているから、塾の建物の中で語る松蔭先生と、共に議論をする生徒たちとの姿を思い描くのはなかなか難しい様に思った。想像するに、自分の知っている昭和の戦後間もない頃の貧しい農村の一隅で、不揃いの野良着姿の若ものたちが、師を囲んで集団で情熱任せの議論をしているという様な学び舍のイメージが浮かんでくる。今の時代の教育(学習)論で言えば、グループダイナミックス(=集団力学)といった考え方を取り入れた学び方が、この塾の特徴だったのではないかと思ったりした。

閑話休題。テーマの本題に戻って、松蔭先生にお訪ねしたいなと思っていることがある。吉田松陰という人物は、明治維新の立役者の一人として、維新後に神格化された人である。その神様は、自分の愚問に対して一体どの様なお話をされるのであろうか。

実は質問は一つの筈だったのだが、最近の世の中の動きの中からもう一つ付け加えてお伺いしたいと思った。

先ず第一番の質問は、明治維新が成った後の、第二次世界大戦に至るまでのこの日本国のリーダーたちに対するコメントである。綱渡りをしながら対外諸国との対応をこなしてきた日本国が、何故大戦への道を選んでしまったのか。そして、大戦後の復興を見た後、今この国が何処へ向かおうとしているのか。これでいいのか、そのことを松蔭先生に是非ともお伺いしたい。29歳にして刑死した先生に、その子弟たちが成し遂げた維新の後のリーダーとしての役割を問うというのは、如何に神様であるとしても、無理は承知なのではあるけど、伺ってみたいのである。志を目標ということばで置き換えるとすれば、志はそれを果たすことが出来たならば、次にはより高いものへと向かうように思えるのだけど、今現在の日本国は、そのことを枉(ま)げて、より低い方へと向かっている様に思えるのである。

第二の質問は、より生々しい現実のテーマとして、元総理を務められた鳩山由紀夫という人物の振る舞いのことである。何度か自分たちには理解できない振る舞いをされているのだけど、今回はロシヤに編入されたクリミヤ地区を訪問して、その妥当性を敢えて強調して、政府からも又ロシアを除く世界の多くの国からの顰蹙(ひんしゅく)を買っているだが、この振る舞いについて、「志」の大切さという観点から、どのようにコメントされるのであろうか。彼には志があるのか、それとも単なる無節操の為せる愚行に過ぎないのか。元総理という一国のリーダーだった人をどう評価すればいいのか、そのような人物を選んだ我々は一体どうあるべきなのか。

何だか見当違いのごり押し論のようにも思える。しかし、この二つの質問の根には、今の時代を生きる者としての、国のかじ取り責任者に対する切実な思いが込められているのである。

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「断・捨・離」の過酷さを味わう

2015-03-09 05:52:33 | 宵宵妄話

 4月に人生16度目の引っ越しを行うことを決意したのは、2月の半ば過ぎだったが、そうと決まればその時が来るのをじっと待っていることなどできる筈がなく、自分に係わる書籍類の整理を始めたのは、決めた翌日からだった。もうその日から半月以上が経っており、その整理はほぼ完了している。しかし、この整理に関しては、自分の人生ではかなり上位に位置する苛酷さを味わったように思う。今回は、そのことについて少しく所感等を述べてみたい。

 「断・捨・離」ということばがある。これは4年ほど前の流行語となったもので、今でも人々の暮らしの中に定着しているキーワードではないかと思う。というのも、今の時代では物を慈しんで大切に扱うという考え方は少なくて、大量生産・大量消費の多くの物の中から、ちょっぴり気に入ったものをちょっぴり貯め込むと、たちまち置き場所に困るような狭い空間での暮らしが常なので、「断・捨・離」は、もはや必要不可欠な要素となっている様に思えるのである。

今回の2階への引っ越しに当たっては、今まであまり気にもかけなかった、この「断・捨・離」をキーワードにしなければならないなと思った。オーバーに言えば、我が人生4分の3世紀(=75年間)の間に溜まった数々の宝物を再点検し、それらを無理やりに宝物とゴミとに選別・仕分けするということなのである。今までの暮らしの中で残っているものといえば、それは殆どが宝物に類するものなのであって、ゴミなどにはなり得ないものばかりなのである。しかし、「断・捨・離」というのは、その宝物を更に厳しく吟味してゴミと分けろという悪魔の囁きのようにも思えるのである。

人が物を買うという時には、必ず動機があり、そこには何らかの思いが籠められている様に思う。日常の消耗品だって、その時には何らかのニーズがあったから買い求めるのであって、理由なしにそれを自分のものにするということはないのではないか。まして気に入ったものであれば、動機も強いものとなり、時間が経ってそれが不要となっていても、なかなか捨てるという気にはなれないのだ。だから、宝物となると「断・捨・離」は一段と難しくなる。

私の人生の中では、人間関係などを除いた「物」の世界では、宝物といえば、本の類と少々の小物くらいしかない。私にとっての宝物といえば、それは99%が書籍ということになる。どのような文庫本でも雑誌でも、そこにはその一冊一冊を買い求めた時の思いと喜びが詰まっているのである。さすがに学生時代に出会った本は僅かしか残っていないけど、社会人となって以降に買い求めた本の殆どは、今まで捨てきれずにいて、16回もの引っ越しの度にその数が増して、今では数千冊を数えるほどになっている。リストなど作成していないので、数は判らないのだけど、数千冊以上かもしれない。これを何とかしなければならないのである。

「断・捨・離」というのは、やましたひでこさんという方の提唱が始まりだと聞くけど、元々はヨーガの考え方の断行・捨行・離行に由来しているとか。どうやらこれは禅などの修業の中身と似ている様に思った。座禅の瞑想も様々な物や人などとの関わりを断ち、迷いから離れるという考えが核となっており、ヨーガもその根幹は同じではないかと思った。「悟り」というのは、もしかしたら「断・捨・離」が自在にできる境地を言うのかもしれないなとも思った。

さて、そのような理屈はともかくとして、数千冊を超える我が宝物を一体どこから手をつけ、どのように処分すればよいのか。これはもう、強制的に意識を変えない限りできない仕業(しわざ)である。正気ではとてもできることではない。意識を変えるというのは、普段の暮らしの中では、意識を強めるというよりも狂気に近い意識転換を言うのではないかと自分は思っている。簡単に言えば、狂うほどの意識を持って為さなければ、宝物をゴミと仕分けするなどできることではない。そう思った。

先ずは①これからも読む本②これから読む本③読まなくても見ているだけで安心する本、を優先して残すことにした。捨ててもいいのは①哲学の無いノウハウ本②嫌いな作家の本③読み飽きた慰め本、などを処分することにした。残す本を優先させるのではなく、捨てる本を優先させながら仕分けを続けることにした。そうしないと作業が先に進まない感じがしたからである。しかし、実際に取り掛かって見ると、捨ててもいい本など元々ある筈がなく、当初は段ボール箱一つくらい(=40冊ほど)で止まってしまった。そこから又一つ壁を乗り越えて、もうこれ以上は限界だ!となるまでに「捨」を決めた本の数は、最終的には段ボール箱で11箱分、文庫本も入れると500冊超となった。埃にまみれながらのこの時間は、まさに地獄の狂人となっている思いがした。

ところで本の処分だが、これはゴミとして出すには量が多過ぎるので、ブックオフに持って行くことにした。多少は値のつくものもあるのではないかと思った。以前20冊ほど処分した時には、結構いい値段で買い上げて頂いたことがあるので、少しは回収に役立つのではとの期待もあったのである。結果的には一万円を少し超えたほどのレベルだった。今頃は書籍離れが始まり出し、又一方で印刷物が過剰氾濫している時代でもあるので、本の価値や価格などというのも弾けたバブル経済の直後のような状態なのかもしれないなと思った。今回処分したものを新しくそのまま買い入れたならば、50万円くらいにはなるだろうから、中古本で2%ほど回収できたのは、まあ、良しとしなければならないのかもしれない。そう思うことにした。しかし、それにしても寂しく虚しい。

とにもかくにも、捨て去ったものは早く忘れることにした。残した分は、書斎の本棚の半分を使わせて貰って収蔵することにし、一部は2階の新しく書斎として使う予定の部屋の本箱に収めることにしている。身近に使う本は机の傍に置き、それ以外は離れた元の書斎に置くことにしている。あと何年生きられるのか、その間にどれほど本を読むことが出来るのかわからないけど、もうこれらの残された宝物を「断・捨・離」の悪魔に問う様なことは、二度としたくないなと思っている。

所詮自分は悟れない人間だなと思った。生きるというのは、迷いの中に居て安心しているということを言うのではないかと、今は開き直りの気分でいる。

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人生16度目の引っ越し

2015-03-05 05:22:30 | その他

2月半ばから3月の初めまで、10年前の旅の記録を引っ張り出して、自分なりにそれらの思い出をまな板に載せて、振り返ってのコメントなどをつけて見て楽しんだのだったが、この間の現実の暮らしの中では、実は大ごとともいえる出来事が起こっていたのでした。そのことについて、ヒマに任せて報告したいと思います

 

 この度、我が人生16度目の引っ越しをすることになった。2世帯住宅の2階に住む倅夫婦に、昨年の3月に生まれた孫がハイハイをし始め出し、この頃は伝え歩きのレベルに達し、昨日は2~3歩歩けるようになったというから、誕生日の下旬ごろには、もうよちよち歩きを始めるに違いない。これは現在、何とも言えないジジ・ババの喜びの極みのような楽しみなのだが、2階に住む倅夫婦にとっては、毎日がヒヤヒヤ時間の連続ということになるに違いない。孫は極めて活発な子で、隙あらばドアの空いているのを見計らって、あっという間にハイハイで廊下を目指すのである。勿論階段の降り口には危険防止の柵が作ってあるのだけど、もう少し智恵が発達して歩き始めたなら、その柵を外して一階のジジババを目指す可能性は十二分にあるのである。

 我が家は、1階は老人仕様、2階は倅仕様で造ってあるので、内装の色合いも厨房の設備なども大分に異なっている。1階に住む自分たちは、老後のことも考えて調理はIH仕様であり、従って鍋などの用具もそれに合うものを揃え用いている。内装等は、ここを終の棲家と考えての家内の思い入れが相当に入っており、倅の考えた2階のそれとは随分と違うのである。

 それが、孫の動きが活発になるにつれて、不安を増した倅たちがいろいろ考えたのであろう、先日1、2階の入れ替えを提言して来た。その背景にはもう一つ嬉しい出来事があって、第二子を授かったという、より切実な事情も含まれていたのだった。全く予期しなかったわけではないけど、今更そのような面倒なことをしなくても、まあ何とかなるのではないかと思っていた。しかし、孫の様子を見ていて、これが二人もいることになると、このままでは済ますわけにはゆかず、2階への移動を決断しなければならないと思ったのだった。それは家内も同感だった様だが、自分よりは家屋の仕様や内装等に関心・こだわり感の強い彼女にとっては、そのニーズは理解できても、現実を簡単に変えることはかなりの難問で、その提案には相当に抵抗があったようだった。しかし、孫可愛いやには勝てず、このままで居て、まさかの危険な事件などが出来したらなどと想うと、ダメと断ることはできず、入れ替えを断行することと相成ったのだった。

 思えば我が人生は引っ越しの積み重ねのようなものだった。社会人となって東京に出て来て就職先の会社の独身寮に入って以降、6年間の独身時代に3回の引っ越しを行い、結婚して社宅に入った時は5回目の引っ越しを数えていた。所帯を持ってからは社宅の移転や転勤等で東京、高松、福岡、千葉、川崎、小平、東村山と10回の引っ越しを余儀なくされ、11回目にして、ようやく現在の守谷市に倅と一緒に住む家を造り得て越して来たのである。自分の分だけを数えれば、22歳で上京して以来53年の間に16回の引っ越しをした計算となり、なんと一カ所には4年足らずしか住んでいないことになるのである。もうこれで引っ越しはあの世に行く分を残すだけだなと思っていたのだが、もう一つおまけがついていたとは、まさに想定外の出来事だった。

 今回の引っ越しは、正式には引っ越しというほどのものではないのかもしれない。同じ屋根の下で、1階から2階へ移るだけのことなのだから、車などの移動手段は不要であり、多少の移動の手間を要するだけで済むのではないかという考え方もある。しかし、これから新しい暮らしを作って行く世帯と、人生最後のステップをここで過ごそうと考えている老人世帯とでは、同じ屋根の下でも時間と空間の使い途の考え方は自ずと違うのである。

 何しろ、結婚以来あと3年で50年を迎えようとしている老人夫婦には、今まで11度の引っ越しを数えながらも捨てきれずに背負ってきた荷物の数々が、1階の至る所に詰まっているのである。自分の方は主に書籍類が中心で、その数は守谷への引っ越しの際には、中型の段ボール箱で50個以上を数えていた。それらをどうにか書斎の本棚に収めたのだが、文庫本などは三重にして収納しており、ハードカバーの本も殆どは二重に収めるといった状態で、ざっと見積もっても5千冊は下らないのではないかと思う。家内の方は主に着衣類が中心で、それらのものを長期間大事に使う人なので、これ又収納庫の中は超満タンとなっている。どれくらいの量があるのかは自分には全く判らないけど、2階の収納庫に収まるのか、真に悩ましい状況となるに違いない。その他、引っ越し以降まだ開けずに箱に入ったままの資料類が幾つかあり、半地下の倉庫は、既に物を取り出すのも困難といった状況にある。これらの物をそのままそっくり2階へ移すことは不可能なのははっきりしている。

 しかしまあ、決めた以上は何とかこの引っ越しを実現させなければならない。一応4月の頃に最終的な入れ替え移動日を決め、専門業者に依頼して実行することにしている。それまでの間に、順次中身をチエックして、処分できるものは処分することにしている。しかしまあ、なんと心の落ち着かないことか。今までの引っ越しの大半は家内に任せて来たこともあって、何をどうしたらいいのか、具体的なことはどうも要領を得ない。既に老人となっており、力仕事の方も自信がない。無理をすれば必ずその報いがやって来るのは明白なので、とにかくできることからボチボチやってゆくしかない。ま、ここでしっかり整理しておけば、次のあの世への引っ越しの時には悩むことも少なくて済むのではないかと思っている。先月の半ばから、今は、旅のことも忘れて引っ越しの命題に悩まされ続けていることを告白しておくことにしたい 

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第30日~最終日)

2015-03-02 00:43:05 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第30日:12月16日(木)

 <行程>

藤枝市:妹宅 →(R1他)→ 焼津IC →(東名道・首都高・常磐道)→ 谷和原IC →(R294他)→ 自宅    <246km>

 今日もいい天気だ。とても冬とは思えないほどである。すっかりご馳走になってくつろいだ心を、チョッピリ緊張させて最後の運転日の開始である。名残りを惜しみつつ出発したのは10時半ごろ。今日は一般道ではなく高速を走って一挙に都心を通過してしまうつもりである。焼津ICから東名へ。後は適当に休憩を取りながら一路一ヶ月振りの我が家に向うだけである。

途中富士川SAで小休止。ここから見る富士山の景観は東名一であろう。由比よりも駐車場の規模が大きいのでゆっくりとその景観を味わうことが出来る。その次は御殿場にある足柄SAに寄って昼食休憩。後は都心に入る前に横浜の港北PAで小休止して気合を入れ、東名から首都高を通り、常磐道にて谷和原ICを降り我が家へ。到着は15時55分だった。丁度1ヶ月ぶりの帰宅である。全行程4,970kmの旅であった。

【コメント】

◆最終日となりました。この日についてのコメントは特にありません。

◆総合的に見れば、久しぶりの九州の旅(主に東九州エリア中心)でしたが、所期のゴールの鵜戸神宮辺りまで行っての折り返しのコースを辿ることは出来ましたが、その内容は当初の思惑とはだいぶ違ったものとなりました。思わぬ嬉しい出来事あり、予想外の失敗ありで、それが又車旅の醍醐味でもあったような気がします。

特に印象に残った出来事は、①高千穂の夜神楽の本物を見学できたこと②鳥取市内での車の故障とそれをチャンスにした鳥取市内観光の実現でした。

①の高千穂の夜神楽の探訪は、くるま旅ならではの地元の暮らしを味わう、その醍醐味を知ったということです。観光客用のちょっとの間のショ―楽しむのではなく、地元の方と一緒にその地に昔から伝わる伝統行事を探訪するのは、大げさに言えば、日本という国での暮らしの歴史の断面を体感することにつながり、民俗の持つ本物の力に触れられたという深い感動を味わえたということです。とはいうものの、只の一夜だけではまだまだ不十分であり、再度長期滞在での体験をしたいと今でも思っています。この他に、地元を理解するということでは、霧島神宮のほぜ祭りも貴重な経験でした。くるま旅はともすれば有名地へのワンウエイの一時の通過作業で終わってしまいがちなので、要注意です。予め、しっかり訪問先の情報を把握しておき、じっくりと腰を据えた訪問・探究が、旅の味わいを深めてくれると今は考えています。

②の鳥取市郊外での事件は、決してお勧めできるようなものではありませんが、臨機応変に旅を楽しめたという点で、真にラッキーだったと思います。もしこれが北海道の山の中での出来事だったとしたら、熊さんとの交流が可能などということはあり得ず、全くのお手上げ状態となるのは必至です。旅車の故障というのは、多くの場合厳しい事態の到来が常だと思いますから、やはり平時の始業点検や整備等をしっかりと行って、安全確保に万全を期しておくことが肝要だと思います。

 

さて、今回は10年前の旅の記録を引っ張り出して、今現在の目線でのコメントを付してみました。如何だったでしょうか?

 過去の記録や記憶を弄(もてあそ)ぶつもりはありませんが、時には振り返って旅のあり方を考えてみるのも必要ではないかと思いました。10年前の旅の幼さのようなものをちょっぴり感じています。

 やみくもに走り回って見聞を積み上げて行くのも旅の面白さの一つには違いないと思いますが、より目的的にこの国の各地での暮らしのあり様を訪ねてみるのも面白いなと、この頃は思っています。

 旅は人生の宝探しであり、出会いと感動がその宝ものの正体なのだと思っていますが、これからは、より深くこの国の大事なものを感ぜられるような旅を心掛けたいと思っています。

  

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第29日)

2015-03-01 00:14:49 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第29日:12月15日(水)

 <行程>

  道の駅:金森温泉ぬくもりの里 →(R256・R248・R155・R1)→ 藤枝市:妹宅[泊] <246km>

  この道の駅に泊ったのは2度目である。沸かし湯の温泉だけど、ソフトでなかなかいい湯だと気に入っている。ここは土呂と合併して今は土呂市の一部となっているのだろうか。平成の大合併か何か知らないけど、馴染みの地名がどんどん無くなって、訳のわからない、時には滑稽としか思えないようなへんちょこりんな名前の市や町が生まれている。気に入らないねえ。どこかにメリットはあるのかもしれないけど、デメリットもかなりあるんじゃないかいなあ。

民営化がどうたらとかいう主張は、コストをベースとした効率化オンリーの理屈であり、全てのマネジメントに共通しているとは思えないというのがタクジイの考え。小泉総理の主張も全て間違いではないけど、例えば大学の独立行政法人化の問題などは、大学が経営を上手くやることばかりに気をとられ、コストばかり追いかけるようになったとしたら、本当の目的は何なのかが見えなくなってしまうのでは? ま、肩書き獲得用の大学が多過ぎるので、それを減らすのが目的ならば、別の方法で鉈を振るった方がマシではないか。コスト効率の追求ばかりやっていたら、全ての大学のレベルが低下してゆくような気がしてならない。大学に行く資格も無いような学生、それを指導する力も無いような教官、それらを何とかしないと、大学経営などよりももっともっと深刻な問題がこの国に根付いてしまうのではないか。あれれ、なんか話がおかしくなり出したぞ?

タクジイの高校時代のクラスメートの一人が、ある大学の学長になったのだが、彼の呻吟する姿を思い浮かべる度に、役人どもの考え方、やり方の底の浅さが我慢ならないのだ。もともと何の話だったっけ? そうそう、合併の話だった。

 さて、今日は藤枝の妹宅にお邪魔することだけが目的であり、その他は何もない。高速で行けば直ぐだけど、それは避けて下の一般道を行く考えである。東海道は何時も東名を利用してばかりいるので、著名な市や町もその外れの方を掠めて通るだけだった。今日はどんな所なのかチョッピリ覗きながらちんたら走ることにしたい。8時55分出発。

R41を美濃加茂に向い、美濃加茂からR248に入って、多治見方面へ。ここから先は藤枝まで殆どが初めて通る道となる。多治見や瀬戸は陶磁器の焼物で有名な所だが、今まで行ったことはない。通りすがりに良い所があれば訪ねようなどと考えながら行ったのだが、瀬戸を通過するまでの間にはそれらしきものは何もなかった。

メインの道路を通っているはずだから、何かはあるだろうと思っていたのだが、完全に期待を裏切られた。特に瀬戸市内の悪路には驚いた。悪路というより街づくりというか、行政の遅れというのを感じるほどで、今まで全国を廻ってきた中では、かなり酷いレベルだなと思った。もしかして酷い所ばかりを通ってしまったからなのかもしれないが、今度通る時には見違えるようになっていることを願うばかりである。

瀬戸からR155にて豊田に。豊田も初めて来る所である。世界有数の巨大企業の本拠地とは一体どのような所なのだろうかと期待しながら通ったのだが、ここも瀬戸と同じように、通った道には工場の気配を感じさせるものは殆どなくて、ただごちゃごちゃした市街地の道があっただけだった。このような期待を満足させるためには、やはり予めある程度道や場所を調べて訪ねなければダメなのだということであろう。豊田から岡崎に向かい、岡崎でR1に入る。ここからは、この道で一路目的地の藤枝まで行くだけである。

途中適当に休みながら、浜松に入る。昼飯を食べ損なっているので、なんとしてもこの辺りで名物のうなぎを食べようと考え、店を探したのだが、なかなか見つからない。弁天島辺りを通過して暫く行って、ようやくうなぎ屋の看板を見つけてその店に入る。14時になっていた。もしかすると浜松というのはうなぎの養殖、生産地であって、食べさせるのは別の場所となっているのかもしれない。うな重を頼んで食したが、関東の自家近くの、牛久沼湖畔の馴染みの店のそれよりも味のレベルは下だと思った。浜松はうなぎパイで我慢する方が賢いのかもしれない。贅沢な話ではある。

掛川を過ぎて、バイパスがあるのでそのほうが早いだろうと入ったのだが、工事規制があってノロノロ運転を余儀なくされ、余計時間がかかって、藤枝に着いた時は、17時にもなってしまっていた。クニバアの妹宅をお邪魔するのは1年ぶりくらいか。大いに歓待戴いて、いつものように(不)適当に酔っ払って、歓談の楽しいひと時を過ごさせていただいた。ありがとう。旅の最後の夜は酔い任せで終わる。

【コメント】

◆この日は何の目的もなく只ひたすら走るだけの一日だったので、特にコメントするようなこともなし、です。ま、強いて言えばやはり少し走り過ぎの感は否めないと思います。時にはこのような日があってもやむを得ないとは思いますが、やはりもう少し内容の充実(=楽しみの膨らみ)を考える工夫があったと反省しています。浜松のウナギなどにこだわり過ぎて道草を食いましたが、R1を行くのを止め、御前崎などを見ておくのも有用だったかなと思います。ま、これは結果論ですから。何とでも言えることです。

 

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