山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

竜神大吊橋を歩く

2009-11-30 03:19:53 | くるま旅くらしの話

茨城県というのは平野の多い所です。しかしそう感じるようになったのは、守谷に棲んでからであって、それまでは結構な山国だと思っていたのでした。それは自分が生まれ育ったのが県北であった所為に違いありません。人は多くの場合自分の生まれ育った環境や自分が今棲んでいる環境によって、ものごとの多くを判断するもののようです。

その昔の少年時代は、住んでいた常陸大宮市(その当時は那珂郡大宮町)が世界の中心地であり、北の大子町などは地の果てのような感じがしていて、ましてその先の福島県の矢祭町や栃木県の馬頭町などといったら、得体の知れない未開地のような感覚で捉え、イメージしていたのでした。真にお恥ずかしい話で、今頃は那須野や福島県南のエリアを通る度に、子供の頃のとんだ見当違いを思い出して冷や汗ものなのでした。

その県北のドン詰まりが八溝山となりますが、この千メートルをほんの少し超えた高さの山が、福島県との県境を共有し、且つ栃木県に裾野を下ろす茨城県の最高峰なのです。この山は茨城県側からは少し懐が深いため、私たち子供の登山の対象となることは殆どなく、高校から大学にかけての登山といえば、専ら奥久慈の男体山(654m)なのでした。その後、南アルプスの甲斐駒や仙丈ヶ岳などを歩くようになって、まあ、なんと可愛らしい登山であったことよ、と気づいた次第でした。

さて、前置きが長くなりましたが、今回の温泉めぐりのついでにその県北にある竜神峡という渓谷に架かる大吊橋を見に行くことにしました。竜神峡というのは、その男体山近くを水源として流れる竜神川の造り出した渓谷で、吊橋の下にはその川を塞き止めて作った竜神ダムというのがあります。奥久慈といえば、久慈川に沿って走るJR水郡線沿いの山々を指すことが多いのですが、竜神峡はその山を一つ北東側に越えて走る山脈との間に位置しています。簡単に言うと、男体山の裏側にあるのが竜神峡なのです。従ってここは今でこそ車で簡単に訪ねることができますが、私の子供の頃は、至近距離であったにも拘らず、全くの秘境という感じだったのです。

   

山もみじの紅葉と青空。飽くまでも澄んだ青空に映える紅葉は美しいの一言である。

その竜神峡に巨大な吊橋が架かったのは、1994年といいますから、今から15年前ということになります。建設に33億円もかけたのは、その当時はバブルが弾ける前で景気も良く、ふるさと創生金として各市町村に等しく1億円が配分されるなどという、あまり創造的とは思われぬ施策があり、それに乗った合併前の水府村が、観光の目玉にと大博打を打ったのではないかと思われます。何しろこの大吊橋は観光用に造られただけで、道路としての機能は殆どないのですから、随分と思い切ったものです。当時かなりの評判になり、私も実家に帰省した際にまだ存命だった両親を車に乗せて見物に行ったのでした。

その時はまだ秋になったばかりの季節で紅葉は今一の感じでしたが、確かに景観は素晴らしいものでした。吊橋の下は竜神ダムですが、そこまで100mも高さがあるのです。橋の通路の所々に透明の強化ガラスがあり、下を覗けるようになっているのですが、高所恐怖症の気のある私には、何という悪趣味なのだろうとしか思えませんでした。その頃体力が一段と衰えた母は、375mあるという橋を全部歩くことが出来ず、途中でギブアップしてしまいました。折角来たのだからせめて往復させてあげたいと思い、事務所らしき所へ車椅子はないかと訊きに行ったのですが、どうしてそのようなものを用意しなければならないのか?というような顔をしての応対に腹が立つよりも呆れ返って、母をおんぶしようと思ったら、母がヤダというので、諦めたという思い出があります。

15年ぶりの再来ということになるのだなと気づいたのは、これを書いていながらなのですから、我ながら時間感覚の衰えに頼りなさを覚えます。その竜神大吊橋は、もう昔の記憶は殆ど失われており、初めて訪れるような感じでした。橋の直ぐ側にある駐車場にはキャンピングカーは入れないことになっているという警備案内の人の誘導で、50mほど下にある第2駐車場に車を入れ、急な坂道の横にある階段を昇っての道行きでした。相棒はそれだけで相当息が上がったようでした。最後の一段を登り終えると一挙に展望が広がります。ここに来てようやく15年前を思い出しました。

   

竜神大吊橋の様子。向うの橋桁まで歩行者の歩ける距離は375mある。本州で一番長い歩行者専用の吊橋だとか。

橋の入口で利用料の300円也を払って向こう側まで往復することにしました。紅葉の最後に近い時季とあってか、平日にも拘らずかなりの観光客が訪れていました。話していることばのトーンからは地元に近い人が多いようです。375mの橋を往復するだけですが、その景観は見事なものでした。左手には奥久慈の男体山系の山々が並び、それらが全て全山紅葉です。低い山なので岩肌が剥き出しとなっていない限りは、てっぺん近くまで樹木に覆われており、その多くは楢(なら)や橡(くぬぎ)等の雑木が多く、鮮やかな紅葉ではなく、ほんのりと温かみの感じられる紅黄葉でした。右手には少し低い山々の同じような紅黄葉を展望することが出来ます。

   

竜神大吊橋から見た周辺の山々の紅黄葉の様子。正面の小高いのが篭岩と呼ばれる標高501mの巨岩の山。

   

竜神大吊橋から見た竜神ダムの景観。湖水まで約100mの高さがあるという。心臓によくない景色だ。

この紅黄葉にはふるさとの味がします。その昔の少年時代に、このように色づいた近くの山々を走り回って遊んでいた記憶が甦るのです。あの頃はこのようなダムの出現や、その上の大吊橋なんて想像も出来ませんでした。そのような宙に浮いているような世界ではなく、しっかりと地に足をつけての遊びだったのです。このような秘境まで来るなどということは、思いもよらぬことでしたが、我が家の裏山も然して変わっていなかったように思えるのです。橋の上から周辺の全山紅黄葉を見渡しながら、様々な思い出の感慨に浸った時間でした。

向こう側まで到達して、そこから先にはトレッキングのコースのようなものがあって、ダムの方に下りられるようになっているのですが、最初からその気になってやって来ない限りは、こんな100mもの落差のある坂道を下まで行くなどという気は起こりません。往きは良い良い帰りはもうダメ、となるに決まっています。それでふと思ったのは、そうだこの大吊橋を何回か往復しようということでした。仮に2往復すれば料金は半額となる計算だし、10往復すれば料金は1回30円となるわけです。

このようなさもしい発想をする人は、今日は他には一人もいないようで、皆さん一往復して終わりにされているようでした。結局そのあと2往復して、計3往復したのでした。料金は1回につき100円となったわけです。絶景を見ながらの空中散歩は、十二分に満足できるものでした。このようなバカげたトライは、お勧めしてもいいような気がします。

というのも、私は以前、四国は愛媛県の今治から広島県尾道につながる本四架橋ルートの一つの、しまなみ海道を1週間ほどかけて旅した時に、中央近くにある多々羅大橋という3kmを超える橋を3日間毎日往復したことがあるのです。その時のことを思い出したのでした。あの海に架かる、美しい巨大な橋に比べれば、この大吊橋は小川の橋のようなものです。あの時の恐怖心とそれを克服した感動のことを思うと、この橋を往復することなど朝飯前だと思ったのでした。何しろ多々羅大橋は、この橋を10往復するくらいの距離があるのです。違うのは多々羅大橋は見渡す景色が海や島であるのに対して、竜神大吊橋は周辺が懐かしいふるさと味の紅黄葉の山々だということです。

歩行者専用の吊橋としては日本一の長さだといっても、本四架橋の橋のスケールの大きさには遠く及びません。しかし、久しぶりにふるさとらしい紅黄葉を存分に楽しむことができて、満足まんぞくでした。帰りに橋の側の店に寄って車椅子が用意されていないかどうかと確認しましたら、ちゃんと2台分が用意されてありました。時代は少しずつ進歩しているのだなと、ちょっぴり嬉しくなったのですが、今はそれに乗って貰える母も父もあの世に行ってしまいました。今度ここに来るときには、もしかしたら自分がそれに乗ることになるのかも知れません。

   

売店の隅にはちゃんと2台の車椅子が用意されていた。何年か前に水府村が用意したようだった。福祉への考え方は確実に向上している。

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くるま旅の交響楽(シンフォニー)

2009-11-29 05:17:43 | くるま旅くらしの話

くるま旅では、天候が悪化すると、特別の音楽を堪能することが出来ます。今回の小さな旅でもそれを楽しむことができたのでした。その特別の音楽とは、天井を打つ雨音であり、車の壁の側の空気を切り裂いて通り過ぎる風の音であり、閃光と共に大地を揺るがして轟く雷鳴なのです。これらが一度につながって一夜の一時を奏でることは滅多にないのですが、時としてそれを震えながら堪能することもあるのです。このことについて少し書いて見たいと思います。

ショパンの小品に雨音というのがあったと記憶していますが、今の時代、自然の雨音に耳を傾ける人が居るのでしょうか。傘に降る雨の音すらも災いとしか感じない人が多いように思えるのですが如何でしょうか。現代人の多くは、雨音に耳を傾ける余裕など何処かへ置き忘れてしまっているように思います。ショパンの雨音は、大自然が奏でる天からの贈り物の響きを、その時の思いと一緒に受け止めて楽譜にしているのではないかと思うのです。恐らくこの曲を作ったときのショパンは、自然と融和し、降り落ちる雨の中から心を弾ませてくれる音をたくみに拾ったのではないかと思います。ま、音楽評論ができるほどの知識も耳も持ってはいないのですが、ショパンのピアノにはそのような感銘を覚えます。

先日の小さな旅でも、その前の山陽・山陰の道ふらり旅でも、私たちは何回も雨音と風の奏でる深夜の音楽を堪能しました。キャンピングカーの天井というのは、薄い鋼板に樹脂のようなものをコーティングしているだけ(正確なことはよく解りません)の、遮音効果など殆ど無い代物ですから、音響効果は抜群で、雨が降り出しますと、霧雨で無い限りは直ぐにその音に気づきます。寝飽きて目覚めて、さてどうするかと思案し出すようなときに雨が降ってくると、オッッ、始まるぞ、とこの頃はそれを味わうことにしています。

雨の音というのは、じっと聴いていると千変万化です。大抵は風と一緒にセットになって落ちてくることが多く、音の強弱、時に断続、リズムの錯乱(?)など、微妙に変化するのです。優しかったり、厳しかったり、哀しかったりと心に響いてきます。勿論大自然がそのようなことを意図的に表現しようとしているのではないのですが、時としてそのように感じるのは、私自身の心の問題なのかも知れません。

でも時々思うのです。これは大自然の何かのメッセージではないのかと。雨が降るという現象は、科学的にはそのメカニズムが解明されているのだと思いますが、そのメカニズムがもたらす結果としての雨降りの中には、大自然の何らかの思いが含まれているような気がするのです。この頃はそれを読み取れはしないかなどと、大それたことを考えたりしながら雨降りを楽しむようにしています。

今まで聴いた大自然の一大シンフォニーの思い出といえば、何といっても能登は中島ロマン峠という道の駅の一夜でした。ロマンなどとは対極にあるような大自然の凶暴な本性を表現した一大演奏の時間だったのです。雨が降り出す前は、何時でもどこでも空は暗雲に覆われるのですが、その時の空は異常なほどの急激な暗さで、何か悪魔が牙をむき出して吠え出しそうな感じの邪悪な群雲の暗さだったのです。海の方で発生し、急激に発達した積乱雲の巨大な塊が、一挙に陸に向かって押しよせ、それが飽和状態になったかのごとくに、爆発的に雨を降らせ始めたのです。降り出し初めから大粒の雨でしたから、車の天井は俄かに賑やかになって、これは大変な音だなと思っていましたら、突然の雷鳴です。閃光と共に轟音一発、ズッシーンと大地を揺るがしました。これには肝を冷やしました。

しかしそれはその後2時間近く続いた大自然の一大交響楽の始まりだったのです。雨音は益々強くなり、外を見ると雨ではなく雹(ひょう)が混ざっているのです。閃光と雷鳴は、まるで道の駅をめがけて攻撃して来ているかの如くでした。これほど多くの雷鳴が身近に連続して落下したのを見たことがありません。生まれて初めての経験でした。もはや音楽を聴くどころの状況ではなく、天井の音と直ぐ外の大地を揺るがす断続的な轟音と、時折音のトーンを切り替えている風の音とが綯い交じって、恐怖を通り越してポカーンと言う感じの、呆気にとられた何ともいえない不思議な時間でした。もしかしたらそれは、大自然が奏でる一大シンフォニーに私たち二人が取り込まれて、もみくちゃにされた時間だったのかもしれません。その時、これは大自然の何かのメッセージに違いないと思ったのでした。

冷静になれた後によく考えてみると、どうやらあの一大シンフォニーは富山湾の名物と言うか、恐怖の鰤起し(ぶりおこし)と呼ばれる現象のようでした。何しろ外海を泳いでいた鰤君たちが轟く雷鳴と閃光に恐怖を覚えて、一斉に富山湾に逃げ込むほどの威力を持った光と音の一大ページェント現象だったのです。鰤君たちは難を逃れるためにもっと重大な大難にぶつかることになるわけですが、我々の方といえば、逃げることも出来ずにただただ翻弄されただけなのでした。いやあ、今思い出しても、あれは凄かったなあ。

最近は大自然からのメッセージの頻度が多くなっている感じがします。家に戻って部屋に居ると、雨音も風の音も聞こえてこなくなり、窓を開けて初めて今日は雨が降っていると気づくのですが、旅に出ると、直接大自然からのメッセージを受け取ることが出来るのです。もしかして、これはやせ我慢の屁理屈を言っているのかも知れませんが、この頃はくるま旅での天気の悪い日は、大自然からのメッセージを受け取る日なのだと思うことにしています。まだまだ中途半端な受け止め方しか出来ていませんし、これからも大して変わらないと思いますが、時には何か格別なプレゼントがあるのではないかと、ちょっぴり期待したりしています。

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ちょっと旅のあれこれ(概要)

2009-11-28 04:30:26 | くるま旅くらしの話

ブログを3日ほど休んで、小さな旅をしてきました。主夫と主婦の役割交代の気分転換のための短いつなぎの時間でした。この頃はこの小さな旅の回数が次第に増えてきています。家内は介護のために、順番で半月ほど家を留守にしますが、この間私が主夫を引き受けて家事を担当しています。結構楽しみながらやっているのですが、それでも多少はストレスなるものも溜まるようです。それで、お互いの気分転換のために、交替の時期に家内を迎えに行きがてら3~4日の旅をしているということなのです。

3~4日の旅というのは、私たちのくるま旅のくらしの中では旅という範疇には入らないのですが、それでも本質的には旅に変わりはありません。家内の実家が千葉なので、4日ほどの期間となれば、旅先は主に房総から茨城県、栃木県辺りとなります。気分転換ということですから、主にメインは温泉に入ることが目的となっています。

今回は、房総は南ではなく東の九十九里の白子町の温泉を訪ね、道の駅:オライはすぬま(山武市)に泊まり、次の日は香取市を通り抜けて茨城県の鹿島灘に沿って国道51号線を北上し、大洗の磯から那珂川が海に注ぐ所にある那珂湊の魚市場を訪ね、その後は水戸の市街を通過して隣接する城里町にあるホロルの湯という温泉施設に入り、近くの道の駅:かつら(城里町)に泊まりました。翌日は故郷の県北(私は茨城県の日立市に生まれ、常陸大宮市で育ちました)の方を廻ってみようと、メインは常陸太田市にある竜神大吊橋の紅葉を訪ね、その後県北の大子町の道の駅に寄った後、栃木県のいつもの帰路コースの喜連川の温泉に入り、夜は芳賀の道の駅に泊まって、今日帰宅したということです。

初日は、お互いがまだ先ほどまでの夫々の仕事を引き摺っている感じがして、旅のモードに切り替えられない気分があります。何しろ車の中には、家内の荷物が溢れるほどに座席を占領しているのですから、いつもの旅の気分とはやっぱり違うのです。どういうコースを辿るかについても、はっきりしておらず、車を走らせながらの話し合いの中で、行き先が決まるということになります。いつもですと、鋸山の下を通って館山などの南房総エリアに向かうことが多いのですが、今回はまだ南房総の花畑なども中途半端ではないかと考え、珍しく混みあった千葉市街地を抜けて、東金から九十九里海岸方面へ向かったのでした。

九十九里浜の白子温泉というのはあまりというよりも、全く知らない温泉なのでした。それが、いつもの「温泉博士」に掲載されていたので、一度行ってみようと考えたわけです。何しろ無料の入浴というのは、年金暮らしには魅力的なのです。でも温泉博士の魅力はタダだからというだけではなく、自分が知らなかった名湯や秘湯を教えてくれることにあります。白子温泉というのもその一つのように思いました。ここは九十九里浜の海辺で遊んだ後、遊びの疲れを癒すための湯宿だったという気がします。海辺の温泉には塩分を多く含んだ泉質のものが多いように思いますが、この温泉もそのような感じがしました。

良い感じで温泉を楽しませて頂いて外に出るころから天気が怪しくなりだして、雨粒が少し落ち出してきました。まだ16時前でしたが、空を覆った雲は夜が近いことを暗示しているような感じがしました。間もなく道の駅:オライはすぬまに到着。今日はここに泊まることにしました。ここには何度かお世話になっています。海に近いのですが、あまりそれを感じさせない雰囲気のある道の駅です。何しろ夜に近い感じなので、早めに夕食の準備をし、小さな旅の最初の夜は思っていたよりもかなり早いペースで過ぎて行きました。久しぶりにTVで大相撲の実況を見ていたのですが、17時半を過ぎるともう睡魔に対抗することが出来ず、はやくも寝床に潜り込むことになりました。翌朝は7時半起床でしたので、夜中に起き出して日記などを書いた1時間を除くと、何と13時間も寝床の中に居たということになります。くるま旅ならではの珍現象なのでした。

翌日は朝になっても雨は降り止まず、これじゃあ那珂湊の魚市場に行っても良い獲物は期待できないかと半ば諦め気分での出発でした。途中道の駅:たこ(多古町)や道の駅:くりもと(香取市栗源町)に寄りながら国道51号線に出て、一路鹿島灘に沿って北上しました。鹿嶋アントラーズのホームグラウンドの鹿嶋サッカースタジアムの側を通りながら、いろいろと思いをめぐらしました。アントラースとは鹿の枝角の意味ですが、何故鹿なのかといえば、鹿島神宮のお使いが鹿なのです。そしてその鹿は奈良の春日大社との係わり合いがあって、鹿嶋神宮から使わされたと聞いています。つまり奈良の若草山山麓の鹿君たちは鹿嶋神宮から派遣された鹿たちの末裔なのだということです。神の力は偉大で、その後押しがあって鹿嶋アントラーズは強いのかななどと、そのようなことを考えながらの通過でした。

那珂湊の魚市場は魚好きにとっては無視できない場所です。毎年少なくとも1回以上は行っていたのですが、このところはしばらくご無沙汰でした。予報どおり午後からは良い天気になって、魚市場にはかなりの人だかりが出来ていました。魅力的な魚が魅力的な価格でたくさん並べられていました。今日が旅の最終日なら思い切って買い込むことも出来るのですが、何しろ後3日ほどありますので、保存が難しく、冷蔵庫のスペースの限界を考慮して迷った末に、今夜の肴にしようと久しぶりにマグロの大トロを1ブロック買うことにしました。これはその晩に思いっきり厚めに切って、うめえ~でした。

魚市場の後は、これ又久しぶりに水戸の中心街を突っ切って通り抜け、国道123号線に入って市街地から県道でホロルの湯のある城里町に向かいました。水戸には我が老友のYさんが在住ですが、先日お邪魔したばかりなので、今回は寄らずにそっと通過しました。水戸は青春時代を過ごした思い出多い街ですが、最近は時々来訪しても特定の場所ばかりでしたから、昔を思い出して懐かしい感じが一入(ひとしお)でした。

城里町に入ると山が多くなり出します。城里町は4年ほど前に3町村が合併して出来た町で、最初は突然聞いたことも無い町が出現して、これは何なのかと戸惑ったのを覚えています。何故城里なのか、未だに解りません。もはや平成の大合併には諦めていますので、この町についてのつまらぬ詮索は無用にします。かなり山に入った場所に、町の一大保養センターがあり、その中核がホロルの湯です。2度目の来訪でしたが、初めて来たような新鮮な気持ちで温泉に入らせて頂きました。サウナや薬湯などに入って、十二分にお湯の恩恵を味わわせて頂きました。

再び山道を那珂川の方に向かって進み、30分足らずで道の駅:かつら(元の桂村。現在は城里町)に到着しました。この道の駅は那珂川の河川敷の側にあって、隣接して無料のキャンプサイトもあります。今回もそのキャンプサイトの一部に車を置かせていただくことにしました。側に植えられている山もみじの紅葉が一段と鮮やかになっていて、私たちを迎えてくれました。その夜は久しぶりの刺身に満足しながらの夕食で、再び早寝となったのですが、やはり2晩連続で眠り呆けることは不可能で、夜中に起き出してTVを見たりの騒動となり、その後は浅い眠りのままに朝を迎えるということになりました。

3日目の朝は快晴で、那珂川の朝霧が淡く付近を霞ませていました。良い景色です。対岸の御前山の紅黄葉が一段と鮮やかに見えました。御前山村は今は合併して我が故郷の常陸大宮市と一緒になっています。常陸大宮市は、平成の合併で大宮町、御前山村、山方町、緒川村、美和村が合併して市制を引くことになりましたが、県下では2番目に面積の大きい市となり、一番小さい守谷市の10倍近くの広さがあります。このような市が生まれるなんて、子供時代からは想像も出来ないことでした。不思議な気分にもなりながら、迎えた朝の感慨でした。

今日の目的は山方町(常陸大宮市)で乾麺を買って、その脚で県北の観光名所として定着した水府村(今は常陸太田市)にある竜神大吊橋を見物することがメインです。茨城県の北部には乾麺の生産販売をする店が幾つかあり、その中で山方のうどんの長年のファンなのです。在庫がなくなると補給のために山方町へ出向くのがいつの間にか我が家の決まりのようになっています。また、山方町には舟納豆という値段は少し高いのですが、充分それに見合う品質の納豆屋さんがあって、これも又見逃すわけには行かないのです。

先ずはこの用件を満たした後、竜神峡に向かいました。竜神大吊橋を訪ねるのは2度目です。この感想については、追って後ほど書かせて頂きますので、省略しますが、大変満足できた時間でした。存分の景観眺望に満足した後は、山道を苦労しながら道の駅:さとみ(元里美村・現在常陸太田市)に行き、昼食に地元産の生うどんを買って釜揚げにして食べましたが、これは最高の味でした。二人でたった300円の材料費でした。

里美からは、細い山道を避けて国道349号で矢祭町まで行き、矢祭から国道118号で大子町まで戻って、道の駅で小休止した後、茨城県とは別れて栃木県の馬頭町(今は那珂川町)経由で喜連川の温泉に向かいました。再び山の中を通る道でしたが、離合の心配は無く、道の左右の紅黄葉は楢やクヌギなどの雑木が中心で、派手ではないのですが落ち着いた雰囲気があり、私にとっては昔のふるさとを実感させてくれる嬉しい贈り物なのでした。

喜連川(さくら市)では、いつもの露天風呂に入り、今回の旅の最後の温泉を楽しんだ後、これ又いつものように宿は道の駅:はが(芳賀町)と決めて30分ほど走って錨を降ろしたのでした。喜連川と芳賀の道の駅などについては、先回のブログで書いた通りです。そして翌日の帰宅となったのでしたが、この日は良い出会いがありました。東京からお越しのTさんご夫妻と知り合うことが出来たのです。今回の旅では最高の贈り物だったと思っています。このことについては、追って機会を見て書いてみたいと思っています。

くどくどと今回の旅のあれこれを述べてきましたが、ごくありふれた内容です。明日からはこれらの中から拾った出来事や思いなどを幾つか紹介したいと思っています。

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我が愛する二つの道の駅

2009-11-24 00:15:07 | くるま旅くらしの話

旅の終わりは、東京を経由して戻らない限りはいつも二つの道の駅に寄って締めくくりとすることが多いのです。北海道や東北エリアからの帰りでも、太平洋側の常磐道などを通らない時以外は、この二つの道の駅には必ず寄っていると思います。今回の旅でも当然のように立ち寄って、それぞれの良さを味わっての帰宅となりました。

その二つの道の駅とは、栃木県にある道の駅:きつれがわ(=喜連川)と道の駅:はが(=芳賀)です。この二つの道の駅は比較的近くにあり、我が家からも2時間足らずで行くことができます。我が家からは芳賀の方が近く、喜連川はそこから30分ほど北にあります。二つの道の駅とも、温泉入浴施設を備えており、又地元の新鮮な野菜を買うことが出来る点でもよく似通った特徴を有しています。ま、田園地帯を中心とした町ですから、同じようなスタイルとなるのは、ごく自然なことだと思います。

私どもは、原則として温泉は喜連川で、宿泊と野菜類は芳賀でという風に決めています。喜連川の温泉は本格的で、道の駅構内に1箇所だけしかない芳賀と違って、幾つもの入浴施設があるからです。そして野菜類の方は、喜連川もそれなりに悪くは無いのですが、芳賀のそれと比べるとどうしても見劣りがしてしまいます。芳賀の方がいろいろな面でスケールが大きいのです。

喜連川というのは変わった地名ですが、その由来が何なのかはわかりません。那珂川の支流の荒川と内川が合流する地点に道の駅がありますが、この二つの川以外にも幾つかの川が町の中を流れていますから、それらの川との係わり合いでこのような地名が出来たのかも知れません。(これは勝手な想像です) 喜連川は、現在は隣の氏家町と合併してさくら市となりました。何故さくら市なのかわかりませんでしたが、ネットの百科事典によれば、喜連川と氏家町には桜の名所なるものがたくさんあって、公募したところ、小学生が応募した「さくら」という名称が選ばれたとのことでした。これには現在でも賛否両論が渦巻いているようです。馬骨的にはあまり感心できない気持ちの方が多いですね。何故かといえば、喜連川も氏家も全く消えてしまって、昔からの歴史の匂いが全く無くなってしまっているからです。ですから、今でも心の中ではさくら市などとは全く思っていません。

というのも、喜連川はれっきとした城下町です。石高はたったの5千石でしたが足利の正統を継ぐということで、家格として10万石を与えられていた喜連川藩があった所なのです。町の中心地と思われる小高い丘の上には古城があったらしく、そこには今スカイタワーという妙な建物が建っていますが、喜連川藩は城持ちではなく、その丘の下に陣屋を構えての治世だったとのことです。その付近を散策すると、ほんのわずかですが城下町だったことを思わせる建物や道のレイアウトに気がつきます。

喜連川の温泉は、歴史が新しくて、昭和に入ってからも遅い50年代の半ば過ぎに、町おこしの目的で行なった1200m以上ものボーリングで掘り当てたとのことです。かなり良質の本格的な温泉で、現在は小さな温泉町といっても良いのではないかと思っています。町営の浴場や公共の温泉宿などが幾つかあり、保養に来られる人も多いようです。私も、何年か前にばね指になったときに、この湯に何度か来ている内に直ってしまったという経験があります。

私どもが気に入っているのは、露天風呂だけしかない施設で、そこは石組みの露天風呂が一つあるだけでの掛け流しのお湯なのです。露天風呂の半分は雨降りなどでも大丈夫のように屋根が作られていますが、初めて来た頃は雨降りに備えてなのか、蓑笠のようなものが用意されていたのを覚えています。少し熱めの湯なのですが、身体を冷ましながら何度も入っている内に、体の疲れが自然と抜け出して、お湯の中に逃げ込んで消えてゆくような感じがします。

又ここへ来ての楽しみの一つは、地元の人たちの自由奔放な世間話を聴くことです。殆どがご老人なのですが、皆さん仲間同士とあってか話が弾んでいて、女房・子供に対する愚痴やら嘆きやらを始め、健康問題、日本の時事・政治問題、果ては世界の環境問題まで話題のテーマは果てしなく広がって、湯気を揺らしています。勿論、全てが栃木弁です。これは実に楽しいです。うっかり話しかけられたら困るなあと、なるべく隅の方で目立たないように、ひっそりと耳を傾けています。

温泉から出た後は、本当は近くにある喜連川の道の駅に行って、そこでビールを直ぐにでも飲みたいのですが、残念ながら道の駅は国道に面している所為か、夜間のトラックの往来や仮眠駐車の車が多く、駐車帯を守らず、エンジン掛けっぱなしの車などが多いため、安眠が保証されないのです。それで、汗を流しながら30分ほど走って芳賀の道の駅に急ぐことになるわけです。

芳賀町のことは殆どわかりません。道の駅の野菜類の販売状況から思うには、果樹やイチゴの栽培などを含めた一大農業生産地なのではないかと思います。道の駅に温泉がありますが、これは喜連川とは違って幾つもの温泉施設に拡大してゆくような規模ではないようです。栃木県のこの辺りは、いわゆる那須火山帯(※その後の研究の進歩により、今頃はこのような火山帯の区分は使われていないようですが)に属するエリアですから、掘れば温泉が出てくる確率はかなり高いのだと思いますが、ま、あまり堀りまくらなくても、この町では道の駅のロマンの湯だけでいいように思います。

道の駅の近くに祖母井(うばがい)神社というのがあり、そこへ行くと作家川口松太郎に縁があることが書かれています。川口松太郎は、大正の初めの頃、この地で郵便局の電信技士として勤務していたことがあり、その時に作品の一つ「蛇姫様」の構想を練ったとか。その作品は随分昔に読んだことがあるのですが、その内容はすっかり忘れてしまっていて、思い出せません。あの著名な作家がその昔電信技士をされていたなんて、想像もつきません。初めて芳賀の道の駅を訪れ、近くの祖母井神社に参詣した時は、何故川口松太郎なのかと不思議に思ったのですが、そのようなことが判るともう一度作品を読み直してみようかなと思ったりします。

芳賀というのは、元々郡部の名称だったのを、昭和の合併で祖母井町が消えて新しく芳賀町となったとのことです。こちらの方も本当は祖母井の方が歴史の香りが高かったのではないかなどと思ったりします。ことの真偽は判りません。

何とも中途半端な紹介となりましたが、この二つの道の駅は、私どもの旅にとっては、とても大切な場所なのです。これからもずっとお邪魔させて頂くことになると思っています。

 

今回の山陽・山陰の道ふらり旅で拾ったテーマについての記述は、一応これで終わりとすることにします。まだ幾つか残っていますが、それは別の機会とすることにします。ところで、今日で主夫業を終えて、明日からは本物の主婦と交替しますので、お互いの気分転換のため短い旅を予定しています。ブログは2~3日休みとさせて頂きます。

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真田雪村公隠しの湯に入る

2009-11-23 05:50:24 | くるま旅くらしの話

今回の旅の終わりは信州から上州を経ての帰りでしたが、信州では鹿教湯(かけゆ)温泉に入るつもりでいたのが、その湯宿をよく調べておかなかったため、現地に行ってもどこへ行けば良いかが判らず、狭い温泉街の道をを素通りして、急遽勝手知ったる別所温泉に行くことに変更したのでした。このようなドジは毎度のことでもあります。

信州の上田といえば、戦国末期に活躍した真田家の拠点の一つがあった所です。地方の小さな勢力に過ぎなかった真田家は、隆幸、真幸、信之、雪村等々三代に亘る名将を輩出し、往時の盛衰反転の激しい激動の時代を生き抜き或いは滅び去った、その生き様が様々なエピソードと共に歴史に名をとどめているようです。

子供の頃に漫画だったか、はっきり覚えていないのですが、真田十勇士の物語を読んで、猿飛佐助や三好青海入道、霧隠才蔵などの活躍に胸を弾ませたものでした。当時は皆実在の人物だと思い込んでいて、忍術や剣術の妙を自分も体得したいなどと夢見たものでした。

これらの真田一族の中で一番人気のある武将が真田雪村だと思います。父真幸と共に徳川と戦って後に二代将軍となった秀忠の軍勢を上田に足止めさせて関ヶ原の戦に遅れさせた話は有名ですし、その後紀州高野山近くの九度山に14年間も蟄居させられましたが、豊臣秀頼の大阪方の要請に応じて参軍し、大阪夏・冬の陣では、真田丸を築いて徳川方をさんざん苦しめ、最後はあわやもう少しで家康の首を取る寸前まで攻め込んで善戦したのですが、最後は空しく散っていったというエピソードというか、ストーリーは、武将の生き様として後世に様々な物語を誕生させたのでした。

雪村という呼び名は史実的には記録として残っているものは無いそうで、後世の作り話の中で生まれたもののようです。徳川の御世ですらも真田三代記などが書かれてその武勇と智謀ぶりを讃えていますし、明治以降大正初期の立川文庫では、真田十勇士を登場させて、その名を一層高め、広めたのでした。何時の世でも、弱小の立場のものが、権力強大なものに対して挑戦し、一矢を報いるというストーリーは、エールを送りたくなるのが民衆としての変わらぬ真情なのだと思います。

実際の真田雪村(本名信繁)という方は、温厚で口数の少ない小男だったということですが、智将のイメージとしてはその方がしっくりする感じがします。TVなどでは作者や演技者の解釈によって、実像とは無関係の人物像が描かれますので、要注意だなと思います。

さて、真田のことを少し書きましたが、今回寄った別所温泉は、その真田の本拠があった上田市の千曲川を挟んだ南に位置する、信州では最も古い温泉として有名です。塩田平と呼ばれる小さな盆地には、幾つかの古刹が点在しており、信州の鎌倉などとも呼ばれています。温泉は西奥にあって、その盆地を形成する山裾の小さな谷川に沿って湧き出ているようです。

別所温泉といえば北向観音(北向山常楽寺)が有名で、温泉のほぼ中央に位置しており、参詣者が絶えないようです。北向観音は、長野の善光寺と北を向いて観音様が向かい合っているということで、確かに地図を見てみますとそれが実感できるような気がします。昔の人は面白いことを考えたものだなと、その智恵に驚かされます。善光寺とこの北向山常楽寺はセットで参詣するという仕組みを作ったのですから。

   

北向観音境内のたたずまい。この写真は今年の春に訪れたときに撮ったもの。何とも言えない風格を漂わせている。

北向観音の境内には、愛染桂と呼ばれる桂の大木があります。樹齢1200年といいますから、これは大したもので、そばに行くと自ずとその生命力に圧倒されます。愛染桂とは作家の川口松太郎氏がそう呼んだことから広まったようですが、縁結びの霊木として若者たちにも親しまれているというのは、大いに結構なことだと思います。桂は香木でもありますから、秋などの落葉の季節にはさぞかし爽やかな香りを漂わせることでしょう。我々が訪ねた時は未だ黄葉には遠い状況でした。

別所温泉には、各旅館やホテルなどの内湯の他に3つの外湯があるようです。今回はその中の石湯というのに入りました。石湯は谷川に沿って一番奥に位置しており、最近建物がリニューアルされたようで、新しい木の香りを放った貫禄十分の構えの建物が建っていました。その玄関先横に「真田雪村公隠しの湯」という池波正太郎先生の揮毫による碑が建てられていました。

   

リフォームされた立派な石湯の玄関口の様子。この玄関を開けて階段を降りると脱衣所と浴槽がある。

   

池波正太郎先生の揮毫による「真田雪村公 隠しの湯」の碑。これらの写真も今年の6月半ばに撮ったもの。

又脱線しますが、私は池波正太郎先生を深く尊敬しています。先生の作品は、長編も短編も殆ど読み尽くしていると思っています。男の物語を書く人だと思います。人類には男類と女類という二種類しか存在しないというのが私の考え方ですが、池波先生は男類という人類の、日本人という国の文化伝統に沿って物語を書かれた方だと思います。女性についても、作品の中ではたくさん描かれていますが、それらは全て本物の男の心情をベースに描かれていると思っています。日本人の男の心情を奥深い所でしっかりと捉えられて作品を描かれており、それを読むだけで、人生のあり方、何が大切なのか、ということに気づかされるのです。

鬼平犯科帳や必殺仕事人シリーズなどは、江戸時代の社会の底辺に蠢く犯罪者や貧しい庶民の暮らしの中での出来事を描いたものですが、主役の長谷川平蔵や藤枝梅安だけではなく、そこに係わる人たちとの関係を通して、人間として生きる上での大事なことは何なのかを鋭く問題提起してくれていると感じて、読むたびに感動しています。

その先生の揮毫による碑が、石湯の前に建っているのは嬉しく思いました。恐らく先生の大作、真田太平記にあやかって、命名されたのではないかと思います。嘘か本当かなどはどうでもいいのです。昔からここにあった温泉に、今、雪村公と一緒に入っているとい気分になれるだけで充分なのです。いや、もしかしたら今から400年以上も昔のその頃は、いかな名湯といえども人が訪ねてくるのは稀だったはずですから、雪村公が本当にこの湯に身を浸したというのはあったのかも知れません。

玄関を入って階段を下りたところに脱衣所があり、その脇が浴場で湯船が一つでしたが、熱からず温からずの良い湯加減で、先日の温泉津を思い出したりしながら、たっぷりとその良さを味わったのでた。料金もたったの150円なのです。これぞ本物の温泉だと実感したのでした。草津には無料で入れる外湯が幾つもあるけど、その殆どが熱すぎて片足も入れられない状態であり、それに比べると有料であってもこのような外湯の仕組みの方がずっとありがたいと思いました。

石湯の他の二つの外湯は、今度来た時の楽しみとなっています。恐らく、それらのどれもが本当は真田雪村公の隠し湯だったに違いないと思っています。あと何回かは信州を訪ねたいと思っており、その際にはここを素通りすることは出来ません。温泉は本当の旅の友だと思っています。

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小布施再訪

2009-11-22 06:58:44 | くるま旅くらしの話

小布施という町はよく分からない町です。何故観光化されたのか、その昔はどういう所だったのかが良く分からないのです。こんな狭い、ほんの少ししか昔が残っていないような所に、何故大勢の人がやって来るのか。そして斯く言う私自身も二度目の来訪なのです。一度来て見て、どうもよく分からなかったから再訪となったのですが、今でもよく分からないというのが正直な気持ちなのです。

分からない、分からないと書くと、小布施に在住の方や小布施をよく知っている方から叱られる感じがしますが、高井鴻山や葛飾北斎などのことは勿論名前ぐらいは知っていますし、江戸時代の国内産業交易の拠点の一つとして経済面では栄えた所だったというのは分かるのですが、治世の仕組みというか、為政者は誰だったのかなどということいついては、鎌倉時代以降の内容がさっぱり分からないのです。町のホームページなどを見ても明治以降のことは少し書かれているようですが、それ以前のことについては極めてあっさりと記述されており、年間120万人もの人が訪れる町にしては説明が不足している感じがしてしまいます。ま、そのようなことに拘らず、今現在の町の様子と残されている遺産・史跡などを楽しめば良いということなのでしょうが、私の感覚では小布施というのは江戸時代の高井家を中心とする産業振興の名残りをとどめている町という印象しかありません。

ネットなどで調べた資料を見ると、彼の戦国大名の2代目覇者の秀吉の育てた福島正則の終焉の地だったということが書かれており、その後この地と福島家とがどのような関わりを持ってきたのか、よく分かりません。陣屋跡というのがありますから、そこには為政者が住んでいたのだと思いますが、それが誰なのかさっぱりわからないのです。勿論探訪不足なのだというのは承知しているのですが、私的には小布施は未だ謎の多い町なのです。ということは、もう一度訪ねる必要があるということでもあります。

小布施は真に小さな町で、茨城県で市制を採っている中で一番面積の小さな守谷市よりももっと小さくて、その半分程度のわずか19k㎡ほどしかないのです。観光客が訪れるのは、その中の長野電鉄小布施駅の東側の一角の町並みというか、昔の面影をとどめる建物の残るエリアなのです。最近は高速道の小布施ハイウエイオアシスにもICが出来たりしましたので、道の駅などの物産の販売所を訪れる観光客も多いのだと思いますが、小布施は規模は小さくても訪ねてみたいという魅力のようなものをどこかに持っている町には違いありません。

私が小布施を訪ねてみようと思ったのは、何年か前に「セーラーが町にやって来た」という、小布施の町おこしの中核となって働いた、セーラー・カミングスというアメリカからやって来た若い女性の密着ルポの本を読んだからなのでした。それまでは勿論小布施という名前くらいは知っていましたが、訪ねてみたいというレベルまで関心は育ってはおらず、何かついでがあればそういう所を通ることもあろうという程度のことでした。しかしその後、小布施の名前は結構耳にすることが多く、長野県北部の観光スポットの一つとして光が当たり出したのを感じていました。

それで昨年の春でしたか、旅の帰りに初めて立ち寄ったのですが、タイミングが悪くて、町を訪ねた時には17時近くになっており、店や施設は殆ど閉店近くで、大急ぎで観光エリアの中を歩き回っただけでした。凡その町の様子はわかりましたが、その内容といえば、駐車場と資料館、それに主な店にどのようなものがあるのか、というエリア内のレイアウトくらいで、その中身はさっぱり分からぬままに暗くなり出した町をあとにしたのでした。今回は少し時間をかけて町中を歩いてみたというわけです。

   

小布施の観光エリアの町並み。昔からの町家や蔵などを活用した、よく整備された特徴のある店が並んでいる。

このような未知の町を探訪するときには、真っ先に資料館のような所や観光案内所のようなところを訪ねて情報を貰い、町のアウトラインを頭に入れてから行動を開始するのが効率的だと思いますが、私の場合は先ずは知らぬまま(といっても自分なりには地図などの情報は確認しますが)現地を歩き回ることから始めるのがいつものやり方なのです。資料館などは、そこにあるのだということが判れば良いという考え方で、どうしても中に入ってみたいと思うようになった時に初めて中に入るということになるのです。ですから未だ、高井鴻山記念館も葛飾北斎の北斎館にも入っていません。まだその気になっていないからです。

いろいろ調べてみると、この町は高井鴻山という江戸末期の実業家の存在によって現在があるように思えます。もしこの人が居なかったら、小布施の今日の観光スポットとしての存在はなかったのではないかと思ったのでした。セーラーさんが同じようにこの地にやって来られても、町おこしは困難だったのではないかと思ったのでした。葛飾北斎がこの地にやって来たのも 、高井鴻山を訪ねてのことであり、高井鴻山という人が江戸で16年間も様々な人と交流しながら自らを磨いたという活動がなければ、現在はなかったのだと思うのです。

二度の小布施来訪の結果、今私が一番興味があるのは高井鴻山という人物です。この町の今を輝かせているのは、この人の存在以外には殆ど考えられません。一体どのような人物だったのか、調べてみたいと思っています。80歳を超えた天才画家の北斎が、新たな志を持ってはるばる江戸からこの地へやって来るほどの、高井鴻山という人物の魅力というか力というのがどのようなものだったかを知りたいと思うようになりました。これが今回の小布施探訪の最大の成果です。そして、今度訪ねる時には必ず記念館に入ってそこに残されているものをじっくりと見たいと思っています。

小布施の町並みなどにはそれほど関心はなく、出石や角館などの城下町に比べてスケールが小さく、思い出したのは徳島県のウダツで有名な脇町でした。商業都市という感じです。しかしこれから高井鴻山のことをもっとよく知れば、この町の景色が変わって見えるようになるのではないかと思っています。次回の訪問が何時になるのか分かりませんが、その日が来るのが楽しみです。

最後にセーラーさんは今どうしているのでしょうか?もうアメリカに戻っちゃったのでしょうか。あちこちの店や蔵など見て廻りましたが、それらしき女性には出会えませんでした。(まだ、野次馬根性は残っているようです)高井鴻山と葛飾北斎の次のこの町の貢献者は、彼女だといえるのかも知れません。外国人の感性の方が、日本人よりも本当の日本が何なのかを優れて捉えているということに、少なからず驚くとともに、埋没の深度を増していように思える日本人の文化認識力を少し淋しく思ったのでした。

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名水あれこれ

2009-11-21 06:32:35 | くるま旅くらしの話

全国にはたくさんの名水と呼ばれる湧き水があります。私は隠れもなき名水ファンです。何故名水に魅かれるのかといいますと、何よりも美味いからです。酒飲みには水へのこだわりが自然と身につき、造り酒屋の水はどこへ行っても美味なのを知っていますが、天然の湧水も、名水と呼ばれるものは期待を裏切らないと思っています。

水が人体の組成や維持に関して格別の働きをしていることは周知のことですが、実は私といえば、水と身体・健康とのかかわりについての詳しいことは、知識としてはあまり保有していません。美味くて良い水は身体にも良いに違いないという信念があり、旅をしていてその近くを通ると、うっかり見過ごさない限りは立ち寄って水を味わい、汲むようにしています。これも旅の一つの楽しみなのです。

今回の山陽・山陰の道を巡る旅では、残念ながら新しい名水には巡り会えませんでしたが、日本は山国ですから恐らく何箇所も気づかずに素通りしてしまったのだと思います。旅の中における水の扱いは、ライフラインの一つとしてとても大切なものです。私どもの旅では、水は飲料と洗い物用との二つに分けて扱っています。基本的に飲料水はペットボトルに詰めて販売されているものを使っています。そして洗い物には旅先で手に入る一般の水道水を使っています。名水と言われているものは、勿論飲用としても使いますし、折角の汲めるチャンスを活かす意味でも洗い物用としてもタンクを満たすことになります。但し、名水であっても管理が怪しげで、且つ飲んでみて美味いと感じない場合は、飲料としては扱わないという考え方です。美味い水はそのまま飲んでも差支えないと思いますが、そうでないものは、煮沸して用いるなどして気をつける必要があると思います。

さて、今回の旅では若狭町にある「瓜割り名水」を汲みました。瓜割り名水は、若狭町の合併前の上中町にある瓜割の滝から流れ出るものであり、この辺では有名な水で、ペットボトルに詰めて市販もされているようです。この近くを通るときには必ずここに寄って、持参している空のペットボトルを満たし、更に車の水槽を満タンにします。ここの水を汲むには、地元の方たちの維持管理費として、通行手形と称されるラベルを予め購入する必要がありますが、私たちは既にポリタンクに貼付しており、古くなったら再購入するようにしています。

若狭の水は古来より有名で、例えば春を告げる神事として有名な、毎年3月初め(本来は旧暦の2月初め)に行なわれる奈良東大寺二月堂のお水取りは、3月12日に若狭井という井戸から水を汲み上げるのですが、この水は一体どこから来ているのかといえば、それは若狭の小浜にある神宮寺という所から送られてくるものなのです。お水取りの行事に先立ち、神宮寺では毎年3月の2日にお水送りの神事が行なわれています。そしてその送った水は、10日間をかけて東大寺の若狭井に届くというわけです。つまり3月12日がお水取りの期間中、松明等をかざしてイベントは最高潮となるわけです。このような係わりがあることを、旅をしていて何年か前に神宮時を訪れたときに初めて知ったのでした。

このようなことから考えますと、瓜割りの名水も、もしかしたら奈良や京都の方に別のルートを通って送られているのかもしれません。若狭と奈良や京都との係わりは、鯖だけではなく、もっと基本的な水に関しても深く結ばれているということが解ります。今年もその水をたっぷり汲むことができて、十二分に満足したのでした。

ついでに北海道の名水について、少しばかり紹介したいと思います。北海道だけではなくその他のエリアにも名水はたくさんありますが、何と言っても今のところ旅のメインは夏の北海道を訪ねることにありますので、勢い詳しくなってしまうということです。北海道にも名水はたくさんありますが、先ず上陸して最初に汲むのは真狩村の羊蹄山から湧出する名水です。羊蹄山には幾つかの知られた名水がありますが、何といっても有名なのは京極町にある噴出し公園の名水でしょう。これはその名の通り羊蹄山の伏流水が噴出すが如くに湧き出して流れている所で、そこは名水公園になっており、最近は道の駅も開設されています。但し大量の水を汲むには少し遠くて、運ぶのが大へんなものですから、私どもは真狩湧水を使わせて貰っているのです。真狩湧水もかなりスケールの大きいもので、一度に10人以上の人が水を汲むことができます。今年の夏ここに立ち寄った時に、大阪から来られたオッチャンが、溢れ出る清流を見ながら、しみじみと感想を述べておられました。「大阪では高い金を払って、淀川の汚い水を飲むしかないのに、ここではタダでこんな美味い水を存分に汲めるなんて、何とまあ羨ましいことだ、……。」、と。私もまったくオッチャンと同感です。

ここで水を汲んでいると、いつも富士山の忍野の湧水のことを思い出します。富士山は日本一の山ですから、その山を取り巻いてたくさんの湧水があるのだと思います。その中では、南側では白糸の滝、北側では忍野八海と呼ばれているものが最大規模ではないかと思います。しかし、行ってみると確かにスケールの大きな湧水がそこにあるのですが、これを少しばかり飲むことは出来ても、自由に汲めるかというと、それが出来ないのでした。只見物するだけなのです。忍野八海などは目の前に美味そうな水がこんこんと湧き出でているのに、只それを見ているだけなのです。これは私にとっては真につまらないことなのでした。一度忍野八海を訪れて以降、つまらないので、今のところあそこに行くのは止めにしています。富士山の伏流水を汲めるのは、富士吉田の道の駅しかないのかと、少し淋しい気分となります。(これは、未だあのエリアの旅や探訪が不充分であるという証拠なのかもしれません)

北海道には、概して良質の水が多いような気がします。羊蹄山だけではなく、摩周山や樽前山、十勝岳や旭岳などの大雪山系の山々の裾野にも伏流水などが随所にあり、それらの水を水道水として使用しているエリアもあり、東京や大阪などの大都市圏の水とは違った良質のものを手に入れて活用している市町村も多いようです。その代表的なのが、摩周の水や千歳の水ではないかと思います。水道として用いる以上は何らかの薬品による消毒はしてあるのだと思いますが、これらの水はそのような処理をしていても汲みたくなってしまうほど美味いのです。摩周の水では、川湯温泉駅前に水汲み場があり、時々それを利用させて頂いています。

しかし、何といっても地元の人たちが発見して大事にしている湧水や山の中に見出される小さな湧水の魅力には敵いません。美瑛や富良野エリアを訪ねた時には、十勝岳の麓にある延寿の水と呼ばれている水を汲むことにしていますし、摩周湖や屈斜路湖付近では美留和の水などを利用させて貰っています。

   

今年初めて立ち寄った弟子屈町、摩周湖の下の方にある美留和名水。これは本物の美味い水だった。2度汲みに通った。

北海道に行ったときは、これらの水を活用させて頂いて、飲料水を買わなくても済むようにするというのが私どもの旅の考え方ですが、現在では略それが実現できるようになりました。

日本は水資源に恵まれていると思いますが、世界規模では水の調達が難しい国も多く、聞くところによると我が国の水が買占められつつあるとか。水があってもそれを自由に飲めないような国となってしまったら、これはとんでもないことです。国際的な規模で、水を金融投機のビジネスなどに組み入れて貰いたくはないなと思っています。[金融投機というのは、あれは悪質なビジネスです。今回の世界不況も源(もと)はといえば、金融投機ビジネスの失敗から始まっているに違いありません。ああいうものを考え出すのを本当の悪知恵というのだと思います]仮にそのような事態が招来したとしても、名水のありかをたくさん知っていれば、いざとなったときに飲み水だけはそこへ行って手に入れることができるのではないかと思っています。

現在住んでいる近くにある筑波山にも幾つか湧水があるようですが、灯台元暗しで、未だ汲みに行きたいほどの場所が見つかっていません。これは喫緊の課題なのかもしれません。これを書きながら今それに気づいた所です。人生においては、在宅も一つの旅のようなものなのですから。

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鉄の町吉田

2009-11-20 08:03:07 | くるま旅くらしの話

製鉄の町といえば、我が国では九州の八幡を挙げるのが普通だと思います。しかし、江戸時代の例えば1,700年代だったら、さて皆さんはどこが日本の製鉄の町なのかを挙げることが出来るでしょうか。正確に答えられる人は少ないと思います。偉そうに斯く言う私も、今回の山陽・山陰の道をふらりと訪ねる旅をしなかったら、答えるのは見当もつかなかった場所なのでした。

   

吉田川(右手)に沿って集落が点在する現在の吉田地区の風景

江戸時代の製鉄の町といえば、それは島根県吉田村なのでした。吉田村は何回かの合併の結果、現在は雲南市となっています。雲南市なんて、そのような市が日本にあるなどというのを知ったのも、今回の旅をしたからなのでした。中国の雲南省というのはよく耳にする名称ですが、日本にも同じような町があったとは驚きです。この発見は、これからの旅をする上で一つの楽しみとなりそうです。基本的に平成の大合併には不満を抱いていることには変わりが無い(何故なら今まで耳にしていた土地が相当に忘れられてゆくからです)のですが、バカバカしくても面白そうな名称の市や町が生まれているので、揶揄(やゆ)する材料としては悪くないなと思うようになってきたからです。

江戸時代の鉄の生産は、現在の島根県を中心に行なわれており、その中心地が吉田村だったとのこと。島根藩の筆頭工人の田部(たなべ)家が管理した鉄の生産は、最盛期には全国の鉄の生産の7割近くを占めていたといいます。このような知識は、仕事として鉄の生産・販売などに係わらなかった自分のような人間には、ここへ来ない限りは全く知らない世界なのでした。旅は、やっぱり人生を豊かにしてくれるものだと思います。

さて、その吉田村ですが、吉田川に沿って展開する小さな集落の右手にある駐車場に車を留めて、それから川の上流に向かって左側にある集落の中を散策したのですが、これはちょっぴり驚きでした。人影の見えない昔の面影を残す町並みが、小さな坂道に沿って両側に続いていました。

   

現在はひっそりとして人影もない、その昔の町のメイン通りの様子

昔の賑わいを思わせるものは殆どなく、ただひっそりとしているだけです。その中で一つだけ目立つのは、巨大な白壁土蔵の棟でした。

   

現在でも矍鑠たる白壁土蔵の棟。大正時代まで製鉄が行われていたというから、今でもこれらの土蔵は現役なのかも知れない。

資料館などには入らなかったので、詳しいことは判りませんが、この建物はその昔の田部家が管理した鉄の製品の何かか、或いはお金(?)などのような、重要物を管理するためのものだったようです。何しろ現在の製鉄とは全く違って、当時は「踏鞴(たたら)」という人力の送風機を用いて火を熾して製鉄を行なっていたのですから、その面影を町並みに見出すことはできないのでした。

そのたたらによる製鉄を行なっていた跡へ行くつもりでしたが、道が狭くて車が入らないため、今回は残念ながらどのような現場だったかを想像するのも出来ませんでした。また、原料となっていた砂鉄はどこから採掘したのか、運んできたのかなどはさっぱりわからず、その辺の景色といえば、町並みを除いては全くの山村に過ぎず、150年前まで日本に冠たる鉄の生産地だったなどという気配は全く感ぜられないのです。

   

現在でも現役として残っている茅葺屋根の家があった。のどかな山里の雰囲気で、製鉄の気配などどこにもない。

第2次産業というのは、その原料や材料が無くなってしまったり或いは別の革命的な方法での生産が可能となると、斯くももの凄いスピードで消え去ってゆくものなのだということを、そしてそれと一緒に人びとの暮らしも町も急変してゆくものなのだというのを実感したのでした。現在の中東その他の石油の生産も、その原料が枯渇したり、他の供給エネルギーが発明・発見されれば、今隆盛の国々のその跡には、新たなアラビアンナイトのような伝説が生まれて、世界の歴史は大きな転換期を迎えるのだと思います。少しオーバーですが、時間を計る軸を変えてみるなら恐らくそう言うことになるのではないでしょうか。

吉田村の製鉄は室町時代から始まったようですが、江戸の御世の人たちから見れば、現在の村の静けさは到底想像もつかなかった未来ではないかと思います。歴史というものは、過去は解ったつもりになれても、未来については見当のつかないものなのでありましょう。現在の日本だって、後千年後に人が生き残っているのかどうか、現在の環境悪化のスピードから推して考えてみると、そのような恐ろしいことを想像します。しかし救世主の出現の可能性もあるわけですから、本当のところは誰にも解らないのだと思います。歴史上の活躍や役割を終えた町や村を訪ねると、いつもそのような感慨に捉われます。

町の中を歩いていると、幾つかの彫刻というか、鉄で作った作品が見受けられました。いずれも内藤伸という方の作品で、後で知ったのですが、この方はこの吉田村の出身で高村光雲に師事した、日本の彫刻界の最高峰を極められた人なのでした。その作品の中に出雲の阿国像というのがあり、そういえばあの歌舞伎の元祖は出雲の出身だったと改めて気づいたのでした。説明板の中に有吉佐和子の作品「出雲阿国」に触れた一節が紹介されており、阿国さんがここを訪れたときの印象が述べられていました。それは山国の中に突然現れた幾つもの白壁土蔵の建物を見た驚きのセリフについてでしたが、私の印象もまさに同じものだったことに驚きました。勿論阿国さんの驚きの方が本物だったと思います。内藤先生の阿国像は、決して美人ではなく逞しさを感じさせるものでした。歴史に登場する女性というのは、美人ではなく逞しいというのが私の考え方(?)であり、内藤先生の阿国像はさすがだなと思いました。我が家にも阿国ならぬ御邦がいますが、こちらは逞しくても歴史には登場しないことでしょう。

   

内藤伸作出雲阿国像。何の踊りを踊っているのか解らないけど、細身の身体に芯の強さというのか逞しさを感じた。お顔の方はよく見れば美人だったのかも。何ごとでも打ち込んでいる女性は美しい。

いきなり思いつきで訪ねるというのは、やっぱり正確に歴史を理解するには無理があり、今回の吉田村の訪問も下見にも至らなかったというのが大きな反省です。しかし、一度現地を訪れておれば、旅から戻ってから、あそこはどういう場所だったのだろうかと多少は調べてみたりしますので、次の機会にはもっと知る内容がグレードアップすると思います。これもまた旅の楽しみの一つだと思っています。

雲南市には貸しがある気分でいます。妙な話ですが、吉田村に行くことになったのも、元はといえば市の観光協会かどこかが発行したリーフレットの中に神話コースというのがあり、神話の国出雲のその現地に何があるのかを訪ねてみようと思って出かけたのですが、案内図と地図とが一致せず、結局どこへも行けなかったからなのです。(実は最初の2箇所だけなのですが、腹を立ててその後へゆくのを止めたのでした)

吉田村は裏切りませんでしたが、旅先での道案内資料の作成元が観光協会でも市であっても、単なる興味本位的ないい加減な案内図ではなく、確実にそこに到達できるレベルのものを作っておいて欲しいなと思います。現地にも行かないような人に案内図を作らせてはダメだと思います。案内図というのは、未だ一度もそこへ行ったことのない人が迷い無く確実に到達できるということが大切なのであって、細かいことは自分の責任で調べろというのでは、詰めがなっていないということではないでしょうか?最後に再び偉そうな物言いをしてしまいました。おかげさまで吉田村の歴史を発見できたというのに。失礼しました。

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初めて城下町出石を訪ねる

2009-11-19 08:02:11 | くるま旅くらしの話

若い頃から時代小説、それもいわゆる大衆小説というのが好きで、随分とたくさんの作品を読み漁りました。文学にも幾つかのジャンルがありますが、ノーベル賞の対象となるような作品にはだんだんと興味を失い、今では殆ど読む気が失われています。確かに世界的な評価を受けるからには、いろいろ考えさせられるものが書かれ、描かれているのですが、日本人の作家の場合は、感性が鋭すぎて、解かり難さが目立つようです。誰が読んだって、うん、そうだよ!と判るのが大衆小説なのです。私は大衆の一人だと思っています。大衆というのは気取れない人間で、己の地で行くしか生き方を弄(いじ)れない人間であり、要すれば単純なのです。(この説には反論・異論がたくさんあると思いますが、大衆小説といわれるものを読んで喜んでいる人間は、大衆であることに間違いありません)

大衆小説にもいろいろあって、大別すれば現代や近代を扱ったものと江戸以前の時代を扱ったものとがあるように思いますが、一般に時代小説と呼ばれているのは鎌倉以降の戦国時代から江戸幕末の頃まで、とりわけて江戸時代のものを指して呼んでいると思います。私の中では、大衆時代小説といえば、江戸時代が中心で、その代表的な作家は山手樹一郎ということになります。

山手樹一郎という方の作品には毒がありません。勧善懲悪のストーリーが多いのですが、悪人をぶっ殺すというような書き方が殆どなくて、悪人であっても最後は改心できるという、親鸞上人の教えのような考え方が徹底して描かれています。この方の時代小説の殆どはストーリーも登場人物も同じような仕組みのようで、例えば、登場人物といえば、主人公は若殿様かお姫様、脇役は善悪両サイドのお女中や御付の侍、コソ泥、女スリ、悪徳商人、裕福商人・やくざの親分・子分などであり、ストーリーも江戸と国元との道中での出来事を勧善懲悪入れ混ざって生起し、最後はめでたしめでたしで終るといった構成です。目次を見ただけで大体のことが解かってしまう感じなのですが、それでもワクワクしながら今回はどのような出来事が、どのように描かれているのかな?と読み出せばもうすっかり主人公になった気分になり、作者の意図にまんまと嵌(はま)ってしまうのです。

山手樹一郎の作品の殆どを読んでいると思いますが、その中で最も愛読したのは、「又四郎行状記」という作品です。このほかにも「桃太郎侍」など、映画やTVなどで取り上げられた作品は数多いですが、私の場合は何と言っても又四郎行状記なのです。何故なのかと知りたい方は、とにかく一度読んで頂きたいと思います。

少し横道に入りすぎたようです。今日のタイトルは出石(いずし)のことなのですから、山手樹一郎の作品のことなど無関係といえばそうでありましょう。しかし私の中では大いに関係ありなのです。というのは作品に出てくる殿様やお姫様の住んでいる城下町は、出石(或いはそれに似た城下町)をモデルにしたものが多いからです。かつての江戸時代には300余の城下町があったわけですが、現存しているのは少なく、残っているといってもその一部があるだけで、そっくり全部などという所はあるはずもありません。仙石氏が治めた五万八千石の出石藩は、最も平均的な規模の城下町だったような気がします。平和が保障されていた江戸の時代の、様々な出来事を思い浮かべる舞台としては、最適だったような気がするのです。出石の他にも秋田県の角館や福岡県の秋月などが思い浮かばれますが、いずれもちんまりとした城下町の面影が浮かび上がります。

その但馬の国出石の城下町をいつの日か訪ねてみたいと、山手樹一郎の作品に嵌って以来思い続けていました。くるま旅を始めて以降もなかなか訪ねる機会がなくて、近くを通っているのに、出石に行くにはメイン国道から逸れた少し山の中に入るため、うっかり素通りしてしまい後になってそれに気づいて、しまった!という連続なのでした。出石は但馬といっても丹波の山奥に近い所に位置しているため、その気になって行かないと見過ごしてしまうのです。

その出石の町を、今回初めて訪ねることができました。感想を一言で述べるなら、思った通りの城下町でした。いや、思った以上の昔を偲ぶことができる町の佇まいでした。何しろ初めての訪問で、全く勝手が判らず戸惑いましたが、先ず最初に訪ねたのは、駐車場の直ぐ上に見える櫓(やぐら)らしきものが建っている城跡でした。これは大正解で、上に登って城跡に立つと城下町がそっくり展望できるのです。お城と町との関係のバランスが、昔を偲ぶのに絶妙の感じがしました。殿様と町民・庶民との関係が上手くつながっている感じがするのです。現在の城跡は江戸時代に建てられたもののようですが、その昔はもっと上方に有子山上という室町時代の但馬の国の守護だった山名氏の本拠とした城があったということですが、もし今の城跡がそこだったとすると、これはもう殿様と町民・庶民との関係は分断され、バランスの悪い不安定なものとなったに違いありません。

   

出石城跡から見た城下町の景観。小さな盆地に町並みが櫛庇している。

城跡を降りると、直ぐに城下町です。一番目立つのは堀跡のすぐ近くに建っている「辰鼓楼」という、時を知らせる建物です。恐らく、今出石と言われてすぐ思い起こすのは、この建物か或いは昭和43年に復元された櫓の姿ではないかと思います。辰鼓楼は今は時計台ですが、その昔はここで時を知らせる太鼓が打たれたのだと思います。櫓は上方に、辰鼓楼は下方の町中にと、実に目立つレイアウトです。

   

辰鼓楼。出石の町の中で最も目立つ建築物だと思う。先日TVを見ていたら、名探偵コナンにも使われていた。

いつものように、一番観光客が集まっているエリアを避けて、それからの散策は町の裏通り中心でした。この町は戦火には見舞われなかったようで、歩くとひっそりと大正時代から昭和の初めの頃に建てられたと思しき町並みが残っていました。田舎に育った私には、城下町の情景というのは子供の頃に親に連れて行ってもらった、何処かの町のおぼろな記憶に基づくイメージでしか思い浮かばないのですが、それでも直感的に町の古さに懐かしさと安堵感を覚えるのは、やっぱり古くなりかけている日本人だからなのでしょう。

   

出石の町並み。戦前の日本の町の持っていた温かさのようなものが伝わってくる。しかし静かで哀しいほどひっそりとしている。

しばらく散策を楽しみました。町の中には朽ちかけた土蔵があり、修理をするのか、それとも取り壊すのかよく判らないのですが、それがとても気になりました。どうやら古い酒蔵らしいのですが、現代の技術で可能なのであれば、残して欲しいなと思いました。元通りでなくても残しておけば、それは町の宝物になるのは間違いないのですから。このような建物を取り壊すというのは日本の心を壊すような感じがして心が痛みます。所有者や町としては負担が大きいのだと思いますが、この町にとっては大切なのは新しいものよりも古い価値を証明する存在なのではないかと思ったのでした。

   

朽ち掛け始めた土蔵があった。詳しくは判らないけど酒蔵だったようである。残存を願った。

町の中を歩いていると蕎麦屋の看板が目立ちます。出石皿蕎麦というのだそうです。皿蕎麦というのは聞いたことがありません。一度は食べておかないと、と客引きのお姐さんの一皿おまけするからというのにつられて、店の中に入りました。運ばれてきたのを見て、思わずお~おっ!という感じです。まさに皿蕎麦でした。大きなお盆に、大きな蕎麦徳利と10枚の皿に盛った蕎麦が運ばれてきました。椀が皿に替わった感じですが、わんこ蕎麦と違うのは、忙しなく食べなくても良いということです。一人前5皿というのが標準らしいのですが、足りなければ追加すれば良いわけです。私どもにおまけの1皿が後から運ばれて来ました。もうこれで充分です。

   

出石皿蕎麦2人前。ここの蕎麦は、国替えで信州からやって来た藩主がそば好きで、本場から連れてきた職人がつくったのが始まりだとか。味も上等だった。

ところで出石には出石焼きという白磁の焼き物があります。この蕎麦屋で使われているものは、皆その白磁なのでした。出石には現在50軒ほどの皿蕎麦の店があるそうですが、そのどの店でもこの白磁のお皿と徳利が使われているのでしょう。地産地消の好例のような気がしました。この白磁が気に入って、私もまた蕎麦徳利を1本手に入れたのでした。(蕎麦屋からではなく専門店でですぞ。為念)

今回の出石訪問はとりあえず皿蕎麦を食べてお仕舞いとなったのですが、次回に訪ねる時にはもっと丁寧に町中の探訪をして見たいと思っています。

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ぬくもりの温泉津

2009-11-18 04:53:37 | くるま旅くらしの話

温泉津をどう読むのか知らない人はお気の毒だと思います。そして、温泉津を「ゆのつ」と読める人でも、未だそこに行ったことがない人はもっと気の毒だと思います。温泉津は心温まる土地です。

私も先月末までは、もっと気の毒な人の一人でした。今回の石見銀山遺跡の探訪で、それが終った後に温泉津の湯に浸って初めてこの湯の温かさを知ったのでした。私の場合は、温泉津は石見銀山とセットにして初めてその良さが解かるような気がしました。

温泉津は石見銀山からは直線で8km、昔ならば二里ほどの距離にある古い温泉地です。その名前から推しても、ここの湯が古い昔から大切にされ、名を知られていたかが分かるような気がします。温泉津とは温泉のある港という意味で付けられた地名でありましょう。最初にその名前を聞いた時は、さぞかし賑やかな温泉場のある港ではないかと思ったのでしたが、行ってみた温泉津は、真に静かな落ち着いた雰囲気の街でした。

石見銀山からは、県道を走って仁摩町に出て、国道9号線を10分ほど江津の方に向かって走ると、右手に海の方に行く道があり、JR山陰本線の温泉津駅を通過して少し行くと、温泉街の入口に着きます。どこの温泉街も道路は狭いのが普通ですが、この町もやはりキャンカータイプの旅車が通るのにはかなり勇気が要るという道幅でした。幸いなことに温泉街の入口に公共の駐車場があり、あまり広くはないのですが運よく空きスペースがあったので、そこに車を停めて歩くことにしたのでした。

温泉街は真に静かな佇まいで、気がついたことはホテルなどの大型の建物がないということでした。温泉場にはこれ見よがしに巨大なホテルが立ち並んでいるところが多いのですが、温泉津はそれがなく、昔ながらの静かな街並みが海と山に挟まれた狭いエリアの真ん中辺りを通る細い道に沿って軒を連ねていました。

   

温泉津温泉の町並みの様子。軽自動車の離合なら何とか苦労しないで済むというほどのこの道がメインストリート。両側には和風の昔の名残りを止めた町家や旅館が軒を並べている。ホテルなどはない。

今では静かさが際立つ感じですが、その昔は決してそのような状況ではなく、石見銀山から産出された銀の積出港として、或いは焼き物なども盛んに行なわれていたようですから、温泉だけではない目的の人たちで相当に賑わっていたのだと思います。街のつくりには、そのような雰囲気が充分残っているのを感じました。

10分ほどゆっくり歩くと、共同浴場の一つの薬師の湯というのがありました。もう一つの共同浴場の泉薬湯というのも傍にありました。ここには二つの元湯の共同浴場があるとのことでしたが、私どもは薬師の湯の方に入ることにしました。薬師の湯はちょっとおしゃれな大正風というか、昭和の初期の洋館風の建物で、1階に男女別の浴場があり、2階は喫食を兼ねた休憩所となっているようでした。入浴料金はたったの300円です。普通はこの金額では「たった」とは決して言わないのですが、ここの湯は入って見てその素晴らしさが良く分かったのです。それ故に「たった」というのを加えることにしたのでした。

      

 薬師の湯の景観。ちょっと洒落た雰囲気の建物だが、中の湯船などは昔のままの姿を保っている。近代的にしてしまったなら、恐らく効能も一挙に失われてしまうに違いない。内部の撮影が出来なかったのが残念。

浴場には湯船がたった一つ。洗い場はありますが、洗髪の場合は別扱いとなっているようでした。私の場合はもはや洗髪の必要性は全くないので(洗うべきものが殆どないのですから)、洗い場など無用なのですが、数個あるカランは実に素朴なつくりで、湯上りの身体にお湯を掛ける程度のもののようでした。シャワーなどありません。これが温泉というものの本当の姿なのだと思いました。千三百年前に開湯されたとのことですから、この湯はもうそれほどの長い時間を湧き出し続けて、ここを訪れる大勢の人たちの心身を癒し続けてくれているのだと思います。銭湯と同じような考えでこのような湯に入るのは、明らかに心得違いだと思います。洗う必要など殆どないように思います。入る前のエチケットの部分だけは、今の世では求められるのかも知れませんが、昔の人たちは温泉に来て、そのような場違いなことなど決してしなかったのではないかと思いました。

温泉というのは、湯の性質に従ってそれなりの入り方があるようですが、基本的には湯に浸るだけでいいように思います。自分の体調に合わせて、浸り過ぎず、浸り足らずとならぬように、留意することが肝心だと思います。ま、温泉の入り方については、医者やプロの方に聞いてみるのが一番かも知れません。

さて、湯に浸っていると様々なことが思い浮かんできます。なんといっても、今日は先ほどまで見てきた石見銀山跡の印象が強烈で、そのことが湯煙の中に浮かんでくるのでした。あの暗い坑道の中で、生命を削りながら働いていた人たちのことが思われるのでした。

「権蔵よ、俺らな、もう先が長くねえんじゃねえかと思ってんだ」

「猪之の兄貴よ、なに言ってんだよ、こうやってこの湯に浸っていればよ、身体の元気が戻ってくるんだからよ、縁起でもねえこと言わんでくれよ」

「ああ、確かにこの湯に入っている時は、極楽にいるようでなあ、少し元気も出るんだけどよ、明日又戻って間歩に入えれば、又何だか、かったるくなるんだよなあ」

「確かになあ、俺いらだって、真っ暗な中で石ばっかり小突いていると、地獄の中にいるような気がするよなあ」

「俺らはなあ、もう5年も地獄の石を小突いてきているんだぜ。この頃何だか力が入えらねえのは、石の向うで閻魔様が俺いらを呼んでいんじゃねえかなあ。いっそのこと早く行ってしめえてえよ」

「んだけどよ、猪之の兄貴よ、あっちへ行っちまったら、もうこの湯には入えれねくなっちゃうぜ」

「うん、んだよなあ、それだけが心残りだよなあ」

……、というような会話が交わされていたのかもしれません。まさにひと時の命の洗濯というか保養に来て、この湯が彼らの地獄への思いを引き止めていたような気もするのです。入っていると身体の芯から命の力が少しずつ漲(みなぎ)り出すような感じの湯なのでした。往時の銀山に係わる人たちの全てがこの湯を愛し、この湯に助けられていたに違いありません。

温泉が薬であることは間違いないような気がしました。二つの元湯には、「薬」の字が用いられていますが、これはまさにその通りだったのではないかと思いました。湯から上がって、再び温泉街の細い道を車に戻りながら、この地の温かさを思ったのでした。その温かさは、単に温泉の湯の温かさだけではなく、命を削っての辛く厳しい仕事に係わった人たちに対する極楽の慈悲の温かさだったのではないかと思ったのでした。

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