山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

歩くのは楽しい

2017-09-26 20:12:02 | 宵宵妄話

 今月の23日、今年の歩きが500万歩を超えた。一日の平均歩数は18,896歩となっている。

1990年、50歳で糖尿病を宣告され、歩くことを我が身に課してから27年目を迎え、日々を過ごしているのだけど、その宣告を受けて以来、毎日万歩計の歩数を記録している。その記録を見ると過去の最高は1997年の年間6,754,431歩なのだが、今年はこのままのペースで歩くと、その記録を上回りそうなのだ。この歩数というのは、計測する機器の性能や調子にもよるので、数値そのものの正確性は問題外なのだが、トータル的に見れば、歩いた量の大きさは信じても良いのではないかと思っている。

 1997年からは早や20年が経ち、喜寿を迎えているのだが、この歳になって最高記録を更新するというのは、必ずしも良いことではないと思っている。却ってこりゃまずいぞ、歩き過ぎだぞ、と心配になって来ている。何ものも、何事も、調子に乗り過ぎて度を越すと、その先ロクなことが起こりかねない。それは多くの先人や身近な周りの人たちが教えてくれていることでもある。

 それで、何とかセーブしたいのだが、これがもうどうにも止まらない。歩くのが楽しくて仕方がないのである。自分の場合の歩きは早朝主体である。今の季節だと朝5時ごろから歩きはじめ、2時間ほど歩く。3つのコースを決めていて、それを基準に少し変化などを入れながら順番に歩いている。昨年は階段昇降などの鍛錬期間を4カ月ほど入れたが、今年はそれは止め、その分スピードに変化をつけた歩きをとり入れ、歩く時間を増やしている。日中も近所に出かける時は荷物がない限り車は使わない。そうすると歩数は2万歩前後となるのである。

 歩くのが楽しくて仕方なくさせるのには、幾つかの理由がある。大きく言うと第1は「世の中を見る楽しみ」、第2は「考える楽しみ」、そして第3は「自分を確認する楽しみ」である。これらの楽しみは、歩き始めてからずっと持ち続けているのだが、27年の間に随分と変化して来ており、ここに取り上げた三つは、真老(75~85歳)世代となってから、今味わっている楽しみである。

 三つ挙げた中で、第3の「自分を確認する楽しみ」が一番大切ではないかと思っている。第1の「世の中を見る楽しみ」も第2の「考える楽しみ」も、結局は「自分を確認する楽しみ」につながっている。ああ、今俺は目前のこの世の中を、生きて見ているのだ、そう、考えているのは生きているからなのだと、そんな風に思って歩いている。1と2の二つの楽しみを通して、常に自分が今生きていることを確認し、感謝していると言ってもよい。これは歩かないと実感できないように思う。

 「世の中を見る」というのは、無限の広がりのある世界が世の中であり、足元の小さな状況から遠く見える空の様子まで、歩きなが視界に入るものは無限である。どこに目を据えるかで見えるものは千変万化であり、退屈しない。歩きながら見ている世界は、TVや新聞などの報じる世界とは異なり、本物性が高いと思っている。人為的ではなく、在りのままなのだ。例えばその家の中に住む人間が全員インチキまみれの人たちであったとしても、外から見る建物としての家は、本物なのだ。それを只見ているだけで、旅人の気分になれるのだ。家だけではない。目に飛び込むあらゆるものが皆面白い。それを面白いと受け止めながら歩いている自分がそこにいる。これは生きている証の一つなのだと考えながら。

 「考える楽しみ」というのは、目から入って来るものに対してだけでなく、心の中から湧き出て来るものに対して思いを膨らますことの楽しさも含まれる。これ又無限である。遠い過去も、昨日の出来事も、或いは今見ている景色に対しても、巡らす思いは自在である。こんな楽しいことは無い。家の中で椅子に座っている時や寝床の中で夢現(うつつ)を味わっている時間も楽しいけど、歩いている時が一番である。何故なら、まさに生きている自分を確認しながら歩いているからである。死んでしまったら考える楽しみは失せてしまうのだ。生きていればこそ、なのである。歩いているからこその楽しみなのである。歩けなくなっても考える楽しみは残るには違いないけど、恐らく半減するような状態となるに違いない。歩けるというのは本当に嬉しくありがたいことなのだと思う。

 さて、あと3カ月をどう過ごして歩くのを確保して行こうか。先ずは記録への挑戦は捨てることにしよう。この秋には1カ月ほどの旅を計画しているので、旅先での毎朝は少し歩きのペースが落ちるに違いない。長期の旅では、朝の時間が重要で、恐らく今回も毎日ブログの投稿をすることになろうから、歩数はかなり減少することになる。これは仕方がない。とすれば記録の更新は自ずと消えることになる。従って歩く楽しみも減少することになってしまうけど、これは旅そのものが補ってくれて余りあることになるので、大丈夫である。

 と、まあ妙な話となってしまった。同世代の人や或いは順老(65~75歳)や準老(60~65歳)の方の中には、糖尿病やメタボ症候群に脅かされている方が多数いるけど、己れを労わり過ぎて、歩く喜びを忘れ果てているとしたら、それは哀しいことだ。憐れと言っても良いのかもしれない。活き活きと生きるためには人間は動物としての原点、即ち「動く≒歩く」ことを欠かしてはならないのだと思う。PPK(ピン・ピン・コロリ)という死に方は、活き活きと生きることが基本条件となると、自分は思っている。

それにしても、歩くのは楽しい。

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季節の花に安堵

2017-09-24 09:39:45 | 宵宵妄話

 ただ今彼岸の只中。春も秋もこの時期が来ると季節の移り変わりを実感する。元もと季節というのは冬と夏が基本であり、春と秋は、それぞれの基本季節への移行期間と考えられているようだ。けれども温帯に属する我が国は、この移行期間が充分に長くて、一年をほぼ等分に四つに区切って捉えることを当たり前にしている。夏だけとか冬だけとかいう季節しかなかったら、決して味わえない春と秋という変化の時間を存分に味わえるというのは、何とありがたくも嬉しいことではないか。

 彼岸の今頃になると、その季節感を如実に教えてくれる花が二つある。その一つは何と言っても彼岸花。浮世の塵と騒音に塗れて花のことなど忘れ果てていても、この時期となると突然とも言えるように庭先や道端に真っ赤な花を出現させるので、誰しもああ、もう彼岸なのだと気づかずにはいられない。真に不思議な植物である。

 それ故に人々はこの花を特別の印象を持って受け止めているようだ。暗いイメージとしては幽霊花。死人花。捨子花と呼ぶ所もあるとか。その一方で曼殊沙華や天葢花は天国浄土に咲く美しい花をイメージしている。どれも皆人々の本当の心の中の思いを表わしているように思う。不気味と思う人も美しいと思う人も、この花自体から見れば、只の生き物としての人間に過ぎない。

 七十七年人間というのをやって来て思うのは、この花は優しく美しいというだけだ。人間が何なのかをしっかりと教えてくれる花のように思えるのである。この季節となると花を咲かせるのは、彼岸から此岸にやって来るご先祖たちを迎えるのを祝ってくれているかのようだ。この国に住む者は、ご先祖とつながっていることを思い起こさせてくれる、この花の心根の優しさを忘れはなるまい。

         

小貝川の堤防の下方に咲く彼岸花。この辺りには随所にこの花が点在している。この花が咲いているのに気付く時が秋が来たのを確信する時だ。

 もう一つの花は、風の中に含まれる香りに気づいて、ああ秋が来たのだということを知らせてくれる。花が咲いているのに気づかなくても、その独特の芳香で思わず風の来る方を振り向かせる、そのような力を持っている。そこには必ず木犀の樹が佇んでいる。この香りがなかったら、人は木犀の存在すら気付かないのではないか。芳香を放つ樹木の花は幾つかあるけど、木犀の香りが秋を告げるほどの力を持つものは少ないように思う。

加齢と共に我が嗅覚は衰えを見せ、花の香りを感ずる度合いも次第に低下しつつあるけど、この木犀の花の芳香を感じなくなったとしたら、その時がもうこの世との別れが近づいているのだと思うことにしている。もう少しこの香りを楽しんでからにして欲しいと願っている。今のところそれは許されているようだ。

      

民家の垣根の樹木に混ざって咲いている木犀の花。いつもそうなのだけど、花を知るのは、風の中に漂う香りに気づいたときだ。今年もやはりそうだった。

 

 

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軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その6)

2017-09-22 02:49:23 | くるま旅くらしの話

第06日 <9月03日(日)> 

 <行程>

八尾スポーツアリーナ駐車場 →(K・R41)→ 富山IC →(北陸道)→ 有磯海SA →(北陸道・上信越道)→ 小布施HO →(上信越道)→ 横川SA →(上信越道・関越道・圏央道)→ 常総IC →(R294)→ 自宅(帰宅)

 八尾スポーツアリーナ駐車場での3回目の朝を迎える。家を出てから6日目となり、今回はこれで旅を切り上げ、家に戻ることにしている。本当はこの足でついでに能登や飛騨の方も回りたいのだが、家には所用もありまた夏が居座っている感じの中途半端な時期でもあるので、欲張らないことにした次第。今日は我が家に近い圏央道の常総ICまでの全行程を高速道を利用するつもりでいる。

天気は、少し雲は多いが上々の様である。朝夕かなり涼しくなるのは、やはり北陸であり、関東の守谷市などとは大分違うなと思った。朝の歩行鍛錬は止めて、少し早目に出発することにした。7時半頃に出発して、北陸道富山ICを目指す。15分ほどで高速道に入り、少し走って有磯海SAで小休止し、ゴミ処理などをする。3日間分のゴミは処理する場所がなかったので、ゴミ箱いっぱいになっている。これを仕分けして所定のゴミ箱に入れてすっきりする。ここから先は安全運転に努めることにし、最高時速は90Kmまでとすることにした。概ね85km くらいのペースを保つことにした。

北陸道は富山平野を過ぎると海の近くの山の中を通るトンネルが多い。親不知などの難所だった所も今はトンネルであっという間の通過である。県境もトンネルの中だった。それらのトンネルが一段落すると間もなく上越市に入る。ここのJCTで北陸道から別れて上信越道に入る。妙高山の山麓辺りを走る時は、長い登り坂が続いてSUN号にとっては厳しい道となった。それらを通過して長野平野というのか盆地というのか、開けたエリアに入ると小布施PAがあり、ここは直ぐ傍にある道の駅とつながるハイウエイオアシスがある。孫たちへのお土産にリンゴを買って行こうと思っていたのだが、少し時期が早いらしくて、往路のアップル街道沿いには売っている店が見当たらず、道の駅:しなのまで来てようやく売店に並んでいるのを見つけて安堵したのだが、小布施の道の駅脇の市場ならば必ず早生品種のリンゴなどが並んでいるに違いないと、密かに期待を寄せての立ち寄りだった。

ハイウエイオアシスの駐車場にSUN号を置いて、少し歩いて市場の方へ行ってみた。ある、ある!種類は多くは無かったけど、たくさん並んだカゴの中には溢れるほどのリンゴが入っていた。リンゴだけではなく、桃やブドウなどもたくさん並んでいた。しかも信じられないほどの安価なのである。守谷のスーパーなどで売られているものよりも上等なものが半値以下で売られている。嬉しくなって全部買ってしまおうと思うくらいなのだ。しかし、そんなにたくさん買っても孫たちがリンゴばかり食べているわけにはゆかないし、自分などは果糖には要注意の病持ちなので、ここはぐっと自制して、適量に収めるように我慢した。紅いほっぺのネクタリンが傍にあったのでそれも買い入れ、黄金色の水蜜桃にも心を惹かれて買うことにした。小布施での買い物は予想を超える上出来で満足した。

その後は再び本線に戻って上信越道をひたすら走行する。昼食は横川の釜めしにしようと決めて、その方向に向かったのだが、なかなかその案内板などが現れない。確か佐久辺りではなかったかと、頭の中のイメージを辿るのだが、佐久を過ぎても一向に横川は近づいて来なかった。12時を過ぎているし、燃料の軽油もかなり少なくなり出している。首をかしげながら運転している内にようやく横川SAの案内表示が出て来た。考えてみれば横川は碓氷峠の群馬県側の袂近くにあるのだから、佐久などでないことは明らかなのである。とんだ勘違いをしていたらしい。とにかくようやく昼飯にありつけるので安堵した。

横川の釜めしを味わうのも久しぶりのことである。お茶を淹れて、車の中で食べることにした。外はピカピカの暑さである。長時間走ってきたので車の中は冷房がしっかり効いていて、あったかいご飯もお茶も気にならない。ウメ~などとヤギさんの鳴き声を真似ながら、釜めしをたいらげた。ここまで来れば家までもう少しである。1時間ほど休憩した後、少し給油をして再び走行を開始する。

その後は休憩なしのノンストップで上信越道から藤岡JCTを経て関越道に入り、しばらく走って、鶴ヶ島JCTから圏央道に入る。長いこと全線開通がもたついていた茨城県内を通る圏央道も、今はそれが解消して我が家に近い常総ICまで来られるようになった。このICから入ったことはあるのだけど、降りるのは初めてのことである。改めてICの造りなどを観察しながら、間もなくR294に入る。ここからだと我が家までは20分ほどである。かなりの暑さである。6日前は刈入れの済んだ田んぼは少なかったが、今はもう半分ほどは刈入れが終わっているようだった。今年は水害の気配はなさそうなので、農家の人たちは安堵していることであろう。間もなく我が家が近づき、無事の到着となる。15時45分。全走行距離は1,006kmだった。

 <旅を終えての所感>

僅か一週間にも満たない短い旅だった。旅の目的は前述の通り二つあって、一つは軽井沢で倉敷からの知人と会うこと。もう一つは越中富山は八尾の風の盆を見物することである。

この旅のそもそものきっかけとなったのは、知人Aさんからのお誘いだった。これがなかったら風の盆見物の発想は出て来なかったのである。今年はもうこの時期の旅は諦めており、秋になったらどこかへ行ってみたいと漠然と考えるだけだった。何事においても、思い切りのためには何かが必要だが、今回のAさんからのお誘いはありがたかった。しかも場所が軽井沢というのが良かった。軽井沢は避暑地であり夏の涼しさは格別である。元の勤務先にも軽井沢に保養所があって、何度か利用したことがあるのだが、他社の保養所は初めてだった。JFEの保養所は軽井沢駅の南にあって、樹木に囲まれた真に閑静な場所だった。庭にナツハゼの樹が何本か植えられていて、それが僅かに紅葉して黒い実をつけていたのも嬉しかった。この木には子どもの頃の思い出が絡まっている。落ち着いた雰囲気の中でのAさんご夫妻との歓談も楽しかった。主役は女性同士だったけど、それはそれで脇役もまた楽しいものである。お互いの話の中から、旅に絡む様々な思い出が甦り、更に又新しい旅への思いが膨らんだ。お互いの旅のスタイルは異なるのだけど、出会いと発見のもたらす感動を味わうという旅の共通の目的は違うことなく、それ故にこうしての歓談が楽しいものなのだと思う。

Aさんご夫妻の歩くという旅のスタイルは素晴らしい。飛ぶ・走るではものをしっかり見ることはできない。ものを見る確実さは、スピードに反比例するように思う。スピードが遅ければ遅いほどその対象がはっきり確認できるのである。それゆえ、歩くというのは旅の基本であり、それに止まって見るという行為が付加されて、発見や気づきが確実になるのだ。自分たちは歩きの量が次第に少なくなって来ているのを自覚しているけど、しかし感動の対象となるものに出会うのは、歩いている時であり、止まってものを見るということから外れることはない。乗り物の中からは漠然としたイメージの物しか見ることができない。この後の旅もしっかり歩いて、しっかりものを見て、出会いの感動を拾って行きたいと、改めて思った。

自分たちはこの機会を利用させて頂いて、富山まで行って風の盆を見るという楽しみを作らせて頂いているのに、Aさんご夫妻はわざわざ遠く倉敷からこの日のために出向いて下さって、この後は家に戻られるだけなのを何だか申し訳なく思いながらお別れしたのだった。Aさんには何度も倉敷や岡山県内の史跡巡りなどへのお誘いを頂いているのだけど、まだ一度もそれに応えていないのを申し訳なく思った。年内には家中の雑事も片付くと思うので、それが済んだら必ず倉敷・岡山への旅を実現させたいと思っている。Aさんご夫妻、本当にありがとうございました。

 越中おわら風の盆は面白い見物だった。面白いというのは、天気に影響されて、その体験・評価が大きく変動したからである。上天気の中ではこの祭りは名ばかりで実態は只の人混みだけ、ということで終わったに違いないのだが、天気が急変悪化して中止沙汰になったおかげで、本物の祭り見物を味わえたということなのである。哀愁感の漂う音曲に合わせての優雅な踊りをイメージして、この祭りの見物に来る人が殆どだと思うのだが、現実はその見物人があまりにも多過ぎて、本来のイメージからは祭りを遠いものにしてしまっている。これは誰の所為でもない。人々の思いが強くて多過ぎると、逆の結果を招来するという事例の一つなのだと思う。世の中には同じような踊りの祭がいろいろあるけど、見物客や観衆が多ければ多いほど、或いはどんなに多く膨らんでも却って益々盛り上がるというスタイルのものがある。徳島の阿波踊りや岐阜の郡上踊りなどがそうなのだと思うが、この風の盆は西馬音内(にしもない)の盆踊りと同じように、あまりに見物客が多過ぎると却って本来の姿を壊してしまうという部類に入るような気がした。

それはそれとして、その両面を体験し味わうことが出来たのだから、文句はない。踊りの優雅さも逞しさも音曲のもの哀しさも、皆本物だった。また祭に係わる地元の町の人たちの、この3日間にかける思いの強さもしっかり見届けた感じがした。町屋の所々には、宴会を投げ捨てて踊りに走っているような印象を受ける場所が幾つかあり、それらを覗き見ると、踊りの裏方での町の人たちの気持がわかるような気がしたのである。ものごとには表があれば必ず裏がある。裏を覗いて見ると、表の正体がわかることも結構多い。これは悪趣味なのかもしれないが、自分の特性の一つである。

この祭りを見に来る前に、八尾という町がどんな所で、どんな歴史を持ち、どのようなことからこの風の盆というものが始まり定着したのか、それを調べるのも旅の楽しみの一つなのだが、今回は殆どそれをしないままに出かけて来てしまった。地理的に何処にあるのかについては、今までに何度か近くを通っており、一応知ってはいたつもりなのだが、それ以外のことについては何も知らず、ネット上の情報を多少覗き知る程度だった。それが現地に来て見て、今まで知っていたような場所ではなさそうなのに驚かされたのはいつもの通りである。

未知の場所について各種情報からあれこれと思いを巡らすのは、地図を見ているのと同じである。どんなに正確な地図でも、位置や形状は示せても現地そのものではない。地図を見ただけで、どこに何というお寺や神社があるのかは知ることが出来ても、そのお寺や神社がどのような建物なのか、その横にある銀杏の木がどれほどの大木かなどというのを知ることはできないのである。地図の限界がそこにあると言えよう。従って本物というのは、あくまでも現地に行って足を使い目と耳を使い、五感の全てを働かせて、全身で確認しなければ解らないのである。

八尾の町を、風の盆の行われていない時間帯に二度しか歩いていないのだが、この歩きが、この町についてたくさんのことを教えてくれた。町の形状を初め寺社の存在と町内との係わり、早朝の町中を歩くとどこからでも聞こえてくる水音が火防と融雪のための施設であること、又城の山公園に上って町のつくりや遠近の地形の在りようなどを俯瞰すると、この町が飛騨方面から富山市内へ向かう街道の拠点に位置していることも判り、それらの条件を巧みに活用して町が発展して来ているということも想像できるのである。若宮八幡宮という立派な神社があり、それが養蚕宮とも呼ばれているのを知ると、この地にかつて養蚕業を介しての経済の発展があったことも理解できるし、又俯瞰すると何本かの川を挟んで田んぼが広がっており、農耕についてもそれなりの繁栄があったのが推定できるように思った。それらの繁栄の成果がこの町屋を形成し、おわら風の盆や曳山祭など、町の繁栄のシンボルとしての行事を今日につないでいるのだなと思った。

このようなことだけで八尾の何もかもがわかったわけではない。正確でもないし、ほんの一部を知っただけなのだと思う。又今度機会があれば来訪して見たいと思っているのだが、次回にはもっと新しい発見があるに違いないと楽しみである。今回は風の盆の見物に来たのだが、今度は曳山祭というのも見物して八尾の町の中に脈々と流れている日本の精神の様なものに近づけたら良いなと思っている。  (おわり)

 

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軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その5)

2017-09-21 00:28:13 | くるま旅くらしの話

05日 <9月02日(土)> 

 <行程>

八尾スポーツアリーナ駐車場 →(シャトルバス)→ おわら風の盆会場 →(徒歩)→ 八尾スポーツアリ-ナ駐車場(泊)

 今朝もまたいつものように5時前には目覚めて、今日も旧町中へ歩きに出かけることにした。駐車場の車がかなり少なくなっていたのは、昨夜出て行った車が結構多かった様である。近郊から来られた人たちは帰って行ったのであろう。泊っているのは県外の遠地からの来訪車ばかりである。茨城県などは未だ近い方で、北海道や関西以西のナンバーの車も散見されていた。これほど多くの人たちを引寄せる風の盆というのは、その名称だけでも日本人の心に触れる何かの魅力があるのかもしれない。しかし、昨夜それを実感できなかったのを残念に思った。

今朝は昨日とは別の道を歩くことにした。井田川の側道に近い道を行き、昨日は行っていなかったJR越中八尾駅の方へ寄ることにした。ここは風の盆では唯一新しい町内である福島町がある。これはふくしまではなく、ふくじまと濁って読むのだそうな。八尾に越中とわざわざついているのは、大阪に八尾という市があったからなのであろう。尤も今は東大阪市となっており八尾はやつおではなくやおである。地名の呼称は難しい。駅まで行って見ると、まさに祭の後という感じがした。やや疲労感を漂わせて、半ばたたまれたテントの出店の脇に、ゴミの袋などが積まれていて、これからの祭の再開を待っている感じがした。ここを走っているJRが高山線であることにも不思議を感じた。というのも高山線と言えば、何度か名古屋方面から乗っただけで、終点まで行ったことがなく、それが富山駅であることも知らなかったからである。そういえば、昔の八尾は越中富山においては、飛騨の高山辺りとの交易の中心地だったというのがどこかに書いてあった。土地勘がないというのは情けないなと改めて思った。

越中八尾駅から踊りの行われている福島町の通りをしばらく歩いて、坂のまち大橋というのを渡り、天満町に出る。そこからは昨日と同じように坂を登って城の山公園まで往復する。今日は通りの途中にある幾つもの神社やお寺などを見ながらの往復だった。古い町には必ずその町と結びついて町を支え守ってきた寺社があるものだ。それぞれの由緒までは調べなかったけれど、立派な建物が多いのはやはりこの町が昔から繁栄していた証なのだと思った。

町を歩いていると、町内ごとに公民館があるのに驚かされる。小さくて狭いエリアの町内会なのに、である。これはやはり風の盆や曳山祭りなどと大きく係わった歴史がらみの背景があるのだろうなと思った。自分の住む守谷市などには町内会や自治会単独での公民館などは皆無で、6万5千人も人が住んでいるのにそれらしき公共の建物は小規模な何とか会館が3~4箇所しかない。それに比べると、この町の町会ごとの公民館というのは、その結束を強く示すものとして凄いなと思った。

坂を登って行くと、道端というか、家々の軒下辺りから水音が聞こえてくる。どこへ行っても聞こえてくるのだ。蓋がしてあるので、どのような水が流れているのかは知らないのだけど、何か理由があるように思った。調べてみたら、これはエンナカと呼ばれているもので、火防や融雪用として昔から整備されていたとか。そうか、ここは雪国だったのかと、改めて気づかされた。八尾という町がどのような昔を持っているのかが、少しずつ見えて来ているのが楽しい。

城の山公園に上り町を俯瞰した後は、なるべく来た時とは違う道を探して帰途に就く。自分的には風の盆の踊りの見物などよりも、この朝の散策の方がずっと楽しい。2時間ほど歩き回って車に戻る。

今日も天気は上々で、時間が経つに従って暑さが増して来た。幸い直ぐ傍にプラタナスの木が一本あって午前中は日射しを和らげてくれているので助かっている。今日は何としても21時頃に出かけるつもりでいるのだが、それまでをどう過ごすかが大変である。読むべき本も持参しておらず、TVなど見ていても直ぐに飽きてしまう。外を歩くにも日射しが強くて、うっかりするとそれこそ熱中症になりかねない。時々スーパーまで買い物に出かけたり、周辺の状況を観察に歩き回ったりしながら時間を過ごす。16時頃になって、夜食用におにぎりでも買ってこようかとスーパーまで出掛けたのだが、驚いたことに昨日まではかなり多く並んでいた食品売り場の弁当や総菜が、殆ど売り切れて無くなっていた。祭りの会場からはかなり離れているスーパーなのだが、祭の影響はここまで直接及んで来ており、そのパワーは絶大なものなのだなと改めて思い知らされたのだった。

ようやく日が傾きかけてきた。昨日以上に駐車する車が続々と入って来て、河川敷の方に向かっている。間もなく19時近くになるけど、自分たちは今日は簡単に動き出すつもりはない。シャトルバスには長い列が出来ているようだけど、その列が解消する頃に出かければいいのだと決めて、誘惑には負けない待ち時間だった。夕食を済ませ、暗くなり出したので、そろそろ準備をしようかと思っていると、何だか急に空模様が怪しくなり出した。20時を過ぎたので、とにかく準備を終えて外へ出て靴紐を結んでいると、雨粒が落ちて来たではないか。空はかなり黒雲に覆われていて、ちょっと心配になってきた。これからが本番なのだ。今さら行くのを止めるわけには行かない。念のため傘などの雨具を用意し、シャトルバスの方に向かう。

バスに向かって歩いていると、雨は本降りとなり出したようで、駆け込むようにしてバスに乗る。この時間帯となるとさすがに会場に向かう人は少なく、直ぐに乗ることが出来た。直ぐに発車したのだが、雨はますます強く降り出した。バスは昨日と同じコースを走っているのだが、今日はなぜか一般道を走る車が多いらしく、渋滞が始まってなかなか前に進まない。どうせ雨なのだからゆっくりでもいいのだけれど、と思いながらも21時にはまだ間があるのに、急く気持となっている自分が可笑しくなったりした。20分ほどかかってようやく渋滞を抜けて会場に着く。

雨は少し小降りとなったみたいである。一時の通り雨だったのかもしれないなと思った。バスの外を見て驚いた。渋滞でなかなか戻って来ないバスを待つ長蛇の列が出来ていた。昨日も40分待つ状態だったが、それでも4~5台で回転しているバスの動きは順調だったのだが、今日は渋滞で狂ってしまっている。それなのにこの雨で見物を諦めて戻る人たちの数は昨日の比ではないようだ。降りて東町の通りの方へ歩いてゆくと長蛇の列は通りの中にまで連なっていた。戻るのには歩いてゆくしかないのだから、待つ外ないからなのであろう。小さい子連れの人も混ざっており、気の毒だなと思った。

ごった返している踊りの行われている通りを歩いて上新町まで来ると、何やら放送があって、聞くとどうやら踊りは雨で中止ということらしい。但し22時になったら

輪踊りというのは行うということらしかった。今はもうすぐ21時になるという時刻である。中止だというのだが、それは上新町だけなのか、他の町内はどうなっているのか、それはさっぱりわからない。風の盆の全体を仕切っている組織があると思うのだが、そこではどう判断しているのか何の情報も伝わってはこなかった。とにかく帰るわけには行かないので、混雑する通りを一番上の方まで行って見ることにした。幸い小降りとなっていた雨も止んだようで、走っている雲の間から時々月が見えるようになってきた。

 坂の最上部近くの東新町に入り、諏訪町通りの方を見下ろすと、どうやら踊りは止めとなっているらしく、大勢の人がうごめいていた。どうやら坂を上る人よりも下る人が多いようなのは、諦めて帰ろうとする人が多いのを表わしているようだった。東新町の踊りは中止されているらしく、踊りの一団が休憩なのか解散なのか一息入れて休んでいた。風の盆は雨が降ると中止となるらしい。それは演奏する楽器が三味線と胡弓、それに太鼓であり、これらの楽器は特に雨に弱いからなのであろう。そう思いながら西新町の方へ向かう。

 西新町は東新町よりも一つ西寄りの筋にある町内で、こちらの方が坂の最上部に位置しており、ここの通りは上新町につながっている。ここに来て見たらやはり踊りの一団が休憩しており、相棒がその中の一人に踊りは再開されるのかを訊いたりしていた。はっきりしない返事だったが、止めにしたという雰囲気でもない。どうなのかなとしばらく様子を見ていると、10分も経たない内に踊りを始めるらしく、そのような動きとなった。今度は最前列で、初めから終わりまでを見ることが出来たのである。動画を撮ろうとカメラを回し続けながら、踊りの一部始終を観察し続けた。

優雅な女踊りは流しの最前列で、これは6人ほどが踊り、その後に関係者らしい子ども交じりの一団が踊り、続いて演奏の一団が唄い手を交えて進み、更にその後に法被姿に編み笠を被った男踊りの数人が続くという構成は昨日と同じだった。それは当り前なのであろう。踊りの内容が全く同じなのかどうかはわからない。途中から踊りの隊列が変化し、女踊りと男踊りの数人が前に出て来て、一緒に踊るという形となった。男踊りは逞しく、雪駄の地面を叩く音が揃って、なかなか見事だった。女踊りはあくまでも優雅で、特に後ろに反って踊る姿には女性らしさが溢れている感じがした。又これらの踊り手が3組ほどペアになって踊る場面があり、その時には観衆の中からやんやの喝采や口笛が飛んだりして、何故か、なるほどなと思ったりした。

15分ほどで踊りは終わり、歩きながらしばらく休憩となったが、引き続き流れに乗って見物することにした。間もなく次の踊りが開始された。内容は同じで、どうやらこの繰り返しが何度か行われるようだった。二度目なので、少し余裕が出来て慌てずに見物することが出来て満足した。相棒は今日はカメラを持って来なかったので、その分じっくり観察出来て満足したようだが、こんなことになるのならカメラを持って来るべきだったと少し悔いもあった様である。

余裕を持って2度も風の盆の踊りを見ることが出来たので、満足して坂を下って上新町の方へ行くことにした。9時半を過ぎた頃からの人混みは、雨で諦めて帰る人たちが続出して、かなり余裕があるようになった。そんな中を歩いている内に22時となり、上新町では輪踊りというのが始まった。どんなのかなと見ていたら、通り全体が踊り場となって、400mほどの大きな踊りの輪をつくって、見物客も一緒に自由に参加して、踊るのだという。

そのチャンスを待ち構えていた相棒は、直ちに自分に荷物を預けて輪の中に入って行った。輪の内側に設けられた小さな舞台の上では、踊りの手本を示すかのように着物姿に深編みがさの若い女性が、優雅なしぐさを繰り返していた。相棒などは良く踊り方を知らず、地元の小さな女の子に仕草を教えて貰いながら踊っていたとか。これはあとで聞いた話である。とにかく大変な大きさの踊りの輪なので、一回りするには優に1時間以上を有するに違いないと思った。それまで相棒を待っていることが出来るのかと少し心配になった。せいぜい30分ほどが限界なのである。「どうせ阿呆なら踊らにゃ損々」は阿波踊りの唄の文句だけど、損が百溜まっても踊らないのが自分の信念なので、ちんたら踊りを見続けているのは到底無理なのである。と、まあそのようなことを考えていたら、それを察したのか、20分ほどで相棒が戻ってきた。踊りの練習も皆無だったので、うまく踊れず自分のことも気になって止めにしたようだった。とりあえず安堵した。

その後は輪踊りの場を離れて、更に坂の下の方の町内の踊りを見物しながらぶらぶら歩きをする。おちこちに踊りの一団がいて、昨日とは大違いの風の盆本来の雰囲気を味わうことが出来た。見上げる空には月も輝いていて、先ほどの雨が天の恵みだったように感じた。雨が降らなかったら、昨日と同じ状況だったのかもしれないなと思った。最後に坂の一番下の天満町まで来て、踊りの流しの始まるのを見物しながら帰途に着くことにした。もう既に23時を過ぎていて、シャトルバスは終わりとなっているので、歩いて帰ることにした。

昨日今日と2往復して歩いているので、夜道であっても迷うことはない。それに月明かりもあるので、今日の感想などを話しながら歩いている内にたちまちスポーツアリーナの駐車場に着く。とにかく今日は一時どうなるのかと思ったのだが、その後は本来の風の盆を味わうことが出来て満足した。車に戻って、ビールで乾杯して寝床に入った時は、既に0時を回っていた。これで風の盆の見物は終わり、明日は家に戻るだけとなった。

※  この日の写真は、すべて動画ばかりで、それを載せる方法を知らないため、文字ばかりとなりました。ご免なさい。

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軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その4)

2017-09-19 05:07:26 | くるま旅くらしの話

第04日 <9月01日(金)> 

 <行程>

八尾スポーツアリ-ナ駐車場 →(シャトルバス)→ おわら風の盆会場 →(シャトルバス)→ 八尾スポーツアリ-ナ駐車場(泊) 

 いよいよ祭りの始まりの日となった。天気は上々の様だ。いつものように早く目が覚めてしまうので、相棒がもう一眠りするまでの間、外を散策することにする。昨日下見に出かけた八尾の旧町まで歩いて行くことにした。いつも家では早朝に8km以上は徒歩の鍛錬を行っているので、駐車場から旧町までの距離は、凡そ3kmくらいしかないように思われる。大した距離ではないと思っての出発だった。

昨日車で通った道を30分ほど歩くと天満町に着いた。ここは祭で踊りの行われる旧町の一つで、坂の一番下方に位置している。未だ夜の明けきらぬ町の通りは、それでも幾つものぼんぼりが灯って、すっかり風の盆の雰囲気になっている。そこから坂を登りながら、旧町の幾つかを通り抜け、昨日の諏訪町の通りに出る。少し明るくなり出して、写真を撮り易くなったのでその景観をカメラに収める。更に上方にある東新町まで行き、そこから養蚕の神様を祀ったという若宮八幡社の脇を通って、小高い丘の上にある城の山公園に行って見ることにした。5分ほど小道を登ると広場があって、そこから八尾の町並みが俯瞰出来た。細長い谷合の坂地に開けた町が甍を並べて連なっているのが見えた。ビルの様な建物が少ないのを見て、何だか少しほっとした。風の盆の雰囲気にはビルは無用の感じがするからである。今夜からこの町全体が踊りの雰囲気で膨れ上がるのだなと思いながら帰途に着く。帰りは来た道ではなく、別の道を選んで、少しでも多く八尾の町の造りを知りたいと思った。

早朝の諏訪町通りの景観。細長い坂道に沿って祭りの雪洞が並んでいる。この通りは日本のみち100選に選ばれており、風の盆では一番人気のある通りだとか。早朝6時前にはだれも見当たらず、独り占めの景観である。

朝の散策を終えて車に戻ると、すでに相棒も起き出していた。昨夜は良く判らなかったけど、とにかく周囲は車で埋まっていた。朝食後は何もすることがないので、しばらく周辺をぶらぶらする。昨日はよくわからなかったが、スポーツアリーナの北西側には井田川という川が流れていて、その河川敷も駐車場になっていて、そこにもかなりの車が駐車していたが、まだ余裕はありそうだった。シャトルバスの方にも行ってみたが、こちらの方は15時からの運行開始というので、まだバスなどは見られなかった。一回りして車に戻る。

その後午前中はとにかく手持無沙汰なので、近くを歩き回る。この駐車場に滞在中の食料などを補給するには、スーパーなどで買い物をする必要があり、昨日車で寄ったスーパーはどれくらい離れているのかと歩いて行ってみたら、何と10分足らずで行くことが出来るのが判った。遠くにあるように思えても、実際歩いて見ると思いの他近い場所にあると知って安堵した。駐車場内のトイレは少しレベルが低いので、スーパーまで行けば大丈夫だということもも判った次第。午後も昼寝やTVなどを見ながら時を過ごす。とにかく風の盆は夜にならないと始まらないのである。一昨日までは踊りの練習をする場所などがあったらしいのだけど、昨日は休養日だったし、今日の本番までは何もイベントなどは無く、只待つことしかない様になっているらしい。本番は19時からだというので、それまでの時間を過ごすのには本当に苦労した。

15時を過ぎると、再び車が続々と入って来た。既に駐車場は満車になっており、皆河川敷の方へ向かうのだが、自分たちの横を通って行くので何やら煩わしい。その内に状況を見に行った相棒が、シャトルバスが長い列をつくり出したと言って戻って来た。時計を見たら17時を少し過ぎた時刻だった。19時にはまだ間があると思っていたのだが、長蛇の列が出来ていると聞くと、何だか遅れを取ってはならない様な気分になり、俺たちも行って見るかということとなってしまった。

20分ほど並んで待って、シャトルバスに乗り込む。10分ほどで終点に到着し、近くにある東町の方の通りへ向かう。東町は坂の中間あたりにある比較的道幅の広く長い町筋である。そこから入って、昨日下見をした諏訪町の方へ行ってみた。踊りが始まるまでにはまだ1時間以上もあるのだが、とにかく大変な人出で、狭い道は行き交う人で溢れていた。しばらくその人混みの中をさ迷って、坂を登り少し下って、広い通りの上新町の方へ出る。広いと言っても歩道無しで車が離合通行できる程度なので、道幅は10mほどしかない。諏訪町よりは多少余裕がありそうだが、混雑は変わらない。

掲写真と同じ諏訪通りの、風の盆踊りの開始30分ほど前の様子。坂の下方まで人が溢れている。開始となると、もう身動きができなくなる。(危険なので自分たちは見物を敬遠した)

そうこうしている内に19時となり、上新町公民館の辺りで踊り開始の案内放送があった。とにかくそれらしき場所へ急いで向かう。他の通りでも開始されているのかもしれないけど、一度に両方を見ることはできないので、とにかく先ずはこの町の踊りを見ることにした。せめて写真でも撮っておこうと前の方へ出ようとするのだが、押し合う人の波の力は凄まじく、とても無理である。幸い相棒は仕切り線の近くに出て、しゃがんで見ているようなので、写真は任せることにして、自分は通りの店の軒下の方に身を寄せて、伸び上がりながら、ちらちら目に入る踊りの一団を覗き見る形となった。踊りの流しの一団は、前方が浴衣風の着物を着た女性が鳥追いの深編み笠を被って踊り、その後に何人かの子供や編み笠なしのグループが続き、その後ろを音曲関係の三味線や胡弓それに太鼓、唄い手のグループが歩き、最後尾を男踊りの編み笠を被った黒っぽい衣装のグループが踊りながら移動するといった構成のようだった。音曲の方はまさに風の盆の雰囲気十分なのだが、踊りは寸断されてしか見えないので、何だか楽しくない気分が膨らんだ。

上新町の風の盆の踊りの様子。上は女踊りの一場面。下は男踊りの一場面。いずれも相棒が最前列で撮ったもの。

帰りのこともあるので、今夜は相棒のボディガードを務めることにしようかと気持を切り替える。上新町の踊りの一団が二度ほど流すのを見た後、別の町内の様子を見ようと移動する。今町という所では、道が曲がった角の所で、流しではない少しベテラン風の一団が小人数だが味のある演奏と踊りを披露していた。ここはその様子を少し見ることが出来たが、人だかりが多くてどうも落ち着きがない。その後も人混みの動きに揺られながらしばらく踊りの一団を探しながらさ迷うこととなった。

20時が過ぎる頃になると混雑は一層ひどくなり、もはや動き回るのには嫌気がさして来た。それでもしばらくは何とかしようと追いかけたりしていたのだが、とうとう限界が来て、もう見物は止めて車に戻りたくなった。相棒はもう少し見ていたような感じだったが、自分が不快な顔をしているので、急に疲れを覚えたらしく、帰るのに同意したようだ。このような調子で動き回っていたら、体調がおかしくなってしまう危険性もある。ということでシャトルバスに乗って戻るべく乗り場の方に向かったのだが、そこにはこれも又かなり長い行列が出来ていて、結局乗車するまでに40分ほど並ぶ結果となった。

とにかく初めての体験だったので、この人混みの酷さには呆れるばかりで、肝心の風の盆らしさを味わうという気持ちからは遙かに遠いというのが正直な所感だった。同時に反省もあり、やはり本当の本番は21時を過ぎてからだというのに、早やまって出掛けてしまったことが失敗だったように思った。ま、明日もう一日見る予定なので、今度は出掛けるタイミングを急いて誤らないようにしようと、心に決めた。

それにしても例年3日間で20万人~30万人もの人出があると聞いているけど、僅か2㎢ほどの細長い狭い通りに一度に10万人近い人が押し掛けるのだから、超混雑となるのは当然のことなのであろう。町の人たちも既に受け入れの限界を超えていることは承知されているのではないか。こんな状況ではゆっくり楽しみながら踊ることも困難なのではないかとも思った。それに安全上もいろいろな問題を内包しているようにも思えた。折角楽しみにして来た風の盆だったが、初めての一夜は嬉しい興奮ではなく、何だか一敗地にまみれた感じでの車への戻りとなった。

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軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その3)

2017-09-17 04:06:20 | くるま旅くらしの話

第03日 <8月31日(木)>  

<行程>

道の駅:うなづき → 黒部IC →(北陸道)→ 富山IC →(R41・K)→ 八尾スポーツアリーナ駐車場 →(八尾風の盆の下見散策)→ 八尾スポーツアリーナ駐車場[富山市八尾町井田](泊)

 5時過ぎ目覚めた。天気は良さそうだ。明るくなってきたので、一人散策に出かけることにした。先ずは昨日遠く山の手の方に目にした、朱色の橋を目指すことにして歩きはじめる。山側の裾に沿った道を歩いてゆくと、何やら道脇の小高い崖のような所から小川が細く流れ下っている場所があり、傍に説明板らしきものが立てられていた。何だろうと近づいて見ると、

「史跡流潅頂(ながれかんじょう)」とあり、それによると「禅宗や真言宗における仏事の一つで、死者の霊を弔うため、初七日の法要が終わると、供花や塔婆をこの場所へ運び、七如来の塔婆や名号を書いた白布を流れる清水に浸しておき、親族や街道を往来する人々が竹で作った柄杓汲んだ水を塔婆に注いで、新仏の冥福をお祈りすることをいう。一般的にはこの仏事と共に場所も含めて流潅頂と言っている。昔は北陸街道の各地にあったが、道路の整備と共に徐々に無くなり、今は大変珍しいものとなった。」と書かれていた。

潅頂の景観。崖の上方から細い水が流れており、下方に石に刻まれた仏像などが何体か並べられていた。

大変珍しい場所にいきなり出会って、これは良い散策になりそうだと少し興奮した。今の世では一般の通行人が亡くなったばかりの新仏を供養するなどというのは、何か特別の事件でも無い限りはあり得ないのだが、昔の人たちの優しさのようなものを感じたのだった。

その後少し歩くと遠くに見えていた朱色の橋が近づいてきた。その手前にある小さな集落の通りを歩いていると、何やら巨岩の塊の様なものがあり、近づいて見てみると脇に説明板があり、次のように書かれていた。

「史跡粕塚 伝説 昔一人の僧がこの辺りの酒屋に立ち寄って酒粕を所望したところ、店の主が『これは酒粕ではございません、石です』と言って断った。そして僧の立ち去った後を見ると酒粕はみんな石になっていた。 また酒屋(細越の長者といわれた)に年頃の娘があり、荻生の箱根の長者へお嫁に行くことになった。細越の長者は『俺の娘は大切で、道中土を踏ませられない』と米俵の上を歩かせることに決めた。それに対して箱根の長者はうち上げ(結納)に細越へ息子をやるとき餅の上を歩かせた。ところが食べ物を粗末にしたので貧乏して二軒とも無くなった。細越の長者のあったところは粕塚あるところと伝えられている。 大岩 大岩は安山岩で黒部川上流の岩が水に流された物ではなく、火山で飛ばされた物が水に洗われ現存していると推定される」

    

粕塚と呼ばれる巨石の塊り。この石の塊から、このような伝説を生みだす力とは、いったいどのような時代の、どのような社会背景が潜んでいるのだろうか。不思議さを覚えずにはいられない。

面白いなと思った。確かに目立つ大きな岩だったので、何かあるのではと思ったのだが、このような伝説があったとは。それにしてもこの辺りは昔は人の往来があって栄えていた場所だったのだと驚いた。すぐ傍に黒部川が流れていて、この川は相当の暴れ川だった様だから、人の往来がそれほど多くは無かったのではないかと思ったのだが、歴史というものは分からないなと改めてそれを実感した。

2箇所も珍しい場所に出会って何だか嬉しくなってしまった。早や起きは三文の得というけど、こりゃあ三文どころじゃないぞという気分になった。犬も歩けば棒に当るはアンラッキーな話だけど、歩いて見れば良いことに巡り合うものだと気分が高揚した。朱色の橋桁の下の階段を登って橋の上に上がる。下に黒部川が流れており、上方にダムらしきものが見えた。又橋の下の脇には取水口の様なものがあって、取り込まれた水が一時大きな溜池のような場所を通過して、川の本流とは違う用水らしき方に勢いよく流れていた。どうやらここで上流から流れてくる奔流を調整しているらしい。黒部川には大小の岩石がにごろごろと無数転がっており、それらを見ただけでも大雨などが降ると相当の暴れ川となるのが予見できるのだが、それを少しでも宥め治め様とする工夫の一つがこの場所に仕掛けられているのだなと思った。今では上流に黒部ダムが完成しているので、昔ほどは治水の苦労は少なくなったのだと思うが、以前は相当に厳しかったのではないか。

橋を渡った所に説明板があり、そこには次のように書かれていた。

「日本三奇橋 愛本の刎橋 愛本のこの地に初めて橋が架けられたのは寛永3年(1626)で、打渡橋であった。その後寛文2年(1662)に加賀藩の第5代藩主前田綱紀が笹井七兵衛正房に命じて刎橋をつくらせた。両岸から大木をはね出し、中央部でつなぎ合わせるという橋脚の無い刎橋は、周辺の景観とも良く調和し、儒学者の頼三樹三郎をはじめ多くの文人などの賞讃を受け、錦帯橋(山口県)、猿橋(山梨県)と共に日本三奇橋の一つに数えられていた。 刎橋は20年~30年毎に架け替えがあり、8回の架け替えを経て、明治24年(1891)木造アーチ橋、大正9年(1920)鋼鉄製トラス橋へと変わるが、昭和44年(1969)8月の豪雨で流失した。現在は約60m下流に鋼ニールセン系ローゼ桁橋、橋長130mの近代的な橋として生まれ変わっている。幅は歩道を含めて8.5mである。昭和47年7月に竣工した。」

随分と長い丁寧な説明書きで、この橋の歴史とそれから黒部川の怒りのエネルギーの凄まじさを知った。この橋は丁度黒部川が山間部から平野に出るその入り口にあり、昔から交通に関しては重要な拠点であったこと、そして平野となっている扇状地の治水の難しさを秘めていたことが理解できた。橋の袂の方に小さな神社の様なものがあるので降りて行って見ることにした。この調整池やダムの建設に功績のあった方の顕彰碑と水神様であろうか、が祀られていた。

現在の愛本橋。朱塗りの橋架のその姿は、遠くからでも際立って目につく。三大奇矯の刎ね橋はこの橋の上方に架けられていたが今はない。手前下方の左手の方に水流の調整施設がつくられている。

流潅頂に続いて記念すべきものを見ることが出来て嬉しくも満足しながら車に戻る。どうやら相棒も起き出したらしい。出掛けている間に付近で草刈が行われていたらしく、そのエンジン音でとても眠れたものではなかったとか。今終わったばかりだとかで、丁度いいタイミングで戻って来てラッキーだったと言われた。宝物の発見について話をしないままに朝食を済ます。

今日は八尾の町の駐車場へ行き、どのような状況なのかを確認するとともに町中に出かけて下見をしようと思っている。朝食の後一息入れて出発する。一般道を行くつもりだったが、何だか面倒くさくなって、黒部ICから高速道を使って行くことにした。直ぐに高速道に入って、有磯海SAにてゴミ処理などを行い小休止する。ここには富山の名物の各種商品が多く取り扱われていて、相棒は何やら探しているようで、それらの幾つかを仕入れていた。その後は富山ICで下りて、R41を少し走って県道に入り、ナビの通り行くと間もなく八尾町のスポーツアリ-ナに到着した。

かなり広い駐車場があり、既に自分たちと同じ目的らしき何十台かの車が、思い思いの場所に駐車していた。取り敢えず車を置き、情報を仕入れにスポーツアリーナの事務所に行って見る。相棒が先に行き、あれこれ訪ねていた。町への案内図や祭りの予定表などを頂き、ある程度のことは判った。駐車場への泊りはどうなのか訪ねたら、多分OKだろうとのこと。あす以降運営はアリーナ事務所の管理を離れることになるので、詳細は分からないけど、運営関係者に駐車料金を払えば良いとのこと。それならば、一々この駐車場を出て近くの道の駅などに泊る必要が無くなるので、ここに泊めてもらうことにしようと決める。

まだ昼飯には少し時間があるので、取り敢えず町の方へ行って下見をしがてら食事をしようと出発する。10分ほどで町中の上の方にある曳山展示館の駐車場へ車を留める。それからしばらく明日から行われる町の通りを歩いて見た。細い坂の道筋が何本かあり、その道に沿って町屋が櫛比して並んでいた。別の筋に入っても同じようで、特に諏訪町という所の道筋は、日本の道100選に選ばれているということである。約400mほどだろうか、昔を偲ばせる石畳の細い道が坂の上方に向かっていた。道の両側の軒に常設らしい祭のぼんぼりがきれいに並んで続いており、それが通りの風情を一層高めている感じがした。明日はこの通りでも踊りが行われるのだろうけど、道幅が6mあるかないかの狭さなので、大丈夫なのかなと心配になった。今日はどの店も戸を閉めており、食事をする場所も見当たらなかった。地元の方たちは明日からの祭の本番のために息をひそめてエネルギーを溜めこんでいるような感じがした。しばらく町中をぶらぶらした後、スポーツアリーナに戻る。

まだかなり空いているので、どの場所が良いのか迷ったが、晴れて日射しが強いので所々あるプラタナスの樹の葉蔭の場所を選んで、ここをこれから3日間の生活基地とすることに決める。昼食は店が開いていなかったので、途中のスーパーで買って来たお弁当などを食べて済ませる。その後は最早何もすることがないので、寝床に入って横になったり、TVを見たりしながら夜を迎える。夕刻になると続々車がやって来てあっという間に駐車場は満車になり、続いて隣接する井田川の河川敷の方にも駐車をするための長い車の列が遅くまで続いていた。

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軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その2)

2017-09-15 05:22:13 | くるま旅くらしの話

第2日 <8月30日(水)> 

 <行程>

軽井沢清風荘 →(R18)→(上田・更埴・長野・上越経由)→(R8)→ 名立谷浜IC →(北陸道)→ 朝日IC →(K)→ 道の駅:うなづき[黒部市宇奈月町下立](泊)  

 翌朝起きて窓の外を見ると、霧雨が雨に変わり出した様である。涼しいというよりは少し寒いという感じである。自分は一人早朝の浴場に行き、朝湯を楽しむ。温泉ではないけど、たっぷりとお湯が溢れていい気分だった。これで心身がすっきりとする。いつもだと6時頃のこの時間帯は、朝の歩行鍛錬の最中なのだが、今日はそのようなことは忘れてゆっくりとくつろぐ。間もなく朝食の時間となり、再びご一緒して、リミットタイムまで談笑しながら食堂を占有する。

一休みの後、少し寛いでいる内にたちまちお別れのチエックアウトタイムとなった。お別れの前に、お互いの車の前で記念写真を撮った。Aさんご夫妻はこれから途中寄り道をしながら帰途に就くとのことだった。たった一夜の時間だったけど、お互いの人となりの理解を深めることが出来て、一層親近感が増したのは嬉しい。お互いに車なので安全運転を約しての出発となった。Aさんご夫妻、本当にありがとうございました。

我々の方は、今日は富山市方面に向かっての移動日である。Aさんとの一夜の語りを思い起こしながら、軽井沢を出て少し下界に降りて、上田市に向かう。上田市にある道の駅:道と川の駅というのを訪ねようと思っている。この道の駅は何年か前にも寄ろうとしたのだが、その時は未だ出来上がっていなかったらしく、見つけることが出来なかった。もう大丈夫だろうと行って見ることにした。ナビを設定してそれに従って向かったのだが、上田市の市街地に入ると車は予想以上の混みようで、渋滞がひどくなってきた。どうしてこんなに混みあうのか理解に苦しむほどの渋滞なのである。そういえばこの街はいつ通っても渋滞がひどかったのを思い出した。市街全体は、下方の千曲川の狭いエリアから発展を開始し、かなりの坂をものともせずに上方の山の方に向かって成長しているように見える。下方を走るR18は、それら上方のエリアからの車と、反対に坂の上方へ向かう車とが交錯して混みあい、特に通勤時間帯とも思われるこの時間は渋滞がひどいようだった。

少しイライラしながらようやく渋滞を抜けて道の駅に向かったのだが、ナビの情報が古いため、かなり遠回りして目的の地点に到着した。「道と川の駅」などという妙な名称なので、何だろうと思っていたのだが、道の駅のある場所を見て、なるほどと納得した。千曲川のすぐ傍にあって、上田市を通るR18とは川を挟んだ反対側に新しく造られたらしい道路の傍に道の駅がオープンしていた。設置場所としては、あまり適しているとも思えなかったが、停車している車も数が少なく、新しい割には人気は今一の感じがした。中に入って売店などを覗いたが、目ぼしいものは無かった。直ぐに出発することにした。

さて、今日の行程と言えば、このままR18を北上して長野市郊外を通り、アップル街道と呼ばれるエリアを通過して道の駅:しなのに寄り、その先は上越市辺りで高速道に入り、黒部ICで下りて近くにある道の駅:うなづきに行って泊る予定でいる。いわば移動日なのだ。八尾のおわら風の盆は今日までが前夜祭で、踊りの練習などいろいろイベントがあるらしいのだが、間に合わないのでゆっくり北上して、少し手前の宇奈月の道の駅に泊ることにしたのである。

わざわざR18を行くのは、アップル街道と呼ばれるエリアで早生のリンゴが出回っているかどうかを確認しようという魂胆があるからなのだ。というのも、出発に当って孫たちに、土産にリンゴを買ってくるよと告げたからだった。約束はしたものの、収穫の時期が少し早いと思われるので、店が出ているかどうかが気になっていいる。

上田の道の駅を出てからは、流れは順調となって、イライラは収まった。千曲市、更埴市を過ぎて長野市の郊外を走る。どこかに昼食を摂る適当な店は無いかと探しながら走って行ったのだが、とうとう見つからないまま走り過ぎて、間もなくアップル街道と呼ばれる豊野エリアにかかってしまった。どこかにリンゴを並べている店は無いかと目を凝らしながら走っていたのだが、どの店もシャッターを下ろしており、開いている店も桃などを販売しているようで、リンゴの姿は見当たらなかった。やはり早過ぎるのかとガッカリしながら通過し、信濃町に入って道の駅:しなのにて昼食休憩をする。遅い昼食となってしまった。売店を覗いたら、あるある、ちゃんと早生リンゴのつがるが袋に入って置かれていた。ここにあるくらいだから、帰りに小布施のハイウエイオアシスで外に出て売り場を探せば必ず手に入るだろうと思った。やれやれである。恐らく先ほど通ったアップル街道沿いの店は、早生種ではなくもっと後にできる品種中心の栽培をしているのだろうと思った。

 道の駅で食事をしている内に雨が降り出し、外は急に気温が下がり出したようだった。この辺りは妙高山の山麓であり、かなり標高も高いのであろう。直ぐに出発する。道の駅を出てからは、R18は長い長い下り坂を走ることになり、その距離は十数キロにはなるのではないか。SUN号にとってはありがたい下り坂である。上越市から関越道に入るつもりでいたのだが、道を間違えたりして、そのまま通過してR8に入ることとなった。ここまで来たら、少し先まで行って北陸道に入ることにしようと、しばらく日本海を見ながら富山方向へ向かう。まもなく名立谷浜のICが近づき、そこから高速道に入る。

そのあとは、幾つものトンネルを潜り続けて、何とか言うトンネルの中で県境を越えて富山県に入る。この辺りから燃料が少なくなって来て、不安を覚えるようになり出した。赤ランプが点いたわけではないのだが、高速通行なので燃料の消耗は普通よりは多くなるので、心配となった次第。それで一般道を行ったら給油がし易くなると考え、少し手前なのだが、朝日ICで高速道を降りることにした。本当は上越市内で給油しておけばよかったのだが、見つけた給油所が道の反対側だったので、ま、何とかなるだろうとパスしてしまったのである。

その後、朝日町では適当な給油所が見つからず入善町に入ってしまった。この辺りの給油所は、価格の表示がしていないのである。価格を表示していない店では、自分はよほど困る状況でない限り給油はしないことにしている。商売をする者が価格を表示しないのは、購買者に対する仁義違反だと固く思っているので、そのような仁義に欠ける店では給油はしないと決めているのだ。田舎に行くほど仁義に欠ける店が多いのは残念だ。入善町に入ってしばらく走っていると、ようやく価格表示をした適正価格の店に巡り合って安堵する。60Lを超える給油量だったので、赤ランプ点灯寸前だった様である。

安心した後は、もう高速道に入るのは止め、一般道をナビに従って宇奈月方面へ向かう。17時少し前に道の駅に到着する。この道の駅には何度かお世話になっている。駅の構内には地ビールの製造販売を行っている棟もあり、又歴史民俗資料館なども隣接している。トラックなどはあまり走っていないので、夜間も比較的静かに過ごせるので安心だ。しばらく休んで一息入れた後、夕食タイムとする。黒部IC近くにあった富山名物ますの寿司の販売店で手に入れた、少し高級で値の張るますの寿司を肴にしてビールで乾杯する。相棒は早速手に入れた地ビールを味わっていた。夕食が終われば後は寝るだけ。長距離運転で疲れたこともあり、たちまちの爆睡となった。

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軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その1)

2017-09-14 03:05:24 | くるま旅くらしの話

※8月の終わり近い29日から9月の3日まで、軽井沢から富山市八尾のおわら風の盆見物という短い旅をして来ました。その状況について、何回かに分けて披歴したいと思います。今日はその一回目です。

 <はじめに>

このところ何処へも出かけることなく家の中にくすぶっていたのだが、8月の初め頃に岡山県倉敷市に住む知人から、軽井沢の保養所の予約を申し込んでいたのが取れたので、ご一緒しませんかとのお誘いを受けたのだった。知人と会うのも4年ぶりだし、軽井沢ももう何年もご無沙汰しているので、ありがたくお受けし、喜んで出掛けることにした。折角の機会なので、軽井沢までを往復するだけでなく、この時期他に何かついでに見聞できるものは無いかと調べている時に、そうだ、少し足を延ばせば、越中八尾のおわら風の盆があったっけ、と気づいた。富山県八尾町辺りは何度も通過しているのだが、まだ一度も有名な風の盆というのを見たことがなかった。踊りは相棒の世界であって、自分的にはさほど関心は無いのだが、盆踊りは民族舞踊の一つとして、昔につながるものという捉え方もあり、一度は見ておく必要ありと考え、軽井沢に追加して5~6日の短い旅をしようと決めたのである。

 第1日 <8月29日(火)> 

 <行程>

自宅 →(R294・R50)→ 太田桐生IC →(北関東道・東北道・上信越道)→ 松井田妙義IC →(R18他)→ JFE保養所(軽井沢清風荘)(泊)

知人のAさんとは、4~5年前に初めてお会いして以来久しくご無沙汰している。ご夫妻は歩きの旅を中心に日本のみならず世界の各所を訪ねておられて、その都度珍しい絵葉書の便りを頂戴している。ところが実のところまだ一度もじっくりと話をしたことがなく、以前お会いした時も、お互いの仲間内の一人として短い会話を交わすだけだった。それが今回はわざわざ遠い倉敷から軽井沢まで出向いてこられての再開となるので、格別に思いのこもったひと時を過ごせるのではないかと、ありがたく、また嬉しく胸を弾ませての出会いなのである。風の盆のことなどは忘れて、今日は目一杯その出会いを楽しもうと思いながらの出発だった。

朝の9時過ぎ孫たちに見送られての出発となった。8月もあと数日足らずで終わりとなり、時々涼しい日が訪れるこの頃なのだが、今日は暑さがぶり返したようで、この先、日中の道中が思いやられる感じがした。軽井沢まで行けば、高度千メートル近くの涼しさを味わえるのだから、それを楽しみにして行くことにする。チエックインが15時からということなので、その頃までに着くようにと考えている。行程としては、一般道をベースにするのだが、高崎や前橋辺りは道路が込み合うので高速道で通過することにして、その先松井田妙義ICで下りてからは、碓氷峠の山道をゆっくり上ることにしている。

先ずはR294を常総市から下妻市、筑西市に向かって進む。この辺りは茨城県の米どころの一つで、関東平野の真っただ中辺りとなるのか、幾つもの広い田んぼが道の両脇に展開している。もう稔りに達した田んぼには、早くも稲刈りを終えた新しい切り株が整列しているのが見えた。年々稲刈りが早くなるのは、品種改良なのか、それとも異常気象への対応なのか。一昨年は常総市内の鬼怒川が大氾濫して、稲作農家は大打撃を受けていることも影響しているのかなどと思いながら、下妻市を経て間もなく筑西市からR50に入る。この道をしばらく辿って栃木県から群馬県に入り、太田桐生ICから高速度を利用するつもりでいる。

間もなく結城市、小山市の中心街を通過し、郊外にある道の駅:思川(おもいがわ)にて小休止とする。この道の駅はオープンしたのが比較的新しくて、その分だけ多目的な要件を揃えてつくられているようだ。店内には新鮮な野菜などを中心にいろいろ魅力的な産物が並べられている。相棒がお腹が空いたと、おにぎりなどを買って来たので、少し早目の昼食とする。旅に出るとどうしても食べ過ぎの傾向となるので、糖尿病持ちの自分は要注意である。車の外はかなりの暑さだ。猛暑日のそれに近づいているのではないかと思うほどだった。

昼食の後は、ひたすら走り続けて群馬県に入り、予定通り太田桐生ICから北関東道に入る。流れは順調で、少し走って高崎JCTから関越道を上り線へ、直ぐに藤岡JCTから上信越道に入る。甘楽PAで一息入れて、そのあと松井田妙義ICで高速道と別れ、R18に入り、少し走って横川名物峠の釜めしのおぎのやのドライブインで休憩とする。

峠の釜めしはJR信越線が分断されずに元気よく走っていた頃には、スイッチバックのための長い駐停車時間を過ごす際に、必ず買い入れて食べた名物の駅弁だった。それが今はスイッチバックも無くなり、使われていた線路も鉄橋も過去の遺物となっている。しかし名物だった釜めしはしぶとく生き残って、昔よりも力を増しているようだ。若い世代の人たちには、名物釜めしの昔など見当もつかぬことであろう。老人の感慨は、ため息交じりである。

一息入れた後は、碓氷峠に向かって出発する。この峠を越えれば軽井沢である。高速道だとトンネル一つで軽井沢の町なのだが、R18は大いなる山越えの道である。つづら折りの坂道には、時々猿が飛び出して来たりするので油断はならない。今日は見当たらなかったが、猿君たちも暑さに辟易しているのかもしれない。尤も峠の最高地点は標高が千メートル近くあるのだから、かなり涼しい筈だ。猿の世界の事情はわからない。そのようなつまらぬことなどを考えながら間もなく峠を越え、軽井沢の町に入る。

未だ14時半を少し過ぎた時刻なので、道脇の公園の駐車場に車を止め、保養所入りの際に持参する必要のある着替えや洗面用具などの準備をする。SUN号の旅で車内に泊らない夜を過ごすのは久しぶりのことである。何だかいつもとは違う豪勢な宿に泊るような気分となっている。天気は上々でよく晴れている。さすがに標高が800mを超えている軽井沢の空気は涼やかである。しばらく休憩して、準備を終え出発する。JFEの保養所は旧軽井沢の駅の南側にあって、全くの森の中にあり、ナビに載っていても少し判りにくい場所だった。それでもAさんから細かい道順を教えて頂いているので、迷うことなしに到着することが出来た。15時を少し過ぎていた。

受付で伺うと、Aさんご夫妻は昨日からの連泊で、今はどこかへ外出中だとのこと。それなら中に入るのは少し後にし、久しぶりに森の中の道を歩いて見ることにした。この辺りは軽井沢が別荘地として開発されてからは、古い方の部類に入る場所なのであろう、森の木々たちもかなりの大木となっている。所々小川が流れており、全く暑さを感じさせない、緑に浄化された大気が森を囲んでいた。30分ほど付近を散策した後保養所に戻り、チエックインを済ます。

部屋でしばらく休んでいると、16時過ぎにAさんご夫妻が戻られたようだった。久しぶりの奥さんのお顔を拝見して、相棒は少し戸惑ったらしかったが、話をしている内に落ち着き出したようだった。5年の歳月は短いようだけど、ほんの少しご一緒しただけの出会いだったので、思い出すのに時間がかかるのであろう。自分の方が戸惑いは少なかったようである。お互い入浴を済ませた後、夕食の時間までしばらくAさんの部屋で談笑する。5年間のブランクはあっという間に埋まった感じがした。

そのあとは食堂に行って夕食となる。Aさんが用意して下さったフランス料理をビールで乾杯した後、ワインを飲みながら存分に味わった。相棒の喜びの饒舌は途絶えることはなかったが、奥さんもそれに負けないように調子を合わせて下さったので、内心安堵した。美味なる料理を味わいながらの歓談は弾んで、所定の終了時刻ギリギリまで食堂を占有した。その後は部屋に戻り、再びAさんの部屋で遅くまで歓談する。Aさんの持参されたスイスでのトレッキング時の写真を見せて頂きながら、山や野草の花たちについての話は、夜遅くまで尽きることがなかった。

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エノコロ草  

2017-09-08 01:12:49 | ホト発句

                                                                    

                     

                  エノコロも頭(こうべ)を下げて秋来る

       猫じゃらし過保護のネコは無縁なり

 

コメント:

  9月に入ると朝夕は涼しさが増し、日の出もかなり遅くなっているのに気づかされる。朝の散策の道を歩いていると、至る所にこのエノコロ草が穂を出し、それが次第に曲がって下を向き始めている。軽い稔りのように見えても、ぎっしり詰まった穂の膨らみは自然下を向くようになるのであろう。そこに秋を感ずることが出来る。庭の除草の際には取っても取っても執念深く生えてくる厄介者だけど、この姿を見ていると何だか許しても良さそうな気分になってしまう。

 エノコロ草は、猫じゃらしとも呼ばれている。しかしこの頃はこの草を摘んで猫をからかうような人はいないようだ。過保護の猫は、猫とは思えぬほど肥満しており、もはや猫じゃらしなどを相手に動ける気力は失ったようだ。そのようなことを思うと、今の世、健全なのは猫じゃらしのような野草たちに当てはまることばのように思えてしまう

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