山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

08春旅:第 3日(4/29)

2008-04-30 07:39:23 | くるま旅くらしの話
関川の夜は何の不満もなく満ち足りた眠りを得ることが出来た。今日も良い天気の様だ。道の駅には、早朝から車でやってくる人が多い。連休なのを思いだした。
今日は、直江津の春日山城址を訪ねる他は特に予定なく、基本的には移動日である。1日得した自由日は、能登半島一周に当てることにした。春の能登を訪ねるのは初めてかも。
9時丁度出発。間もなく日本海側を走る動脈路の一つのR7へ。毎度お世話になっている道である。しばらく走って加治川の道の駅に寄り排水。我がSUN号の排水は、移動生活中は、油も洗剤も一切使わないので、側溝に流す様にしている。加治川の道の駅では、大峰山桜祭りのイベントが開催されており、大峰山の10分の1の高さの40m弱の、地元特産のアスパラを芯にしたジャンボ巻き寿司を作るとかの準備が進められていた。1時間以上も待つわけにもゆかず地元特産のキュウリとうまそうな豆腐を買っておさらばする。大峰山を探したが、どれなのか判らなかった。
新発田を過ぎ、新潟バイパスを通過。このバイパスは高速並みでありがたい。道路行政には問題が多いが、これなどは成功例だと思う。北海道の僻地に高速道路を通せば、田舎が発展するなどと抜かすのは、愚の骨頂だ。何の渋滞もなく新潟を過ぎ、三条の市街地に入った所で、我が愛車のオッドメーターが、99999mを指す。車を道脇に停め記念写真を撮る。更に少し走って遂に10万キロを突破。ここまでに6年と2ヵ月弱かかっている。良く走っている方だと思うけど、あと30万キロは走って、キャンカーの鉄人記録を作って貰いたいので、これは一つの通過点に過ぎない。それにしても、同じペースで走って、あと18年も持つのかな?車よりも、我が身が持つかが問題だ。古稀肩は益々酷くなり、筋肉を動かす神経が束になって呻いている感じがする。
引き続き順調に走って、長岡市手前にあったショッピングモールに寄り、買い物と昼食休憩。此処でトラブル発生。何と、降りて歩きだしたら、我が左足のふくらはぎがツリ気味なのだ。参った。足を引きずりながら薬品売り場を探し、サポーターを買い直ぐに嵌め当てる。とにかく車に戻って昼食をとる。しばらく経てば大丈夫だろうと、出発進行。
長岡を過ぎる時道を間違え、気づいたらR17に入っていた。国交省の道案内の看板は親切と不親切の落差が大きくて、今日はその不親切に騙され、裏切られた感じだ。R8に戻るのに時間がかかり、春日山城址に着くのが遅くなりそう。足の心配もあるので、今回は中止することにした。残念だけど致し方ない。
その後は、ひたすらに日本海側の道を走る。越後筒石親不知の難所を過ぎ、富山県へ。宇奈月の道の駅に泊まる予定を再変更して、富山市を通り越して、氷見の道の駅に着いたのは19時近くだった。今日の泊まりは此処。350kmを走って疲れた。やれやれ。
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08春旅第2日 (4/28)

2008-04-29 07:16:16 | くるま旅くらしの話
塙の夜は少し雨が降ったり、側を走る車が多くて、結構うるさかった。それでも20時前に寝て、爆睡をむさぼった身は、3時には目覚めて、最早睡眠不要である。相棒も4時前には起きても良い気配だったので、声を掛け、起き出す。此処での朝食よりも、新しくできた玉川の道の駅を見がてら、そこでにしょうと、出発することにする。この様な思いつき行動は、くるま旅の常道である。急ぎ準備をし、出発したのは5時15分だった。
玉川の道の駅到着は6時15分。車も少なく走り易い。早朝の山野の春景色の中を走るのは、何とも言えない快さだった。玉川の道の駅は山の中にあって、思ったより小さかった。お湯を沸かして、コーヒーとパンの朝食を済ます。泊まるのはこの道の駅の方が静かだが、駐車場が狭いのが難。
さて、今日は移動日の予定である。置賜エリア経由で大江町まで行き、舟唄温泉という所に泊まる考えでいる。途中あわよくば何本かの桜を見ておきたい。というわけで、玉川を出た後は、須賀川からR4に入り郡山を経由して、福島からR13に入り、途中米沢で給油をした以外はノンストップで南陽市を経由して、長井市郊外の伊佐沢の久保桜に到着。一気に150kmを走る。何とまだ11時少し前だった。相棒は直ぐに桜を見に行ったが、こちらは疲れて見る気が起こらず、先ずは一眠りすることにし、寝床の中へ。疲れた時は寝るのが一番の薬である。
30分ほど眠って、元気を取り戻す。桜の前に腹を満たすべく名物(?)のうどんを作り食す。これで完璧。カメラを手に桜を見に行く。今年の久保桜は、かなり状態が良い様である。満開を過ぎていたけど、まだ充分に観賞に耐え得る美しい花の大枝を広げていた。ブログ用に携帯のカメラでも写真を撮ったが、小さ過ぎるので載せるのは止めにした。桜に申し訳けないので。
車に戻り、予定を変更する。この時間だと、今日中に置賜のかなりの数の桜の名木を見ることが出来そうなので、大江まで行くのは止め、桜を見た後は、次の宿泊予定地だった新潟県関川の道の駅に行くことにした。これで予定自由の日が、1日増えたことになる。
その後見た桜は、草岡の大明神桜、白兎の枝垂れ桜、釜の越し桜、薬師桜、十二桜などである。いずれも個性豊かな名木である。ここにその姿を紹介できないのが残念。置賜地方には、この他にも何本かの桜の名木がある。一本桜がこれほど残っている場所は他には無いのではないか。気候風土、そして桜を愛する人たちがこれらを今に残しているのに違いない。素晴らしいことだ。
桜を堪能した後は、R113に戻って一路関川の道の駅へ。新緑の荒川峡にはまだ残る雪から流れ落ちる水が、細い白糸の滝となって、幾筋もあるのを見た。17時少し前道の駅到着。ここにはいい温泉がある、来て嬉しい場所である。その楽しみをたっぷり味わったあと、今夜も又爆睡。
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08春旅第1日

2008-04-28 04:21:57 | くるま旅くらしの話
明日出発の予定を待ちきれず、準備を急いで、今日(4/27)12時半に出発。とにかく旅に出かけられて嬉しい。
今回は、先ず東北は山形県南部の置賜地区の一本桜を見た後、日本海に出て北陸を南下し、敦賀から琵琶湖の北西にあるマキノ町のピックランドで開かれるHMCCの全国大会に参加し、その後は南紀経由で伊勢神宮に参拝し、東海道は藤枝宿の親戚に寄り、それから帰宅の予定。ざっと半月の予定で、やっぱり駆け足しの旅となりそう。
さて、今日は欲を出して福島県南部の矢祭山のツツジを見て、その後R118の少し先にある塙町の道の駅に泊まるつもりでいる。
連休の混雑を感じさせない順調な流れで、筑波山麓に広がる関東平野の田んぼは、春霞の中で、田植えの真っ最中である。昔は人手だった田植えも、今は全て機械で、農作業というのは、今は農機具の運転に変わったようである。R294を栃木県に入り、那珂川町馬頭から茨城県の大子町に向かい、R118に出て北に向かえば隣町が矢祭山町である。JR水郡線の矢祭山駅付近は直ぐ下を久慈川の清流が流れ、それを挟んだ山々の急崖にはたくさんのツツジがあり、一帯は公園となっているツツジの名所である。
期待に胸を膨らませて行ったのだが、残念ながらまだ4分咲きほどで、あと10日くらいしないと満開にならない状況だった。4時半頃の遅い到着だったので、少し暗くなっており、余計に花の美しさが見えにくかったのかも知れない。ざっと見た後出発。
15分足らずで塙の道の駅に到着。予定通り、ここに一夜をお世話になる。
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十三詣りから五十五年

2008-04-27 12:19:07 | くるま旅くらしの話

東海村はわが国最初の原子力発電所が設置された所として有名だが、この村に村松虚空蔵尊という真言宗のお寺がある。本尊に虚空蔵菩薩を祀ったものだが、これには日本三大虚空蔵尊というのがあり、会津の柳津(やないず)、伊勢の朝熊山(あさまやま)と並んで、村松の虚空蔵尊もその一つである。

いきなり妙な話となったが、滝桜の帰り道、日立から新しく海岸沿いに出来たバイパスを利用して、珍しく東海村を走る道を通ることにしたからだった。私にとっての東海村は、原子力発電所などではなく、何といっても十三詣りの思い出なのである。

この地方では、私が育った頃には七五三の風習はあまり聞いたことがなく、子どもの息災等を願う行事としては、十三歳になった時に、村松虚空蔵尊へお詣りをするのが常となっていた。父に連れられて弟と一緒にお詣りしたのを覚えている。覚えているといっても、お寺のことは全く記憶になく、お寺の境内の向うにある海岸を歩いたのを思い起こすだけなのである。どういうわけか、そのときの写真が一枚残っていて、アルバムに貼ってある。その頃父がカメラを持っていたようには思えないので、一体誰が撮影したのか、どうしてこの写真が残っているのか判らない。しかし、確かに十三詣りの時の写真に間違いない。不思議な一枚なのである。

国道245線を大洗の方に向かって走っていると、左側に虚空蔵尊の案内板が見えた。道脇に駐車場もあったので、とにかく立ち寄ることにしたのだった。前置きは長かったけど、ここに寄ったのは、瞬間の思いつきのようなものである。もし駐車場が目に入らなかったら、たちまち通過してしまって、このような記事にはならず、チラッと昔の思い出が頭の中を過()ぎるだけのことだったと思う。

虚空蔵尊を訪ねるのは、その十三詣りの時以来なのである。数えてみれば既に五十五年が経っている。連れて来てくれた父も、お詣りに出かけるのを見送ってくれた母も、もはやこの世には居ない。随分と長い時間が経過したものである。5分ほど歩いて山門を潜(くぐ)り、本堂に参詣する。亡き父母の供養の思いをこめ、般若心経を誦す。

 

村松虚空蔵尊の本堂。この手前に立派な山門がある。平日とあって、参詣者はほとんど見受けられなかった。

記憶からは消えていたお寺の構えは、想像以上に立派だった。このようなコメントを書くのは、虚空蔵菩薩に対しても、お大師様に対しても真に失礼な話であることは重々承知してはいるけど、凡人の記憶のたどたどしさ、貧しさは如何とも仕様がない。お許しあれ。

しばらく境内の中を散策した。松林の向うにある海の方までは行く余裕がなく、新緑の樹の下を歩いただけだったが、その昔のことが強く思い起こされて、反省しきりの時間だった。何の反省かといえば、親不孝の思いが一番大きく、更にはふるさとというものを大切にしてこなかった己の心の貧しさである。ここまで生きて来れたのも、その昔の十三詣りにこめたられた父母やふるさとの愛情のお蔭なのだ。改めて感謝したい。

お詣りして気づいたのですが、このお寺の管理者の方に一つだけお願いしたいことがあります。それは境内の奥の方にある三重塔の相輪(塔の上にあるアンテナのようなもの)が傾いているのを早急に直して頂きたいということです。どうしてこのようなことになってしまっているのか判りませんが、これを見ていると、お寺さんの尊厳が失われるような感じとなり残念に思います。厚かましいお願いであるとは承知していますが。

   

   三重塔の相輪が傾いているのが残念。

 

※ これで滝桜見物関連の話は終わりです。今日(4/28)から(もしかしたら27日から→26日に2回載せた時)半月ほどの旅に出かけます。ブログは携帯での投稿となります。文字も写真も小さくなりますので、あしからずご了承ください。

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勿来の関の桜

2008-04-27 00:38:30 | くるま旅くらしの話

茨城県と福島県の県境近くの福島県側に勿来の関がある。滝桜見物の帰りには、白水阿弥陀堂の次にここに寄り道をした。というのも、何度もこの道(=国道6号線)を通りながら、今まで一度も、その関所跡を訪ねたことがなかったのである。今日はどうしても寄ってみることにしたのだった。

勿来の関は、念珠(ねず)ヶ関、白河の関と並んだ奥州三古関の一つである。白河の関だけは、どういうわけか何回か訪ねているけど、念珠ヶ関は一度も近くを通ったことさえない。そして勿来は今日が初めての訪問である.

白河の関といえば、能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど、秋風ぞ吹く白河の関」の歌が有名で、これははるばるやって来た秋の風情を詠んだものだが、勿来といえば、源義家の「吹く風を勿来の関と思えども 道も背に散る山桜かな」とこちらは対照的に春の風情を詠んだことで有名である。今回は観桜が主目的だったから、勿来の風情を味わうのも意味のあることではないかと立ち寄った次第でもあった。

国道6号線に沿って走るJR常磐線の、勿来の駅を過ぎると直ぐに右折して鉄道を跨ぐ道があり、それがいわき方面からの勿来の関跡への入口となっている。5分ほど緑の木々の間の坂道を登ると、直ぐに関所跡に到着した。海からさほど遠くない急な山崖の上にあり、平安の昔は旅の人にはかなり厳しい場所に設けられていたのが判る。源義家の銅像が建てられ、幾つかの記念碑が建っていた。

  

 勿来の関跡の景観。銅像の脇の小さな門をくぐると、関所跡の碑などが幾つか建っており、一帯は公園となっている。

源義家といえば、武家の頭領(新興武士勢力の象徴)であり、八幡太郎義家と呼ばれ、全国に数多い八幡宮に祀(まつ)られているその人であるが、歴史の中ではさほど輝いた武功の人とも思えない。陸奥の守となって赴任し、後三年の役で僅かに戦功を上げたものの、中央ではあまり評価されなかったようである。その人が何故武家の頭領なのか、それは後年の歴史が彼を押し上げ、つくっていったように思う。本人への報われ方とは無関係に、後年になって神と祀られるような人物の崇(あが)められ方は、歴史の中では時々登場するようである。天神様の菅原道真公などもその一人であろう。

東北地方と関東地方の分岐点といえば、どうやらこの辺りらしい。関所址の碑とともに、「奥州の宮」「関東の宮」の小さな石造りのお宮が置かれていた。いずれも往時の国境(くにざかい)の守り神として祀られたものらしい。関東の宮の方は屋根が崩落していて、いかにも時代の過ぎたことを語っているように思えた。千年近い昔のお宮といえば、大方はこのようなものではなかったかと思いを馳せた。

  

 国境(くにざかい)の守り神のお宮。左は奥州の宮。右が関東の宮。この二つの小さな石造りのお宮を見ていると、千年近い昔の人々の思いが伝わってくる感じがする。

この頃になって、よく東北地方や北海道を旅するようになり、地元の歴史を訪ねる機会が多くなるにつれ、この地方に対する歴史認識が大きく変わりつつある。中央からいえば厄介な蛮族の蝦夷などが住む僻地(へきち)という感覚なのであろうが、現地に住む人たちから見れば、平和を乱す侵入者以外の何ものでもなかったに違いない。この頃は現地に住む人たちの味方という意識が強まっている。そもそも「征夷大将軍」などというのは、けしからん侵略者の看板である。

ま、このようなことが言えるのも、今という時代に辿りついたからこそなのであろう。

その昔、源義家が、降りかかる桜の花のあまりの美しさに感動して、それを歌にしたというその山桜は、既に花が残り少なくなっていて、往時の風情を偲ぶにはやや不足している感じがした。花の美しさというのは、初めから咲いているのが判っている場所を訪ねるよりも、見知らぬ土地で傍にあるのをふと気づいた時に、より多くの感動を味わうのではないかと思う。戦(いくさ)への不安を心の内に抱えながら、通りかかった祖国から遠い異郷の山の中で、降り注ぐ花の舞いに心を打たれた武将の心情が伝わってくる名歌だと思う。

  

再び銅像と桜。桜の花を強調したいのだけど、ここにはこの木だけしかない。わずかに花びらが散っているのがお判り頂けるだろうか?

 桜の花というのは、どのような状況に置かれた人であっても、その心を浄化し、癒す力を秘めているようである。

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浄土庭園の春

2008-04-26 00:06:26 | くるま旅くらしの話

滝桜見物の帰り道は、福島県の浜通りを選んだ。見物の後、楢葉(ならは)の道の駅に泊まり、温泉で汗を流した後、しばし今日の観桜の想いに浸った。古希肩の疲れが重くのしかかって、一杯やった後は、たちまち爆睡となった。翌日、小名浜(いわき市)か大津港(北茨城市)辺りの市場で、カツオを1本手に入れたいという考えがあった。今年は初鰹という奴をまだほんの少ししか味わっていない。1匹くらいでないと食べた気がしないのである。このような意地汚い話となると、つい身を乗り出したくなってしまうのだが、今日はその話ではない。もっと上品な話である。

楢葉の道の駅を出発して少し走った辺りで、突然、いわき市にある「白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)」を思い出した。何年か前に家内に頼まれて立ち寄った所である。確かあの時も今頃だったと思う。三方を小高い丘の樹木に囲まれた閑静な佇まいのお堂だったように記憶している。阿弥陀様を祀ったお堂の周辺は池となっていて、その池に映る樹木の緑の鮮やかさが印象的だった。丁度良い機会なので、寄って行くことにした。家内に異存はない。むしろ私よりも積極的である。

9時半到着。以前に来た時と少しも変わっていない美しい景観がそこにあった。駐車場に車を置き、受付所のある方へ行ってみると、何と、今日は定休日で、中へは入れないという。ちょっぴり残念だったけど、阿弥陀堂の傍には行けなくても、庭園全体の景観は少しも変わらず、楽しむのに何の支障もない。

   

 白水阿弥陀堂、正面入口からの景観。朱色の中橋を渡ると、その先に木々に囲まれた国宝の阿弥陀堂がある。

白水阿弥陀堂は、国宝である。平安時代の後期、藤原三代の初代清衡の娘の徳姫が嫁いだのが、この地の治世者だった岩城則道という方で、夫に先立たれた後その霊を弔うためにこの地にお堂を建立(こんりゅう)したとか。詳しいことは判らないけど、当時の貴族の人たちの思いを籠めた建物であり、造園だったということである。

この庭を浄土式庭園というそうである。浄土というのは、仏教の世界では穢土(えど)と対比される世界であり、現世(げんせ)が穢土すなわち汚れた世界であり、浄土というのは、仏の住む理想の世界だという。何時の世にも末世(=この世の終わり)思想というのがあるようだが、平安時代の終わり頃にも末世思想は流行()したらしく、貴族たちは、こぞってあの世への安静な渡来を願って、理想郷としての浄土の庭園を造ったという。それが浄土式庭園と呼ばれているのだそうな。

  

 中橋越しの春の山の景観。もこもこと動き出した浄土世界の生命の躍動が感ぜられる。浄土世界も決して沈静化した世界ではないように思えてくる。

にわか仕込みの知識では、奥行きの浅さは覆うべくもないけど、平成の現代も末世観は、やはり拭えない。しかし、貴族でもない馬の骨では、理想郷など造る手だてもなく、あれよ、あれよという間に地獄に行くのは必定(ひつじょう)のような気がする。何時(いつ)の時代も、庶民・大衆は、末世に対する手立ては無力であり、地獄に行くしかない。ま、それはそれでいいではないか。地獄だって結構面白い所なのかも知れない。(これは負け惜しみに違いないけど)脱線失礼。

さて、その浄土式庭園は素晴らしい。奥州藤原といえば、平泉の中尊寺と並ぶ毛越寺(もうつうじ)が有名だが、ここの庭園も浄土式庭園である。白水阿弥陀堂の庭園も毛越寺庭園も親戚のようなものなのであろう。往時の貴族の人々が願った浄土とはどのようなものだったのかを偲ぶことが出来るような気がする。あの世の浄土で迎えてくれる仏様が阿弥陀様であるから、阿弥陀堂があるというのは当然のことなのであろう。

白水阿弥陀堂は、庭園に造られた池の、橋を渡った向う側の木立の中にあり、今日は中には入れなかったが、緑の中の静かな佇(たたず)まいは、阿弥陀様の微笑みを包む建物に相応しい雰囲気を醸(かも)し出していた。中には入れなくても、庭園を取り囲んだ一周300mほどの散策路があり、そこを回るだけで十二分に往時の浄土を思い浮かべることが出来る。二周ほどして何ともいえない新緑の世界を堪能した。

  

 散策路から見た木立の中の阿弥陀堂。池に映る新緑を包むの柔らかな光が、浄土世界を体現しているようだ。

今度は、秋の風情を味わいに訪れたいなと思った。浄土の秋というのは、又違う趣があるのであろう。この緑の景観がどのように変化するのか、往時の人たちがそれをどのように受け止めたのか、今から思いをめぐらしたりしながら、春の浄土を後にしたのだった。

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滝桜の眷族

2008-04-25 02:29:54 | くるま旅くらしの話

眷族(けんぞく)という言い方は、一般的にはあまり好感を持てないような人たちに向けて使われているようだが、滝桜の場合は、仏や菩薩に付き従う者たちよりも遙かに美しい存在の樹々たちを指している。正確に滝桜の子孫なのかどうかは判らないけど、同じ紅枝垂れ桜であれば、皆同じ子孫の関係者だと断じても良いような気がする。

この子孫のことを調べた人がいる。中田町(現郡山市)木目沢地区に住んでおられた木目沢伝重郎(昭和58年享年85歳で没する)という方である。この方は、滝桜の実を食べた鳥たちが、運び播いたタネが生え育ち、それが立派に生長して花を咲かせたに違いないと考え、滝桜から半径10km以内にある直径1m以上の根回りの紅枝垂れ桜の樹を歩いて調べ、ついに420本を確認されたという。凄い執念というか、滝桜に対する思い入れだと思う。このことは子孫の筆頭とされる地蔵桜の傍に、三谷晃一という方が地蔵桜縁起という碑に記しておられる。何時読んでも感動せずにはいられない。

滝桜から半径10kmといえば、三春町だけではなく、隣接する岩代町(二本松市)、船引町(田村市)、中田町(郡山市)などに跨(またが)ることになるが、その眷族が一番多いのは、どうやら木目沢エリアのある中田町のようである。それで、今回はその中田町を中心に何本かの滝桜の子孫と思しき桜の樹を訪ねたのだった。中田町だけでも20本以上の名木があるので、とても全部を観ることは不可能である。今日は7本観た内の5本を紹介したい。

先ずは何といっても滝桜の子孫の筆頭、すなわち長女の地蔵桜である。滝桜を観に来た時は必ずこの桜も観るようにしている。地蔵桜はその根元に小さなお地蔵様を祀った祠があり、そこから呼ばれた名のようである。滝桜ほどの貫禄はないけど、すらりとした樹高に広がる紅枝垂れの花は、より鮮やかで、400年と推定される樹齢を思わせない若々しさである。尤も、滝桜の樹齢から比べれば、半分以下の時間しか生きていないのだから、若々しいのは当然かも知れない。

   

地蔵桜。この画像は正面からではなく横側から撮ったもの。人の大きさを見て頂くと、桜の樹の大きさがお判り戴けると思う。

次は不動桜の大樹である。この桜は滝桜からは一番近い距離にあるようだ。樹齢350年と推定されるそうであるから、地蔵桜よりは少し若いらしいけど、見た目には判らない。この樹の方が老けているようにも感ずる。その根元近くに不動明王を祀るお堂があり、それゆえに不動桜と呼ばれたらしい。ちょっと小高い丘の上にあり、下から見上げるとなかなかの貫禄である。

     

不動桜。不動明王の祀られているこのお堂で、その昔三春藩の藩士による寺子屋が開かれていたとか。説明板に書かれていた。

地蔵桜から滝桜に向かう途中の道脇にあったお寺の境内にも、なかなかの枝振りの桜があった。ちょっと立ち寄って観たのだったが、お寺の名まえも判らず、何という桜なのかも知らなかったのだが、後で案内図を見たら、「水月観音堂の桜」とあった。どうやら観音様を祀るお寺らしい。この辺のお寺は住職さんの居られないものが幾つかあるようだ。しかしそのようなこととは無関係に、滝桜の子孫と思しき樹木は、美しい花を咲かせて境内を飾っていた。

   

水月観音堂の桜。やや小ぶりだが、花の広がりは見事で、美しい。

忠七桜というのを訪ねた。この樹は戊辰戦争の折に荷駄の運びに出向いた忠七という地元の方が、その戦争のあまりの惨状を目の当たりにし、心に深い悲しみの思いを抱いて家に戻り、会津の人たちの霊を慰めるべく、自宅の庭に植えてあった紅枝垂れ桜を雑木山に集落の人たちと一緒に移植し、そこを公園とし、代々の子孫に桜の樹の手入れをするように遺言されて、今日に続いているという。樹齢は200年ほどという。今回見た桜の中では最も若く、従って花の色も最も鮮やかなものだった。亡き忠七翁と一緒に会津の人々のご冥福を祈ると共にこの桜樹の末永き生長を祈念したい。

  

七桜。樹齢200年はこのエリアの花としては若い方か。花の色も鮮やかで、その若さを誇っているようだ。戊辰戦争で不慮の最後を遂げた人たちの霊も癒されているに違いない。

もう一本は、瑞雲寺といういかにも名刹を思わせる名のお寺の境内に、名木の風格を漂わせていたやや小振りの桜樹である。石段を登って参詣した瑞雲寺は、何と無住のトタン屋根のバラックのようなお寺だった。この桜がなかったら、このお寺は廃寺と間違えられてしまうのではないかと思った。やや疲れ気味の感じがしたが、元気を出して末永くお寺に縁(ゆかり)ある人たちの霊を慰めて欲しいなと思った。

  

瑞雲寺の桜。神社やお寺の境内に植えられている桜樹は多いが、この一本は、まさにこのお寺の守護樹であると思った。

※ これらの桜樹に共通しているのは、どの樹も優れたロケーションにあるということです。強風雨などの自然の脅威から守られるように、山腹や丘の斜面を巧みに利した位置に育っているのだなと、改めて気づきました。

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三春は桜源郷

2008-04-24 02:18:35 | くるま旅くらしの話

一本の桜の老樹が、小さな町をこれほど有名にしている所はない。「三春」といえば、「滝桜」というのが、私の頭の中の連鎖反応である。他にも三春駒などのことばも思い浮かぶけど、三春といえばやっぱり滝桜である。

三春は江戸時代が終わるまで、小さいながらも城下町だった。秋田家が領する五万石の大名の支配下にあったが、秋田家以前は三万石だったというから、土地の状況からは、三万石の方が実態に合っていたような気がする。小さいながらも、まとまった国だったように思う。

三春という呼び名には、格別の美しさを感ずる。春が三つという意味は、実は春というのは、その季節を代表する三つの花を指しているらしい。すなわち、梅花、桃花、桜花である。この地ではこれらの花が一度に咲き出すという。順番ではなく、何れも一挙に花開くのである。北国では、よく聞く話ではあるが、それを地名に織り込んだ場所はここだけではなかろうか。地に住む人々の花に対する、春に対する想いが自然と伝わってくる名である。

この地に今頃行くと、これら三つの花の中では、圧倒的に桜が目立つ。至る所に紅枝垂れを初め何種類かの桜花が咲き謳(うた)っており、一帯は桃源郷(とうげんきょう)ならぬ桜源郷(おうげんきょう)の趣(おもむ)きがある。それだけ桜の木が多いということなのであろう。勿論、その名のとおり桜以外にも梅の花も香りを放ち、桃の花も咲いているのに気がつく。間違いなく三春である。

  

 梅の花は、さすがに咲き残っているものは少なくなっていたが、桃の花の方は、これからが本番を迎えるという感じだった。

今年も滝桜が見たくて、この地をお邪魔した。日本三大桜と呼ばれるものに、根尾の薄墨桜、武川の神代桜、そしてこの滝桜が挙げられている(別の取り上げ方もあるようだけど)が、私はこの三本の中では、滝桜に一番の逞(たくま)しさを覚える。何れも樹齢千年を超えるといわれているが、滝桜の逞しさ、力強さは、一等上のように思う。逞しいとはいうけれど、その逞しさは男の側のものではない。女性の側のものである。それは、この木が紅枝垂れという美しい品種であるからだ。滝のように花がこぼれ咲くというところから、滝桜の呼び名が自然と発せられるようになったと聞くが、まさにその通りだと思う。人々のこの桜を見る思いは、皆同じだったのだと思う。逞しい女王の貫禄を示して充分である。

  

今年の、今日の滝桜の姿。満開を少し過ぎているけど、平日の今日も万単位の人たちが訪れて、その美しさを堪能していた。

今は直ぐ近くがダム湖となってしまった山間(やまあい)で、簡単にやってこられる道が通じているけど、江戸の時代頃は、この辺はかなりの山の中という印象だったから、恐らく現代で言えば、屋久島の縄文杉のような存在として、滝桜は崇(あが)められていたに違いない。千年を超えるような生き物に対しては、人間は崇敬(すうけい)の念を抱くのが当然であろう。そのようなことを無視したバカ者といえば、日本の歴史上最大の成上がり者である太閤秀吉しかいない。彼が屋久島の杉などを伐り取らせた話は有名だ。桜の木がバカ者の対象でなくて良かった。

滝桜は、三方を丘に囲まれたその中心にあって、北風を避け、日の光を一杯に受け止めることが出来るポジションに在る。何という天の配慮なのかと思う。良くぞこの場所に生を受けたと思う。この場所であったればこそ、千年の齢(よわい)を重ねても尚逞しさを保っておられるのではないか。生命(いのち)には、どうやら天の配慮というものが大きく関わっているらしい。滝桜には、このあとも更に千年以上その天の配剤を受け止めて生き続けて欲しいなと思った。

 

滝桜と付近の景観。桜源郷の趣がある景観が広がっている人々は一時の癒しの時間を求めてここへやってくる。我もまた同じ。

滝桜保存会の記念碑が印象に残った。いい詩である。

  耐雪堪風幾百年

 千枝万葉盛依然

 滝桜花麗人歎賞

 老樹之名永劫伝

※ 昨日まで2日かけて滝桜見物に行って来ました。幾つか感じたことをこのあとも掲載させて頂きます。

 

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滝桜見物へ

2008-04-21 00:25:15 | 宵宵妄話

今日か3日間、福島県三春町の滝桜やその娘の地蔵桜などの見物に出かけます。既に満開となっており、もう散り始めているかもしれません。今日は喜連川の露天風呂に浸かって、古希肩(?)の不愉快な痛みを鎮め、明日とあさってが桜見物です。ブログは休むつもりですが、気が向いたら携帯電話で投稿することにします。桜見物の記事は、戻ってから載せようと考えています。

いよいよ春の旅の季節となりました。来週からは、東北は山形県の置賜地方(南部米沢市を中心とするエリアですが、桜は長井市付近に名木が多い)の桜を見てから日本海側に出て北陸を南下し、琵琶湖の湖西、マキノ町(高島市)で開かれるHMCCの大会に参加し、そのあと南紀経由で東海道を下って(いまは上って、となるのかな?)藤枝に寄って家内の母を拾って帰宅する予定です。約半月の行程です。この季節は何時もは東北の春を訪ねるのですが、今年は久しぶりに逆方向への旅の予定となりました。

 

今日の野の花は、ハハコグサです。ハハコグサというのは、母子草と書くようです。この花がどうしてハハコグサと呼ばれるようになったのかは解りませんが、一説では草全体が薄い綿毛のようなものでけばだっているので、ほおけだって(=けばだっているの意)いる草という発音が転訛して、ははこくさとなったとか。

この花は春の七草の中で、オギョウ(御形)と呼ばれているのをご存知でしょうか。食べても決して旨いとは思えません。冬の間も頑張って元気にしているのを見かけますから、七草の中に選ばれたのでしょう。

ハハコグサの花言葉には、「いつも想う」とありました。母が子を想う心情を表わしているのかも知れません。道路の脇や庭の隅などの、どこにでも見かける、気にもならない雑草ですが、春になって黄色の仁丹粒のような花を見ると、この花に亡き母の優しさを思い出します。

余談ですが、チチコグサ(父子草)というのもあります。これはハハコグサと比べて格段に地味な存在で、カメラを向ける気も起こらないほどです。父と子の関係は、ま、そのようなものかも知れません。

     

近くの道端の草むらにあったハハコグサの一株。いつもは色あせた感じで疲れ切って咲いているのが多いのですが、今頃の花には、春を喜ぶ若さが輝いているようです。

 

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花の殺戮者を許すな!

2008-04-20 00:45:28 | 宵宵妄話

気が狂っているとしか言いようが無い。今日(4/19)の朝日新聞の社会面を見ていたら、群馬県の前橋市でのチューリップ荒らしの他、別の地域でも同様の事件が何箇所かで起きていることが報じられていた。まったく、何たることか。

落花狼藉(らっかろうぜき)ということばがある。文字通り、花を踏みしだいて散乱させている状況を表わすことばだが、一般的には比較的軽い意味で使われていることが多いようだ。現在頻発しているという、花を切ったり、踏みにじったりする行為は、落花狼藉ということばのレベルをはるかに超えた悪質極まりないものだと断言したい。ちょっとした悪戯(ふざ)けなどとは、本質的に異なっている。

花盗人は罰せず、というような考え方もあるが、この場合の盗人には幾分かの風流を許すという世間の目がある。花を盗るというのは、犯罪には違いないけれど、ほんの少し、一枝くらいならまあいいじゃないかという認識である。しかし、これが大量となれば、もはや許せるものではなく、明らかに罰しなければならない犯罪となる。

今起こっているチューリップ荒らしは、風流などとは全く無関係のいわば、花の殺戮(さつりく)行為であり、善意の人間を踏みにじる劣悪な犯罪行為である。反社会的な、思い上がりの行為であり、断じてこのような振舞いを許してはならない。

一体どのような奴が、これほど酷い行為を行っているのだろうか。それは犯人を捕まえて、厳しく糾弾しなければ解らないことではあるが、私として思うのは、この種の犯罪は一種の社会病理現象なのではないかということである。

このような行為を行う者には、大別すると2種類あると思う。その一つは、世間知らずの無知な者によるもので、一人というよりも集団で大した罪悪感など感ぜずに、半ば面白半分で悪さをしている場合である。その多くは年齢の若い者だと思う。いい加減な親といい加減な仲間たちに取り囲まれて育ち、世の中のことなどは「関係ねえ」などと抜かして、嘯(うそぶ)いている若者は、掃いて捨てるほど居る。或いは一見真面目に働いているようで、仲間と一緒になると平気で悪さを悪さとも思わなくなる奴も結構多いのではないか。皆で一杯やった後で、ちょっといい気になって、咲いている花を蹴飛ばしたり、ぶった切ったりするような行為である。これらはいずれも世の中を解っていない。無知な、未熟さのなせる行為なのではないか。成人には達していても、社会との関わりを安易な自己中心の発想でしか見ることが出来ない、この種の無知な人間は、今の世に溢れている。

もう一つは、欲求不満を膨らませた陰湿な代償行為である。一種の八つ当たり行為なのだが、今の世の中、欲求不満のない者など居るはずが無い。不満耐性の無い人間は、己の不満の捌()け口として、自分よりも弱いと思うものを虐(いじ)めるのである。チューリップを刃物でスパッと切ることで憂さが晴れるのであろう。2000本近くも切るというのは、度を越えた陰湿な企みというしかない。目立つ行為をすることによって、名を上げようなどというのも、欲求不満のなせる業なのかも知れない。

これらの行為は、今の世が病んでいることの表われではないか。社会病理現象というのは、そのことを意味している。大変に根の深い問題だと思う。その根っ子が何なのかを明らかにして取り組まない限り、この種の問題行為はこの後も様々な形で現れてくるのではないか。

その解決法について提言する力は無いけど、とりあえずの要望としては、このような行為に対しては、厳しく処断して貰いたい。最近の日本は、法治国家としてのタガが緩(ゆる)んでいるのではないか。多発する犯罪に対する警察の対応が遅れるのは、法律が甘すぎるからではないか。法務大臣が死刑執行に印鑑を押し過ぎるとの批判があるようだが、冤罪の疑いの余地の無い犯罪に対しては、早過ぎるなどという評価は全く成り立たないと思う。死刑廃止論をバカにはしないけど、そもそも生きた人間の人権をぶち壊した奴の生命の尊厳などという発想は、人権が何かということを知らない奴の戯言(たわごと)としか思えない。

少し脱線しかけたが、今回の花荒らし行為に対しては、単なる器物損壊罪などということでお茶を濁さぬように、厳しくその罪を問うて貰いたい。2000本のチューリップを切った奴には、刑務所の中で2000本のチューリップを育てさせるというような裁きをして貰いたいものである。既存の法律と首っ引きでしか裁きができない今の世は、この後益々末世のカオスの中に向かって速度を増してゆくのではないか。

ガッカリするやら、腹が立つやら。家にくすぶっていると、心は少しも豊かにならず、痩せて苛立つばかりである。旅に出たい。

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