山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

スマホに替えて思うこと

2020-02-01 02:43:48 | 宵宵妄話

最近、一つ強く思ったことがある。10日ほど前、いわゆるガラケ―という奴をスマホに切り替えた。ガラケ―にはもう長いことお世話になっており、可能な限りこの後も使わせて貰おうと考えていたのだが、先日突然画面が消えて何も見えなくなり、慌ててドコモショップへ駆けつけ調べて貰った。結果はどうやらバッテリーの不調にあったらしく、担当女性の方が少し入れ替えたりしていじったら、すぐに元に戻った。先ずは一安心したのだが、へたってきたバッテリーなどの部品は、もう間もなく補給されなくなるという。つまりこの先の修理は、不可能となるということ。もうガラケ―は使えなくなるということなのだ。進化する一方のスマホの世界から見れば、ガラケ―などの通信機器はとっくに時代遅れになっているということらしい。ま、世の中の進歩というのは、古いものを破壊し捨て去ることによって成り立つという側面が大きいのだから、それは不可抗力で仕方のないことなのかもしれない。どんなに理屈を言って抵抗してみたところで、それが通じるような世の中ではないのである。

ということで、スマホに切り替えることにした。老人向きにらくらくスマホとかいうのがあって、その方が使い勝手がいいらしいのだが、自分は身体的なことは別として、死ぬまで老人ではないという強い意識を持っているので、敢えて老人向きというものには目を向けないようにしている。どうせ初めて取り組むのだから、フルスペックの機器へのチャレンジの方が遣り甲斐があるというものであろう。ま、これはまさに老人の見栄という奴なのだろうけど、見栄がある内は華というものだ。

ということで、スマホに切り替えたのだが、今まで一度も触ったことがない。知人が使っているのを横見したことはあるけど、自在に拡大縮小される文字や画像などを見て、はあ、便利になったものだなと思うだけだった。それが、今度は自分が主役で使ってゆかなければならない。覚悟をして、先ずは新人向けに開設しているスマホ教室というのに通うことにした。既に4回ほど通っている。電話やメールなどの基本的な取り扱いを学んで、ガラケ―で使っていた機能のレベルは大体使えるようになった。と言っても教室で教わっただけでは不十分であって、その後での試行錯誤の積み上げの結果、扱う力がちょっぴり向上したからである。とにかく触って動かして見ない限り、少しも進歩しないのだ。夜中に悪戦苦闘しながら何とか日常必要最低限の機能を使えるようにはなった。しかし、まだまだ課題は幾つも残っている。情報に関して、スマホで何でもできるのならば、例えばブログの投稿作業や文書の作成などもやってしまったらどうかなどと考えている。そうすれば重いパソコンなどを抱えて旅に出かけなくても良いようになる。そのようなことを考えたりしている。

しかし一方で疑問が膨らんで来ている。待てよ、これはもしかしたら利便性に釣られてスマホ病に向かっているのではないか?こんな調子でやって行ったら、スマホに操られる世界に入って行ってしまうのではないか。という疑念なのだ。情報というのはあくまでも自分が必要なものだけが大事なのであって、情報に振り回されるようになったら自分を見失うことになる。

世の中にはロクにものを知ってもいないくせに、借りて来た情報に踊らされて、恰も自分がその情報の主になっているかのように振舞っている奴が、掃いて捨てるほどいる。また、四六時中スマホに触っていないと落ち着かない人間も掃いて捨てるほど生まれている。偶に電車に乗ると、8割方はスマホに取りつかれている景色がそこにある。昔、歩きながら本を読んでいて電柱にぶつかったことが何度もあるが、今は自転車や車に乗っているのに、スマホに取りつかれて事故を起こしている人間が増えている。これらは、明らかに社会病理現象というものであろう。

自分は今、もしかしたらその病の入口にいるのかもしれない。あまり利便性に釣られるのは危険だなと、そう思ったりするのだ。実際、スマホのマップなどを試してみると、驚くほどの機能が詰まっている。地図を見るだけではなく、付近にある必要と思われる数多くの情報が提示されるし、そこへ行くまでの経路や交通機関や必要時間までが明示されるようになっている。しかも画像付きなのだ。これでもか、これでもかと利便性が追求されている。この利便性を安易に批判することはできないと思うけど、何だか行き過ぎている感じを拭えない。使い方の選択を誤ると、犯罪が発生する源ともなりかねない。それは、マップだけの問題ではない。使う者の顔が見えないからだ。プライバシーの保護などと言っているけど、このような機能は、保護の膜を簡単に破ってしまうのではないか。そのような危険性も考えてしまう。まだまだどのようなソフトがあり、どのように活用できるのか判らないのだが、どうやらガラケ―のレベルくらいで止まっていた方が、スマホ病に巻き込まれないようだ。

70年前を振り返って考えてみる。戦後間もない頃の世の中は、今では想像もできないほど貧しかった。暮らしのインフラも食物も移動手段も粗末なものだった。しかし、心の世界まで貧しかったのかといえば、決してそのようなことはない。むしろ物質の面が豊かになるにつれて、心は貧しさの方に向かって動いて来ている感じがする。「もはや戦後ではない」と経済白書が述べた頃から高度経済成長が始まり、バブルがはじけるまでには人々は豊かさの中で更なる甘い夢を見ていたようだ。それが終わる頃になってIT技術革新による高度情報化社会が出現し、今もその中にいるようなのだが、この一連の時間経過の中で、心は貧しくなる一方で、過去に無かったような複雑な問題を生み続けている。国際的に見ても政治の世界は自国や民族の利益追求ばかりを強調していて、平和が幻想であることを証明しているかのようだ。未来は暗い波乱含みとしか思えない。

スマホを手にして、さて、この利便性の一杯詰まったツールは、果たして未来を心豊かにしてくれるのに役立つのだろうか?と思う。勿論、どう使うかは己自身の問題なのだが。 今しばらくはこの小さなツールに操られるとして、この先或るレベルまで届いたら、この不安な未来を象徴する危険なツールは、自分のコントロールできる支配下におかなければならないなと、強く思っている。

コメント (3)
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