山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

西(奥)会津の新緑を訪ねる 

2023-05-28 04:26:32 | くるま旅くらしの話

 先月に引き続き近場への旅をすることにして、会津西部すなわち奥会津ということになるのだが、そこの新緑を訪ねて来た。その時の記録である。

 元々は家内が昨年の秋JR只見線がようやく復旧したのを知り、それを訪ねたいというので、当初は只見線に乗車して沿線の景色を味わおうと考えたのだが、調べて見ると、特別ダイヤの観光列車は土・日休日の一往復しか運行しておらず、平日は乗車を予定していた柳津駅では只見駅まではたった1本/1日しか走っておらず、往路は良いのだが、只見駅からの復路は午後遅い1本だけなので、このチャレンジは無理だと判断し、只見線の近くを走る道路を車で見ることにしようと決めたのだった。

というのも、何年か前に新潟県の八十里越のトンネルを抜けて只見町へ出て来て、会津若松に向かう途中に、家内が傍を通っている鉄道の線路が、橋の途中で無くなっているのに気づいて、それが強く印象付けられており、その後で台風や大雨の被害を蒙って只見線が不通になっていたのを知り、復旧後のあの場所の様子を見て見たいという話から始まった今回の旅なのである。

 計画は、第1日は先ず会津柳津まで行って道の駅に泊り、翌日只見駅まで沿線の景色を見ながら往復してその夜は山奥に入って昭和村にある道の駅:からむし織の里しょうわに泊り、3日目はこの村にあるキャンプ場に泊って焚火などを楽しみ、4日目は山を降りて会津西街道を走って日光まで行き、日光の道の駅に泊り、翌朝杉並木を散策して味わい、その後はさくら市の喜連川温泉に行って温泉を味わって泊り、翌日に帰宅するというものだった。

 このような行程を描いていたのだが、いつ出発するかは未定で旅の間の天気の状態を見て決めることにしていた。予報ではどうやら16日からがよさそうなので、前日の15日になって明日出発することを決めたのだった。家内は、今回の旅はもっと先の出発だと考えていたようで、準備などの考えも無いまま、急な出発に戸惑いがあったようだった。それでも何とか準備を終えての出発となった。

 初日。昨日までグズついていた天気は回復し上天気の朝となっていた。今日は高速道を走って柳津の道の駅に泊るだけの行程なので、出発は11時半過ぎとなった。家からはR294を北上し、真岡市内の真岡ICから北関東道に入り、栃木都賀JCTで東北道に入って暫く走り、郡山JCTから磐越道に入り、会津坂下ICで降りて柳津の道の駅がゴールとなる。どの道も大した混雑もなく順調に走って、柳津の道の駅に着いたのは18時少し前だった。途中良い天気には文句無しなのだが、暑さには閉口した。道の駅の売店はすでに終了。暑さも収まって来ていて、先ずはビールで乾杯して夜を迎えることとなった。広い駐車場には自分達の他は1~2台しか泊りは居なかった様だ。19時過ぎには寝床に入り、そのまま熟睡となる。夜中にトイレに行くのは面倒なのだが、この生理的欲求に逆らうことはできず、馴れて来たのかこの頃は余り苦にしなくなって来ている。

 2日目の朝となった。5時には目覚めて、寝ている家内のことは気にしないことにして、一人付近の散策に出かけることにした。この町には日本三大虚空蔵尊の一つの福満虚空蔵菩薩圓蔵寺がある。何年か前に参詣したことがあるのだが、町中を歩いた時間が少しだったので、その様子はあまり記憶に残っていない。道の駅から圓蔵寺までは大した距離でもなさそうなので、行ってみることにした。近くに只見川が流れており、どうやらこの辺りは川が曲がって淵をつくっているらしく、朱色の橋が目立っている。その川のほとりに遊歩道がつくられており、道の案内板も整備されており、福満虚空蔵菩薩圓蔵寺は直ぐに分かった。寺は大きな崖の上に建っており、急な階段を登らなければならない。とにかく行ってみることにして、階段を上って境内に入ろうとしたのだが、あまり早く来ているため入口は閉ざされていて中に入ることはできなかった。止むなく引き返すことにした。道の脇に魚淵とか観光船乗り場などがあり、なかなか面白い場所だなと思った。そういえばここは温泉郷があり、そのための旅館も何軒か軒を連ねていた。宿に泊って温泉を味わいゆっくりするのもいいなと思いながら車に戻る。今日も快晴で、朝はピリッとした冷気があるけど、日中はかなり暑くなるのだろうなと思った。

 9時過ぎに出発して、直ぐに只見の方へ向かう前に、折角来たのだから圓蔵寺に参詣して行こうと考え、寄ることにした。今度は門も入り口も問題なく境内に入ることが出来て、本堂に参詣する。日本三大虚空蔵尊の一つとあって、さすがに貫禄充分の建物だ。かの有名な越後の良寛和尚様もここに参詣に来ておられるとか。往時は日本各地からの尊崇を集めていたのだろうと思った。境内には、牛の像が幾つかあり、撫でられて光っていた。柳津は会津の代表的民芸品の「あかべこ」の発祥の地だと聞いているが、かつてこの圓蔵寺が大災害を受けて建物が壊れてしまった折に、その復興に赤牛がやって来て大いに尽力したとかの伝説が残っているらしい。昔は牛馬の力は人間に大いに貢献していたのだ。今は牛は食材となってしまい、馬は競馬の他は用無しの様な存在となってしまっている。人間というのは真に罰当りの生き物なのだなと思った。

 参詣を終えたあとは、R252を只見町の方へ走って、途中道の駅:尾瀬街道みしま宿に立ち寄る。ここで、この地に湧出する全国でも珍しいという炭酸水を買う。どんなものか味わってみたいと思った。そのあと只見の方に向かったのだが、ここで大失敗をやらかしてしまった。うっかりして車のバックドアを開けたまま5分ほど走ってしまったのだ。家内に注意されて慌てて道脇に車を止めて閉めたのだが、あとで気づいたのだが、この時に車のサンシェードを落としてしまったのだった。全部で10枚ほどある内の3枚を無くしてしまった。とんだ大チョンボだった。(この時は気づかず夜になって寝る準備の時に初めて気づいたのである)

 その後は両端の緑鮮やかな道を順調に走って、昼近くなって道の駅:奥会津かなやまに到着。途中近くを只見線が走っているはずなのだが、樹木たちに囲まれて見ることはできなかった。道の駅に寄って大休止。昼食をとることにした。食堂で会津のソ―ズカツ丼のメニューがあったのでそれを注文。家内は歯の問題があるので蕎麦の類をオーダーしていた。食べている内にカツ丼のカツを見ていた家内が、試しにカツを食べるのに挑戦してみたいというので、一つ提供したら、大丈夫食べられるというので、結局蕎麦と交換して食べることとなった。長いこと好きな肉類を食べられずにいたのが、治療もかなり進んできたので、チャレンジしてみたくなったらしい。自分は我慢して譲ることにした。歯の治療のためにかなり体重も減ってしまっていたので、これで回復に向かえることになるのであろう。治療は未だ完全ではないけど、光が見えて来たようだ。

 食事が終って、この先只見まで行くと言っても、以前途切れていた線路があった場所が見られるのかどうか判らないので、ここまで来た同じような緑の景色の中を走るだけではつまらないので、行くのは止めて、今日の泊りを予定していた道の駅:からむし織の里しょうわへ行くことにした。川口から山の中を走るR400に入って暫く緑のトンネルを味わう。その途中で、今夜は道の駅の宿泊ではなく予定を繰り上げ変更してキャンプ場に泊ることにしようと考え、道の駅に着いたらキャンプ場に都合を訊いてみることにした。14時過ぎ道の駅に着いて、気になっていた「からむし」とは何のことなのだろうと思ったら、やはり青苧(あおそ)のことだった。草の繊維を利用して着衣類の製品を作るのである。帽子などの製品が販売されていたが、超高価でとても買うのは無理だなと思った。この辺りでは昔から青苧が多く栽培されていたのであろう。道の駅の名に使うほどなら、もっと青苧の製品を増やして価格を低くするなどの工夫をしなければ、来訪者はがっかりするだけだなと思った。キャンプ場に電話をしたら、OKということなので、行くことにした。昭和の森キャンプ場は、道の駅から5分ほどの至近な場所にあった。

受付を済ませ車を所定の場所に止める。まだ日は高く猛暑の夏日の様相をしていた。一応キャンプを予定して焚火の用具やダッチオーブンなどを持参しているのだが、それらは日が落ちる頃から活躍することになる。暫く涼を求めての待機の時間となった。ところで、用具は持って来たものの調理の具材が無いのだ。途中の道の駅の売店で手に入れようと考えていたのだが、売っていたのはワラビやゼンマイなどの山菜類だけで、肉も根采類もどこにもなかったのである。僅かに持参したサツマイモが半分とそれにジャガイモが1個だけなのである。仕方がないのでそれだけで何とかすることにした。

 少し暑さが和らぎ始めたのでサンシェードを取り付けようとした時、この時になって落下紛失を知ったのだった。真にドジの連続であった。やがて日が落ちて涼しくなり出したので、焚火台を取り出し持参した薪を燃やし、ダッチオーブンにたった2種類のイモを薄く切って量を増やし(?)、火にかける。30分も掛らずにイモ類は出来上がり、冷えたビールは無いのでお茶で乾杯となる。ま、極めて変則的な夕食となった。それでも焚火を囲んでのひと時はキャンプの雰囲気にはなったのである。

 やがて夜を迎え、寝床に入ったのだが、近くに照明が無かったのが幸いして、シェードの無い窓でも、ガラス越しに星が見えたりして睡眠の邪魔にはならなかった。真夜中になって、満天に星が煌めき時折流れ星が光るのを見て、家内は大いに感動していたようだった。怪我の功名という奴なのかもしれない。とにかくこの星空は都市部では決して見ることができない、この森の中での天からのの贈り物なのだった。

 翌朝の杜の中のキャンプ場は、泊っていたのは自分達の他は軽自動車で来た二組だけで、真に静かな雰囲気だった。夜中にずっと鳴き続けていた蛙たちも合唱を止めて、名も知らぬ小鳥たちが囀(さえず)っていた。やっぱりキャンプはいいなあと、あらためて実感したひと時だった。

 朝食のあとは焚火などの片づけをして出発の準備をする。今日の予定は、この山を降りて会津西街道を日光まで行き、日光の道の駅に泊ることにしている。9時過ぎに出発して、先ずは道の駅:からむし織の里でトイレを済ませ、新緑に溢れたR400を田島の方へ下る。1時間ほどで田島の町に出て、少し心配が出て来ていた給油を済ます。ガソリンの価格が181円/Lと高速道並みなのには驚かされた。少し走ってR121へ出て、道の駅:たじまで小休止。ここで孫たちに「あかべこ」のストラップを買う。小学生の孫たちもいつの日か「あかべこ」のことを知る時が来るのだろうか?これからの未来は不安で一杯だ。傘寿を超えたジジイには、明るい未来展望は次第に消滅しつつある。

 その後は会津西街道をしばらく走って、途中の道の駅:湯西川に寄る。ここで家内がこの奥の方に平家の落ち武者の集落があるというのを訊いて、そこまで行って見ることにする。野次馬根性発揮である。直ぐに出発して、湯西川ダム湖の山を貫く幾つものトンネルを潜って、湯西川温泉郷に出る。平家の里という施設は、温泉郷の先の方にあった。この手の施設には自分はあまり興味が無いので、家内だけが中に入り、自分は外の駐車場で待つことにした。1時間ほど待っていたが、この間に気温はぐんぐん上がり、車内は40℃以上になった。猛暑である。時々森の中に避難した。やがて家内が帰ってきたが、どうやら期待していたような中身ではなかった様である。このもっと山奥の方に平家狩人の村というのがあるようだが、そこの方が良かったのかなと思った。いずれにしても自分は太古の勢力争いの戦に敗れた人たちのなれの果ての住み家や暮らしには触れたくないのである。

 その後は来た道を戻って、道の駅にある食堂で昼食。ダムカレーというのをオーダーした。久しぶりに懐かしい田舎の黄色いカレーを食した。昔、母が小麦粉にカレー粉を入れて作ってくれたあの雰囲気だった。少し休んだあと出発する。この分だと日光にはかなり早く着いてしまいそうで、あそこの道の駅は混んでいるのではないかと考え、その前に塩谷町の道の駅へ寄ってゆくことにして向かった。14時には到着してしまった。夏日の太陽が容赦無く熱気を降り注いでいた。この町は自分の尊敬する偉大な演歌作曲家の船村徹先生の出身地である。道の駅には様々な種類の野菜などが溢れていた。外の売り場には野草が置かれており、鮮やかな紫色のホタルブクロが目にとまり、それが欲しくなって買い求めた。家に持ち帰って地植えにすることにした。

 しばらく休んだが、ここに何時までもいることもできないので、直ぐに出発して、日光の道の駅に向かう。14時半には着いてしまった。案の定駐車場は満車に近い状態となっており、車を止めるのに苦労した。この道の駅に隣接して、船村徹記念館という施設があり、今まで入ったことが無かったので、入って見ることにした。実は船村先生の作品のCDなどが販売されているのを期待していたのだが、残念ながらこの記念館はその種の営業などは一切しておらず、純粋な船村徹記念館だった。3階建の建物の中には先生に関わる様々な情報が順序良く展示紹介されていた。

 30分ほどで見学を終えて外の広場の隅のベンチで暑さを避けながら日が落ちるのを待つことにした。17時半を過ぎてようやくほんの少し涼しさがやってきた。車に戻り窓を全開放して、近くのコンビニでビールを買い求めて乾杯することにした。暑さを耐え忍んだこの一杯は美味かった。19時を過ぎると駐車の車も少なくなり静かになり出した。寝ることにした。とにかく今日は暑かった。都会の真ん中はやっぱり人間という生き物でも住むところではないなとしみじみ思った。昨夜が懐かしく甦った。

 3日目の朝となった。朝の遅い家内も6時過ぎには目覚めて、7時に、近くにある杉並木の街道を歩きに出発する。わざわざ日光へ来たのは、この朝の散策のためなのだ。日光には名所と言われるものが数多くあるのだけど、それらにはあまり関心が無くなっていて、この杉並木の散策だけが最大の楽しみなのである。何年か前に日光に新しい道の駅ができたと聞いて訪ねて泊った朝、自分一人が早朝に付近を歩きまわっている時に、近くに杉並木があるのに気がついて、都市部の中にもこんなに素晴らしい散歩道があるのに感動して、それ以来ここに来た時には朝の散策を楽しみにするようになったのである。この素晴らしさに気づいている人は、自分たちの他にはもしかしたら誰もいないのかもしれない。日光在住の人でさえもいないのかも。というのも散策の途中出会った人が一人もいないのである。

 ということで、7時に散策に出発する。コロナなどの所為で旅を中断していたから5年ぶりとなるのかもしれない。少し歩いて、杉並木に入る。すぐ脇に車が走る道があるのだけど今の時間帯は殆ど走っていないので、静かである。杉の大木は、様々な姿で立ち並んでいる。皆同じではないのだ。400年もの間ここに立って、人間どもの振る舞いを見て来たのである。それぞれの木に何とも言えない貫禄がある。この歳になると、杉も花粉をまき散らすなどという小細工はしないのであろう。むしろ清々しく浄化された空気を辺りに満たしている感じがするのだ。この大木の間の道を歩くとそのことがはっきりと身に感じられるのである。歩き過ぎると、家内の帰りが心配なので、1時間ほどで車に戻れるように折り返しの場所を決めての歩きだった。この貴重な散策を十分に堪能して、車に戻り朝食とする。

 さて、今日はこの後どうするか。真っ直ぐ帰宅する気にはなれないので、今日はさくら市の喜連川温泉に行き、一晩泊って明日帰宅することにしようと決めての出発となった。さくら市は思ったよりも近くて、11時には喜連川の道の駅に着いてしまった。しばらく売店を覗いた後、温泉に行こうとしたら、家内は入浴は遠慮するという。しばらく思案の後、取り敢えず自分だけが旅の汗を落とし、泊るの止めて帰宅することにした。家内の体調は自分と同じではないので、とにかく無理を強いることは止めにした。

 喜連川から我が家までは3時間弱の行程である。夕刻前には着くことができる。ということで13時少し前に出発。途中芳賀町の道の駅近くで雨が降ってきた。直ぐに止むのかと思っていたら、とんでもない。ますます強く降り出したのだった。芳賀の道の駅で最後の野菜類の買い物を済ませ、その後は一路只管に雨の中を我が家まで走り、家に着いたのは16時少し前だった。

 降りしきる雨の中で荷物を下ろし、風呂に入って一息ついたのは18時頃だった。やれやれである。3泊4日、走行約650kmの短い旅であった。(終)

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