山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第6回)

2013-08-30 18:30:01 | 筑波山登山の記

 <第6回 登山日 2013年8月29日(木)>

 8月に入っていよいよ夏は本番となり、毎日暑い日が続いた。登山どころではないと考える一方で、しかし早朝ならば涼しいから大丈夫ではないかと思い迷いながら、結局は日中の猛暑に辟易して登山の方はしばらく控えることにした。そうこうしている内に、たちまち1カ月以上が過ぎてしまった。ここ2~3日は、秋の涼しさを感じさせる日が続き、ずっと空を覆い続けていた雲の霞みも取れて、本物の青空が見えて来たので、これなら大丈夫だろうと、今日の登山となった。いつの間にか8月もあと3日で終わりとなるほどに時間が過ぎてしまった。久しぶりの筑波山登山である。

登山は控えてはいたものの、毎朝の鍛錬のための歩きの方は続けており、ここ1カ月はリュックを背負うのは止めて、少し負荷を軽くして、その分歩く距離を長めにしている。下部の足の方は、登山靴はそのままで、両足首の負荷も1kgずつはずっと同じなのだが、上部の方は、手に持つ方の負荷を増やし、左右に2kgの鉄アレイを持ちながら、これをいろいろなパターンで動かしながら歩いて、胸や腕の筋肉の鍛錬をしながら歩くようにしている。計6kgの負荷をかけての歩きなのだが、最初は少し厳しかったけど、次第に馴れて来て、今ではさほど負担を感じなくなってきている。胸の辺りがタプタプと動くほど締りが無かった上半身が、今はかなりスッキリして来ており、継続は力なりなのだなと、改めて感じているこの頃なのである。だから、1カ月以上の登山の空白があっても体力や脚力にはそれほど不安はない。

ということで、今回は早朝4時の出発となる。コースはいつもと同じ筑波山神社脇の登山口からである。新しいコースへのチャレンジは、秋が深まって日中のハイキング登山が出来るようになってからと考えている。前回は3時頃の出発だったが、あれから1カ月以上が経って、その時から比べると今はかなり日の出が遅くなっており、登山での足元の安全が確認できるのは5時頃からではないかと考えての出発だった。ヘッドランプを点けて登山をするほどの意気ごみはなく、自分の場合の登山は、あくまでも身体を鍛えて体力と健康を維持し、PPK(ピン、ピン、コロリ)を実現するための老計の一端なのである。だから、とにかく継続することに意義があるのであり、あまり無理をせずに、かといって自分を甘えさせることもなく、体力の限界を鍛え保持して行くことが大事なのだと思っている。山の魅力のとりこになるのであれば、同じ山に登るのではなく、百名山等にチャレンジするという様な道を選ぶのだと思うけど、自分にはそのような気持ちは皆無なのである。筑波山麓が近づいて、5時少し前になると一気に空が明るくなり出し、筑波山の二つの頂きが浮き上がって来た。いつもの駐車場に車を停め、直ぐに出発となる。

筑波山神社に参詣するのもこれで6度目となる。前回来た時は、辺りの杉林にひぐらし蝉の鳴き声が姦しかったが、今回はもうすっかり消え去って静かである。他の蝉類も未だ声を上げるほどには目覚めていないようである。神社脇のいつもの登山口から登り始める。先ずは調息である。出だしは息を整えるのに少し時間がかかる。スポーツや運動の中で一番大切なのは息(=呼吸)を整えることではないかと思っている。特に長時間の運動では呼吸の仕方が重要だ。若い頃はマラソンなどの長距離走に関心があり、その場合の呼吸の大切さを体験的にも承知しているけど、登山も又同じことが言えると思う。呼吸に合わせて一歩一歩を確実に進めてゆく。一歩一歩に合わせて呼吸を整えてゆく。これがどちらも揃った時に登山の呼吸のリズムが出来上がる。自分はそう思いながらゆっくりと歩きを開始するのである。10分位経つとどんな急坂でも登り続ける呼吸が出来上がるような気がする。剥き出しの杉の根と岩石の転がる登り坂を歩きながら、最初の10分が過ぎると、もう大丈夫、あとは捻挫などしないように注意深く歩を進めるだけという心境になる。それがこの頃の登山で感得していることである。

  

筑波山登山道の様子。左は登り始めの辺りで杉などの根が剥き出しとなっている。右は岩石の群がりの様子。意外にもこの山は岩石が多いのに驚かされる。

一歩一歩を味わうというのが登山の妙味なのかもしれない。73歳の同世代では、歩くことが困難だったりする人がかなりおられるのではないか。歩けなくなった動物の悲しみは、歩けるのが当たり前と考えている人間には解らないと思う。自分は、もうだいぶ前から歩ける喜びを味わえるようになった。糖尿病を宣告されて以来、20年以上も歩くことに努めていると、そこからたくさんの喜びを見出すことが出来るようになったのである。これは真にありがたいことである。毎日の散歩や歩行鍛錬でも、歩ける喜びを感じられるからこそ多少の厳しさ辛さなどは何でもない。他人(ひと)はそのような自分を意志が強いなどと言ってくれたりするけど、この執念は、喜びに支えられているからなのである。

今の世は、どちらかといえば、文明や科学の向かっている先が、「歩く」という動物としての基本動作すらも人間に忘れさせようとしている、そのような気がしてならない。100m先の店に買い物に行くにも車を使う、バイクを使う、自転車を使うというように、常に安楽を追求するのが当たり前となってきている。「楽して得する」のが万人の夢であり憧れなのか、はたまた人間の本性なのか、或いは文明の向かい先なのか。どうも良く解らない。そのような利便性追求の流れを是としたとしても、この頃の人間の生き方には、何だか利便を求める生き方の度が過ぎている感じがする。もっと動物として、己の身体を動かすことが必要なのではないか。汗をかくことが必要なのではないか。

安楽や利便性ばかりに溺れて身体を動かすことを怠けていると、そのハネ返りは高齢になってからやって来るに違いない。人間が動物なのだというのを忘れて安逸に溺れていると、やがては動物の最も基本的な動作である「歩く」ということに障害を来たすことになる危険性が大のような気がしている。加齢に従って、何やらサプリメントのようなものを摂取すればハッピーになれるかの如きコマーシャルがTVの画面を謳歌しているけど、そんな手軽な飲み物などで、身体が本当に求めているものをカバーすることなど出来るわけがない。コマーシャルを見ていると、そのサプリメントが功をなして元気が保たれているかの如き内容が殆どだけど、これは実際は逆なのであって、コマーシャルの出演者は元々健康に留意し、運動などを普段から心がけているから元気なのであって、だからサプリメントを飲んでも飲まなくても元々元気なのである。横着をしていて良い結果だけを求めてもサプリメントや薬だけで目的が叶うことなどあるわけがない。あまりに錯覚を煽ぎ立てているのを見ていると、危険すら感ずる。人間は機械ではなく、油を指せば回転が滑らかになるなどという単純な身体の仕組みではないのである。もっともっと複雑で、それは個々人の不断の心掛けの積み上げ、或いは無為の積み重ねによって現在がもたらされ、将来が決まって行くのだと思う。  あれれ、又何だか話が変な方向へ行ってしまった。一歩一歩自分の歩みを確かめながら、坂道を登っていると、楽をして良い結果だけを求めようとしている同世代の人たちに、余計なおせっかいのアドバイスをしたくなってくるのである。悪い癖なのかもしれない。

(閑話休題)

今日の目的は女体山山頂である。6時25分に御幸ヶ原のケーブルカー脇に出て、そこから15分ほど更に登り続けて、頂上に到着する。山頂に立ついというのは、どんな山でも丘でも感動を伴う瞬間である。今日は良い天気なので、見事な眺望を期待していたのだったが、東半分は雲の海ばかりで、霞ヶ浦の輝きも見えず、残り半分の西側の方は、下界の少し色づいた田んぼなどが広がって見えたけど、遠く見えるはずの富士山は雲に隠れて見えなかった。ちょっぴり残念感を覚えた。やはり暑さのせいなのであろうか。上空の空気は膨らみ過ぎて雲の呪縛から逃れられないようだ。本物の秋が来たなら変わるはずだと思った。もう少しの辛抱だ。涼しさや寒さに期待するしかない。

    

筑波山女体山頂からの雲海の広がり。太陽の向こうの方には霞ヶ浦が見える筈なのだが、今日は雲の下のようだった。

    

筑波山女体山頂からの西側、つくば市外の田園風景の俯瞰。田んぼが色づいているのが判る。

5分ほど休んで下山開始。女体山の山頂は岩石が多く、狭くて、直ぐ下に神社の御本殿があり落ち着かない。男体山頂の方の御本殿は頂上にあるのだけど、女体山は違うのである。神様の住まいを見下ろして裸になって汗を拭くなどは、恐れ多いことではある。それで、御幸ヶ原迄下りて、汗をぬぐうことにした。御幸ヶ原近くのブナの木の下の灌木や笹藪の中には、キリギリスと思しき虫たちが横柄な声を振り上げて姦しかった。どうもこの虫は好きになれない。標高800mのこの辺りはかなり涼しくて、登りで掻いた汗は早や止まっている感じだった。これならシャツを着替えずにこのまま着て降りても、途中で乾いてしまうのではなどと横着を考えて、汗を拭うために一度脱いだシャツをもう一度着て下山を開始する。しかし、これはとんだ見当違いで、下山路でも汗をかいてしまい、麓の筑波山神社まで下りて来た時は、全身汗みずくとなってしまった。駐車場までゆっくり歩き、気持ち悪くなっている着衣を着替える。素っ裸になるわけにもゆかず、着替えには近くの簡易トイレを利用することにしたが、ここは水洗ではないため、異臭のみならずハエ等が多くて往生した。どうにか着替えが済んで、やれやれと帰途に就いた次第。

かくて6回目の筑波山登山は終りとなる。足の方は膝も含めて問題はなかったけど、ふくらはぎが少し痛くなっていた。いつもの歩行鍛錬では使わない筋肉に疲れが出たのであろう。これが無くなる様にするには、1週間ほど連続で登山にチャレンジする様なイベントを自分に課さなければダメなのかと思ったりしている。今回はこれで終わり。

登山らしからぬ、身勝手な所感の連続ばかりの、龍頭蛇尾のレポートとなったが、ま、お許しあれ。

    

筑波山女体山の御本殿。今回は頂上からの姿を撮ってみた。御本殿は、頂上の直ぐ下にあり、北側に位置している。登った証拠にと毎回必ず写真に残すことにしている。

 

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高度1950mの一夜

2013-08-21 02:13:18 | その他

  このところ絶えることなく灼熱地獄の毎日が続いており、連日何人かの犠牲者が出ているとの報道が止まない。その大半は老人であり、熱中症の警告が出てもそれが届かず、従わないのは、今の異常な暑さに気づかず、過去の経験の範囲で捉えている感覚が心のどこかに頑固に居座っているからなのかもしれない。エアコンを取り付けていながら、それを使わずに熱中症であの世に旅立つなどというのは、その証明のようにも思える、哀しい出来事である。

 今年の猛暑は、7月の初めにも押し寄せており、その時の暑さにうんざりして、ちょうど開花の最盛期を迎えていると聞くニッコウキスゲなどを見ようと、久しぶりに信州の霧ヶ峰、美ヶ原高原に出掛けたのだった。この時に泊った美ヶ原高原の道の駅の一夜のことを話して、あれから1カ月経って、日中の外出もままならぬほどの猛暑に耐えなければならない心の慰めにしたい。

 

茨城県の南部に位置する守谷市の高度は、僅かに海抜27mである。幸い太平洋岸からは70kmほど離れているので、どんな大規模な津波が来ても、ここまで押し寄せてくることは、まずなかろうとは思う。しかし、利根川とその支流の小貝川や鬼怒川に囲まれているので、川を伝って激震の波が逆流してくるようなことがあると、何らかの被害影響は避けられないのかもしれない。もしこの地が沿岸近くだったら、市街全体が津波の餌食になるに違いない。恐ろしいことである。この海抜27mというのは、気温と高度との関係で考えると、高度が100m上がるにつれて気温は1℃下がるというから、0.2℃くらいの影響力しかないことになる。

 その守谷市を離れて、暑さを逃れるために先日行った霧ケ峰高原は、標高1800mほどあり、泊った美ヶ原高原の道の駅:美ヶ原高原美術館は、何と1950mを超える高所に造られているのである。日本一高所の道の駅というのは、疑いもない事実である。前述の理屈から言えば、守谷市に比べて1923mも高い場所にあり、従って、気温は19.2℃も低いということになる。これはかなり優秀な冷蔵庫の能力に等しいと言えるかもしれない。

 先日高原に向かった時は、この気温差のことをあまり深く考えなかった。とにかくどこへ行っても暑いし、霧ケ峰高原への入口である長和町の道の駅に泊った夜も、夕刻になってもかなり蒸し暑かった。夜中に一雨来たのが幸いして、その後にようやく涼しくなったという按配だった。家を出る時には、半袖の着替えの他に念のために長袖のTシャツなどもバッグに入れたつもりだった。出発のドサクサの中で、しっかり確認もせずに、この暑さなのだから、高原で涼しいといっても、それほど大したことはなかろうとタカをくくっていたのである。

 翌日、霧ケ峰高原の車山の下方のニッコウキスゲのお花畑を見て歩いた時は、暑さはさほど感じなかったが、それでも日射しが厳しいので、日傘などを取り出しているご婦人も何人か見られて、がっかりしたりした。その後、八島湿原に行って木道を散策した時は、更に日射しが強くなっていて、これはかなりの暑さだった。下界の守谷市辺りから比べれば相当に涼しいのは分ったのだが、それが20℃近くもの差があるとは到底実感できな暑さだった。直射日光というのは、高度の理屈を超えた暑さを含み持っているのであろう。その昔、熱の伝わり方に輻射・伝道・対流の三つがあると学んだけど、高原のこのような場所でも暑いというのは、一体熱のどの性質が影響しているのか。暑くなるといつもそのようなことを考えたりしてしまう。

 さて、その夜は理想の安眠を求めて、ビーナスラインを走って高度2000mを超える地点を通過し、少し坂を下って目的の道の駅:美ヶ原高原美術館に着いた。ここに来るのは二度目である。高原美術館は、絵画の展示場ではなく、高原の大自然の中に造詣の美を競って、様々な形や彩(いろどり)をもった作品が数多く展示されているのである。全作品を丁寧に見て回ったら1日以上かかるに違いない。作品の点在する高原の展望は、遥かに北アルプスの山々や立山連峰、中央アルプスや南アルプスの峰々などが望見出来て、日本列島本州の背骨のつくり出す大自然の一大パノラマを、そのまま俯瞰できる、滅多にない贅沢な環境なのである。日中の暑さに雲が湧いたせいなのか、その日の夕方の景観は少し霞んでいて残念だったけど、そのスケールの大きさは、暑さに閉じ込められて家の中でチマチマした暮らしを余儀なくされていた、我が心を解き放してくれるのに十分だった。

 日が沈んで夕食時になると、涼しさは一気に増して、ビールを飲むにも差支えるほどのレベルになり出した。こんな時には早く寝るに限ると、喫食の後はTVを見るのも止めて、寝床に横たわった。寝入り端は良かったのだけど、さて、しばらく経つとまあ、寒いのである。寒くてたちまち目覚めたのだった。まだ22時を少し過ぎた時刻だった。確か家でいつも身にしているトレーナーを持参した筈だと、起き出してバッグの中を探ってみたのだが、無い。車に運び入れるのを忘れて来たようである。それじゃあ、長袖のTシャツがあるはずだと探したのだが、これも無い。何しろ家を出る時には猛暑の中だったので、入れたつもりが引出しの中に置いたままだったようで、持って来たのは皆半袖ばかりなのである。勿論掛け布団などは最初から持参していなかったし、予備の毛布も置いて来てしまった。出発前までシュラフを車の中に3個ほど入れていたのだが、邪魔になるからと、これらも皆家に置いてきたのだった。暖をとれるような着衣は皆無なのだった。いやあ、参った。

こんな時に慎重派の相棒は、上掛けの布団もちゃんと持参しており、タオルケットのようなものも用意していた。取り敢えずそれを貸して貰って身にまとったのだが、とてもとても、その夜の寒さを防ぐには不十分だった。特に下半身の方が寒くて、こちらの方は夏の風よけ用の薄いオーバーズボンを持参していたので、それを履いて寝ることにしたのだが、さほど寒さよけに役立つものではなかった。

 あれこれと何とか寒さに耐えようとその対策を考えたのだが、どうしようもなかった。気温は15℃くらいにはなっていたのではないか。対策の手だてが無ければ、あとはとにかく我慢するか、諦めて寒さを味わうしかない。まさか、凍死するということもあるまいと開き直ることにした。こうなると案外と諦めの利く方で、薄っぺらなタオルケットを身にまとって、朝までじっと我慢の時間だった。うつらうつらするものの、眠りに入ろうとすると寒さがぶるっと身を揺すって、目を開かせるのである。隣の相棒は、いとも快適そうに白河夜船のご機嫌の様子だった。この差が、人生における油断の差という奴なのであろう。今までそれほど開けっ広げに油断なしでここまでやって来たわけではないのだけど、自分にはこの種の油断は数え切れないほどあって、相棒からはいつも呆れ返られている。寒さに震えながら、明け方までその油断の報酬をあれこれと味わい、反省し続けたのだった。

 4時少し前には起き出し、車の外に出た。寒い。夜の名残りの星が空に煌めいていた。試しに温度計を出して計ってみると、10℃を切っていた。外気がこれくらいなのだから、車の中はやはり15~6℃だったのだと思う。守谷市などの下界は、熱帯夜レベルに違いないのを思うと、何だか優越感が膨らんで、昨夜の寒さに震えたことなどは、どこかへ飛んでしまったようだ。間もなく日が登るらしく、東の空の方がほんのりと赤みが射して来ていた。大急ぎでカメラを取りに車に戻り、御来光の良く拝める場所へと急ぐ。既に何人かの人たちがカメラを据えて日の出を待っていた。遠くの青黒い山々の頂きの連なりの手前に、幾重もの雲海が横たわっていた。それらの山の一点が赤く染まり膨らみ出すと、しばらくして、そこから黄金色の光が放たれて、幾筋もの光の線が空を彩った。御来光である。この景観は何度見ても神秘的であり、荘厳である。太陽信仰は人間の本性と深くかかわっているのではないかと、これを見る度に確信する気持ちになる。

     

道の駅:美ヶ原高原美術館の駐車場から見る御来光。ここは標高が1950mもあり、澄んだ空気の彼方から上がって来る太陽は神秘的だ。

 それにしても、車からちょいと出て、これほどの高さから御来光を拝めるなんて、何という贅沢なのだろう。普通ならば、終日汗をかいて登った山小屋か、足場の悪い山頂などでしか味わえない景観が、目前に広がっているのである。昨夜の出来事などは、いっぺんに忘れ果ててしまう感動の時間だった。何枚かの写真を撮った。

   

美ヶ原高原美術館からの展望。雲海の手前の建造物などはアーティストたちの作品である。雲海の彼方に連なる山々は、アルプス銀座の山々なのかもしれない。一瞬方向を忘れてしまうほどの広がりである。

その後、近くの牛伏山(1989m)への散策道を往復した。薄く霧がかかった身の締まる寒さの中だったが、ウスユキソウ(=エーデルワイス)やアサマフウロなどの高山の花がひっそりと咲いていて、それらの美しさに、何とも満たされた時間だった。しばらくして車に戻ると、ようやく相棒も行動を開始し始めたようだった。

   

牛伏山への散策道脇にあったミヤマウスユキソウの一株。まだ開花期に至っておらず、蕾さえも膨らんでいなかったのが残念。

 数日前まで外出も控えるほどの暑さに見舞われ、クーラーなしには眠れなかった下界の暮らしからは、想像もできない一夜の体験だった。今年の夏は、この経験を生かして、この先の暑さに耐えることにしようと思った。「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、武田氏の菩提寺でもある恵林寺で、信長軍の焼き打ちにあって焼死した快川お尚の辞世の一語としても有名だが、1950mを超える高原の一夜で味わったこの寒さは、生身の体験であり、そう簡単に忘れるはずもなく、思い起こすのに手間もかからない。今年はこの体験を生かしながら酷暑を乗り切ろうと思った。 (7.29.2013 記)

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八ッ場ダムと国政不信あれこれ

2013-08-15 05:27:00 | 旅のエッセー

八ッ場ダムと書いて、やんばダムと読む。これを初めて見て正解を読み当てる人は、知っている人以外はいないと思う。「ッ」を「ン」と発声するなんて、一体日本語という奴はどうなっているのかと思うほどの難しさだ。しかし、このダムについてはかなり有名だ。だから読み方を知っている人も多いはずだと思う。

昨年春、熊本県の五木村を訪ねた時、川辺川ダムについての村の方々の悲壮な思いを知った。民主党が政権を担当した時に、ダムの建設が途中で中止となった。その対象に川辺川ダムも含まれていた。川辺川ダムの場合は、四半世紀以上の長い年月をかけての闘争の結果、五木の村の人たちは下流の人たちのためにと、涙を飲んでダム建設に同意したのだった。国道脇の湖底を見下ろす場所に、その思いが「新たなるふるさとの建設をめざして」という記念碑に刻まれていた。しかし、自分たちが訪れた昨春はダムの建設は中止され、湖底から移った新しい集落が山の中腹を走る国道に沿って出来上がっていただけだった。ダム建設が取りやめになって、安堵し喜んだ人は一人もいないという雰囲気だった。村びとの話では、ダム建設の取止め宣言をした往時の国交大臣が、止めた代わりに新しい橋を架けると約束し、その建設が進んでいたけど、それが村にとってどれほどの必要性があるのか、さっぱり見当もつかなかった。酷い話である。政治に振り回された五木村の人たちのやりきれない憤怒と虚しさ感が伝わってくる現在の村の景観だった。

確か同じ状況に置かれた、この八ッ場ダムはどうだったのだろうか。先日久しぶりに群馬県のその建設予定地辺りを通ることになった。信州の霧ケ峰・美ヶ原高原を訪ねた後に、北軽井沢から草津温泉に向かう辺りを通過し、その後吾妻川に沿っての国道145号線を通って帰宅の途に就いたのだが、途中から以前とは全く違う道となっているのに気がつき、そのあまりの変化に驚かされた。谷間に沿って走っていた道路が、知らぬ間に山の中腹を走るようになっていた。4~5年前に来た時には、その谷間を這う川に沿って、川原湯温泉への入口などがあり、その先に天空とも思える高さに何やら道路なのかダムの基礎の一部なのか、コンクリートの巨大な建造物が見られたのだが、今回はそのような景色はどこかに消え去っていて、いつの間にか温泉のあった場所は100m以上も遥か下方に見えていたのだった。よく考えてみれば、あの天空に聳えているかの如き建造物は、先ほど走って来た新しい国道145線のバイパスやそれにつながる道路の橋桁だったのだ。いやあ、驚いた。そのバイパスの脇に新しく出来た道の駅に寄って一息入れたのだが、何だか不思議な景色を見ている様な気がして、落ち着かなかった。

まさにあっという間に新しい道路が造られ、まるでずっと昔からそこにあった様な景色が生み出されて広がっているのである。このあと数年もすれば、それは八ッ場ダム建設の抗争に拘わった人たちの思いとは無関係に、当たり前の景観となってしまうに違いないなと思った。ここ数年の間にどのような展開があったのか知らないけど、八ッ場ダムの場合は、工事は止まることなく続いていたということなのであろう。民主党政権の主張するダム建設中止を巡っては、地元のみならず下流の利根川水系に係わる各都県自治体が中止反対の声を上げていたけど、結局はそれが通ったということなのであろうか。未だにその後の経過については、自分にはよく解らない。

五木村の川辺川ダムの場合は、国と熊本県のみの関わり合いだけなので中止が可能となったようけど、八ッ場ダムの場合は規模も大きく、関係する県や都などの影響も大きいので、政治の気まぐれは通じなかったということなのかもしれない。とにかくこれほどに景色が変わってしまっているのだから、今更中止など不可能ということなのであろう。この大きな環境の変化が、地元の人たちに対して一体どんな影響をもたらしているのか、その功罪を計るすべもない。

 

このところの政治・行政の動きというのは、下部から上部へ行くほどそのデタラメ感は大きくなっている感じがする。市町村の役所の現場は、住民に対するきめ細かい配慮がそれなりに感ぜられて、さほどの不満もないのだけど、これが上部になるにつれて、濁りが悪を含んで膨らむように、国民の思いからは乖離して行く感じがする。それが最も顕著に感じられるのは、東北大震災に絡む復興に向けた諸施策展開の現状ではないか。例えば、福島第一原発のその後の対応を見ていると、東電には最初から当事者としての対応能力が無いのを知りながら、国策的に進めて来た原発事業を、東電の大株主となった国・政府は碌に手も出さずに放置したまま、放射能まみれの冷却水を海に垂れ流しさせ続けている。こんな無責任が許されていいのか。もはや東電を非難しても始まらない感がする。

事故処理の深刻な状況を省みもせずに、その一方で、政府は原発事業を海外に輸出するのに力を入れている。そして国内の既存原発については、将来のビジョンも持たないままに、何とか再稼働にこぎつけようと、当面の手当てにあくせくしている。国の最高責任者は、再稼働のためには安全の確保が第一などと言っているけど、それは場当たり的な飾りことばに過ぎず、抜本的な安全が何なのかなどには全く触れていない。今の科学力では、原子力の負の恐怖を抑えることは不可能であり、抜本的な安全とは、原発を無くすことしかないのは明らかである。このままで行くと、今稼働を見合わせている原発は、間もなく全てが再稼働が開始され、それに連れて本物の安全に裏打ちされたエネルギー政策は後戻りを始めるに違いない。

その結果、東北大震災を超えるような一大天変地異が現出して、稼働中の原発が東西に亘って10基以上もいっぺんに破壊されるような事態が発生したとしたなら、一体どうなるのだろうか。この国は破滅するに違いない。その後で、ようやく原発の全廃止を決心するとしても、もはや手遅れであることは疑う余地もない。本当の未来を考えない政治や行政が、国のてっぺんに鎮座しているというのは真に哀れで悲しいことではある。

原発だけではない、復興予算に蝿や蚊のようにすり寄り集まる役人や団体は、復興の名を借りて様々な悪事を積み上げている。総予算の半分近くが未だ正しく消化されていないという話も聞く。被災の現地にはその恩恵の何も届いていない場所が幾つもあるという。これは地方行政の怠慢ではなく、明らかに県や国の上層部、そしてそれを取り巻く雲霞のごとき亡者どもがチマチマと金を毟り取ろうとして害を及ぼしているからであろう。

このところの政治不信は絶大なものがある。自民党も民主党もその他の政治集団も、皆口先ばかりであり、能力の低下した官僚に振り回されるばかりのようだ。老人が偉そうに政治や経済のあり方に口出しするのは、天に唾して身の恥を晒すようなものだと心得て、これからはこのようなことを書くのは止めようと思っていたのだが、巨額の金が動いた八ッ場ダムや川辺川ダムの現実を見てみると、これらに関わる悪の様々について吠えないわけにはゆかないなと思った。

最近の政界の中で、てっぺん近くにいる人物の驚くべき言動が幾つかあった。失言は政治家にはつきものだが、発言の前後の文脈を踏まえて捉えてみても、愚というよりも下の下としか思えない貧困な時代感覚しか持ち合わせていないように思えた。一つは元民主党党首で総理も務めた鳩山由紀夫氏の中国でのおべんちゃら発言であり、もう一つは元総理を務め、現在は副総理と財務大臣という重要ポストに就いている麻生太郎氏のナチス発言である。両者とも国際感覚の欠片(かけら)も持ち合わせていないかのごとくだ。前者の発言は日本国の歴史の真実と立場を失った国賊的振る舞いだし、後者はお粗末な思い上がり発言で、過去と現在の時代背景を理解しないまま混同して、勝手に当然化している感じがあり、世界を驚かす時代錯誤の発言である。要は、改憲についてはガタガタ言わないで黙って見ていてくれろ、ということなのだろうけど、よりによってナチスなどを引き合いに出すとは、一国の総理を務めた人物の発言とは到底思えない。直ちに下野すべきではないか。前者は既に野に下って何の影響力も持たない携帯用スピーカーになり下がっているから、大して危険でもなさそうだけど、後者の方は思い上がっているゆえの本心だろうから、これは恐ろしい。それを知りながら、敢えてコメントを濁している自民党も政府にも信頼感は急減するばかりである。又、対抗する立場からこれらを批判追求すべき民主党や維新の会他の政党も、動きは鈍であり、凡そ期待など持てない。こんな状況なので、政治はますます国を混乱させ、国民の投票行動を虚しくさせるのであろう。尤も、政治家や政党にとっては、選挙の結果だけが大事であって、その中身や背景など大義名分づくりには何の問題もないということなのかもしれない。

現政権になって、経済活動が上向きになり、日本を取り戻し始めたなどというのは幻想にすぎない。改憲がまな板に乗せられているのは当たり前かもしれないけど、それを料理した後のビジョンは不明確だ。一体、今、この国がどんな人間の集まりとなっているのか、政治家はその人々の深奥に潜む思いの本質部分に触れる努力を、もっともっとするべきではないか。今回の参院選挙は、国民の過半数が辛うじて投票に参加し、その結果を表わしたに過ぎず、今の選挙制度が本当に民主主義を反映しているとは到底思えない。選挙は区割りなどの問題よりも投票に参加する気になるような、抜本的な制度に改めることが最大の課題ではないか。投票しない4割を超える国民の大半は、選ぶべき人を得ていないという現実にうんざりしているのであろう。

あれこれ思いは果てもなく広がって、八ッ場ダムの話からとんでもない方へとすっ飛んでしまった。まだまだ言いたいことは幾らでもあるのだけど、もう止める。老人の強がりは天に唾することと同じで、やがて我が身に倍返しとなって戻って来るかも知れない。何はともあれ、この国を動かすためにてっぺん近くにいる人たちは、しっかりした未来ビジョンと、国民の現状を深く洞察して、国民を不安と危険に陥れ、路頭に迷わせないように、強い信念を持ってことに当たって欲しいと思う。思いつきの政治だけは排除して欲しいと願う。  (8.3.2013記)

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ナビなし主義からの離脱

2013-08-06 04:01:41 | 旅のエッセー

  今時、時代遅れとは承知しながら、ずっとナビなし主義を守って来たのだが、そろそろそれを諦めなければならないと思うようになっている。

先日信州の高原に旅に出掛けたとき、予定を変更してどこか温泉を探して入ろうと思った際に、幾つか候補地を資料で探してそこへ行こうとしたのだが、持参した地図に載っていないため、途方にくれた。旅に出掛ける際は、予め目的地周辺の地図を用意し、詳細がわからない場合は、事前にネットで調べてメモなどを用意し、凡その見当をつけて出発という段取りをしている。しかし、旅先で急に変更を余儀なくされる場合などは、手持ちの地図では不明なケースが多く、結局はわかり易い場所へしか行かないということが多い。

 今回は、やむなく取り付けていた倅のお下がりの古いナビを使うことにした。そのナビに運よく目的の温泉が載っていたので、そのガイドに従えば何とかなるだろうと思った。しかし、途中とんでもないコースを選択され、ぐるぐる回りをさせられるなどして、大迷惑の遠回りをさせられて、ようやく目的地に着いたのだった。それでもとにかく目的地に着いたのだから、課題はナビの使い方にあるのか、或いはナビの性能にあるのかなと思った。何も載っていない地図よりは確かに便利ではある。これからは恐らく変更の多い旅となることが予想されるので、やっぱりナビなし主義のことはもう少し真面目に考え直さなければならないなと思った。

ナビを車に取り付けるのが流行り出したのはいつ頃からであろうか。いわゆる高度情報化社会という奴が本格化して間もない頃ではなかったか。今頃、高度情報化社会などと言ったら、「何それ?」と言われてしまうのだと思うのだが、今から30年くらい前はそのような言葉を使うのは、割りと先進的な知識や考えを持っていた人たちに限られていたと思う。ま、今でも多くの人たちは高度情報化社会などということばを知らないまま、携帯電話に操られ、TVやパソコンを当たり前のように使っているのだと思う。ナビも又高度情報化の一分野であり、今頃はどの車にも取り付けられている感じがする。車のみならず、スマホなどでは位置確認情報として当たり前のコンテンツの一つになっている。

このような様々な情報の入手・活用の利便性は、高齢者にとってはある意味では却って煩わしいというか、心穏やかならぬものがある。一言でいえば、突然「断絶」の時間が眼前に現出したという感じなのだ。例えば、携帯電話といえば、多くの高齢者は「モシモシ、ハイハイ」という相互連絡のコミュニケーション手段という捉え方しか出来ないのではないか。携帯電話で、ニュースを見たり、SNS機能で見ず知らずの人たちとの文字や画像でのコミュニケーションをとり合い、或いはTVを見たり、音楽を楽しむなどということが出来るなどと知っている人さえ少ないのではないか。70歳代ならば多少それらの機能を理解できても、80歳を超える世代ではよほどに興味関心を持っている人以外は、全滅ではないかと思うほどだ。

かつて「断絶の時代」ということばが流行ったことがある。これは30年ほど前に、アメリカの経営哲学者、P.F.ドラッカーが提唱した、間もなく到来すべき新しい時代の本質を突いたことばであり、高度情報化社会のもたらす特徴の底にある時代変革の特質を指摘したものだと理解している。「断絶」が新しい時代の特性というのならば、それ以前は何かといえば「継続」ということになる。あれから30年以上が過ぎて、今まさに「継続の時代」が薄れ行き、「断続の時代」が勢いを増して現出している感じがしている。ドラッカー博士の予言は現実となり、その現実は様々な問題・病理を抱えながら超スピードで膨らんでいる。

断絶の時代とは、デジタルの時代ということでもあろう。それまでのアナログにとって代わって、世の中のあらゆるものがデジタル的に生産されるようになっている。勿論その核となっているのは、コンピューターであろうけど、人の生き様や心の在り様までがデジタル化しつつあるように思えてならない。デジタルというのは、この世は点の集まりで成り立っているという考え方であり、線というものや面というものが最初から存在するという発想を否定する様な考え方でもある。線も面も立体も全ては点の集まり方の一特徴に過ぎないというのであろう。自分は学者ではないから、論理的に説明は出来ないけど、感覚的にはそのように思っている。人間と同じようなロボットをつくり出すというような発想もデジタルであって初めて可能となる。アナログならば、人間は初めから人間であって、ロボットは人間などではないと決まっているからである。

今の世は、デジタルの恵みを享受しているのだけど、その恵みを恵みとして受け止める倫理心のようなものが出来上がっていないようだ。人類の歴史の99%以上はアナログの、継続の時代だった。それがここに来てたった半世紀ほどで、デジタル化に転じて一国だけの問題ではなく、全世界の人類のあり様を変えようとしている。その断絶化のスピードにアナログの歴史がつくり上げて来た倫理や価値観といったものがついて行けない状況を呈している。混乱期なのかもしれない。このような時期では、眠っていた人間の悪性が芽を出し始めるようで、今まで考えられなかったデジタル犯罪が多出しているようである。ネット犯罪やオレオレ詐欺などその最たるものであろう。そしてそれらの犯罪は国境を無視して広がりつつあるようだ。

ちょっとオーバーになり過ぎた様である。タカがナビの話なのである。自分は、99%がアナログ人間なので、どうもデジタル化された機器を使うには抵抗があるのだ。ナビは確かに便利なのだが、地図を読む楽しさが不足している。単に目的達成為の便利ツールに過ぎない感じがする。地図は(発行した時点での情報範囲に止まるけど)、それを眺めていると様々な情報と一緒に未だ行ったことのない世界がそこに浮き上がって来る。ナビは刹那的で、功利的であり、全体像が浮かびにくい。

いろいろこのような愚痴めいたことを言っていたら、先に進めない。アナログ人間はアナログに徹するという様な美学はもはや存在出来ない様な時代となってしまっている。ナビでいえば、デジタル文明はこの世から地図という図書を駆逐し始めているようだ。書店の地図が次第に少なくなり出し、地図の解説書のようなものが流行り出している。詳しくはネットの情報でどうぞということなのか、早や大判の地図は本棚から消え去って、10年ほど前にその生命を終えた様である。宿命だったのであろう。そのように考えると、これからはアナログ感覚を失わないようにしながら、ナビやネットの情報を活用するしかあるまいと思ったのだった。残されている時間も少なくなっているのだから、目的地を探すタイムロスは少ない方が良いに決まっている。迷う楽しみよりも迷わない便利さを優先させることにしようかと、今思うようになっている。それにしても先日の旅では、ナビには散々振り回されて往生した。次回の旅までには、新しいナビを用意してみようかと思っている。 <7.29.2013 記>

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理想の墓

2013-08-02 09:43:37 | 旅のエッセー

 お墓の話である。墓というのは、己が死んだ後の存在の証の一つとして骨の一部を収めて残しておく場所である。と言ってしまえば、あまりにも即物的で味気ない。根がいい加減なので、墓のことは未だ深刻に考えたことがない。しかし、己が今や老計や死計を考えなければならない世代に入ってしまっているのだから、その計りごとの中に墓のことも入れておく必要があるのかもしれない。考えてみれば、そう、未だ自分の墓すらも用意していないのである。長男なのだけど、家を出てしまっているので、実家の墓に入ることはできない。墓は自分で作るしかない。しかし、未だ自分の墓をつくることには何となく抵抗がある。と、まあ、そのような状態なのである。

ところで、何で墓の話なのかといえば、これは旅の中で拾ったテーマなのだ。先日信州の霧ケ峰・美ヶ原高原に旅した時、いつもは諏訪湖の側から上って行くのだけど、今回は反対側の小諸・上田市側の方からのコースを辿った。上田市に隣接して長和町というのがある。ここは元の長門町と和田村が合併して出来た町であり、霧ケ峰や蓼科高原への基地的なロケーションにあり、諏訪側から上るよりもこちらからの道の方が車の負担が軽い感じがする。その元長門町には、道の駅:マルメロの駅ながとがあり、ここには温泉も併設されており、仮眠して一息入れるには格好の場所となっている。今回はこの道の駅に泊まり、そこから高原を目指したのだが、泊った翌日に町中を早朝散歩した時、ふと気づいたことがあった。それが墓のことなのである。

      

マルメロの実。この道の駅のある国道152号線の側道にはかなりの数のマルメロの木が植えられており、若い実を付けていた。柔らかな果実なのかと思っていたら、カリンにも負けないほどの固さの実だった。

道の駅の裏側(=西側)は山裾の森となっており、樹木に覆われた中に細い道がつくられているのだが、その道を歩いている時に、上の方が墓になっているのに気がついた。樹木に隠れているので、下の方からは気づかなかったのだけど、そこを歩くと、道に沿ってずっと幾つもの墓が続いているのである。珍しいなと思った。後で気づいたのだけど、この山裾一帯が墓地なのだった。そして、この辺では他のエリアにも山裾の樹木の中に墓がつくられているというのも判ったのだった。

     

道の駅裏の森の中に点在するお墓の数々。木立の緑に染まってご先祖様たちも安らかげに眠られているに違いないと思った。

普通に見るお墓といえば、お寺があって、その周囲に密集して何基もの墓がつくられている。それらの墓地の中には、樹木が植えられているものは少なく、ましてや全体が大樹で覆われているなどというのは殆どない。大規模霊園などには多くの樹木が計画的に植えられているけど、一般の墓地には樹木は少ないようだ。お墓というのは、亡くなった人たちの魂が休んでいる場所だと考えると、樹木なしの墓石ばかりの殺風景な環境には賛同できない気がする。

全国を旅していると、地域によっていろいろな墓のスタイルを見ることが出来る。総じて墓石ばかりの殺風景な墓が多いのに気がつく。特に北海道などでは、どうしてなの?と思うほど、樹木もなく殺風景で味気ない墓を見ることが多い。長く厳しい開拓の歴史の中で、墓にゆとりを持たせる余裕もなかったのかと、ご先祖様たちに何だか申しわけない気持ちを抱きながら傍を通過することが度々あった。

今まで豪華ですごいなと思ったのは、井波の墓である。井波というのは、富山県にある町で、今は合併して南砺市に属している。この町は江戸時代の加賀百万石のお抱え彫刻師の住んでいた町で、一種独特の雰囲気がある。今でも彫刻の町であることに変わりはない。この町にある道の駅には何度かお世話になっているのだけど、何年か前、早朝に付近を散歩している時に、靄(もや)のかかった遠くの丘の麓辺りに、墓石らしき墓標がたくさん立ち並ぶ一角を見て驚いたことがある。彫刻の里なので、何がしかの彫刻が刻まれた墓標のようなものが建っているのかと傍に行ってみたのだが、彫刻などはなく、立派な縦長の墓石だった。それらは、ほぼ同じ規模(2mを超える高さの)で建てられており、遠くから見るとそれらが並んでいるのが壮観といった感じなのである。ご先祖様や亡くなった人たちに対する思いの深さをその墓に見るような気がして心を打たれたのだった。

今回の長門町のようなお墓の作り方は、自分の記憶としては、茨城県では笠間市の西念寺の墓地がある。ここは稲田御坊と呼ばれ、浄土真宗の宗主親鸞上人が、かの「教行信証」を著した場所としても有名である。ここのお墓は裏手の山の中にあり、樹木の中に自然体につくられている。県北に育った自分にとっては、そのようなお墓は今まで見たことが無かったので、強く印象に残ったのだった。親鸞聖人さんがそのような墓の形式を指示されたのかどうかはわからないけど、良いお墓だなど思った。自分の父母の眠る墓も剥き出しのままに丘の外れにあり、一本あった楢の木も愚かな誰かが無断で切ってしまったという話を生前の両親から聞いたことがある。

今まで全国をそれなりに旅して来たのだけど、お墓といえば何といっても高野山のそれが印象的である。ここは弘法大師の真言宗の総本山だけど、そのお墓はやはり自然林の中にあって、宗派はおろか宗教の種類の如何を問わずに墓がつくられているのだった。歴史上の人物の墓も多く、お互いに対立し戦い合い、滅ぼし合った人の墓が隣接していたり、或いはキリスト教の人たちの墓があったりしているのを知って、驚かされたのだった。宗教の本来の目的が人間を救う、その生き方の力になることにあるとするなら、それらの迷い多い人間の亡きがらを収める墓は、人種や宗旨など問題ないというのが正道のように思えるのである。弘法大師がそう説かれたのかどうかは知るすべもないけど、高野山は魅力的な場所である。

さて、何がいいたのかといえば、自分にとって理想の墓はやっぱり樹木に囲まれてあって欲しいということだ。老計とか死計とか言い出しているこの頃であるから、それらの計りごとのちょっと先にある我が身の一部を収める場所に想いを馳せるとすれば、樹木、出来れば大樹があって、野草たちの四季の花が見られるような、そのような場所が良いなと思うのである。長和町の長門エリアの墓を見て、そのことを何だか急に強く思ったのだった。

(……、しかし、現実には守谷市付近には森は多いのだけど、樹木に覆われている墓地は少ないようで、お寺さんも新参者を受け入れてくれるかどうかはっきりしない。墓を自在に選べる身分ではなく、もしかしたら墓無し(=儚し)のままであの世に行くということになるのかもしれない。日本国が好きだから、全国各地に散骨して貰ってもいいなと思ったりもする。北海道なら3カ所くらい、別海町の牧場脇のトリカブトが咲いている場所とクッチャロ湖畔の夕焼けが一番映えて見える場所、それからもう一カ所は長沼町のマオイの丘辺りが良い。九州では太宰府天満宮の裏道の脇で良い。四国は高松市郊外の庵治の白砂青松の海岸が良いなと思う。本州は、やっぱり親の眠る墓地の周辺にばらまいて貰いたいと思う。あまり欲張ると骨が足りなくなってしまうかも。その時は、どこかから馬の骨でも拾って来て混ぜて貰いたいなどと思ったりしている。これはまあ、無理な話でありましょう。つまりは、なるようになるということでありましょう。理想などというものは、実現しないところに意義があるらしきは、薄々感じているところです。)   <7.28.2013記>

 

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