山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

踏み台用収納箱張替完了

2010-06-30 02:48:34 | くるま旅くらしの話

変なタイトルですが、我が家の旅車の自作唯一の備品として、バンクベッドへ上がるための踏み台用ボックスがあるのですが、その表紙の張替えが終了しましたので、そのことについてちょっぴり報告を兼ねて紹介したいと思います。

一般的にキャブコンといわれるタイプの旅車には、運転席の上部にバンクベッドと呼ばれる寝床が作られています。この寝床に昇り降りするには、それ専用の梯子などが用意されているのですが、これがなかなか使いにくいケースが多く、我が家の旅車の場合も、勾配が急で足元が滑りやすく、夜間に多少寝ぼけ気味にこれを使う場合には、うっかり階段を踏み違えて転落するなどの危険性があり、問題があったのでした。

これを何とかしようといろいろ考えて(このようなことを考えるのは殆どが家内の世界なのですが)、その結果思いついたのは、同じサイズの箱を3個作って、下の方に2個を置き、その上に1個を置けば、丁度都合の良い高さのバンクベッド昇降用の踏み台となるということでした。この箱は収納用の備品としても使うことができ、市販されている2L入りの水のペットボトル6本を収めることができるサイズを考えました。ペットボトルや米などの食材等の収納には、結構頭を悩ますことが多いのです。これはなかなか重宝で、踏み台や収納用だけではなく、その他にも多人数の仲間が集まった時の椅子としても使うことができるのです。これを作ったのは、7年ほど前のことです。

   

踏み台用に3個セットの箱を重ねた様子。奥の方の箱は物入れとして使っている。2個の箱の下には、滑り止めのシートを敷くようにしている。これがなかったり、箱の中が空っぽになっていると、転倒の危険性があるので、要注意である。確認しながら使用するようにしている。

私は物づくりの全く苦手な人間で、このような箱を作るのにも四苦八苦するタイプなのですが、何しろ家内といえば、アイデアや注文は好き勝手に出すものの、そのような作品を自ら作るという考えはなく、裁縫や織物などの場合は別として、木工などというものは男が作るのが当然のことと思っているわけなのです。くるま旅くらしでは、寝床の快適性・安全性は第一に求められることではあり、これはやっぱり俺がやらなければならないことなのだろうと、碌な道具もない中で、さんざん苦労をしながら3個の箱を作ったのでした。

その箱は壊れることもなく、ちゃんと然るべき機能を果たしてきたのですが、さすがに7年も経過すると、箱の表装が随所に痛み出して、もともと紙を貼り付けただけですから、汚れや破れなどが目立ち始めて来ていました。〇〇と畳は新しい方が良いと言いますが、新しい方が良いのはそれだけではなく、他にもたくさんあり、箱の表装だって新しい方が気持ちが良くなるのは当然です。

それで、今年は北海道の旅に出かける前に、何とか張り替えることにしようと、悲壮な決意をしていたのですが、梅雨の雨降りに間にこれをやっつけてしまおうと、数日前からこの作業に取り組んだのでした。たかが表装ではありますが、2Lのペットボトルが6本入るサイズの箱を3個も扱うとなると、結構面倒なのです。それに今回は家内の要請で、もう一個別のサイズの箱も作って欲しいというのです。先ずは箱作りから始め、これには1日半くらいを要しました。図面などを書くのがめんどくさくて、行き当たりバッタリの作り方なので、途中で何度も試行錯誤をし続けて、えっちらおっちらと出来上がるまでに、我ながらばかげた行動を何度も繰り返すのです。鋸で切ったサイズが誤っていたなどは普通の出来事であり、酷いのといえば、買ったつもりの板やビスを買い忘れたりなどし、本来不要のホームセンター通いが何度かあり、呆れ果てている我なのであります。

ま、家内に嗤われながらもどうにか箱の製作が終わり、今度は4個の箱の表装です。この表装には、今回は襖紙を使うことにしました。壁紙ではどうかと思ったのですが、店頭には家内の要求に叶った色合いのものが皆無であり、襖紙もいろいろ探して辛うじて合格というレベルなのでした。前回は普通のカラー模造紙を使っていましたので、それよりは耐久性は高いと思っての選択でした。

表装の仕方にもいろいろあるのでしょうが、私の場合は、先ずは箱のコーナーを縁取りするように紙を張り、そのあとで表面に大きな紙を貼り付けるというやり方です。工程の終りの方で、大きな紙を貼るのは楽なのですが、幾つもあるコーナーの縁取りをするという作業は面倒です。何ごとも我慢・忍耐だと自分に言い聞かせながら4個の表装を終えるのに3日ほどかかりました。それが今日ようやく完了したというわけです。

計4個もあると、狭い車の中は置き場所がなくて困るのではないかと思われるでしょうが、踏み台として使うとき以外は、テーブルの下や椅子の脇などに置くなどして、さほどにスペースを要さずとも活用できるのです。何よりも4個もあればペットボトル12本の他に保管可能な米や缶詰・乾物などの食材も収納ができてこれは優れものだと思っています。

 

箱の活用状況。左はペットボトルを入れている。我が家では飲料と調理用は販売されている水か、途中で汲んだ名水だけしか使わない。右は食材などを入れた様子。この他にも収納には様々な使い方が考えられる。

又昇降用の踏み台としての使い方は、梯子などよりは遙かに安全です。多少暗くても慣れてくると大体の足の位置が判るようになり、降りるときも上る時も、全く苦労しません。もし梯子などの昇降で危険や不便を感じている方が居られる場合は、是非参考にしてご活用頂ければ嬉しく思います。

今年は数が一つ増えてしまったので、若干問題が起こるかもしれませんが、我が家の旅車の場合は、ま、何とかなると思っています。今年の北海道行は、やっと予定が決まり、来月の10日に出発して12日の大間からのフェリーで函館に上陸することにしました。午後の便に乗るので、函館の初夜は恵山あたりになるのではないかと思っています。まだ準備することがたくさんあり、これから旅の予楽が一気に膨らむのを覚えてきています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊出没注意

2010-06-28 04:56:28 | くるま旅くらしの話

先日群馬県はみなかみ町にある道の駅、「たくみの里」を訪ねた時の話です。みなかみといえば、水上と書くのが今までの町名だったのですが、平成の大合併で、水上町は隣接の月夜野町、新治村と合併して、新しいひらがな名の「みなかみ町」となりました。たくみの里は、旧新治村にあります。冬には冠雪の谷川岳を間近に見ることができる山国にあるといっていい所です。この道の駅は、その昔の三国街道の須川という宿場町があった所で、現在の国道17号線からは、少し外れて中に入りますが、宿場町全体が道の駅とつながって、様々な土地の農産物・園芸品や伝統工芸品などが、体験施設などを伴って紹介・販売されており、なかなか特徴のある場所となっています。人気のある道の駅の一つでもあり、観光バスなども頻繁にやってくるようです。この道の駅が気に入っていて、時々訪ねるようになりました。今回も何か獲物はないかと立ち寄り、一晩ご厄介になったのですが、生憎の雨で、残念ながら目ぼしい物はありませんでしたが、静かな山里の風情を楽しむことができ、大満足でした。

ところで、この道の駅に向かう途中の坂道の脇に「熊出没注意」の看板を見つけて、少なからず驚きました。えーっ、このように車や人の通りの多い場所に熊が出たの!と、信じられない状況でした。「熊出没注意」の警告注意の看板は、北海道ならば、山道に入ればどこに行っても普通に見かけることが多いのですが、内地の、しかも関東エリアにおいてこの看板を見たのは初めてのことでした。

この「熊出没注意」という看板は、どのような基準で掲出されるのかご存知でしょうか?噂話があったとか、推定で危ないと考えた時に看板を出すのでしょうか。実は私も一昨年の北海道で危うく熊さんたちに出会いそうになって、歩きの帰りを知り合いのキャンプ場の方に車で自車まで送っていただいたことがあり、その時初めて看板の意味を知ったのです。その時のキャンプ場の管理人をされていた方の話によれば、「熊出没注意」の看板は、実際に熊が出没した証拠があった時に掲出されるのだそうです。証拠というのは、勿論実際に見かけた場合や、糞などが発見された時などで、明確に熊が付近で活動していると判断された場合なのです。ですから、この看板を安易に考えるととんでもないことになります。いわば熊が居たことの実績に基づいて掲出されているのですから、事故や災害に遭わないためにも、危うきには近寄らずの心がけが大切です。

   

国道17号線から、道の駅:たくみの里に向かう途中の坂道の脇に建てられていた、「熊出没注意」の危険・警告の看板。この付近に熊がいたことを証明していると理解し、本気での注意が必要。

しかしまあ、この道の駅近くの看板掲出の場所は、全く予想外のエリアでした。人家も結構多く、車も日中はかなり頻繁に行き交っているのに、どうしてこんな所に出没するのかと、不思議な感じがしました。熊さんの方が、ニコニコして挨拶に来られるのなら良いのですが、人間の思いとは違って、野生の熊たちは、さん付けで呼ばれるほど甘い存在ではありません。出て来る理由はただ一つ、人間に対する恐怖すらも乗り越えて、いわば危険の掟を破ってまでも来なければならないのは、生死に係わる飢えを凌ぐためなのです。ニコニコなどしているわけがありません。だから危険なのです。

このエリアに現れる熊は、ツキノワグマで、これは本州と四国にしか棲息していないとのことです。九州には熊は居らず、北海道の熊はヒグマという種類です。ツキノワグマは、その名の由来は、真っ黒い身体の喉の部分に三日月形の白い毛があるということからのようですが、これは個体によって差があり、そのような印が無いものもいるとのことです。体長は110~150cm、体重が40~150kg程度といいますから、それほど大きい動物ともいえないようですが、しかし体重が100kg前後となれば、これはもうその野生のパワーは人間を凌ぐことは間違いないことでしょう。こんな奴に出合ってしまったら、無事で済む筈がありません。黙って引っ込んで逃げてくれれば良いですが、立ち向かってくる可能性も大だと思います。とにかく要注意です。

何年か前、熊の生態調査やイヌワシの観察などを行なっておられるIさんに、鳥取県の旅先で出会って、いろいろと興味ある話をお伺いしたことがありますが、その時も山陰エリアでの熊による事故が何度かニュースになっていました。Iさんによれば、これらの主原因は殆どが人間サイドにあるというお話でした。人間の自然破壊(これを人間は開発という名で正当化していますが)行為が、彼らを山奥に追い詰め、更なる天候不順が木の実などの稔りを損なわせる飢饉となり、命をつなぐために餌を求めて山里の人間世界にやってくるのだとのこと。又人間は飽食の果てにゴミを山中に投棄し、これが彼らを人間の世界に引き出す要因の一つにもなっているとのことです。いわば、事故の加害者である熊の方こそ、もっと大きな意味で被害者そのものであるという話でした。

このような話を伺って、熊に対する誤った認識に気づき、これからは姿勢を改めなければならないなと反省したのを思い起こします。現在ツキノワグマが何頭棲息するかは不明だそうですが、4~5年前の調査では、1万頭前後だったということですから、それを上回ることはないと思われ、やがては彼たちも朱鷺と同じように絶滅危惧種となってしまうのかも知れません。

とんでもない場所で危険・警告の看板を見て、改めて人間と野生動物たちの関係の難しさを思ったのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大相撲はもっと心を鍛えよ

2010-06-27 06:20:36 | 宵宵妄話

サッカーのワールドカップや、参院選挙のニュースに交じって、大相撲力士や親方などの野球賭博の話が世間を賑わせています。麻薬問題や横綱の暴力事件などが片付いたと思ったら、この業界では、かなり力士が相撲ではなく野球を使った博打にうつつを抜かしていたというのですから、呆れて物が言えません。

この分だと、来月11日から始まる名古屋場所の開催は難しいのではないかと思われます。賭博行為に係わったと申告した力士はともかく、真面目に稽古をして本番に臨もうとしている力士たちにとっては、たまったものではないという話でありましょう。それらの人たちの気持ちを思うと、軽薄にして愚かな行為に走った一部の連中に対して怒りがこみ上げてくるのを抑えることができません。

私は相撲ファンの一人だと思っています。熱狂的ではありませんが、子供の頃は相撲を取るのが好きで、決して弱くはなかったと自認しています。いろいろな技も仕掛けてみて効いたこともあり、それが決まったときの快感もわかっているつもりです。只見ているのとは違って、多少ともその競技の経験があれば、それをプロとして精進している人たちの苦労も理解できるというものです。

今頃は相撲といえば、子供たちの中では特別の者たちだけが、道場などに通って取り組むだけになってしまっているのでしょうが、私たちが子供であった60年前の頃は、学校などでもごく普通に遊びの一つとして、運動場の隅っこなどで興じていたものでした。TVもなく、場所が始まると、ラジオや新聞の報道に胸を躍らせて聴き入り、写真に目を見張ったものでした。このような話をすると、時代遅れの笑い話に聞こえてしまいますが、少なくとも相撲が国技であるということを、小学生や中学生が何の疑いもなく信じていた時代でした。

懐旧の話は老人の愚痴となってしまうので、なるべく昔の話はしたくはないのですが、相撲が国技であるということに関しては、50年前頃までは、国民全体にそれが当然という一体感があったように思います。私が小学生の頃は、横綱といえば、東富士、千代の山、鏡里、吉葉山などが居り、よくわからないままに、俺は千代の山が好き、いや俺は吉葉山だ、などと大声で話をしたものでした。その後栃錦や若の花が活躍し、その後は何といっても超人気があったのは大鵬でした。子供の好きなものの3代表が「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた時代が続きました。

それから長い時間が流れて、次第に相撲も様変わりをしてきたような気がします。それがどのようなものであっても、時間の流れと共に変化してゆくのは世の常でありますが、国技である相撲が一番変わってきたところといえば、それは力士のグローバル化の方向に流れが動いたということでしょう。一見、日本人の力士が弱くなったとの印象がありますが、それは裏返しすれば、優れた人材が世界中から集められる方向に動き出したということでもあると思います。アメリカやヨーロッパでは、他のスポーツが盛んですから、相撲部屋に入門を希望する人はそれほど多くはないと思いますが、モンゴルを初め、中国などがその気になれば、強い人材は幾らでもいるように思います。

ま、そのことは措くとして、ここで心配になるのは、国際化の問題と相撲は国技であるということのギャップです。近代スポーツに関しては、それが国技であっても国際化に殆ど違和感などないのだと思いますが、相撲は千年以上も前から我が国に生まれ育ったスポーツであり、いわゆる相撲道として、精神的な或いは文化的な面でも固有の考え方というかある種の哲学のようなものを持っているように思います。それがグローバル化に耐えられるようなものなのか、外国出身の力士に本当に理解されるものなのか、懸念を覚えるのは、私だけなのでしょうか。

朝青龍が横綱なのに、勝ってガッツポーズをしたというのが話題となり、横綱としてあるまじき振る舞いだと批難されたことがありましたが、これなどはまさにグローバル化による国技としての精神の浸蝕現象を呈した事件であったと思います。

私は、国技としての相撲をそのまま国際化するのには無理があると思っています。四十八手の決まり技だけを教えれば良いというものではなく、日本国という国の文化とものの考え方を外国出身者に解らせることが必要であり、それは相当に強要的なものとならざるを得ないように思います。それに反発して言うことを聞かないまま横綱などになってしまうと、朝青龍のようなことが起こるのでしょうが、これから先は彼以上の問題児が誕生する恐れがあるように思います。このことについては、私は大相撲の国際化というのが本当に必要なのかについて、最初から疑問を感じています。高見山や小錦関には相当の我慢をさせて気の毒だったと思っています。国技であれば、100%日本人でやるべきだと思っています。幾ら国際化の時代といっても国技と呼ぶものを形だけにとらわれて世界流にしてしまえば、柔道のようなものとなってしまうに違いありません。柔道の現在の姿が必ずしも間違いだとは思いませんが、もし相撲がオリンピックの競技種目などになったとしたら、それはもはや国技などではないと思うのです。国技というものは、もっともっとその国において全ての側面において磨き上げなければならないものなのではないかと思っています。このことについては、又機会があったら少し論じたいと思っています。

しかし、今回の問題は、相撲のグローバル化とは本質的には無関係です。真に軽薄でお粗末極まりない人間が混ざっている相撲界の現状に多大な疑問を感じます。親方や大関までもが場所中に博打に係わっていたというのですから、どちらが本職なのかわからないと批判されても何もいえないでしょう。

このような出来事が何故起こるのかといえば、それはこの業界の幼稚さにあるように私は思います。皆幼い感じがするのです。身体を鍛え、技を磨き、そのことに集中して強くなるというのは素晴らしいことではあるとは思いますが、横綱や大関などといってもまだ30代前のようやく本当の成人になりかかった世代です。普通の世界では、サラリーマンであれば役職にも付けない世代かも知れません。それが実力次第で頂点に上り詰めることができるのですから、これはやはり特殊な世界だと思います。つまり、言いたいのは、よほどにしっかりとものの考え方というか、相撲の道というものについて教え込んで徹底させておかないと、独活(うど)の大木や裸の王様のように、見かけだけの、世に受け入れられない人物が生まれてしまう危険性があるように思います。

武道の「道」においては、「心・技・体」の大切さが強調されますが、相撲道においてもこれは変わらず、常に力士が心得、心がけなければならない事項だと思います。一般の教育論としても、「知育・徳育・体育」などということが強調されますが、人間社会の中で範を示す立場・世界にいるという自負を示すためには、これらの視点は極めて大切だと古来より考えられてきたのだと思います。

しかし、今の時代はこれらの視点のどれかが急速に軽視されてきているように思うのです。どれかといえば、相撲道においては「心」の視点です。誘惑の多い今の世の中では、若者としてやりたいことは幾らでもあると思います。しかし、その欲望を発散させる手立てとして、賭博などを選ぶとは、或いは麻薬などに手を出すとは言語道断です。現在の相撲界には心即ち精神的な側面の鍛錬が多大に不足しているか或いは欠落しているように思うのです。これは徳育不足ということかも知れません。世に範を為すというのが、少なくとも関取と呼ばれ、親方と呼ばれる人たちには、心がけとして求められ又、実践が求められていると考えます。そのようなことはどうでも良い、勝負に勝ちさえすれば、あとは自分の好きなことの何をやっても良いというのであれば、それは相撲道などではありません。

この厳しい指導を行なう力が相撲協会にあるのか疑問です。今回の賭博事件だって、その調べようがまるで小学生の学級での盗難事件の犯人探しの如きレベルの低さです。罰するのは軽くするから、正直に申告しなさい、という調べ方なのです。その結果を見て、事の重大さに気がついて、申告前の約束を反故にするのもやむを得ないなどといっているのですから、これは結果として全力士に対する信義を裏切ることになり、協会の関係責任者の問題認識の甘さが窺われます。単に首のすげ替えをするだけでは、この甘い体質は治るとも思えません。

これだけではなく、文科省が相撲協会とどのような関係にあるのか良くわかりませんが、所轄の財団法人に関わるというだけで、今頃ノコノコ出てきて偉そうに物を言っているというのも気に入りません。相撲という国技を管轄監督する直接の責任は文科省にはあるのかないのか、よく判りませんが、もしあるのであれば、もっと早くに協会の甘い体質に対して厳しい注文をつけておくべきだと思います。

さて、長くなりますので、止めにしたいと思いますが、恐らく穿(ほじく)り出せば、野球賭博だって申告しなかった者も居るでしょうし、他にも反社会的な行為に係わるようなことを、大した罪の意識も無しに行なっているようなことが、まだまだ内在しているかも知れません。このような問題に対して、今のところは問題の実態を明らかにすることが大切なのでしょうが、その結果が判明した時には、処罰などでお茶を濁すのではなく、「心」すなわち「精神」を如何に厳しく鍛えるか、親方連中を含めて協会を挙げて全力で取り組む必要があると思います。

もしそれができないのであれば、もはや国技など言うのはやめて、プロレスなどと並ぶショービジネスとして本物・インチキを適当に取り混ぜてお客さんに楽しんで貰うのをモットーとする商売に切り替えた方がいいように思います。そして本来の相撲の方は、アマチュアに限定して文科省が直営して国技としての存続に磨きをかけるような道を考えるべきではないかなどと思っています。日本という国が失われてゆくのを目()の当たりにしている感じがして、なんともやりきれないこの頃です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジサイの季節

2010-06-26 05:30:29 | くるま旅くらしの話

梅雨時の花の中で、この季節に一番似合うのは、何といってもアジサイの花だと思います。散歩の途中の道端や、家々の庭にはアジサイの花を見かけることが多く、時々思わず立ち止まって見入ってしまうことがあります。アジサイの花の色は、千変万化の感じがします。一般に紫や赤の混ざり合ったものが多いようですが、場所によっては品種が別なのか、純白のものもあります。梅雨時の憂鬱な雰囲気の中で、アジサイの花はその季節を好むがごとくに生き生きと咲いており、ちょっぴり慰められるような気分となります。

  

アジサイの花。見かければ何の変哲もない花だけど、虫眼鏡で覗き込むとこの花に対する固定観念が吹き飛ぶ。

アジサイを虫眼鏡で覗いてみると、実に不思議な感覚に捉われます。アジサイによらず、すべての花は虫眼鏡やカメラの接眼レンズで見てみると、いつもの姿とは全くといって良いほど違った神秘な世界がそこにあるのですが、アジサイにはそれを強く感じるのは、私だけなのでしょうか。

アジサイには大形の花を咲かせているセイヨウアジサイと、日本原産のガクアジサイとがあるとのことですが、セイヨウアジサイはガクアジサイを改良した品種であるとのことです。日本が西洋を作り出したというのは、アジサイの世界だけではないでしょうか。西洋に次第に蝕まれてゆく日本の現状を見るにつけても、アジサイの世界をもう少し見習うべきではないか、などと考えてしまいます。私は大形の花もガクアジサイも好きですが、やはりガクアジサイの方に心を惹かれるのは、日本人だからなのでありましょう。とにかくアジサイにはたくさんの仲間があり、花の色も様々なので、見て飽きることがありません。

   

ガクアジサイ。今頃のガクアジサイは、園芸種の改良が進んだのか、だんだんと花の大きさが膨らんできている感じがする。

ところで、学術的にはアジサイの花と我々が思っているものは、花ではなく、本物の花はガクに取り囲まれた小さな粒々のように見えるものがそうであるというのですから、驚きです。このような植物の花は他にもかなりあるようで、それらを厳密に識別するのは、難しいので、私の場合は学術的なことは無視して、トータルで花ならば、それを花と呼んでも構わないのではないかと思っています。アジサイのようなタイプの花を装飾花というのだそうですが、それがどのようなものであれ、見た瞬間に花だと思ったものは、花であっていいように思うのです。

アジサイを見てると思い出すのは、青春時代にちょっぴり傾倒した萩原朔太郎の詩のことです。

     

        こころ

     萩原朔太郎「愛憐詩篇」より

こころをばなににたとへん

こころはあじさいの花

ももいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや

ああこのこころをばなににたとへん。

 

こころは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言うことなければ

わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

千変万化というよりも、拠り所なくさ迷うこころの世界を、懸命に捉えようとして、詩人はことばを捜すのですが、その一番先に浮かんだのがアジサイの花だったということなのでしょうか。

アジサイは漢字では紫陽花と書きます。紫はこの花のベースの色のようです。陽という字は、太陽の光が当たる山の南側の場所という字義だそうですから、紫陽花というのは北向きの花ではなく、南側の斜面のような場所を好む紫系統の花という印象から、先人が名づけて、これらの字を用いたのかも知れません。

紫陽花の花の色が変わるのは、それが植えられている土地の酸度と含まれているアルミニュウムの量によるだとか。科学というのはすごいなと思いますが、詩人の心の働きよりは小さいような気もします。

私が一番好きなアジサイの仲間は、サビタの花です。これはノリウツギのことで、北海道の随所に見られる花です。純白の一見何の変哲もない只の花ですが、北海道を訪ねることの多い7~8月には、この花を見かけると、何だかホッとして、ああここにも咲いているなと安心するのです。

   

サビタの花。北海道の原野などにひっそりと咲いていることが多い。目立たないけど、よく見ると愛情の湧いてくる花である。

ところで、我が家には紫陽花がありませんでした。ずっと植えるのを忘れていた感があります。家内が今頃の季節になると、思い出したように紫陽花を植えようと、忘れているのはあなたのせいよといわんばかりにの給(のたま)うので、守谷に越してきてから6年目にして初めて、小さな苗を買ってきて植えました。ほんとに小さな小さな山アジサイの苗です。勿論これはガクアジサイの仲間で、これが日本アジサイの原種と言っていいのではないかと思っています。子供の頃、裏山に幾らでもあったアジサイに思いを寄せながら、ゆっくり大きくなれよと、時々庭先の新参者に声を掛けているこの頃です。

   

我が家の庭に今年植えた山アジサイの花。まだ30cm足らずの大きさだが、どういうわけか花はしっかり咲いている。少しずつしっかり育って欲しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銅街道を知る

2010-06-24 05:36:11 | くるま旅くらしの話

これも先日沢入キャンプ場付近の早朝散策の時の話です。キャンプ場の入口を出て沢入駅に向かう途中の小さな集落の道端に、「銅街道」という標識があるのに気づきました。そこは民家の前の細道で、急な坂道になっていました。その坂を下ると、キャンプ場の方への近道をなるようです。その細道は、特段変わったところなどないようでしたが、石が敷き詰めてあり、これは舗装するよりも滑り止めには好都合との考えからなのかと思いました。

   

旧東村教育委員会が設置した銅街道の標示碑。坂道の入口にポツんと建っていたが、一見するには何の変哲もない細道だった。

銅街道というのを耳にするのは初めてでしたが、そういえばここは足尾の直ぐ近くでしたし、渡良瀬川といえば、鉱毒事件で有名な所です。この環境汚染問題に、生命をかけて取り組んだ政治家田中正造の話はあまりにも有名です。そうか、その昔、足尾で生産された銅を運ぶ道が銅街道と呼ばれていたのかと気づきました。最初は銅という字を文字通り「どう」と呼んでいましたが、坂を少し下った所にある説明板を読み、これは「どう」ではなく「あかがね」と読むのだと気がつき、ちょっぴり恥ずかしくなりました。江戸時代では銅を「どう」などとは呼ばず、「あかがね」と呼んでいたことは当たり前のことであり、今でも銅をあかがねと呼んでいる人も結構おられるのではないかと思います。

その説明板によりますと、足尾で生産された銅は、御用銅と呼ばれ、江戸の浅草にあった御用銅蔵まで運ばれていたということです。このルートとして、足尾から陸路を利根川の前島河岸(現太田市)まで運び、そこから船に積んで川を下り、江戸川に入って浅草で陸揚げされ、蔵に収まったということです。この陸路は、銅街道と呼ばれ、沢入、花輪、大間々、藪塚、尾島町亀岡の5宿が設けられて、全長58kmを、宿から宿へは夫々凡そ1日かけて、馬1頭に銅90kgを積んで、100頭の馬で運んだと書かれていました。この小さな坂が往時の名残りを止めており、馬で重い荷を運ぶため、足元に穴が開いたりしないように、しっかりと石を敷き詰めて坂道を整備したとのことでした。

   

銅街道の坂道の様子。これは坂を見下ろす写真であるが、道には馬が通っても穴ぼこができないように、大小の石が敷き詰められている。この坂道を100頭の馬が通ってゆく景観は、周辺に住む人たちを元気づけたのであろうか。様々な想いが錯綜する。

なるほどなあと思いました。何も知らず通り抜けていたなら、このような歴史の重みにも気づかず、国道122号線が銅街道なのだなどと簡単に考えてしまったことだと思います。スピードを上げて車が走り回るような道が銅街道である筈がありません。それにしても100頭の馬が、鼻息を荒げながら細い坂道を上り、下りする景観はかなり迫力があるだろうなと、往時が偲ばれます。渡良瀬川に沿った細い道の幾つもの難所を越えて、ようやく沢入の宿場町に辿り着いた馬たちとその手綱を引く人たちの安堵感が伝わってくる感じがします。

石の敷き詰められた坂道は保存されていますが、そうではない古道は草木に埋もれ、もはや道ではなくなってしまっているのでありましょう。御用銅は慶安2年(1649年)から始まったとのことですから、僅か400年足らずの間に、このエリアは一大活況を呈したあと、多くの負の遺産を発生せしめて、今は静かに治まって元の姿に戻っているということなのでしょう。

銅街道の5宿について、いつの日かその名残りを訪ねてみたいなと思いました。ちょっぴりネットを覗いてみましたら、銅街道のことは結構たくさん掲載され、紹介されており、知らなかったのは自分ひとりだったような気になりました。陸路の終点となる前島河岸については、上州のやくざの代表人物である国定忠治との縁のある話も披露されており、こりゃあ結構面白いぞ!と思った次第です。

この頃思うのですが、旅の楽しみというのは、只もの珍しさを見聞するだけではなく、(その本質は変わらないとしても)出会いや気づきを拡幅させることに、より以上の面白さがあるような気がします。そして、そのように考えてみると、結局のところ歴史を訪ねるということに辿り着く感じがします。旅の中に未来を感ずることは少なく、過去の宝物を掘り起こすということの方が多いようです。勿論掘り起こした過去の感傷に浸るだけではなく、そこから未来に対する希望や反省をものにできることも、これ又大いなる喜びであり、楽しみなのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沢入キャンプ場朝の逍遙

2010-06-23 04:55:40 | くるま旅くらしの話

先日群馬県の沢入(そうり)という所にクラブキャンプに出かけたときの話です。前日のメインイベントが終って、翌日は三々五々の解散となるのですが、その日の早朝周辺の散策に出かけました。老人の朝は早く、小鳥たちがさえずりを始める4時前にはパッチリと目覚めて、後はもう起床のタイミングを計るだけです。幸い天気は良さそうなので、5時には起き出して付近の散策に出かけることにしました。

沢入のキャンプ場は、奥入瀬川の草木ダムの上流にありますが、もしかしたらこの辺りまではダム湖の一部といって良いのかも知れません。何しろ初めて来た場所なので、全く土地勘が無く、道がどのようにつながっているのかもさっぱり判りません。昨日は、近くを走るおいらせ渓谷鉄道の鉄橋を走るらしい音が谷間に鳴り響いていましたが、その鉄道もどこをどのように走っているのか良く判りません。

とにかく近くにあるはずの沢入駅に行ってみることにしました。キャンプ場の入口に戻って、駅に向かう坂道を下りると、奥入瀬川に架かる橋があり、どうやら駅はその橋を渡った川向こうにあるようでした。かなりの高さのある橋で、高所恐怖症の気のある私には、下を覗きこむにはちょっぴり勇気の要る高さでした。橋を渡ると直ぐ近くに比較的新しい木造の駅舎があり、小さな駅前広場がありました。5時を過ぎたばかりの時間帯では、まだ電車は走っておらず、誰も見当たりません。駅前にある数軒の住宅の人たちも皆さん眠りの中にあるようでした。

  

左はおいらせ渓谷鉄道沢入駅の駅舎。木造の愛着を覚える建物である。無人駅ではあるけど、綺麗に使われているのがわかる。右は時刻表。列車の走らない時間帯もある。

キャンプ場側からは、川向こうに道があるとは思えなかったのですが、行ってみるとちゃんとした舗装道路が走っており、それは県道343号線なのでした。もしかしたら先ほどの橋の他にも、この先に向こう側へ渡る別の橋があるかもしれないと、その道を行ってみることにしました。駅近くには旧東村の管理する「陶器と良寛書の館」という妙な名前の資料館がありましたが、これはこの村出身の方のコレクションを披瀝したものとのことでした。勿論開館前で中に入ることはできません。そのまま素通りです。

駅から100mも行くと民家は無くなり、山裾が迫ってきているだけです。僅かの民家の中に、木造の瀟洒な家がありましたが、どうやら今は無住らしく、やや荒れかけていて、村に生きることの難しさを語る遺物のような感じを受けました。そういえば、ここに住む人たちは、どういう仕事で生計を立てているのかと思いました。農林業の他にはこれといった産業も見当たらず、高齢化の波をかぶった過疎地帯では、厳しいくらしを余儀なくされているのだと思います。

   

おいらせ渓谷鉄道の鉄橋の景観。橋の向うはトンネルである。いずれの地でも、渓谷に沿って走る鉄道には鉄橋とトンネルが多い。この橋とトンネルが、この地に住む人たちをいろいろな意味で支えているのであろう。

少し行くと、白い藤の花のようなものが目に入り、良く見ると、それは藤ではなく樹木なのでした。ニセアカシアの花なのかなと近づいて良く見たのですが、それではなく、あまりというか全く見たこともない木の花なのでした。もしかしたらナンジャモンジャノ木なのかもと思いました。ひとつばだごの木のことをナンジャモンジャと呼ぶらしいですが、どうもそれとは少し違うようです。このような所にひとつばだごがあるとも思えません。とすれば、これこそ真正正銘のナンジャモンジャノ木に違いないと思いました。

   

ナンジャモンジャの木と花。一見目立たないのだけど、傍に行ってよく見ると、純白の花が美しい。花が細やかで、ヒトツバダゴとは違う感じがした。

更に歩いてゆくと、道端に黄色い熟れた実をつけた木苺を見つけました。このような野の草の実を見つけるのは、その昔村の野山を駆け巡って育った者にとっては、当たり前の特技なのかも知れません。こちらが見つけようと思わなくても、木苺の方から、ここにいるよと教えてくれるのです。久しぶりに一粒だけほんのりとした甘さを味わわせて頂きました。

   

木苺の実。50年以上も前の頃には、我が家の近くの山あいには、どこにでもあったのに、今ではもうこのような場所にひっそりと実をつけているだけなのかも。

しばらく行くと、何と発電所がありました。群馬県沢入発電所とありました。電力会社ではなく、県が管理しているというのは珍しいなと思いましたが、それ以上の詮索は無用です。ここまで2kmくらいの歩きだったと思います。この先に反対側に渡る橋が無いのであれば、そろそろ引き返す必要があります。どうするか少しためらいましたが、いい空気だし、多少歩きすぎてもいいやと思い直し、先に行くことにしました。右下の川はいつの間にか渓谷の様子が変わって、湖の姿になっていました。橋がなくて、このまま歩き続ければ草木ダムに行くことになってしまいますが、そこまではあと4kmくらいはあるでしょうから、戻りが厳しくなってしまいます。そんなことを考えながら歩いていると、橋が見えてきました。東宮橋と書かれていました。ヤレヤレ一安心です。

その橋を渡って、少し行くと右手に神社がありました。昔の村社で、東宮神社とありました。先人に敬意を表して参拝しました。境内の横にある石碑のようなものを見ると、大山祇命(おおやまつみのみこと)と刻んであり、珍しいなと思いました。というのも直ぐに愛媛県の大三島にある大山祇神社のことを思い出したからです。確かあそこは俗に海賊の守り神といわれていますから、こんな山の中に何故?と思ったわけです。しかし、もともと神話では大山祇命とは、大いなる山の神ということですから、このような山中に祭られても不思議ではなく、むしろそれが相応しいと言えるのかも知れません。

   

村社東宮神社。その昔には合併前の沢入村というのがあったのかもしれない。或いは、東村の村社だったのかも。この地に住む祖先の人たちの心の拠り所として、大切にされていた場所だということがわかる。

神社の脇には昨日通ってきた国道122号線が走っており、そこからはこの味気ない道を通って、キャンプ場に戻ったという次第です。この間1時間半ほど、万歩計では7千歩程度でしたから、歩いた距離は4km足らずだったような気がします。自然観察の道草をたっぷり味わいながらのいい時間でした。6時過ぎに戻ってきても、まだ大半の人たちは眠りの中にあったようです。私は随分と得をしたような気分になりました。

今回は旅というわけではありませんでしたが、旅先では、いつもこのような歩きを心がけることにしています。くるま旅は、車で移動するばかりで、名所旧跡も僅かな時間で性急に見てまわり、あそこも見た、そこにも行ったなどと、その数を自慢するなどというのは、本当の旅の楽しさを解しない者の振る舞いのように思います。ま、それぞれお好きなように自分の旅のスタイルを作ってゆけば良いのだとは思いますが、旅は量や幅ではなく、出会いと感動の深さにこそ意義があると私は思っています。そのためには、歩くことがとても大切と考えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足の無い蛙の恐怖

2010-06-22 04:46:25 | 宵宵妄話

先日ネットのニュースを見ていたら、恐ろしい記事が目に入りました。それが今日のタイトルです。地球における環境破壊が、ここまで進んでいるのかと、最近鈍感になりだしている環境破壊問題のことを、気を引き締めて再認識しなければならないなと思いました。

十数年前、環境破壊問題に関して、何度か専門家の話を聞く機会があり、その際に蛙など両生類や昆虫たちに奇形が生まれているという話を、深刻な思いで聞きました。手足の無い蛙や複眼の機能を失った昆虫たちが続々と発見されており、その最大の要因は、オゾン層の破壊にあるのだということでした。

最近はフロンの問題は恰もすっかり片付いたように鳴りを潜めていますが、果たして世界の全ての国々がノンフロンの装置や設備を適切に使っているかといえば、それには多大の疑問があるように思います。かつて世界の中で最大のフロンの消費国は、アメリカであり、日本だったとのことですが、現在がどのようになっているのかは、情報の無い私には全くわかりません。

フロンがオゾン層を破壊し、このために今まで地上には届かなかった悪性の紫外線が侵入して、これが生命体の遺伝子などを傷つけたり、或いは異常細胞などを発生させ、皮膚癌などを生み出しているという話は、実に恐ろしいものでした。このオゾン層の破壊は、地球全体が万遍なく一律に破壊されているというのではなく、当然のことながら、たくさんフロンを投棄したエリアでより広範に破壊が進んでいるということですから、アメリカや日本では特に要注意なのだということでした。

また、オゾン層の破壊は、フロンの放出後直ちに行なわれるのではなく、ゆっくりと上昇したフロンが、何年も経って成層圏に達し、それからじわじわとオゾン層を浸蝕してゆくということですから、過去に多大のフロンを消費した場所では、それを取り止めたといっても、今でも確実にオゾン層は破壊され続けているということです。

さて、そのニュースですが、6月18日19時30分に時事通信の配信ということで、北九州市の市内を流れる板櫃川の河川敷で、市民からの情報に基づいて、市の自然史・歴史博物館が調査を行ない、その結果捕獲した90匹の蛙の内45匹に異常が見つかったとうことです。その異常というのは、片足が無いなどのツチガエルの奇形とのことです。 「これだけの高い比率で奇形の蛙が見つかるのは珍しい」との担当者のコメントが書かれていました。いずれも春先に成体となったばかりの蛙とのことで、今のところ水質に目立った異常は見られないという内容でした。

何故このような奇形の蛙が大量に発生したのか、その原因と思われることについては何も書かれておらず、水質への関心が示されているようで、今のところ異常は見られないということですが、この記事を見て思ったのは、前記のオゾン層破壊の問題でした。川の水に化学物質などDNAや細胞に異常を来す物質が含まれていなかったとしても、もし太陽から届くようになってしまっている悪性の紫外線が、蛙の遺伝子を破壊し続けていたとしたら、数世代で奇形の蛙たちが発生する可能性は高いはずです。90匹捕らえたうちの45匹というのは、50%ということであり、これは恐ろしい数値です。蛙の世代交代は1年くらいでしょうから、オゾン層の破壊が始まった頃に遡れば、もう早や20~30世代は悪性の紫外線を浴び続けていることになり、その結果その半分が奇形となったとすれば、これを人間など他の哺乳類動物に当てはめて考えれば、後数百年もたてば、かなりの影響がでてくるに違いありません。真に恐ろしいことです。

最近は天気予報と一緒に紫外線情報なども発表されるようになりましたが、この発表の意味をきちんと理解している人は、案外と少ないように思います。日本人は概してこのようなことに関しては鈍感ということらしいですが、欧米では悪性紫外線と皮膚癌との関連をかなり高度の危険性を持って捉えているという話を聞いています。白人の方が皮膚が弱いのか、日差しが強い日には紫外線から肌を守るため、クリームを塗ったり衣服で覆って防ぐという方法がかなり浸透しているとも聞きました。そのような有害情報を無視(というよりも無知という方がベターかも)する人もいて、この人たちは海水浴や砂浜・プールサイドなどで肌を焼いたりしているのでしょうが、ちゃんとした知識や情報を持った人は、決してそのような危険行為はしないという言うことです。

日本においても環境破壊の問題は次第に関心が高まってきていますが、私から見ると何だか少し向きが違う感じがします。環境問題といえば、エコ、エコと何でもなんでもエコの話が多いようですが、この中身は単に地球温暖化防止というよりも、経済性・効率性との絡みで取り上げられているような感じがします。環境問題は、エコだけではなく、このようなオゾン層の破壊によって、今まで地上に届かなかった悪性紫外線が生命体に及ぼす問題も厳存するのです。

真夏など紫外線の一層強いときに、肌を焼こうとベランダの寝椅子に横たわったり、砂浜に背中を焼いたりしているのは、今では最も危険な行為といわざるを得ませんが、それだけではなく暑い夏にはできるだけ素肌の露出を避ける服装を心がけるなど、より以上の紫外線対策への関心を高めることが大切なように思います。

ツチガエルの奇形のニュースを見て思うのは、蛙君たちのご先祖は初めて悪性の紫外線を浴びた世代では、直ぐに影響が出るわけでもなく、幾つかのDNAが破壊され傷つけられたとしてもその個体には直接影響が出るわけでもなので、何も感ぜずに生き抜いたと思うのです。5年後10年後の世代までは無事だったかもしれません。それが30年後にはその子孫の半数が奇形の憂き目を背負うということになってしまったのですから、これは大変なことです。

我々の子孫が、あと千年後に多数の奇形を見るようになったと想像するのは、恐ろしいことです。蛙君たちはこの恐ろしさを防ぐ手立てを持たないと思いますが、人間の場合は、完璧は無理でも正しい知識を活用することによって、ある程度はこの問題に対処することが可能ではないかと思います。しかし、今頃は自分が生きることに精一杯で、大人になってしまえば、親は愚か子供のことも孫のことも、ましてや何百年後の子孫のことなど考える人など皆無の感じがします。斯く言う私自身も、そのような感覚が心のどこかに育ってきてしまっています。

恐らくこの矛盾した意識・感覚がやがては人類を本物の絶滅へを導いてゆくのかも知れません。ニュースの記事を読みながら、地球環境破壊のスピードは益々速さを増しているのだなと、改めて思ったと同時に、生き難い世の中になりつつあるなと前途に益々不安を覚えたのでした。それにしても、我が国における環境破壊の問題は、政治家が声を大にしている割には、その本質的なことや、対処の重大さなどの適切な情報提供や、その方法などがバラバラであり、一貫性が無いように思います。結局は個人の自衛に委ねられるということなのでしょうが、この限界は極めて小さいように思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みどり市に納得

2010-06-21 06:08:27 | くるま旅くらしの話

先日TACOSという名のキャンピングカークラブの集まりがあって、久しぶりに参加しました。このクラブは旅車の購入先に係わる集まりで、毎年春と秋に2回のクラブキャンプがあり、その他に有志による随意のキャンプ活動を行なっているようです。私共は、くるま旅との日程がなかなか合わず、不参加のことが多いのですが、今回は運よく参加できたというわけです。

クラブキャンプの場所は、群馬県みどり市の沢入(そうり)というところにある、ファミリーキャンプ場:そうりという所でした。群馬県地方には、草津や六合村そして四万温泉などには良く出かけるのですが、みどり市というのもよく知らなければ、沢入などという地名も知らず、初めて訪れる場所でした、

3年前だったか、初めて「みどり市」という標識に気づいて、一体これはどういう市なのかと疑問を覚えたことがあります。それは前橋を通過して、国道50号線をしばらく走っている時で、たしかこの辺りは笠懸町だったはずなのに、合併でこのような名前の町となったのかと、気づいたのです。それにしても、みどり市とは酷い命名だなと、大いに反発を感じたのでした。というのも、今までのこの辺り名残りが全く感ぜられない、突然の降って湧いたような市の名前だったからです。あとで調べましたら、笠懸町の他に大間々町と東村の3町村が合併してみどり市となったということでした。

私共の年代では、旅するに当たって、行く先々の地名というのは、以前の地図に載っているものが凡そ頭に入っており、大間々とか東村といえば、それだけで大体の見当がついたものです。地図を眺めるのが好きな私は、トイレの中に全国の大型判地図を常に何冊か置いてあり、旅のコースを決めたりする場合の参考に、結構時間をかけて覗いているのです。ですから、まだ行ったことのない場所についても、ある程度のロケーションのイメージを思い浮べることができます。大間々といえば、ああ、確か桐生の隣町だったな、とか東村といえば、渡良瀬川に沿った星野富弘さんの美術館のある所だよなと、まだ行っていなくとも凡その見当がつくのです。

しかし、みどり市などと突然言われてしまったら、これはもうお手上げです。そのような市がどこにあるのかなど見当もつきません。何しろ私のところにある地図は、全て10年以上も前のものですから、高速道路だってまだ完成していないのが多いのです。新しく買うにも昔のB4判の大型ものが無くなってしまい、皆A4判になってしまいました。小型の地図は何度もページをめくらなければならず、使うのに不便です。最近はナビの普及で、書店店頭の地図は少なくなってしまっているようで、ナビなし主義の私にとっては、憤懣が募って来ています。全国の分県地図を揃えたいところですが、高価だし、しょっ中内容の変更があるのでは堪ったものではありません。ナビのような文明の利器は、利便性においては優れていますが、一方では人間の想像力などを退化させ、横着者に導くような気がします。抵抗する意味でも古い地図にこだわって使い続けているのですが、地形はそれほど変わっていないとしても、行政上の理由でその名称が変更されるというのは、致命的な問題です。

初めてみどり市なるものに気づいたときには、このような名称をつけるなんて、ナンセンス極まりないと思ったのでした。どうしてかといえば、全国どこへ行ったって、日本は緑の多いところは無数といっていいほどあるのです。よりによって「みどり」と名付けるなんて、忍者の葉隠れの術みたいなものではないですか。まるで、昔の3町村の面影を全く消してしまうための命名のような気がするのです。

ま、今回の平成の大合併では、茨城県の小美玉市のように合併前の3町村の名前の頭文字を一つずつ取り入れて名付けたり、青森県の七戸町のように、どういうわけか合併後の本庁舎を合併先の天間林村に移したりしているなどと、まともに考えれば何だかへんだなという現象が生まれていますから、わけのわからない行政行動というのは、世の常なのかも知れません。くるま旅くらし志向の私の希望としては、合併に当たっては、それまでの土地のイメージが少しでも残るような命名を心がけて頂きたいものです。

さて、そのみどり市ですが、目当てのキャンプ場は、桐生市の郊外から国道50号線を右折して、県道をしばらく走って旧大間々の市内を通過し、間もなく国道122号線に入り、これを渡良瀬川に沿って30kmほど行った所にあります。この道を走るのは初めてです。キャンプ場の傍には渡良瀬川を塞き止めた草木ダムがあり、その上流には有名な足尾銅山があり、それを更に走ってゆくと日光のイロハ坂の下に出ることができます。予てより一度は通って見たいなとは思っていたのですが、なかなかその機会がありませんでした。

大間々の市街地を抜けると、たちまち渡良瀬川の急流を見下ろす崖の上のような場所で国道122号線に出会います。これをしばらく走ると、道の駅:くろほね・やまびこがあり、ここで少し休憩しました。この道の駅は旧黒保根村にあり、その名もそれを語っています。何とこの黒保根村は、隣の新里村と一緒に桐生市と合併しているのです。みどり市を挟むようにして桐生市があるのも変な感じです。今回の合併でこのような変な場所は、確か北海道の釧路や日高町にも生まれていました。地続きでない行政エリアというのは、何だかやりにくくてロスも多いような気がするのですが、黒保根村は、よほどにみどり市との合併を嫌ったのか、或いは桐生市の方が好きだったのか、或いは又またどちらの方が甘い蜜が吸えると判断したのか、部外者にはどうでもいいことではあります。

余計な話が相変わらず多いですが、ま、そのようなことを考えながら川の上流に向かい進むと、間もなく草木ダムが見えてきて、その少し先に道の駅となった富弘美術館がありました。星野富弘さんについては、説明不要の絵描きさんであり、詩人であると思っています。亡き畏友の安達巌は両腕を失くしたというハンディを持つ洋画家として世界一流だったと思いますが、更に厳しいハンディを持つ星野富弘さんは、画家だけではなく何よりも詩人であられると私は思っています。一度その絵画館を訪ねたいと思っていますが、まだ未訪問であり、今回は予定には入っていません。そこから少し走って、渡良瀬渓谷鉄道の沢入駅に向かう坂道に入ると、直ぐ手前がキャンプ場の入口でした。家を出てから3時間ほどの行程でした。

桜などの鮮緑の樹木に覆われたキャンプ場は、よく手入れもされており、とてもいい環境でした。どこもかしこも緑です。直ぐ傍の草木ダムも四方を囲む山の緑に染まっています。そういえば、大間々を出てからは、もうどこも緑の世界でした。車の運転をしなければ、その緑を存分に味わったことでしょう。東村に来てからは、特に緑が鮮やかさと濃さを増して、これはもうまさに緑の世界だなと思うようになりました。同時に、次第にみどり市というのも悪くはないなと思うようになってきました。市というイメージからは遠いけど、今の世では、市というもののイメージを変えなければならないのだと思えば、みどり市という行政名も何だか納得できるような気がしてきたのです。

   

緑の溢れたキャンプ場の風景。この日は40台ちかい車が集まり、大いに賑わった集まりとなった。

旅をしていると、このみどり市を凌ぐような緑に埋まった町や村を幾つも数えることができますが、益々紛らわしくなりますので、これからの合併・統合などにおいては、行政関係者はよくよく全国の市町村名を精査して、同じ名前などを使わないようにくれぐれもご留意いただきたいと思います。野次馬の身勝手な感想と要望でした。

      

沢入駅付近の橋の上から見た渡良瀬渓谷の景観。かつてこの辺りは、足尾銅山の鉱毒の被害で、一匹の魚も棲めなかったのであろう。僅かな時間しか経っていないのに、人間の為すことは、早や今は昔のこととなってしまっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野草談義:月見草

2010-06-20 05:27:06 | 宵宵妄話

月見草という名の野草があります。なんとなくロマンチックな優しさのある名前です。この花の名を初めて耳にしたのは、子供の頃に唱歌だったか、童謡なのか、「月見草の花」というのを聴いた時でした。メロディの方はしっかり覚えているのですが、今頃は歌詞の方の記憶はおぼろになって、一番も二番、三番もごちゃ混ぜになってしまっているので、ちょっと調べて見ましたら、次のようなものでした。

   

     月見草の花

                作詞:山川清  作曲:山本雅之

 

 はるかに海の見える丘

 月のしずくを吸って咲く

 夢のお花の月見草

 花咲く丘よなつかしの

 

 ほんのり月が出た宵は

 こがねの波がゆれる海

 ボーと汽笛を鳴らしてく

 お船はどこへ行くのでしょう

 

 思い出の丘 花の丘

 今日もひとりで月の海

 じっとながめる足もとに

 ほのかに匂う月見草

 

やや少女趣味的な歌詞ですが、夜の海を見下ろす月の夜の丘に咲く花に思いを寄せる人の情景が目に浮かびます。この歌が何時作られたのか判りませんが、現在のような住宅に溢れた丘でも、或いは何の手入れもなしで荒れ果てて雑草の蔓延る丘の情景ではなく、まだ人びとが手入れや草刈を怠らなかった時代の情景に違いないと思います。

毎日の散歩の中で、道端に咲いている月見草を見かけるとこの歌を思い出し、懐旧の思いに捉われます。だんだんと老人が本格化している証拠なのかも知れません。

ところで、その月見草なのですが、本物の月見草というのがどれなのかが良く判りません。道端に咲いているといいましたが、それを見かけるようになったのは、ここ二十年くらいのことで、それまでは野に見かけることは殆どありませんでした。鑑賞用に庭に植えられていたものが野に逃げ出した感じがします。今ではどこにでも見られる雑草の代表の一つのハルジオンやヒメジオンだって、最初は観賞用として外国から持ち込まれたといいますから、この月見草も、もしかしたら野に逃げ出した草なのかと思っています。

  

雑草の群れに交じって団体で咲いているときも、単体で道端に咲いているときでも、この花には優しい美しさを感ずる。夜も咲いているのかは注意して見たことが無いので判らない。

ここで私が月見草と呼んでいるのは、写真のように淡いピンク色をしたポピーに似た花を咲かせている植物で、花の大きさはポピーよりはずっと小さくて、葉も茎もポピーとは違って小さく、毛などは生えていません。可憐な花なのですが、今頃は荒っぽい雑草の群れに交じって、伍して花を咲かせています。この花が本当に歌われている月見草の花なのか良くわかりません。

というので、ネットで調べてみたのですが、どうもよく判りません。販売されているのもあるようなので、目立つ花なのでしょうが、写真を見る限りでは、野に咲いているものとは違うようです。月見草というからには、夜間に咲く花なのでしょうが、ネットで調べた花も、道端の月見草も夜に咲く花とも思えません。

そこで思い出したのは、これも道端に多い松宵草(マツヨイグサ)のことです。これは宵待ち草と呼ぶ人もいますし、私の亡き母などは月見草とも呼んでいました。この草の場合は、確かに夕方や夜間でも花を咲かせていますから、月を見ながら咲くというのもうなづけます。大型の黄色い花びらも、いかにも月のしずくを吸って咲いている感じがします。やっぱりこの花の方がこの歌に相応しいのかなあと思いました。

  

マツヨイグサ。これを月見草と呼ぶ人は結構多い。この花は早朝などの散歩で、今朝咲いたばかりの花を見かけると、ハッとするほど美しい。土手に群生しているのも多い。月見草はこの花に似合う呼称のようにも思える。

一体どれが本物の月見草なのか、それはこの歌の詩を書かれた山川清さんにお伺いしなければわからないことです。毎日散歩しながら、海は見えませんが、時に小貝川の堤防であったり、或いは鬼怒川を見下ろす端の袂近くの道であったり、至る所にマツヨイグサや月見草を見かけるたびに、子供の頃に歌ったこの歌の歌詞とメロディーが浮かび上がってくるのです。とりあえず、今は皆さんが月見草と呼ぶのならば、どの花でも良いということにしておくことにします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラディッシュの収穫

2010-06-19 04:06:17 | 宵宵妄話

ラディッシュとは二十日大根のことです。二十日もあれば収穫ができるということから、名づけられたのだと思いますが、実際はもう少し時間がかかるように思います。でも1ヵ月足らずで収穫できるのですから、蔬菜類の中では生育が早いと言っていいと思います。家庭菜園をされた方なら、誰でも最初に作られる野菜の一つに入っているのではないかと思います。栽培がきわめて容易で、初心者でも失敗することが少ない野菜で、ベランダのプランターでも作ることが可能です。

昨日は、2週間ぶりにRVランド農園へお邪魔しました。このところ、外出や病院通いなどがあって、ご無沙汰をしていました。2週間というのは、植物の生育にはかなりの変化・影響をもたらす期間です。果樹などの樹木類ではさほどの変化はありませんが、実の熟れる時期を迎えた桑や開花最盛期を迎えた栗などは樹勢の盛んなことを確実に感ずることができます。又、野菜等の植物は、その生長の速さと固体の変化は目を見張るようです。これらの違いは、1日や2日の時間ではなかなか感ずるのが難しいのですが、2週間という時間はどんなに鈍感な人でも、おう、大きくなったな、とかあれっ!もう実が熟れているぞ、と気づくことができるのです。

RVランド農園には、1ヶ月ほど前から通い始めましたが、この間、先ずラディッシュを直播し、その後は自家で苗を仕立てたりして、枝豆用大豆、花オクラ、青汁用ケール、サツマイモなどを植えました。土地の状態を見るために、私の場合は最初に作ってみるのが何時もラディッシュなのです。ラディッシュも満足に育たないような土地は、かなりの問題を含んでいると同時にこれからどう土を作ってゆこうかという楽しみがあります。

RVランド農園は、長いこと耕作放棄にされていた、竹林の傍らの栗畑だったようで、それを整地して畑にするために、従来の畑とは違った土が入れられていると聞いていますので、さて、どんなものだろうかと心配がありました。ここ2年の間に農園主がご苦労されて堆肥などをかなり鋤き込んで土壌の改善に努められたとのことです。しかし、耕作してみると、未だ粘土質の土がかなり混ざっていたりして、まだまだ改善の余地大だなと思いました。

その1ヶ月ほど前に播いたラディッシュがそろそろ収穫できるはずだと、チョッピリ楽しみの期待を膨らませながらの来訪だったのですが、到着後さっそく行って見ると、おう、おう、ちゃんと根元が膨らんで丸くなっていました。一本引き抜いてみると、直径3センチほどになっており、これは育ち過ぎているという感じでした。1週間くらい前の方が丁度食べやすい時期だったようです。でも、ちゃんと育って出来上がっていましたので、先ずは安堵しました。

数本を引き抜いて水洗いし、さっそく昼餉のサラダに加えて皆で食したのですが、味の方もまあまあで、一応は合格のレベルだったと思います。大きくなりすぎて実が割れてしまっているのがあり、これは土の所為もあるのかもしれませんが、収穫時期の遅れの問題の方が大きいように感じました。

ラディッシュの収穫の楽しみの中で最大のものは、水洗いです。畑の土を落とした後の真っ赤なラディッシュの艶々とした輝きは、この野菜を育てた者への最大・最高のプレゼントのような気がします。店で売っているラディッシュとはその赤の輝きが全く違うのです。ラディッシュはそれほど食べて美味いというような野菜ではないと思いますが、私の場合は、収穫時のこの赤の輝きが何よりも嬉しいのです。この輝きを味わうためにこの野菜を作るのかも知れません。

     

収穫したラディッシュ。写真ではあまりはっきりしないけど、収穫したばかりのラディッシュの赤は、みずみずしく光り輝いて、何だかルビーを凌ぐほどの宝石の輝きに見える。

ラディッシュが上手くいったことで、その他の野菜類の栽培も、普通に追肥などの手当てをしてやれば、そこそこの収穫が期待できると思いました。3週間ほどかけて育てて持って来て植えた丹波黒豆の苗も、すくすくと育っていました。枝豆の中では、東北は山形のダダチャ豆が有名ですが、私にとっては、枝豆のナンバーワンは断然丹波の黒豆です。関東では枝豆が忘れられ果てた頃に、関西の枝豆の最盛期が訪れますが、その中心に居るのが、丹波の黒豆です。これが食べたくて、秋になると関西を訪ねる旅が多くなるのです。黒豆の枝豆は、見かけは黄色っぽく枯れかかっているような色合いで、関東の枝豆しか食べたことのない人は、なに、これ!と食べるのをためらうかも知れませんが、そこで止めてしまう人は、真に愚か者だと思います。見かけだけでしかものの美味さを判断できない人は、恐らく人間関係においても人物の見かけの美しさに惑わされる人のような気がします。(チョイと言い過ぎかも) 脱線しましたが、何はともあれ、秋が楽しみです。

枝豆大豆と一緒に植えつけた花オクラも順調に育っていました。花オクラをご存知でしょうか?オクラなら誰でも知っていると思いますが、花オクラはその名のとおりオクラの仲間です。オクラは開花した後に結果した実を食べますが、花オクラはその名の通り花を食します。花を食べる野菜には、菊などがありますが、数は少ないようです。花オクラの花は、オクラの花と同じですが、違うのはその大きさです。オクラの花の3~4倍くらいはあると思います。実に美しい花です。食べなくとも、その花を観るだけでも十二分に満足することができます。8月終わり頃からの開花となりますが、これまた楽しみです。

   

花オクラの花。一夜花はその短命さゆえに美しいものが多い。この花を摘み、集めて包丁で細かく刻み、まな板の上で何度もトントンと叩き続けていると、やがて粘り気のある団子状になる。それに酢を数滴垂らし、白だし醤油などをかけて食するのだが、酒飲みには、オクラよりも上等の味の肴に思える。この写真は昨年9月中旬に撮ったもの。

ケールは青汁でおなじみの野菜です。南米の方では常食の野菜だと聞いています。結球しなかったキャベツのような野菜で、太陽の恩恵を葉っぱ全体に受けて育っているので、人間の身体にはキャベツよりもより多く貢献してくれるのかも知れません。この野菜には虫たちも好感を持っているらしく、折角植えた苗の半分くらいが早くも虫たちに浸蝕されてしまっていました。消毒をするわけにも行かず、さて、困ったものです。虫の嫌うマリーゴールドでも、その周辺に植えようかと考えています。ケールは、私だけではなく、同世代の農園主のAさんにも是非ジュースにして飲んで欲しいと思っています。

というようなわけで、気になっていたラディッシュも無事に出来上がっていましたので、先ずは満足です。これからは次第に暑さが増し、来月からは北海道行を予定していますので、しばらく野菜たちや果樹君たちに逢えなくなりますが、あとはAさんにお任せして、彼らの大成するのを祈ることにしたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする