山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

八島湿原の花たち(7月中旬)<その3>

2013-07-30 05:01:07 | 旅のエッセー

(前回の続きです)

【コウリンカ】

    

この花の色は独特で個性的だ。草むらの中にそれを見出した時は、最初は花ではなく何やら蜂のようなものがとまっていると思うほどだ。濃い橙色は少し黒っぽくて、咲き始めは花びらが開いていないので、そう思うのかもしれない。今頃はこの花の咲き出したばかりの時なのか、今回の探索ではこの個体だけしか見つけられなかった。秋近くなると、もっとたくさん見られるに違いないと思う。北海道の原生花園ではお目にかかった記憶が無い。本州の高原のような場所が好きな草なのかもしれない。久しぶりに見ることが出来て、嬉しかった。

【キンポウゲ】

    

 キンポウゲという名の花があるのかどうか良く知らない。けれども、植物の分類の中にキンボウゲという科目はある。この花はそれらに属する花のどれかなのだと思うけど、正確には自分には判らない。近くに札があって、そこにはアカギキンポウゲと書かれていたが、それが正解なのか疑問だ。アカギとは赤城のことだろうから、赤城山の辺りに多いのかもしれないけど、行ったことが無いので、信じる気になれない。ミヤマキンポウゲというのがあるけど、この個体は群れをなしていないので、それとは違うような気がする。

 花の名は難しい。どのようにして覚えればいいのか工夫がいる。そのような時に思い出すのは、金子みすゞの「草の名」という詩である。

      草の名

   人の知ってる草の名は、

   わたしはちっとも知らないの。

   人の知らない草の名を、

   わたしはいくつも知ってるの。

   それはわたしがつけたのよ、

   すきな草にはすきな名を。

    人の知ってる草の名も、

   どうせだれかがつけたのよ。

    ほんとの名まえを知ってるのは、

   空のお日さまばかりなの。

    だからわたしはよんでるの、

   わたしばかりでよんでるの

 足元に見かける野草たちの名前を何とか知ろうと取り組み始めた頃に、この詩を読んで感動したのを思い出す。勿論みすゞ女史のように自分で名付けてしまうようなことはせずに、地道に覚える努力をしてきたのだけど、本当のところは、彼女の詩の想いの方が遥かに優れているように思っている。さて、この花に自分が思いを込めて名付けるとすれば、どんな名を付ければ良いのだろうか。

 【ハナチダケサシ】

    

 図鑑にはハナチダケサシと書かれていたのでそれを採用したのだけど、実際はチダケサシの花といった方がわかり易いと思う。チダケサシとは妙な名前だけど、漢字で書くと乳茸刺しとなる。乳茸というのはキノコである。今頃は少なくなってしまったが、松林や雑木林の中に赤っぽい茶色をして生えているキノコで、食用になる。傷をつけると白濁した乳のようなのを出すので、このように呼ばれている。このキノコを採った時に、それを丈夫な茎を持っているこの草に突き刺して運ぶことから、このような名前が付けられたらしい。

 しかし、この湿原の付近には乳茸が生えていたとは思われないので、キノコなどとは無関係に、いつしかこの草むらの中に侵入してきたのかもしれない。黒っぽい草むらの中に広がった白い花は、存在感があり、美しい。この花も虫眼鏡が必要だと思う。脇に咲いているのはイブキトラノオである。

 【イブキトラノオ】

    

 イブキトラノオとは、伊吹虎の尾と漢字で書く。その意味は、伊吹山(滋賀県東部、岐阜県との県境にある山)に多く見られる虎の尾のような花を咲かせる野草ということなのであろう。トラノオという名を使う野草は何種類かあるけど、このイブキトラノオは、他のトラノオとは違った花穂の形をしているようだ。イブキというけど、実際は全国各地に広く分布して見られるようで、北海道でも何度も見かけたことがある。

 この湿原ではかなり多く咲いていて、この写真のように蝶が寄って来て蜜を吸っていた。この蝶の名は知らないけど、シジミ類の一つだと思う。人間を恐れず、カメラを向けてもポーズをとるかの如くの振る舞いに見える蝶たちだった。イブキトラノオとは相性がいいのかもしれない。この花も集合花であり、虫眼鏡でその小さな花を覗くと、愛らしい不思議な世界が広がっている。

 【ハクサンフウロ】

    

 先にグンナイフウロを紹介したけど、フウロといえば何といってもハクサンフウロが一番かもしれない。北海道の原生花園には、チシマフウロが多いけど、見る限りではハクサンフウロと変わらないと思う。同じ種類の花でも生育する場所によって、ほんの僅か何かが違ってくるのかもしれない。これは、植物でも、動物でも同じことのようで、人間だってそれから逃れることはできないようだ。

 この湿原のフウロ草は総じて数が少ないように思えた。もっと大きな群落をつくってお花畑の代表選手ともいえる存在になるはずなのに、ここではこの程度の花しか見られなかった。もしかしたら、花期が少しずれてしまっていたのかもしれない。

愛らしい花の中で、自分が一番だと思っているのはフウロである。風露と書き、その呼び方も、何だか花のイメージにぴったりのように思える。道端の帰化植物にもフウロがあり、これはアメリカフウロなどと呼ばれているが、図体がごつくて全体的には好きになれない植物だけど、花だけは別で、日本在来のフウロから比べると格別に小さいのだけど、虫眼鏡で覗けば、しっかりとフウロらしく可愛い姿をしている。フウロは如何にも儚(はか)なさそうな姿の花だけど、その身体は寒さに鍛えられて存外に逞しいようだ。

【クリンソウ】

      

今、この季節にこの花を見られるとは思わなかった。それと、この高原にもクリンソウがあったなんて、ちょっとした驚きだった。クリンソウは春の花である。6月一杯で開花期は終わっている筈なのに、ここは1500mを超える高原のせいなのか、咲くのが遅くて辛うじて今まで花を咲かせるのを遅らせて来てくれたのだろうか。最後まで咲き残った一本に出会えて感無量だった。

クリンソウは、九輪草と書き、花を輪生させて何段にも咲かせるので、その輪は九段階にも至るほどだということから、この名が付いたらしい。サクラソウの仲間である。今頃は栽培種もあるようなので、それほど珍しくもないのかもしれないけど、自分としては今時期にこの高原にあったのを嬉しく思った。どのような世界にも、番外の存在というのはあるらしく、季節が一つ違ったくらいでは平気で生き残る奴は不思議ではないのかもしれない。この九輪草も番外の奴の一つなのだろうか。そんなことを想った。   (7.22.2013記)

 

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八島湿原の花たち(7月中旬)<その2>

2013-07-28 04:52:16 | 旅のエッセー

(前回の続きです)

【ヤナギラン】

       

ヤナギランは、柳蘭と書くけど、柳でも蘭でもない。葉が柳の葉に似ており、花が蘭のように美しいという姿形からこのように名付けられたのだと思う。まさにその通りの美しい花である。この個体は未だ開花時期には少し早く、ようやくつぼみが開きかけているといったところか。花が目立つので、容易に見つけやすいのだが、今のところこの湿原では見出すのは少し難しい状況だった。

この花は、北海道だと原生花園などよりも牧場脇の溝の様な箇所に多く見かけられる。群生している場合が多いので、際立って目立つ存在だ。車で通っている時など、思わず止めて見入ってしまいたくなるほどだ。

この湿原の場合は、群生しているのかどうか今のところ判らない。8月頃になって咲き揃えば判るのだと思う。しかしこうやって眺めていると、群生よりもポツンと一個咲いている方がより楚々とした存在感があるように思う。美しいものというのは、群れない方が良い。ケンを競うのではなく、競わないケンの方がより美しいと自分は思っている。

【アザミ】 

        

アザミといえば、あざみの歌を思い浮かべる。戦後間もない、未だ自分が小学生だった頃、南方のラバウルの方から、かなり遅れて復員した叔父が、炉端で口ずさんでいたのを思い起こす。その叔父は既にあの世に旅立ってから久しいけど、この歌は今でも健在だ。純度の高いあざみを謳った歌だからなのだと思う。ここで歌われているアザミは、どうやらこの霧ケ峰高原辺りに咲くものを元に作られたらしい。八島湿原の入り口付近に、作詩(横井弘)と作曲(八島秀章)者の名を刻んだ石碑が建っている。そこには1番だけの詞が刻まれている。

   あざみの歌

山には山の 愁いあり

海には海の 悲しみや

ましてこころの 花ぞのに

咲きしあざみの 花ならば

 この後、歌の方は2番、3番と、あざみに込める思いを強く深く謳う歌詞が続くのだが、長くなるのでここに記すことは止めよう。自分的には終りになるにつれての、この歌の詞が気に入っている。作詞者の横井弘という詩人の傑作の一つであり、それに曲を付けた八島秀章という方の感性も素晴らしいものだと感嘆する。

そして何よりも心を揺さぶるのは、この高原の色鮮やかな気高きあざみの花の存在である。この高原の、湿原の中に咲くアザミは、都会の道端に咲くそれとは花の純度が格段に違うのだ。花を差別してはいけないけど、自分には別の種類のあざみのように見えてしまう。その澄んだ花の美しさが詩人の心を揺さぶり、歌づくり人の感性を震わせたのではないか。ここに来て、この花を見てそう思った。

【シモツケソウ】

    

 シモツケソウのシモツケというのは、下野の国(=現在の栃木県)の下野ということらしい。この花は草だけど、別にシモツケという名の灌木があり、やはり同じような花を咲かせる。しかし花の美しさというか、大きさという点ではこのシモツケソウの方が遥かに上まると思う。北海道に行くと、オニシモツケというこの花を遥かに大きくしたようなシモツケソウの仲間が、道端の至る所に見られるけど、花の美しさでは、このシモツケソウには遠く及ばない。

 今は丁度咲き始めの時期で、この個体は湿原の御射山付近で見かけたものである。生育する場所によって、開花の時期が少しずれるようで、これなどはせっかちに咲き始めてということなのかもしれない。妖艶という呼び方の美しさがあるけど、この湿原のシモツケは妖艶に混ざり易い、媚びるような厭らしさなど微塵もない。純粋な美しさである。

この花も集合花であり、虫眼鏡が必要だ。花の楽園を覗くというのは、まさにこの花を虫眼鏡で覗いた時に味わう感覚だと思う。目に眩しい艶やかで不思議な世界がそこに広がっているのを見ることが出来ると思う。お試しあれ。

【コバイケイソウ】

    

 湿原の水草の中に混ざって咲いている大型の植物である。丈の低い水草の中では目立った存在である。この仲間にバイケイソウというのがあり、これはその呼び名の頭にコ(=小)がついているので、小型の草のように思ってしまうけど、大きさはバイケイソウと殆ど変らない。その違いは葉や花の大きさや形の差にあるようである。

 北海道では高山帯でなくても原生花園などで見られるようだが、いつも開花時期を過ぎた頃に訪ねているので、きれいな花の姿を見ることが無かったのだが、今回ここではやや終わりかけているとはいえ、きれいな姿を見ることが出来て満足だった。この花も虫眼鏡が必要である。今まで一度も覗いたことが無かったので、今回はチャンスだったのだけど、その殆どが立ち入り禁止エリアの中に咲いていて、虫眼鏡を近づけることも出来なかったのが残念。きっと、美しい白い世界が見えるに違いない。

 【カワラマツバ】

     

 この花に気づく人は少ないのではないかと思う。見た通り、緑の草に混ざって薄い黄色がかった青緑の花をまぶして咲かせている目立たない地味な植物なのだ。その名は、葉が松の木の葉に似て細く伸びた形をしており、河原の湿地帯などに多く生えているので、そう呼ばれているらしい。

 この花は北海道の原生花園奈良どこにでも溢れるほどに生え茂っている。今頃常呂(ところ)町(今は合併して北見市)にあるワッカ原生花園では、この花は最盛期を迎えているのではないかと思う。

八島湿原のカワラマツバは、北海道ほど多くないようで、うっかりすると見落としてしまう存在だった。木道の傍にこれを見つけて、オッ、ここにあったか、と思わず声を上げてしまった。目立たないけど、大衆にまぎれて密かに息づいている、この花のような生き方も良いなと自分は思っている。

【ウツボグサ】

    

 ウツボというと、あの海の中の蛇のようにおぞましげな生きものを想像したりしてしまうけど、この花はそのようなものとは全く無関係である。ウツボというのは、生きものではなくその昔戦のために使われた矢を入れて背負ったその入れ物を言うとのこと。その入れ物の形がこの花の姿に似ていることから、そう名付けられたとものの本に書いてあった。

 この花は湿原の中というよりも、そこから少し離れた陸地の日当たりのよい草叢の中などを好んで生育しているようである。その澄んだ紫の花は目につき易く、直ぐに見つけることが出来る。その昔の自分が子供の頃には、我家の裏山の道端辺りにも多く見られた普通の野草だったのだけど、今頃はもう見つけることは難しくなっている。ここへ来て、久しぶりにこの花を見て、50年以上も前のことを思い出しているのだから、自分はもう相当のジジイになってしまっているのだなと、改めて思ったのだった。

 

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八島湿原の花たち(7月中旬)<その1>

2013-07-26 08:45:07 | 旅のエッセー

霧ケ峰高原の中に八島湿原というのがある。日本を代表する高層湿原の一つという。標高1500mを超える高原の中に出来た、周囲が4kmを超えるという巨大な水溜りの中に、千年を何度も繰り返しながらミズゴケが生い茂り重なりあって、そこに何種類かの植物が住みついて出来上がったものだとか。このようにして出来上がった湿原のことを高層湿原と呼ぶとのこと。詳しいことは解らないけど、釧路湿原などとは違ったもののようだ。しかし、ミズゴケがベースとなって出来ているということだから、釧路湿原と同じように、この湿地帯の中に入ったりしたら、あの恐ろしい落とし穴のヤチマナコと呼ばれるようなものが潜んでいるのかもしれない。勿論ここでは湿原の中に入ることは禁止されているので、それを確認しようとするなどの愚かなことをする者はいない。自分にとって、湿原というのはなぜか不気味な存在である。

この八島湿原を初めて訪れたのは丁度50年ほど前だった。その日は霧が深くて、どこまでが湿原なのかが良く判らず、霧の中に現れる木道を不安を抱きながら歩き、戻ったという記憶しかない。何度か訪ねるうちにようやく凡その状態を知るようになった。50年前と現在がどのように変わっているのかは、あまりにも長い時間が経ってしまっているので、良く分らない。湿原の中の状態はさほど変わっていないのかもしれないけど、この50年間にここを訪れた人の数は、往時は想像もできなかったほど多くなったであろうから、それが湿原に及ぼした影響はかなりあるに違いないと思う。50年前はビーナスラインと呼ばれる道路などなかったし、車で来る人もほとんどいなかった。それが今は、有料だったビーナスラインが無料になり、八島湿原の入り口に設けられた駐車場は毎日満車に近い状態となっているのだから、この高原の環境は激変しているに違いない。

私がここを訪れる最大の目的と楽しみは、湿原の周辺に咲く野の草たちの花を見ることである。ここ十数年は、この時期は殆ど北海道での旅くらしをしてきたので、この地の野草たちの姿を見ることはできなかった。その代わりに、北海道では原生花園という野草の天国があり、そこで毎年野の花の美を堪能して来たのだった。北海道の原生花園は、多くは海岸の近くにあって、高原というような環境ではないのだけど、花の点在する様子や、ある種の花については、この霧ケ峰高原の湿原の環境に良く似た植生状態を示している。だから、霧ケ峰を訪ねなくても、北海道での野の花たちに出会って、遠い昔の霧ケ峰の花たちを思い起こすことが出来たのだった。

それが今回は、久しぶり、本当に久しぶりに、現地に来て花たちを眺めることが出来るというのだから、期待は大きく膨らみ、楽しみもワクワク度を増していた。二日に渡って湿原を歩きまわり、30種類以上の野の花に出会うことが出来たのは嬉しかった。ここに、その中から18種類の花たちを取り上げて、我が思いを語ってみたい。

【カラマツソウ】

      

湿原の入口を入って、最初に目に入ったのがこのカラマツソウの鮮やかな白だった。この野草の仲間にアキカラマツというのがあるけど、これはどこの平地にでもあり、黄色っぽい地味な花を咲かせる。東京辺りだと、例えば玉川上水の側道などに生えているのだが、草刈り作業で刈られてしまうので、なかなか花を見るのが難しい。北海道の原生花園では、今頃はそのアキカラマツが全盛の花を咲かせていることだろう。それに比べると、ここのカラマツソウは、如何にも高原の花という趣きがあり、気高き純白の花を咲かせている。ハッとするほどの白い美しさである。

【ノリウツギ】

      

ノリウツギは、北海道の釧路湿原にも多い花の一つである。アイヌの人たちは、この花をサビタと呼んでいる。亡くなられた伊藤久男という歌手の歌に「サビタの花」というのがある。アイヌの娘の恋をサビタの花に寄せて謳った詩だった。その一番は、次のような歌詞である。

からまつ林 遠い道

雲の行方を見つめてる

サビタの花よ 白い花

誰を待つのか メノコの胸に

ほのかに咲いた サビタの花よ

この歌が好きで、北海道へ行くとサビタの花を見る度に、つい口ずさみたくなるのだった。サビタの花とはノリウツギの花のことである。ウツギは草ではなく木である。風雪厳しい環境の中で、逞しく生き残り、アジサイに似た純白の美しい花を咲かせる。50年前には、ここにこの木があり、花を咲かせているなどということを知らなかった。北海道では毎年どこにでも見かけている花なのだけど、今回これに気づいて、思わず懐かしくなってカメラに収めたのだった。開花には少し時期が早いようで、未だ本当の花の姿を見せていないのだけど、この湿原の中にある樹木の花の中では、女王クラスの花に違いないと思う。

【グンナイフウロ】

      

ここへきて初めて本物に出会えた野の花の一つである。フウロと呼ばれる野草には幾つもの種類があるけど、このフウロは名前だけは知っていたのだが、実物を見たのは初めてだった。最初に見つけた時は、その葉の形などからフウロの仲間には違いないと思ったが、今まで見たこともない花の形をしており、見当がつかなかった。外来種のアメリカフウロなどがこの湿原にまで入り込んでいる筈はないし、アメリカフウロはもっと花が小さい。それに比べるとこの花は大きく、フウロらしくない少しごつい形をしているのだった。後で案内板の中にその名前を見て、おお、これがグンナイフウロという奴なのか、と思った。しっかりとその姿を目に焼き付けたのだった。

【ミヤマオダマキ】

      

オダマキの花の名を最初に覚えたのは、数十年前に山本周五郎先生の作品を読んでいた時だった。江戸時代の物語で、作品の名は覚えていないのだが、下級武士の男だったか(或いは武家の女性だったか)が、庭の隅に咲くオダマキの花を折って、隣人に手渡すといった場面だったように思う。その時はオダマキがどのような花なのかも知らず、その後何となくあこがれの花のように思えていたのだった。往時はネットで直ぐに調べるなどということも出来ず、野草の図鑑なども手元になかった時代で、ただきれいな花なのだろうなと思うだけだった。その後何年か経って、何の機会だったか忘れたけど、実際に咲いているオダマキの花を見て、なるほど、これがオダマキなのかと思ったのを思い出す。園芸種のオダマキは、周五郎先生が取り上げられた花とは少し違っていたのかもしれない。何だか人の手が入り過ぎて、純粋さを失っている感じがした。

この湿原のオダマキは、その頭にミヤマという名がつく。ミヤマというのは深山ということであり、野生の、山深くに生息するという意味なのであろう。この花は花びらが薄い黄色みを帯びていて、透明感、清潔感に溢れている。索道の周辺の日射しの中や木陰の中にあって、楚々たる美しさを見せてくれていた。周五郎先生が取り上げたのは、このミヤマオダマキににも勝る花だったのだろうか。そのようなことを想った。

【ノハナショウブ】

      

アヤメとショウブとはどこがどう違うのか、何度図鑑を見ても、説明を読んでも、その違いが今一はっきりしない。それで、野に咲くこの種の花は皆ノハナショウブだと思うことにしている。この湿原ではもう開花期が終わってしまっているのか、花の数はきわめて少なく、全域でも数本が点在して咲いているだけだった。これはその内の一本である。この湿原には、総じてノハナショウブは少ないのかもしれない。

北海道では、湿原の全体を埋め尽くすようにこの花が咲いている場所が幾つかある。今頃、霧多布(きりたっぷ)湿原などは、この花の紫で埋め尽くされているのではないか。作物の限界地帯といわれてきた根釧原野の辺りは、今年も相変わらず寒い夏の日が多いようなので、花たちにとってどんな影響が出ているのかと、思いを遠くに馳せたりした。

こんなに近くで、ノハナショウブの紫をじっくりと覗きこむことは普段あまりなかった。この湿原では今は目立った存在であり、改めてその美しさに打たれたのだった。

【オオカサモチ】

      

北海道などではこの植物は海岸などの平地の草むらに幾らでも見かけることが出来る。凡そ2m近くの大きさのものも見られる大型の植物なのだが、この湿原では極めて控えめな大きさにしかなっていないようで、この個体の場合、高さは1mにも満たないほどで、初めはオオカサモチではないのではないかと思ったほどだった。この花は集合花である。集合花というのは小さな花が集まって大きな花をつくっているという姿のもので、このような花を見る場合は、虫眼鏡が必携だ。

小さな花を拡大して覗くと、そこには今まで気づかなかった不思議な美の世界が広がり、鎮座している。一見つまらなそうな花でも、何故なのかと不思議を覚えるほどの美や造形の妙への感動をそこに見出すことが出来るのである。この花もその一種に違いない。今回は虫眼鏡を置いて来てしまったけど、その不思議さは北海道で実証済みである。

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筑波山登山の記(第5回)

2013-07-24 05:22:21 | 筑波山登山の記

 <第5回 登山日 2013年7月22日(月)>

 なかなか毎週登山というわけにはゆかず、気づけば前回から12日も経ってしまっていた。今回は男体山に登ることにしている。こちらへは3度目の登頂ということになる。そろそろコースを変更してみようかと思っているのだけど、なにしろ暑いので、コースを替えた場合、道に迷うようなことがあるかも知れず、迷っていいのは秋になってからだと思っているところがあって、新しいコースにチャレンジするのをしばらく伸ばそうと思っている。今のコースがどれほど厳しいのかは比べられないので不明だけど、もう少しゆっくり歩けるコースがあってもいいのではないかとは思っている。秋になるまでにあと5回ほどはこのコースを登ることになるのかもしれない。

さて、今回はより早く登山を開始しようと考え、3時少し過ぎには家を出発した。まだ夜明けからはかなり早い時刻であり、走っている車の少なさは前回を上回っていた。夜間に走っているのは、殆どがトラックで、今の季節はこの時間帯の方が走り易いのかもしれない。それにしても、もう少しスピードを落として走って欲しいなと思った。後続のトラックに煽られるようにして走らされてしまい、まだ暗さが残る4時少し前にいつもの駐車場に着いてしまった。ヘッドランプなどは用意してはおらず、暗さに少し不安を覚える気持ちもあったが、歩いている内に明るくなるのは決まっていることなので、足元が見える限りは大丈夫だろうと思いながら出発の準備をする。

4時に駐車場を出発して、商店街を歩き、筑波山神社に向かう。今日はいつもと違うのは、ひぐらし蝉が鳴いていることだった。神社の境内だけでなく、その後ろにある登山道を包む杉林の中でも、一斉に鳴き声を張り上げていた。ひぐらし蝉は体内に光の量を感知するセンサーが仕込まれているのか、黄昏(たそがれ)時でなくても、一時の暗さにも反応して、一斉に鳴き出す。丁度今の夜明けのこの一時が、彼らの本能を引き立たせ騒がすのであろう。それにしても、守谷の辺りにはひぐらし蝉の鳴き声を聞くことは無くなってしまった。昔からの農家の屋敷林は広大で、大木の混ざった林の中ではセミたちが自在に生き長らえるように思えるのだけど、この頃はひぐらし蝉やミンミン蝉の鳴き声を聞くことは滅多になくなってしまった。この筑波山麓には神社があって、彼らを守っているのかもしれない。

4時25分、神社脇の登山口を出発する。足元に注意しながらゆっくりと歩を進める。今日はいつもとは違って、膝のサポーターを1枚しか着けていない。いつもは緩いサポーターを嵌めた上にもう一枚少しきついものを嵌めているのだけど、登山や歩行鍛錬で膝の調子が少し良くなってきている感じがするので、無理やり締め付けなくても大丈夫ではないかと、試してみるつもりになった次第。登山は登りよりも下りの方が膝の負担が大きいので、帰路は要注意だけど、登りながら調子を見てみることにしている。いつもと同じようなペースで1時間ほど歩いて男女(みなの)川の源流地点を通過する。ここまで来ればケーブルカーの頂上駅がある御幸ヶ原はもう少しである。源流付近は水場となっているが、未だ一度もここの水を飲んだことはない。携帯している水も頂上に着くまでは口には入れない。途中で休憩したり、水を飲んだりすると身体を労わり過ぎて、気合いが抜けてしまう気がするので、今回までの登山で途中休憩と水飲みは禁物だと思っている。高低差は700mほどあるけれども、歩行距離はたったの2.2kmしかない。いつも7km以上は歩いているので、それに比べたら大したことはないと思っている。ただ、この標高差が問題で、足場が悪いから歩数が多くなるのだと、そのような考えでいるのだけど、これはほんの一面の真理しかついてはいない。その高さが問題であり、それが平地とどう違うかは、自分の身体だけが解っていることなのだ。そのような屁理屈を考えながら、大汗をかき間もなく御幸ヶ原へ。

ここから男体山の頂上まで300mくらいだろうか。少しホッとしながら、休まずに更に頂上を目指す。ウグイスの鳴き声が耳に届いた。ここまでの途中、何回か澄んだ小鳥たちの鳴き声を聞いたが、それが何という鳥なのか判らない。姿を見せてくれれば図鑑などを見て見当をつけられるのだが、皆樹木の中で鳴いているので、声だけでは調べようがない。しかし、ウグイスだけは大丈夫である。ホーホケキョという正統派の鳴き声ではなく、ホーホキョケというような鳴き方の奴が、盛んに警戒音の鳴き声(=谷渡り)を交えながら喚いていた。山頂近くの平和を乱す鬼が一匹やって来たぞ!という合い図なのかもしれない。ウグイスは我家近くにもたくさんいて、茨城の地方なまりで囀っているのが多いのだけど、皆人間どもを良く観察しているようで、我々の動向には注意を払っている様だ。この山頂近くのウグイス君も、十二分に鬼ならぬ自分を意識して鳴いているのが判った。

間もなく男体山の頂上に到着。5時50分。まだ6時前であり、下界の我が家では女房どのは白川夜船の浅瀬の中なのかもしれない。これで今日の天気が快晴ならば、一人快哉を叫びたくなる気分なのだろうけど、今日の山頂は霧の中で寒い。山頂の神社の御本殿以外は何も見えず、隣の今は使われていない測候所の無人の建物が殺風景である。上下半身汗でびっしょりとなった身体を拭く。誰もいないので、半ズボン以外の下着の全てを着替える。面倒な靴を脱いで、大急ぎの着替えだった。70歳を超えたジジイであっても、素っ裸を他人様に見せ給うというのは避けるべきであろう。ま、神社のご神体様にはお許しあれ。水筒の水を半分ほど飲んで、山頂に来た証拠にと御本殿の写真などを撮る。間もなくどこかの御夫婦が登って来られて挨拶を交わす。早く着替えを済ませておいてよかったと思った。間もなく下山開始。

   

霧の筑波山・男体山頂上の御本殿の景観。今回も登山をした証拠として写真に収めることにした。

山頂から何も見えないという登山は、少し満足感に欠けてしまうのは仕方が無いことだ。これで終わりではないので、ま、こんな時もあるということであろう。そう思いながら間もなく御幸ヶ原に下りて、本格的な下山を開始する。今日の下りはサポーター着装のテストのようなものであり、要注意である。前回は2度ほど滑って尻もちをつきそうになっているので、そのようなことが無いように気をつけながらの一歩一歩だった。幾つもの踏み段と大小の石の混ざった道を慎重に下る。この時間帯になると、登って来る人も多くなる。皆ほぼ同世代の人たちばかりである。自分と同じように週に1回ほどの登山を実践されている人たちなのかもしれない。ラジオを鳴らしながら登って来る人も何人かいた。静けさよりも人間界の喧騒を大事にしているのかと思った。筑波山にラジオは必要なのかなと思った。また、いつもそうだが中高年男女の会話は傍若無人の傾向があり、途中立ち止まって際限もなく話しているのを見ると、がっかりしてしまう。ま、今回も似たような人的景色を体験しながら、登山口まで下って、時計を見たら何と50分で来てしまっていた。早ければ良いというものではないけど、いつもは60分は掛かっていたのが、かなりペースが上回っていた下山だった。膝の方も特に異常はなく、少し慣れて来たということなのかもしれない。

その後はゆっくりとニイニイ蝉の鳴き声などを聞きながら駐車場に向かう。その途中に筑波山大御堂というお寺があり、これは坂東三十三観音の一つに数えられている。元々は筑波山神社と同体のものであったとか。筑波山では神様と仏様が本来一緒であったものを、明治初めの神仏分離令が引き離したものらしい。神様でさえ、人間どもの時の政治に振りまわされるというのが、人間の信仰というものらしい。その大御堂の脇を通る道の先は、只今側面の大補修工事が行われており、巨大な石垣が積まれようとしていた。完成までにあと1年くらいはかかるのではないか。もう何度もここを通っているのだけど、いつも同じ状態が続いているように見える。大工事というのは、一見遅々として進まずといったように見えるということなのかもしれない。駐車場到着7時20分。今まででは一番早い登山終了時刻だった。再度上衣だけを着替えて車に乗り込む。来た時は、駐車場一番乗りだったが、その後登山者の車は増えて、駐車場はほぼ満車に近くなっていた。茨城県以外からのナンバーも散見され、筑波山は結構人気のある山なのだなと改めて思った。8時20分、我が家に着いて、何ごともなかった様にその日の暮らしを再開した。

 

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ニッコウキスゲ讃歌

2013-07-22 17:18:53 | 旅のエッセー

 50年前に初めてその花を見た時のその高原は、一面を覆いつくされた霧の中だった。風が吹くと霧は薄くちぎれて、その間から淡い黄金色の花が群れ咲く世界が現出した。高原の草の生い茂る世界に、突然の花の群落が現れたかと思うと、霧は瞬時にそれを覆い隠し、再び謎の世界を演出した。そのような繰り返しの後に、ようやく霧が晴れると、辺りは一面の黄金色に染まるニッコウキスゲの群落の世界だった。その感動は、半世紀を過ぎた今でも変わることはない。

   

霧ケ峰高原、車山の肩付近のニッコウキスゲの群落。今日は時々青空が広がる天気で、名物の霧は少しも見られなかった。この花の季節は、少し霧がかかっていた方がこの花に相応しい景観のように思う。 

ニッコウキスゲ讃歌(母の住む花園)

  霧の海・海・海

  海の中に母が住むという

  その母が花園の中に微笑む

  霧の幻想の世界は

  遠い母の記憶を

  朧(おぼろ)に引き出して

  淡い黄金色に彩る

  ニッコウキスゲは

  母の住む天のふるさとの花

  風に吹かれて

  霧が晴れると

  黄金色の世界は

  青空を浄化する

 

 何となくことばを羅列した。ニッコウキスゲの花を見ると母のことを思い出すのは、母がそれを見る世界で暮らしていたからではない。母はこの花を一度も見たことがなかったと思う。母が高原のような場所に出掛けたという記憶は一度もない。ひたすらに決められた大地の中で働き尽くめの母だった。それ故に、一度は見せたかったという愚かな悔いが、今頃になって母をそこに住まわせたいと願うからなのであろう。種類を選ばず花が好きだった母は、今頃天界の季節の花園で、折々の花たちに囲まれて安堵して住まわれているのだろうか。今の季節、ニッコウキスゲの世界をも自在に訪れているに違いない。霧の海の中に現れたニッコウキスゲの花の群落の世界を、遠く思い甦らせながら、いつの間にかそのようなことを考えたのだった。

   

白樺湖の向こうに聳える蓼科山を借景にすると、ニッコウキスゲの娘たちの囀りは一層引き立つように見えた。

 はて、ここまでは夢物語の世界である。現実の古希を超えたジサマは、50年前に見たニッコウキスゲの世界とは随分違った花の環境に、少し残念さを覚えながらの今回の霧ケ峰高原行だった。花園に着くまでの間の、まあ、何と建物の多いことか。その昔は数件の山小屋が点在するだけのエリアに、今は山小屋の臭いの欠片(かけら)もない立派な建物が幾つも出来上がっていた。そのことを責める気はないけど、恐らくそれらが増えるに従ってニッコウキスゲやレンゲツツジの花畑は、その数を減らしてきたに違いない。その昔の高原には、ロープなどなく、自在に花の群れを愛で歩ける草叢の世界が広がっていた。今頃は、ロープに囲まれた花のエリアに作られた一本道を、蟻のように群衆が往復しながら花をめでるという、何とも世知辛い大自然の観光場所となってしまっていた。

 そのような昔を思い起こしての批判的な態度は、老人の持つ忌むべき特性なのかもしれない。「昔は良かった」という老人のコメントは、今が良いことを理解できない愚痴なのかもしれない。そう思う一方で、今の世の危うさを思ったりしてしまう。日傘をさして、革靴などを履いたまま索道を歩いているご婦人などを見ていると、ニッコウキスゲが可哀想に思えてしまう。皆自分勝手なのである。それは生きものの特性なのだから仕方が無いのかもしれないけど、利便性もここまで来ると、ニッコウキスゲたちはあと数十年後にはこの高原から集団で住むことを放棄してしまうのではないかなどと思ったりした。利便性の対角に不便性といったものがあるとすれば、これからの世は不便性の中に隠されている価値というのか、大切なものを問題にする必要があるのではないかと思った。

 ま、愚痴はともかくとして、群れ咲く花の中で、ニッコウキスゲはベスト5には入る存在だと思う。同じ仲間に佐渡のトビシマカンゾウや北海道のエゾゼンティカなどがあるけど、何れもその花の広がりを見ていると、自然との共生に心を癒される思いがする。50年ぶりに心行くまでニッコウキスゲの恵みを享受したのだった。この世界がこの先もずっと長く続いてくれることを心から願っている。あの世に行った時でもこの花の世界が見られるように願っている。(7.19.2013記)

   

一個一個の花を見ればそれほど目立つ存在でもないのだけれど、高原に群れ咲く姿は他の花とは一味違うものがある。

 

 

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信州霧ケ峰・美ヶ原高原へ行ってきました

2013-07-19 01:07:33 | くるま旅くらしの話

  7月2週目辺りからの狂気じみた暑さに耐えかねて、信州は霧ケ峰・美ヶ原高原へ足かけ4日ほどの旅をしてきました。家内の母の容体も小康状態を保っていてくれるようですので、何かあれば直ぐにでも駆けつけることが出来る距離の限界範囲を選んでの決断でした。13日から現役の方には3連休となり、かなりの混雑が予想されますので、毎日が休日の暮らしの自分たちは、それを少し避けるつもりで、出発は中日の14日とし、その日は移動だけにして高原には上らず、麓の道の駅に泊まるだけの行程としました。本番は翌日の15日にすれば、いくらかは混雑が収まるのではないかとの目論見でした。

 今回の旅の目的は勿論一時の避暑ということでしたが、もう一つは40数年ぶりでこの季節の思い出の花のニッコウキスゲを見たいという願望を満たすことでした。私が初めて霧ケ峰高原を訪れたのは今から50年前でした。その当時は、就職した会社では技能訓練生という教育制度を導入しており、中学卒業の方たちを2年間教育して本業に就かせるという施策を採っており、新入社員の私が何故かその指導員としての仕事を命じられたのでした。戸惑いの中に毎日を送っていましたが、この企業内の学校は全寮制で、当時は200人を超える入寮者がおりました。その寮の管理人さんが山好きで、その方に誘われて初めて訪れたのが霧ケ峰高原でした。丁度7月半ばの今ごろの季節でした。山小屋に泊まって一夜を送り、翌日霧の中に時々現れる風景の中にニッコウキスゲの群落を見た時の感動は生涯忘れられないものとなりました。それがきっかけとなり、翌年も一人で出かけて、その後しばらくの間毎年霧ケ峰を訪れることになりました。まだ結婚前の家内とその妹を連れて訪ねた時もありました。知り合いには誰にでもこの高原のこの季節の素晴らしさを教えてあげたいという気持ちが宿っていたからなのだと思います。一人占めにするには勿体ない景観なのでした。

 しかしその後、関心はより高い山の方に向かい、やがて結婚し子供が生まれる頃になると仕事の方も忙しくなり、更には転勤生活に入ってしまうと、もはや霧ヶ峰や美ヶ原は遠い記憶の彼方へと消えてしまっていました。その後最近では数年前に孫娘たちが幼稚園にも入らぬ頃に無理やり一度だけ暑い夏の日に連れて来た記憶だけがあり、その時は目立つ花の途絶えた季節でした。今回はそれらの記憶を挽回するという願いも含めての来訪でした。

 14日の昼頃家を出発し、最近新しくオープンした古河市の道の駅に寄り道をして、それから宿を予定している霧ケ峰への東側からの拠点となる長野県長和町にある道の駅:マルメロの駅ながとに向かうことにしました。最初の目的だった古河市の新しい道の駅は、行ってみるとオープン間もないこともあり、加えて休日だったこともあって、広い駐車場は既に満車となっていました。それでも中に入ろうと待っている車が長蛇の列を作っていました。こりゃあたまらんと直ちに寄るのを止め、先に向かいました。その後は、一カ月半ほど前に通ろうとして道を違えた、R354経由で群馬県内を通って高崎に向かうことにしたのですが、前回同様いや、それ以上に道に迷ってとんだ遠回りをしてしまいました。R354はおろか、県道に紛れ込み、結果的にはR50経由ということになるという惨状でした。国交省に文句を言う元気もなく、炎天下の暑さにたまらず前橋から高速道に入り、目的地の道の駅:マルメロの駅ながとに着いたのは18時を過ぎるという有様でした。

 翌日は昨日のことは忘れて、霧ケ峰に向かいました。長くきつい坂を登ると、白樺湖が見え、その少し右手上の方にニッコウキスゲの黄金色の群落が見えました。近くの駐車場に車を停めて1時間半ほど花園の中を散策しました。その後は霧ケ峰のビジターセンタ―近くの駐車場に行き、昼食を済ませた後、高原の涼気を胸一杯に吸いながら2時間ほど午睡を楽しみました。目覚めた後は、近くの八島湿原に行き、1時間半ほどかけて湿原の半分ほどを往復しました。懐かしい野草たちに再会できて感動の連続の時間でした。16時半過ぎに八島湿原の駐車場を出発して、今日の宿泊予定の美ヶ原の道の駅:美ヶ原高原美術館に着いたのは17時半ごろでした。

 美ヶ原の道の駅は標高が1900mほどの所にあり、これは全国一の高さだということです。少し雲があって遠望があまり効かなかったのですが、それでも日本アルプスの連山や立山連峰、白馬等の山々の景観は、涼しさと併せて爽快感を際立たせてくれるものでした。その夜は寒さに震えながら準備不足で暖衣を忘れ果てて来たことを深く恥じ、反省したのでした。(家内の方は快適だったようです。二人別々に準備したのが間違いの元でした)しかし、避暑の目的は十二分に達成されて満足でした。(これはジジイの負け惜しみ)

 翌日は早朝の御来光を拝みながら写真を撮り、高原の朝のすがすがしさを存分に味わいました。雲海の彼方に聳立する日本を代表する高山の連なりは、その昔の登山の喜びを思い起こさせてくれるのに十分でした。また、早朝の高原の散策も最高の気分で味わうことが出来満足でした。

 この日は、午前中は美ヶ原の山本小屋周辺の散策を中心に考えていました。8時半頃小屋の方へ行き散策を開始しましたが、周辺は牧場があるだけで、野草などの種類も少なく、その上に風は涼しくても日射しが強いため、1時間ほどで切り上げ、もう一度昨日の八島湿原に行くことにしました。

 八島湿原は、昨日行けなかった場所を含めて一周するコースを選択して2時間ほど花の写真を撮りながら散策をしました。湿原の周囲に作られた索道の大半はミズナラなどの木立に覆われており、散策には実に恵まれたコースでした。50年前に訪れたヒュッテ御射山にも立ち寄りました。建物はあまり変わっていない感じでしたが、働く人たちは勿論見知らぬ方たちばかりでした。平安時代に近郊の武将たちがここに集まって弓矢の腕を競ったということですが、そこは50年前と殆ど変らぬ石碑などが残されていました。懐かしさはいや増すばかりでした。一周を終えて車に戻ったのは12時を少し過ぎた辺りでした。

 その後は昨日と同じ霧ケ峰のビジターセンター近くの駐車場に行き、昼食と昼寝という同じパターンの過ごし方でした。14時過ぎに目覚めて、家内が入浴したいというので、少し早めですが、もう高原の味わいは充分堪能したので、山を降りることにしました。道の駅:マルメロの駅:ながと(ここには温泉が併設されている)に行ったのですが、未だ日は高くにあり、明日は草津の方へも行ってみたいと考えていたので、より軽井沢などに近い場所がよかろうと東御市にある道の駅:みまきに行くことにしました。ここにも温泉が併設されていますし、給水も可能なので、少なくなっている水を補うこともできます。着いて自分は給水をすることにして、作業をしている間家内には駅の施設などで過ごして貰おうとしたのですが、給水を終えた頃に戻って来た家内は暑さにやられたのか、気分が悪くなっており、入浴のできる状態ではなくなっていました。こりゃあまずいなと、ここに泊まるのを止め、近くの佐久市にある道の駅:ほっとぱーく・浅科に泊まることにして、その近くにあるという布施温泉という所に行くことにしました。この間に家内の気分も回復するのではないかと思ったのです。この布施温泉はどこにあるのか地図にも記載されていないため、ナビのお世話になることにしましたが、この古いナビのガイドは極めて悪質で、後で気づけばもっともっと簡単に行けたコースを最高に複雑に遠回りさせて、一度は諦めかけたほどでした。どうにか温泉に辿り着いたのですが、家内の調子は依然回復せず、温泉には入れないということでした。自分一人で入ればというのですが、入った後で再び道の駅までの運転をしなければならないのはご免こうむりたいと、それならば元の道の駅:マルメロの駅ながとに行って泊まることにしたのです。結局、無駄なぐるぐるまわりをすることになってしまいました。長い旅の経験の中で、これほど無駄なことをしたのは初めてだった様な気がします。道の駅に戻ってからは、自分一人が併設されている温泉に行き、家内は今日は入浴中止となって、夜を迎えることになったのでした。

 翌日は、先ず家内の入浴を最優先させて、その後どこに泊まるのかを考えることにして出発しました。温泉博士の無料入浴紹介施設を利用しようと、3つ候補がある中で、嬬恋プリンスホテルというのを第一番に考え、そこを目指しました。R18に入って中軽井沢からR146に入り、長野原からR145経由で万座ハイウエイの入口まで行ったのですが、そこの料金を見ると何と片道が1050円と書かれているのです。目的のホテルはこの道を使わなければならないのですから、これじゃあ無料の入浴でもとんだ高額になってしまいます。年金暮らしには許されない無駄なコストです。それで行くのを止め、第二候補の北軽井沢高原ホテルという所に行くことにしました。ここからは比較近い場所にあるようでした。ところが実際にそこに書かれている住所の地名近くに行ってみても、案内板はあるもののそのホテル名は掲載されておらず、さっぱり見当がつきません。やむなく地元のパン屋さんに入って、パンを買いがてら凡その場所を教えて貰いました。それでもなかなか探すのが難しくて、相当に手間取ってようやくそこへ辿り着くことが出来ました。何しろこの辺りは、多くの施設が森の中にあるので、目で探すというのは大変困難なのです。やれやれとホテルの玄関のドアを開けようとすると、何と閉まっているではありませんか。ホテルといっても2階建のロッジ風の建物で、森閑として人気もなく静まり返っているのです。又もや期待は水泡に帰したのでした。時刻は既に12時を回っており、もう第三候補を探すのは諦めることにして、来た道を戻って蕎麦屋さんを見つけ、そこで昼食にすることにしたのでした。

 そこで話し合った結果、もう温泉などは入らないことにして、草津に行くことも止め、今日中に帰宅することに決めたのです。とんだ幕切れとなってしまいますが、ま、前半の高原の恵に満足して、それでいいじゃないかということにしたわけです。

 その後は、前橋市近くの高速道のICまでの間、今どうなっているのか知りませんが、問題の八ッ場(やんば)ダムのエリアを通り抜け、その影響なのかあまりにも変わった道路状況に驚きながら、途中地元の農産品などを手に入れたりしながら、それなりに旅を楽しんだのでした。前橋の手前のICから高速に入ってからは、東北道の佐野藤岡IC迄順調に進み、ここで下りてR50、R294と一般国道を利用して無事我家に着いたのは、18時を少し過ぎた頃でした。

 ずらずらと愚にもつかない旅のあらましを述べてきましたが。この後は、旅で拾った幾つかのテーマについて書いて見たいと考えています。少し時間がかかるかも知れませんが、自分なりに旅の成果を確認して見たいと思っています。取り敢えずの報告を終わります。

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筑波山登山の記(第4回)

2013-07-11 20:27:44 | 筑波山登山の記

 <第4回 登山日 2013年7月10日(水)>

 5月の14日に3回目の登山を終えた以降、少し経って北陸・関西・東海エリアを3週間ほどの旅に出掛けたため、登山の方はしばらく休みとなった。6月初旬に旅から戻って以降も、天候が不安定で雨模様の日が多かったので、登山は見合わせていた。筑波山とはいえども、それなりの高さの山であり、降雨も平地とは少し違うだろうし、道がぬかるんでは登山が難航するに違いないなどとの思惑からだった。しかし、この間毎日の歩行鍛錬を怠ったわけではなく、こちらの方は早朝に限定して毎朝10kgのリュックと2kgの足かせを嵌めて90分ほどの歩行を続けたのだった。びっしょりと汗をかく毎日は、その後の風呂やシャワーを終えると、格別の至福の時間を持つことが出来て、この頃はその労苦よりもご褒美の方がはるかに勝っているように思えている。

しかし、平地だけを歩いているというのは、やはり気持ちに変化が乏しく、鍛錬の質としても劣っていると思われ、どうしても山に登りたいという気持ちが大きくなってくる。梅雨が上がって、予想以上の熱暑の日々が到来して困惑していたのだが、早朝ならば、この暑さでも登山にはさほど支障はないのではないかと考え、第4回目の登山にチャレンジすることにした。筑波山は全山が樹木叢林に覆われており、登山道もその9割は樹間にある。日中山全体が暑さで膨れ上がる前に、早朝に頂上まで往復してしまおうという目論見でもあった。

ということで、登山開始を4時半頃に設定して自宅を出発することにした。麓の駐車場まで凡そ1時間かかるので、出発は3時半にすることにした。3時に起き出して、先ずは腹を満たす。いつでもどこでも直ぐにものを食べられるというのはありがたいことで、このような時にでも朝飯を抜きにする考えはない。腹が減っては戦は出来ぬというわけである。昨夜から凍らせておいた900CC入りの携帯ポリタンをリュックのポケットに添えて、着替えを3組ほど用意し、濡れた着衣を入れるポリ袋も忘れないようにして、準備を終えたのは出発予定の10分前だった。

3時20分、まだ暗さが横たわっている世界の中に車を乗り出す。さすがにこの時間帯は走っている車は少なく、大型のトラックが殆どなのだが、その数は少ない。ヘッドライトを点けての走行は久しぶりのことだ。道が空いているので飛ばしてもいいはずなのだが、却ってこんな時は慎重な運転になるようで、最高時速は60km止まりだった。夜に馴れて走っているのか、大型トラックの連中は80kmもの猛スピードで我が車を追い越してゆく。仕事がスピードを要求しているのかもしれない。自分など、既に毎日が日曜日に慣れた暮らしでは、そんなに急ぐ必要はない。それよりも登山開始時刻までにしっかり夜が明けて、足元が見えるようになって欲しいと思いながらの走行だった。4時ごろから次第に明るくなり出し、筑波梅林下の駐車場に着いたのは、4時15分頃だった。驚いたことに先着の方がおられて、登山の準備中だった。登山愛好者は、誰でも自分と同じようなことを考えるようで、その後も引き続いて何台かの車が入って来ていた。

筑波山神社に参拝し、安全祈願をした後、4時35分、ケーブルカー乗り場入り口脇からの登山を開始する。何しろ2カ月近くのブランクがあるので、歩行鍛錬を続けていたとはいえ、足に自信はない。平地を歩くのと傾斜のキツイ悪路ばかりを歩くのとでは、歩きの質が全く異なり、使う筋肉も違うからである。それに呼吸の方も使う酸素の量が格段に多くなるので、その調整が難しい。いざとなれば経文を唱えれば何とかなるという考えはあるけど、なるべくは自然体での登りをしたいと思いながらの出発だった。

同じ登山道コースを4回目の歩きとなるので、凡その先々の様子は見当がつく。といっても2カ月のブランクは、思ったよりも距離が長く感ぜられ、なかなか目標が見えてこない。今回は女体山の山頂を目指すことにしているのだが、ケーブルカーの頂上駅のある御幸ヶ原に着くまでがかなり遠くて厳しく感じられた。早朝の山の中には小鳥たちの鳴き声が響き渡って、本来ならその鳴き声に癒される気分になれるはずなのに、今回はその余裕はなかった。思ったよりも少し時間がかかって御幸ヶ原を経てそこから600mの距離のある女体山山頂へ。6時5分。所要時間は90分だった。

     

筑波山・女体山山頂の標識。毎回登った証拠にこれから先も必ず写真に収めることにしている。

女体山頂には先客の若者が二人いて、たった今着いたばかりのようだった。自分とは違うコースからの到来のようだった。挨拶を交わしたのだが、疲れのせいか声がかすれて良く出なかった。何だか自分ではない人間が声を出している感じだった。全身汗まみれになっているのだけど、全てを着替えるわけにもゆかず、取り敢えず上半身裸になってタオルで汗をぬぐって着替えを済ます。かなり重くなっているTシャツを試しに絞って見たら、音を立てるほど汗がこぼれおちたのには驚かされた。その分を補給すべく持参した冷たい水、を500ccほど飲む。凍っていた水がほどよく解けて、まさに甘露、甘露である。今日の頂上からの眺めは、霞がかかっていて透明度は殆ど無い。晴れの天気なのだが、あまりに暑いので、この高さの空気たちは、驚き慌ててスッキリ昇天しないのではないかと思った。

   

今日の女体山山頂からの眺望は、天空にも未だ昨日の暑さが残っているのか、霞がかっていて、膨張した空気しか望めなかった。残念。

筑波山の二つの頂上は、何れも岩石の塊で出来ているようだが、この女体山の方がより険しい雰囲気を持っている感じがする。女体といえば、柔らかさのようなものをイメージするのだけど、筑波山のそれはとても女性的景観とは言えないなと思った。一息いれて再度直ぐ傍にある女体山御本殿に参詣する。岩場を巧みに用いて小さな御本殿が作られている。こちらも男体山の御本殿と同じスポンサーの名が掲げられていた。神様も満足されているようだった。

   

山頂近くにある女体山御本殿の社。朝日の中に、しなだれかかる樹木の小枝と共に神様の住まいは眩しく輝いていた。

ゆっくりと下山を開始する。ガマ岩の脇を通り、少し下ると、鶺鴒(せきれい)岩という巨岩があり、何のことかと思えば、この岩の上にセキレイが留まり、男女の道を教えたとか。直ぐ傍にせきれい茶屋というのがあり、茨城県民も抜け目はないなと思った。自分も茨城県民の一人である。それにしても鶺鴒君たちはどのようにして男女の道をガイドしたのだろうか。筑波山は男女双頭の山頂を持つことからか、男女関係にまつわる逸話などが多いようである。しかし、山そのものは、岩石の塊であって、男女のことなどをイメージさせるものは何もない。遠くからこの山を眺める人には、淡い勝手なイメージが膨らむのかもしれない。

     

鶺鴒(セキレイ)岩。この岩の上で鶺鴒が男女の道を教えたという。セキレイという小鳥は道案内をするかのごとき所作をするので、このような話が生まれたのかも。鶺鴒たちがこの辺りまで出張って来ているのかと、彼らの逞しさに少し脱帽。

御幸ヶ原に下りた頃には、先ほど着替えた上衣は再び汗で濡れ果てていた。もう汗のことは考えないことにして引き続き下山を開始する。時刻は6時35分。この時間帯になると登山者の声が多く聞こえるようになって来た。中高年層の男女が殆どなのだが、大声で話をしているのは例外なく小グループの中の女性の方である。男性はそれにつられて話している人が少し混ざる程度だ。おばちゃんの元気パワーには敬服するけど、願わくばそう興奮しないで、もっと静かな声で、話題も山の話などに限定して欲しい。自慢話や面白話は、井戸端に限定して貰いたいものだ。尤も現代では井戸端など願うべくもないから、このような場所がめっけものとなっているのかもしれない。こちとらは疲れて碌に声も出ないのに、何とも気に障るのである。中年女性の囀(さえず)りよりもやはり野鳥たちの囀りの方がずっと山に相応しい。

下山は登りよりもはるかに神経を使う。膝が笑いだしたら次回の登山は出来なくなるかもしれない。自分は左膝に爆弾を抱えており、要注意なのである。厳重にサポーターを付けてごまかして、慎重に一歩一歩を下ろす。中年おばさんの声が後ろから追いかけて来る感じで、真に落ち着きのない下山だった。おかげ様で、いつもよりはかなり早い時間での登山口への到着だった。7時30分到着。かなり暑くなり出している。今日も最高気温は35℃を遥かに超えるに違いない。筑波山神社の境内を通って、駐車場に向かう。ここで今年初めての蝉の声を聞いた。こんなに暑いのに、蝉の声を未だ一度も耳にしていないのは何か不思議な感じがしていたのだが、境内の大木に止まって鳴いているニイニイ蝉の声を聞いて、やっぱり本格的な夏が来ているのだと実感した。しかし、未だアブラ蝉の声は聞こえず、この季節にこれだけ暑いというのは、異常というしかないのだろうと改めて思った。

駐車場に戻り、今回の登山も終りとなる。大急ぎで汗を拭い、上衣とズボンを着替えて、車の中へ。下着の全てを替えたくても環境が許さない。今度来る時には旅車にしようと思った。素っ裸になって着替える環境はそれしかないなと思った次第。何となくモゾモゾとする下半身の気持ち悪さを保持したまま運転席に座り、その後はひたすら運転に専念して我が家を目指す。8時55分帰宅。もはや外気は30度を遥かに超えるものとなっていた。直ぐに風呂に飛び込んで汗などの痕跡を洗う。洗濯物は家内の手を煩わせることとなったが、今回の分は何時もよりも層倍の汗まみれだったので、洗い甲斐があるというものであろう。いや、これはどうも、毎度お世話になります。よろしくお願いします。

2カ月ぶりの登山とあって、やはり足の筋肉の使い方が平地の鍛錬とは違うらしく、ふくらはぎに少し痛みを感じた。鍛錬というのは、うまく組み合わせないと効果が出ないのかもしれない。風呂から出て、寝床に横たわりながら、2カ月のブランクを反省し、継続は力なりの箴言を噛みしめると共に、PPK実現のためにも、次回の登山までにはその後に痛みが来るようなことが無いよう、どうすればいいのか考えてみようと思った。三浦洋一郎さんの限界のへの挑戦のことを思えば、筑波山への登山だってそれを試せる要素は幾らでもあるに違いないと思っている。どんなに暑い季節でも山の夜は下界とは違っている。それを信じて、この夏は何回かの筑波登山にチャレンジしたいと思っている。

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RVパークの普及拡大を願う

2013-07-08 00:12:31 | その他

  昨日(7/7)の朝、何とはなしにNHKのTVを見ていたら、「サキどり」という番組で、「お得で快適軽キャンパーの旅」というのが放映されていた。丁度自分たちとは一回りほど若いと思われるご夫妻が、軽自動車のキャンピングカー(本来はモーターホームというべき旅車)で手軽な旅を楽しんでおられるのが取り上げられていた。恐らく旅を始められたばかりで、丁度今はその面白さと楽しさの味わいの真っ只中におられると思われ、何とも微笑ましく拝見したのだった。引き続いて見ていると、終り近くになって、くるま旅の拠点としての「RVパーク」が取り上げられ、その例として山口県萩市下田万の道の駅:ゆとりパークたまがわが紹介されていた。この紹介に合わせて知人の町田編集長が登場されたので驚いた。町田さんは、以前から何かとお世話になっているお方だったからである。このRVパークについても、何年か前に、同じ意見を話し合った間柄でもあった。そのお方がこのテーマの番組でコメンテーターの役割をなさっておられるのは、真に正鵠を射た人選であり、さすがNHKだなと嬉しく思った。自分は、RV界やくるま旅に関する過去・現在・未来について、我が国でこの方ほどたくさんの情報と知見を持たれておられる方はいないように思っており、昨日のRVパークに対するコメントも大いに首肯できるものだった。

 ところで、自分自身もくるま旅くらしの提唱者を自認しており、そのインフラの整備については、多大の関心を持っている。7年ほど前に「くるま旅くらし心得帖」を書いたのもその一つであり、リタイア後の人生を豊かにするための手だてとして、くるま旅くらしが有用であることを紹介したかったからである。しかし、これは出版社が倒産してしまい、初志は些か凋んでしまっている。現在もたくさんのガイド誌などが発行されているけど、くるま旅のハード面の紹介を中心に表面的な興味関心にとらわれた内容のものが多く、旅する者の内面を豊かにし、旅の質を高めて行くという切り口からの書誌が少ないのを残念に思っている。売り上げを伸ばすためにはやむを得ないのかもしれない。

旅というのは、観光などを中心とした単なる遊びの手段に過ぎないのかもしれないけど、自分の十数年来の経験としては、遊びというよりは学びという側面の方がはるかに大きいと思っている。そして学びという受け止め方からは、その内容を工夫し成長させてゆくことが大切ではないかと思っている。観光旅行の繰り返しでもそれなりの価値は大いにあるのだけど、それに一工夫加えることで、人生はもっともっと豊かになるのである。

 さて、そのくるま旅のインフラなのだけど、これは本来、国が力を入れて整備すべき事項ではないかと思っている。何年か前、国交省観光庁の人が我が国の観光立国について語るのを聴いたことがある。それによると国の観光収入はかなりの有用性があり、特に隣国の中国からの観光客の来訪に大きな期待を寄せているという話があった。十三億超の人口を抱える中国からの来訪者は、政治の影響があるとはいえ、次第にその数を増しており、それらを受け入れる設備として宿泊施設の不足などの話をされていた。確かにそれもあるけど、自分の旅での実感としては、中国からの来訪者がレンタカーを使って移動しているのを散見している。あれが増え出したら、レンタカーがキャンピングカーのようなものに代わったなら、この日本国は一体どうなるのだろうかと思って、ぞっとしたのだった。日本国のくるま旅のインフラとしての宿泊機能は、道の駅と高速道のSA、PA以外は何もないのである。中国人だってより少ないコストでより多くの観光をしたいと考えるに違いない。とすれば、大勢の中国人がやって来た時、道の駅もSA・PAもパンクすることは必定だ。その前にマナーの問題など、きれいごとでは済まされなくなるに違いない。国の当局者は、世界全体がくるま社会になっていることの認識が少ないように思えてならない。観光バスに乗って、団体さんとしてガイドの旗を頼りに観光する人間ばかりが観光客ではない時代が直ぐ傍まで来ているのである。それなのにインフラの方は殆ど手着かずなのである。くるま旅は一部のマイナーな存在から、その姿を変えつつあると考えるべきではないか。

 今回のRVパークは、その意味において大へん意義のあるチャレンジだと思う。国ではなく、地方行政と民間が力を合わせての取り組みだけど、大いなるエールを送りたいし、自分自身も是非萩を訪れてみたい。取り敢えず全国に9カ所、そして今年中に30カ所ほどに増えると聞いたけど、自分的には現在1000カ所近くある道の駅の、少なくともその半分くらいがRVパークを併設しているようになって欲しいと願っているし、更にRVパークの内容が利用者のみならず経営側にとってもよりレベルアップして行くことを希望したい。

 ここで、5年ほど前に自分が全国の道の駅に向けてお願いしてみようとまとめた提言書を紹介させて頂きたい。この提言書の中では、RVパークではなく、モーターホームポート(=MHP)と呼んでいる。この提言書は、結局は送付しなかった。というのは、内容が利用者サイドからの一方的なものであり、道の駅サイドからの利点に触れていなかったからである。そして利点に触れるためには、基本的には個別に対処しなければならず、それは無理だと考えたからである。(道の駅の関係者の方の心に留めて頂ければ幸甚です)

 

<道の駅向けの提言書>

 道の駅構内の有料簡易宿泊専用駐車場(MHP)の設置について

 1.提言の主旨

わが国に車社会が到来してから久しい時間が過ぎようとしています。流通における物品輸送の核としてのトラック等の自動車を始め、経済活動に係わる各種の自動車はもとより、私的な目的での自動車の使用も日常的で必要欠くべからざるものとなっております。

これらの自動車の休息、或いは地域交流・活性化の拠点として、「道の駅」の設置が全国的に進んでおりますが、その意義は車社会においては極めて大きいものと考えます。もしこのような施設が設けられなかったならば、恐らく車社会の歪のような問題現象がより多く発生していると思われ、真に当を得た施策であると考えます。

ところで、この道の駅の活用に関して、現在はその目的に沿って無料の駐車スペースが提供されておりますが、これに加えて新たに有料の簡易宿泊専用の駐車スペースを設置頂きたく、提案いたします。

現在の道の駅の駐車スペースは、休憩や交流のための一時駐車用の他に、仮眠用としても活用されておりますが、現代の車社会においては、トラック等の運送業者のみならず、トラック以外の自動車を用いた商業従事者や自家用車を用いての旅(=くるま旅)をする者等が、宿泊場所として利用している実態があり、これらは漸次増加の傾向にあると考えます。

特に下名は、くるま旅を提唱する者でありますが、近年いわゆる団塊の世代と称される人々の大量の定年退職の時期を迎え、現役時代にはできなかった車を用いての旅のニーズが富に高まっていると思料いたします。これらの世代は、車社会が当然のものとして現役時代を過ごして来た人たちであり、今まで現役時代に果たせなかったくるま旅の夢を、時間的にフリーになったこれからの暮らしの中で実現しようと考える人は少なくないと思われます。

ところがいざ旅に出ますと、現状では、これら旅車を受け入れる宿泊環境(旅する者のくらしのベースは、年金を頼りとする場合が多いと思われ、よりコストのかからない安全な場所を希求)が見当たらず、多くの人が道の駅等に頼っている状況があります。しかし道の駅は、元々これらの人々を対象として設けられたものではなく、夜間は主としてトラック等運送業者の仮眠利用場所として想定されてつくられている向きがあり、旅の者の車は、騒音、排気ガス等で困惑する実態にあります。

また、くるま旅の者は、宿泊を前提としているため、一部の不心得者の中には、駐車場の長期使用やキャンプ様の使い方をしたり、洗面所を汚損させたりして、他の利用者に対して迷惑をかけている状況も散見されます。単なるマナーの問題だけではなく、無料の公共施設を使うことに対する安易感によるところもあるように思われます。

このような状況からくるま旅を目指す者にとっては、その宿泊受け入れ環境は極めて厳しい状況にあります。欧米諸国においては、くるま旅は旅の一手段として世の認知するところであり、それに相応しい受け入れ環境も整備されていると聞きますが、わが国においては、未だその考え方は一般化に至っておらず、一部の者の道楽的な所業の如くの理解に止まっている感じがします。

これからの世の中が、車社会を抜きにしては考えられないことを思えば、くるま旅という旅のスタイルは、我が国においても、欧米並みに一般化する可能性は高く、そのためのインフラ整備は不可欠ではないかと考えます。もし現状のままであれば、道の駅等公共施設での不具合事項の発生は後を絶たないものと思料いたします。

ところで、我が国の現状においては、新たな簡易宿泊専用の駐車スペースを確保することは、土地の確保においても或いは財政的な面においても困難性の高いものと思われます。それらの状況を乗り越えてその実現を図る方法として、先ずは既存の道の駅構内への併設を実現させて頂きたいと願うものであります。その具体的な展開に当たっては、道の駅の個々の状況に合わせて可能性を検討し、可否を判断することが必要と考えます。

簡易宿泊専用の駐車スペースを有料とするについては、宿泊のために必要な電源設備等を具備する必要があり、これら諸設備の維持管理のためのコストは、受益者が負担するのが当然と考えるからです。

尚、この提案では、有料簡易宿泊専用駐車場をMHP(Motor Home Port)と呼ばせて頂くことにします。以下にその提案の概要等について述べます。

 

2.MHPの必要性の背景

くるま旅とは、基本的には自動車を用いて、車内宿泊をしながらその目的を達しようとする行為を意味すると考えますが、それは、①業務用目的での車内宿泊と②私的目的での車内宿泊、とに大別されると思います。

①については、その代表的なものがトラック等輸送業に係わる人たちであり、トラック以外にも商業用の自動車を用いて移動を続けるケースが該当すると思います。これらのニーズについては、ある程度社会的に認知されているところでありますが、その実態としては、単に所定駐車場に留めた車の中で眠るに止まり、宿泊環境としては、かなり課題の多いものとなっています。すなわち、トラック等は仮眠用のスペースが車内に設けられてはいるものの、冷暖房等のため常時エンジンを駆けっぱなしの車が放置されている状況にあり、騒音と排気ガスの問題は、時と場所によっては、諸規制を上回る公害をもたらしている様にも思われます。

また、商業用の車の場合も大同小異であり、エンジンをかけたまま狭い車内で一夜を明かす旅の連続を強いられていることが多いようです。もちろん、然るべき宿泊施設を利用することが第一でありますが、経済的理由等でそれが叶わぬケースに対しては、何らかの快適性を備えた施設があっても良いのではないかと考えます。

②については、このところいわゆる団塊の世代と呼ばれる人たちの大量定年退職の時期を迎え、そのリタイア後の過ごし方の一つとして、車を用いての旅を企画する人たちが急増しているという実態があります。この世代の人たちは、車社会を当然のものとして受け止めて現役時代を過ごした人たちであり、現役時には果たせなかった旅の夢を、時間に余裕ができたこれから、車を用いての旅として実現させてゆこうと考えています。これらの人たちの要望に応えるべく、それに適う旅車の製造も急増の傾向にあります。又、これらのくるま旅指向の人たちの多くは、年金暮らしを余儀なくされており、できるだけ少ないコストでより豊かな旅を経験したいと願っている様に思われます。

然るに旅の実際では、本来活用すべきオートキャンプ場等の専門宿泊施設は、料 金が高額に設定されているため、なかなか利用できない状況にあり、そのため無料の宿泊場所として、道の駅や高速道のサービスエリアなどに依存することを余儀なくされています。しかし、これらの場所の駐車スペースは、あくまでも休息と仮眠レベルで設置されており、くるま旅などを考慮したものではありません。

この様な現状から、①②の道の駅の利用者のために、有料ではあってもより車での宿泊に適った駐車スペースを設けることが、これからの車社会のニーズに応えるものと思料します。

 

3.MHPの要件

有料簡易宿泊専用駐車場の設置に当たっては、以下のような要件を満たす必要があります。この要件は、あくまでもトラックを除く自動車を用いての宿泊に関するものであり、有料スペースの利用を必要としない場合には、現行の仮眠レベルで支障はないと考えます。

①低料金(千円以下/1泊を目途)であること 

ある程度の利便性と安全・安心を確保するためには、コストが必要であり、受益者負担の原則に当てはめる必要がありますが、収益性よりも公共性を重視するのが妥当と考え、1泊あたりの料金として千円以下を目途に設定されることを希望します。

②給排水施設(共同使用)があること

宿泊に関しては、給排水が不可欠であり、これが可能となるように設備を設置する必要があります。現行の施設に若干の手直しを加えれば十分可能と考えます。

③トイレ・手洗い所(共同使用)があること

これについては、現行の道の駅においては既に完備されており、新たな設置は不要と考えます。

④電源の供給設備があること

 現代では、電気は如何なる場面でも暮らしには必要不可欠となっており、これに応えるために、有料で個別に料金の支払いができる設備を設ける必要があります。コイン等を投下することで必要な時間だけ電気を供給できる設備を、各駐車スペース毎に設置する必要があります。

⑤ゴミ処理施設(有料)があること

ゴミ処理の問題は、長期間の旅をする者にとって、かなりの関心事であり、適切な処理が望まれるところです。現状では不法な処理が多く見られ、各関係者を困惑させる状況が多発しています。利用者のマナーの悪さを議論してもさほどの効果は期待できず、MHPにおいては、有料にてゴミ処理を受付け、対処することが肝要と考えます。

⑥専用宿泊スペースとして必要な広さが確保されていること

これは基本的には旅車を対象とする場合の要件ですが、旅車にはオーニング(日除け)等の設備が付帯しており、これらのある程度の使用を容認する程度のスペースを、車の大きさに合わせて複数種類確保することが必要と考えます。

⑦共同炊事場(可能であれば)

 ②の給排水設備に併せて、共同で使用できる小規模の炊事場があれば極めて有用と考えます。くるま旅をする者の多くは、食事を外食に依存することなく、自車の中で調理して対処しています。この場合、炊事場がないと不心得の者はトイレ・洗面所等にて洗浄等を行い、一般の人たちに迷惑をかけているケースが散見されます。簡易炊事場が望まれる所以です。

⑧その他

*MHPのスペース全体を他の駐車場から差別するため、フェンス等で囲む必要がある。

*MHPへの車の入出庫は、無人の自動管理システムを取り入れ、省人化を図るものとする。

*個別の駐車帯については、その仕切りを線引きではなく、低い金網等の柵で行うようにする必要がある。

 

4.MHPのイメージとモデル

MHPの設置の可否や規模・形状は、現在の道の駅の夫々の状況によって全て異なるものであり、決め手となるようなモデルを示すことは困難ですが、基本的な要件を備えたものとして、取りあえずレイアウトと管理要領およびイメージ図を別添します。 (ここに掲載するのは省略しました)

 

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改めてPPKへ挑戦する

2013-07-06 15:36:16 | 宵宵妄話

  江戸時代ならば、古希を二つ三つ過ぎれば疑いも無き古老という世代の仲間入りとなるのでしょうが、現代ではもしかしたら初老に過ぎないという世代範疇に入るのかもしれません。それほどまでに今の世では古希を過ぎた老人が群を為しており、平均寿命も古希どころか喜寿(=77歳)さえも上まっています。

 ここ2~3年、何かと老を巡る話題に関心が向いてしまっているのですが、それは勿論自分自身が老いの坂を下るスピードが増していることを実感しているからであることは言うまでもありません。そのような中で、今回は家内の母の緊急入院という出来事を体験し、改めて自分のこれからの人生というものについて考えさせられました。そのことについて少しく所感を述べてみたいと思います。

 高齢者の肺炎は命取りになるケースが多く、大変心配したのですが、幸いにも母は峠を乗り越えてくれて、胸をなでおろしているところです。齢は間もなく八十九、数えでは卒寿になろうとしています。病室に小さく横たわる母を見ていると、少し昔に400日の入院の後であの世に旅立った自分の父の姿が思い起こされ、更にその姿はあと十数年後の自分のそれに重なって、何とも複雑な心境になりました。

 人生五計は、中国宋時代の朱新仲という方のことばですが、生計、身計、家計、老計、死計の五つの計りごとの最後の二つ、老計と死計について、自分自身は「死計は老計の中にあり」と考えています。しかし、さてさて、この老計なるもの、いざ現実となると、その生き方には戸惑いやためらいが多くて、理屈との乖離はとめどもないものがあります。恐らく老計をまさぐりつつ、気がつけば死計の終わり時点に来ていたというのが、これからの自分の生き様なのではないかと思うこの頃です。

ということで、ある程度は現実の己の姿をもう一つの鏡に映しながらも、このままであってはならないと決心したのは、俺は改めてPPKへ挑戦するぞ!ということでした。PPKはTPPとは違います。

横道に逸れますが、TPPへの挑戦は世界のしがらみの渦の中に取り込まれなければ生きてはゆけない功利主義の世界に住む人々の話であり、それはやがてなし崩し的に思惑が実現され、利する者が滅びゆく者を無視して生き長らえて行くことに連なってゆくこと思います。

私の言うPPKは、TPPとは違って、真に勝手な個人の問題であり、己れ一人が意を決して挑戦すればそれで良いだけの話です。即ちピン、ピン、コロリという死計のスタイルを意味しています。TPPよりもはるかに簡単明瞭なコンセプトですが、その実現は真に厄介で困難な道のりの先にあるという感じがします。

何故PPKなのかといえば、もう何度も述べて来ていることですが、病の寝床の中でこの世への別れを実現したくはないという一念なのです。病床の中では、恐らく何本もの管を身体に差し込まれて、身動きの取れない状態に置かれることでありましょう。そこに転がっているのは、もやや己の意識さえも失った枯葉の様な肉体だけの自分のように思えます。そのような姿を人目にさらしたくはないし、それを見る人を悲しませたくはないという、強い、強い願望があるからなのです。

PPKという死計は、気がついたらあの世に居たというスタイルの死に方です。尤もあの世の世界に「気づく」という現実があるのかどうか不明ですが、この世と別れる直前まで、何ごともなかったようにピンピンと生きているということが絶対条件です。昨日と同じような普通の暮らしを、何ごとの変わりもなく過ごしている中で、ある日のある時、眠りから目覚めることなくあの世に渡っている逝き方というスタイルです。

このように、PPKの実現のための不可欠の要件は「健康である」ということです。健康には二つの側面があり、その一は身体的側面、もう一つは精神的側面です。つまり心と身体が揃って健康でなければならないということですが、先ずは物理的に老化の道を辿らざるを得ない身体的な側面の管理をどう行うかが最大の課題です。私の場合は、糖尿病という厄介な障害要因を抱えており、これから先もこれと如何にして良好な関係を維持して行くかが、健康の一つの決め手となると考えています。もう20数年来のお付き合いであり、お互いの気心は解っていますので、如何に今まで築いてきた幾つかのルールを守り続けるかが大事だと思っています。

又、精神的側面では、頭(=脳)をいたずらに眠らせないことが重要で、それは考えるばかりの頭でっかちになることではなく、何よりも好奇心を眠らせない行動力を指令する力を維持したいと考えています。こちらの方は身体的側面と違って、心がけ次第で何とかなることだと思いますのでそれほど心配はしていません。でも普段ついうっかりと安易な方へ気持ちを持って行きがちですので油断大敵です。

話は変わりますが、健康に関して絶対に罹ってはならない病に認知症があります。これは明らかに高齢者の現代病です。私は人間の罹る病の中で、この認知症ほど恐ろしいものはないと思っています。何故ならこの病は、生きながらにして人間という存在を失わせてゆく症状の病だからです。世の中に己を忘れて生きている人は無数に存在しますが、その殆どはそのことに気づく力までを忘れてしまっているわけではありません。しかし、認知症は、その力までを失わせる病なのです。この病に罹ったら、PPKもヘチマもありません。病の為すがままに振り回される、意志すらもない一個の物体となり果ててしまう如き症状であり、それを取り巻く多くの人の悲しみさえも伝わらないというのは、何と恐ろしいことなのか。どんな苦労をしても、この病だけは回避すべきです。

その回避方法に正解があるのか分りませんが、唯一今自分が思って心がけていることは、頭(=脳)を使って好奇心を奮い立たせながら動く、行動することです。人はその時が来るまで、周辺のあらゆるものに好奇心を抱き、面白そうなことに絶えずチャレンジし続けることが大切なのだと思います。立ち止まって、俺の人生まあまあだ、良くやったものだなどと、ちょっとでも満足感や満たされ感に酔ったりしたなら、或いは何か大切なことを諦めたりしたなら、高齢者には、たちまちその瞬間に認知症の毒の芽が忍び込むのではないかと思っています。つまり、認知症というのは、老人が罹り易い最大の心の弱点(=自己満足・諦め・見切り・無為など)が引き金となって発症するのではないかと、そのように思うのです。

PPKへのチャレンジは、総合的に見て「くるま旅くらしの充実化」の中にあるように改めて思っています。ここ十数年間のくるま旅の経験を踏まえて、更に生きがいややりがいを旅の中に見出してゆくことが、PPK実現のキ―となるのだと思いました。旅の中に面白いものをもっともっとたくさん見つけ出し、それを存分楽しみ、更に新しい楽しみをつくることにチャレンジして行くことが、PPKへの道なのです。そしてPPKを忘れるほどに楽しみに現(うつつ)を抜かすような暮らしが出来てこそ、PPKが実現出来るのだと思います。これから先も、その実現にチャレンジして行く、そのことを今強く思っています。

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