山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

酒のラマダン顛末のその後

2013-04-29 01:22:13 | 宵宵妄話

  断酒約2カ月の結果、糖尿病のバロメーターのHa1cが少しも改善されず、直ちにラマダン行為を破棄し、美酒(?)に酔った、というような報告をしたのですが、その後のいきさつについても報告しておきたいと思います。というのも、私と同じように酒飲みの悪癖から逃れられず、その上に糖尿病を患っている方のためにも、大いなる訂正とお詫びをしておかなければならないという事情があるからです。

 結論から言いますと、努力は報われたのでした。3月26日の検診から約1カ月経っての4月の検診で、Ha1cは7.1から一気に6.4に下がるという結果を得たのでした。自分的には、この数値は未だ依然としてグレイゾーンであると認識していますが、6.0を切るのを目指している者としては、一応の嬉しい結果となり、一時ではあれ、むかっ腹を立ててあと数日のラマダン期限を守らなかったというのは、やはり過ちでした。断酒など無用の効能だなどと先走った行為と言い触らしを深く反省した次第です。

医者の説明では、冬期の断酒や節酒の成果は、データに反映されるのが遅くなる傾向があり、更に個人差もあって、2カ月以上かかってそれを見ることがよくあるそうで、自分の場合は、早まって判断したということなのでした。2カ月の断酒は決して無駄ではなかったのでした。従って、もし私のブログをお読みになって、酒と血糖値はあまり関係が無い、酒を飲んでも大丈夫などと喜ばれる方が居られてしまったとしたら、これは大問題となりますので、改めて暴言を訂正いたしますと共にお詫び申し上げます。

 実のところ、むかっ腹を立てたのは、単に断酒だけではなく、食事のカロリーコントロールも相当に力を入れ、喫食は1日20単位以内(1単位は80kcal~1600kcal)という目標を決め、毎食の記録を録り続けてチエックしていたのですから、それが何の改善も見出せないとなると、そのような心理状態となるのは、自分の場合はごく自然なことなのでした。要するにせっかちということなのでしょう。自分と同じような事態で悩まれる方は、せっかちを抑えてじっくりと節酒や断酒に取り組まれることを改めてお勧めいたします。(何だか、今になってこんなことを言うのは、空々しいような気分もあり、決して大きな声では申し上げません)

 ところで、むかっ腹をたてた時に直ちに酒のラマダンを投棄し、久しぶりの美酒に酔った後、次なる取り組みとして、三浦雄一郎さんに倣って、身体に負荷をかけて歩くというのを思いついて、直ぐに実行に移したのですが、それは約1カ月経った今でも、毎日続けています。この頃の負荷量は約15kgです。背中のリュックに毛布に包んだ5kgの鉄アレイと2Lの水のペットボトル2本、両足に各1kgのウエイトバンド、両手に各1.5kgのダンベル、合計で14kg+αを持っての、1時間半ほどの歩行(=約1万歩強)は、酒のラマダンよりもかなりハードさを感じています。簡単にいえば、10kg入りの米袋を背負い、5kgの米を手足に分散して持って、1時間半ほど休みなしで歩くということで、ま、普通の人から見れば、正気の沙汰とは思えぬ振る舞いかと思います。わざと発汗を意図して着る物も増やしていますので、家内の毎日の洗濯量はかなり増えている筈です。

目立たぬようにと早朝に行っていますが、重いザックを背負って手かせ足かせの身を運んでいると、徳川家康の人生訓をどうしても思い浮かべてしまいます。「人生とは重き荷を背負いて遠き道を行くが如し」という奴です。今更何でこんなことをしているのか、もっと他にやることがあるだろうと、我が身に言い聞かせたりしているのですが、一度己が決めた罠には、とにかく楽しんで嵌って見るというのが、老計・死計の秘訣のような思いもあり、今現在を目一杯楽しみながらあれこれやって見ようと考えています。

 この苦行の当面の目標は筑波登山で、この山は我が家からは30kmほど離れていますが、登り始めたならば、旅に出ていない間は、毎週1回は登りたいと考えています。80歳までにあと8年ありますから、少なくとも100回くらいは登れるのではないかなどと目論んでいます。四国の88箇所巡礼を100回以上も行っている人も何人もおられるのであり、大したことではないと思っています。それにしても三浦雄一郎さんには、是非とも80歳のエベレスト登山を達成して頂きたいと強く願っています。恐らく、決死の思いを胸に秘められてのチャレンジなのだと思いますが、淡々としてそのありようを述べられる姿は、私の大きな力となっており、僅か15kgの試練など大したこともないと思っている次第です。

 何れにしても、根はデタラメなので、これからは酒の方もラマダンなどは避けて、適当に楽しむことにしています。先日「明るい農村」の霧島町醸造所が、鹿児島県の本格焼酎鑑評会で1位になったあと、今度は熊本国税局鑑評会(鹿児島、宮崎、大分、熊本の4県所管)でも優等賞に輝いたとのニュースが届き、大いに気を良くして、記念発売の3升入りの瓶入り5年古酒を発注しました。昨日それが届き、伊賀焼の重厚な壺に入ったそれを見て、実に感無量の気分でいる現在なのです。これからしばらくは、この壺の封を切らないことにして、酒神への感謝をこめて、毎朝その壺を拝しから、歩きに出掛けることにしたいと思っています。酒はほどほどにたしなめば、糖尿君も許してくれるのではないかと、そう思うことにしています。バカバカしくもある、変な老人のお話でした。

     

我家の台所のカウンターに鎮座する明るい農村の5年物原酒。酒神への感謝のシンボルとして、毎朝この壺を拝してから歩きに出掛けることにした。このようなバカげた振る舞いが、老の活性化につながれば、それはそれで意義ありだと思う。

 

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滝桜を見に行く(その2)

2013-04-25 04:58:18 | くるま旅くらしの話

次の目的は三春の町並みを歩くということなのですが、今まで何度か滝桜を訪れているのに、実はまだ一度も町の方へは行ったことが無かったのです。滝桜や地蔵桜などだけを見て町の市街は無視という形です。よく考えるとこれは随分失礼な心がけです。三春は秋田家5万石の城下町だったことは知りつつも、幕末の戊辰戦争における奥州列藩同盟の裏切り行為が気に入らず、わざわざ見ることもなかろうなどという時代遅れの気持ちがどこかにあって、何となく敬遠していたようなところがあったのです。しかし、この歳になると歴史の批判者ではなく、容認者としての考えの方が強くなっており、今はもうそのようなこだわりなどは遺棄することにしています。戦時における為政者の裏切り行為というのは、時には住民・治世の民の生命や安全のためには却って益することもあるのであり、一概に後世の価値観でその裏切りを決めつけて批判するのは滑稽ということに今は気づいています。三春藩が寝返ったことは、戦争の犠牲者を少なくするということと、戦後の立場を有利にするという点からは、治世者としての適切な判断だったのかもしれません。古希を過ぎてようやく少し丸くなり出したようです。

ま、そのようなことを考えながら、取り敢えず三春町の役場を目指しての出発となりました。滝桜周辺は一方通行となっており、帰り道はダム湖の中の橋を横切って少し遠回りをする感じのコースとなりました。三春ダムの三春湖には、ハイキングコースや公園などが作られており、何度かそれらを歩いたことがあります。今頃だと、カタクリやキクザキイチゲや二輪草などの野草が群れなして花を咲かせている場所があるはずです。今日はそれらを見ることもなくパスしてしまうのはちょっぴり惜しいような気持でした。間もなく三春の街に入るR288に出て、役場の駐車場に到着しました。ところが超満車で、車を入れるまでに少し待たなければなりませんでした。三春町では、滝桜の開花などに合わせて観光まつりのようなことを行っているらしく、駐車場の脇には案内のテントが張られ、(私よりは少し)若い年配の女性の皆さんが応対に当たられていました。そこへ寄って、町並み散策の資料等を頂き、ざっと説明を伺って、ぶらり歩きを開始することにしました。

三春町というのは、小高い幾つもの山の谷間のような盆地に町がつくられていて、役場のある中心街辺りは、山の中腹まで寺院・神社や民家が広がっている感じでした。真っ直ぐな道が殆ど無く曲がりくねった道々は、その昔は外敵を防ぐための天然の鍵道として、この城下町を支えたのかもしれないなと思いました。先ずは文化伝承館というのを訪ねることにして、そこへ向かいました。大通りから少し入った路地を5分ほど歩くと坂の中腹にそれらしき建物が見え、中に入るとそれはどうやら明治辺りに造られた富豪の屋敷のようでした。建物のことはあまり解らず、これは家内の方が詳しいのです。(家内は江戸東京たてもの園で建築物の説明ガイドをしていたことがあり、いろいろ理屈などを勉強していてかなりうるさい?のです)しかし、全く素人の自分が見ても、何気ない風に見える建物内部の床柱や床の間などに、黒檀や紫檀・白檀などの用材が使われているのは判り、その豪華さに驚かされました。柱1本で何百万円もする凄さです。それが何気ない使い方であるのが、昔の金持ちの意図するところだったように思いました。明治時代に生糸を初めとする外国との交易で財をなした吉田誠次郎という方が、この屋敷を造られたとか。特に2階の座敷からは、今ちょうど満開の桜が丸窓の外に花吹雪をちらつかせて、何とも言えない風情でした。その昔、金持ちの人はここで何を考えていたのかと、ふと思ったりしました。金を持ったことのない馬の骨は、羨望よりも虚しさのようなものを感じてしまうのは、貧しき習いなのかもしれません。

その屋敷の上の方に大きなお寺があり、行ってみると紫雲寺とありました。本堂の左側の方に立派な石灯篭が両側に並ぶ大きな石碑が建っており、何かなと思ったのですが、それは明治の初期の自由民権運動に活躍した河野広中という方の遺髪を納めた塚ということでした。そういえば、先ほど通って来た小道の脇に自由民権運動にかかわる加波山事件のことを記した顕彰碑があったのを思い出しました。三春町は、自由民権運動にかかわる多くの人物を輩出しているのだというのを、今になって知った次第です。加波山といえば、茨城県の筑波山に連なる山の一つであり、加波山事件のことは何となく知ってはいましたが、三春町の人たちとこのような形で関わり合いがあったことを初めて知りました。帰宅してからもう少し調べてみたいなと思いました。これも旅の楽しみ(=後楽)の一つなのです。紫雲寺の墓地の方にも上ってみましたが、ここからは三春の町が眼下に一望出来て、たくさんの民家の庭々に紅白様々な花の咲くのがぼーっと霞んで、まさに三春の春の眺めなのでした。

   

紫雲寺の墓地のある丘の上からの三春町並みの眺望。未だ樹木は冬に掴まえられているけど、花を咲かせる木々はもう春を謳っていた。

紫雲寺の坂を下りて先ほどの小道を少し行くと神社があり、そこにはソメイヨシノと思しき桜が、境内を真っ白に飾っていました。王子神社というのがそれで、土地の人たちは「王しゃま」と呼び親しんでいる、と案内絵地図に書かれていました。家内はカメラを抱えて元気よく石段を登ってゆきましたが、自分の方は何だか急に腹が減って来て、動くのが億劫になり、直ぐ近くにベンチのある休憩場所があったので、そこに腰かけて桜を見上げて鑑賞することにしました。とはいっても、何しろ先ほど滝桜やその他たくさんの桜の花に酔って来たばかりですので、この神社の境内の桜はただ白っぽくて愛嬌が薄いなと思っての眺めだけなのでした。ここから見ると隣が先ほどの吉田家の屋敷で、2階の丸窓から観た桜はこの神社のものだったようです。

   

王子神社の石の鳥居とソメイヨシノの花。王子神社は本は三春城内にあったものをここに遷したとか。

神社の先を少し行くと大通りに出るのですが、訪ねようと思っていた幾つかのお寺は、その大通りをしばらく歩いた丘の中腹にあり、もう歩く元気もなくなって、とにかくどこかで昼食にしようと思いました。いつもだと車に戻って何か作って食べるのですが、今日はここで何か食べることにした次第です。何を食べるか思案した結果、蕎麦が良いという結論になり、探して少し歩くと蕎麦屋がありました。蕎麦の専門店ではないようでしたが、とにかく探すのは面倒なので、中に入ることにしました。ところが満員で少し待たされることになりました。自分はこの「待たされる」というのが嫌いで、たいていは行列のあるような店には入らないのですが、今日は余ほどに腹の減り具合が異常だったらしく、我慢して待ったのでした。10分ほどしてようやくテーブルに着くことが出来、メニューの中から「三春そば」というのを選びオーダーしました。10分もあれば出てくると思っていたのに、それからあと20分近くも待たされて相当にイライラしました。おまけに相席で前に座った人が、脂ぎったラーメンを何やらタブレットを覗きながらノロノロ食べており、その向こうの席には後から入って来た3人組が、辺り構わずタバコをふかして煙をこちらに押し掛けさせ、もう散々でした。普通ですとこのような状態の時は途中で食べるのを止めて外に出て、二度と入らないということになるのですが、この時はどうやら我慢が叶ってようやくその三春そばというのにありついたのでした。良い味だったと思いますが、それを味わう気持ちは薄れ、もうこの店だけには入りたくないという思いの方がはるかに勝っていました。その店の名誉のためにもここに紹介するのは止めますが、このようなへそ曲がりには、その町のたった一店のサービスの在り方が、町全体の印象を悪化させるということを考えて見て欲しいなと思った次第です。ま、これは言う方が改めるべき態度なのかもしれませんが、食べ物の恨みは何とやらということもあり、特に飲食店の人は要注意だと思います。

そのようなこともあって、何だかもうこれ以上歩き回る気が無くなり、今回は三春の町の散策はこれで止めることにし、車に引き上げることにしました。その途中に地酒を扱う店があり、どうしても避けて通るわけにはゆかず、三春駒という地酒を1本手に入れました。今度三春に来る時は、もっと計画的に目標を決めて歩くことにします。ま、今回は下見の下見といったところです。

   

三春小学校の正門。これでは見えないけど、門の正面上部には「明徳堂」の立派な掲額がある。きりっとした学び舎の風格があった。

13時半過ぎに三春を出て、帰途に就きました。一先ず向かうのはR118沿いにある道の駅:はなわです。途中の経路がややこしいので、ナビ任せにすることにしました。役場前を出て間違って反対側を行ってしまったのですが、そこはR288のバイパスで、ちょうど滝桜への入口の箇所でした。交差点の向こうまで渋滞が始まっているらしく、滝桜まではここからは数キロはあるでしょから、これから桜を観ようとする人たちは大変だなと思いました。滝桜に到着するのは夕刻近くになってしまうのではないかなどと、余計なことを考えながら皆さんの辛抱強さを称賛した次第です。

ナビに従ってR288の旧道に入って進むと、それから後のナビのガイドは、何と郡山の市街を通ってR4で須賀川まで行き、そこからR118に入るというコースなのでした。これではかなり遠回りとなり、しかも混雑の中を行くことになり、失敗したなと思いましたが、戻る気にもならずそのまま従うことにしました。郡山市は福島県ではいわき市に並ぶ人口の多い市ですが、密集度は高く、従って市内を走る車も多く、随所に渋滞が待っていました。R4のバイパスもあるのですが、我が古いナビはそのようなことは知らないらしく、久しぶりに街の中のR4を走らされました。ナビは道路の混雑状況などを判別できないのですから、これは仕方のないことです。須賀川でR118に入ってからの流れは順調で、道の駅:はなわには15時過ぎに到着しました。途中はただ運転に集中するのみです。そして家内は居眠りをするのみです。

道の駅で休憩して一息入れて、次は茨城県に入って道の駅:奥久慈だいごを目指すのですが、この時考えが変わり、この時間だと大子には17時前に着いてしまいそうだし、あそこは温泉があっていいのだけれど、駐車場は泊るにはあまり向いていないつくりになっていることを考え、泊るのを止めて、少し遠くなるけど、那珂川沿いにある道の駅:かつらまで行くことに変更しました。かつらには隣接する無料のキャンプ場もあり、泊りにはもってこいの場所だからです。大子から水戸にかけてのこの辺りは自分が育った地でもあり、土地勘もありますので、まあ、自分の縄張り内といったところでしょうか。

ということで道の駅:はなわを出発してからは、福島県最南の矢祭山町を経由して、清流久慈川の流れる大子町に入り、これも走り抜けて、我が故卿の常陸大宮市に入りました。今は市となっていますが、それまでは5つの町村に分かれており、自分の育ったのはその中の大宮町なのですが、その隣に山方町というのがあって、山紫水明のなかなかのエリアなのです。ここは自分の母の出生地でもあり、大宮町と併せて懐かしさを覚える場所です。その山方町で干麺を製造販売しているところがあり、ここのうどんはなかなかの名品なのです。我が家ではここのうどんを常備しており、在庫が少なくなっていたので、それを補給し、更にもう一箇所「舟納豆」という、これもなかなか評判の納豆屋さんの店があり、そこにも寄って、舟形に模った経木に入れた上質の納豆を、少々買い求めたのでした。

その後は、我が家のある鷹巣というエリアを通過しましたが、もう遅いので実家には寄らず、そのまま道の駅:かつらに向かいました。かつら到着は18時過ぎでした。道の駅の売店はもう終了の準備をしており、ざっと覗きましたが、特に買う物も見当たらないので、車に戻って夕食の準備に取り掛かりました。といっても大したことでもなく、ご飯も炊かずに余りものを口に入れて、ビールで一杯やってそれで終わりです。一昨日から400kmほど走っており、疲れの方も溜まって来ているので、その後の就寝は、二人とも余計な時間は不要でした。

翌日は、これはもうどこにも寄らずにただ我が家を目指すだけでした。ただ、いつも通る笠間市に抜ける道を通らずに、R123を行って、茂木町や益子町経由で真岡市に抜け、我が家につながっているR294をひたすら南下したのでした。そのまま行けば10時頃には我が家に到着となる筈なのですが、途中筑西市に入って筑波山のことをふと思い出し、この山の中腹近くにある筑波高原キャンプ場(桜川市が経営)のことを真壁の役所(桜川市真壁庁舎)に寄って訊いてみようと、急に思い立ったのでした。というのも、現在三浦雄一郎さんに倣って毎日10kgほどのザックを背負って、1万歩以上歩いており、その鍛錬の延長線上に筑波登山を描いているのです。そのための幾つかの基地候補の一つに旧真壁町が経営していた筑波高原キャンプ場があり、そのことを知りたいと予てから考えていたのでした。

筑西市街から急遽左折してR50に入り、県道経由で桜川市の真壁庁舎を目指しました。この県道は初めて通る道でしたが、途中に変な案内板があるのに気づきました。何と、「安倍清明生誕の地」とあるのです。止めて見るのは面倒なので通過してしまったのですが、何だかあり得ない話のように思いました。陰陽師の草分けとして名高い、土御門家の始祖でもあるその人が、常陸の国の斯様な場所で生まれたとは聞いたことがありません。関西エリアの人に決まっている筈ではないかと思いながらも、何故か気になり出しました。しかしまあ、このことは後日に調べることにします。

10時前には真壁庁舎に着いて、早速観光課を訪ねて資料等を頂き、キャンプ場までの道の様子などを伺いました。丁寧に説明頂き、事情了解です。それによるとキャンピングカーでもキャンプ場まで行けるということでしたので、ものはついでだからちょっと寄って見ようということになり、そこからはキャンプ場までの登山道を行くことになったのでした。何しろそのキャンプ場は標高500mくらいの所にあり、平地から登ると結構高さを感ずる場所なのです。教えて頂いた道を登る途中は舗装された良い道だったのですが、残り2km弱の道は突然悪路となりドキドキさせられました。ようやくキャンプ場に着いて安堵したのですが、そこの駐車場は満車に近い登山客の混み様で、これはキャンピングカーでの登山基地としては難しいなと思いました。その後、下山したのですが、途中から道を間違え、来た道とは違った予想外の悪路に出くわし難渋しましたが、結果的には嬉しい薬王院という古刹に巡り合い、十二分に良い経験をした寄り道でした。この辺のことは別途機会があればお伝えしたいと思います。とにかく、車を壊し損なうほどの悪路から逃れて、ようやく我が家への道に辿り着き、三日ぶりの我が家に着いたのは、お昼の少し前でした。これで、滝桜見物の話は終わりです。

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滝桜を見に行く(その1)

2013-04-21 21:31:55 | くるま旅くらしの話

久しぶりに三春の滝桜を見に行ってきました。2011年3月、東北の大震災があって、それまで毎年訪ねていた東北地方を巡る春の旅を、以降取り止めていたこともあって、滝桜もその旅の中に組み込まれていたため、3年ぶりの訪問となったのでした。花を観るといえば、やはり桜が第一であり、長い間厳しい冬の寒さに追い回され、春の到来を願っていたものたちにとって、桜の開花は一番そのことを笑顔で伝えてくれる証明なのです。

我が家の近くにも桜の名所は幾つかありますが、日本全国で桜の名所が皆無などという市町村はありえないような気がします。桜の名所といえば、大抵は多数の樹木が群れ咲いている場所をいうことが多いと思いますが、自分的には個体の、一本桜に惹かれます。実生の幼木が初めて花を咲かせたばかりの一本桜にもワクワクしますが、何といっても数百年を超え、千年を超えてなお美しい花を溢れるほど身にまとって咲かせる桜の老木には、興味や関心を超えた畏敬や尊厳を覚えるのです。全国には、何本かのそのような桜の老大木が存在しますが、その中で私が最も崇敬しているのが三春の滝桜です。日本三大桜というのがあって、その取り上げ方に幾つか差もあるようですが、この滝桜の他に山梨県の武川の神代桜、岐阜県の根尾の薄墨桜を挙げるのが一般的なようです。残念ながらまだ根尾の薄墨桜だけは見る機会を得ておらず、写真や映像で見るばかりですが、神代桜にはお目にかかったことがあります。この他にも山形県の久保桜や大明神桜など老大木に幾つかお目にかかっていますが、それらの中で群を抜く樹勢を持つのは三春の滝桜だと思います。

初めて滝桜を観たのは、花の季節ではなく葉桜から少し経った若葉の季節でした。新緑に彩られたその巨木の姿は、もうそれを観るだけで大感動でした。花の姿の時とは全く違った逞しさ、力強さに圧倒されたのでした。でも、やはり滝桜の心根は花の姿にあるような気がします。毎年花の季節には、たった一本で十万人以上もの人々を呼び集めるという、その力は尋常なものではありません。ただその傍にいるだけで多くの人々を癒す力をこの大樹は持っているのです。凄いことだと思います。

さて、その滝桜を見に行ったという話なのですが、今回は2泊3日の行程でした。何度か滝桜を訪れている内に、観桜のスタイルも決まってきました。いつもは前日に高速道の阿武隈高原SAに泊って、当日の早朝に滝桜近くの観桜用駐車場に出向くのですが、今年からはSAではなく、直接駐車場に前泊させて頂くことにしました。今日の観桜客の最後の人たちが帰られる頃に駐車場に入って車を留め、そこで一泊させてもらい、翌日じっくり桜を見物させて頂くというやり方です。泊っても良いかどうか掛かりの方にお訊きすると、問題ないということでしたので、あとは自己管理だけです。SUN号はトイレがありますので、夜間に小用にトイレを探す必要もなく、第1日目は、家内と二人軽く前夜祭をやって、そのまま就寝となりました。夜中に一時少し雨が降ったようでしたが、翌日は花曇り気味の温かい天気となり、絶好の花見日和となりました。

   

早朝の駐車場とSUN号。6時前の駐車場には、さすがにまだ殆ど車は入ってきていない。周辺至る所に桜の花が咲き乱れて、まさにこの地は春爛漫という世界だった。

滝桜を観るには、300円也の観桜料を支払いますが、駐車場は無料なのですから、決して高いとは思わず、むしろこんな良心的な観光地は滅多に無いと思います。800台以上も収容できる大駐車場は平日でも満車となるということですから、これはもう大変なことだなと思います。観桜の客は2時間くらいで観終えて移動する人が殆どであり、駐車場の車は日に3~4回転はするでしょうから、3千台近くの車をさばくことになるわけで、これらの車をガイドするのは大変な仕事だと思います。三春町の関係者の方たちは丁寧・親切に対応をされており、立派だなあと思いました。皆さんに感謝・多謝です。

さて、第2日目は観桜の本番です。我々の予定は、まず早朝の滝桜を拝し、その後車に戻って一息入れてもう一度じっくり桜と人ごみを観察して終りとするという考えで、それが終われば駐車場を他の車に譲って退散することにしています。今日のその後は、まだ歩いたことのない三春の町並みを散策することにしています。それが終わったら帰途につくわけですが、今夜は福島県南の道の駅:はなわ(塙町)か隣の茨城県北部の道の駅:奥久慈だいご(大子町)に泊ろうかなと考えています。どこに泊るかは成り行き次第です。

6時半頃には観桜の車が続々と入って来て、駐車場を埋め出しました。我々の方は6時前にはもう起き出しているのですが、朝は光が少ないためカメラの撮影には適した状況ではありません。我が家の旅の写真撮影は家内が主役であり、彼女は早朝は光が少ないからと1回目は手ぶらで出掛け、自分だけが小さなデジカメを持って滝桜観察に出発しました。滝桜に行く前に車を留めてある場所の裏手の土手の上にオオヤマザクラや桃の木が花を咲かせていました。よく見るとその隣にはミツマタが淡い黄色の花を咲かせており、さらに土手の上の方には辛夷の花が真っ盛りでした。それらの他にもレンギョウの黄色も目立ち、まぁ、三春の春は桜と桃と梅が一緒に咲くというけど、地面の小さな野草たちも含めれば、三春どころではなく百春といってもいいのではないかと思いました。土筆は今が最盛期ですし、蕗の薹だってまだ残っているのです。それらをカメラに納めながら滝桜の入り口をくぐりました。

       

滝桜に向かう参道沿いにある民家の景観。如何にも三春の町らしい春を告げる花の風情に溢れている。手前の黄色い花の木はサンシュユ、まん中の白っぽい小さな木は梅、そして奥の方の紅い花の木は桃、その奥の花は桜。この山里にはこのような景観が幾つも見られて、心が和む。

  

左は駐車場近くの丘に花を咲かせていたミツマタの木。右は駐車場脇の土筆の行列。守谷ではとっくに咲き終えた植物たちが、ここでは今を盛りと存在を主張していた。

早朝なので人通りはさすがに少ないのですが、それでももう既に300人くらいは歩いている感じでした。その大半、というより殆どといった方が正確かもしれません、闊歩しているのは我々と同世代と思われる現役をリタイアした人たちのようでした。混雑を避けて早朝に車を走らせて来られたのでしょう。皆さん、はやる心を内に籠めた表情で滝桜に向かって歩いておられました。5分ほど歩いて滝桜と対面しましたが、第一印象はあれっ、ちょっと顔色が悪いなという感じでした。いつもより色褪せて花びらが汚れた感じがしたのです。どうやら開花の最盛期を過ぎており、満開といってもその最終段階にあるという感じでした。丁度1週間前くらいが一番花の良い状態だったのかもしれません。花を見る時期というのは難しいものだなと改めて思いました。しかし、花の方は別として幹の方はガッシリと大地を捉えて、従前と少しも変わらない逞しい姿でした。家内とは別行動で、滝桜の周りをカメラを構えながら、ゆっくりと一回りしました。どこから見ても見る人を惹きつける偉大な存在だなと改めて思いました。一回りした後は、もう一度南側にある丘に登り、滝桜を俯瞰することにしました。桜の樹と花に近づくばかりが観桜の仕方ではないと思います。少し離れたところから全体を見渡してみることも、花の見方なのだと思います。丘の上からは、一本の花の蜜に誘われる蟻の行列のように、人々が列を作って動いているのが見えました。花も凄いけど、花を見ようとする人間という生きものの動きも凄いなあと思いました。滝桜を囲む小さな谷間には、大きな感動が膨れ上がって来ているように感じました。

   

滝桜の優雅な姿(西側からの景観) 満開なのだが、早や花は最盛期を過ぎて少し褪せた色となっていた。まさに滝桜とはよくもまあ名付けたものよと改めて感慨一入である。

   

滝桜の逞しき幹と根元の様子。千年以上の生命を保つ力瘤がごつごつと辺りを圧倒している。それは恐ろしさを覚えるほどの迫力だった。

第1回目の観桜を終えて車に戻り、しばらく休憩です。9時頃の駐車場には、もう観光バスも20台以上入っていて、一般の車もほぼ満車に近い状態になっていました。丘の向こうの道からは更に続々と車が入ってきています。今日も平日なのに、一目今年の滝桜を見ようとする人の、まあ、なんと多いことか!驚くばかりです。それにしても昨夜泊めさせて貰ったのは正解だなと思いました。間もなく家内も戻って来て、お茶など飲んで疲れを休めて一息入れてもう一度の観桜です。家内も今度は重いカメラをぶら下げて出掛けて行きました。

自分の方は、滝桜に直行することは止め、駐車場の上にある丘の向こうへ行ってみることにしました。一つには大山桜の花を撮りたかったのです。この桜が好きで、我が家の庭にも植えてあるのですが、今年も総数で20個くらいの花数でしたので、少し寂しく思っていたのです。この辺りの大山桜は我が家と同じくらいの大きさの木でも、皆溢れるほどの濃艶な花を咲かせているのです。やはり気象条件など育つ環境によって成長も花も違ってくるのかなと思いました。本来東北の地に咲く山桜を、関東の自宅の庭で見ようなどという考えが間違っているのかも知れません。ちょっぴり複雑な気持ちで大山桜の花を撮ったりしました。

   

大山桜の若木の花。葉が余り出ていないので、これはもしかしたら栽培種なのかもしれない。この花はやはり東北の山の中に、ひっそりと濃艶に咲いているのが一番似合うようだ。

さらに上の方へ行くと、急に視界が開け、反対側は何と湖になっていました。そういえば、ここは三春湖というダム湖のエリアだったなと気づきました。この辺りには辛夷の花が純白の輝きを放っていました。下の方にはレンギョウなどもあって、鮮やかな黄色が印象的でした。湖の方への道を少し下って歩くと、道端にはタンポポの花がたくさんあって、その殆どが日本タンポポだったのが何となくほっとさせてくれました。また、タンポポの花の合間にキランソウの紫が大地にへばりついてその存在を主張するかの如くに咲いていました。このような野草たちに少なからず感動を覚えます。キランソウとかキンモンソウなどといっても、殆どの人は名前を知らないかも知れません。しかし、実際はどこかで見ておられることが多いのではないかと思います。目立たない生命というのは、ともすれば見失われ忘れられがちですが、大地には目立たなくてもしっかりと息づいている野草が、随所に存在しているのです。この頃は何故かそのような野草たちに愛着を覚えるようになってきています。

  

左は関東タンポポの花。花の下のガクの部分が花びらにひっついているのがその証拠。右はキランソウの花。他の草に交じって、地面にへばりついて紫の花を咲かせている。

   

林の中に見つけたマンサクの花。早春に咲く花なのに、ここにはまだ咲き残ってくれていたのに思わず感激する。

再び滝桜に向かいました。先ほどの1回目とは大分に人混みの様子が変わって、滝桜に向かう左側の通路は引きも切らぬ人、人、人となっていました。もう少し陽差しが出るのかなと思っていたのですが、薄曇りの空で止まっており、ま、それでも写真の撮影には不足のない光の量だったのかもしれません。家内はどこをどう回っているのやら、時々変な写真を撮りたがる人なので、桜以外にも焦点を当てているのかも知れません。自分の方は、カメラよりも眺める方を優先して、もう一度滝桜の周りをじっくりと一回りしました。何回見ても飽きの来ないのは、先ほどと同じです。もの凄い人混みなのですが、それらの人たちの存在を忘れさせるほど、やはり滝桜の魅力は輝いていました。十二分に満足して10時過ぎに車に戻りました。かなり広い駐車場も、ほぼ満車に近くなっており、花見を終えて帰る車の列と、反対側にはこれから花を見ようと超渋滞の中をしずしずと近づいてくる長い車の列とが、滝桜の一回り外側を包んで動いていて、喧騒は一層膨らんでいました。間もなく家内も戻って来て、一息入れて次の目的地の三春の町並みに向けての出発となりました。(続く)

   

滝桜を囲んで群れる人々。この半月間は毎日早朝から夕暮れまで、そして週末中心にライトアップも行われて、これ以上の花見客が訪れるに違いない。大したもんだと思う。

 

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出会いと人生(倅の結婚に寄せて)

2013-04-16 04:02:45 | 宵宵妄話

  このところ、なかなかブログの記事を書けないでいます。何しろどこへも出かけていないので、旅がらみの記事は書きにくいし、政治等の世情のことは、書き出せばきりがないし、大方は愚痴か嘆きか怒りの部類のテーマが多くなってしまいます。ま、しばらくはこのままの状況が続くのだと思っています。

 そんな中で、先日(4/14)倅(長男)たち夫婦の結婚式と披露宴がありました。挙式は明治神宮、披露宴は明治記念館でということでした。二つの場所は少し離れているので、移動はマイクロバスなどを使ってと、なかなか変化のあるイベントでした。明治神宮は東京では観光の有名地の一つでもあり、大都市の中には珍しい、うっそうと大木が茂る森の中にあります。二人の出発のためには、とても印象に残る良い場所だったと思います。

ところで、倅から結婚についてのメールがあったのは、昨年の北海道の旅から帰る途中でしたから、9月の初めの頃だったと思います。それまではさっぱり気配もなかったのに、突然だったので喜びよりも驚きの方が強かったのを思い出します。帰宅後に話を聞いて、それから後は、あれよあれよという間に話が進んで、10月には婚約、そして12月末には入籍し、二人は我が家の二世帯住宅の2階で新しい暮らしを始めたのでした。挙式と披露宴は、式場の目途がなかなか立たないため遅れることになり、ようやく4月のこの日にイベントを迎えたというわけです。

倅たちの結婚については、いろいろ思うことはたくさんありますが、その一端を披露宴当日の締めくくりの挨拶の中に吐露したつもりでいます。結婚式での新郎の父の役割は乏しく、最後にお礼の挨拶を任されるというくらいです。参考までに(何の?)、その挨拶のメモを紹介させて頂くことにします。

「両家を代表して一言御礼の挨拶を申し上げます。本日はご多忙のところを、二人と私どものために、ご来臨賜わりありがとうございました。厚く御礼申し上げます。

冒頭から私事で恐縮でございますが、私はここ数年来、家内と二人で年間4カ月、計2万キロほどの、車での宝探しの旅をしております。宝探しとは何かと申せば、それは金銀財宝などではなく、「出会い」という人生の宝物を求めてなのです。

出会いには、人を初めとして、動物や植物、或いは大地の造形や自然現象など、様々なものがありますが、私は人生というのは、多くの出会いの積み上げによって出来ているものではないかと思っています。その中で、何といっても人との出会いが一番です。

その、人との出会いの中で最も大切な出会いの一つが、生涯を共にする伴侶との出会いではないかと思います。二人は、今、ようやくその嬉しい出会いに恵まれたようです。少し遅いタイミングなのかもしれませんが、そのようなことは問題ではありません。二人の出会いを、私どもも良かったなあと、心から嬉しく思っております。二人には、この出会いを大切にして、これから力を合わせて、新しい家庭を築いて行って欲しいと願っております。

ところで、二人のこれからの人生は、二人だけでつくり上げられるものではありません。今までお世話になった方々を初め、これから出会うであろう多くの方々のお力をお借りして、初めて成り立つものと思います。

 とりわけて本日ご来臨賜りました皆様のお力が、何よりも必要なのだと思っております。どうぞこの後も二人に対してより一層のご支援とご鞭撻を賜りますよう心からお願い申し上げます。

本日はお忙しい中を本当にありがとうございました。」

以上が用意したメモの内容です。メモを用意したのは、私は話をし出すと冗長になる癖のようなものがあり、早く終わらせて欲しいという方のためにも、余計なことを話さないようにしたいからなのでした。実際にはメモを読み上げるのは失礼なので、紙などは見ないで話はしたのですが、この通りの話だったのかは自分でも定かではありません。何しろ宴会の終わり時でもあり、多少酔っていい気分にもなっており、直前まで挨拶のことは忘れていたという感じだったのでした。内容は、ごく当たり前のことばかりです。もっと砕けた内容の話の方が良かったかなとも思いましたが、ま、正直な気持ちをお伝えした方が良いと考えました。

一番伝えたかったのは、「人生と出会い」ということです。私は人生とは出会いの積み上げで出来上がっていると思っています。人は何かと、誰かと出会って、そこからプラス・マイナスのパワーを貰い、生きる力をものにし、時には絶望も手にしたりしながら生きているのだと思います。自分に何かが起こるというのは、全て出会いがもたらすものであり、何もないというのは、何の出会いも無いということなのだと思うのです。良きにつけ悪しきにつけ、人は出会いのもたらしたものによって成長して行くのです。より多くの出会いに恵まれ、より深い感動と教訓を得た人ほど、より大きな成長をものにできると考えてもいいように思います。

私はくるま旅くらしの目的は、出会いという宝探しなのだと思っています。真実そう思っています。旅に出ると、否応なしにたくさんの出会いを拾うことになります。宝物となるのもあれば、ガラクタもあり、時には拾うのを避けて逃げ出す毒物もあります。どれも皆出会いです。それらの中から大切と思うものを拾い上げ、保存し、時に取り出して磨き、手入れをするのです。ただ出会うだけでは、宝物にはならないからです。出会いというのは、自分が思いと力を込めて磨くことによって初めて自分の本物の宝物とすることが出来るのです。家内も私もそのような宝物を幾つも持っています。旅の最大の恵みなのです。

倅も嫁女も本当に良い出会いに恵まれたようです。特に嫁女は類稀なる心遣いの出来る女性で、倅には(私ども夫婦にとっても)天からの授かり物のような気がしています。いまどき2世帯住宅のジジババの親が住む家にニコニコ顔でやってきて、何のこだわりもなく親たちと付き合ってくれる女性が、この世にまだ残っていたんだと、しみじみありがたく嬉しく思っているところです。二人の出会いがどのようなきっかけだったかなどを詮索する気は全くなく、ただ、ただ、この出会いを大きく育てて行って欲しいと願っています。ようやく親戚や知人への披露目のイベントが終わって、今は安堵して一息ついているところです。新婚旅行なるものは追ってじっくり考えてから決めるそうで、今日から倅は平常勤務の出勤です。二人力を合わせて、ガンバレ!!

どうも、ブログに書くべきテーマではないように思うのですが、久しぶりの我が家の慶事でしたので、言い触らしたくなりました。失礼・多謝。

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今年の春旅はうやむや

2013-04-07 03:44:03 | その他

  昨日から、今年何回目かの春の嵐がやって来て、少し枝の張った樹木たちを虐め抜いて去り、季節の慈雨とはいえ、今年はいささか度を越した自然界の振る舞いのように思えます。我が家の庭には真ん中に桜の木が居座り、狭い庭ながらその他にクロガネモチ、梅、山モミジ、サルスベリ、ブルーベリーなどが植えてあります。風の被害に遭うようなレベルの木はありませんが、クロガネモチなどは葉の生え替る時期にあり、風で古い葉がかなり落ちたようです。

桜は、7年ほど前、東北中を探し回って、ようやく秋田県の上小阿仁村で見つけたオオヤマザクラの苗木を植えたものですが、親指ほどの太さだったものが今は直径が10cmを超えるほどになり、3年ほど前から咲きだした花は、今年は僅かながら増えて20個くらいになったようです。東北の春の山道を行くと、思いもかけぬ場所でオオヤマザクラの優雅な姿に癒されます。普通の山桜よりも一段と色の濃い、薄紅色の花びらですが、その一個一個の愛らしさは、未だ悪態をつくことを覚えない少女の様に、ほのぼのとした暖かさを発しています。今年は庭のそれを見ながら酒のラマダン明けを一人祝ったのでした。

      

我が家の庭先のオオヤマザクラの花。葉が先に芽吹くのは山桜ならではの証。もっとたくさん花をつけてくれると嬉しいのだけど、木の方にも事情があるのか、なかなか花いっぱいというわけにはゆかないようである。

 ようやくスギ花粉もピークを過ぎて、ヒノキは最盛期の様ですが、自分はスギ以外はさほど反応しないタイプのようで、思考停止も少しずつ解除されつつある感じがします。ものを考えないで済むというのは、ある意味において一つの快楽となり得るのだと思いますが、それがスッキリしたものなら本物なのでしょうが、花粉に攻撃されている間は、どんなに頑張っても頭の重さの不快感を拭うことはできず、その悪意には無抵抗で、為されるがままに思考停止を続けるばかりでした。この不快感から抜け出せることは、旅の季節の扉が開かれた感じがして、何とも嬉しいことなのです。

 ということで、そろそろ春旅を意図する時期なのですが、今年はどうやら5月半ば過ぎまで身動きが取れないようです。4月には倅の結婚式という慶事が予定されており、ドタバタが続いていますし、それが終わっても家内も自分も医者の定期診断が待っていて、その後の連休中は動くのを避けることにして、それが明けても再び自分には身体のトラブルのチエックが予定されており、それが終わるのは5月の半ば過ぎとなりそうです。

身体のトラブルというのは、2月の検診で前立腺検査のSPA値が高かったため、3カ月後に再検査を行うというもので、もしこの結果が入院や手術につながるようなことになると、春旅は出来ないことになってしまうかも。と、まあ、今年はすんなり行かない事情に取り囲まれてしまっています。タイヤを新品にした旅車も、どこへも遠出をしないままに早や半年も経ってしまっています。しかしまあ、こんな時もあるのだろうとジタバタはしないことにして、当分の間は毎日15kgほどを背負って、2時間ほどを歩いて、鍛錬に相努めることになりそうです。

 「人生は、重き荷を背負いて、遠き道を行くがごとし」というのは徳川家康公の人生訓だと聞いていますが、毎日15kgを身につけて、黙々と下を向いて2時間近くを休みなく歩き続けていますと、この処世訓が実感できるような気がします。もはや古希を過ぎて次の喜寿を目指す世代に入っているのだから、何もそんな重いものを背負って歩くなどの無理をせずとも良いのに、と囁く声が時々聞こえてきますが、徳川家康公の様に成り上がることはできなくても、このように自らに負荷をかけて動いて行ける間は、少なくとも認知症のような恐ろしい悪魔からは逃れられるのではないかと、そのようなことを思いながら歩いている次第です。開始後1週間が経って、身体のあちこちの筋肉が疼き出し、久しぶりに身体を使っているなというのを実感しています。今年の春旅はうやむやの状態ですが、しばらくは家康公の処世訓を噛みしめながら、これから先のこと考えたいと思っています。(近況報告です)

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酒のラマダンの顛末

2013-04-01 05:41:07 | 宵宵妄話

  今日から四月、ようやくというべきか、それとも斯くも早くにというべきか。この歳になると時間の流れの速さに戸惑いを覚えずにはいられません。悲劇の花粉環境も少しずつですが改善されて来ているようです。このところ雨降りの日が多くなっており、寒さも戻ったりして花冷えなどといわれているようですが、重花粉症の者にはとにかく黄色い花粉が飛ばない日々が何よりもありがたいのです。

 去る2月1日から酒のラマダンなどという愚かな保身健康策にチャレンジして来ました。目標では、このブログを投稿する今日(4/1)には完遂しているはずなのですが、さてその結果はどうなったのか。今日はその顛末などについて書くことにします。

今年の冬は、結局近場にさえも出掛けることなく、じっと家の中を中心に近郊を歩きまわるという暮らしを続けており、それがここ1カ月は花粉の攻勢に合って外へ出るのも限られた時間だけとなっており、加えてアルコールも断っているという状況なのですから、これはもう近年にない異例の過ごし方なのでした。

 酒のない人生なんて、あり得ないし、あってたまるか!など意気がって言っていたりしていたのですが(これはまあ、今でもそう思っていることに変わりはないのですが)その割には意外とあっさりと矛を収めて、ラマダンの方は殆ど何の支障もなく順調に進展したのでした。3月に入っても一滴の酒類も口に入れることなく、まるで元から酒のみではなかったかのような暮らしぶりでした。それでもTVを見ている時や本を読んでいたりすると、結構飲酒の場面を取り扱ったものが多く、特にTVは視覚からの刺激が多くて、ああ、やっぱり酒は良いなあ、とラマダン中であるのを忘れて、その美徳に思い至ることがあったのは、これはもう人間としての正常性が保たれていた証ではないかなどと、一人納得していたのでした。

 ところで、ラマダンは結果的にどうなったのかといえば、「断固破棄!」というのがその答えなのです。3月末をゴールと決めていたことからすれば、客観的には未達とか挫折というのが当てはまるのだと思いますが、自分の中では断固「破棄」なのです。破棄というのはラマダンを止めたということです。要するに2月1日から連続54日間、一滴の酒も飲まなかったというだけのことでした。未達でも挫折でもないのです。スタートからゴールまでのラマダンという行為を投げ捨てたということです。

 勿論これには理由があります。元々酒のラマダンへのチャレンジは、持病の糖尿君との関係で酒が悪さをしているのではないかという医者のアドバイスと己自身の自責的な反省から、実際にどれほどの影響があるのかを身を以って試してみようと考えたりしている時に、友人からラマダンの話を聞いて、面白半分にいい機会なので俺もやってみようということが始まりでした。具体的にいえば、1月時点の定期受診時の血糖のHa1cの数値7.2が、2カ月の休酒期間でどう変わるかを見ようという試みなのです。これが1カ月後の2月の検診時では7.1となり、わずかに改善の兆しは見えたのですが、自分的には7を切るのではないかと期待していただけに、少しがっかりしました。もっと頑張ろうと心に決め、引き続き飲酒厳禁を保持するだけでなく、食事のコントロールもより厳しくするように心がけ、体重管理上も2kgの減量を実現しそれを維持するようになっていたのです。次回はHa1cの数値がもっと改善されるに違いないと大いなる期待を抱いていたわけです。ところが3月に入って26日の定期検診の結果は、何とまあ、先回と同じ7.1という数値ではありませんか。何の努力もしないまま、グータラな暮らしぶりだったのなら、納得できる数値なのですが、これは今までの努力の虚しさを証明する数値に思えたのでした。疑問を抱きながら医者に訊ねると、この時期(=冬)は一般的に血糖値の改善のスピードが遅くなるのだそうで、暖かくなれば結果が出るのではないかとの話でした。それはそうだろうとは思いましたが、何だか承服しかねる真剣味のない話のように聞こえました。

 家に帰る車の中であれこれと思いを巡らしたのですが、出した結論は、直ちに酒のラマダンを破棄するということでした。酒と糖尿君との関係はそれほど大きなものではない、というのが54日間断酒の結論であるということです。そう結論すれば、意味のない無駄なことは直ちに止めるというのが自分の本来の主義です。早速その夜は、深夜近くに放映されたサッカーワールドカップ予選のヨルダン戦を、秘蔵していた焼酎「農家の嫁」を取り出して飲みながら楽しんだのでした。しかし、対戦結果は敗戦となり、せっかくの焼酎の味も少しケチがついた感じでした。

 ところで、これで終わりというわけにはゆきません。54日間の無駄なトライの結果何も得なかったかといえば、決してそうではなく、「適当な酒は糖尿君の機嫌を損なうことなし」という現実を知ったことは大きな収穫でした。同時に考えなければならないのは、断酒以外でもそれなりの努力をしたのに、どうして血糖値は変わらなかったのかという真因についてです。医者がおっしゃるようなことだけではなく、やはり何かが不足しているのだと思いました。それを考えている時に、TVで三浦雄一郎氏が80歳という世界最高齢でのエベレスト登頂にチャレンジするというニュースが流れ、ご本人がトーク番組でそれについての話をされているのを拝見し、「これだ!」と思いました。三浦さんは70歳を過ぎてから登山へのチャレンジを再開された様で、そのための準備というか、平素の鍛錬の在り方についてのお話が心を打ちました。メタボ系で膨れ上がり、故障だらけだった身体をコツコツと鍛錬することによって、殆どの病の巣窟を叩き壊し、現在では10年前の体力を上まっているというお話でした。毎日20kg近いザックを背負い、足にもリストウエイトを巻いての歩行鍛錬の話は自分の心を打つものでした。やれば、誰でもできるという三浦さんの話は、本当だと思いました。

 この話は鍛錬のほんの一部の披歴に過ぎなかったのだと思いますが、糖尿君との関係改善には大変に参考になる話でした。気づいたのは、普段の暮らしの中でもっと汗をかかなければダメだということです。時には、ある程度身体を虐めなければダメだということです。自分としては、今年も今まで毎日平均1万4千歩余の歩きをして来ているのですが、考えてみれば汗をかくほどの歩行は少しもしておらず、いい気分で自然観察などを中心に楽しんでいるだけなのでした。この頃は、老人はそれでいいのだという決めつけのようなものが定着し始めて、無理をしないというよりも楽をしようという気持ちが上まって来ている感じです。これが糖尿君には気に入らないのではないかと思ったのです。三浦さん流にやれば、恐らく糖尿君も機嫌を直してくれるはずです。但し、超人のお方と同じことはできるはずもなく、分をわきまえてのチャレンジが大事だなと思っています。

 思い立ったら直ぐ実践というのも自分の流儀の一つです。「今やらねばいつできる。わしがやらねばたれがやる」というのは平櫛田中先生のことばですが、座右の銘の一つです。昨日から三浦先生に倣って、両足に各1kgのリストウエイトを課し、リュックに4本(=8kg)のペットボトルを背負って、1時間ほどの歩行訓練を開始しました。4月一杯は近隣を歩くことにし、終盤頃には筑波山(876m)に登ろうと考えています。以降、旅に出ない間は、毎週1回は筑波山に登れるようにしたいものだと、これはまあ半分夢みたいな話ですが、三浦先生のチャレンジに比べれば大したことではなさそうです。そして生きていたなら、80歳で富士山に登ってみたいと思っています。

 いやはや、酒のラマダンの顛末はとんでもないことを引きだすことになってしまいました。但し、こちらの方は何時挫折してもいいという条件をつけてチャレンジしたいと思っています。

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