山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

稀勢の里の優勝を祝す

2017-01-23 04:12:48 | 宵宵妄話

長かった。本当に長かった。31場所も大関に居ながら、何度も横綱へのチャンスを作りながら、一度も優勝が出来なかった。その壁を突破することが出来なかった。ファンから見れば期待を裏切り続けた。何度も何度も裏切り続けた。同世代の外国人力士が次々と横綱昇進を実現してゆく中で、まるでそれは日本人を裏切り続けているような感じさえした。それがついに壁を突破したのである。心からおめでとうと言いたい。優勝、そして横綱昇進(これはもう間違いなし)おめでとう。

3年前の一月場所も横綱へのチャンスを作っていた場所だった。大いなる期待をもって見ていたのだが、躓(つまづ)きは初盤から始まり、中盤を過ぎるとシッチャカメッチャカな状態となり、終わって見れば何と7勝8敗という、それまで一度も無かった負け越しという惨憺たる結果となってしまった。この時にどうしてこうなのかについて、「横綱になれない大関」という記事をこのブログに書いた。(2014.1.25) 期待に対する余りにも大きな裏切りに対して、些か怒りを覚える気持での分析だった。礼を失しているのは十分承知の上で、親方になったような気持での投稿だった。

その記事は、相撲道の目指す「心・技・体」についての論旨だった。今の大相撲界では、「心」の鍛錬が不足しているように思ったのである。数年前には博打に係わる事件が大相撲界を揺るがし、親方クラスまでが関わっていたという、真に呆れ返った状況を呈していた。これは道を忘れた「心」の欠如、歪みがもたらす結果に他ならないと思った。この場合の「心」というのは、「道」とは論外の外道の世界であり、稀勢の里に求められている「心」などとは勿論無関係であることは言うまでもない。しかし、本来の相撲道という「道」の中の「心」と似通うものがあるとすれば、それは「甘さ」というものなのかもしれない。心の甘さというのは、本来の道を忘れ、己の都合の良いような満足を享受しようとする働きであろう。外道というのはその極みに位置している。

相撲道の「心・技・体」を思う時、稀勢の里という人の弱点は、これらの三要件が一点集中的に合致しなかった、させられなかったことにある様に思ったのである。この三要件の中で「心」の占める割合は、番付の位置が上がるほど大きくなる。「技」や「体」が不十分のままでは、上位にあって勝つ、勝ち続けることはできないからである。それは自明のことであろう。

日馬富士や鶴龍が稀勢の里と大して変わらない実力なのに、先を越して優勝し横綱になったのは、「心」が一皮、二皮鍛えられて脱皮していたからなのではないか。別の言い方をすると、彼らは「技・体」と「心」を一点集中的に合致させる力を獲得していたということになる。そこには心の甘さなどが入り込む余地はない。日馬富士が良く言う「全身全霊をかけて」というセリフには、その思いが込められていると思う。見事な信念だ。又鶴龍が稀勢の里を心配してのコメントに「稀勢の里関には何かが足りない」とあったのも、その辺りを指摘していたのではないか。その二人が今場所揃って休場となっているのは象徴的な気がする。「心」の限界が見え出したのかもしれない。「技・体」がかなり傷んでいるというのも間違いないと思うけど、もし「心」が傷み出したなら、その先は引退しかない。それが横綱というものの厳しさであり、それは白鵬にだって同じことなのだ。そのことは重々承知のことだと思うけど、稀勢の里には、これから更に「心」を鍛えて力を発揮していって欲しい。「心」の鍛錬は、むしろこれから始まるのだから。

稀勢の里の出身地の牛久市は、私の住む守谷市からはほんの少しの距離しかない。土曜日には時々牛久市郊外にある「ポケットファームどきどきつくば牛久店」という長い名称のJAの野菜や肉などの大型販売所に買い出しに出かけるのだが、そこの店の壁には稀勢の里の大きな写真が掲げられている。地元の人たちの誇りであり、輝く期待なのである。地元の人たちの喜びは、もしかしたら本人以上のものなのかもしれない。善朴な人たちの住む世界がそこには広がっている。

茨城県はその認知度において全国最下位であるとか、或いは女性の肌の綺麗さにおいても最下方であるとかの、愚劣極まりない怪しげな調査がある。ふざけるなと言いたい。そのようなコメントは、別の視点から見れば茨城県人というのは、この上なきお人好しが多いということなのでもあろう。県北の水戸近くで育った私から見ると、県南(牛久や守谷もその中に入る)の人たちは、より以上にのんびりしたお人好しが多いように感じている。私はそれこそがこの地に住む人の最高の優れた特性だと思っている。いいのだ。目立つことなどどうでもいいことなのだ。

稀勢の里は、長い間辛抱を重ねて茨城県人の、特に県南エリアのど根性を知らしめてくれたのだと思う。人が良いから「心」が「技・体」を思うように動かしてくれなかったのだと思う。多くの茨城県人にとって「心」の鍛錬は大きな課題のような気がする。さりとて悪性の混ざった「心」を目指すわけには行かない。稀勢の里には、この後は一点集中の時だけは、お人好しを放棄して、ひたすらに勝負へのこだわりを厳守して欲しいと思う。

積年の鬱憤から解放された、寒さを忘れる爽快な気分で終わった一日だった。

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バネ指治療行(冬の喜連川温泉)<その2>

2017-01-21 18:36:45 | くるま旅くらしの話

<続き>

そのあとは、今夜はもう一つの浴場の、もと湯の方に入ることにして、移動することにしました。もと湯はお丸公園の南側の下にあって、ここは先年の東関東大震災とその後に襲った集中豪雨のために甚大な被害をこうむり、しばらくの間休業を余儀なくされていましたが、3年ほど前にようやく営業が再開されたのでした。露天風呂とは源泉が異なり、こちらはかけ流し専用とはなっておらず、加水や加熱等が行われたお湯のようで、露天風呂と比べればその分柔らかい湯となっています。こちらに移動したのは、理由があって、どういうわけなのかここの駐車場では地デジが受信OKなのです。今回はパソコンなどを持参していないので、ニュースを見るためにはここへ来る必要があるというわけです。

昼食にはまだ少し早い時刻ですが、その準備をすることにしました。ご飯を炊き、味噌汁を作ることにしました。ご飯は持参した米2合を一度に炊くことにしました。余った分はオジヤにして明日の朝に供する考えです。おかずは作るのが面倒なので、近くのスーパーに行き、惣菜を買うことにしました。食べる準備が終われば特にすることも無いので、持参した本を読んでお腹が空くのを待つだけです。適当な時間に昼ごはんでお腹を満たし、そのあとは読書に疲れて午睡となり、目覚めての入浴となりました。指の方は痛さが戻っていましたが、我慢することにしました。

17時過ぎ300円の切符を買って入浴です。ここの浴場は内湯に二つの浴槽があり、外に露天風呂が用意されています。露天風呂と違って、洗い場もシャワー付きです。シャンプーとボディソープが用意されているのは、料金の割には優れたサービスだなと思いながら、身体を洗い洗髪を済ませました。そのあとは露天風呂に浸ることにして、指の療治に努めました。露天風呂の浴槽の囲いの竹垣の向こうが明るくなっているので、何だろうと立ちあがってみて見たら、何と丁度今、雲に隠れていたお月さまが顔を出したところでした。丁度満月らしく、まん丸のお月さまを見ながら、しばらく至福の気分での入浴でした。我が相棒は、今回は家に残っているのですが、それは喜連川の温泉は身体に刺激が強すぎてダメなのだそうです。でもここの湯ならば大丈夫ではないかと思ったりしました。しかし、かけ流しでないのなら温泉じゃないなどと、又偉そうなコメントをするのだろうな、などとも思ったのでした。

その夜は、そのまま駐車場に居座って、再び寒い一夜を明かしました。昨日よりも冷え込みは更に厳しくなったようで、朝起きた時は車内の温度はマイナス1℃となっていました。冷凍庫に近付いてきている感じがします。但し、布団の中には湯たんぽも入れてあり、眠りには何の支障もありません。ただ、眠らなければならない時間が余りにも長すぎるので、一度目覚めてしまうと、次の眠りが来るまでが長いので苦労しました。家におれば起き出して、眠くなるまで何かやれるのですが、ここではそれが出来ないのが何だか勿体ないなという感じです。そうこうしている内に朝になり起き出したのは7時少し前でした。ここのもと湯は朝の7時が営業開始時刻です。大急ぎで準備をして浴場に向かいました。

朝湯は老人には最高クラスの恵みであり、それが温泉というのは贅沢といっていいのかもしれません。もと湯の朝風呂も湯けむりの中でした。昨夜の入浴で洗髪や身体の洗いは済ませているので、最初から露天の方の浴槽へ直行です。昨日の朝の露天風呂と比べてお湯が柔らかいのは、加水の所為なのかもしれません。指の治療にはきつくてもかけ流しの方が良いのかななどと思いながら、とにかく丹念に揉みほぐすことを心がけました。しばらくすると陽が昇って来たのか、湯けむりが薄れて辺りが一気に明るくなり出しました。温泉に入っているのだというのを実感しました。8時過ぎに湯を出て車に戻り朝食です。

朝食は昨日作った味噌汁の中に残っているご飯を入れて、オジヤとしました。少し時間をかけて煮込むと米が柔らかくなって、味噌粥のようになります。これが好きで、寒さのある季節の旅では、前夜にご飯を残すことが大切なのです。2杯ほど腹に入れると身体の芯から温まる感じがして、大満足でした。

朝食の後はしばらくTVを見たりした後、歩きに出発です。今朝の歩きは、すぐ目の前に聳えるお丸山公園の丘の道を上り、公園の周辺を散策することです。お丸山公園は、古城の跡地で、小高い山の上に造られており、そこに上ると喜連川の町を俯瞰することが出来ます。喜連川の藩主は、城ではなく下方に館を造って住まわれていたとのことです。公園には丘の中腹にも幾つもの散策路が造られており、石仏なども数多く並べられていて、それらを見ながら縦横に歩き回るのが好きなのですが、今回久しぶりに歩いて見ると、まだまだ災害の爪跡が残っていて修復が終わっていないのが判りました。一部であるとはいえ、大地が動き崩れるというのは凄いことなのだなと、改めて大自然の怒りのパワーの大きさに恐怖を覚えました。しばらく散策路を歩き回った後に、公園を離れて昨日歩いた荒川沿いの道を道の駅構内の親水公園まで歩き、再度リニューアル工事の状況などを覗きながら、車に戻ったのは11時半頃でした。

さて、少し早目の昼食にしようかと、茹でたうどんを取り出し、準備を始めたのですが、いつの間にか日が陰り出し、何だか急に寒くなり出した感じなのです。外に出て見ると、にわかに暗黒の雲が湧き出して、北の方からこちらに向かって駆け出して来ているようなのです。昨日もそうでしたが、北の方に見えるはずの那須岳は黒い時雨雲の中にあって、それほど遠くも無いのに、そこには別の冬の世界があるように見えました。それが、今は大きな塊となって一気にこちら目がけて襲ってくる感じなのです。こりゃヤバイなと思いながらTVの天気予報を見てみたら、穏やかならぬ状況なのでした。今日から明日にかけてこの地のエリアにも雪が降るなどと言っているのです。

未だ4回しか湯に浸っておらず、予定では今夜と明日の朝との分が残っているのですが、もしこのまま残っていて大雪にでもなったらそれこそ大事(おおごと)です。SUN号は冬タイヤの準備などしておらず、路面凍結への備えなど全くしていないのです。ま、何とかなるとは思うのですが、何よりも困るのは家にいる相棒が大騒ぎをしないかということなのです。とにかくオーバーな心配をする人なので、早目に決断した方がいいのです。ということで、食事の後は一気に退散を決めて、出発することとなったのです。

準備をしている間にも黒雲は更に膨れ上がって迫って来て、ちらほら雪の欠片のようなものも落ちて来てフロントガラスを濡らし始めました。まさかこのような展開になるとは予想もしておらず、バネ指どころではないといった状況となってしまったのです。いやはや。どうも。その後は只管我が家を目指し、15時頃に立ち戻ったというわけなのですが、喜連川を離れて遠くなるほどに天気は何事も無く晴れて、この騒ぎは真に独り相撲そのものではないかと思ったのでした。

 

短い旅の記録を大げさに書き連ねました。バネ指のその後ですが、少しは改善されたようです。靴ひもなどを絞める時に、力を入れると薬指が元に戻らなくなり、戻すのに左手の介添えがいるのですが、その回数がかなり減ってきました。今は家の風呂やわらしべの湯などへ通いながら揉み療治は続けています。又散策時にも意識して手のひらや指の運動を続けていますので、以前よりは大分楽になりつつあり、手術は避けられるかもしれないと密かに思うようになって来ています。雪や凍結の心配が無くなったら、もう一度喜連川の湯に浸りたいと考えています。

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バネ指治療行(冬の喜連川温泉)<その1>

2017-01-20 04:07:22 | くるま旅くらしの話

 正月の騒動(?)が一段落したので、喜連川温泉(栃木県さくら市)に療治にゆくことにしました。というのも昨年の夏の終わりころから、右手の薬指がバネ指の症状を来し、これが次第に悪化して来て、こりゃあもう手術するしかないなと思っていたのです。

何の因果なのか、何年か前にも両手の中指二本がバネ指となり、同時に手術するという荒治療を行い、ようやく元に戻りかけているというのに、今度は右手の薬指が、ということになってしまいました。これはやはり長年居座っている糖尿君の仕業に違いないのでありましょう。

 年が明けたら手術先を探そうかと思っていたのですが、先の手術のことを思うと余り気が進まないのです。というのも、術後の元に戻るまでの時間がかなり長くかかり、未だに右手中指は完全に元に戻らず少し内側に曲がっている状況です。薬指は中指の隣ですから、それが又正常に動かないようなことになったら、これはもう問題となります。手術となると、やはり不安は付きものなのです。

 それで、手術の前に、温泉に浸りながらマッサージをし続けてみたらどうかと思ったのでした。というのも、かなり昔に親指がバネ指になりかけた時、その時は東京に住んでいたのですが、何度か喜連川まで通って温泉に浸っている内に、すっかり治ったという経験があるからなのです。両手中指の時は一度に両手がバネ指となってしまったので、温泉を諦めて病院へ行ったのでしたが、これはもしかしたら早やまった判断だったのかもしれません。

 ということで、4日間の予定で、少なくとも6回は温泉に浸ることにしようと旅車で出かけたのでした。今は合併してさくら市となった旧喜連川町は、足利氏の正統を継ぐ喜連川藩の城下町で、徳川幕府の中でも小藩(1万石未満の実収高)ながら10万石格を与えられていた名門の家柄なのでした。我が家からは車で約2時間と少しで届く距離にあります。

この町が温泉を掘り当てるのに成功したのは、昭和56年(1981)と言いますから、歴史は浅いのですが、良質のナトリウム塩化泉で、湧出温度も50℃と、かけ流しの温泉としては真に適度な条件を備えているのです。斐之上温泉(島根県)、嬉野温泉(佐賀県)と並んで三大美肌の湯と呼ばれている名湯なのです。開発が遅かったせいか、温泉街特有の歓楽街は形成されておらず、普段のままに良泉を楽しめる優れた環境にあると自分は思っています。市の直営する浴場が3箇所あったのですが、先年の東日本大震災やその後の集中豪雨で大被害を受けて、お丸公園の上部にあった浴場は閉鎖されてしまい、現在は2箇所(もと湯・露天風呂)が営業しており、いずれも300円で温泉を楽しむことが出来るのです。

初日は家を11時頃に出発し、道の駅:きつれがわに着いたのが13時半近くでした。ここへ来た時はこの道の駅を基地にして滞在しているのですが、今回来て見ると、何と駅舎のリニューアル工事が行われており、それがかなり大規模なものなので驚きました。この道の駅にも温泉があり、クアハウスも施設されていて、お子さんのいる家族連れにも人気があるのですが、今回は辛うじてそれらの営業だけは継続されているようでした。工事は3月末頃までには終わって、新しい駅舎が現出することのようです。このような状況ではどうも落ち着かないので、ここに泊るのは止め、今夜は露天風呂に入って、その近くに泊ることにしました。

露天風呂は、道の駅からは500mほど離れた、グランドの傍にあります。早速そこへ向かいました。もう何度もお世話になっている場所です。この露天風呂は、まさに露天風呂だけがあり、脱衣所を出ると、もうそこが幾つもの巨岩などに囲まれた露天風呂なのです。剥き出しのカランが数個あって、それは入浴のために身体を洗うだけの場所となっています。勿論源泉かけ流しで、湧出温度が50℃のお湯は、大人が30人くらいは入れそうな大きな浴槽なのですが、全体にまだかなりの熱さで、お湯に馴れるには少し時間がかかることになります。

16時過ぎ、第1回目の入浴開始です。脱衣所を出て身体を洗って浴槽に入ると、ジ~ンと熱さが身体に沁み渡ります。少しずつ身体を沈めて、熱さに馴れながら汗が噴き出るのを待ちます。この間、左手は右手の手のひらと薬指の根元を揉み続けます。バネ指の原因は、指を動かすための腱を包んでいる膜のような組織が、腱に癒着してしまって起こるということですから、バネの現象を来している第二関節ではなく、その指の根っこ辺りを中心に手のひら全体を揉むというのが効果につながるのだと思います。そのような理屈を考えながら、3分も浸っているともう我慢が出来なくなって、傍の石に腰かけての半身浴となりました。外気の温度は5℃以下で、風も吹いているのでかなり冷たくて、恐らくお湯との差は50℃近くあるような感じです。手をお湯の中に入れるようにして、時々休みながら揉み続けて、上半身が冷えてきたら湯に沈むようにして、その繰り返しです。1時間ほどで第1回目は終了することにしました。

浴槽の中はといえば、常連と思しき同世代のジサマばかりで、中には何度も顔を合わせている人が何人か混ざっていました。仕事を引退してからは毎日ここへ通うのが第二の仕事のような人が何人かいるらしく、この近くに住む人たちは真にラッキーだなと、来る度に羨ましさが増します。本物の極上の温泉をたった300円で毎日味わえるなんて、自宅に風呂など無用なのでありましょう。

風呂から出た後は直ぐ近くに留めてあるSUN号に戻り、身体が冷めないうちに着替えを済ませ、夕食の準備です。今夜はここに泊らせて貰うことにしており、予めTVの設定などは済ませています。夕食の後は早めに寝床に入るつもりです。夜になるとかなりの冷え込みが予想されますので、TVは夕食の間だけで十分です。ということで、18時半には就寝となりました。

翌日二日目。長い夜が明けて、6時半頃に起き出すと、何と車内の温度計は0℃を示していました。冷蔵庫の中に居るようなものです。露天風呂の冬期営業開始は9時からとなっており、その前に今日は歩きに出かけることにしました。お湯を一杯飲んで、着替えを済ませて外に出ると、眠気などは一気に吹き飛んでシャキッとなりました。少し明るくなりだした中を、歩きの開始です。今日は喜連川のシンボルのスカイタワーのあるお丸山公園の裾野の道を遠く一回りする予定で、1時間半くらいの歩きを予定しての出発です。

直ぐ傍を流れる内川に沿った道を少し歩いて橋を渡ると、喜連川町の中心街に向かいます。そこを通り過ぎて、左折して坂道を上るとお丸山公園の車道での入り口があり、更に進むと今度は坂を下ることになるのですが、坂を上り始めた頃には既に身体は寒さを離れて、少し汗ばむほどとなりました。人間の身体は、動くことが出来さえすれば、相当に厳しい環境であっても生きてゆくことが出来るようにつくられているのを実感する時です。

坂を下りてしばらく行くと、今度は荒川の流れにぶつかります。喜連川の町はお丸山公園を挟んで、東側を内川、西側を荒川が流れていて、丁度道の駅がある辺りで、二つの川が合流しています。内川は荒川の支流であり、荒川は更に下って那須烏山市の南部で那珂川に合流します。その荒川の側道をしばらく歩いて、道の駅構内の一部とも言える、二つの川の合流点にある親水公園を一回りして、もう一度市街地を通って露天風呂の駐車場の我が家に戻るという、90分ほどの散策でした。途中の散策の道から眺める景色は皆霜枯れしていて、田んぼも畑も堤防の草たちも、霜に塗(まぶ)されて朝日に輝いていました。昨夜の外気はマイナス5℃くらいにはなっていたと思われます。雪はないけれど、厳しい冬の世界が広がっていました。

車に戻ってTVを見ながら朝食です。パン一切れと即席スープの食事は、惰性の一環のような感じで、大した喜びはありません。TVもこの場所は地デジしか写らず、BSばかりなので、ニュースは殆ど海外のものばかりで、あとはコマーシャルだけの世界です。それにしても、BS放送というのは、地デジとの差別化を間違えているのではないかと、思うばかりです。特に民放に問題ありの感じがします。

陽が昇って、ようやく暖かくなり始めた頃に露天風呂の営業開始時刻が迫って来ました。食事を終え、満を持して入口の方へ向かいます。50m足らずで浴場へ行けるというのは、くるま旅ならではの特権です。脱衣所を抜けて早速浴槽へ。既に先客がいて数名の話声が湯気の中で行き交っていました。朦々とした湯けむりで全く見えません。湯けむりの向こう側に山の端から上った朝日が目映く輝いていて、湯けむりを金色に染め上げている感じがしました。外気は未だ0℃前後でしょうか、露天風呂でなければ味わえない風情に包まれての入浴は格別のものでした。

昨日と同じように右手の手のひらを丹念に揉みながらの入浴は、ややゆったり感を損ねる感じがしますが、この療治のために来ているのですから、疎かにするわけには行きません。朝起きた時の感覚では、いつもよりも痛さが増したように思えて、効果に疑問を覚えたのですが、湯に浸っていると痛さは消えて、心なしか少し楽になって来ているのを感じました。このような痛さと回復感を繰り返しながら少しずつ改善が進むのかなと期待した次第です。昨日と同じように半身浴を繰り返しながら1時間ほどの入浴でした。<つづく>

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第58回新年会に出席する

2017-01-15 21:20:27 | くるま旅くらしの話

 何年か前にも書いたことなのですが、今年も我が高校卒業時同級生のクラス会(=新年会)が、故郷の水戸市の某ホテルで開催されました。出席者は何と20名にもなる大盛会でした。私が幹事の事務局を担当してから10年以上が過ぎましたが、この頃では最多の人数となりました。卒業時50名だった旧友は、亡くなったり所在が判らず連絡が取れなかったり、或いは参加辞退を望む者がいたりして、現在は35名と連絡通信しています。今年は喜寿を迎えることになり、健康上の問題から出席できないという人も多く、果たして予約の15名を確保できるかと、幹事として心配していたのですが、全くの杞憂でした。

高校を卒業したのが昭和34年(=1959年)ですから、その翌年からこの会が同窓会として開催されるようになって、今年はその58回目を迎えたことになります。これほど多くの回数のクラス会を新年会という形で継続して来ている集まりは、世の中にはそれほど多くはないように思います。あと2年後にはめでたく還暦の回数となるのです。

この集まりが継続出来ているのには、二つの理由があるように思っています。その一つは卒業時のクラスの担任だった先生のお力であり、もう一つはクラス会を引っ張って来てくれた何人かの有志の尽力があったからなのだと思います。

斯く言う自分などは、卒業以来このような集まりがあることなど全く知らなかったのです。それが卒業から30年経った時のある日突然、卒業時に皆で作った記念文集が送られて来たのでした。添えられた便りには、往時の担任の先生が自費で復刻版(ガリ版刷り)を作られたとありました。自分は先生のお考えがよく解らなかったのですが、先生は往時このクラスを担当されて、格別な思いを抱かれておられたということでした。それに加えて有志幹事からの新年会への案内状です。これには少なからず心を動かされました。出席しないわけには行かないと思って顔を出したのは、私一人だけではなく30人を超える人数だったような気がします。先生の思いが私たちを動かしたのだと思います。

それ以降支障のない限りは出席するようになりました。そして次第にこのクラスの存在意義を感じるようになったのです。教師(先生)というのは、在学中だけの関係者に過ぎないなどという軽率な考えがあったのですが、その認識が出席の回を増すごとに愚かだったことに気づき、学び舎を去った後でも、もっと大切な教えを頂戴できる存在の方もおられるのだということを思い知らされ、自分にとって年に一度のこの集まりが大切なものとなったのです。

残念ながら先生は10ほど年前に他界されたのですが、その後も我々のこの集まりに対する思いは衰えることなく、毎年15名以上の出席を維持しており、この頃はむしろ増える傾向を示しています。

さて、今年の新年会を振り返ってみたいと思います。喜寿を迎えた老人たちが、一体どんな話をしているのかというのも、興味あることかと思います。話題の中心となっているのは、やはり老化の進捗を心配する病に係わる話です。記憶力の減退、行動力の弱体化等々に関する悩みというか、自覚というか、それらに関する話を多く聞かされました。物忘れというか、とっさに出て来ないことばや名前が増えて来たということなど。それはわが国のトップクラスの大学を出た者であっても、皆同じといった具合の自己認識でした。つまり、老化というのはほぼ平均的に万人に同じような現象を呈するもののようです。

因みに私が話したのは、認知症に対する注意警戒に関することでした。昨年義母を亡くしましたが、亡くなるまでの10年間を通して、義母が教えてくれたことを伝え、この病の怖さと対策について共に理解しようと訴える気持でした。認知症というのは、物忘れから始まり、うつ病 → 記憶の減退 → 運動機能の減退 → 思考力の減退 → 植物化 → 死 というような現象が、前後しながら進展してゆく病のように思えます。しかし、大切なのは物忘れがひどくなる前に見られる現象であり、それはやりがいや生きがいといったものを失ったり放棄したりすることなのです。強い生きがいややりがいを持っている人は、物忘れなどに係わっている暇はないのです。だから、誰氏も生きがいややりがいを確保してこの後を生きてゆこう、というのが話の大要でした。

もはや国情や世情を論ずるというような勇ましい話は出て来なかったように思います。真老(75~85歳)ともなると、まさに我が身の老と正対しなければならず、しっかりと現実の自分を見据えて一日一日を大事に過ごすことが肝要なのだと思います。メンバーの中には杖を必需とする者もいて、何よりも我が身をしっかりと生き支えることが肝要なのだと改めて思った次第でした。来年もまた皆が元気で再会できることを強く思いながら、夕刻の水戸を後にしたのでした。

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松浦武四郎という人物に感動する

2017-01-10 23:08:29 | 宵宵妄話

年末から年始にかけて松浦武四郎に係わる3冊の本を読んだ。その1は、佐江衆一著の「北海道人」その2は、花崎皋平著「静かな大地」その3は松浦武四郎自身著の「アイヌ人物誌」である。これらの本を読もうとしたのは、ここ2年夏の北海道行が中断しており、今年は是非とも再開したいと考えているので、その前にもう一度北海道というところがどのような土地であったのかを知ろうとしたのである。蝦夷地と呼ばれていた時代の北海道については、江戸時代以前に関する歴史資料は殆ど残っていないようだ。江戸も幕末近くになってから、諸外国のアジア進出にからんで、国防の観点からようやくその重要性が問われるようになったようである。

蝦夷地の探検といえば、自分の知っている範囲では茨城県(常陸国)出身の間宮林蔵、愛知県(三河国)出身の菅江真澄そして北海道という地名や九つの地域名の名付け親とも言われている三重県(伊勢国)出身の松浦武四郎である。もしアイヌ民族が文字を有していたなら、蝦夷の歴史の解釈が大きく変わっていたに違いないのだが、残念ながら文字を有せず口頭での伝承しかないために、江戸以前の歴史状況などは和人のために根絶やしされてしまったように思える。

3冊の本は、ほぼ同時並行的な読み方をした。先ず「北海道人」を読み、合わせて「静かな大地」を読み、更にそれぞれの合間に「アイヌ人物誌」を読んだ。すると作者の思い入れの違いや、松浦武四郎という人の人間愛というか、アイヌの人々に対するやるせないほどの愛情が読みとれて、感動することが多かった。

北海道はアイヌの人たちの住む世界だった。彼らの暮らし方は、狩猟と採取がメインであり、これは縄文時代の暮らし方に根を置いている。日本国の歴史の中で、縄文時代の文化が占める時間は驚くほど長い。弥生時代に至るまでに数千年以上を有していると考えられている。いわばこの国に住む人間にとっては正統派の暮らし方だったのだと思う。自然を崇敬し、生き物の生命を大切にしながら、家族を大切にする心豊かな暮らしを守って来たのである。狩猟においては勇敢であっても、決して則を超えて生き物の命を奪うようなことはしなかったのである。

それが、津軽の十三湊(とさみなと)から松前にやって来た蠣崎一族が侵入するに及んで、アイヌ民族の不幸が始まったのである。後に松前藩と名乗ったこの和人たちに対して、当初は果敢に戦を仕掛けてこれを排除しようとしたのだけど、和人の巧妙にして卑怯な騙し打ちに何度も遭ううちに、次第に暮らしの基盤を奪われ、隷属化されるようになってしまったのである。幕末近くのそのアイヌの人たちの悲惨な様子は、「アイヌ人物誌」を読めば一目瞭然である。この中には和人の非道ぶりに対する松浦武四郎のやり切れない悲憤慷慨の思いと、その分だけ深い深いアイヌの人たちへの尊敬と温かい思いが記されている。

強者が弱者を見下し、蔑視化して己の優位性を強調しようとする構図は、生物の世界では本能化しているのかもしれない。アイヌの人たちを隷属化させて恰も有頂天となっているような輩は、その多くが強者の世界の中の弱者であり、その弱さを拭うために更なる弱者に対して権力を奮うのであろう。アイヌの人たちは自分たちが元々住む蝦夷地において、愚かな弱者和人の代償目的(=生贄)とされてしまったのである。この構図は日本国においては、薩摩と琉球の関係や日韓併合時代においても共通に見られるものであった。しかし、強者の理論が崩れた時には、今まで虐げられていた弱者側の反発のエネルギーは爆発して止まらないものとなる。それらは過去の世界においても、又現代においても続いている哀しく虚しい闘いの構図となっているようだ。

今現在のアイヌの人たちにおいても、その反発と抵抗のエネルギーはくすぶり燃え続けているに違いない。しかし、韓国や北朝鮮ほどには騒々しくないのは、本来のアイヌの人たちが持っていた優しく温和な人間性に拠るものなのかもしれない。和人との同化が進んだからという側面があるのかもしれないけど、自分的にはそう思いたくはない。

アイヌの人たちの暮らしぶりについては、二風谷(沙流郡平取町)の町立アイヌ文化博物館や萱野茂二風谷アイヌ資料館を訪ねて、一応の理解はしていたつもりだったけど、これらの本を読んでかなり認識が変わったように思う。もう一度アイヌの人たちの暮らしの様子を再訪してしっかり確認する必要があると思った。上っ面の理解で済むような話ではないということを、この3冊から厳しく学んだような気がする。

それにしても、いつも思うのだが、松浦武四郎という人物のこの逞しき不屈の旅のエネルギーはどこから生まれるのであろうか。江戸末期の偉人たちの行動はどの人物もエネルギーに溢れているのを思い知らされるのだが、未開の地に在って北海道を隈なくといっていいほどに訪ね歩き、又その膨大な記録を残すパワーには驚かされ続けるのである。間宮林蔵や菅江真澄という人たちのエネルギーも大したものだと思わずにはいられないのだが、この松浦武四郎という人物の北海道に対する愛郷ともいうべき思いの大きさは、何よりもアイヌの人たちへの思いに支えられて発露されたに違いない。

北海道は、今なお今日においても先ずは暮らしの先達としてのアイヌの人たちを理解することから始めなければならないのだと思った。それがこの三冊を読んでの感想の全てである。

 

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高齢者の定義変更提言に思う 

2017-01-06 05:31:12 | 宵宵妄話

今日(1/5)のニュースの中に、日本老年学会というところが、現在65歳からとされている高齢者の定義を10歳遅らせて75歳以上とし、65歳から74歳までは準高齢者としては如何かという提言をされたというのがありました。現在の65歳から高齢者という扱いは、身体的にも知的機能においても実態に合っていないというのがその理由のようです。まことにその通りだと思います。

わが国の社会保障制度や保健医療に係わる費用の膨らみが、国家予算を相当に厳しいものにしている背景には、高齢者世代を中心とする暮らしのあり方が大きく係わっているのは既知のことです。オーバーな言い方をすれば、このままで行くとこの国は老人が国を食い潰すといったことになりかねない、そのような危険性すら孕んでいるように思えます。私自身が既に後期高齢者に足を踏み込んでいることを考えると、このような言い方は自らの首を絞めることになりかねないのですが、一市井人の自覚としては、老人といえどもただ国に甘えるだけでは余りにも無責任ではないかと思えてならないのです。

今回の提言に対するコメントとしては、厳しく言うならばこれでは大雑把過ぎるといわざるを得ません。65歳を75歳に遅らせて扱うという背景には、様々な課題が潜んでいるのだと思いますが、それらを明確に際立たせるためには、よりキメの細かい老世代の区分が必要ではないかと思うのです。そこでもう一度、昨年自分が主張した老人世代論を繰り返したいと思います。

それは老世代を5つに区分し、それぞれの世代の特性に合わせて、個人と社会(=国家・行政)が必要な対応を心掛けるべきだという考えです。概要を言えば、

① 準老世代(~65歳)←老の準備をする世代

② 順老世代(65歳~75歳)←老に馴れる世代

③ 真老世代(75歳~85歳)←老に正対する世代

④ 深老世代(85歳~95歳)←老に感謝し、味わう世代

⑤ 超老世代(95歳~)←老を離れて生を楽しむ世代

この5区分に従って、あの世に行く前に誰もが通過しなければならない、人生の「老」という時間を、それぞれが着実に生きてゆくための標(しるべ)となるようなものを個々人が自覚・実践し、社会もそれをバックアップするという、そのような取り組みが必要ではないかというものです。

今回の日本老年学会の提言では、75歳が区切りの柱となっており、今までの65歳からが準高齢者という考え方になっていますが、私の世代論では、75歳までに①準老と②順老の二段階の老への対応を意図しており、更に75歳以降については、3段階に分けての老への対応を考えることにしています。これら5段階に区分することにより、よりキメの細かな老への対処のあり方が見えてくるように思えるのです。(私の老世代論については、ブログの2016年1月24・26・28日の記事を参照下さい)

斯く言う私自身は今年喜寿を迎え、疑いも無く後期高齢者の中に居ます。私の老世代区分では「真老」に入ることになります。老と正対する毎日です。老を実感するのは、先ずは身体の側面です。身体に関して今一番心がけているのは、筋肉等を鍛えることではなく、内臓等の循環が滞(とどこお)らないように努めることです。体内の循環器系の回転をスムースに行くようにするためには、食事と運動がキーとなるように思っています。何をどれくらい食べるか、どのような運動をどれくらいやればいいのかを決めるのは難しいことですが、順老世代からの継続で、今は自分に合ったそれなりのものを身につけていると思っています。これについては何よりも実践の継続が大切であり、時々脱線しながらも何とか保持出来ていると実感しています。

次に心の世界ですが、これはやりたいこと、やらなければならないことがたくさんありますので、あの世に行くまで不自由しないと思っています。旅に出るというのは目的ではなく手段の一つなのですが、自分の暮らしの中では大きなポジションを占めています。旅に出ると、様々な出会いを通して無限といっていいほどの新たな発見が待っています。それを記録し、反芻する中から新たな課題を見つけて行く楽しみは、何ものにも代えがたいものがあり、これは旅に行けなくなる時が来たとしても、失うことがないように思えるのです。

「死計は老計の中にあり」というのが、今の真老を生きる私の確信とも言える信念であり、老世代が65歳から75歳に変更になろうとも、先ずは己の信念に従ってしっかりと老の一歩を進めてゆきたいと思っています。

 

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新年のご挨拶

2017-01-04 03:11:51 | その他

館山市の南房パラダイスの丘に上る初日の出。私の2017年はここから始まることとなった。

新年のご挨拶を申し上げます

 本来なら新年のあいさつにはおめでとうございますということばが入るのが相応しいのだと思いますが、真老世代の自分には些か拗ねている気分があり、あまりめでたいとは思えぬのです。恐らく深老の世代まで生き延びていたら、再びめでたさに気づくのかもしれません。

何はともかく新しい年が始まりました。今年の最大の関心事は、今のところ、やはりアメリカの動向のような気がします。自分勝手哲学で政治を動かそうという新大統領が、これからどのような手を打ち出されるのか、世界中が固唾をのんで見ている感がします。当事国ではない国の、このような一介の老人にも影響を及ぼすような国際関係となっている今の世の中には、些かのうんざり感を拭えないのですが、これはもうどう仕様もありません。こちらの方も自分勝手のご都合主義の発想で、アメリカさんの政策が日本国の老人政策に悪影響を及ぼさないようにと願うばかりです。

さて、私事ながら今年の年末年始は珍しく家を離れて、南房総エリアの小さな旅の中で過ごしました。正月というのは何やかやと雑事が多くて(と言いながら酔って侯という時間が多いのですが)、家を離れられないと信じ込んでいたのですが、今年からは思い切って旅の中で古くなった年を送り、新しい年を迎えることにしました。12月の28日に家を出発し、南房総エリアに向かい、館山にある道の駅:南房パラダイスという所に腰を据え(3泊)て、新年を迎えました。ゆっくり、ゆったりとした気分で過ごそうと思っての旅だったのですが、思いと現実との乖離は天地の差ほどあり、ちょこまかと動き回って過ごす結果となり、つくづくしみじみと自分は貧乏性なのだなと改めて思い知りました。昨日(1/3)に戻って来たのですが、往復に3日をかけ、残りの4日は南房で過ごしたのですが、じっとしていたのは半日くらいで、あとは付近を動き回っていたというのが実態です。くるま旅というのは実にじっとしているのが難しい旅のようです。

成果といえば、久しぶりに魚類を食べたというくらいでしょうか。ばんや(鋸南町にある店)で食べたヒラメのから揚げは美味でしたし、館山の相浜の、食堂相浜亭のキンメの煮付けも美味かったな。千倉の道の駅の海鮮丼もマアマアだった。年に一度の魚祭りを体験した感じでした。ただ、アルコールが付いていないのがツイてないという、外食の欠点があるのが残念でした。車の運転には厳守しなければならない国際ルールです。この中で唯一ヒラメのから揚げだけは持ち帰っての夕食の肴でしたので、これはもう大満足でした。他愛のない騒動でした。

めでたくも無しと言いながら、自分は今年喜寿を迎えます。気分は常に少年でありたいと願いながら、時々老人であることを思い知らされてがっくりとしながらも、何とかここまで来てしまったというのが正直な感想です。今のところ喜寿を祝う、祝って欲しいという気分はありません。祝うというならもう一年辛抱して、来年は相棒と一緒になってから50年を迎えますので、そちらを最優先させたいと思っています。勿論パーティなどではなく、豪勢なくるま旅などを企画したいと考えています。でも、この「豪勢」の中身をどうするかが問題です。今さら外国の旅はその気になれませんし、国内とすればどのような旅が最高なのか。難しい課題です。とにかくこの1年をかけてじっくり考えて実行に移そうと思っています。

というようなことで、この1年もやることがたくさんあって、忙しくなりそうです。旅から得た材料もたくさん貯まっているので、いつまでも眠らせて置かないで、何か作りたいとも思っていますし、もうしばらくの間は、あの世からのお声がかからぬことを願っています。ブログの方も間もなく開始してから満10年を迎えることになり、引き続きくるま旅の素晴らしい力を知って頂けるように努めて行きたいと思っています。

本年もよろしくお願い致します。馬骨拝

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