山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

人間の本能を攻め続ける新型コロナウイルス

2020-07-25 05:58:43 | 宵宵妄話

 

 連日新型コロナウイルスの感染に絡む情報が世界的なレベルで報道されている。日本では第2波が始まったと誰もが実感する現状にある。その中でGo Toトラベルキャンペーンが始まり、その政策を批判する人は多い。一方で経済活動を回さなければ、ウイルスにやられる前に、より多くの人が生活不能となり、ウイルスの犠牲者以上にやられてしまうのではないか、という考え方にも又正当性があるように思われる。

 なれど、Go Toトラベルキャンペーンというのが愚策なのは明らかだ。何よりも周到さに欠けるし、またその名称が不適切極まりない。韓国の施策の方がはるかに優れているのではないか。自粛に従う国民の多いことを前提に、如何にも開放的なイメージのこのようなキャンペーンを呼び掛けるとは、あまりにもお粗末ではないか。その背景に為政者や官僚の世界でどのようないきさつがあったのか知る由もないけど、平時と同じような呼びかけで強引に実施しようとしたのは、やはり愚策としか言いようがない。開放感に飢えている国民が、キャンペーンの結果国内の至る所にウイルスをばらまき、クラスターとやらが頻発することになったら、またまた場当たりの対策が発せられることになるのか、不安は尽きない。今、国民は自粛などしていない。ひたすら自衛しているのだ。

 この新型コロナウイルスのパンデミックは、100年前のスペイン風邪のそれとは根本において環境条件が異なっている。100年前は二つの勢力が対立する戦争の中での流行だったが、現代のそれは戦争などではなく本来人間が求めて来た全世界の交流の中で発生しており、医療環境も100年前とは相当に進歩している筈なのだ。それなのに、未だに止まることも知らず感染は拡大している。

 コロナ禍の対策の要の一つに三密(密集・密接・密着)を避けることが強く求められている。この三密のことを考えてみた。そもそもこの三密こそが人類が地球上で生き残り繁栄してきた根源となる生き方ではなかったか。自然界の中では弱い力しか持たない人類が覇者となり、他の全ての生物の頂点に君臨出来ているのは、人類が力を合わせて知恵を絞り、それを共有しながら文明を発展させてきたからなのであろう。別のいい方をすればこの三密という人類の生き方こそが他の動物などとは異なる優れた特性だったのではないか。そしてそれは、今日でも人間の持つ重要な習性(もしくは社会的本能)として、全世界的に暮らしの随所で実践されている。つまり、三密なしでは人間は生きては行けないということにもなるのではないか。勿論、例外となる人間も存在しているけど、100%三密を避けて生きている例は極少ではないか。

 この新型コロナというウイルスの怖さは、人間の本性とも言うべきこの三密を、あたかもぶち壊すのを狙いとしているところにある。人間が三密を求めれば求めるほど、彼らの勢力の拡大に有利になるという戦法は、人間にとって脅威以外の何ものでもない。実に恐るべき人間の生存に係わる敵と言わなければならない。

 今全人類は、地球上の利害に絡む小競り合いなどを即座に中止して、人類の持つ全勢力を挙げてこの恐るべき敵に立ち向かうべきではないか。戦いの最前線にいる医療に係わるワクチンや治療薬の開発者を支援すべきではないか。思うにこの恐るべき敵との戦いは、ワクチンと治療薬の開発と個々人の自衛しかその方法がないのではないか。ワクチンと治療薬が見出されるまでは、本能である三密を極力避けて、一人ひとりが自衛力を強化するしかあるまい。そのように考えて、Go Toトラベルキャンペーンには乗らないことにし、ひたすら早朝に歩いて免疫力の増強を図り、自衛力の強化に努めることにしている。

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クルマユリに逢いたい

2020-07-20 08:18:21 | くるま旅くらしの話

今年こそ夏は北海道へ行くぞと、自治会の仕事から解放されて心に決めていたのに、思いもかけぬコロナ禍のため今は断念せざるを得ない状況となってしまいました。それでも諦めきれず、今頃の彼の地に咲く花を時々思い出しています。その中で今一番逢いたい花があります。それは道東の別海町にある、別海町生活環境保全林「ふるさとの森」に咲くクルマユリの花なのです。

 クルマユリ(車百合)の花をご存知でしょうか? 似た花にコオニユリ(小鬼百合)やオニユリ(鬼百合)がありますが、クルマユリはこれらの仲間で、対生して付いている2段目の葉がぐるっと荷車の車輪の様に丸くなっているので、直ぐに見分けることが出来ます。オニユリは大型に育ち葉の元にムカゴがつくので直ぐに判りますが、クルマユリはコオニユリと同じかもしくはそれよりも小ぶりの立ち姿で、寒冷地を好むようで、北海道では山林の下地に生える小笹などの中に点在して咲いていることが多いのです。

    

クルマユリの花全景。上から2段目の対生している葉が、車輪のように丸くなって生えているのが特徴。花はコオニユリによく似ている。

 夏の北海道の旅では、涼しい道東エリアを目ざす人が多いのですが、私たち(家内と一緒)は、いつもその中の別海町を目ざします。別海町は根室市に隣接する牧畜と漁業の町で、面積は1,320㎦と広大で北海道では平成の大合併までは足寄町に次いで2番目の広さでした。現在は道内5番目の広さとなっています。町の大半は牧場で、人口約13千人に対して飼育されている牛の数は約115千頭といいますから、人口の8倍以上となっています。勿論これは全国一の数値であり、牧場の多い北海道の中でも随一の牛飼いの町ということになりましょう。

 その別海時町へ行くようになったのは、20年ほど前にくるま旅をしていて、町の中にある「ふれあいキャンプ場」に立ち寄った時に、何人かの旅仲間の人たちとの出会いがあったからなのでした。別海町には海側の尾岱沼地区にもキャンプ場がありますが、私たちがその後定宿するようになったのは、町の中心部近くにあるキャンプ場の方で、その時知り合った仲間と毎年ご一緒することを楽しみにするようになったからなのです。キャンプ場に隣接した小高い丘の上には温泉施設(=郊楽苑)があり、旅の者にとっては長期滞在も可能な条件を満たした場所なのでした。それ以降ほぼ毎年このキャンプ場を訪れることになり、長い時には約1カ月も滞在することがありました。別海町は農業の限界地帯といわれた根釧原野を開拓した地であり、農作物の自然の中での生育・栽培は困難で、牧草くらいしか育たなかった場所なのです。それゆえに牧畜が盛んとなった訳です。最近は地球温暖化の影響などで暑い日も多くなっていますが、ここの夏は冷涼な日が多く、時には冬の着衣が必要となるほど寒い日も混ざっています。どんなに暑い日でも朝は霧が出て涼しくて避暑に向いている場所なので、ここに来ないではいられなくなったという次第です。

 前置きが長くなりましたが、大体8月の初め頃にここへやって来ることが多く、先ず1泊した翌日の朝には、自分一人でいつも決まったようにクルマユリに会いに行くことにしていました。というのもキャンプ場の東に隣接してふるさとの森というのがあり、ここには森の中に散策路がつくられていて、滞在期間中には時々早朝散歩をするのを楽しみとしていました。そして訪問の翌日には必ず歩くことにしていたのです。

 このふるさとの森の入口から散策を始めると、径の直ぐ左手傍に濃い橙色の花を咲かせたクルマユリが微笑んで迎えてくれるのでした。いつも同じ場所に静かに佇んでいるその姿には、何ともいえぬ風情があって、心は絶対的と言っていい安堵感に満たされるのです。

 この嬉しい楽しみが何年間か続きました。別海町を必ず訪ねる理由は他にも幾つもあるのですが、もしかしたら自分の心の奥深い所で、この花に逢いたいという衝動のようなものが働いているのかもしれません。

 ところがある年、2年ほどのブランクがあって北海道を訪ねた時、この地のこの場所に来てみたら、何といつものあの橙色の温かい微笑みが迎えてくれなかったのです。一体どうしたことなのかと、辺りを懸命に探して見たのですが、見つかりません。よくよく見てみたら、どうやら前年辺りにこの地で植樹祭のようなイベントが行われたらしく、周辺の樹木が伐られ下草が刈られたようで、いつもの環境とは違ってしまっていたのでした。繊細な彼女たちはどこかへ消え去ってしまっていたのです。植樹祭などに名を借りて何ということをしてくれたのだと、憤りを覚えずにはいられませんでした。

 でもこの森の中には他にも何本かのクルマユリたちがいる筈なので、その先の径を辿って探しました。しばらく歩いてようやくあの橙色の花を見つけた時は、本当のホッとしました。それにしても何だかクルマユリたちが急に少なくなってしまっている感じがして、落胆の思いが強くなりました。人間という奴は常に進歩や変化を求める性質があるのかもしれませんが、この頃はそれがとりわけて増長して、何か大切なものを破壊し失い続けているような気がしてなりませんでした。もしかしたらクルマユリたちもその犠牲となっているのかも。

 コロナ禍の只中にいて何処へも出かけられないのが残念です。今年はあの場所に、もしかしたら一旦消え去ったあのクルマユリが戻って来ていて、静かに微笑んでいるのではないか。その様なことを想いながら過ごしているところです。

      

いつも決まった場所で来訪者に微笑みかけていてくれたクルマユリの一株。これは2011年8月1日に撮影したもの。

 

 

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ひばりちゃん、どうしたの?

2020-07-11 02:00:50 | 宵宵妄話

 雲雀と書いてひばりと読みます。美空ひばりさんは誰でも知っていますが、さて、本物のヒバリ(=雲雀)のことを知っている方はどれほどおられるのでしょうか。この頃は本物を置き去りにして、何でも画像やバーチャルな世界だけのものを見て、それで知った気分になっている向きが多いので、もしかしたら本物のヒバリなど見たことも、鳴き声を聴いたこともないという方がおられるのかもしれません。

 大都会にヒバリたちが住める環境があるのかどうか。都心通いの勤め人の仕事を終えて20年以上が経ったこの頃の自分は、滅多に都心エリアに行くことがないので、その辺りの様子はさっぱり判りません。建物の背比べ競争が始まって、超高層ビルが乱立する場所では、ヒバリたちは美空ひばりという不世出の歌手に名をとどめるだけとなっているのかもしれません。

 春になると小鳥たちの鳴き声が姦しいのですが、その中でも自分が特に楽しみにしている一つがヒバリたちの囀(さえず)りなのです。田舎で育った者には、この鳥に対する郷愁を含んだ親近感があるのです。子どもの頃、田舎の麦畑が麦秋を迎える頃になると、畑の上には何羽かのヒバリたちが空高く鳴き声を響かせながら舞い上がっている景色があり、やがて彼女たちは謳い終わると突然急下降して、麦の畝の中に消えるのです。その後をそっと追いかけると、畝の中に巣が見つかることが多く、そこには何羽かの雛たちが、大きな口を開けて親の飛来を待っているのです。その雛たちが無事に育って飛び立って行くまで、観察するのが楽しみでした。その頃の田舎の子どもたちの遊びといえば、暮らしの中の自然との触れ合いの中に見出されるものが多かったのです。今日のゲームのようなバーチャルな世界などどこにも見当たらず、それは漫画本や雑誌などに掲載された絵や記事を読んでの、それぞれの描く想像の世界なのでした。

 子どもの頃に見たヒバリたちの姿は、本物そのものだったと思います。ヒバリはスズメによく似た姿をしていますが、大きな違いは頭に冠羽と呼ばれる、少し立った羽毛があり、スズメの平凡さとは違った、ちょっと気取った姿をしています。子ども心にヒバリはスズメやホオジロなどより一ランク格が上の鳥なのだと思っていました。勿論鳥にランク付けなど無用なのですが、子どもたちの遊びの中では、自然にそのような感覚が生まれてしまっていたようです。

 守谷市に住みついてから16年になりますが、守谷は東京への通勤圏として住宅等が開発された町であり、ここ40年ほどの間に人口が急増して現在は7万人に迫ろうとしており、茨城県下では最も人口密度の高い市となっています。けれども市の面積の半分以上は農耕地であり、まだまだ田舎であり、田舎と都市での暮らしがごちゃ混ぜになっている感は否めません。やがては都市化の方向へ一層進展してゆくのかと思いますが、今のところ自分にはその田舎の残っている部分が、ありがたく嬉しく思っています。

 このヒバリのこともその一つなのですが、この頃気になる変化を感じています。引越して来た当初の頃の春には、空高く上がり舞うヒバリの囀りを聴くのが嬉しくて、しばらく立ち止まってそのめちゃくちゃなトーンでの囀りを眺めて楽しんでいたのですが、この頃は囀りが聞こえるので空を見上げても、さっぱりあの浮かれ飛ぶ姿が見えないのです。老人になって視力が低下しているので、そのせいなのかと眼を凝らして見ても一向にその姿を見つけることができません。それで、気がついたのです。なんだ、連中空に上がっていないんだ、と。地面の草むらの中で囀っているのです。道理で近くで大きく聞こえるではありませんか。これは何なんだと思いました。偶々1羽だけの囀り現象であれば、間々そのようなこともあろうかと納得するのですが、注意して見ていると圧倒的に空に上がっているのが少ないのです。これは明らかに異常だなと思いました。

 どうして空に上がらないで囀っているのか? その理由はヒバリたちに訊いてみないと解らないと思うのですが、自分の勝手な推測では、もしかしたら、彼らはこれも人間どもの所為なのだと言いたいのではないか、と。空に上ってみても空気は不味いし、探している餌もさっぱりで、このような無駄なことをして浮かれているよりは、地上の草むらの方が未だましだ。という人間と同じ効率主義に切り替えたのではないか。やだね~、と思いました。

 空に上がらないヒバリは、もはや雲雀でも告天子でも天雀でも叫天子でもなく、只の地鳴き囀るスズメと同じような存在になってしまうのではないか。そう思うとがっかりです。しかし、その原因がもし人間の振る舞いにあるとしたら、これはもう明らかに環境問題だなと思いました。環境汚染のバロメーターは至る処に点在しており、このヒバリたちの振舞いもその一つかと思うと、その空に上がらない横着を責め詰(なじ)ることはできないなと思いました。でも、やはり天高く囀り舞って欲しいと願わずには居られません。

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ダイダラ坊(ダイダラボッチ)に会いに行く

2020-07-05 01:20:36 | 宵宵妄話

 ダイダラ坊とかダイダラボッチとか呼ばれる巨人の話をご存知でしょうか? 6月の終わりの日、そのダイダラ坊が食べた貝の跡が山となって積もっていた場所を見に行ったという話です

 この頃は何故か太古の人類の暮らしに興味関心が向かっており、特に日本では縄文時代と呼ばれるB.C.1万年~B.C.1千年という、約9千年間にも亘る長期の時代の人々の暮らしぶりなどが気になり出しています。今年の旅のテーマの中に縄文遺跡を訪ねることを掲げたのですが、新型コロナ禍のため、今しばらくは自粛しようと考え、どこにも出掛けずじまいでした。が、偶々水戸の方へ出かける用事が出来ましたので、それならば、予て気になっていた大串貝塚を訪ねてみようと思ったのでした。

 というのも、常陸風土記を読んでいて、「那賀の郡」の記述の頭に大櫛の岡というのがあり、そこは身体が長大の人が腰かけて、手を伸ばして海辺の砂をほじくって貝を掴んでは食べたという。食べた貝の殻が積もって岡となったという。そこで人々はその巨人が貝をほじくり採ったことから、今は大櫛の岡と呼んでいる。その大男の踏んだ足跡の大きさは長さが40余歩、幅が20余歩あり、小便をした跡にできた穴は20余歩もあった、と記されています。これは数多くある往時の巨人伝説について書かれた最古の文献記事なのだとのこと。調べていくうちに、その場所というのが現在の水戸市(旧常澄村)の塩崎町にある大串貝塚ふれあい公園となっていると知った次第です。

 自分は水戸という文化環境で育った筈なのですが、学生時代の頃は歴史や文化に関する領域にはとんと関心を持たず、全く無知の状態なのでした。あの頃から60年も経って、水戸の地にも縄文前期の貝塚遺跡があったことに気づいたことに、何だか不思議を覚えたのでした。

 さて、その日は曇りで、天気予報では午後から雨になるということでした。最初の用事を済ませて、大串貝塚ふれあい公園に着いたのは11時少し前の頃でした。初めて訪れたその場所は、樹木に囲まれた一角で、隣接して中学校があり貝塚はその学校の運動場の脇の崖下にあるようでした。勿論、現在の貝塚は指定された場所となっていますが、その昔はこの辺一帯が大きな貝塚の丘だったに違いないとイメージしました。

 駐車場の脇に埋蔵文化財センターの建物があり、そこへ行ってみると、貝塚の出土品や近隣の縄文遺跡や古墳等からなどの出土品が展示されていました。それら各種史料を読み取る力は全くないので、只漠然と眺めるだけでした。貝塚は縄文前期以来のものだということですから、かなり古いものだということが判ります。又、貝の種類の90%はヤマトシジミだったということですから、この辺りは汽水域だったということなのでしょう。現在も近くにある涸沼はシジミの産地として名が知られています。シジミの他にも牡蠣やハマグリなどの貝類、その他にも鹿や猪の獣骨や黒鯛や鱸(スズキ)の魚骨などが出土しているということですから、往時の縄文人にとっては豊かな獲物に恵まれた環境にあったのでありましょう。

 埋蔵文化センターをざっと見学したあと、近くに縄文時代の竪穴式住居のモデルなどがつくられているようなので、散策することにしました。少し行くと池があり、それはダイダラ坊の足跡サイズにつくられているということでした。思ったよりも小さい感じがしましたが、ま、縮小サイズということなのでしょう。その池の先にコンクリートの建物のようなものがあり、見上げるとそれがダイダラ坊の背中なのでした。ダイダラ坊を模した巨大な塑像がつくられ、大きなコンクリート製の土台に座っていました。正面の方に回って見上げると、長崎の平和の像と比べても見劣らないほどの大きさなのでした。常陸風土記に記載されているダイダラ坊は、恐らくこの何十倍もの大きい人物だったのだと思いますが、それと同じものをつくるのは困難なので、この像も縮小版ということなのかと思いました。

      

  大串貝塚ふれあい公園の中にあるダイダラボッチの巨大な塑像。大地を        見下ろしているお顔は優しげだった。

 どのようなお顔なのかと見上げると、思ったよりも優しげなお顔なのでした。ダイダラ坊は伝えによると、山が邪魔して日陰のため作物が育たなくて困っている村人たちのために、山を運んで他の地に移したり、又川の氾濫に備えて堤防をつくったりして、村人の難儀を救ってくれたということですから、お顔も優しげだったということなのでしょう。昔の人たちの願望を一身に背負った巨人の存在を伝える話は、往時の人々の心の拠り所だったのかもしれません。言い換えれば、ダイダラ坊というのは何千年もの間、大自然の中での暮らしを積み上げて来た縄文の人々の歴史の結晶のような存在だったのではないか。その様なことを思ったりしました。

 貝塚というのは、単に貝を食べた後の殻の捨て場所だったというのではなく、何千年もの間そこに暮らした人々の営みの歴史の証拠であり証明なのであって、その中には往時の人々の暮らしの喜怒哀楽の全てが浄化され埋もれているのではないかと思うのです。

 今回は実際の貝塚を見て来ませんでした。入口に鍵がかかっており、事務所に連絡しないと中に入れないようなので、引き返すには遠すぎるため、諦めた次第です。今度来た時は初めから事務所に申出でて見させて頂こうと思いました。ま、今回は下見のつもりでもう一つ残っている用事のために公園を後にしました。

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